鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 3
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上善如水
水善利萬物而不爭
處衆人之所惡
故幾於道
居善地
心善淵
與善仁
言善信
正善治
事善能
動善時
夫唯不爭
故無尤
老子
ググってみたら、こんなのもあったであります。
(´・(ェ)・`)つ >>104
上善(じょうぜん)は水の若(ごと)し。
水は善(よ)く万物を利して而(しか)も争わず、
衆人(しゅうじん)の悪(にく)む所に処(お)る。
故(ゆえ)に道に幾(ちか)し。
居(きょ)には地が善く、
心には淵(えん)が善く、
与(まじわり)には仁が善く、
言には信が善く、
正(政)には治が善く、
事には能が善く、
動には時が善し。
それ唯(た)だ争わず、
故に尤(とが)め無し。 >>101 そうじゃ、信仰があれば不可能なことも可能にできるのじゃ。
科学が信じられている今では難しいことであるがのう。
水は争わず、低いところに向かうので在るから道に近いものであるるというのじゃ。
道とはタオというのじゃ。
全ての根源であり、インドで言うアートマンみたいなものじゃ。 >>106
自作自演して楽しいかい?
道(タオ)は、アートマンとブラフマンを個別に比較すれば、ブラフマンの方が概念として近しいね。
また、馬鹿を露呈したね。 >>106
> 信仰があれば不可能なことも可能にできるのじゃ。
やっぱり、しゅうきょう=信仰は必要でありますか?
くまは、宗教としてではなく、ブッタや、マハラジノ教えをちょぴっとづつでも日々心にとどめて行きたいと思ってるのであります。
老子もよいでありますね。
(´・(ェ)・`)つ > 信仰があれば不可能なことも可能にできるのじゃ。
それはカルト。
「不可能」と「不可能に思われる事」は別だから。
信仰は「不可能に思われる事」の可能性を押し上げてくれる「可能性」があるに過ぎない。 >>858
馬鹿鬼のお仕置きの一例ねw
てか、間違いを指摘してるだけなんだけどw
必死過ぎw
106 名前:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2018/07/26(木) 22:10:27.85 ID:CucKlNOM
>>101そうじゃ、信仰があれば不可能なことも可能にできるのじゃ。
道とはタオというのじゃ。
全ての根源であり、インドで言うアートマンみたいなものじゃ。
↓
107 名前:名無しを整える。 [sage] :2018/07/26(木) 22:42:16.76 ID:UUCL0C16
>>106
自作自演して楽しいかい?
道(タオ)は、アートマンとブラフマンを個別に比較すれば、ブラフマンの方が概念として近しいね。
109 名前:名無しを整える。 :2018/07/26(木) 23:10:04.66 ID:UUCL0C16
> 信仰があれば不可能なことも可能にできるのじゃ。
それはカルト。
「不可能」と「不可能に思われる事」は別だから。
信仰は「不可能に思われる事」の可能性を押し上げてくれる「可能性」があるに過ぎない。 八尾市で一戸建て不動産物件をお探しなら【浪速建設株式会社】にお任せください。三重 評判 アパマンショップ八尾店
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スキン常路のやり方が大嫌い gm >>99
パタンジャリのヨーガスートラ
第一章
1.27 イーシュヴァラを言葉で表したものが、神秘音オームである。【オームは神の名であると同時に形である】
1.28 意味を熟慮しつつ、それを反復誦唱するがよい。
1.29 これを修することにより、すべての障害が消え、同時に内なる自己の智が開け初める。
1.30 病気、無気力、猜疑、散漫、怠惰、好色、盲見、不動の境地に至り得ない状態、獲得した地歩からの滑落−これらの心の散動が、その障害である。
1.31 心の散動に随伴して起きるものに、苦悩、失意、身体の震え、乱れた呼吸がある。
1.32 ひとつの対象に集中して修練を行なう【あるいは、ひとつの技術を用いる】ことが、障害とその付随物を防ぐ最良の方法である。
(´・(ェ)・`)つ >>108 修業を続けるためには信仰も必要になる事が在るじゃろう。
本当に悟れるのかとか、修業に疑いが出た時に信じることによって乗り越えられるのじゃ。
マントラも集中するための道具なのじゃ。
それ自体には何の力も無いものじゃ。
信じて実践することで力も発揮できるのじゃ。 >>113
くまは、お寺さんに行くと、般若心経や十三仏真言をとなえたりするであります。
神社へ行くと、その作法でお詣りするであります。
けど、神頼みはしないであります。
いつか、何かにすがり付きたいような事態にたちいたったら、やっぱりブッタを信仰するでありましょう。仏教ではなく。
(´・(ェ)・`)つ >>106
自作自演して楽しいかい?
