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鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001名無しを整える。
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2017/04/11(火) 11:48:39.27ID:kMYDXZN5
大好評なので、続スレッドを建てたのじゃ
みな、儂のことが好きなのじゃ
よって、みな、儂の弟子じゃ
儂は、悟りを開いて、もうこれ以上、悟ることはないのが、みなは、そうではないじゃろ
儂のように悟りたければ、儂の言うことを聞くのじゃ
0916名無しを整える。
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2017/10/21(土) 10:27:11.95ID:VddYMOYG
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、5、マーガ

496 この世でもかの世でも、いかなる世界についても、移りかわる生存への妄執の存在しない人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

497 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずから制して、梭のように真直ぐな人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

(´・(ェ)・`)つ
0917名無しを整える。
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2017/10/21(土) 10:36:29.44ID:VddYMOYG
>>916
497
梭(ヒ)
「織機の付属用具の一。シャトル。」
織物は縦糸に梭によって横糸を「真直ぐに」くぐらせて織る。
梭は「真直ぐ」の象徴。
諸々の欲望を捨てて、家も捨て、公正に真直ぐに行く人々。
(´・(ェ)・`)つ
0918名無しを整える。
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2017/10/21(土) 14:03:42.10ID:VddYMOYG
>>914
Wikipedia輪廻、抜粋
『仏教における輪廻とは、・・・認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり、自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。
輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあと、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれる、というものである。
この消滅したエネルギーと、生まれたエネルギーは別物であるが、流れとしては一貫しているので、意識が断絶することはない。
それゆえ、仏教における輪廻とは、心がどのように機能するかを説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない。』
認識あるままに、生存に対する執着を離れることは、そもそもできそうもないでありますね。
悟るとは、生きてるうちに死を受け入れることでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
0919名無しを整える。
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2017/10/21(土) 17:31:26.30ID:VddYMOYG
>>914
無認識という、包括的な脱落の境地(?)は、まさに、死そのもののようでありますが、
生きてあると確信している自我が幻想であったと知れれば、生も死もその主体がないのでありますから、死は意味をなさず、生はそのことを知る機会という意味においてのみ意味あると言うことでありますかね。
で、その無我の境地を不可逆的なものとするために、最後に無認識の境地へ飛び込む勇気が必要なのでありましょうかね。
(´・(ェ)・`)つ
0920鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/10/21(土) 20:32:58.61ID:Xt0yKHmY
>>915 悟れば輪廻は個我の幻想から生まれると気付くのじゃ。
 悟りの成果ではあるがそれが悟りそのものではないのじゃ。
 エネルギーとかはないのじゃ。

>>919 そのような理解でよいのじゃ。
 そうじゃ、勇気が必要なのじゃ。
 
0921名無しを整える。
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2017/10/21(土) 23:22:18.77ID:VddYMOYG
>>920
鬼和尚、ありがとうであります。
成果であるだけで、同義ではないのでありますね。
スッキリしたであります。
エネルギーとは、仕事をすることのできる能力の総称だそうでありますが、たとえるのであれば、そのエネルギーの影響を受けている状態にある空間のことであるところの『場』の方が適切かもでありますね。
wikiの解説を、「心とは認識の「場」の連続」と読み替えるとスッキリするような気がするであります。
(´・(ェ)・`)つ
0922名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
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2017/10/22(日) 09:10:21.75ID:ysR0V7Lm
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、5、マーガ

498 欲望を離れ、諸々の感官をよく静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われることのない)人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

499 安らぎに帰して、貪欲を離れ、怒ることなく、この世で(生存の諸要素を)捨て去ってもはや(迷いの生存)に行く道のない人々がいる。
──

500 生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。
──

501 自己を洲(よりどころ)として世間を歩み、無一物で、あらゆることに関して解脱している人々がいる。
──

502 『これは(わたしの)最後の生存であり、もはや再び生を享けることはない』ということを、この世で如実にしっている人々がいる。
──

503 ヴェーダに通じ、安らいだ心を楽しみ、落ち着いて気を着けていて、全きさとりに達し、多くの人々に帰依されている人々がいる。
──

504 (マーガがいった)、「実にわたくしの質問はむだではありませんでした。尊き師は、まさに施与を受けるにふさわしい人々のことを、わたくしに説いてくださいました。
先生! あなたはこの世ですべてのことがらを如実にしっておられます。あなたはこの理法を知っておられるからです。」

505 マーガ青年が(さらにつづけて)いった、「この世で施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、他人に飲食を与えるに当って、どうしたならば祀りが成功成就するかということをわたくしに説いてください。先生!」

506 尊き師(ブッダ)は答えた、「マーガよ。祀りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清らしめよ。祀り実行者の専心することは祀りである。かれはここに安立して邪悪を捨てる。

507 かれは貪欲を離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起して、日夜つねに怠らず、無量の(慈しみの)心をあらゆる方角にみなぎらせる。」

508 (マーガがいった)、「誰が清らかとなり、解脱するのですか? 誰が縛せられるのですか? 何によってひとはみずから梵天界に至るのですか?
聖者よ、お尋ねしますが、わたくしは知らないのですから、説いてください。尊き師は、わたくしの<あかし>です。わたくしは今梵天をまのあたり見たのです。
真にあなたはわれわれにとっては梵天に等しいかただからです。光輝ある方よ。どうしたならば、梵天界に生まれるのでしょうか?」

509 尊き師は答えた、「マーガよ。三種の条件を具えた完全な祀りを実行するそのような人は、施与を受けるにふさわしい人々を喜ばせる。施しの求めに応ずる人が、このように正しく祀りを行うならば、梵天界に生まれる、と、わたくしは説く。」

 このように説かれたときに、マーガ青年は師にいった、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです。
ゴータマさま。あたかも倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさま種々のしかたで真理を明らかにされました。
だから、わたくしはゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつる。ゴータマさまはわたくしを在家信者として受け入れてください。今日から命の続く限り帰依いたします。」
(´・(ェ)・`)つ
0923名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
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2017/10/22(日) 10:59:37.00ID:ysR0V7Lm
>>922
498
ラーフの捕捉
月蝕や日蝕のこと。
煩悩を脱した人
465参照
499
生存の諸要素
五蘊(色受想行識)のこと。
「迷いの生存」に行く道のない
輪廻転生して生きるという道がない
=輪廻転生しないということ。
500
生と死を捨てて余すところなく
渇愛による何としてでも生きていきたいという本能的な欲望がなくなっているということ。
生がなければ死もなし。輪廻から解脱していると言うこと。
渇愛がなくなり、生死を超越した人には無明の闇はない。無明がなくなれば、闇の中で光を灯したように明が現れ、あらゆる疑惑が晴れる。
501
自己を拠り所にして生きることにより、何事にも執着しないで生きること、すなわち無一物で生きることができる。
「あらゆることに関して解脱している」
五蘊(身体、感覚、概念、意思、認識)、眼、耳、鼻、舌、身、意、色、声、香、味、触、法などに執着がなく自由であるということ。
502
阿羅漢
503
ヴェーダに通じ
世間の知識ではない、出世間の知識に通じていること。それは心の平安についての知識に通じていることす。
禅定を楽しみ
心は刺激を求めているが、瞑想は刺激を遮断する行為。
五蓋(貪欲、瞋恚、心の沈滞、興奮・後悔、疑惑)がなくなると禅定が訪れる。
禅定には喜びや楽しみがある。
禅定に楽しむ人々に、念(気づき)があるならば、智慧が生まれる。この智慧によって正覚(悟り)が現れる。
その智慧から正覚が得た人々から、人々は幸福になる生き方を学べる。そのため多くの人々から帰依される。
506
供養する前に、供養しつつある時も、供養が終わったあとも喜びの心を持って行えば供養は成功成就するということ。
供養の成功成就は、供養する施主の心を浄められること。そのために供養がその機縁になる。
供養は心を安立する機縁になる。また過ちを(dosa)捨てる機縁になる。
ここでは、dosa、過ち、怒りという狭い意味だけでなく、貪りや迷いなどを含めた煩悩と考えた方がよい。これらを捨てることが心を浄めること。
507
供養の主催者(施主)は財物に対する貪り(愛着心)を離れ、生き物に対する怒り(憎悪心)を制して、まさにそれを捨てるこのとによって
五蓋(貪り・怒り・心の沈滞[おちこみ]と眠気・心の高揚[たかぶり]と悔恨・疑惑の思い)を断じ、近行定(禅定に近い心の状態)、禅定の別のある無量の慈心をすべての生命に満たすように修行する。
更に、その修行を拡大して、夜も昼も常に行住坐臥の姿勢で、怠らずに慈の禅定と呼ばれる無量の慈心をあらゆる方向に広げ満たす。
508
「誰が清らかとなり、解脱するのですか?」とは梵天になった人はどのような人か尋ねている。
「誰が縛せられるのですか?」とは、梵天になれない人はどのような人か尋ねている。
「何によってひとはみずから梵天界に至るのですか?」は、どのようなことをしたら梵天になれるのか尋ねている。
そして、何故このようなことを質問する理由を、自分は光り輝く梵天のような世尊に今日まのあたりにお会いしたからだと述べた。
509
「三種の条件」とは、供養の前、供養する時、供養の後の心の清らかさをいう。この三つの時に喜びがなければいけない。
また三つの条件とは、常にということ。「立っている時も、歩いている時も、坐っている時も、あるいは横になっていて眠っていない限り、慈悲の念をしっかり保っていて下さい」ということ。
また、供養は機縁ということも、供養を契機に慈悲の気持ちを持ち続けて下さいということ。
注釈書では次のように説明。
比丘は慈の修行で三禅、四禅を起こし、それを基礎にして観察修行で阿羅漢になる。その修行者は清まり、解脱して、梵天界には行かない。阿羅漢は輪廻から解脱しているから。
しかし、慈の修行をした人は輪廻につかまっても、禅定は失わず、その禅定によって梵天界に行く。
そのため、「正しく供養することによって人は梵天界に行くことこの偈で述べたのであるとしている。
「注釈書」というのがあるらしいであります。
(´・(ェ)・`)つ
0924鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/10/22(日) 20:18:23.53ID:QDphIrq3
これも混乱しているようじゃ。
慈悲等の無量心を制限無く広げることがブラフマンの法なのじゃ。
それもヴェーダに書いてあることなのじゃ。
お釈迦様がヴェーダの正確な知識によってブラフマンの法を説いたのじゃ。
0925名無しを整える。
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2017/10/22(日) 21:01:21.53ID:ysR0V7Lm
>>924
鬼和尚、ご指摘ありがとうであります。

503 ヴェーダに通じ、安らいだ心を楽しみ (中村元:訳)

『世間の知識ではない、出世間の知識に通じていること。それは心の平安についての知識に通じていること。』
くまが参考にしているサイトにおいては、バラモン教、ヒンズー教用語は強引に避けるようにして、ヴェーダの知識は無視して解説しいるようでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
0926名無しを整える。
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2017/10/23(月) 18:35:23.99ID:b4AkV/sa
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

 わたしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)は王舎城の竹園林にある栗鼠飼養の所に住んでおられた。
そのとき遍歴の行者サビヤに、昔の血縁者であるが(今は神となっている)一人の神が質問を発した、──
「サビヤよ。<道の人>であろうとも、バラモンであろうとも、汝が質問したときに明確に答えることのできる人がいるならば、汝はその人のもとで清らかな行いを修めなさい」と。
そこで遍歴の行者サビヤは、その神からそれらの質問を受けて、次の[六師]のもとに至って質問を発した。
すなわちプーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバリ、パクダ・カッチャーヤナ、ベッラーッティ族の子であるサンジャヤ、ナータ族の子であるニガタとであるが、
かれは<道の人>あるいはバラモンであり、衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められていた。

[しかるに]かれらは、遍歴の行者サビヤに質問されても、満足に答えることができなかった。そうして、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわしたのみならず、かえって遍歴の行者サビヤに反問した。
そこで遍歴の行者サビヤはこのように考えた、「これらの<道の人>またはバラモンであられる方々は衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。
かれら、すなわちプーラナ・カッサパからさらについにナータ族の子であるニガンタに至るまで人々は、わたしに質問されても、満足に答えることが出来なかった。
満足に答えることができないで、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわにしたのみならず、わたしに反問した。さあ、わたしは低く劣った状態(在俗の状態)に戻って諸々の欲望を享楽することにしょう」と。

 そのとき遍歴の行者サビヤはまたこのように考えた、「ここにおられる<道の人>ゴータマもまた衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。
さあ、わたしは<道の人>ゴータマに近づいて、これらの質問を発することにしよう」と。

 さらに遍歴の行者であるサビヤは次のように考えた、「ここにおられる<道の人>・バラモンがたは、年老いて、年長け、老いぼれて、年を重ね、老齢に達しているが、
長老であり、経験を積み、出家してからすでに久しく、衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。
すなわちプーラナ・カッサパからさらにナータ族の子ニガンダに至るまでの人々であるが、かれらはねわたくしに質問それても、満足に答えることができなかった。
満足に答えられないで、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわしたのみならず、かえってそこでわたくしに反問した。
<道の人>ゴータマはわたくしの発したこれらの質問に明確に答え得るであろうか。<道の人>ゴータマは生年も若いし、出家したのも新しいことだからである」と。

 次いで遍歴の行者サビヤはこのように考えた、「<道の人>は若いからといって侮ってはならない。軽蔑してはならない。
たといかれが若い<道の人>であっても、かれは大神通があり、大威力がある。さあ、わたしは<道の人>ゴータマのもとに赴いて、この質問を発してみよう」と。

 そこで遍歴の行者サビヤは王舎城に向かって順次に歩みを進め、王舎城の竹園林にある栗鼠飼養所におられる尊き師(ブッダ)のもとに赴いた。
そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶のことばを交わしたのち、かれは傍らに坐した。それから遍歴の行者サビヤは師に詩を以て呼びかけた。──

(´・(ェ)・`)つ
0927鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/10/23(月) 22:22:32.46ID:Gxudv9Q+
>>925 そのようじゃ。
 真に悟りを求めるならばヴェーダも学べばよいのじゃ。
 ヴェーダやブラフマンは知りたくないという者は本当は悟りも求めていないのじゃ。
0928名無しを整える。
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2017/10/24(火) 18:39:27.78ID:ZejJnVQC
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

510 サビヤがいった、「疑いがあり、惑いがあるので、わたくしは質問しょうと願って、ここに来ました。わたくしのためにそれを解決してください。わたくしが質問したならば、順次に、適切に、明確に答えてください。」

511 師は答えた、「サビヤよ。あなたは質問しようと願って、遠くからやって来ましたね。あなたのために、それを解決してあげましょう。あなたが質問したならば、順次に、適切に、明確に答えましょう。

512 サビヤよ。何でも心の中で思っていることを、わたくしに質問なさい。わたくしは一つ一つ質問を解決してあげましょう。」

 そのとき遍歴の行者であるサビヤはこのように考えた、「まことにすばらしいことだ。まことに珍しいことだ、
──わたくしが他の<道の人>たち、バラモンたちのところでは機会さえも得られなかったのに、道の人ゴータマがこの機会を与えてくれた」と。かれは、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、師に質問した。

513 サビヤがいった、「<修行僧>とは何ものを得た人のことをいうのですか? 何によって<温和な人>となるのですか? どのようにしたならば、<自己を制した人>と呼ばれるのですか? どうして<目ざめた人>(ブッダ)と呼ばれるのですか?
 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

514 師は答えた、「サビヤよ。みずから道を修して完全な安らぎに達し、疑いを超え、生存と衰滅とを捨て、(清らかな行いに)安立して、迷いの世の再生を滅ぼしつくした人、──かれが<修行僧>である。

515 あらゆることがらに関して平静であり、こころを落ち着け、全世界のうちで何ものをも害うことなく、流れをわたり、濁りなく、情欲の昂まり増すことのない<道の人>、──かれは<温和な人>である。

516 全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──かれは(自己を制した人)である。

517 あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、──彼を(目ざめた人)(ブッダ)という」

 そこで、遍歴の行者であるサビヤは、師の説かれたことをよろこび、随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

518 サビヤがいった、「何を得た人を<バラモン>と呼ぶのですか? 何によって<道の人>と呼ぶのですか? どうして<沐浴をすませた者>と呼ぶのですか? どうして<竜>と呼ぶのですか?
 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

519 師が答えた、「サビヤよ。一切の悪を斥け、汚れなく、よく心をしずめ持って、みずから安立し、輪廻を超えて完全な者となり、こだわることのない人、──このような人は<バラモン>と呼ばれる。

520 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、──このような人がきさにその故に<道の人>と呼ばれる。

521 全世界のうちで内面的にも外面的にも一切の罪悪を洗い落とし、時間に支配される神々と人間とのうちにありながら妄想分別におもむかない人、──かれを(沐浴をすませた者)と呼ぶ。

522 世間のうちにあっていかなる罪悪をもつくらず、一切の結び目・束縛を捨て去り、いかなることにもとらわれることなく解脱している人、──このような人はまさにその故に<竜>とよばける。」
 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

523 サビヤがいった、「諸々の目ざめた人(ブッダ)は誰を<田の勝者>と呼ぶのですか? 何によって巧みなのですか? どうして<賢者>なのですか? どうして<聖者>と呼ばれるのですか?
 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

524 師が答えた、「サビヤよ。天の田・梵天の田という一切の田を弁別して、一切の田の根本の束縛から離脱した人、──このような人がまさにその故に<田の勝者>と呼ばれるのである。

