ss「心の旅」
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スタッフルームの隅に設置された冷蔵庫を開けるとブラックコーヒーの缶が並んでいた。まるで寝ないで働けと言わんばかりに大量に備蓄されている、それを手に取ると真姫は近くの椅子に腰を掛けた。
父の経営する病院に医者として勤務する様になって10年。父の経営する病院と言っても特別扱いされる事はなかったし、真姫自身も誰に言われる訳でもなく毎日馬車馬の様に働いた。それが響いているのか近頃、体が岩の様に重く、心は鈍く、何かを見て感動する様な事は一切なかった。
そんな真姫が最後に泣いたのは4年前、父が病に倒れた時だった。幸い、一命は取り留めたけれど父は一生インスリンポンプを手放せない身体となった。逆を言えばインスリンポンプさえあれば父は日常生活を普通に送る事が出来る。しかし、血糖値の変動があればオペに影響する。父はより一層経営に専念する事になった。
それ以前に真姫が涙を流したのは6年前の親友の結婚式だった。彼女の友人代表として手紙を読んだ時、思わず涙が溢れてしまった。嬉しさとそれから寂しさの涙だったが、当時の真姫はそれが理解出来ず困惑したものだった。
友人とも多忙を理由にもうずっと会えていない。 廊下を歩いて気が付いた事があった。身体が羽の様に軽い。足を上げた勢いそのまま飛んで行ってしまうのではないかと思う程にとにかく身体が軽いのだ。苦労と疲労が詰まった30代の身体と10代の身体でこんなにも違いがあるのかと驚いた。歩く事に楽しさを覚え始めていた。思わずスキップをしそうになるのを堪えて早足で歩いて居ると見覚えのある少女とすれ違った。
「花陽…?」
真姫がそう呟くと少女が振り向く。真姫も振り向くと一瞬目があった。少女はすぐに視線を逸らした。眼鏡の奥の瞳が泳いでる。怯えている様だった。 その様子を見て尚、真姫は再度名前を呼ぶ。
真姫「花陽」
すると花陽は視線を逸らしたまま口を開いた。
花陽「西木野さん…ですよね。同じクラスの…」
怯えた目、よそよそしい態度。真姫は胸を締め付けられる様な態度だった。
花陽は真姫にとって高校で初めて出来た親しい友人だった。
真姫と花陽の交流のキッカケは一年の春、真姫が落とした生徒手帳を花陽が自宅に届けた事だった。当時の花陽は気が弱く声の小さい女の子で、そんな性格が災いしていつも自分に自信が持てないでいた。校内でスクールアイドルのメンバーを募集しているポスターを見つけた時も、花陽は密かに憧れを抱いたが自分がアイドルのメンバーになれるとは到底思えなかった。
そんな花陽の背中を押したのが真姫と花陽の幼馴染である星空凛。この時、真姫は既に校内のスクールアイドルグループμ'sの関係者だったのでその縁もあって花陽はスクールアイドルμ'sのメンバーとなり、花陽に引っ張られる様に真姫と凛も加入する事になった。
それから、真姫と花陽、凛は親友と呼べる間柄になる。 その花陽が自分を見て怯えている。二人がまだ出会う前なのだと頭では理解が出来ても心が追いつかない。真姫は実に久しぶり涙を流した。それを見た花陽は驚きを隠せないでいる。
花陽「に、西木野さん?!!大丈夫?!!」
真姫「大丈夫。何でもないから」
真姫は涙を拭うと花陽をジッと見つめた。
真姫「ねえ、あなたスクールアイドルに興味ない?」
誤魔化す為に咄嗟に口を出た言葉は自分が穂乃果に言われたものと同じだった。 花陽「スクールアイドル…?」
花陽がスクールアイドルを知らない訳はなく、まさか自分が勧誘されるなんて思いもしなかった。
真姫「あなた可愛いからピッタリだと思うの」
真姫がそう付け足すと花陽は顔を真っ赤にして頭を下げた。
花陽「ごめんなさい」
そう言って小走りでその場を後にした。 走り去る花陽を真姫は追いかける事はしなかったのは自分の言動を省みて、そうするべきではないと判断したからだ。
真姫はゆっくりと歩き出し家に帰る事にした。 家に帰るのは実に3日ぶりだった。多忙を極める真姫にとって家に帰れない事など珍しくない。なんなら病院で寝泊まりする方が多いくらいだった。
真姫「ただいま」
恐る恐る玄関を開ける。真姫の声が聞こえたのか奥の方からこちらに向かってくる足音が聞こえて来た。
「おかえりなさい」
そう言って笑顔で出迎えてくれたのは若々しい姿をした母だった。 年齢よりもずっと若々しかった母は父が倒れてからすっかり老けこんでしまった。なまじ知識があるせいで父の最期を想像してしまったのか。多忙な娘の事も随分と気に掛けていた。
「今ちょうど紅茶を淹れた所だったの。真姫も飲むわよね?」
真姫「ありがとう、お母さん」
真姫は家に上がると鞄を置きに一度部屋へと向かった。 階段を駆け上がりながら先程口にした言葉を思い返す。大人になるにつれ他所行きを気にして母をママとは呼ばなくなった。母はそれを時々寂しそうにしていたのを真姫は知っていた。
部屋に入り鞄を置いて姿見鏡で改めて自分を眺めてみる。真姫はもうサンタクロースの正体も知っている。
真姫「次はちゃんとママと呼ばなくちゃ」
鏡に向かって呟くと自分にそう言い聞かせた。 部屋着に着替えて一階のリビングに行くと母が紅茶とケーキを用意していた。
「パパがケーキを貰ってきたの」
真姫「そうなんだ。それで…パパは?」
「もう病院に戻ったわ」
当時の父は決まった休日を取らない人間だった。たまに休んでいても呼び出されればすぐに病院へ駆けつける。それでも極力真姫と過ごす時間を作ろうと努力していた。
真姫はソファに腰を掛けるとティーカップを手に取り紅茶を口にした。 懐かしい味。高校生の当時はよく家で紅茶を飲んでいた。今はもうずっと飲んでいない。ブラックコーヒーばかり飲んでいる。
「学校はどう?楽しくやれてる?」
そう言いながら母は真姫の隣に腰掛けて顔を覗き込む。娘の学園生活を心配している様だった。 真姫「学校の先輩に部活の勧誘をされて。誘いを受けようかなって思ってるの」
「あら!そうなの?」
正確にはまだ部ではないが真姫にはそれはどうでも良かった。とにかく母を安心させたかった。案の定母は嬉しそうな顔をしていた。
「それで何部なの?運動部?」
「えっと…スクールアイドル」
真姫がそう口にすると母はキョトンとしていた。この時代ではスクールアイドルはまだ世間に広く認知されていない。当然スクールアイドルと言われても真姫の母も知らないはずだった。 真姫「スクールアイドルはね、芸能活動じゃなくてあくまで部活動の一貫としてアイドル活動を行うの」
スクールアイドルを理解出来たのかは不明だが、母はうんうんと頷いていた。
「いつの時代も女の子はアイドルに憧れるのね」
ケーキを食べながら母は懐かしそうに何かを思い出してる様だった。 サンタクロースの事とか、真姫はピュアなとこもあるよね 真姫「ねえ。もし、過去に戻れるとしたら戻りたい?」
「過去に?」
真姫「うん。例えば高校生の頃とか」
真姫の唐突な質問に母はケーキを食べる手を止めた。
「そうねぇ。一日くらいなら戻ってみたいとは思うけど。今が一番かしら」
真姫「どうして?」
「真姫ちゃんが居るからよ」
母は優しく微笑むと再びケーキを口に運んだ。真姫も同じ様にしてケーキを口に運ぶ。自分と母の決定的な違いを感じていた。 それから暫く真姫は母とたわいもない話を続けた。ケーキの話、母が夢中になったアイドルの話、父の話。母とこんなに話したのは随分と久しぶりに感じる。母はケーキの最後の一欠片を口に運んだ。
「美味しかったわね」
真姫「うん」
もし、娘が急に居なくなってしまったら母はどう思うのだろう。
真姫は自分が置かれた状況を真剣に考えるべきだと今更ながらに思ったのだった。 >>69
脳外科医はハードワークの上に病院経営で多忙ともなれば家庭持つイメージがわきにくいな 考え事をするのに意外とトイレの個室とお風呂は最適だったりする。シャワーを浴びた後に浴槽に身体を沈める。血液が身体を巡る感覚がした。
真姫「はあ」
ため息と共に胸につかえていた疑問が飛び出す。自分はどうしてここに居るのだろう。高校生の真姫はどうなってしまったのだろう。母と父から娘を奪ってしまったのではないか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています