WHY@DOLL Part8 【ID無し本スレ】 [無断転載禁止]©2ch.net
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北海道札幌出身で現在は関東を中心に活動するオーガニックガールズユニットWHY@DOLLを応援するスレです
■公式サイト
http://www.versionmusic.net/whydoll/
■メンバー
青木千春
ニックネーム:ちはるん
生年月日:1993年1月21日
公式ブログ:http://ameblo.jp/chihapon-0121/
twitterアカウント:@aokichiharu
浦谷はるな
ニックネーム:はーちゃん
生年月日:1995年4月1日
公式ブログ:http://ameblo.jp/hum-hum-mofy/
twitterアカウント:@humhum0401
■スタッフtwitterアカウント
@WHYDOLL2014
■showroom
https://www.showroom-live.com/WHYDOLL
■WHY@DOLL(ホワイドール) 日々これ日常(CDでーた連載)
https://www.cddata-mag.com/whydoll/
前スレ
http://karma.2ch.net/test/read.cgi/idol/1461498476/
WHY@DOLL Part6
http://karma.2ch.net/test/read.cgi/idol/1471880404/
WHY@DOLL Part7
http://karma.2ch.net/test/read.cgi/idol/1481639071/
VIPQ2_EXTDAT: none:none:1000:512:----: EXT was configured 今後の予定
2017.1.10 WHY@DOLL レギュラー公演〜はる色に染めて〜vol.20
【日程】2017年1月10日(火)
【時間】一部:17:15開場 17:30開演
二部:19:15開場 19:30開演
【会場】渋谷Glad
【出演】WHY@DOLL
【チケット】一部:前売り/当日¥1.000(全員握手券付)※ドリンク代別
二部:前売り¥2.000、当日¥2.500(ドリンク代別)※お楽しみ当りくじ付き 2017.1.12 WHY@DOLL ニューシングル発売記念イベント@ 新星堂サンシャインシティアルタ店
会場:新星堂サンシャインシティアルタ店
日時:1月12日(木) START 18:30
イベント:ミニライブ&特典会 2017.1.21 青木千春 24th.Anniversary LIVE
【日程】2017年1月21日(土)
【時間】昼の部:12:30開場 13:00開演
夜の部:18:00開場 18:30開演
【会場】TAKE OFF7
【チケット】12月30日(金)10:00〜発売開始!
昼の部:前売り¥2,500 当日¥3,000(共にドリンク代別)
http://i.twt.jp/shop/item.cgi?item_id=1220
夜の部:前売り/当日 ¥3,000(共にドリンク代別)
http://i.twt.jp/shop/item.cgi?item_id=1221 >>21
ど田舎住んでて在宅なのがバレるのが嫌なんですねwww >>21
ど田舎住んでて在宅なのがバレるのが嫌なんですねwww >>21
ど田舎住んでて在宅なのがバレるのが嫌なんですねwww >>21
ど田舎住んでて在宅なのがバレるのが嫌なんですねwww >>21
ど田舎住んでて在宅なのがバレるのが嫌なんですねwww >>21
ど田舎住んでて在宅なのがバレるのが嫌なんですねwww >>21
ど田舎住んでて在宅なのがバレるのが嫌なんですねwww ああ@adgjmwtP'.wmea@gjpwmda@kxtpg ああ@adgjmwtP'.wmea@gjpwmda@kxtpg 本叢書は洽ねく大家の手に成るもの、或は青年の必讀書として世に傳はるものゝ中より、其内容文章共に英文の至珍とすべく、
特に我青年諸氏に利益と快樂とを與ふるものを撰拔せり。
英語を學ぶに當り、文法字義を明かにし、所謂難句集に見る如き短文を攻究するの要あるは云ふまでもなしと雖も、
亦可成多く一篇を成せる名家の著を讀み、英文に對する趣味を養ひ、不知不識其の豐富なる語類成句に習熟することを怠るべからず。
前者は專ら學課として教師の指導に待つべきも、後者は學生諸子自ら講學の餘暇を利用して之を心掛くべきなり。
著者等は親しく學生諸子に接し、教場以外獨習の助けとなるべきものゝ要求を知れり、
是れ本叢書刊行の企ある所以にして、其冊子の小なるも諸子が携帶の便を計りたればなり。
直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、
種々の事情より此弊未だ一掃せられず、此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。
著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、
且つ譯文中に屡々原文を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入の
原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。
著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。 本叢書は洽ねく大家の手に成るもの、或は青年の必讀書として世に傳はるものゝ中より、其内容文章共に英文の至珍とすべく、