(´・(ェ)・`)つ
0929名無しを整える。
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2017/10/24(火) 21:04:35.40ID:ZejJnVQC
>>928
514
何を得た人を出家修行者(比丘)というのですか?」という質問に対するブッダの解答。
あるべき比丘の状態が述べられている。
比丘は阿羅漢であるべきだということになる。
現状に安住せずに精進すべきだということ。
「生存と衰滅とを捨て(虚無(非有:無)も、実体(有:存在)も、〔両者ともに〕捨棄して)」とは、「有・無を超越した」ということ。
有・無の世界は現象の世界。涅槃は現象の世界を超越した世界なのでこのように表現されている。
515
「何によって、『温和な者』と言うのですか?」に対するブッダの答え。
温和なという言葉のパーリ語sorataの訳は「柔和な、同情ある、やさしき、可楽」。しかし、ブッダの説かれるsorataはそれ以上のもの。
「@平静(無関心)」、「A念のある(気づきある)」、「B害さない(殺さない)」、「C(煩悩)を渡った」、「D濁りのない」、「E情欲のたかまりのない(増長がない)」。
@ 冷静で平等であること。無関心のように見えるが、執着がないこと。
A 念があるとは気づきがあること。自分の身口意の行動が自覚的であること。
B 生き物を殺さないこと。生き物に対する慈しみの心があること。
C 激流に例えられる激流を渡ったこと。煩悩を克服したこと。
D 心に煩悩がないので、心には濁りがなく澄み切って透明であること。
E 情欲の高まりがなく、興奮することがないこと。
516
「どのようにしたならば、<自己を制した人>と呼ばれるのですか?」に対するブッダの答え。
自己を制する或は調御するとは、感覚への対応を制御すること。
何故ならば、感覚に対する反応からいろいろな感情が現れるから。
感覚器官で快を感じると欲が生まれ、不快を感じると怒りが現れるから。
また快でも不快でもないと、無関心になり、意識が不明瞭になる。
感覚のこのような感じ方は業によるものであり、不可避。しかし、この感覚は永続しないもの。
この感覚を持続させたり、増大させたりするのは思考(妄想)や習慣など。
感覚から現れる感情を感覚に対する思考を制御することによって、感情を制御できる。感情を制御できれば、自己を制御できる。
「内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し」
内面的とは感覚の楽、苦、不楽不苦。外面的には感覚の対象。
眼耳鼻舌身意において内面にも外面(色声香味触法)にも執着しないこと。
「この世とかの世とを厭(いと)い離れ、
身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人」
感覚を制御した人は、死に対する感情も制御している。逆に死に対する感情も制御できる人が感覚を制御した人というのでしょう。
517
「どうして<目ざめた人>(ブッダ)と呼ばれるのですか?」に対するブッダの解答。
「あらゆる宇宙時期」
「Kappniを完全に考察して」と答えた。
Kappaの意味
@ 時、時間、劫(コウ)、長時、周期的な時間の長さを言う→輪廻の一時期をいうことがある
A 教令、法則
B 分別、妄想、はからい、想念、概念
C カッパ樹、如意樹
ブッダは、Kappaを完全に考察して、特に死と再生の輪廻の意味をすべて考察し尽くして、世間の塵から離れ、汚れなく、清浄な人となり、生の滅尽に至った人を「覚者(悟った人)だと言う」と述べたす。
「生の滅尽に至った人」汚れをなく、清浄な人、すべての煩悩をなくした人。
「どうしても生きたい」という渇愛をなくしているの。それで生存の要因がなくなっているので、生が滅尽している。輪廻はしない解脱した人。

