ss「心の旅」
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スタッフルームの隅に設置された冷蔵庫を開けるとブラックコーヒーの缶が並んでいた。まるで寝ないで働けと言わんばかりに大量に備蓄されている、それを手に取ると真姫は近くの椅子に腰を掛けた。
父の経営する病院に医者として勤務する様になって10年。父の経営する病院と言っても特別扱いされる事はなかったし、真姫自身も誰に言われる訳でもなく毎日馬車馬の様に働いた。それが響いているのか近頃、体が岩の様に重く、心は鈍く、何かを見て感動する様な事は一切なかった。
そんな真姫が最後に泣いたのは4年前、父が病に倒れた時だった。幸い、一命は取り留めたけれど父は一生インスリンポンプを手放せない身体となった。逆を言えばインスリンポンプさえあれば父は日常生活を普通に送る事が出来る。しかし、血糖値の変動があればオペに影響する。父はより一層経営に専念する事になった。
それ以前に真姫が涙を流したのは6年前の親友の結婚式だった。彼女の友人代表として手紙を読んだ時、思わず涙が溢れてしまった。嬉しさとそれから寂しさの涙だったが、当時の真姫はそれが理解出来ず困惑したものだった。
友人とも多忙を理由にもうずっと会えていない。 真姫「はあ」
真姫はコーヒーを飲み込むと軽くため息を吐くと、コーヒーの匂いが鼻について嫌な気分になった。白衣のポケットからスマートフォンを取り出し画面をタップすると母からの着信が数件入っていた。母は何かと私の心配をする。特に父が倒れてからは娘が同じ道を辿るのではないかと気が気でないらしい。おかげで私用のスマートフォンの着信履歴は母で埋め尽くされている。真姫は母に折り返をせず写真フォルダをタップした。お気に入り登録された何枚かの写真。それはどれも高校当時のものだった。スマホの画面を撫でては目を閉じた。カフェインは全くその力を発揮しなかった。 真姫が再び目を開けた時、部屋中に鐘の音が響いていた。聞き覚えのある懐かしい音。病院のものとは種類が違っていた。暫く頭が正常に機能しなかった。目を開いてから数十秒後にここが病院ではない事に気がついた。ゆっくりと辺りを見回すと学校の教室の様に見えた。理解が追いつかず固まる事しか出来ない。
だって、ほんのちょっと前まで自分は病院のスタッフルームに居たはずなのだから。なのに自分は学校の教室の机の上に突っ伏して寝ていた。意味が分からない。
ガシャン。急に部屋の扉が乱暴に開いた。
「あっ!見つけた!」
大きな声と共に見た目高校生くらいの少女が部屋に入って来た。 「探したんだよ。やっぱり新入生だったんだね」
部屋に入るなり駆け足で真姫へと近づくと少女は返事も待たず喋り続けた。
「歌声を聴いて一目惚れしちゃったんだ。ぜひ、良いお返事を頂けないかなぁなんて」
真姫は既視感を覚えていた。以前も似た様な事を経験している。目の前の少女を上から下まで見回す。
「穂乃果…?」
自然と口をついて出た言葉は高校当時の友人の名前だった。 「あれ?自己紹介してたっけ?」
目の前の少女は大袈裟に首を傾げると何故か笑っていた。多分それに意味は無かった。
穂乃果、高坂穂乃果は真姫の高校時代の友人で、歳は真姫より一つ上だった。当時、真姫の通う高校は少子化の影響で年々生徒数が減少傾向にあり、廃校の危機に瀕していた。それを知った当時、高校二年生だった穂乃果は巷で人気が出始めていた「スクールアイドル」を始める事で話題を作り入学希望者を増やそうと画策したのだった。
しかし、音楽の経験が無かった穂乃果にはスクールアイドルに必要不可欠な曲作りが出来なかった。幸いなのは幼馴染の園田海未が詩を作る事が出来る事。後は作曲出来る人間が欲しかった。そこで白羽の矢が立ったのが偶然、穂乃果が通りかかった音楽室でピアノを演奏し歌を歌っていた真姫だった。 真姫は幼少の頃からピアノを習っていて、作曲の心得もあった。けれど、自分がアイドルをやる事に抵抗があった為、穂乃果の勧誘を断り続けるが、後に穂乃果の熱意に心を打たれて曲を提供し、最終的にはスクールアイドルμ'sのメンバーとして加入する事となる。
そして今、当時のそのままの格好をした穂乃果が自分の目の前にいる。格好と言っても服装だけではなく容姿そのものが高校時代のそれだった。穂乃果には娘が居ないし、仮に真姫の知らないうちに出産してたとしていても高校生の子供が居る事はどうしたって計算が合わない。なにより、彼女を穂乃果と呼んだ時の反応から目の前に居るのは穂乃果なのだろう。
真姫はこの現象を夢という事で解決しようとしたが、それも無理があった。夢にしては物凄く鮮明でハッキリとし過ぎている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています