瞑想の話で面白い話しがあるのが、フィンドホーンという団体を作った神の声が聞こえるという人がいるんだけど、
ある時、その人が神から、「公衆トイレの中で瞑想しないさい。」 というメッセージを受け取った。
それでその人は、「なんであんな臭くて汚いところで瞑想なんかしなきゃいけないんだ、瞑想に集中できないじゃないか」 って思ったんだよね。

ここのところで、いかにこの人が瞑想を勘違いしているかがわかる。
二元性を越えるはずの瞑想にもかかわらず、見事に二元性に捉われている。
臭い、臭くない、 汚い、汚くない、  瞑想に集中しやすい、しにくい。
この時点ではこの人は、瞑想に最適な場とか環境があると思っていた。
しやすい精神状態とか、しにくい精神状態とかもあるのだろう。

真の瞑想というのはこういう二元性を越えるもので、しにくい、しやすい、集中できる、集中できない、
という二元性を越えるものなんだよね。
本当の天国というのはこの二元性を越えたところにある。
二つの道の上に真ん中の道があるようなイメージ。
仏教でいう「中道」ということ。
上の道は下の道がどっちであろうが、全く影響を受けない。
その「上」の世界を目指すのに、いちいち臭い、汚い、集中出来ない、をやっている・・・・
下の世界で右往左往している。
それを神が教えようとしたんだよね。
後にその人はトイレで瞑想を繰り返すうちに、その意味がわかったと言った。

ちなみに、親鸞の言う極楽浄土というのも、二元性を越え切った世界のことを言うんだよね。
死ん死んでから行いが良かった人が行く天国と、極楽浄土というのは全然意味が違う。
仏教でいうところの本当の「楽」とは、「苦の反対にある楽」ということではなくて、
苦楽を超越したところを言うんだよね。

>>470の言うところも一理あるんだよ。
普段は二元性の海に溺れながら、ある一定の時間だけ瞑想をやっても効果が少ない。
それどころか、そのわずかな瞑想さえ、二元性のワナにはまってる場合がある。
前述の臭い、汚いのように・・。
ある一定時間、二元性を越えたことをやっていて、それが終わったら途端に二元性の世界に埋没する・・・・
あっという間に二元性を越える世界の効果が吹っ飛んじゃう。

瞑想でも修行でも、行住坐臥の行という風に、24時間やるつもりでいないと効果が出にくい。
ということは、あらゆる欲を無視していかないと、修行になりにくいということになる
「あれやんなきゃいけないけど、ちょっと待って、ネットで見たいものがあるから。 音楽が聴きたいから。 テレビ見たいから。」
で、中断しちゃう。 サ〜サ〜行かない。

サ〜サ〜行ってる時が二元性を越えた時で、二元性のワナ・・・ 欲にはまると、サ〜サ〜が止まっちゃう。
普段から余計なものを捨ててると、サ〜サ〜行くわけだよね。