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バガヴァッド・ギーター 第十八章(つづき)

「アルジュナよ、行為を全て完成するには、
五つの因があると、奥義書では説かれている。
これから、これについて、わたしの言葉を聞け。」
「行為の場である体、行為の主である自我、
器官があること、運動すること、宇宙の意思。
これら五つのものが、行為の要因であると知れ。」
「身口意において、善い行為をするにせよ。
身口意において、善からぬ行為をするにせよ。
どちらも、これら五つのものが行為の因となる。」
「それゆえ、行為するのは自分だと考えて、
この五つの要因に、考えが及ばない愚か者は、
意識の深層、宇宙の真相を見ることが出来ない。」
「自らの欲のために、行為していない者は、
たとえ、多くの人を殺し、悪い業を積んでも、
悪しきカルマの報いに、苦しめられる事がない。」
「知る事、知る物、知る者が、行為の原因。
行なう感官、行う事、行う者が、行為の条件。
これらが揃い、行為という結果が、現れて来る。」
「プラクリティである、三つのグナにより、
人々が好む知識について、三つの種類がある。
知識、行為、主体について、同じことが言える。」
「サットヴァの人が愛する、知識とは何か。
すべての存在に、真我が実在することを知り、
無数の異なる姿に、分かれたと知ることである。」
「ラジャスの人々が愛する、知識とは何か。
分かれているものは、違うものと考えるため、
実は同じものであると、見とめないことである。」
「タマスの人が愛している、知識とは何か。
部分を捉えるだけで、全体と捕えているため、
確かめることなく、盲目的に信じることである。」
「サットヴァの人が愛する、行為とは何か。
囚われることもなければ、避けることもなく、
果報を求めることなく、義務を果すことである。」
「ラジャスの人々が愛する、行為とは何か。
自我に囚われているため、欲望が大きくなり、
欲望を満たすためなら、苦労を喜ぶことである。」
「タマスの人が愛している、行為とは何か。
将来のためにならず、他人のためにもならず、
聖典を修めることなく、迷妄に陥ることである。」
「サットヴァの人が愛する、主体とは何か。
成功に囚われることなく、失敗に捕われない。
私欲を捨てているのに、熱心に行なう者である。」
「ラジャスの人々が愛する、主体とは何か。
成功に囚われているため、失敗に捕らわれる。
熱望と絶望の間を、飽きずに行き交う者である。」
「タマスの人が愛している、主体とは何か。
無智に覆われているため、分別が侭ならない。
高慢と卑屈の間を、懲りずに繰り返す者である。」
(´・(ェ)・`)
(つづく)