遥「迷い蝶」
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「次、近江さんお願いします」
遥「…………」
「近江さん?」
遥「……近江遥です。よろしくお願いします。」
「……え、それだけ?」
遥「はい、すみません」
「……そうですか。……じゃあ次の……」
この教室にいる人間は、教壇に立つ先生以外は皆、えんじ色の陽気な制服を着ている。
その中で私ひとりが、制服と不似合いに、登校初日とは思えない程に暗い顔をしていた。 せっかく姉と同じ学校に入ったというのに、気分はずっと淀んでいる。
こんなはずではなかった。いや、こうなってほしくはなかった。
遥『お姉ちゃん!東雲受かったよ!』
彼方『さっすが遥ちゃん〜頑張ったねぇ〜』
遥『4月から一緒に通おうねっ!絶対だよっ!』
彼方『もちろん!彼方ちゃん、今から楽しみで元気が湧いてきたよ〜』
つい数か月前、気丈に語っていたお姉ちゃんは、そのままベッドを降りることなく息を引き取った。 「……好きな物はいちごです。皆さんどうぞよろしくお願いします」
後ろの座席の人は、私と違ってまともな自己紹介をしていたらしい。
呆けて名前すら聞いていなかったけれど、聞いていてもおそらく、憂鬱な私の頭は素通りしていくだろう。
きっとそれでも困らない。楽しみだったはずの高校生活も、もはや楽しくはならないのだから。
もともと私の席順が後ろの方だったこともあって、そんなことを考えているうちに自己紹介の時間は終わっていた。
「明日は写真撮影と身体測定です。ジャージを忘れないようにしてくださいね。それでは、さようなら」 仲良く話す相手がいるわけもないので、買い物を済ませて帰ろうと荷物をまとめる。
鞄を肩にかけて横を向いたとき、後席の生徒が何か言いたげな表情でこちらを見つめていたのが視界の端に入った。
遥「えっと……」
私に気づかれたとみるとすぐに顔を下に背けられてしまった。とっさの動きに揺れた長い黒髪は、大きめのリボンのポニーテール。私も前はツインテールにしていたけど、今はわざわざセットする気になれず、そのまま下ろしている。
遥「……いえ、さようなら」
声を出してはみたものの、なんと続ければいいのか分からず気まずい。結局そのまま教室を逃げ出してしまった。 帰宅途中にいつも買い物に使っているスーパーに寄る。学校からの道すがらに濡れた髪を軽く拭きながら、店内に入る。髪をまとめていればまだ不快さも減っていただろうか。
スーパーの定石のように入口近くに並べられている生鮮食品を無視して中の方へ進む。家事の中で唯一、料理が壊滅的な腕前の私は、お姉ちゃんと違って素通りせざるを得ない。
カゴに詰め込まれるのは、パンと、冷凍食品と、インスタント食品と、今日食べるための出来合いのお惣菜。
遥「おいしくないわけじゃないけど……」
それらが味気ないのは、手作りでないからなのか、お姉ちゃんの料理でないからなのか、それともお姉ちゃんがそこにいないからなのか。 レジを打つ店員の顔をちらと見る。接客業の従業員らしくメリハリのある声と表情。当たり前だけれど、そこに過労の色など見えはしない。
お姉ちゃんがここで働いていたときは、お姉ちゃんにレジをしてもらえるのが嬉しくて、わざわざ列を選んで並んでいた。いつも眠そうなその店員さんは、列に私を見つけるとものすごい速さで客を捌いていったので、私が客の空いた他のレジに呼ばれるなんてこともなかった。
「ありがとうございましたー」
店を出て、相変わらず降っている雨を疎ましく睨んで、北へ歩き出す。
反対側の歩道に、じめっとした空気の中、それでも楽しそうに会話して歩いている親子連れを見つける。
それを妬ましく思ってしまった自分に気づいて、振り払うように足を早める。 遥「あっ!」
水に覆われた地面を捉え損ねて、逆に全身が地面に投げ出される。
状況を理解して、仕方なく身体を少し起こして、ため息が出る。
