曜「アクシデンタル・コンタクト」
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鞠莉「はい、あーん」
右隣に座った鞠莉ちゃんが、右手でつまんだチョコチップクッキーを口元へと運んでくれた。私はそれをぱくりと一口で食べる。
鞠莉「どう、美味しい?」
クッキーをもぐもぐしながら私が「うん、うん」と頷くと、鞠莉ちゃんがにこっと微笑んだ。
上品な甘さで、食感もサクッとしていて私好み。とても美味しいクッキーだ。 鞠莉「お気に召したみたいね。頂き物なんだけど、曜が好きかなって思って、とっておいたの。はい、あーん」
そう話す鞠莉ちゃんの声はどこか嬉しそう。
実際のところ、私もまんざらではない。私たちは肩を寄せ合い、手を握り合ってソファーに腰掛けていた。
鞠莉「はい、あーんっ」
クッキーを私の口に運んでくれるたびに、お互いの視線がぶつかる。
私は「幸せってこういうものなのかな」なんて、柄にもないことを考え始めていた。きっと他の誰かが見たら、今の私たちはとても微笑ましい光景に映るのだろう。
鞠莉「たくさんあるから、いっぱい食べてね。はい、あーんっ」
――私の右手と鞠莉ちゃんの左手が接着されているのを除けば、の話だけど。 ……………………………………
事の始まりは、今から2時間ほど前に遡る。
鞠莉「あっ」
小原グループが試作した強力接着剤だとか、ペンケースに紛れ込んでいたとか、部室で私たちが作業していたとか、とにかく色々な偶然とアクシデントが重なった結果。
曜「えっ」
私と鞠莉ちゃんの手と手が――正確には、私の右手と鞠莉ちゃんの左手が、いわゆる「恋人繋ぎ」の状態でくっついてしまったのだ。
曜「な、なにこれ、くっついて…!」
なんとか手を離そうと試してみたけど、一筋縄ではいかないことはすぐにわかった。
接着剤は私たちの手を隙間なく繋ぎ固めていて、「超強力」の名前と小原グループの開発力が伊達ではないということを示していた。
手を握り合っていたことも災いした。絡めた指を開こうとしても、このとおり、全くビクともしない。 曜「ダメだ…どうしよう、取れないよ」
鞠莉「落ち着きましょう。無闇に動くと危ないわ。こういう時は、助けを呼ぶの」
曜「た、助けって、誰を?」
鞠莉「そうね…大ごとにしたくないから、まずはダイヤや梨子あたりに連絡して――」
不意に、鞠莉ちゃんの言葉が止まった。 曜「鞠莉ちゃん?」
鞠莉ちゃんは私の後方を見つめていた。
私の肩越しに、おそらくは部室の外の方に目を向けている。その視線の先へ私が振り返ると。
曜「あっ」
よしルビまるちかりこかなダイ「あっ」
いつからそうしていたのだろう。他のメンバー全員が、部室の外から興味津々と私たちの様子を伺っていた。
時間が止まったような沈黙の中、なんとも言えない気まずさが漂う。
鞠莉「あはは…ま、まあ、説明の手間が省けたってところかしら?」
流石の鞠莉ちゃんも苦笑い。うーん、間がいいのか、悪いのか… ――――――――
状況を説明すると、みんなは快く協力を申し出てくれた。けど、そこにたどり着くまでが大変だった。
花丸「ずらぁ…」
ルビィ「うゆ…!」
花丸ちゃんは顔が少し赤くなってるし、対してルビィちゃんは真剣な眼差し。
善子ちゃんに至っては「魔術が」とか「契約が」とか色々言っていたけど、この場で一番動揺していたのは誰の目にも明らかだった。
梨子「曜ちゃんと鞠莉ちゃんが、手を繋いで、見つめ合って…!」
耐えきれなくなった梨子ちゃんが真っ赤になって顔を手で覆う。花丸ちゃんもそれに倣い、千歌ちゃんもその後に続いた。
文学少女の二人とは違って、千歌ちゃんはおそらくただのノリだと思うけど、待って。本当に待ってください、お願いですから、ねえ。 その後は、ダイヤさんと果南ちゃんの取り成しのおかげで事なきを得た。二人はこういう事態の中でも特に冷静だった。
ダイヤ「大方そんな事だろうと思いましたわ」
果南「まあ、鞠莉だしね」
その一言でみんなを納得させてしまうあたり、さすが幼馴染、つよい。やれやれ顔の二人が、私にはとても頼もしく見えた。
果南「はがし液とかはないの?」
鞠莉「わからないわ。そもそもこの接着剤自体、ペンケースにいつの間にか紛れ込んでいたものだし」
ダイヤ「あるかどうかもわからない、ということですか」
果南「一応確認してみたら?鞠莉の持ち物に混ざってたってことは、鞠莉の周りの誰かがそれを管理してたってことなんだろうし。知ってる人がいるかもしれないよ」
果南ちゃんの言葉にみんなが頷いた。少しでも手がかりを見つけないことには、対処のしようがない。 鞠莉「そうね、じゃあ早速…あ、ごめん、曜。スマホ取りに行きたいんだけど、いい?」
曜「ああ、うん。どこにあるの?」
鞠莉「カバンの中に入ってる、と思う」
鞠莉ちゃんのカバンは、少し離れた別の机の上に置かれていた。
曜「わかった。じゃあ、動こうか」
鞠莉「ええ、お願いね」
私たちが立ち上がって歩き始めると、みんなの注目が私たちへと向けられる。みんなの眼差しには、わずかにだけど心配以外の感情が混じっているように思えた。
私はそれに気付かないふりをして、カバンを開けようとする鞠莉ちゃんを手伝ってあげた。 鞠莉「誰に聞いたらいいのかしら…とりあえず、仲のいいスタッフに連絡してみるわね」
鞠莉ちゃんは少しぎこちなくスマホを片手で操作した。幸い電話はすぐに繋がった。
鞠莉「私よ、忙しいところごめんなさい。ちょっとトラブルがあって…接着剤のこと、知ってる?」
電話で話す鞠莉ちゃんは、彼女にしては珍しく、当惑が表情に滲み出ていた。
鞠莉「ええ、そうなの。友達を巻き込んでしまって…」
ちらりとこちらを向いた瞳が、かすかに揺れている。接着材や解決策について、あれやこれやと尋ねていたけど、雲行きは芳しくなさそうだった。 いつもとは少し違う鞠莉ちゃんの声色に、私も今更ながら不安な気持ちがやってきた。
曜(なのに、なんだか…)
そんな胸のざわめきとは別の感覚が、心の奥で芽生え、大きくなり始めていた。
曜(普段より近くて、手も繋いで…すごくドキっとする)
…我ながら一体何を考えているのだろう。今はそんなことが気になっている場合じゃない。
みんなの心配や鞠莉ちゃんの密かな動揺を、私は肌身で体感しているのだから。
だけど――いや、その場違いさをわかっているからこそ、私は不意に訪れた、訳の分からない胸の高鳴りに、戸惑いを抑えることが出来ずにいた。
果南「でもさ。いいよね、ああいう繋ぎ方って」
電話中の鞠莉ちゃんには聞こえなかっただろうけど、ぽろっと呟いた果南ちゃんの言葉に、私は耳の温度が上がっていくのを感じた。 ――――――――
鞠莉「担当者が出張中で、詳しいことはわからないみたいなの。今は連絡を待つしかないわ」
電話を終えた鞠莉ちゃんの口から語られたのは、残念ながら通話の雰囲気から予想されたとおりの内容だった。
鞠莉「どうして私の持ち物に紛れ込んでいたのかについても、思い当たるところはないって」
余計なことを付け加えない話し方は、きっと鞠莉ちゃんなりの気配りだ。私たちを不安にさせないように、気丈に振舞ってくれているんだと思う。
解決の手がかりは得られなかったけど、収穫が何もなかったわけじゃない。
鞠莉「接着剤自体は、とりあえず害があるものではないみたい。そこは一つの安心材料ね」
くっつき方がくっつき方だけにちょっと心配だったけど、こういう情報があるとないとでは、やっぱり気の持ちようが変わってくるもんね。 梨子「それじゃあ、連絡が来るまでの間、二人はどうするの?」
善子「練習は流石に無理そうね。でも、体を動かす必要のない、ボイストレーニングや歌の練習なら…いえ、こんな時に油断と無理は禁物ね」
ルビィ「お休みした方がいいんじゃないかな。やっぱり危ないよ」
私たちを気遣う色々なアイデアが出る中で、果南ちゃんとダイヤさんがまとめ役になってくれた。
ダイヤ「皆さんが言うとおり、無理をすればどんな危険があるかわかりません。お二人には練習をお休みいただく方が安全だと、私は思います」
ダイヤさんの総括にみんなが賛成し、私と鞠莉ちゃんも頷いた。 果南「決まりだね。しばらくは不便だけど、お互い助け合って連絡を待つしかないか」
その時、千歌ちゃんがピッと挙手をした。
千歌「はーい!なら、私がサポートするよ!」
ルビィ「何があるかわからないし、ルビィも手伝うよ」
二人が協力を申し出てくれた。気持ちはすごく嬉しいけれど、これ以上心配と迷惑をかけたくない――そんな私たちの内心を察してか、ダイヤさんが間に入ってくれた。
ダイヤ「千歌さんのおっしゃる通り、助けが必要な場面もあるでしょうが、私たちがつきっきりでは、却って鞠莉さんたちが恐縮してしまうかもしれません」
ダイヤさんの言葉を受けて、果南ちゃんが続いた。
果南「普通にしてる分にはサポートは必要なさそうだし、理事長室で待ってたらどうかな。曜も鞠莉も器用な方だから、その点はよかったよね」 やはり、二人の言葉には不思議な説得力と安心感がある。千歌ちゃんとルビィちゃんも、それならばと納得してくれた。
鞠莉「ありがとう、ちかっち。いざというときには、頼りにさせてもらうわ」
千歌「いざってことがなくたって、遠慮なく頼ってね!」
千歌ちゃんの心強い言葉と、しきりに頷くルビィちゃんの様子に、私は気持ちが上向いていくのを感じた。硬かった鞠莉ちゃんの表情も、ゆっくりとした微笑みへと変わっていた。
曜(だけど、なんなんだろう、これ…)
正体不明のドギマギは収まってきたけれど、小さな塊となって胸の中に残っているような感じがした。 ――――――――
理事長室へとやってきた私たちは、とりあえずソファーに座って一休みすることにした。
土曜日で人の姿がない廊下は、妙に長くて遠い道のりに感じられたし、そもそもトラブルの後はのんびりしている余裕さえ無かったからね。
曜「ふぅ…」
ようやく腰を落ち着けたことに私が深々と息を吐くと、鞠莉ちゃんは申し訳なさそうに頭を下げた。
曜「ああ、ごめん。そんなつもりじゃないから謝らないで。私がうっかり手を掴んじゃったのも悪かったんだし」
鞠莉「でも…」
曜「こういう時こそゆとりが大切だよ。解決策は必ずある。信じて待とう」
鞠莉「…そうね、曜の言うとおりだわ。今はそれしかないものね」
小さく笑うと、肩の力がふっと抜けていくのがわかった。
そうそう、その調子!息継ぎなしじゃ、苦しくなっちゃうもん。 曜「さてさて。連絡が来るまで、なにしてよっか。ただ待ってるだけじゃ、時間を持て余しちゃうよね」
鞠莉「んー、気を紛らわすためにも、今のうちに仕事を済ませておこうかしら。この状態でも簡単な事務作業くらいならできそうだし、時間も有効に使えるしね」
曜「それなら、私も少し勉強しちゃおうかな。と言っても、衣装とかスクールアイドルの方だけど」
鞠莉「いい考えだわ。なら、まずは環境を整えないとね」
私たちは仕事机に置かれたノートPCを、ソファー前の応接テーブルまで運ぶことにした。
落としたり、コードを踏んだりしないように、2人がかりでゆっくりと、慎重に。
曜「よし、完了だね!」
セッティングが終わると、私たちは顔を見合わせて、ささやかな成功を笑いあった。
鞠莉「ふふっ、初めての共同作業は大成功ね」
久々に聞く鞠莉ちゃんらしい言い回しが、くすぐったくて嬉しかった。
私の準備もすぐに完了した。準備と言っても、スマホと専門誌を置くくらいだけどね。 鞠莉「必要な時はいつでも言ってね。曜は利き手が塞がってるんだから、無理しちゃダメよ」
曜「鞠莉ちゃんこそ、遠慮は無しだよ。約束!」
鞠莉「ええ、約束っ」
それから私たちは、各々の作業に取り掛かった。鞠莉ちゃんは書類に目を通したり、パソコンを使った事務仕事を。
私はスマホで色々と調べながら、次の衣装のイメージや気付いたことをメモしたりなんかした。
ここのところ何かと忙しかったから、インプットにじっくりと時間を使えるのは久しぶりかもしれない。片手でも、思ったほどの不自由は感じなかった。 鞠莉「曜、ごめん、この書類を机に置きたいんだけど」
片手で出来ないことは、お互い声を掛け合って。
曜「いいよー。せーの、よっと」
鞠莉「ありがとう。曜も何かあれば言ってね」
曜「あ、じゃあいいかな。ペットボトルの蓋を開けたいんだけど」
鞠莉「お安い御用よ。私が蓋を回すから、そっちを押さえて、せーの」
曜「鞠莉ちゃん、開けるの上手!」
鞠莉「ふふっ、蓋を開けて褒められたのは初めてよ」
大きな苦労する場面もなく、私たちは状況に順応しながら、楽しく作業を進めることができた。
鞠莉「そろそろ休憩にしましょうか。とっておきのお茶菓子があるの。準備、手伝ってくれる?」
チョコチップクッキーがサクサクですごく美味しかったっていうのは、一番初めに話したとおり。
私たちは、作業の合間のちょっとおかしなコーヒータイムを楽しんだんだ。 ……………………………………
作業を再開して少し経った頃。私はふと、あることを思い出した。
曜「鞠莉ちゃん、ごめんね。今大丈夫?」
鞠莉「ええ。何かしら」
曜「実は、昨日教室に忘れ物しちゃったのを思い出して。一緒に付いて来てもらってもいいかな?」
鞠莉「もちろん。ちょうど体を動かしたかったところだし、少しお散歩しましょうか」
曜「ありがとう!あ、席を立つ前に、一度テーブルの上を綺麗にしておくね」
鞠莉「助かるわ」
鞠莉ちゃんがマウスをカチカチして、私は広げられた書類や文房具を片付ける。
ノートPCの画面がパタンと閉じるのと、テーブルの上の整頓が完了したのは、ほとんど同時だった。 曜「えへへっ。ぴったりだったね!」
鞠莉「ナイスコンビネーション!タイミングが綺麗に揃うと、なんだか気分がいいわね」
私も同じ気持ちだった。状況に慣れてきたというのもあるけど、なんとなくお互いの呼吸やリズムを掴めるようになってきたのかもしれない。
鞠莉「それじゃ、参りましょうか、お嬢様?」
鞠莉ちゃんの気取った誘い方に。
曜「エスコートはお任せを、お嬢様」
私もカッコつけた言い回しで応えると、ワンテンポ置いて二人同時に吹き出した。
ませたやりとりを笑い合いながら、私たちは理事長室を後にしたんだ。 手を繋いで廊下を歩くのって、なんだか不思議な感じだな――なんて考えていると、鞠莉ちゃんがくすくすと笑った。
曜「んー?」
鞠莉「いえ、私が言うのはおかしいのだけど、案外なんとかなるものだなって」
曜「そうだね。初めの頃の心配が無くなってきたって言うか」
鞠莉「きっと、曜がうまくフォローしてくれるおかげね」
曜「いやいや、鞠莉ちゃんが気遣ってくれるからだよ」
鞠莉「んー。じゃあ、私たちが二人とも合わせ上手だってことで」
曜「賛成であります!」 人気のない廊下を私たちは並んで歩く。
静かな廊下に響くのは、手を繋いだ二人の足音だけ。
曜(こういうの、悪くないかも)
横を見ると、同じくこちらを向いた鞠莉ちゃんと目があった。
曜(ううん、かなり良い…)
トラブルの真っ最中だというのに、心からそう感じている自分がいた。 ……………………………………
夕方を迎え、練習を終えたAqoursのみんなとさよならをした後も、私たちの手はくっついたままだった。
待っている間、鞠莉ちゃんが何度か連絡を入れてくれたけど、結局返事は返ってこなかった。
鞠莉「今日はウチに泊まって。曜のお母様には、私から事情を説明するわ」
既に鞠莉ちゃんのホテルは受け入れの準備をしてくれて、何かあればすぐに対応できるからというのがその理由だけど。
鞠莉「なにより、私が原因なんだから」
鞠莉ちゃんは責任感が強い。きっとこれが一番の理由だ。 ママに電話で状況を伝えると、あっさりと2つ返事でオーケーが出た。恐縮する鞠莉ちゃんに、ママは気遣う言葉をかけてくれた。
私には「鞠莉ちゃんのご迷惑にならないように」だって。まるでお泊り会に行くみたいじゃない。まあ、実際そうではあるんだけど。
ホテルのスタッフさんが車で迎えに行くと言ってくれたけど、私たちは断った。「歩きたいから」というのが理由だった。
なぜそう答えたのかはよくわからない。
居心地が良いというのもおかしな話だけど、とにかく私たちはそうしたかったんだ。
他愛もない話をしながら、帰り道を歩く私たち。繋がれた手には大きな困りごとが潜んでいたけれど、街行く人々には仲睦まじく見えたりするのかな。
そうだったら、いいな。なんて――
そんなことを考えていた私は、背後に迫った自転車の存在に気付いていなかった。 鞠莉「危ないっ!」
曜「わっ!?」
鞠莉ちゃんが私の腕をぐいっと引き寄せた次の瞬間、自転車は猛スピードでスレスレのところを過ぎ去っていった。
運転手も慌てた様子で、鞠莉ちゃんが気付いてくれなければ、危うくはねとばされるところだった。
本当に、間一髪だったけど――
曜「あ――!」
危険はまだ続いていた。反応が遅れた私は足元がおぼつかず、そのまま鞠莉ちゃんへともたれかかった。
鞠莉「あっ…」
その勢いを支えきれなかった鞠莉ちゃんは、バランスを崩して後ろへと倒れ始めた。 鞠莉「――!!」
鞠莉ちゃんの表情が驚きへと変わっていく。
私はその様子を、飛び込み台からプールに飛び込むときのような、スローモーションの感覚で目の当たりにしていた。
曜「くっ…!」
ゆっくりと流れる時間の中で、私はとっさに体をひねった。左腕をぐいっと伸ばし、鞠莉ちゃんの頭の後ろへと回す。
よし、これで頭は守れる――だけど。
問題は体だ。くっついた右手が使えないせいで、鞠莉ちゃんを守ることができない。
このままの体制で倒れ込めば、鞠莉ちゃんの体は私の体重を乗せたまま、地面へと打ち付けられてしまう。
曜(そんなの――) 鞠莉「…!」
鞠莉ちゃんが痛みを覚悟するかのように、目をぎゅっとつぶった。
曜(そんなこと――!)
色んな思いが頭の中を駆け巡った、次の瞬間。
曜「――!!」
永遠のようなスローモーションはついに終わって、私たちの体は地面へと倒れ込んだ。 鞠莉「いたた…く、ない…?」
鞠莉ちゃんがおそるおそる目を開くと、私と目が合った。
曜「よかった、間に合って…」
鞠莉「よ、曜!大丈夫、怪我はない?」
鞠莉ちゃんは自分のことよりも先に、私のことを心配してくれた。
曜「私は大丈夫。鞠莉ちゃんの方こそ、痛いところない?」
鞠莉「ええ、でも、どうして…あっ、手が…?」
そう。私の右腕は、鞠莉ちゃんの体にしっかりと回されていた。
どういうわけか、地面に衝突する直前に手が外れて、ギリギリのところで間に合ったんだ。 鞠莉「どうして急に…」
曜「わからない、けど、よかったよ!鞠莉ちゃんに怪我がなくてさ!それに、さっきは助けてくれてありがとう!」
鞠莉「え、ええ…お礼を言うのは私の方でもあるん、だけど…」
曜「うん?」
鞠莉ちゃんは何やら戸惑いを浮かべていた。
歯切れが良くないし、瞳が小さく揺れていて、頬も少しぽぅっとしているようだった。
私はその様子を静かに見つめて、次の言葉を待った。
鞠莉「え、えっと。ちょっと近い、かな」
曜「へ?近い…?」 私が言葉の意味を飲み込めずにいると、鞠莉ちゃんは「その、顔とか…」と呟いた。
冷静に自分たちの体勢を見返してみる。
とっさのことで気にする余裕もなかったけど、鞠莉ちゃんを守ろうと体に腕を回した様子は、抱きしめるような格好になっていた。
顔同士も近いし、シンプルに言えば、まるで私が押し倒しているみたいで――
曜「あっ、ご、ごめんっ!」
私は慌てて体を離し、鞠莉ちゃんの手をとって体を起こしてあげた。
前とは違い、今回は手がするりと離れたのが、不思議な感じがした。 鞠莉「だ、大丈夫、嫌なわけじゃない、から…」
曜「う、うん…なんていうか、えっと…」
鞠莉「ん…」
お互い言葉が出てこない。
服のホコリをはたくのも忘れて、私たちはあてもなく視線を泳がせていた。
〜♩
もじもじするような沈黙を破ったのは、鞠莉ちゃんのスマホの着信音だった。
曜「あ、で、電話だよ」
鞠莉「う、うん…あっ!」
慌てて鞠莉ちゃんが通話をオンにする。
それは待ちに待った、開発担当者からの折り返し連絡だった。 ……………………………………
鞠莉「ええ。それじゃあ、また。ふぅ…」
ため息とともに、通話を終えた鞠莉ちゃんがスマホを下ろした。
もう全てが終わった後で、担当者からの連絡は結果的には遅すぎたわけだけど、どうして急に接着から解放されたのか、その理由を知ることができた。
鞠莉「あの接着剤は使用直後は強力に作用するんだけど、一定時間が経過すると突然接着力が失われる特性があって、平たく言えば失敗作なんだって」
鞠莉ちゃんは手に残る接着剤をこすり落としながら説明してくれた。
ちなみにはがし液は「試作段階だし、放っておけばいずれ取れるから」という理由で作られていなかったみたい。
鞠莉「どうしてそんなものが紛れ込んでたのか。まったく、人騒がせな接着剤デース」
曜「なんていうか、試作品とは言え、随分と極端な性能なんだね」
鞠莉「まあね。とは言え、そのおかげで無事手を離せたわけだし、この性質も使い方次第では何かの役に立つのかも――」 言いかけて、鞠莉ちゃんは自分の頭を軽くチョップした。
鞠莉「曜の前で言うべきことじゃなかったわ。改めて、巻き込んじゃってごめんなさい」
曜「気にしてないよ。本当に大丈夫だから、これくらい――」
その時、私は不意に、言いようのない肌寒さを覚えた。
それは自由になったはずの右手から広がって、私の体と心を包み込んでいた、
どうしてだろう。ようやく手が離れて、なにもかも一安心のはずなのに。手が、離れて…
一日中繋がっていた右手に目を落とし、にぎにぎする。胸の中で、何かがとくんと跳ねた。
この感覚は、部室で話していたときの――
ああ、そうか。これは、きっと。
鞠莉「ともあれ、これにて一件落着ね。心配もなくなったことだし、今日は帰りましょうか」
曜「うん…でも、さ」
私は意を決して、すっと鞠莉ちゃんの左手に右手を重ねた。偶然や事故ではなく、今度は自分の意思で。 鞠莉「あ…」
曜「今日はもう少し、このままがいい。なんていうか、ずっと一緒だったし…それに、ママにも泊まるって、言っちゃったし…」
ああ、もう、胸のドキドキに急かされて、伝えたいことが上手くまとまらない。
言葉の代わりに、私は再び繋いだ手をぎゅっと握った。
接着剤越しではなく、直接触れた鞠莉ちゃんの手は暖かくて。そして、優しくて。
鞠莉「曜…」
曜「だめ、かな…?」 鞠莉ちゃんは少し驚いた感じだったけど、私の手を握り返して「やっぱり、そうだったのかな」と軽く笑った。
曜「やっぱり、って?」
鞠莉「実はね。私も曜と同じことを言おうとしていたの」
曜「えっ?」
鞠莉「ずっと一緒に居て、思ったの。曜との距離がぐっと近づいた気がするって」
目を丸くするのは私の番だった。
鞠莉ちゃんは微笑んで続けた。
鞠莉「それは接着剤の事故がきっかけだったのかもしれないけど、その接着剤が原因でいきなり離れちゃうなんて、なんだか寂しいなって。曜も、そう思ってくれてたってことでしょ?」
曜「!」
その言葉に、私は夢中で頷いた。
私の中にある輪郭のない感情を、鞠莉ちゃんが代わって表現してくれていたから。 鞠莉「だからね、今すごく嬉しい。曜も同じ気持ちでいてくれたことが、本当に嬉しいの」
曜「鞠莉ちゃん…!」
同じ気持ち。その言葉で、私もやっと気付いたんだ。
そうだよ、繋がったのは、重なったのは、きっと手だけじゃなくて――
鞠莉「さ、行きましょう」
曜「えへへっ、うん!」
軽やかに、晴れやかに、そして和やかに。
さっきよりも、さらに少しだけ距離が近くなった私たちは、夕暮れの街を歩いて行った。
終わり 全弾撃ち尽くしました。距離を縮めるようまりでした。
↓は前に書いたものです。よろしければ併せてお願いします。
曜「葉桜の季節に」
https://fate.2ch.net/test/read.cgi/lovelive/1587220496/
ありがとうございました。 いつもおつおつです
素敵なようまりありがとうございます ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています