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パタンジャリのヨーガスートラ
第一章 
1.40 集中の修得は次第に拡大して、根源的原始から最も巨大なものにまで及ぶ。

1.41 自然の透明な水晶が傍らに置かれた物の色や形をとるように、作用が完全に衰微したヨーギーの心は、澄明・静然となって、知る者と知られるものと知との区別のない状態に達する。この瞑想の極点が、サマーディ(三昧)である。

1.42 名称と形態、及びそれらに関する知識が混入しているサマーディが、サヴィタルカ・サマーディすなわち思慮を伴うサマーディ(有尋三昧)呼ばれる。

1.43 記憶が十分に浄化されると、名称と属性の境界がなくなり、集中対象の智がひとり輝き出る。これがニルヴィタルカ・サマーディすなわち思慮を伴わないサマーディ(無尋三昧)である。

1.44 同様にして、精微な対象について修されるところの、サヴィチャーラ・サマーディ【反射を伴うサマーディ】(有伺三昧)とニルヴィチャーラ・サマーディ【超サマーディすなわち反射を伴わないサマーディ】(無伺三昧)は説明される。

1.45 精微さは集中対象として存在しなくなり、ただ定義しあたわざるものに帰着する。

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