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 話は横に入ったが、植村宗光は、日露戦争が休戦の仮条約を締結したその次の日に戦死したのである。彼は予備少尉か中尉であったので、戦争に呼び出された。戦争も大分進んで居た頃なので、新参の士官など
は古参のものにいじめられたそうだ。それで馬賊の指揮の方へまわされて、正規の戦闘よりも、間道へ間道へと進んで行った。これが早く休戦の報に接する機を失した所以だ。その頃東京の自分へ送った手紙には
、「直宗光」と云う赤い大きな名刺を添えて、実戦に処した経験などを審つまびらかに云って来た。通化附近の戦に股を射貫かれて倒れ、遂に捕虜となったらしい。それから先は、どうしても分明でない。その筋
も手を尽したが、どうも通化あたりで銃殺せられたらしい。その報知が在米の宗演師の手許に来たのだ。
 もう休戦にもなったから植村も除隊で渡米して来るかも知れぬなどと、互に噂して喜んで居た矢先、宗光戦死の知らせ。その時の老師の落胆の模様は今でも目に浮ぶようだ。「死んではもう万事休す」だと云わ
れた時、自分も旧友を懐おもうて悵然ちょうぜんたらざるを得なかった。丁度夕方頃で、太平洋沿岸の一室、落莫たる大海原に対して憮然ぶぜん久之の光景、誠に気の毒であった。その後老師の洩らされた言葉に
、「こんなに死んで行くなら、あれほどにしなくても善かったのに」と云うのである。その意味は、「あれまでに強く痛棒を加えて、無慈悲と思われるほど鍛錬の力を加えなくてもよかった、可哀相なことした」
と云う心である。植村は中年で僧侶になったもの故、殊に目をかけて、我慢の角を矯め、且つ他時異日たじいじつの発展を期せんとて、痛く鉗鎚けんついを加えられたものと見える。それでこの長歎息ちょうたん
そくがあったわけだ。親が子供に対すると同じ情熱の気分が見える。宗演師は一個の禅僧として、意志強く、又世を浮雲の如く見て行く、所謂いわゆるお悟りの人のように思われもしたであろうが、その実、情の
人であった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)