(´・(ェ)・`)つ
つづく
0930名無しを整える。
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2017/10/24(火) 21:05:13.86ID:ZejJnVQC
>>928
519
「何を得た人を<バラモン>と呼ぶのですか?」のブッダの解答です。
バラモンとは、一切の悪をしりぞけて、自己を確立している人。
一切の悪をしりぞけているので、世間の塵、煩悩の垢から離れている。
煩悩の垢(五蓋)から離れて、心の統一(禅定)によって、智慧を得て、輪廻の原因を越えた人。
渇愛や偏見に執着しないので、とらわれのない人。
そのような人が崇高な人(バラモン)。
520
「何によって<道の人>と呼ぶのですか?」に対するブッダの解答。
「安らぎに帰して(静まった者となり)」samao(沙門)は静まった人ということ。
沙門は出家修行を意味するときがあるが、そうすると比丘と同じような意味になる。しかし、出家修行者の内面に注目すると、心が静まっているということが重要。
ものごとを良い悪いとこだわると心が静まらない。世間の塵とは欲や怒りのこと。これらの煩悩から離れると心は静まる。
善悪を捨てること。
善と判断しても、悪と判断しても単純には決められないということがある。
善悪を言って騒がずに、冷静に必要な対応・対策をするべき。
この世のこと、あの世のことを知って、生死を超越すれば、心は動揺することなく、心は静かな状態。
人間の最大の関心事は生と死。この問題に決着をつけるためには、この世あの世についてよく知る必要がある。心を静まった沙門はこの問題に決着をつけた人。
521
「どうして<沐浴をすませた者>と呼ぶのですか?」に対するブッダの解答
あらゆる悪をなくした人、悪を洗い清めた人を「沐浴者」と呼ぶ。
その際、罪や悪である心の汚れは、感覚や認識の領域(十二処)で生じるので、「全世界のうちで内面的にも外面的にも(内に、さらには、外に、一切の世において)」と表現されている。
眼耳鼻舌身意と色声香味触法において心が汚れる。これらの十二処で汚れたらすぐ汚れをなくす人を沐浴者というと述べた。
仏教では時間というものはないと考えている。あるのは存在の変化だけ。その変化を見て、時間があると妄想分別しているのだと言う。
十二処で心の汚れが生じるとは、そこから時間や妄想分別が現れること。「時間に支配されている」とは妄想分別していること。悪を洗い清めた人とは妄想分別をしない人。その人が「沐浴者」
522
「どうして<竜>と呼ぶのですか?)」に対するブッダの解答。
訳語の竜(竜)のパーリ語はngoですが、その意味は「@象、A龍、Bすぐれた聖者(行者、とくに仏をさす)」。
「何故すぐれた聖者を龍(象)と呼ぶのですか?ということ。
すぐれた聖者は、この世において如何なる罪も作らず、悪も為さない。
世間のしがらみ(束縛)の中にいても、それに決して拘束されることはない。
あらゆることに対して執着することがない。解脱している。それは完全に自由であるということ。
そのような人がすぐれた聖者であり、龍(象)と呼ばれるのにふさわしい人。
523
@ 田(Khetta)の意味は、耕地、田、田畑(身心または業を示すことがあります。
福田(布施や供養を捧げる対象となる仏、僧団など、ここに種をまくと、功徳・福徳という果が得られるというので田に例えられる。)
「田の勝者」とは、「心身に打ち勝った者」と理解して、質問の意味は「ブッダは誰が身心に打ち勝った者というのですか?」ということ。
524
「諸々の目ざめた人(ブッダ)は誰を<田の勝者>と呼ぶのですか?に対するブッダの解答。
身心とは五蘊(色受想行識)。五蘊を考察すれば、それらは無常であり、苦であり、無我であることが知られる。これらを知れば、これらに対する執着がなくなる。執着がなくなれば、これらから解脱する。
更に、人間のみならず神々や梵天の身心も考察して、それらに対する束縛を根本から断ち切って、解脱し、自由になっている人。
(´・(ェ)・`)つ
0931名無しを整える。
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2017/10/24(火) 21:09:27.45ID:ZejJnVQC
>>927
ブッダのことば(スッタニパータ)
がおわったら、ヴェーダの講読ゼミをやりたいと思ったのでありますが、全文は見つからなかったであります。
(´・(ェ)・`)つ
0932鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/10/24(火) 22:22:27.68ID:DeU0Lk5M
あるものでよいのじゃ。
わしは図書館で読んだのじゃ。
国立国会図書館の公開資料には大蔵経もあるのじゃ。
ときどきみるのじゃ。
0933名無しを整える。
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2017/10/24(火) 22:48:29.93ID:ZejJnVQC
>>932
鬼和尚ありがとうであります。
コピペできるガラ携サイトで探してみるであります。
『バガヴァッド=ギーター』とかでも良いのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
0934名無しを整える。
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2017/10/25(水) 19:01:10.91ID:WIHFHi06
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

525 天の蔵・人の蔵・梵天の蔵なる一切の蔵を弁別して、一切の蔵の根本の束縛から離脱した人、──このような人がまさにその故に(巧みな人)とよばれるのである。

526 内面的にも外面的にも二つながらの白く浄らかなものを弁別して、清らかな知慧あり、黒と白(善悪業)を超越した人はまさにその故に(賢者)と呼ばれる。

527 全世界のうちで内面的にも外面的にも生邪の道理を知っていて、人間と神々の崇敬を受け、執著の網を超えた人、──かれは<聖者>である。」
 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

528 サビヤがいった、「何を得た人を<ヴェーダの達人>とよぶのですか? 何によって<知りつくした人>となるのですか? いかにして<勤め励む者>となるのですか? <育ちの良い人>とはそもそも何ですか?
 先生! おたずねしますが、どうかわたくしに説明してください。」

529 師が答えた、「サビヤよ、道の人ならびにバラモンどもの有するすべてのヴェーダを弁別して、一切の感受したものに対する貪りを離れ、一切の感受を超えている人、←かれは<ヴェーダの達人>である。

530 内的には差別的<妄想とそれにもとづく名称と形態>とを究め知って、また外的には病いの根源を究め知って、一切の病いの根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に<知りつくした人>と呼ばれるのである。

531 この世で一切の罪悪を離れ、地獄の責苦を超えて努め励む者、精励する賢者、──そのような人が<勤め励む者>と呼ばれるのである。

532 内面的にも外面的にも執著の根源である諸々の束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に<育ちの良い人>と呼ばれるのである。」
 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

(´・(ェ)・`)つ
0935名無しを整える。
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2017/10/25(水) 20:24:45.28ID:WIHFHi06
>>934
525
「何によって巧みなのですか?」という質問に対するブッダの解答。
一切の蔵を考察して。
身心(五蘊)や業を比喩的に蔵とも言う。
一切の蔵を弁別(考察)してとは、一切の五蘊を弁別(考察)してという意味。
更に、神々や梵天の五蘊を弁別(考察)して、一切の蔵(五蘊)の根本の束縛から解脱した人。
526
「どうして<賢者>なのですか?」に対するブッダの解答。
paita(賢者)、paati(行く)と発音が似ている。paita(賢者)は「行く者」のように聞こえる。
またpaitaと発音の似ているpaarni(白いもの)を活用して、白いものとは善なるものを意味する。白いものを考察して、行く者が賢者であるとしている。
更に、黒(悪)と白(善)を「越えて行く者」をpaita(賢者)だと説明す。
白(善)を考察するにあたり、「内と外の白(善)を考察(弁別)して」と説明。
内は内処(眼耳鼻舌身意)であり、外は外処(色声香味触法)を意味している。
これらを考察(弁別)すると、それらはすべて無常、苦、無我であることが知られる。そこでこれらのもの一切に執着すべきものは何もないという智慧が現れる。
それは清らかな智慧。
そのため、賢者は黒(悪)白(善)を越えて行く者と表現される。
527
「どうして<聖者>と呼ばれるのですか?」「どのような人が聖者なのですか?」にするブッダの解答。
内面的(眼耳鼻舌身意)と外面的(色声香味触法)における感覚からいろいろな煩悩が生まれる道理を知って、感情をコントロールして、執着の網を断ち切るということ。そのような人は人間や神々から尊敬され、崇拝され、聖者と呼ばれる。
529
「<ヴェーダの達人>とは何を得た人ですか?」
ヴェーダとは聖智のこと。あらゆる聖智を学び、考察する。具体的には沙門(出家修行者)の聖智やバラモン達の聖智を学び考察すること。
無常などを考察して、聖智に対する欲・貪を捨て、同じ聖智を乗り越え、すべての聖智を越えて行く。
聖智を縁として、あるいはこれとは別に感受が生じる。それら一切の感受に対する貪欲を離れて、すべての聖智を越えて行く。
感受を捨て、聖智を捨て越えて行く人が、聖智の達人である。
(´・(ェ)・`)つ
つづく
0936名無しを整える。
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2017/10/25(水) 20:27:54.33ID:WIHFHi06
>>934

530
「<知りつくした人>とは何によって言うのですか?」という質問に対するブッダの解答。
papaca、妄想、いう仏教専門用語。
rogamla(「病いの根源」あるいは「病の根元」とは何か?
「papaca」パパンチャとは、仏教の真理をすべてひと言で表現する単語。「世界はパパンチャであって、解脱・涅槃はニッパパンチャ(nippapaca)である」
現象という意味に達する前にまず、パパンチャ=捏造(ねつぞう)だと、まず覚えておきましょう。捏造の定義は妄想ではない。
妄想なら、なんでも妄想することはできるが、捏造は違う。捏造には、それなりのデータが必要。しかし、データが不十分。自分で自分の仮説を立証するためには、不十分なデータではまずい。
それで、そのデータを捏造する。その場合は、あるデータの一部分だけを抜き出したり、都合の悪いデータを無視したりする。そうしなければ、自分の仮説は成り立たなくなるから。
このようにすべての生命は自分の眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法のデータをありのままに認識しないで捏造して認識する。生命は実際の世界を知らない。
私たちはありのままの世界ではなく、「あって欲しい世界」を捏造する。わざと組み合わせて合成する知識で、「現象」という単語が使える。
それで認識そのものが、捏造した結果になる。認識は知ることですが、正知ではなく、誤知(ごち)になっているのです。仏道とは、この誤知を正知に改良するプロセス。
「病いの根源」は何かという問題
311参照
「欲と飢えと老い」が病いの根源。
531
「<勤め励む者>とは何によって言うのですか?」という質問に対するブッダの解答。
この世において、一切の悪から離れること、これは八聖道の実践により可能。このような人は未来に再生しないで、地獄における苦しみを克服している。
そのような人は精進努力した人す。更にそのよう人は「慧者(智慧ある者)」と言えるのだと「精進のある人」を称賛した。
532
「<育ちの良い人>と何故言うのですか?」という質問のブッダの解答。
一切の束縛がなくなった人を高貴な人と言う。束縛とは心の汚れ。それは生命を輪廻に結びつける結縛。
内的な束縛と外的な束縛、更に束縛の根源をよく知って、断ち切ることによって、一切の束縛をなくすことができる。
内的な束縛とは、眼耳鼻舌身意における束縛。
眼について例をあげれば、見たいという欲求。見たいという欲求がなくなれば、内的な束縛の一つが消える。
外的な束縛とは、色声香味触法における束縛。例えば、良い音を聞きたいという欲求がなくなれば、外的な欲求の一つがなくなる。このように、すべての内外の束縛がなくなれば心がきれいになり、高貴な人間になる。
このことを更に徹底するためには、束縛の根源を知り、束縛の根源を断ち切る必要がある。束縛の根源は無明。すべての束縛は無明から生まれる。無明が心の汚れの根源。束縛の根源である無明を断ち切った人が高貴な人と言われる。
(´・(ェ)・`)つ
0937鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/10/25(水) 21:36:59.89ID:vFpWLqFZ
>>933 それはお釈迦様が涅槃に入った後に作られたものであるから意味は無いのじゃ。
 般若経とかでもよいのじゃ。
 
0938名無しを整える。
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2017/10/25(水) 21:48:26.10ID:WIHFHi06
>>937
なれへそへそのごまであります。
ブッタが読んで勉強したフヴェーダじゃなきゃ意味ないのでありますね。
スッタニパータの講読ゼミは来春くらいまでかかりそうなので、じっくり探してみるであります。
(´・(ェ)・`)つ
0939名無しを整える。
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2017/10/26(木) 18:32:29.06ID:nNhMTIIC
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

533 サビヤがいった、「何を得た人を<学識ある人>と呼ぶのですか? 何によって<すぐれた人>となるのですか?
 またいかにして<行いの具わった人>となるのですか? <遍歴行者>とはそもそも何ですか?
 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

534 師が答えた、「サビヤよ。教えを聞きおわって、世間における欠点あり或いは欠点のないありとあらゆることがらを熟知して、あらゆることがらについて征服者・疑惑のない者・解脱した者、煩悩に悩まされない者を、<学識のある人>と呼ぶ。

535 諸々の汚れと執著のよりどころを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。三種想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、──かれを<すぐれた人>と呼ぶ。

536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは<行いの具わった人>である。

537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、偽りと慢心と貪欲と怒りと<名称と形態>(個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人、──かれを<遍歴の行者>と呼ぶ。」

 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、座から起ち上って、上衣を一方の肩にかけ(右肩をあらわし)、師に向かって合掌して、ふさわしい詩を以て目のあたり師を讃嘆した。

538 「智慧ゆたかな方よ。諸々の<道の人>の論争にとらわれた、名称と文字と表象とにもとづいて起った六十三種の異説を伏して、激流をわたのたもうた。

539 あなたは苦しみを滅ぼし、彼岸に達せられた方です。あなたは真の人(拝まれる人)です。あなたは完全にさとりを開かれた方です。
あなたは煩悩の汚れを滅ぼされた方だと思います。あなたは光輝あり、理解あり、智慧ゆたかな方です。苦しみを滅ぼした方よ。あなたはわたくしを救ってくださいました。

540 あなたはわたくしに疑惑のあるのを知って、わたくしの疑いをはらしてくださいました。わたくしはあなたに敬礼します。聖者の道の奥をきわめた人よ。心に荒みなき、太陽の末裔よ。あなたはやさしい方です。

541 わたくしが昔いだいていた疑問をあなたははっきりと説き明してくださいました。眼ある方よ。聖者よ。まことにあなたは<さとりを開いた人>です。あなたは、妨げの覆いがありません。

542 あなたの悩み悶えは、すべて破られ断たれています。あなたは清涼となり、身を制し、堅固で、誠実に行動する方です。

543 象の中の象王であり偉大な英雄であるあなたが説くときには、すべて神々は、ナーラダ、パッバタの両[神群]とともに随喜します。

544 尊い方よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。神々を含めた全世界のうちで、あなたに比べられる人はおりません。

545 あなたは覚った人です。あなたは師です。あなたは悪魔の征服者です、賢者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから[彼岸に]渡りおわり、またこの人々を渡すのです。

546 あなたは生存の要因を超越し、諸々の煩悩の汚れを滅ぼしておられます、あなたは獅子です。何ものにもとらわれず、恐れおののきを捨てておられます。

547 麗しい百蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません、雄々しき人よ、両足をお伸ばしなさい。サビヤは師を礼拝します。」

(´・(ェ)・`)つ
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