>>250
>真我とはそれ自体は認識できない認識の主体なのじゃ。

「それ自体は認識できない認識の主体」とは「私は在る」とか観照者と呼ばれているものですか?

鬼和尚さまが悟るとは認識を滅することだとおっしゃているのは、その「それ自体は認識できない認識の主体」が消えることですか?

だとしたら涅槃においては何も認識のようなものはないということでしょうか、あるいは別の認識があるのでしょうか

涅槃は知覚の対象にならないとか認識できないというような説明を見かけますが、認識できないものの存在が語られるのがよくわかりません

主客未分であるとき「それ自体は認識できない認識の主体」があり、主体は主客なき主体のまま在るのはわかりますが、
その先において主体と認識はどうなるのでしょうか