特に我青年諸氏に利益と快樂とを與ふるものを撰拔せり。
英語を學ぶに當り、文法字義を明かにし、所謂難句集に見る如き短文を攻究するの要あるは云ふまでもなしと雖も、
亦可成多く一篇を成せる名家の著を讀み、英文に對する趣味を養ひ、不知不識其の豐富なる語類成句に習熟することを怠るべからず。
前者は專ら學課として教師の指導に待つべきも、後者は學生諸子自ら講學の餘暇を利用して之を心掛くべきなり。
著者等は親しく學生諸子に接し、教場以外獨習の助けとなるべきものゝ要求を知れり、
是れ本叢書刊行の企ある所以にして、其冊子の小なるも諸子が携帶の便を計りたればなり。
直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、
種々の事情より此弊未だ一掃せられず、此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。
著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、
且つ譯文中に屡々原文を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入の
原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。
著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
本叢書は洽ねく大家の手に成るもの、或は青年の必讀書として世に傳はるものゝ中より、其内容文章共に英文の至珍とすべく、
特に我青年諸氏に利益と快樂とを與ふるものを撰拔せり。
英語を學ぶに當り、文法字義を明かにし、所謂難句集に見る如き短文を攻究するの要あるは云ふまでもなしと雖も、
亦可成多く一篇を成せる名家の著を讀み、英文に對する趣味を養ひ、不知不識其の豐富なる語類成句に習熟することを怠るべからず。
前者は專ら學課として教師の指導に待つべきも、後者は學生諸子自ら講學の餘暇を利用して之を心掛くべきなり。
著者等は親しく學生諸子に接し、教場以外獨習の助けとなるべきものゝ要求を知れり、
是れ本叢書刊行の企ある所以にして、其冊子の小なるも諸子が携帶の便を計りたればなり。
直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、
種々の事情より此弊未だ一掃せられず、此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。
著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、
且つ譯文中に屡々原文を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入の
原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。
著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
アーサー王圓卓士の物語は、五世紀の半 直譯なるもの及び之れと密接の關係ある不完全なる和譯英字書の譯語を其儘に用うるの弊害世に知られて、
英學界の呪詛となりたれども、單に代名詞、助動詞等の譯し振りを變じたるのみにして、種々の事情より此弊未だ一掃せられず、
此形式的譯法は原文の意義を發揮するに於て甚だ不完全のみならず、諸子一度此習癖に染まば修學上の害測り知るべからざるものあらん。
又之れと全く反對の自由なる意譯法は、單に譯文として見る時は兎に角、諸子が修學の助けとして遺憾甚だ多し。著者等は原文の成句成文を單位として其意義を十分に譯出し、
邦語の語法の許す限りは原文の一語をも忽かせにせざらんことを努め、且つ譯文中に屡々原文を
(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して譯文との關係を示し、又其※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
の原文は直ちに和文英譯の參考たらんことに意を用ゐたり。盖し是れ至難の業、茲には著者等の意のある所を一言し、如何に之れに成功したるかは諸子の判斷に委せんとす。
最後に諸子の注意を促さんに、原文と譯文とを對照して其意義を解したるのみに放擲せば、諸子の惱中に留まるは恐らく譯文にして原文にあらざらん、
是れ英文を讀むと稱するも其實邦文を讀みたるものなり。著者等は諸子に切言す、相對照して其意義を明かにしたる後更に原文のみを數回音讀して其印象を得られんことを、
且つ譯文によりて和文英譯を試みられなば頗る有益の練習となり、著者等が此微々たる盡力を最大に利益に應用するものと云ふべし。
譯註者識
――――――
注意
譯解の都合上原書の一パラグラフを幾段にも分つの必要を生ぜり、但し段落の初行を一字劃右に寄せたるが原書に於けるパラグラフの始めと知るべし。
[#改丁]
本篇緒言
譯者は本叢書第六篇『無人島日記』の緒言に於て、『ロビンソン、クルーソー漂流記』は冐險的、商業的、實際的なるアングロサキソンの特性を具體にしたるものなることを云へり。
然れども是等の特色は未だ以て偉大なる國民を形成するに足らず、更に個人の品性を堅實にし、國民の理想を高遠ならしむる、道徳的、靈性的勢力の大なるものあるを要す。譯者は茲に本篇『アーサー王物語』に於て、
アングロサキソン人種をして眞に偉大なる國民たらしめたる、更に重要にして根本的なる其性格理想の幾分を諸子に紹介するの機を得たるを悦ぶ。
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