遥「はあ…………」
普段触れることのないアスファルトに触れて覚える脱力感には、さっさと立ち上がろうという気にもなれない。
立ち上がって、散らばった荷物をまとめて、また傘を差して歩いて行く一連の過程がとてもおっくうで、既に歩行者用信号の出す青色の音が耳に届いていた。
それが、結果的には良かったのかも知れない。 身体を打ち付けた痛みを堪えてようやく立ち上がったところで、やけに大きなブレーキ音が耳をつんざく。
不快に思いながらも、雨だからだろうかなどとのんきなことを考えていた頭を非難するように、鈍い響きがこだまする。
若干の静寂の後に再び聞こえてきた甲高い音は、車ではなく人の叫び声だった。視線を上げれば、皆一様に同じ場所を見ている。
私がもうすぐ辿り着こうとしていた横断歩道には、1台の停まった車と、倒れたまま動かない女性。そして、その傍らで茫然としている少女。
救急車、と誰かが叫ぶ。その声で堰を切ったように、少女が泣き出す。 いまや無防備にへたり込む少女に向かって、私は思わず駆け出していた。
彼女の視界を奪うために。この残酷で救いようのない光景を、これ以上その目に焼き付かせないために。
道にしゃがみ込み、雨に打たれながら、少女の思考を現状から奪うように、ただその頭を抱え込む。
かつての私がそうだったように、当たり前に、彼女が泣き止むことはない。
傍らでは誰かが応急処置をしているようだけれど、そちらに目をやることはない。私が動けば、彼女の意識もそちらに持って行かれそうだから。
遥「大丈夫っ……!大丈夫だよ……!」
私には、そんな無責任でありきたりな言葉しかかけられなかった。 数時間前に使い始めたばかりのえんじ色の制服が、雨と涙で余すところなく暗い色に染め上げられたころ、一切弱まることのない泣き声に呼ばれたかのように、救急車がやって来た。
救急隊員は倒れた女性の状況を確認し、救急車に載せる。
心肺停止という単語が聞こえて、思わず身体が強ばる。
救急隊員がこちらに向かって声をかけてくる。少女を離す不安を払い、立ち上がって応える。
「ご家族の方でしょうか」
遥「……いえ、私は通りがかりで……この子が」
何とか声を絞り出す。さっきまでの間に酷使していた私の喉は痛みを生んでいて、思わず顔が歪む。
「……です」
それで、彼女がなんと言ったのか聞き逃してしまった。彼女とのやりとりを終えた隊員は、私にも救急車に同乗して欲しいという。
遥「え?……私、ですか……?」
側を見れば、私の服をか弱く、震えながら、けれど必死に掴む少女の姿があった。 病院に着き、女性が医師の下へ運ばれる。私たちは処置室の外で待つように言われた。
今は見ず知らずの私しか付き添っていないけれど、親族は来るのだろうか。何か声をかけた方がよいのだろうか。このようなとき、一体どうやって接すればよいのだろうか。心の声が聞こえたらいいのに、と月並みなことを思う。
何も思い浮かばないので、せめて抱き寄せることにした。理由はないけれど、私がそうしたいと思ったから。
自分の服がびしょ濡れな事を思い出して一瞬躊躇したものの、雨に包まれていたのは彼女も同じだった。
手を伸ばすと、彼女の濡れた服が冷え切ったのを感じる。彼女にしてみれば私の制服もきっとそうだろう。せめて私の服で暖められればよかったのに。それくらいのことをしてあげられてもいいではないか。
彼女も私に身体を預けてくれる。すすり泣く声と震える身体はあまりにも痛ましい。
普段なら艶めいているであろう長い茶髪は、じっとりと濡れて黒に染まっていた。
服を更に濡らすのも忍びなく、手が冷えるのを承知で髪と服の間に腕を差し込む。
背格好の割に大人びた雰囲気をまとっていても、触れて伝わる身体の華奢さこそが年相応なのだろう。
分かったのは、そんな当たり前のことだ。 しばらくして少女が少し落ち着きを取り戻す。その背中に私の腕を押し返す力を感じて、腕を緩める。
彼女は私の腕の中でそのまま上を向いて、そこで私たちは初めて言葉を交わした。
「ありがとう」
遥「いいんだよ。……私はここにいるからね」
「……うん」
遥「苦しかった?」
「ううん、大丈夫。……お姉さんは?」
遥「私……?」
思わず言葉に詰まる。こんなに幼いのに、こんな状況にいるのに、ともすれば不審者の私の心配をするなんて。
遥「私は大丈夫だよ」
「よかった……お姉さん、なんていうの?」
遥「近江遥だよ」
「はるかさん……。わたしは」 保守ありがとうございます
23時前後から再開します
ベースはスクフェス時空ですが、「少女」の年齢など明らかに異なるものもあります
また、知らなくても読めますが、この物語の開始は2021年4月7日水曜日です 再開します
ところで、書き溜めを投下する場合どれくらいの間隔で書き込むと読みやすいのか教えてください 「ご親族の方でしょうか」
突然頭上から降ってきた言葉に、反射的に少女の顔から目を離す。
見上げれば、目の前にいつのまにか白衣の女性が立っていた。
遥「いえ、私ではなく……この子が」
「……そう、ですか……」
遥「……っ」
そんな、重くて、苦々しい表情を見せないでほしい。後に続く言葉が予想できてしまうから。思わず彼女を抱える腕に力が入る。
それに呼応するように、一旦は緩んだ彼女の身体が再び怯えたように強ばってしまう。
私は変わらずここにいると伝えたくてか、あるいは私がこの場に耐えるためか、なぜ私がこうも必死なのか、私にももう分からなかった。 看護師がやって来て別室へと案内される。私は、彼女の親族が到着するまで引き続き付き添って居て欲しいと言われた。
もちろん、今の彼女の様子を見て、無情にも立ち去るなどいう選択は出来るはずがない。
しかし、そうでなくともここにいたいと思うのは……気の迷いだろうか。
見ず知らずのはずの二人で取り残される。
病院らしく真っ白で無機質な、何もない部屋。意識は自然と、喪失の中の少女に向く。
小学校高学年といったところだろうか。長い茶髪を少し取って後ろでまとめている赤いリボンは見るからに高級そうな材質だ。今は雨を被ってしおれてしまっているけど、本来はどこへでも飛んで行けそうな、ピンとした蝶が止まっているのが目に浮かぶ。
そのイメージに何かの既視感を覚えたけど、新たに浮かんだ疑問にかき消されてしまった。
先ほど彼女の名前を聞けなかったのだった。事故現場で聞き逃したのもそうだったのだろうか。 遥「えっと……」
「お姉さん……」
か細く、儚く紡ぎ出される声が私の心を締め付ける。
遥「無理に話さなくていいんだよ」
「ううん……そうしてた方が……いい」
遥「そっか……えっと、改めて、私は近江遥だよ」
「私は……桜坂しずく」
遥「しずくちゃんっていうんだね。何歳?」
しずく「10歳。4年生」 遥「4年生なんだ。しずくちゃん、大人っぽいね。私よりしっかりしてそう」
しずく「……もっと子どもらしくしたほうがいい?」
遥「……?そのままでいいんじゃない?」
しずく「……ほんと?ほんとにほんと?」
遥「うん。しずくちゃんがしたいようにするのがいいと思うよ」
しずく「ありがとう。……そういってくれたの、お姉さんが初めて……」
遥「え?そんなこと……」
しずく「お姉さんは?高校生?」
遥「……うん、そうだよ。今日からだけどね」
果たして自分を高校生と称していいのか迷って、あいにくと新品だったはずの、見た目だけは誰よりも新しくなくなってしまった制服を見ながら答える。 しずく「今日から?」
遥「うん、入学式だったんだ。しずくちゃんはまだ学校ないの?」
しずく「……うん、まだだよ」
遥「あれ、そうなの?今日小学生の子たちが歩いてるの見たけど……」
しずく「私、東京じゃなくて、鎌倉だから」
遥「そうなんだ……。……え、鎌倉?」
しずく「うん、鎌倉に住んでるの」
遥「そうだったんだ……。鎌倉ってどんなところ?私行ったことないんだ」
しずく「おだやかで、海が綺麗だよ」
埋め立て地の人ごみで、海だってお世辞にも綺麗とはいえないお台場や東雲とは真反対かもしれない。
遥「へえ、いいところなんだね」
しずく「私は好きじゃないけど……」 遥「どうして?」
しずく「……誰も私のこと分かってくれないから」
遥「分かってくれない?」
しずく「……ね、お姉さんは?どこに住んでるの?」
遥「私?この辺だよ」
しずく「そうなんだ。いいな……」
遥「……そうかな」
しずく「私は好きだよ。だって、ここはみんなを受け入れてくれる場所でしょ?」
遥「それは、そうかもしれないけど」 しずく「お姉さんは普段どんなことしてるの?」
遥「普段……何してるかな……」
正直に言うと、家事や勉強を除けば、お姉ちゃんのベッドに潜り込んでうとうとするとか、そんなことしかない。
遥「……ごろごろすることかな」
しずく「そうなの?意外……」
遥「しずくちゃんは?どんなことしてるの?」
しずく「おままごととか、演劇見るとか……」
遥「おままごとと……演劇?」
しずく「……ダメ?」
遥「ダメじゃないよ。珍しい組み合わせだとは思うけど」
しずく「そっか。……よかった」
遥「?」 しずく「お姉さん、かっこいいね」
遥「え?かっこいい?」
そんな言葉は初めて言われた。お姉ちゃんはいつも私をかわいいと言ってくれたし、むしろかっこいいのはお姉ちゃんの方だ。
遥「そうかな?」
しずく「うん、大人って感じだよ」
遥「ええ?私、よく子どもっぽい髪型って言われるのに……」
しずく「……?……髪、下ろしてるのに?」
遥「……っ!」
……言われて初めて気がついた。ツインテールにしていない今の私は、長さは違うけど、お姉ちゃんと同じ髪型なんだ。
遥「……うん、そうかも。ありがとう、しずくちゃん」 しずく「私、お礼言われるようなこと言ってないよ?」
遥「ううん、いいんだよ」
しずく「わっ……。いきなりどうしたの?」
遥「私がしずくちゃんを抱きしめたいと思ったから」
しずく「そんなの理由になってないよ、お姉さん」
遥「ふふっ、そうだね」
しずく「……ねえお姉さん、いつまでいてくれる?」
遥「え?私は……しずくちゃんがいてほしいなら、いるよ」
しずく「……うん、ありがとう」 そんな会話をしていると、ドアを叩く音が耳に入ってくる。病院らしいおだやかなそれは、それでもなぜだか耳に刺さった。
「失礼します。ご親族の方がお見えになりました」
急いでしずくちゃんを離す。さすがに見ず知らずの人間が小学生を抱きしめているところを目撃されるのは……。
しずく「あっ……」
しずくちゃんが少し残念そうな顔をする。この不安な状況で親族が来たというのに、何故だろう。
「しずくちゃん……。……?」
「……そちらの方は?」
遥「あっ……私は近江遥と申します。たまたま居合わせたもので、そのまましずくちゃんに付き添っていました」
「そうでしたか、どうもありがとうございます。私はしずくの叔母です」
遥「おばさまでしたか、このたびはご愁傷様です」
「恐れ入ります。お若いのにしっかりされておいでですね」
遥「いえ、恐縮です……」 遥「それで、ええと……私は」
「このたびは本当にありがとうございました。もうお帰りいただいても」
しずく「待って!」
これまでで一番大きなしずくちゃんの声が響き渡る。
今度はそちらを見なくても分かる程強く服を引っぱられている。
どうしたというのだろうか。私に用はもうないはずなのに。
遥「しずくちゃん?どうしたの?」
しずく「お姉さん、まだここに……ううん、私と一緒にいて」
遥「それは……」
しずくちゃんがいてほしいというのなら、私はここに残っても構わない。
でも、いいのだろうか。今からはあまりにもプライベートな空間だ。 「……申し訳ありませんが、しばらくしずくについていていただけないでしょうか」
遥「え!?……ええ、私は構いませんが」
しずく「ありがとう、お姉さん」
遥「どういたしまして」
そこからは、葬儀の日程や手配などについての話となった。小学生のしずくちゃんには右も左も分からないので、ほとんどおばさんが進めていたけれど。
私には関係のない話だけど、人が亡くなっているという背景上ただぼうっとしているのもどうかと思って時折頷く程度の反応を返した。
……いや、私には関係のない話のはずだった。 しずく「お姉さんも来てね」
遥「うん…………」
遥「……え!?ちょっと待って、私!?」
生返事をしていたつもりはないのだけれど、勢いで頷いた言葉は、改めて考えれば異様なものだった。
「し、しずくちゃん!?」
しずく「?」
遥「しずくちゃん?えっと、私もいたほうがいいの?」
しずく「お姉さん、いてくれるって言ったよ」
確かに言った。つい数分前のことを忘れてはいない。
しずく「私、お姉さんに隣にいてほしい」
それは、私で本当にいいのだろうか。もっとふさわしい人はいないのだろうか。
遥「……私で、いいのかな」
しずく「お姉さんが、いいんだよ」 そして、これから先しずくちゃんがどこで誰と暮らすのかという最も困難な話題が俎上に載せられる。
というのも、しずくちゃんのお母さんが亡くなったことで、しずくちゃんの身よりは目の前のおばさんだけになってしまったのだという。そのおばさんも生活環境的に養育は難しいらしい。
しずくちゃんは私よりも数年早く、私と同じ境遇に立たされてしまったのだ。
普通に考えれば児童養護施設だろうと思う。
私の場合はもうすぐ高校生という時期だったので、一人でもなんとか暮らしていくことが出来るだろうということで、本来は必ず付くものらしい後見人もついていない。私が生活に困らない程度には保険金も下りた。家族が亡くなってからの方が家計が楽になるなんて、残酷な皮肉だと思った。
けれど、いくら大人びていても小学4年生に同じ事が出来るとは到底思えない。出来たとしても、そんな生活をさせたくはない。
しずく「それは大丈夫だよ」 遥「え?」
「え?」
しずく「私、お姉さんのところで暮らすから」
遥「」
……まともに言葉を表白するまで十数秒はかかった。
遥「ええっと……しずくちゃん?何を言ってるの?」
しずく「だって、私といてくれるって言ったでしょ?」
確かに言った。つい数分前のことを忘れてはいない。この言葉も二度目だ。
けど、一緒に暮らすなんて意味では決してない。
それに、いくらなんでも無茶がすぎる。なりたての高校生がひとりで小学生を育てるなんて。
「しずくちゃん!?何を言ってるの!?さすがにそんな……」
遥「……どうして、私なの?」 しずく「お姉さんは私のこと、否定しないもん」
しずく「私、この場所で、お姉さんと生きていきたい」
しずく「……ダメ、かな」
そんな縋り付くような表情をしないでほしい。
本当に、受け入れてしまいそうになるから。
私だって、もしそんなことが出来るなら……。
「………………」
遥「しずくちゃん、さすがにそれは……」
「……あの……」
遥「はい?」
「こんなことを言うのは心苦しいのですが……」
「しずくのことを、お願いできないでしょうかっ……」
遥「……は」
大人までそんなことを言い始めてしまった。 「お願いしますっ!どうかお願いしますっ!!」
遥「あ、あの!ちょっと落ち着いてください!」
「頼れるのは近江さんしかいないんですっ!」
遥「分かりました!分かりましたから!」
遥「さすがにすぐに結論は出せないですけど、考えてみますからっ!!」
……そうしてなんとか宥めて、今日のところは帰ることになった。 あまりにも衝撃的な事が連続して起こって感覚を無くしていたけれど、今はまだ夕方だ。事故が起こったのが昼過ぎで、まだ数時間しか経っていない。
病院からの帰り道には、さっきの事故現場がある。
スーパーの北側の道の、事故が起こったのとは反対側の歩道を歩く。道の向こう側だけでなく、こちらにも報道関連の人間が数人いて、取材をしているようだった。
