>>477
――禅僧の友人に与う――
鈴木大拙

 昔は方外の友などといえば、面白い聯想もあったものである。勿論もちろん近代といえども、僧侶殊に禅僧については、尚なお従来の伝説やら歴史やら挿話などが、くっついているので、わしらも審美的に方外
の友に対して一種の興味を有っていることは事実である。併しこんな趣味がいつまでも続いて行くのがよくないのかも知れぬ、所謂いわゆる中古的骨董的趣味とでもいうべきもので、進化の歴史からは、こんな低
徊主義は自ら亡びて行くのが本当かも知れぬ。今日の多くの禅僧達には

楊岐乍住屋壁疎  楊岐ようぎ乍はじめて住するや屋壁おくへき疎まばらにして
満床皆布雪真珠  満床まんしょう皆な布しく雪ゆきの真珠しんじゅ
縮却項暗嗟吁   項くびを縮却ちぢめ暗ひそかに嗟吁さうし
翻憶古人樹下居  翻ひるがえって憶おもう古人こじんの樹下じゅげに居せしを
(『楊岐法会語録』)

などと貧乏に安んずる清僧も余りないようであり、又

摧残枯木倚寒林  摧残さいざんせる枯木こぼく寒林に倚より
幾度逢春不変心  幾度いくたびか春に逢うも心を変えず
樵客遇之猶不顧  樵客しょうかく之に遇うも猶お顧かえりみず
郢人那得苦追尋  郢人えいひと那なんぞ苦しきりに追尋ついじんするを得ん
(『景徳伝燈録』巻七大梅法常章)

というような風流気のある仙僧も見受けぬようである。これに反して日曜学校をたてたり、病院をこしらえたり、孤児院の世話をしたり、小学校や中学校を経営するものは、そこここに見当らぬこともない、これ
が禅僧の時勢に適しいやり方なのであろうか。
女房もあり子供もあり、葷酒はいうに及ばず肉食も勝手にやるようになった今日では、禅僧について居た古来の聯想や歴史を全く棄てて、当世風になるのが、所謂る和光同塵の精神かも知れぬ。併しかしわしらは
今日までも尚なお禅僧の君等を方外の友人として見たいのである。

(´・(ェ)・`)
(つづく)