道(タオ)は、アートマンとブラフマンを個別に比較すれば、ブラフマンの方が概念として近しいね。
また、馬鹿を露呈したね。 >>112
パタンジャリのヨーガスートラ
第一章
1.33 他の幸福を喜び(慈)不幸を憐れみ(悲)他の有徳を欣び(喜)不徳を捨てる(捨)態度を培うことによって、心は乱れなき静澄を保つ。
1.34 あるいはその静澄は、息の制御された排出、または保留によって保たれる。
1.35 あるいは微妙な感覚的知覚に対する集中が、心の不動をもたらす。
1.36 あるいは永遠の至福に満ちた、内なる無上の光に集中することによって。
1.37 あるいは感覚対象への執着を離れた聖者の心に集中することによって。
1.38 あるいは夢や深い眠りの中で得られる体験に集中することによって。
1.39 あるいは何でも心を高揚させるようなものを選び、それに瞑想することによって。
(´・(ェ)・`)つ 独身で母親と二人暮らしの中年おじさんが、クマのaaですか? >>114 仏陀を信仰するとよいのじゃ。
信仰によって疑いを乗り越えるのじゃ。
対象はどんなものでも集中することでサマーディも訪れるのじゃ。
対象はサマーディの成就と関係ないのじゃ。
集中力が大事なのじゃ。 >>116
パタンジャリのヨーガスートラ
第一章
1.40 集中の修得は次第に拡大して、根源的原始から最も巨大なものにまで及ぶ。
1.41 自然の透明な水晶が傍らに置かれた物の色や形をとるように、作用が完全に衰微したヨーギーの心は、澄明・静然となって、知る者と知られるものと知との区別のない状態に達する。この瞑想の極点が、サマーディ(三昧)である。
1.42 名称と形態、及びそれらに関する知識が混入しているサマーディが、サヴィタルカ・サマーディすなわち思慮を伴うサマーディ(有尋三昧)呼ばれる。
1.43 記憶が十分に浄化されると、名称と属性の境界がなくなり、集中対象の智がひとり輝き出る。これがニルヴィタルカ・サマーディすなわち思慮を伴わないサマーディ(無尋三昧)である。
1.44 同様にして、精微な対象について修されるところの、サヴィチャーラ・サマーディ【反射を伴うサマーディ】(有伺三昧)とニルヴィチャーラ・サマーディ【超サマーディすなわち反射を伴わないサマーディ】(無伺三昧)は説明される。
1.45 精微さは集中対象として存在しなくなり、ただ定義しあたわざるものに帰着する。
(´・(ェ)・`)つ サマーディが深くなっていくと集中の対象もなくなっていくのじゃ。
対象があるうちはまだ観念による分別があるのであるからのう。
神に集中した者が神を超えられない状態ではこのような対象のないサマーディには辿りつけないのじゃ。
神を超えてこそ対象の無いサマーディにも到達できるのじゃ。 独身で母親と二人暮らしの中年おじさんが、
クマのaaですか?
www >>119
パタンジャリのヨーガスートラ
第一章
1.46 以上がサビージャ・サマーディ【有種子三昧】であり、そこにはまだ修行者を束縛や心的動揺に引き戻す可能性が残っている。
1.47 ニルヴィチャーラ・サマーディが純粋となったとき、至高の自己は輝く。
1.48 これがリタムバラー・プラジュニャー、すなわち絶対的な真理意識である。
1.49 この特殊な真理認識は、聞いたり、聖典から学んだり、推理したりして得られる知とは完全に異なっている。
1.50 このサマーディによって生ずる印象(サンスカーラ:行)は、他の全ての印象を消す。
1.51 この印象さえも拭い去られるとき、あらゆる印象が完全に消滅して、そこにはニルビージャ・サマーディ【無種子三昧】がある。
(´・(ェ)・`)つ ネットで覚者を名乗って説法とかwww
僧侶が行うならまだしも得度もしていないのに「鬼和尚」だ?
勿論、そんな茶番を信じる人はごく僅かだけど、「和尚」の名称に騙されて信じてしまった人もいるんじゃないの? しかも、もともと仏教の基礎知識も体験もろくに無いようだしw
仏教板には現役やリタイヤ僧侶もいれば、在家の見性体験者や研究機関勤務者とかいて、結局そこでは紛い物扱いされて相手にされていないしね。
自作自演・自問自答・自画自賛をしても、所詮は同一人物の猿芝居だから、一寸突っ込むとすぐ化けの皮がはがれるんだよねwww 最初の段階では意志によって強く対象に集中することでサマーディに達するのじゃ。
それから対象を無くし、サマーディに意志することなく入れるようになるのじゃ。
無意識のサマーディに入れるのじゃ。
そうすることで一切の観念を超えた境地に到達するのじゃ。
それには知識や思考ではなく日々の実践だけが必要なのじゃ。 >>125
サマディーはくまには難しそうなので、「くまとは誰か」、「私はある」方式=できるだけ常に意識的であり続けるように心掛けてるであります。
感情や思考にできるだけ気付けるように心掛けて、日常を過ごすようにしてるであります。
仕事その他で時々強い感情に苦しむことがあっても、その苦しみの物語に無意識に巻き込まれることのないようにしつつ、感じていることをありのままに観察していれば、いつもよりちょぴっと時間がかかっても、消えて行くであります。
(´・(ェ)・`)つ 独身で母親と二人暮らしの中年おじさんが、
クマのaaですか?
自作自演ご苦労様w
親孝行しろよ?
www >>122
パタンジャリのヨーガスートラ
第二章
2.1 浄化を助けるものとして苦痛を受け入れること、霊的な書物を研究すること、至高の存在に身を委ねることが、実行のヨーガである。
2.2 それらは、障害(煩悩)を最小にして、サマーディを達成させる。
2.3 無知、我想、執着、憎悪、生命欲が、五つの障害(煩悩)である。
2.4 無知(無明)は、それに続く他の諸障害 −それらは、(1)休眠状態であったり、(2)弱体化していたり、(3)遮断されていたり、(4)維持されていたりするが− の田地である。
2.5 無知(無明)とは、無常を常、不浄を浄、苦を楽、自己ならざるものを自己とみなすものである。
2.6 我想(アスミター)とは、いわば見る者【プルシャ】の力と、見る器官【身心】の力との同一視である。
2.7 執着(ラーガ)とは、快楽体験との同一視から来るものである。
2.8 憎悪(ドゥヴェーシャ)とは、苦体験との同一視から来るものである。
(´・(ェ)・`)つ >>128
2.6 我想、ば見る者の力と、見る器官の力との同一視 とは、どういうことでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ (鬼和尚)
>本当にそのような者が居ればわしにひれ伏して教えを求めるじゃろう。
いくらネットでもこうした事を言うのは教祖症候群(?)というか、明らかなキチガイですね。
精神がまともじゃありません。 >>126 サマーディの方法は才能が在るものにしかできないじゃろう。
普通のサマーディでも難しいのに無種子三昧にまで行き着くのはかなり才能の在るものだけなのじゃ。
>>129 見るという能力によって、見る器官が主体と思うことなのじゃ。
その働きによって自分が在るという認識も起こってしまうのじゃ。 >>131
独身で母親と二人暮らしの中年おじさんが、
クマのaaですか?
自作自演ご苦労様w
親孝行しろよ?
www >>131
鬼和尚、ありがとうであります。
>見るという能力によって、見る器官が主体と思うこと ・・・ その働きによって自分が在るという認識も起こってしまう
↑これならくまでも分かるであります!
いつもありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ 132 名前:名無しを整える。 [sage] :2018/07/31(火) 21:53:19.50 ID:+h+C7Iq9
>>131
独身で母親と二人暮らしの中年おじさんが、
クマのaaですか?
自作自演ご苦労様w
親孝行しろよ?
www 130 名前:名無しを整える。 :2018/07/31(火) 21:37:32.73 ID:+0/pOuvW
(鬼和尚)
>本当にそのような者が居ればわしにひれ伏して教えを求めるじゃろう。
いくらネットでもこうした事を言うのは教祖症候群(?)というか、明らかなキチガイですね。
精神がまともじゃありません。 自作自演して解説書から原文を引用して、
自問自答して解説書から解説を引用して、
最後に自画自賛。
www OSHO
魂の科学―パタンジャリのヨーガ・スートラ
wwwwwwwwwww ついに仏教は諦めて不二一元論のヒンズー教に鞍替えか?
www >>128
パタンジャリのヨーガスートラ
第二章
2.9 生命欲(アビニヴェーシャ)は、【過去の経験から来る】独特の潜勢力から発し、賢人にさえもある。
2.10 これらの障害(煩悩)が微妙な状態にあるときは、始源の原因【=自我】に還元するところによって破壊することができる。
2.11 それらが活動の状態にあれば、瞑想によって破壊することができる。
2.12 カルマ【行為とその反作用】(業)の子宮の根は、これらの障害の中にあり、そうしたカルマが、見える生【現世】及び見えざる生【来世】における諸経験を引き起こす。
2.13 根因が存在する限り、その結実すなわち、様々な生類への再生と寿命と経験とがある。
2.14 カルマは、善業に起因するものは楽、悪業に起因するものは苦として結実(業報)する。
2.15 得たものを失うことへの恐怖と懸念、結果として心の中に残り新たな切望をひき起こす印象、心を支配する三グナの絶えざる相克、これらに鑑みるとき、識別ある者にとっては実にあらゆるものが苦である。
(´・(ェ)・`)つ >>133 どういたしまして、またおいでなさい。
無明による個我の観念があれば今の世が有り、生まれかわることも在るものじゃ。
それは刹那の安楽と苦があるが、安楽も執着すれば苦になるのじゃ。
それ故に一切は苦であるとパタンジャリも説いているのじゃ。 自作自演して解説書から原文を引用して、
自問自答して解説書から解説を引用して、
最後に自画自賛。
www >>140
うむ。
永遠無限であれば、無限の可能性があり、人やくまが想像できることは既にあり、輪廻も当然でありますね。
永遠に苦しまなくても良いように生きたいし、死ねたらいいなと思うであります。
(´・(ェ)・`)つ >>139
パタンジャリのヨーガスートラ
第二章
2.16 未来の苦は回避することができる。
2.17 その避け得る苦の原因は、見る者【プルシャ】と見られるもの【プラクリティ:自然】の結合である。
2.18 見られるものは、照明(プラカーシャ)・活動(クリヤー)・惰性(スティッティー)というグナの三つの性向を備え、元素(五大)と感覚器官から成っているが、その目的とするところは、プルシャに経験と開放(解脱)を与えることである。
2.19 グナの段階には、特殊のもの、特殊でないもの、定義されるもの、定義され得ないものの四つがある。
2.20 見る者とは見る力そのものであり、それ自体は純粋だが、心を通じて見るという現れ方をする。
2.21 見られるものは、見る者のためにのみ存在する。
(´・(ェ)・`)つ >>144
> >>139
> パタンジャリのヨーガスートラ
> 第二章
> 2.16 未来の苦は回避することができる。
>
> 2.17 その避け得る苦の原因は、見る者【プルシャ】と見られるもの【プラクリティ:自然】の結合である。
>
>
> 2.19 グナの段階には、特殊のもの、特殊でないもの、定義されるもの、定義され得ないものの四つがある。
>
> 2.20 見る者とは見る力そのものであり、それ自体は純粋だが、心を通じて見るという現れ方をする。
>
> 2.21 見られるものは、見る者のためにのみ存在する。
> うー、難解な専門用語がでてきてしまったづあります。、
『「プルシャ」とは、目には見えない世界のこと(=空・無)。
「プラクリティ」とは、目に見える世界のこと(=色・有)。
目に見えないブラフマン=神も、プルシャ。
プルシャは、人間には見えないけれども、確実にあるもの。
自然の法則、真理、「なぜ?」という疑問を挟めないもの。
「プラクリティ」は、私たちが生活している、物質世界全てがプラクリティ。
肉体、ありとあらゆる物質は、全てプラクリティで
例えそれが微細で、肉眼では見られないものだったとしても、「物質」であるものは、全てプラクリティ』。
2.18を解説していたたけないでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ 自作自演して解説書から原文を引用して、
自問自答して解説書から解説を引用して、
最後に自画自賛。
www >>146
自作自演してるという根拠は?
自問自答してるという根拠は?
自画自賛してるという根拠は? >>147
鬼和尚に聞いて真偽を確かめりゃいいじゃないですかw >>148
いや、それを言ってるのは君でしょ。
だから君に聞いてるの。 >>149
自作自演して解説書から原文を引用して、
自問自答して解説書から解説を引用して、
最後に自画自賛。
これのなにが気になるんですか?
www >>151
だから、鬼和尚に聞いて真偽を確かめりゃいいじゃないですかw 普通、グナの三つの性質とはサットヴァ、ラジャス、タマスと呼ばれるものじゃ。
日本語訳の意味はあっているようじゃ。
物質的存在はプルシャが目覚めるためのものとしているのじゃ。
その教義そのものが全て目覚めるためのものであるがのう。
物質的存在が全て観察され、自他の区別がなくなれば悟りとしているのじゃ。 >>152
意思疎通ができないようだし、質問にも答えられないんだね。
君の発言が妄想で、考慮に値しないということがわかったよ。 >>154
意思疎通ができないようだし、君の発言が妄想で、考慮に値しないということがわかったよ。 >>153
鬼和尚、ありがとうであります。
見る者、見られるものと言う言葉が日常の用法と異なる意味で使われており、見る者とは、意識そのものみたいな意味で、見られる者とは、物質世界のことで、その外界を観察しつくせば、
意識そのものである「見る者」に、気づけといった理解で良いのでありましょうか?
くま書き込みを間違えてしまったのでありますが、くまが先に質問しようとしたのは、
2.18 見られるものは、照明(プラカーシャ)・活動(クリヤー)・惰性(スティッティー)というグナの三つの性向を備え、元素(五大)と感覚器官から成っているが、その目的とするところは、プルシャに経験と開放(解脱)を与えることである。
の中で、照明[プラカーシャ]=認識のこと
というのはググれたのでありますが、
活動(クリヤー)・惰性(スティッティー)というグナ が分からず、
2.18 の文章全体の意味合いがわからなかったので、お尋ねしたかったのでありますが、 これも、認識、活動、感情といった、身体=物質世界の経験を観察して、厭離することにより、意識そのものに至ると言う理解で良さそうでありますね。
(´・(ェ)・`)つ 自作自演して解説書から原文を引用して、
自問自答して解説書から解説を引用して、
最後に自画自賛。
www >>144
パタンジャリのヨーガスートラ
第二章
2.22 それ(見られるもの)は解脱した者にとっては破壊されているが、他の者にとっては共有財として存在し続けている。
2.23 所有する者(プルシャ)と所有されるもの(プラクリティ)の結合が、それら両者が各自の本性と力(シャクティ)を把握する原因である。
2.24 この結合の原因は無知(無明)である。
2.25 この無知がなければ、そのような結合も起こらない。それが見る者の独存位である。
2.26 途切れることのない明敏な識別が、その除去の方法である。
2.27 最終段階の智は、七重である。(人は(1)もっと知りたいという願望、(2)何かを遠ざけておきたいという願望、(3)何かを得たいという願望、(4)何かをしたいという願望、(5)悲しみ、(6)恐れ、(7)惑わし、の七つが終息するのを体験する)
(´・(ェ)・`)つ グナの三つの性質であるサットヴァ、ラジャス、タマスと言葉は違うが性質の翻訳は同じなのじゃ。
サットヴァとは気づくこと、認識することなのじゃ。
ラジャスとは活動なのじゃ。
タマスとは惰性なのじゃ。
ラジャス、タマスで検索するとよいのじゃ。
大体の意味はそれでよいのじゃ。 自作自演して解説書から原文を引用して、
自問自答して解説書から解説を引用して、
最後に自画自賛。
www >>158
パタンジャリのヨーガスートラ
第二章
2.28 ヨーガの諸支分を修練していくことによって次第に不純が消え、そこに明敏なる識別へと導く智が明け初める。
2.29 以下がヨーガの八支分である。【禁戒】【勧戒】【座法】【調気】【制感】【集中】【瞑想】【三昧】
2.30 ヤマ(禁戒)は、非暴力(アヒンサー)、正直(サティヤ)、不盗(アステヤ)、禁欲(ブラフマチャーリヤ)、不貪(アパリグラハ)より成る。
2.31 これらの大誓戒は普遍的なものであり、階層、場所、時間、環境等によって制約されない。
2.32 ニヤマ(勧戒)は、清浄(シャウチャー)、知足(サントーシャ)、苦行(タパス:苦痛を受容し、それをひき起こさないこと)、読誦(スヴァディアーヤ:霊的書物の研究)、
自在神への祈念(イシューヴァラ・プラニダーナ:自己放棄)より成る。
2.33 否定的想念によって攪乱されたときは、反対のもの(肯定的想念)が念想されるべきである。それがプラティパクシャ・バーヴァナである。
2.34 暴力等のような否定的想念または行為がひき起こされたとき、あるいはたとえそれらが容認されただけであっても、
そしてそれらが貪欲、怒り、迷妄(貪・瞋・痴:とん・じん・ち)のいずれによって煽られたものであっても、またそれらが穏和、中位、過激のいずれの度合いによってなされようとも、
それらは無知に根ざしており、確かな苦をもたらすものである。このように省察することも、プラティパクシャ・バーヴァナである。
2.35 非暴力(アヒンサー)に徹した者のそばでは、すべての敵対が止む。
(´・(ェ)・`)つ ヤマ(禁戒)はしてはいけないことなのじゃ。
ニヤマ(勧戒)はすべきことなのじゃ。
してはいけないことをしり、すべきことを知って実践するのが修行者なのじゃ。 >>161
パタンジャリのヨーガスートラ
第二章
2.36 正直(サティヤ)に徹した者には、行為とその結果がつき従う。
2.37 不盗(アステヤ)に徹した者のところには、あらゆる富が集まる。
2.38 禁欲(ブラフマチャーリヤ)に徹する者は、精力を得る。
2.39 不貪(アパリグラハ)が揺るぎないものとなったとき、自らの生の原因と様態が余すところなく照らし出される。
2.40 浄化によって、自分自身の身体への厭わしさ、他人の身体に触れることへの厭わしさが生ずる。
(´・(ェ)・`)つ 戒の効果が説かれているのじゃ。
それがそのまま現実になるのではないのじゃ。
督励の為に説かれているのじゃ。 >>163
パタンジャリのヨーガスートラ
第二章
2.41 さらに、サットヴァの浄化、心の愉悦、一点集中、自己実現への適合性を得る。
2.42 知足(サントーシャ)によって、無上の喜びが得られる。
2.43 苦行(タパス)によって、身体と感覚の不浄が消え、超自然力が得られる。
2.44 読誦(スヴァディアーヤ:霊的書物の研究)によって、自らの望む神霊との霊交が得られる。
2.45 神に全てを任せることによって、サマーディは達成される。
(´・(ェ)・`)つ ここでも神への帰依によるサマーディが説かれているのじゃ。
本当に心の底から信仰している神がなければ無理で在るがのう。
信仰の薄れた現代では難しいじゃろう。 ついに仏教は諦めて不二一元論のヒンズー教に鞍替えか?
www >>168
いちいちいい加減な事を言っては絡んで来て、捨て台詞を吐いて消える。
困ったもんですね。 >>166
パタンジャリのヨーガスートラ
第二章
2.46 アーサナ(座法)は、快適で安定したものでなければならない。
2.47 自然な性向である落ち着きのなさを減じ、無限なるものに瞑想することによって、座位(アーサナ)は習得される。
2.48 以後その者は、二元性によって乱されることがない。
2.49 安定した座位(アーサナ)が得られたならば、呼気と吸気が制御されなければならない。これがプラーナーヤーマ(調気)である。
2.50 気息のはたらき(ヴリッティ)は、内部的、外部的、制止的のいずれかである。それらは時間と空間と数によって規定され、長、短のいずれかである。
(´・(ェ)・`)つ 座方と呼吸法が説かれているのじゃ。
背筋を伸ばして正しく座ることが出来ればそれだけでもサマーディは達成されるのじゃ。
それが習得されればもはや迷妄に陥ることもないのじゃ。
鬼和尚、サマーディは1〜2か月しか続きません。
サマーディの最初に必ずサティがあります。
そのサティの方が大事です。
>それが習得されればもはや迷妄に陥ることもないのじゃ。
私は2回サマーディを経験しましたが、そういうことはありませんでしたよ。
>>170
パタンジャリのヨーガスートラ
第二章
2.51 プラーナーヤーマ(調気)には、内的あるいは外的な対象に集中しているときに起こる、第四の型がある。
2.52 その結果、内なる光を覆い隠していたヴェールが破壊される。
2.53 そして、心がダーラナー(集中)への適正を得る。
2.54 諸感覚がその対象から自らを撤退させ、いわば心そのものを模倣するとき、それがプラティヤーハラ(制感)である。
2.55 それにより、感覚に対する無上の統御が得られる。
(´・(ェ)・`)つ >>173
>2.54いわば心そのものを模倣するとき、それがプラティヤーハラ(制感)
←心そのものとは、静まった状態、無みたいなことでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ >>172 それはまだ座方が習得できていないからなのじゃ。
座方が習得できれば座るたびにサマーディに入れるのじゃ。
そうすればもはやあれこれと迷う事無く進むこともできるのじゃ。
自らの身が聖典が正しいことの証となるのであるからのう。
>>174 そうじゃろう。
感覚が心を離れて自らありのままに至った時、無に等しくなるのじゃ。
眼で見ても耳で聞いても自我は起こらないのじゃ。
それが真の制感なのじゃ。 >>173
パタンジャリのヨーガスートラ
第三章
3.1 集中とは、心をひとつの場所、対象、あるいは観念に縛り付けておくことである。
3.2 瞑想(ディアーナ)とは、そうした対象への認識作用の絶え間ない流れである。
3.3 三昧(サマーディ)とは、この瞑想(ディアーナ)そのものが形を失ったかのようになり、その対象がひとり輝くときのことである。