テレビを通してはよく見る光景だ。けれど、まさかこうやって当事者として見ることになるなんて思ってもいなかった。当事者と呼べるのかは置いといて。
家に着いた瞬間、忘れていた疲れを一気に思い出してへたり込む。
そのまま廊下で眠ってしまいたいくらいだったけど、そうしたら朝まで目覚めないだろうと諭す理性に歩かされた。
向かい側に誰もいないキッチンを見なくて済むよう、いつしか使わなくなったダイニングテーブルを避けて、ソファならば最悪寝落ちしても構わないかと腰掛ける。音のない部屋が落ち着かなくて、テレビを付ける。
遥「……しずくちゃんと……か」 『次です。今日昼過ぎ、江東区東雲一丁目の路上で横断中の歩行者を車が撥ねる事故が……』
遥「あっ……」
今日の事故のニュースだ。さっきあれほど報道陣がいたのだから、こうしてニュースになっっているのは自然な話だ。
『警視庁湾岸署は車を運転していた女から事情を聞いていて、「気を取られていて横断者に気づかなかった」と容疑を認めているということです』
遥「そっか……そうだよね」
車の運転手のことは考えていなかったけど、これからしずくちゃんたちはこちらの問題とも向き合っていかないといけないのだ。
しずくちゃんが落ち着いて元の生活に戻れる日は……いや、元の生活になんて、戻れないよね……。
気を取られていた、なんて、車を運転する人がそんな意識で……。
遥「…………っ!!!」 そろそろ寝ようかというころ、スマホの振動に注意を奪われる。しずくちゃんだった。
遥「……しずくちゃん。どうしたの?」
しずく『えっと、色々一段落して、やっと休めてるんだ。……でも、そしたら何か不安になってきて……』
遥「そうだよね。……不安だよね。お疲れさま、しずくちゃん」
しずく『ありがとう』
遥「どういたしまして」
しずく『…………』
遥「しずくちゃん?」
しばらく黙り込んでしまったしずくちゃんだったけど、意を決したように、口を開いてくれた。
しずく『……ねえ、お姉さん。私と暮らすの、いや?』
遥「……そうだね」 しずく『……ごめんなさい。お姉さんが嫌がってるなんて、思わなくて』
遥「……えっと、そうじゃないんだ。しずくちゃんのことが嫌いなんじゃないよ」
しずく『じゃあ、なんで?』
遥「私と暮らしてても、幸せにはなれないよ。……だからしずくちゃんとは暮らしたくない」
しずく『……どうして?』
遥「…………」
しずく『聞かせて、お願い』
遥「……私、一人暮らしなんだ。私のお母さんとお姉ちゃん、ふたりとも死んじゃったの。お母さんは病気で、お姉ちゃんは過労で」
しずく『そんな……でも、お姉さんは生きてるよ』
遥「しずくちゃん、今日の事故の……ニュースみた?」
しずく『……ううん、みてない』 遥「車を運転してた人、気を取られてて、しずくちゃんのお母さんに気づかなかったって」
しずく『……うん』
遥「あのときね、私、しずくちゃんたちのこと見かけたの」
遥「それで、楽しそうに話してて、羨ましいなって」
遥「……妬ましいなって、思っちゃった」
しずく『……』
遥「それで、そんなこと考えたのが嫌になって、振り払おうと思って、走って」
遥「……それで、転んだの。……そこで信号が青になって、そうしたら……」
しずく『お姉さん、待って』
遥「気を取られてたって、私のことなんだよ!」
遥「私のせいなんだよ!!しずくちゃんのお母さんが死んじゃったのも!!」
しずく『待って!』 遥「ダメなんだよっ!私と一緒にいたらしずくちゃんまで不幸になる!」
しずく『そんなことないっ!』
遥「あるよっ!!」
しずく『だったらそれでもいい!』
遥「いいわけないでしょ!?」
しずく『いいんだよ……それでも』
遥「……どうして?」
しずく『私、本当は今日、始業式だった』
遥「え?まだ学校は始まってないって」
しずく『ごめんね、嘘ついた』 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています