戦後は、イギリス国立物理学研究所 (NPL) に勤務し、プログラム内蔵式コンピュータの初期の設計のひとつACE (Automatic Computing Engine) に携わった(ただし、チューリング自身は、その完成を見ずに異動している)。
1947年、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータ Manchester Mark I のソフトウェア開発に従事し[7]、数理生物学に興味を持つようになる。形態形成の化学的基礎についての論文を書き[8]、
1960年代に初めて観察されたベロウソフ・ジャボチンスキー反応のような発振する化学反応の存在を予言した。

1952年、同性愛の罪(風俗壊乱罪)で警察に逮捕され、保護観察の身となり、ホルモン療法を受ける。1954年に41歳で死去。検死によると、青酸中毒による自殺と断定されたが、母親や一部の友人は事故だと信じていた。

2009年9月10日、インターネットでのキャンペーンに続いて、首相のゴードン・ブラウンが、戦後のイギリス政府によるチューリングへの扱いについて、公式に謝罪した[9]。