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釈宗演師を語る4
鈴木大拙

 情の話をすると、こんなことがあった。或る時、若い婦人(と思う)が早世した。その葬式に臨んで、不図ふと師は涕泣ていきゅうした。傍人はこれを怪しんで、「世捨人にも亦これあるか」と云う。このこと
を師は後からわしらに話して、「世間では禅坊主はまるで人間でないと思って居るらしい」と云って居られた。
 宮崎虎之助みやざきとらのすけは、「予言者」として飛びあるいた、妙な宗教者であった。わしの所へ尋ねて来て、これから東慶寺へ行くから紹介せよと云う。宗演師に会って、色々と自分の不遇・不幸を訴え
たと見える、即ち或る宗教者は有福なブル的生活をして居るのに、自分は轗軻かんか不遇、今日の衣食にすら窮すると云う不平であったらしい。これは後から老師から聞いたのである。その時老師は、「そんな不
平があっては、まだ真の予言者にはなれぬ、今一段の修行を要する。併し実際問題として、衣食に窮してはお困りだろう」と云って、老師は信者の喜捨金一包をそのまま与えて別れられたことがある。宮崎君のよ
うな宗教家は時々見付かる。一種の体験はあるが、知性の発達が、これに伴って居ないので、事物全般の展望が欠けて居る、それで畸形児的なものに成って仕舞う。一寸書き加えておく。
 野田大塊居士が、野人そのままの風采で、、円覚寺から下りて来て、向いの松ヶ岡へ行かれるのに、時々出くわしたことがある。呼ばれて東慶寺で一緒に話したこともある。少し出過ぎたかも知れぬが、或る日
老師に、「野田と云う人は、所謂る昔風の豪傑で、枝大葉そしたいよう、今日の政治家に適して居るか、どうです」と云った。すると老師は、「いや、ああ見えても、中々秩序の立ったよい頭を持って居る」とて
、深く推奨せられたことを覚えて居る。
 又或る時、円覚寺中興の祖、誠拙せいせつ和尚に「大用国師」の追諡ついしがあった時、わしは又出過ぎたことを云ったことがある、「今日の坊さんは、国師号を戴くことや、寺を建てたり、法事をしたりする
ことに、骨を折ってばかり居る。もっと建設的な仕事をやらぬと、仏教や禅道の将来は思いやられる」と。こう云った時、老師は何時ものようには何の意見も吐かれず、黙して居られた。寺を建てること、法事の
ことなどにつきての老師の意見は多少知って居るが、今度は国師号のことを附け加えて愚見を吐いたので、「予が現に報いんとする切情を知らぬ、この馬鹿奴」とでも思われて、沈黙を守られたかと、まあ今はそ
う考えて居る。
 宗演師は六十一にならんとして逝かれた。今日生きて居られぬ齢でもない。居られると、有難い高僧であったろう。折に触れて逝かれた人を思うこと誠に切なるものがある。学生時代から、金がなければ金を貰
い、智慧が足りなければ智慧を借り、徳が薄いところ、気のきかぬところは、その時々に補って貰い、亡くなられるまで面倒をかけたその人と、相別れて既に十五年(?)ほどになる。
 師は誰にでも情の厚い人であったが、自分から見ると殊にそんなように感ずる、これは人情の常であろう。
 今日師を語らんとして、ただ思い出すことの一片を書き付くると、何時とはなしに
、私情を語るようになった。読者の寛恕を乞う。
(三月三十一日、円覚寺、春雨に閉籠められて記す。)

(´・(ェ)・`)
(おわり)