3.4 同一の対象についてこれらの三者【集中(ダーラナー)、瞑想(ディアーナ)、三昧(サマーディ)】をなすことが、サンヤマ(綜制)と呼ばれる。
3.5 サンヤマ(綜制)の終了によって、知の光が生まれる。
3.6 サンヤマは段階的になされるべきである。
3.7 これらの三支(集中、瞑想、三昧)は、それ以前の五支(禁戒、勧戒、座法、調気、制感)よりも内的である。
3.8 これらの三支さえも、無種子三昧(ニルビージャ・サマーディ)にとっては外的である。
(´・(ェ)・`)つ 集中の三段階が説かれているのじゃ。
最初は対象に心を留めるだけで精一杯じゃろう。
それがダーラナーなのじゃ。
それから意識せずとも対象に集中しているディヤーナに至るのじゃ。
それでもまだ対象と自己が在るのじゃ。
自己が対象に統一されて一つになった感覚がサマーディなのじゃ。
サマーディまで到達するのはなかなか難しいものじゃ。
観察を行えばディヤーナだけでも悟りは訪れるのじゃ。 >>176
パタンジャリのヨーガスートラ
第三章
3.9 生起してくる印象(サンスカーラ:雑念)は、それに代わる新たな心の作用を生むところの抑止の努力の出現によって止滅される。この、新たな作用と心との結合の刹那が、ニローダ・パリナーマ(止滅転変)である。
3.10 ニローダ・パリナーマの持続状態は、習慣づけによって確実となる。
3.11【心】の散動が滅衰して一点集中が実現してくると、サマーディ・パリナーマ(サマーディへの進展:三昧転変)が現れる。
3.12 また、過去となってひいていく想念と、今まさに生起しつつある想念が等似であるならば、それがエーカーグラター・パリナーマ(一点集中:専念転変)である。
3.13 これ(以上の三つのスートラ)によって、物質元素と感官に関する、可視的特性と時間的位相と状態の転変も説明された。
3.14 本性的に、潜伏、生起、非顕現の諸相を経ていくのは、根底体(プラクリティ)である。
3.15 それらの諸相の連続が、進化(転変)に諸段階の存在する理由である。
3.16 進化のその三段階にサンヤマ(綜制)を施すことによって、過去と未来についての知が生まれる。
(´・(ェ)・`)つ 集中によって雑念が無くなるのがニローダ・パリナーマじゃ。
更に深く集中して対象と一体になるとサマーディに入るのじゃ。
想念の自己同一化が止まり、刹那に生滅する想念が一時に見られるのがエーカーグラター・パリナーマなのじゃ。
それができれば気づきが自在にあり、心の働きの全てを観ることも容易なのじゃ。 >>178
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第三章
17 通常は、語と、その意味と、その語の表象内容とを混同するために混乱が生ずる。いかなる生類により発された語(あるいは音)でも、それにサンヤマを施すことによって、その意味を知ることができる。
18 サンヤマによって自らの心的印象(サンスカーラ)を直感することにより、前生についての知識が得られる。
19 他人の身体の区別的特長にサンヤマを施すことによって、その人の想念を知ることができる。
20 だがそれは、その人の心の中でその想念を支えているもの(例えばその思いの背後にある動機等)にまでは及ばない。それはそのサンヤマの対象とはならないからである。
21 自らの身体の形態にサンヤマを施すと、観察者の眼の光を遮ることによって知覚の力に干渉し、身体を見えなくすることができる。
22 同様にして、音その他(触、味、香)の消失も説明される。
23 カルマには、速やかに発現するものと徐々に発現するものとの二種類がある。それらあるいは死の前兆にサンヤマを施すことによって、死期を知ることができる。
(´・(ェ)・`)つ 集中することで得られるさまざまな力について語っているのじゃ。
そのまま信じられるものではないが在る程度は正しいのじゃ。
集中力が強くなれば不可能も可能になるのじゃ。
それを目当てに修業する者も居るのじゃ。 >>180
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第三章
24 慈その他の徳性にサンヤマを施すことによって、それらを発する力を得る。
25 象その他の動物の力にサンヤマを施すことによって、それらの力を得ることができる。
26 内なる光へのサンヤマによって、微細なもの、秘匿されたもの、遠方のものを知ることができる。(例えば原子のように微細なもの、隠された財宝、遠隔の地など)
27 太陽にサンヤマを施すことによって、太陽系全体を知ることができる。
28 月にサンヤマを施すことによって、星の配置を知ることができる。
29 北極星にサンヤマを施すことによって、星の運行を知ることができる。
30 臍の神経叢(チャクラ)にサンヤマを施すことによって、身体の構造を知ることができる。
(´・(ェ)・`)つ >>181
うむうむ。
ある程度であるますね!
(´・(ェ)・`)つ ↑ そうじゃ、実際に集中することでその対象に関して詳しく知ることもできるものじゃ。
かなり真実が語られているのじゃ。
実践によって確かめられるのじゃ。 >>182
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第三章
31 喉の窪みにサンヤマを施すことによって、飢えと渇きが止まる。
32 クールマ・ナーディ(喉の下方にある亀の形をした微細な管)サンヤマを施すことによって、瞑想の座位の不動性が達成される。
33 脳天の光(サハスラーラ・チャクラ)サンヤマを施すことによって、神人(シッダ)たちを見ることができる。
34 また、(純粋な生活を通じて)自然に発露する知(プラティバー)の中で、全ての力はおのずから現れる。
35 心臓にサンヤマを施すことによって、心(チッタ)を知ることができる。
36 知性(サットヴァ:覚)とプルシャ(あるいはアートマン)とはまったく別のものであり、知性がプルシャのために存在するのに対して、プルシャはそれ自身のために存在する。
これを峻別しないところに経験の全てがあるのであって、この区別にサンヤマを行なうことによって、プルシャの知があらわれる。
37 この知(プラティバー)より、任意の直感による超自然的聴覚・触覚・視覚・味覚・嗅覚が生ずる。
(´・(ェ)・`)つ >>184
うむ。超難しそうでありますが、実践で確かめるしかないでありますね。
集中の対象のアートマンみたいな物でありますかね。
(´・(ェ)・`)つ ↑そのようなものじゃ。
集中によって智慧と力は発現するのじゃ。
それを正しく自らの本心の観察に使うべきなのじゃ。 >>185
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第三章
38 これら(超自然的感覚)は、(ニルビージャ)サマーディにとっては障害であるが、世俗的追及にあってはシッディ(力、霊能)である。
39 (心を身体に縛り付けている)原因を緩めることによって、また、心の働きの筋道を知ることによって、他人の身体に侵入することができる。
40 ウダーナ気(上向きの生命エネルギー)を支配することによって、水、沼沢、刺などの上に浮揚することができる。
41 サマーナ気(均等化のエネルギー)を支配することによって、身体が光輝に包まれる。
42 耳と虚空(エーテル)との関係にサンヤマを施すことによって、超常的な聴覚が得られる。
43 身体と虚空との関係にサンヤマを施すことによって、綿の繊維のように軽くなり、隠して虚空を飛ぶことができる。
44 TAH PRAKASAVARANA KSHAYAH.
身体の外にあって(身体によっては)確認されない想念派動に対してサンヤマを施すこと(マハー・ヴィデハすなわち大脱身)によって、自己の光を覆う緬紗が破壊される。
(´・(ェ)・`)つ それらの力に囚われればサマーディに至る障害になるのじゃ。
世間で金や名声を得て修業をやめてしまうからのう。
欲に負けずに修業を続けるのじゃ。
力にも囚われずに進むのじゃ。 >>188
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第三章
45 粗大及び微細な元素、それらの本質、相関性、合目的性にサンヤマを施すことによって、それらの元素に対する支配が得られる。
46 それにより、アニマその他のシッディがもたらされ、身体の完成が遂げられて、その機能が諸元素の影響による妨げを受けなくなる。
47 端麗、優雅、強靭、金剛石のごとき堅固さが、身体の完成である。
48 諸感覚の把握作用、それらの本質、それらの目的と我想との関係等にサンヤマを施すことによって、諸感覚に対する支配がえられる。
49 それより身体は、心と同じ速さで動く力、感覚の補助なしに機能する力、そして根本原因(プラクリティ)に対する完全な支配を得る。
50 サットヴァ(純粋な反映性)と自己との差異を認識することによって、存在のあらるる様態に対する至上位(全能)−それは全知である−を得る。
51 それ(=これら全てのシッディ)に対してさえ無執着であることにより、束縛の種子が破壊され、かくしてカイヴァリャ(独存)の状態が顕現する。
(´・(ェ)・`)つ 修業の途中に現れる全ての体験に囚われなければ悟りも訪れるのじゃ。
囚われてしまえばそこで止まってしまうのじゃ。
囚われることが魔と呼ばれるのじゃ。
魔に何かの力があるわけではないのじゃ。
囚われる心が魔を呼ぶのじゃ。 >>190
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第三章
52 ヨーギーは、天人からの賞賛といえどもこれを受容するべきではなく、慢心の笑みさえ浮かべるべきではない。ふたたび望ましくないものに補足される恐れがあるからである。
53 連続する刹那のまさしくひとつにサンヤマを施すことによって、識別知が現れる。
54 かくして、種類、特徴、位置などが酷似しているために見分けのつかないものが、識別されるようになる。
55 全ての対象のあらゆる在り方を同時的に理解するその識別知が、解脱をもたらすところの直感知である。
56 静穏な心(サットヴァ)の清浄さが、自己のそれと等しくなるに至ったとき、そこにカイヴァリャ(絶対、独存位)がある。
(´・(ェ)・`)つ 体験にも囚われずに修業を続けていれば今まで見えなかったものも観えるようになるのじゃ。
それも集中力が強くなったためなのじゃ。
悟りを得るための観察力も身につくのじゃ。
その観察力が主体であった観念をも見抜く力となるのじゃ。 >>192
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第四章
1 シッディは、前生においてなされた修行、あるいは薬草、あるいはマントラ、あるいは苦行(タパス)、あるいはサマーディにおいてもたらされる。
2 ひとつの生類から他の生類への転変は、自然(プラクリティ)の流入によってひき起こされる。
3 付帯的事象は、直接には自然の進化をひき起こすものではない。それらは、農夫のように(農夫が自分の田に水を引き入れるために、水路を塞いでいる物を取り除くように)、障害物を取り除くだけである。
4 ヨーギーの我想(アスミター)のみが(人為に)発現する(その他の)心の原因である。
5 発現した多くの心の働きはさまざまだが、大元であるヨーギーの心は、それら全てに対する命令者である。
(´・(ェ)・`)つ ヨーギーの心がプラクリティの充実を果たした時、アバターを表すことができるというのじゃ。
業という付帯的な事象ではなく、ヨーギーの心が因としてアバターは成せるのじゃ。
それらは一つ一つ自らの心を備えているがヨーギーの心がその絶対的な命令者であるのじゃ。
>>194
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第四章
6 (そのようにして発現した心のうち)瞑想から生じたものだけが、カルマの刻印を免れている。
7 ヨーギーのカルマは白(善)くも黒(悪)くもない。しかし他の者の行為には、善と悪、そしてそれらの交じり合ったものの三種類がある。
8 これらの(行為)のうち、結実(業報)のための好条件がそろったヴァーサナー(潜在記憶)(習気:じっけ)だけが、特定の生において発現する。
9 欲望とその成就は、類・空間・時間によって隔てられているが、それらには連続性がある。(欲望の)印象と(欲望の)記憶とは、同一だからである。
10 生命欲は永遠であるので、印象もまた無始である。
(´・(ェ)・`) >>195
他の生類への転変=アバターを成す
でありますか?
これは、輪廻的な意味ではなく、凡夫が悟るみたいなことでありましょうか?
生命の進化には、意思が必要みたいなことでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、アバターを成すのじゃ。
輪廻ではなくヨーギーの能力によるものなのじゃ。
夢幻の如く生命を作り出す能力なのじゃ。
仏教では変化身と呼ばれたりするのじゃ。 >>196
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第四章
11 印象は、原因・結果・基板・支持によって成立しているので、それら四者の消滅に伴い、これら(=印象)も消える。
12 過去と未来は、位相差のゆえにそのような特性をもって現出しているところの、事象そのものの内にある。
13 顕現の状態であれ精妙な状態であれ、それらの特性はグナ性のものである。
14 事象の自己同一性は、グナの転変の一律性に基づく。
15 客体は同一であっても、それを受け止める心がさまざまであるから、認識はさまざまに異なるのである。
(´・(ェ)・`)つ グナとはサットヴァ、ラジャス、タマスの三つの心の性質なのじゃ。
客体が同一でも認識が異なるのはその性質の優位に違いがあるからというのじゃ。
同じものを観てもサットヴァが優位ならば智慧を持って見られるのじゃ。
ラジャスが優位ならば活動的なものとしてみるのじゃ。
タマスが優位ならば怠惰なものとしてみるのじゃ。 >>199
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第四章
16 また、客体の存在は、ただひとつの心に依存しているのではない。もしそうであるならば、そのひとつの心がそれを認知しない場合、その客体はどうなるのか?
17 客体は、心がそれによって染められるか否かによって、その存在が知られたり知られなかったりする。
18 心の作用は、その主であるプルシャには常に知られている。プルシャは不変だからである。
19 心は、自ら輝くものではない。それはプルシャに知覚される客体だからである。
20 こころは、主・客を同時に知覚することはできない。(そのことから見ても、心は自ら輝くものではないことがわかる)
(´・(ェ)・`)つ 心によってものがあるのではないというのじゃ。
ものはあるが心の状態によって知られたり知られなかったりするのじゃ。
主客を同時に知覚出来ない心は、それ自らが知覚されたものであるからであるというのじゃ。 >>202
観察されるものは、観察者ではないのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ >>201
パタンジャリのヨーガスートラ
第四章
21 もし、ひとつの心がもうひとつの心によって知覚されるということがあり得るとするならば、それら(=心)は数限りなく在ることになって、結果として記憶の混乱が生ずるであろう。
22 プルシャの意識は不変である。その像を映すことによって、心は自己に気付くのである。
23 心は、見るものと見られるものの両方から染められることによって、あらゆるものを理解する。
24 無数の欲望を持ってはいるが、心は他者(プルシャ)のために存在するのである。それ(心)はプルシャと連合してはじめて機能することができるからである。
25 心とアートマン(自己)の区別を知る者は、心をアートマンと考えることが永遠に止む。
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