【小説】スナック眞緒物語2【日向坂応援】
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宮田愛萌さんのブログや「ひらがな推し」やでネタにされている架空空間「スナック眞緒」を舞台とした小説のスレです。 なお、「ひらがな推し」や宮田ブログでの「スナック真緒」での井口真緒さんと宮田愛萌さんはひらがなメンバーとは別人格という設定ですが、 ここではひらがなメンバーであるのかないのかというのは曖昧にします。 タイトルと冒頭と末尾の文は、宮田愛萌さんがブログで書いているのをテンプレとして使いました。 原案や参照にしたものがある場合には、その小説が完了したとき必ず明記します。 前スレ 【小説】スナック眞緒物語【けやき坂応援】 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/keyakizaka46/1548508699/ ブレーンワールド(その1) ねると最初に出会ったのは2017年の春だった。 大学4年生になって、希望していた研究室への配属が決まった。 新学期が始まる前に、配属された研究室の教授の手伝いをすることとなった。 新刊の発売記念に際し、池袋の本屋Jで教授がトークイベントをするということで、その司会をするように直々に仰せつかった。 目的地に向かう途中で女の二人組から声をかけられた。 「さーせん、Jって本屋はこの辺にあるかなあ?」 そのなれなれしい口調にイラっとした。 「この道をこのまま進めば長蛇の列が並んでいるラーメン屋がある。道路を挟んだその向かいに見えるよ」 尋ねた女は礼も言わずそそくさに立ち去ろうとしたが、連れの女性は深々と頭を下げた。 頭を上げたその顔を見た瞬時に、大都会の喧騒が消え、時間が止まった。 びっくりするくらいの美少女だったからだ。 それが長濱ねるだった。(続く) ブレーンワールド(その2) その驚きで立ち尽くしていると、まだ幼さが残る少女が近くまで駆け寄ってきた。 デコ出しハーフツィンで、ゴスロリ風の黒い服に身を包んでいて、これまたとても可愛らしい。 「さっきの女の人とはお知り合いなんですか?」 「さっきの女の人って、今さっきの二人組の?」 「ええ、そうです」 「いや、たまたま道を訊かれただけ」 「そうですか・・・」 「何か用があったの?」 「別に・・・」 ふわふわしたあどけない表情から絡みつく眼つきになったかと思えば、急に無表情となる。 気持ちがめまぐるしく豹変するこの手の少女は苦手だ。 その青臭さが魅力なのは認めるものの、関わったら面倒くさい。 だが、気持ちとは裏腹に、その愛くるしい顔から眼が離せなかった。 少女はそっぽを向き、そのまま立ち去っていった。(続く) ブレーンワールド(その3) トークイベントはJの5階にあるカフェの中で行われた。 OHPに映す資料の順番を間違うということもなく、司会も無難にこなし、後は質問タイムが残すだけとなった。 「は〜〜い、は〜〜い、は〜〜い」と騒がしく手を挙げる者がいる。与えられた仕事をこなすことで手一杯で聴講者のほうは全く見ていなかったので、 その声の方に視線を向けてはじめて先程の二人組であることに気づいた。 この本屋の中で出会うことはあるかもしれないと期待はしていたが、このトークイベントに参加しているとは嬉しい誤算だ。 ただ、残念なことに、手を上げているのは、美少女の方ではなく、礼儀知らずのウザい女のほうだ。 目が合うと、美少女は軽く会釈をした。 「では、そちらの方どうぞ」と目を合わせたままで、俺は言った。 「いえ、私じゃなくて・・・」という美少女の言葉を遮り、「ちょっと、手を挙げたのは私よ!」とウザ女が声高に言う。 「失礼しました、では、どうぞ」 「ねえ、パラレルワールドってあるんですかあああ?」といっそうバカっぽい声でウザ女は質問した。(続く) ブレーンワールド(その4) 教授のほうに目を向けたら、普段は隙を見せるようなことは全くないのに、こういう場でこんなときに何か考え事をしている。 何か重大なことを教授が隠しているとはこのときには思わなかった。 うまくバトンタッチできるように俺は場をつないだ。 「えー、最先端の物理学でパラレルワールドと呼ばれるものに関わるもので、すぐに思いつくのは3つありますね。 1つは、エヴェレットによる不確定性原理の多世界解釈。 もう1つは宇宙創成時のインフレーションが起こることによって生まれるマルチバース。 最後の1つが超弦理論の予言する余剰次元の解釈の一つののブレーンワールドです。 今日のイベントのテーマは超弦理論についてなので、最後のことについて先生にお話してもらいましょうか」 超弦理論における紐は小さいとは限らない、たとえば空間に引き込まれた紐が宇宙膨張に巻き込まれて延びる可能性があること。 それと同様に次元そのものも延ばされている可能性があること。 それから並行宇宙の考えにつながること。 そして、その並行宇宙が10の500乗以上も存在していることが計算によって導かれること。 そういったことなどを教授は話した。(続く) ブレーンワールド(その5) イベントに締めとしてサイン会が行われた。 カフェの外にある本屋の中の通路に細長いテーブルが置かれ、 教授がサインした新刊にペンのインクがにじまないように和紙を挟んでから渡すのが俺の役割だった。 もう二度と会うことはないかもしれないなと秘かに名残惜しんでいたら、豈図らんや、最後の客があの美少女だった。 当然のようにウザ女もついてきているが、こちらは本は購入していないようだ。 本を渡そうとしたとき、突然、両手で左右の耳を押さえ悶えながらしゃがみこんだ。 「大丈夫ですか!」 「心配させてすみません。ちょっと耳鳴りがしただけです」 「後のことはいいから、その人の面倒を見てあげなさい」と教授は告げた。 テーブルの配置も元に戻され、通常営業となったカフェで座らせ様子を見ることにした。 なにごともなく無事なようだ。 ウザ女も安心したのか、次から次に脈絡のない話を一方的に話し続けた。 美少女はその様子を隣で微笑みながら聞いていた。 さすがに話し疲れたのかようやくウザ女が口を閉じた。(続く) ブレーンワールド(その6) 見計らったように美少女はゆっくりと口を開いた。 「そういえば自己紹介がまだでしたね。私は長濱ねるといいます。長崎県出身です。この人は高校のときの同級生です。 私は、今年からお茶の水大学の理学部に通うことになります」 しばし休んだウザ女の口がまた復活した。 「ねえねえ、鳥居坂46って知ってるでしょ!このコはその最終オーディションまで進んだんだよ」 鳥居坂46というのは、2016年にデビューし、1周年ほどしか経っていないのに、日本中を席巻しているアイドルグループである。 アイドルには疎い俺にもその情報が否応なく入ってくるほど勢いがあった。 「俺が審査員なら、最終でも落とさなかったな」 「違うよ。このコ、いろいろあって最終審査は受けてないんだよ」 なぜ?と訊こうとしたが、ねるが目を伏せて暗い表情となったので尋ねられなかった。 「すみません、付き添ってもらって。もう、大丈夫です」 「大丈夫そうでなにより。よかったら、駅まで見送らせて」(続く) ブレーンワールド(その7) エスカレーターで下ろうとしたとき、窓の外を見て、ウザ女が声を張り上げた。 「ねえ、ねえ、ちょっと、ちょっと見て!さっきよりもさあ、さっきよりも列、短くなってんじゃない!」 列?ああ、ラーメン屋のことか。いちいちそんなことで騒ぐなよ。ホント、こいつはウザいな。 「ちょっとお腹すいたし、お食事いっしょにどうですか?」とねるが言う。 「池袋にはたまには来るけど、あそこが土日にこんなに人少ないのは珍しい。一度は入ってみたかった」と俺は同意した。 言ったことは本心だったが、もうしばらくはねると一緒にいられるというのがそれ以上に嬉しかった。 列に並んでいるとき、ねるに話しかけた。 「東京に出てきたばかりだというのに、こんなマイナーなトークイベントをどこで知ったの?」 「この人が誘ってくれたんです」とウザ女の方に目をやりながら、ねるは言う。 えっ?こいつが?そういうことに興味を持っているとも思えないが。(続く) ブレーンワールド(その8) 「もちろん、私自身も興味があったんですよ。子供の頃、物質の最小単位は原子だと教えられました。 中学生のときに、それは、実は、原子核と電子から構成されていて、原子核はさらに陽子や中性子などから構成されると教わりました。 そして、高校生の頃には、それらはさらにクォークから構成され、それが究極の素粒子だと聞かされました。 でも、超弦理論はそれにも内部構造があるという主張なんですよね。それで興味がわいて」 「埒が明かないとうんざりすることもなく、むしろ積極的に興味を持ったというわけか」 「ええ、それが何事をも象徴しているかのように思えて」 「象徴している?」 「何かを終えても、新しいものがその次に待ち受けている。世の中の仕組みはすべてそうなっていると思えたんです」 「ああ、なるほど、そういう意味か。鷗外も『青年』で、書いていたね。 学校に入ったら、一生懸命に学校時代を駆け抜けようとするが、その先はまだ続きがある。 学校を卒業して、職業にあり附くと、その職業を為し遂げてしまおうとするが、その先もまだ続きがあるといったようなことを。 結局、終着駅なんてものは存在しないかもしれないなあ」(続く) ブレーンワールド(その9) 「質問いいですか。余剰次元のお話はちんぷんかんぷんでした。 なぜこの世界の3次元空間よりも多くの次元が必要となるんでしょうか?」 「物理学の理念の一つに、理論体系が美しいというのがあり、対称性はキープされるというのが望ましいという信念があるんだ。 そのためには弦が振動する方向は3次元空間だけだと対称性が崩れるので、空間9次元と時間1次元の計10次元が必要になる。 我々が住んでいる空間3次元と時間1次元と比べて、空間6次元が余剰次元となるというわけ」 「トークイベントの予習のため、関連する本を分からないなりにも読んでみたのですが、そこには計11次元と書かれていたんですが」 「実は、計10次元とする理論には5つのバージョンがある。 さらに1次元増やして、計11次元とすれば、その5つを統合できるるんだ。 そのほうがすっきりするということで、今は計11次元という言い方のほうが主流かな」 「なるほど、そういうことですか。でもその余剰次元って本当にあるんですか?」 「まあ、超弦理論自体が仮説だからね。しかも、検証は非常に厳しいと思う。 だから、仮にあったとしても、その実在を知ることはできないんじゃないかなあ」(続く) ブレーンワールド(その10) 「そうなんですね。もう一つ、質問いいですか。 余剰次元は小さいとは限らず、ずっと大きい可能性があるということでしたが、小さい、大きいで、なにか際立った違いは出てくるものなのですか?」 「たとえば、細い糸を渡っている蟻がいるとするね。蟻にとっては、その糸の上に乗れる程度には横幅があるし、上下の厚みもある。 蟻自身には、糸は線ではなく、円柱、つまり、3次元となっている。 でも、人間が遠目で見れば、その糸は長さだけの1次元でしかない。幅と厚みの2つの次元が折りたたまれているように見える。 それと同じように、余剰次元は、電子顕微鏡でも到底見えないほど小さく折りたたみ込まれていると従来の理論ではされてきた。 ところが、もし余剰次元が大きいのなら、そういった関係が逆転する」 「どういうように逆転が起るのですか?」 「我々の3次元空間の外に余剰次元があり、3次元空間はその中に浮かんでいるといったように捉えるこてができるんだ。 それをブレーンワールドという」 「ブレーンというのは頭脳の意味なんですか?」。 「いや、そうではなく、ブレーンというのはエムブレーンを略した言葉で、膜という意味」 (続く) ブレーンワールド(その11) 「えーっと、膜というのは2次元ですよね。私たちが住んでいるのは3次元空間だから、言葉がずれているように思えますが?」 「我々は4次元以上の空間を認識することはできないので、次元をあえて少なくして比喩的に見ているんだ」 「ああ、そういうことですか。3次元空間に浮かぶ2次元の膜なら私たちは簡単にイメージできますね。 だから、9次元空間に浮かぶ3次元平面もそのようなものだとしてその関係性から帰納的に推し量るわけですね! そうすると、上下に離れた二次元平面がお互いにパラレルワールドになるように、 余剰次元の方向に離れた三次元空間がパラレルワールドになるという理解でよろしいのですか?」 「うん、そういうことでいいと思う。付け加えて言えば、その二次元平面上に二次元人が住んでいるとする。 その平面上の場所なら100億光年先でも望遠鏡とかを使えば、二次元人は見ることができる。 ところが、2つの平面間の上下の距離が1ミリメートルでも、行き来することはおろかその存在さえわからない。 なぜなら、上下方向は見えないので、その認識もできないから」 「それと同じように、第4、第5、・・・、の空間次元方向にたった1ミリメートルでも離れていたら、 三次元空間に住む私たちは別の三次元空間を認識できないというわけですね。不思議〜」(続く) ブレーンワールド(その12) 店内には細長い通路があり、それと平行に窓側と厨房側にカウンター席があり、窓側の席を店員が案内してくれた。 三人の真ん中にはねるが座った。 俺が食べ終わるのを見計らって、ねるがまた質問してきた。 「余剰次元の感覚が私たちに備わっていないとしても、 隣接しているかもしれないブレーンワールドを見ることができないのはなぜですか? よくよく考えたら、3次元どうしならお互いを見ることはできるような気がします」 「実は、重力以外の3つの力を介在する粒子はブレーンから離れることはできないと理論は予測している。 そのうちの1つの電磁力を介在する光子も離れられないので、光が届かなければ見ることはできないということのようだね」 そのとき、突然、ねるがまた両耳を押さえ、苦しそうにうなだれながら、「やっぱり、あのコがいる!」とつぶやいた。 心配して、半身になってねるのほうを向いた俺とウザ女は店内を見渡した。 見渡すとき、ウザ女は店の奥のほうに、俺は店の入り口のほうにまずは視線を送ることになる。 大学生と思われる女性がこちらを振り向いて凝視していた。目鼻立ちがはっきりしていてとても綺麗なコだ。 ウザ女が入り口のほうを見る前にその美人は姿勢を前に正した。 「ねえ、先にねるを外に連れ出してくれない。確かめることが済んだらたらあたしもすぐに続くから」 外に出ても、立つのがやっとなくらいねるはぶるぶる震えている。(続く) ブレーンワールド(その13) 店内に目をやると、呆れたことにウザ女が客の顔をそれとはっきりわかるように覗き込んでいる。 ただし全員ではなく、どうもターゲットは若い女性だけに絞っているようだ。 いまにも引っ繰り返りそうなねるを支えるため背中に左手を当てた。 むだ肉はついていないけど、女性らしい柔らかな感触だ。 薄い服の上からのブラ紐が感じ取れ。その手触りは刺激的だ。 超弦理論は超紐理論とも言うが、こういう紐なら大歓迎だなと、ねるが苦しんでいるというのに、邪なことを思った。 ねると比較して、いままで付き合ってきた女のことを振り返った。 同じ大学の女たちは勉強ばかりやってきたせいか、肉体的には男と交流は持てても、不感症ばかりだった。 サークル内で知り合った他大学の女は本能に生き、つねにセックスに飢えていて、しかもそれを隠そうともしないのばかりだった。 ねるのように豊かな感情もちゃんとした教養もある女なら、慎みと恥じらいによって本能を頑なに抑制ししつも、 感じやすいところを探しあて、そこを攻めれば、官能の衝動が漏れ出るという楽しみを与えてくれるのではないか。 そういう思いに耽っていると、左手に鋭い痛みが走った。 よからぬことを考えていた天罰か? 「なれなれしすぎ」 外に出てきたウザ女が、俺の手をパチーンと叩いたのだった。 くそ、偶然とはいえ、こんな奴から罰を受けるとは! 一方でウザ女はねるには心配そうに優しく言った。 「アイツ、いなかったよ」(続く) ヒロインのねるちゃん、小説スレ最盛期、などなど思い出しながら懐かしい気持ちで読んでおります。 が、結末を忘れてしまっているので続きが楽しみでもあります。 ブレーンワールド(その14) 駅までの地下通路を歩きながら、ウザ女に尋ねた。 「なあ、『あのコ』とか『アイツ』とかって誰のことなんだ?」 「ねる、話していい?」 ねるは首を縦に振った。 「こないだねると一緒にサッカー観戦に行ったの。 ハーフタイムのとき、ねるにさっきと同じような症状が起こった。 辺りを見回したら、中学生か高校生かくらいの女の子が遠くからジーッとこちらを見てたの、可愛らしく聡明そうなコだった。 そしたら意を決したようにこちらに歩み寄ってきた。 傍まで近づいて来たら、『やめて、それ以上、近寄らないで!』とねるが叫んだの。そしたら驚いて逃げてった。 怒りがこみ上げてあたし追いかけたけど、家族連れで来ていてその中に入ってしまったのでそれ以上何もできなかった」 「怒り?そのコは見つめる以外にはなにもしなかったんだろ?追いかけて捕まえて何をする気だったんだ?」 「人の顔をジロジロ見るなんて失礼だよ!それにねるがそうなったのもソイツのせいだし!」(続く) ブレーンワールド(その15) コイツは思い込みも激しいんだな、ねるが苦しんでいたこととそのコが見つめていたことに何か因果関係があるようには思えない。 ん?待てよ。たしか、あのときもあのときも・・・・・。 「そういえば、今日、長濱さんが苦しんでいたとき、2回とも長濱さんを凝視していた女性がいたな」 「アンタ、何でそんな大事なことなぜ黙ってたの!役立たず!」 「お前さ、もうちょっと口の利き方に気を付けろ。だいいち事情を全く知らないのに、何が大事は分からんだろ」 「黙っていたことは勘弁してあげる、で、どんな人だったの?早く言いなさいよ!」 「ラーメン屋のほうは入り口近くにいて、ピンクベージュの裾刺繍サロペットを着た女子大生風のコだった。 それとラーメン本がカウンターテーブルの下から覗いていた」 「ああ、あの人ね。で、サイン会のときのほうは?」 「やはり女子大生のような感じで、人懐っこそうな感じだった。 それと、あの本屋専用の買い物かごにインドネシア語の教本を入れていたのは覚えている」(続く) ブレーンワールド(その16) 「二人は同一人物?」 「二人ともとても美人さんだったが、明らかに別人」 「ラーメン屋さんのほうはまだいるわね。事情を訊きにあたし行かなきゃ」 「事情?はっきりした証拠があるならそれもいいが、猪突猛進しても恥かくだけだぞ。 そのサッカー場のコはともかく、今日の二人は後ろから凝視していただけで長濱さんとは目が合っていないんだから・・・」 言い終わる前にウザ女は駆け出した。 やっぱり話しておいたほうがいいなと思って、ねるに言った。 「そういえば、今日、あなたたち二人から、道を訊かれたその直後に、あなたたちのことを尋ねたコもいたな」 「どんな人ですか?」 「ゴスロリ服を着ていて、とても可愛らしいけど、勝気そうな感じのコだった。 中学生か高校生かくらいということでは、サッカー場でのその女の子と同い年になるかな。同じなのか?別人なのか?」 ねるは当惑して黙り込んだ。 しばらくしてウザ女は戻ってきた。 「いなかった・・・」 不安一杯そうだったねるはほっとした表情となった。(続く) ブレーンワールド(その17) 外では激しく雨が降っている。風もやや強い。 落ち着かない俺の気持ちを表しているかのようだ。 あの日、メール交換してから二人とは池袋の駅で別れた。 がっついていると思われたくないので、1週間はあえてこちらから連絡しないという戦略をとった。 自分で課した縛りなのに、気になって眠れない。スマホを手に取る。 暗闇で眩しく光るスマホがだんだんアップになって近づいてくる気がする。 電話帳で「長濱ねる」の名前を表示させる。 連絡したいという気持ちをかろうじて押さえつけ、スマホから手を離した。 その直後に、スマホが鳴った。「長濱ねる」の表示だ、 喜んで勇んで出ると、ねるではなくウザ女が名乗りもせずいきなり喋った。 「ねるがストーカーに狙われてんの。あんたさ、明日、暇だったらうちらが住んでいるとこ来てくれない?」 もちろん、ねるのことだけをずっと考えていた俺は、ねると再会できるという喜びでいっぱいになり、二つ返事をした。 「ただ一つだけ問題あんのよね。うちらが住んでいるのは女子寮で男子禁制なんだ」 「お前、ふざけてんのか?入れるわけないだろ!」 「大丈夫!目付のおばさんはいるけど、関係者であると名乗って、寮の中の本人がOKすればフリーパスだから。 アンタ、ねるのお兄ちゃんの演技をしてね」(続く) ブレーンワールド(その18) 最寄駅を降り、教えられた道順を歩いた。 雨は上がっていたが、大きな公園を通り抜けるとき、雨と草木と土の混じり合った香りがした。好きな匂いだ。 しかし、女子寮か・・・・。 ねるに会える喜びで頭が一杯になっていたので、今の今まで気にも留めなかったが、ちょっとドキドキする。 蝶番が軋む音をさせながら、金属製の重たい分厚い扉をゆっくりと開ける。 そこには見たことも想像したこともない秘密の花園が広がっている。 あちゃっ、女の生態は知悉しているというのに、なぜそんな妄想するんだ? これじゃ、女子高生は檸檬の香りがすると信じている阿呆と一緒だな。 公園を通り抜けると、それらしい建物が見えてきた。 女子寮のエントランスは何の変哲もない]ガラス製の自動ドアだ。そりゃそうだろうな。 オートロック解除のため、操作盤のテンキーに部屋番号を入力し、呼び出しを押したら、「はい」と声が聞こえる。 ねるの声だ。一気に緊張が高まる。 ドアが開いて、中に入ると、受け付けには寮の管理人のおばさんが鎮座している。 「長濱ねるさんのお兄さんですか?本人から報告は受けています」と興味なさそうに事務的に言われる。 (続く) ブレーンワールド(その19) ひやひやして落ち着かず周りを見渡した。 後ろを振り返ったとき、門の外にはサラリーマン風の男がこちらを怪訝そうに見ていた。 女子寮の中に若い男が入っていく現場に遭遇して不審に思っているのか? ねるが受付にやって来た。それだけで四方が、壁も天井も床も朝日を浴びたように光輝く。 「私の後を歩いてください。前には出ないでください」 階段を上っているとき、寮住まいらしい女性が降りてきた。 軽く会釈したので、こちらも会釈をする。 そうか、前を歩くなというのは、こういうように鉢合わせしたときに不正侵入者かどうかをソッコー見分けるためか。 3階の東南の角部屋に入った。 閉め切ったカーテンの隙間からウザ女が外を見ていた。 俺の姿を見ると、挨拶もなしにいきなり言った。 「いまストーカーがいたのよ、アンタ、見なかった?」 「いや、今日はこの間の池袋のそれらしき女性は見ていない」 「はは〜ん、アンタ、あの時の女性たちに会えると踏んでやって来たというわけね。でも、違う。残念」 こいつ、いちいち忌々しいな。(続く) ブレーンワールド(その20) 「ストーカーというのは若い女性じゃなく、中年の男だよ」とウザ女は続ける。 「あっ!もしかしたら会ったかもしれない。受付でねるさんを待っているとき、振り返ったら、中年の男と目が合った。 だけど、ストーカーのようには見えなかったな」 「どういう感じの人でした?」とねるが訊く。 あれ?さっき会ったばかりというのに、男の顔を頭の中で描こうとしもできない。 「どこでも見かけるような平凡なスーツ姿で特徴のないような顔をしていたかな」 ウザ女が口を開く。 「ソイツよ、間違いない。さっきこの部屋を監視していた奴よ。 最初、聞いたときにはねるの勘違いだろうと思った。 でも、今やっていたようにカーテンの隙間から見張っていたら、ストーカーというのが分かんのよ。 怪しい男がこの部屋の方向に目をやっているのを何度も確認した。 ごく自然に歩きながら一瞬だけ目をやる。 そして、外出先でも遠くからねるを見張っているみたい。 普通だったら絶対に気づかないと思う。ねるはおっとりしているけど、そういう感覚は優れてんのよね」(続く) ブレーンワールド(その21) 「ねるちゃん、ピザ屋さんが来たわよ。置いていってもらったから取りに来なさい」と部屋内のインターホンからおばさんの声が聞こえる。 安全を担保するために、配送員とは直接には顔を合わさないシステムとなっているのか。 「お昼にして、その話は後でまたしませんか」 ねるはそう言った後、ピザを持って戻ってきた。 食事時にストーカーの話は避けたかったのか、この前のトークイベントの話題をねるは振った。 「並行宇宙が10の500乗以上もあるかもしれないということでしたね。目がくらむような数ですね」 「500なんて、たいした数じゃないよ」とウザ女が口を挟む。 「500じゃないぞ。10の500乗だぞ」と俺は呆れる。 「何が違うん?」 そんなことも区別できないのか? 「1の後に0が500個続く数字を思い浮かべてみろ」 「ふ〜ん。よく分からないわよ」 「たとえば、この宇宙には銀河が千億個あり、一つの銀河には平均して千億個の恒星があるという。 目のくらむような数だろ。 それでもこの宇宙にある恒星の数は10の11乗かける10の11乗で、10の22乗だ。 10の500乗というのは想像も絶するとんでもない大きな数字だ」 「ああ、面倒くさい。そういえば、あのセンセイってさ、私が質問したとき、ちょっと変じゃなかった?」(続く) ブレーンワールド(その22) 「それは俺も不審に思ったので、大学の研究室の先輩に訊いてみた。 シカゴのフェルミ研究所で先生が講演したとき、『パラレルワールド』と発したら、聴衆からブーイングが起ったそうだ。 だから、そのトラウマがあるんじゃないのかなと言っていたな。まあ、全く別の理由かもしれんが」 「パラレルワールドというのは科学ではタブーなのですか?」とねるが尋ねる。 「先生がフェルミラボで講演したのは20世紀の終わりごろで、その頃は禁句のような雰囲気があったみたいだね。 だけど、今は好むと好まざるとにかかわらず受け入れるしかない。 不確定性原理の解釈でも、20世紀終わり頃は多世界解釈を採用する研究者は少数派だったけど、今では圧倒的多数派となっている。 また、単純なビッグバン理論では解決できない宇宙の諸問題をインフレーション理論は解決しているけど、並行宇宙はそれと切り離せない。 だから、並行宇宙が気に入らなければ、インフレーション理論以外に整合性のある理論を自ら編み出さないといけない。 だけど、未だにインフレーション理論以外で完璧な理論は編み出されていない」 「ご自身は信じられています?」 「俺がってこと?いくら物理理論が示唆しているといっても、個人的には信じていないかな。 あったほうが面白いだろうし、地下室民の尊厳のためにはそのほうがいいんだろうけど」(続く) ブレーンワールド(その23) 「チカシツミンってなに?」とウザ女が訊く。 「この間、ねるさんがアイドルオーディションを受けたと知ってちょっと興味が出て、5ちゃんのアイドルのスレッドを覗いてみた。 そしたら、あるアイドルのスレッドにすごい罵詈雑言が書かれていて、その原因となる行動の動画もそこに貼られていた。 何かよっぽどのことをやらかしたんだろうと思って見てみたが、アイドルどうしが戯れているだけ。 たしかに『もう歳だよ』と軽口を叩いたり、相手が言ったことを受け流したりとかもあったけど、 むしろ遠慮の入らない間柄で、仲睦まじいようにしか見えなかった。 ところが、地下室民は狂ったように糾弾を繰り返している」 「だからチカシツミンって、何なのよ!」 「ドストエフスキーの『地下室の手記』の主人公と同じように、恨み言や繰り言を重ねる連中のことだ。 ある評論家がそう名付けたんだけどな」 「何も悪いことしていないアイドルさんがなぜそんな酷い目に遭わないといけないでしょうね?」とねるの目に悲しみの色が浮かんだ。(続く) ブレーンワールド(その24) 「もちろん被害を受けたアイドルのほうには何の責任もなく、クレームを浴びせる地下室民の生態に起因すると思う。 書き込んだことでそれに固執したり、承認されることで図に乗ったり、屑どうしで連帯するなど。 おそらくたまたま悪口を書き込んで、その自分自身の言葉を見て、その考えに凝り固まってしまう。 そいつと同レベルの追随者が現れると自分が承認されたかのような恍惚感が生まれる。 そういうのが何人か続くと、増幅され、共鳴する。 いわゆるエコーチェンバーという奴だね。 同じ意見だけが飛び交う閉鎖的な空間が出来上がることで、その中の情報だけが真実であると錯覚する。 集団同一視ということが起こり、圧力や帰属感によって中傷がエスカレートしてくる。 集まって団結力が出ると、絶対に許さないと苦情ユニオンをつくり、謝罪しろなどという要求をする。 実際には、そういう屑の数は多くないが、何度もしつこく書き込みを繰り返すので、屑だけが目立ってしまう」(続く) ブレーンワールド(その25) 「かわいそうに」とねるはいっそう悲観した。 「ああいうキチガイクレーマー集団に狙われたアイドルはホントかわいそうだよね」 「そのアイドルさんもですが、苦情を言う人たちが哀れでなりません」 「えっ?ああいう屑連中に憐憫の情を持つの?でも、万一関わるようなことがあれば、憎しみの感情がわいてくると思うよ」 「もし私が狙われるようなことがあったとしたなら、その人たちの魂を救済するため喜んで謝罪します」 「ねるさん、・・・。あえて言うけどそれは間違っていると思う。 理不尽な苦情に屈すれば、苦情を持ち込むことが趣味のクレーマー集団に達成感を与え、 その恨みがましい心に膿が分泌され、また新しいターゲット叩きが始まる。 身代金を奪い取ったテロリストと同じで、ますます調子づかせることになる」 しばらく考え込んでから、ねるは口を開く。 「そうですね、その通りだと思います。私が間違っていました。 でも、パラレルワールドの存在がそういう人たちに尊厳を与えるというのはどういうことですか?」 「ねるさん、こういうこと考えたことない?あの時の人生の分岐点で別の選択肢を取っていたらといったような。 さまざまな選択の繰り返しで、いつの間に思っていた方向と大きく食い違っている所に来てしまったというようなことを考えたことは?」 ねるの唇がピクっとかすかに痙攣したが、話を続けた。(続く) ブレーンワールド(その26) 「もしパラレルワールドが存在し、たとえ行き来できなくても、その様子が見られるとする。 この世界では惨めである自分だが、その分身が別世界では成功していた。 また、逆に、この世界ではエスタブリッシュメントとなっている者が別世界では零落していた。 そうすれば自分と成功者の差異なんてただの偶然にすぎないというように尊厳を保つことができる。 特に、今の日本なんて運がいいというだけで大金持ちになったのが多いからねえ」 「でもさ、いくら分身が成功していても、現実はビンボー人の生活苦だよね、そんなんで本当に尊厳なんて保てる?」 ウザ女にしては鋭いな。 「今の日本で餓死することのほうが難しいと思う。 それに連中にとっちゃ、訳の分からない高級料理とカップ麺やコンビニおにぎりの味の区別はつかないさ。 豪華客船の世界一周よりも部屋に閉じこもってプレステでもやるほうを好むだろうし。 生活面の充足感は問題ないんだから、あとはパラレルワールドを見て、成功していたかもしれない自分を夢見て満足していればいい」 ねるは目を伏せている。 調子に乗りすぎ過ぎたようだ。ああいう連中に対してはどうしても攻撃的になってしまう。冷静な判断力を失っていた。 相手がどんなに悪質な人間であったとしても、激しく論難を浴びせるような男をねるが好むわけがない。 少なくともねるの前では寛容な態度を取ることを心掛けなければいけないな。(続く) ブレーンワールド(その27) 雰囲気を変えようとしたのか、ねるはテレビを点けた。画面には鳥居坂46が映し出された。 あわててねるからリモコンを取り上げて、ウザ女がチャンネルを変えようとするが、ねるは止める。 「もう大丈夫。あのときの私を今は俯瞰で見ることができる。あのときの私はもう別人」 ねるにどう答えたら正解なのかが分からないのか、ウザ女は俺に話を振る。 「このセンターのコ、そんなに可愛いって思う」 ねるのほうをちらっと見た。動じている様子はないな。その話題に乗っても大丈夫だろう。 「センターに不適格だとは思わない、でも、これだけの美人集団の中で何が決め手となって抜擢されたのかな?」 「このセンターの原田まゆってコ、なんでもアツツの鶴の一声でセンターに決定したんだって」 「アツツ?」 「知らない?鳥居坂をはじめとしていくつものアイドルグループで総合プロデューサーをしている安本敦。 親しんでいるのか、軽んじているのか、ヲタからはアツツって呼ばれている」(続く) ブレーンワールド(その28) 「ああ、それなら知っている。『握手御殿』と揶揄されている総額10億以上にもなる豪邸を建てたとかいうのを聞いたことがある」 「そういえば、アツツが関係するアイドルグループは毎週のように週刊誌にスキャンダルが載っていたのに、最近は全くないんだよね。不思議なことにちょうど鳥居坂がデビューした前後でそうなったんだよ」 「そうなのか?」と興味のない俺は生返事をした。 「そうそう思い出した、当初、中学二年生の女の子が鳥居坂のセンターに決定していたという噂もあった」 「そのコの今のポジションは?」 「辞めちゃった。なんでも不動のセンターという確約をそのコにもその親にもして、逃げないように囲い込みしていたそうなんだけど、 確約したほうが約束破れば、そりゃー怒って辞めるよ。逸材だったらしいけど」 「なぜ、そんな逸材を辞めさせるような事態を招いてまで、その原田まゆをセンターにしたんだ?」 「知らないの?有名な話だよ」 黙ってやり取りを聞いていたねるだったが、グラスを手から滑らせ、その破片とコーラが床にまき散らかされた。 あわてて掃除することになり、話は中断した。(続く) ブレーンワールド(その29) 「ああ、明日、日曜だった。朝食のための食材を買ってくる」と言って、ウザ女は出ていった。 おっ!ねると二人きりになれた!ウザ女のくせに気が利くじゃないか。できるだけ時間かけて買い物してこいよ。 ねるの顔を見る。やはり綺麗な顔だな。 目、鼻、唇の配置のバランスがとてもいい。鼻と唇はぱっと見は目立たないが、とても形がいい。 大きな目はきらびやかに際立っているが、ちょっとだけ垂れていることでその際立ちが嫌味にならず、柔らかい表情をつくりあげている。 改めて眺めてみると、ねるが現実のものでないような気がしてくる。 追っても追っても捕まえることのできない美しい幻のようなものに思えてくる。 俺の考えていることを知るわけもなく、ねるが口を開く。 「実は、お訊きしたかったんですが・・・・」 えっ?二人だけのこの状況で俺に訊きたいこと? 「並行宇宙が10の500乗以上もあるならば、人間原理が肯定されると書かれている本も否定されると書かれている本もあり、 いったいどっちなのかがよく分からないんですが」 なんだそんな話か。ウザ女が話の輪に入れないことを気遣って、いなくなってから質問しようとしたのか。(続く) ブレーンワールド(その30) 「『人間原理』は混乱して使われているので、まず、それを整理しておこう。 人間にとって宇宙がかくも都合よくできているのは、人間が神によってつくられた特別な存在であるというのが『強い人間原理』で、 たとえ都合よくできているとしても確率論から当たり前というのが『弱い人間原理』。 単に『人間原理』と言うとき、昔は『強い人間原理』の意味で使われていたけど、今は『弱い人間原理』で使わることが多いようだね。 ねるさんが言ったのは、並行宇宙が10の500乗以上あれば、『強い人間原理』が否定され、『弱い人間原理』が肯定されるということ」 「もう少し詳しく教えてもらえませんか?」 「いろんな物理定数が人間の存在に都合のいい値を取っている。 一番よく取り上げられるのは、宇宙定数に関係するダークエネルギー密度かな。観測値が理論値の10の120乗分の1倍となっている。 観測値が一桁大きければ宇宙は広がりすぎて星が生成されることはなかった。逆に一桁小さければ宇圧縮され宙はつぶれていた。 つまり、星ができるためには10の120乗分の1のあり得ない精度で微調整されていなければならない。 普通に考えればそれは奇跡としか言いようがない」(続く) ブレーンワールド(その31) 「具体的にはどういう値になるんでしょうか?」 「紙とペンを貸してもらってもいい?それと電卓も。後、万有引力定数とディラック定数とハッブル定数の値をスマホで調べてくれる」 ノートの上に万年筆を置いて両手でねるが手渡したとき、両手の指先でねるの両手に触れてみた。 嫌がっている様子はないな。 電卓も同じように両手で渡してきた。 今度は触れていることがはっきりそれとわかるようにして受け取った。 全く気にしていないようだ。 俺を好意的に受け入れているというよりは。男の下心に無頓着と考えるのが妥当か? ねるの体温が俺の手の平に残っている。当たり前だが、幻ではなくねるは実在している。 よし!ねるに有能なところを見せてやろう! この上なく集中して必要な式をすばやく導き出し、電卓で数値計算をした。 「よく分からないところもありますが、おおよその感触はつかめました。 でも、ダークエネルギー密度の値が微調整されているとしても、確率論から『弱い人間原理』は当たり前というのはどういうことなんでしょうか?」(続く) ダークエネルギー密度の理論値と測定値を導き出すのをこの物語の中に取り入れようかとも思ったが、 ストーリー進行の邪魔になると思ってあきらめた。 ここでは、補足のためそれをざっと導き出してみる。 理工書でも啓蒙書でもネット上でもその計算のやり方を取り上げているものはないので、ここでやるのもそれなりに意義があるとは思う。 万有引力定数とディラック定数とハッブル定数の3つの値以外はいっさい何も見ないで書く。 根本的なことのいくつかが天下り的に与えられているのを前提とすれば、そんなに難しくはないが、数式アレルギーの人は無視してくれ。 (A)ダークエネルギー密度の理論値について (1)量子論であつかうエネルギー密度はとてつもなく大きい。 量子論のようなミクロの世界では長さや時間はとてつもなく小さいが、逆にエネルギーはとてつもなく大きくなるのを押さえておこう。 前者は当たり前だと思うので、後者についてざっくりと触れておく。 ミクロの世界を観測するためには、セルンにあるような大型加速器(山手線の8割くらいの大きさ)で莫大なエネルギーを与えてやる。 それは人間が目の当たりにできる最大のエネルギーである。 ただし、最大エネルギーといっても、たとえば太陽が1秒間程度で地球に降り注ぐエネルギーと比べたら、ゴミみたいに小さい。 また、原爆はおろか通常爆弾のエネルギーと比べてもはるかに小さいと思う。 では最大というのはどういうことか? 2個の陽子にだけエネルギーを与えて衝突させているので、エネルギーがきわめて小さな範囲に集約している。 つまり、最大というのはエネルギー密度である。 宇宙誕生のときのインフレーションのときにも匹敵するエネルギー密度がセルンの大型加速器では実現されている。 そのくらい大きいエネルギー密度を量子論ではあつかっている。 (2) ダークエネルギー密度の最大値は量子論のエネルギーである。 ダークエネルギー密度の正体は真空のエネルギーであると考えられていて、それは量子論であつかうエネルギーである。 したがって、ダークエネルギー密度の最大値は量子論のエネルギーとなる。 (3) プランク密度 万有引力定数G、ディラック定数h、光速cの3つの物理定数によって量子論のエネルギーは決定する。 ディラック定数は、プランク定数を2πで割ったもので、換算プランク定数とも呼ばれる。 本当は「h」の上を横棒で貫いて表すのだが、ここではそういう記述はできないので、プランク定数と同じhで表すことにする。 次元解析によって、上の3つの量G、h、cで量子論のエネルギーは表してやることができ、それをプランク密度(以下ρで表す)という。 G、h、c、ρの単位は[kg^-1・m^3・s^-2]、[kg^1・m^2・s^-1]、[m^1・s^-1]、[kg^1・m^-3]である。 (E=mc^2を考慮すれば、単位の上ではエネルギー密度の単位は単に密度の単位としてもよい。) G^x ・h^y ・c^z=ρとすると、 −x+y=1、3x+2y+z=−3、−2x−y−z=0から、x=−2、y=−1、z=5と求まる。 よって、ρ=G^-2 ・h^-1 ・c^5となる。 G=6.67×10^-11、h=1.06×10^-34、c=3.00×10^8を代入して(hはプランク定数ではなく、ディラック定数であることに注意)、 ρ=5.15×10^96[kg^1・m^-3]と求まる。 これがダークエネルギー密度の最大値で、これにマイナスを付けた−5.15×10^96[kg^1・m^-3]が最小値である。 (A)ダークエネルギー密度の観測値について。 実は、こちらのほうがより厄介である。 観測された数値データを見るだけではないのか?と思うかもしれない。 それはその通りなのだが、専門書でも、啓蒙書でも、ネット上でも、ダークエネルギー密度は割合(パーセンテージ)でしか示されていないので、 そこから、具体的な値に換算する方法を理解しておかなければならない。 (1) フリードマン方程式は天下り的に与えられているとする。 全てを説明するのは無理なので、次のフリードマン方程式は天下り的に与えられているとして、そこから説明しよう。 (b/a)^2=8πGρ/3−Kc^2/a^2+Λc^2/3 ただし、b=da/dtである。 (時間微分は上にドット・を付けて表すのが普通だが、ここではその表記はできない。) また、Λは宇宙項で、宇宙を広げようとする力の源泉となっていて、その正体がダークエネルギーである。 ρは先ほどはプランク密度としたが、ここでは通常物質とダークマターの合計の密度である。 その他の文字は慣用的な文字を使っているので、専門書やネットで確認すれば判断できると思う。 文字が何を表しているかの説明の必要が生じたら、その都度、行う。 (2)フリードマン方程式の式変形 通常物質とダークマターの密度をρ_b、ρ_dとすれば、ρ=ρ_b+ρ_dである。(_の右の文字は下付きの添え字である。) また、ハッブル係数Hの意味を考えれば、H=b/aとなるのは当たり前だとは思う。 (b/aの分子・分母に宇宙半径の現在値を乗すれば、v/rとなるので、それがHに等しくなると判断してもよい。) 以上の2式をフリードマン方程式に代入して、無次元にするためH^2で両辺を割れば、 1+Kc^2/a^2 H^2=8πGρ_b /3 H^2+8πGρ_d/3 H^2+Λc^2/3 H^2 右辺の第1項(もしくは第2項)と第3項の次元が等しいことを考慮し、ダークエネルギー密度をρ_Eとすれば、 8πGρ_E/3 H^2=Λc^2/3 H^2が成立するので、 1+Kc^2/a^2 H^2=8πGρ_b /3 H^2+8πGρ_d/3 H^2+8πGρ_E/3 H^2 と書き変えることができる。 ここで、見やすいように1以外の左辺と右辺の4つの項を、左から順に、Ω_k、Ω_b、Ω_d、Ω_Eと置けば、 1+Ω_k=Ω_b+Ω_d+Ω_E (3) 空間の曲率が0なら通常物質、ダークマター、ダークエネルギーの合計は100%となる。 空間の曲率Kの値はほぼ0であることが知られているので、Ω_k=0となり、 1=Ω_b+Ω_d+Ω_E 通常物質、ダークマター、ダークエネルギーの割合が、たとえば5%(0.05)、25%(0.25)、70%(0.70)であるというのを聞いたことはある思うが、 空間の曲率がほぼ0となっているために合計が100%(1.00)となる。 (4)後は数値計算。 Ω_E=8πGρ_E/3 H^2から、ρ_E=3 H^2Ω_E/8πG ハッブル定数の最新値で、ネット上に上がっているものは、H=74.3km/s・Mpc Mは10^6で、pc(パーセク)とly(光年)の関係は、1 pc=3.26lyなので、単位を変換すれば、 H=74.3[km/s・Mpc]=74.3×10^3÷(10^6×3.26×3×10^8×60×60×24×365.25=2.40×10^-18[1/s] Ω_Eの値は理工書「一般相対性理論入門 改訂版」(須藤靖)のP133では0.685、 啓蒙書「数学的な宇宙」(テグマーク)のP105では0.68、Wikiでは0.683となっている。 ここでは0.685を用いることにする。 ρ_E=3 H^2Ω_E/8πG=3×(2.40×10^-18)^2×0.685÷(8×3.14×6.67×10^-11)=7.06×10^-27[kg ・m^-3] (C)理論値と測定値との比較 確認すると、ダークエネルギー密度は、−5.15×10^96[kg^1・m^-3]から5.15×10^96[kg^1・m^-3]の範囲で任意の値を取るが、 我々が住んでいるこの宇宙のダークエネルギー密度は、7.06×10^-27[kg ・m^-3]となっている。 (7.06×10^-27)÷(5.15×10^96)≒10^-123なので、−1から1までの範囲で自由にスライドさせることのできるつまみがあるとして、 ど真ん中の0から右に10の123乗分の1の位置となる信じられない精度で調整されているということである。 それが10の122乗分の1の位置でも、10の124乗分の1の位置でも、この宇宙は星がつくられる環境ではなかったかもしれない。 存在するのが我々の宇宙だけだったなら奇跡であるが。超弦理論によれば物理定数が異なる宇宙だけでも最低で10の500乗の宇宙があるということなので、 微調整を実現できる宇宙が存在する可能性は十分にあり、我々の宇宙はその一つであると考えれば、「強い人間原理」は否定される。 ブレーンワールド(その32) 「外の様子がいっさい分からない独房の中に男がいたとする。 その独房には毒ガスが9/10の確率で噴霧される機械が備えられていて、それが実行されたのに男は生きている。奇跡だと思う?」 「1/10の確率で助かるわけですから、運がよかっただけで、奇跡というほどではありませんね」 「実は、噴霧の回数は1回だけなく、連続して起こっていたとしたら?」 「1/100の確率ですから、まだ奇跡と言えるかどうか・・・・」 「その回数が5回でも助かっているとしたら?」 「10万分の1の確率ですから、何の作為もなければ奇跡的だと思います」 「たしかにその男にとっては奇跡だ。ところが室内のその様子をモニターで外から見ている人間にとっては奇跡でも何でもないとする。 作為はいっさいないのに奇跡ではないとすればどういうカラクリが考えられる?」 「・・・・・・」 「ヒントはその男の独房の中だけではなく、外の状況も想像してみる」 ねるはしばし考え込んでから、すっきりした顔で言う。 「なるほど、そういうことですか、そのカラクリが分かりました!」(続く) ブレーンワールド(その33) ねるは軽やかにしゃべる。 「その外にも10万個の独房があり、同じようなシステムになっているとすれば、確率論的に言って助かる人は1人いることになります。 100万個あれば、10人は助かる可能性はある。そういうことですね!」 「その通り。ダークエネルギー密度がきわめて精密に微調整されているとしても、奇跡ではないという意味はもう分かるよね」 「はい。超弦理論が予言する並行宇宙の数が10の500乗個ならば、 10の120乗分の1の値にピンポイントでアジャストする宇宙もあるということですね。 そして、いま私たちが住んでいるこの宇宙はそんな宇宙の一つだったというわけですね! でも、10の500乗個の宇宙があるかもしれないということに思い至らなければ、私たちが奇跡と感じるのも当然ですね」 「うん。独房の例で言えば、死んでしまった人間は考えることさえできない。 生きている人間だけがなぜ10万分の1の確率で助かったのか?と不思議がる。 並行宇宙で言えば、星が存在できない宇宙なら、生命も存在できず、そういうことを考えることができる高等生物も当然存在していない。 物理定数がちょうどいい値を取る宇宙にいて、人間のような高等生物に進化した者だけが、 なぜこんなに都合よく宇宙はできているのかと悩む。 でも、莫大な数の並行宇宙があれば不思議でも何でもない」(続く) ブレーンワールド(その34) 「疑問が氷解しました!でも、そういうふうに理解できても、やはり奇跡を感じずにはいられないのはなぜなのでしょう?」 「それは、人間の思考の根源的なところに『強い人間原理』がまとわりついているためだと思う」 「詳しくお伺いしたいです」 「独房の例で言えば、10万分の1の確率で助かった男は、外から見れば確率論的に当たり前だけど、当人にとっては奇跡だよね。 自分は特別ではなく、取るに足らない存在ということを徹底的に思い知らされているとしても、 『この私』にとっては、ありとあらゆることは『この私』に認識されることで生じる。 つまり、『この私』が世界の中で存在しているのではなく、世界は『この私』によって認識されることで存在する。 『この私』は他に取り換えることのできないかけがえのないものである。 そうすると生きていること自体が奇跡。物理定数が精密に微調整されているこの宇宙で生まれたこと自体が奇跡ということになる」 ねるは目を輝かせてうんうんとうなずく。 チャンスだ!ここが勝負どころだ! 「そして、いま、この宇宙の片隅で、ねるさんと出会えたこと自体が、き、き、奇跡だと思っているぅ」 しまった!肝心なところで噛んでしまった。 「ふふふ」とねるから笑われてしまった。(続く) ブレーンワールド(その35) ウザ女が戻ったら、自然とストーカーの件の話に戻った。 「本当にあの男の人には身に覚えがないんです」と心配そうにねるは語る。 「手がかりはなしか。池袋での三人の女性やサッカー場で見た女性とその男は関係しているのかな?」 「見当もつきませんが、池袋の三人もサッカー場の女の子も身に覚えがないというのは一緒ですが、関係ないような気がします」 その後、「ただ・・・」と言って、黙り込んでしまった。 「ただ?」 「ある意味、彼女たちがあの男の人よりも怖いんです。 サッカー場の女の子も、話を聞く限りはその三人も、私に対して悪意があるようには思えません。でも、だからこそかえって怖いんです。 得体のしれない何かが有無を言わせず私の運命に介入してくるような気がして」 「耳を押さえていたけど、何か聞こえたの?」 「なにか人の声のような気がするんですが、うなるような感じで、はっきりとした音声にはなっていませんでした。 鼓膜を通して聞こえるというよりは、直接、頭の中で響くといった感じで・・・」(続く) ブレーンワールド(その36) 「なんの手がかりもなしか。もう一つ教えて。あなたが鳥居坂の最終オーディションを受けなかったのはなぜ?」 「そんなこと関係ないでしょ!」とウザ女は怒鳴る。 関係ないだろうなとは俺も思った。ねるが秘密を打ち明けてくれれば、俺との距離が縮まるだろうという打算からだった。 「聞いてみないと関係あるかないかはわからない」と強弁する。 沈痛な表情でねるは話し始める。 「あの日、お母さんから電話がかかってきました。羽田空港にいるから急いで来るようにと。 お父さんもお母さんも私は大好きですし、尊敬もしています。だから、お母さんが言うことには何の疑いも持たず従順に従ってきました。 どういう要件かは想像がついたので、空港に着くまでは針のむしろを歩くようでした。 逆らえないな、命令通りに長崎に帰ることになるんだろうなと諦めていました。 対面したら、優しくもきつい口調でオーディションを受けるのをやはり禁じられました」 (続く) ブレーンワールド(その37) 俺は黙ってねるの話を聞いていた。 「ところが、私自身にも意外だったことに、激しく抵抗してしまいました。 『お母さん、今まで一度も逆らったことはないじゃない。今後もそうします。だけど、今回だけは一生に一度のわがままを聞いてください』と泣き叫びました。 アイドルになりたいという強い夢があったのは自覚していたけど、そう思っていた以上に強い強い気持ちだと悟りました。 そんな私の態度に驚いて、お、お、お母さんは・・・」とねるは嗚咽した。 「ねるのお母さんはそれ以来、ときどき目覚めるけど昏睡状態が続いて・・・」とウザ女がささやいた。 「じゃあ、アイドルになるという夢は?」と無造作に俺は言ってしまった。 「持てるわけないでしょ!」とねるは叫んだ。 外の曇り空から差し込む鈍い光の中で、座っている椅子とテーブルごと床にずしりと沈みこんでいるような気持ちになった。 ウザ女は顎をしゃくり上げをその顎をドアに向け、出ていくように促した。俺は従った。(続く) ブレーンワールド(その38) 落ち込みながら、朝に来た道を引き返し、公園までやって来ると、「えぇぇぇぇ、私、一人で探すのぉぉ?」という素っ頓狂な声が聞こえた。 俺のほうに背を向けてベンチに座っている女性二人が何か言い争いしている。 「だって、いまから電車に乗らないと、長野に返れなくなっちゃうし。眞緒は私より6歳も年上だし、一人でできるでしょ」 「いつも私のこと馬鹿にしてるくせに、こんなときだけ大人あつかいして!でも、本当にこの辺にいるの?」 「私のアンテナの感度を疑うの? この前だって、電車から新宿のフォームに降りた直後に、その存在を感知したから、その方向に移動したら、池袋で見つかったし。 その後に皆にメールで知らせたら、何人かが捜しにきて、なっちょだってきょんこだってそれらしい人を見たっていうし」 「でも、芽実ちゃん、見つけたときに、なぜ話しかけなかったの?」 「・・・・・」 「どうしたの?なぜ答えないの?」 「だから、言ったでしょ。変な男に絡まれて見失ったって。じゃあ、私は帰るから、眞緒、後はお願い」 「芽実ちゃん、行かないで!」 連れの女性の言葉を無視して立ち上がり、ベンチに置いていたバッグを取るためこちらのほうに顔を向けた。(続く) ブレーンワールド(その39) あのコは確か池袋でねるのことを訊いてきたコだじゃなかったか・・・? ん・・・?池袋・・・?変な男・・・?絡まれた・・・? まさか変な男というのは俺のことか?だいいち絡んできたのはそっちのほうじゃないか。 目が合うと、「あっ!」と言って、また絡みつくような目でしばし俺を見つめた後に、ぷいっと素早く顔を背け、踵を返しながら体も背ける。 かすかに膨らんだ胸の上で首にかけたラリエットが跳ね、顔の後を追うように動く。 背を向けたときには、ポニーテールに結わえた黒髪が白いワンピースを背景として左右に揺れる。 その光景がスローモーションのように流れる。 間違いない、髪型と服装は違うが、池袋で出会った美少女だ。この場所に来たというのは偶然ではないな。 やっぱりねるに関して何らかの情報を持っているはずだ。 うまくそれを引き出せば、ねるを安心させてやることができる。今日の失態を取り返すことができる! 「あの!」と大声で呼び止めるが、少女は振り返らず、早足となる。 おい、クソガキ、シカトすんなよ! 一段と大きい声で「あの!」と再び叫ぶが、またもや無視される。 ベンチに座っている女性がこちらに振り向いて驚いた顔をしている。 薄顔だが、端正な顔立ちをしている。このコもねるに用があるのかか? なぜかくも美人がそろいもそろってねるを捜しているのか?(続く) ブレーンワールド(その40) そのとき、スマホのバイブレーション機能が作動した。 ねるからのメールだ。 「先ほどは取り乱してすみませんでした。 悪気がなかったというのは十分に分かっていましたのに、あんな態度をとって、本当にごめんなさい。 水に流していただけませんか? それと、その前の二人だけのときに私が笑ったのをもしかしたら誤解なさってませんか? ああいう歯の浮くようなセリフを言い慣れている人じゃないというのが分かり、好ましく思って、笑みがこぼれたのです。 噛んだことを嘲笑したのではけっしてありません。 でも、はっきりと意思表示すべきでした。 そのことも本当にごめんなさい。 またいろんなことを私にご教示してくだされば幸いです」 天にも昇るような気分となり、公共の場にいることも忘れて俺は大声で高笑いをしてしまった。 「芽実ちゃん、待って、怖いよ〜、私を置いていかないで」と叫びながら、クソガキ美少女の後を追う薄顔美女の後ろ姿が見えたが、 二人からねるの情報を引き出すということはどうでもよくなっていた。 公園の中で通り過ぎていく数人から怪訝そうな顔で見られ、 おまけにそのうちの一人が連れていたミニチュアピンシャーから吠えられた。 我に返って、恥ずかしくなった。(続く) ブレーンワールド(その41) ねるとの仲は自然と深まっていった。 この日、一緒に映画を観るということとなっていた。 銀座のシネコンの前の待ち合わせ場所にねるはすでに到着していた。愛おしむような表情で上空をねるは見上げている。 その視線の先を見ると、三角形の尾羽の鳥が上昇気流を捕まえて空高く輪を描いている。 トンビだな。こんな東京の繁華街のど真ん中でトンビとは珍しい。 「赤と黒」の中で、主人公のジュリアン・ソレルは大空を舞う鷲を権力の象徴に見立てるという場面があるが、 トンビを見て、ねるは何を思っているのだろうか? ねるの表情にしばし見とれて、声をかけるのを忘れていた。 俺の姿を見つけると、「もうチケットは買われました?」とねるは訊いてきた。 「いや、まだだけど」 「じゃあ、映画はこの次にして、今日は海を見に行きません?」とはずんだ口調で言う。 俺に異存はなかった。ねると一緒にいられるのなら何でもよかったから。(続く) 物理に関して無知なので>>206 からの補足はどうあがいても理解できそうにないのですが、人間原理の「強い」「弱い」というのは決して正反対の考え方ではないですよね? ただ延長線上にあるかと問われればそれも違うような気もします。 「ブレーンワールド」で取り扱われているパラレルワールドは、強い人間原理を基にした理論であり、弱い人間原理の上には成り立たない、みたいな感じなのでしょうか 中々難しいです。 >>227 >人間原理の「強い」「弱い」というのは決して正反対の考え方ではないですよね? ざっくり言えば、強い人間原理は「人間は特別なものである」ということで、弱い人間原理は「人間は特別なものでない」ということなので、 正反対と言っても差し障りはないと思っています。 ただ、より正確には、論理学で言うAと¬Aの関係といったほうがいいかもしれませんね。(¬は否定を表す記号です。) Aを「長濱ねるが好きである」とすれば、Aの反対は「長濱ねるが嫌いである」なります。 ¬Aは「長濱ねるが好きではない」ということになります。 ¬Aの中には「長濱ねるが嫌いである」も入りますが、「長濱ねるが好きでも嫌いでもない」も入ることとなります。 >パラレルワールドは、強い人間原理を基にした理論であり、弱い人間原理の上には成り立たない、みたいな感じなのでしょうか 逆ですね。 弱い人間原理が成り立ち、強い人間原理が成り立たないということになります。 ただし、正確には「パラレルワールドは」ではなく、「無数のパラレルワールドは」としなければなりません。 ダークエネルギー密度(宇宙定数)を例にしたので、分かりにくかったかもしれませんね。 たとえば、電子の質量も9.1 × 10^-31kgという特定な値を取りますが、「なぜ?」と突き詰めても答えは出ないんですよね。 それは人間の知性が未熟であるというよりは、この宇宙ではそういう値を取るようになっているというしか答えようがないんですよね。 で、そういう値(電子の質量など)はランダムであるはずなんですが、ランダムの組み合わせだと星1個さえつくられる可能性は殆どないんです。 ところが、この宇宙では無数の銀河があり、その中には無数の恒星があり、その周りに惑星があり、さらに知的生命体にまで進化する惑星まである。 この宇宙が一つしかないとすれば、ランダムであるべき値が人間生存のため精緻に調整されていることとなります。 「人間は特別なものである」ということになり、強い人間原理が肯定されることとなります。 ただ、そういう見方というのはあまりにも宗教臭くて都合がよすぎるんじゃないかという反発が当然のように科学者から出てくるわけですね。 そして、宇宙は一つではなく、無限に近い数なら、物理定数がランダムでも、多くの宇宙は生命を生み出さない捨て駒になるにせよ、 いくつかの宇宙では生命を生み出す環境にあるという帰結がもたらされ、弱い人間原理が肯定されることとなります。 超弦理論が予言する10^500(10の500乗)個の宇宙というのは無限と言ってもいいくらいの大きな数なので、弱い人間原理を担保することとなります。 ブレーンワールド(その42) お台場の人口砂浜に俺とねるは腰を下ろした。 目の前には太陽の光で輝く海があり、潮の香がすーっと鼻に入ってくる。 太陽に灼けた砂を手で触るとちょっとだけ熱い。 「あっ!飲み物を買ってくればよかった」とねるは言う。 「じゃあ、自販機を見つけて、俺が買ってくるよ」 「私もいっしょに行きます」 「いいよ、いいよ、ひとっ走りしてくる」 「じゃあ、炭酸系の冷たいものなら何でもいいので、お願いします」 ほんのわずかな時間だけど、ねると離れ離れになるのは辛いなと思いながら全力疾走する。 自販機を見つけたが、女性二人の先客がいる。 一人が千円札を入れて、ボタンを押し、しゃがんで釣銭を取ろうとする。 「えーーーっ、信じらんない!」 「アヤ、どうしたの?」 「お釣りのうち300円近くが十円玉で出てきている。私のお財布に入りきれないよ。 メイメイ、この自販機に電話番号書かれてるでしょ、そこに電話して」 「どうするの?」 「ここまで来てもらって、百円玉に取り換えてもらう」(続く) ブレーンワールド(その43) はあ?そんなことでいちいち電話するつもりか!こちとら急いでいるんだ! 戻るのが遅れて、ねるが変な男に絡まれていたらどうしてくれるなだ! 財布に入りきれないなら、バッグの中にでも入れてろ! だいたい釣銭を取り換えるためだけに業者に来てもらうというバカな発想はどこから出てくるんだ! わざとらしく咳払いをすると、二人は振り返る。 アヤのほうは小顔でスタイルがよく、メイメイは濃い顔立ちだが素直そうな感じだ。二人ともとても可愛らしい。 「二百円分の十円玉を俺の百円玉2枚と取り変えましょう。その十円玉を使って俺がジュースを買うことにしますので」 「ええ、そうしましょう」とアヤは喜ぶ。 受け取った大量の十円玉を投入口に一枚一枚投入するが、かなり面倒くさい。 苛立たしく投入していると、「私、まだ、買ってないよ」という声が後ろから聞こえる。 なんだ?文句言っているのか? 振り返らず、投入しながら言う。 「後ろに人が待っているというのに二人のグダグダなやり取りで無駄な時間をこっちは浪費した。迷惑かけたとは思っていないの? 釣銭も思い通りになるようにしてあげたんだから、先を譲ってくれてもいいんじゃないの?」(続く) ブレーンワールド(その44) 目的のジュースを2本買って、振り返ったら、メイメイのほうが大粒の涙を流している。 うわっ!これじゃ俺が割り込んだために泣かせことになるじゃないか。 「気にしないでください。このコ、ちょっとしたことで泣いてしまうんです」とアヤが言う。 「アヤがこの場を離れようとしたから、そう言ったんです。順番を後回しにされたのを咎めたんじゃないんです。泣き虫ですみません」とメイメイは言う。 「ごめん、ちょっと急いでいたので、苛立ってしまった。あなたが言ったことを曲解して悪かったね」 「アヤ、キョッカイってなに?」とメイメイは呟く。 「とても重い刑罰のことよ、ほんとメイメイは言葉を知らないんだから」とアヤが得意げに答える。 こら、こら、それは極刑だろ。音を聞き間違えるのはともかく、今の会話の流れで極刑なんていう言葉をなぜ思いつく? 「アヤ、物知りだね」 おい、おい、マジで感心してんのか? 「メイメイも語彙力を増やす努力をすれば、私みたいになれるよ」 勘違いもそこまで徹底すれば痛快だ。憎めないおバカだな。 「急がれているようなので、お気を付けて。百円玉に取り換えていただいてありがとうございました」とアヤが頭を下げ、 「ありがとうございました」とメイメイも続く。 二人とも頭は悪そうだけど、性格はよさげで。礼儀作法もちゃんとしてんだな。 「先を譲ってくれて、こちらこそありがとう。じゃあ、これで」(続く) ブレーンワールド(その45) 時間がかかった顛末を説明すると、ねるは笑い過ぎて涙まで流す。 「あっはっはっは、千円札を自販機で使うときには私も気を付けなきゃ」 ゲラが収まってから、ねるに尋ねる。 「海を見たいと急に言い出したのは、トンビが関係しているのかな?」 「トンビは私にとって異界からの使者なんです。あの甲高くピーッヒョローと鳴く声も好き!」 「異界からの使者?」 小首をかしげた俺を見て、「うふふふ」とねるは嬉しそうに笑う。 「私は長崎県の五島列島の小さな島で生まれました。 それについては言えば、生まれたいと思う場所で私は生まれたという単純な感想があるだけです」 灼けた砂をどかし、湿った砂をキャンバスにして、ねるは指で描いた。 そこには、上下に二つの島があり、通常の地図通り、上が北で、下が南となっていた。 「私の生家はこの南の島の北端にあり、流れの速い海流を挟んで北側の島が私の家からいつも見えていました」 二つの島の間に深い線をねるは入れた。速い海流を表しているのだろう。 「その情景が目に浮かぶようだね」(続く) ブレーンワールド(その46) 「二つの島の間は100メートルもないのに簡単には行けないんですよ。 南側の島の船着き場は南端に、北側の島の船着き場は北端にありました。 しかも二つの船着き場からの直接便はなく、いったん九州本土に渡って乗り換えてからしか行けないんですよ。 それに北の島には不定期便しかなかったので、一度も行ったことはありませんでした。だから、北の島は私にとって異界でした」 「トンビはそこを自由に行き来することができた。だから、異界からの使者というわけか」 「はい、それとカモメなんかとは違って、天高く舞っていることもよくあり、その姿が何か特別なものに思えました」 そうか、銀座でもトンビは高く舞っていたな。 「島にあった天主堂で神父様から天使のお話をよく伺ったものです」 天主堂というのはいい響きだな。キリスト教と日本の伝統文化が融合したという深遠なものを感じる。 「私の想像の中では天使の羽は白ではなく、トンビの茶色い羽になっていました。神父様にもそのことをお話したことがあります」 かなり奇抜な想像だ。しかもそれを口にするとは、けっこう大胆なところもあるんだな。 「叱られなかった?」 「いえ、そんなことはありませんでした。 『あなたの流儀で神様や天使を想い描き、その想像を自由に遊ばせていいんだよ』と優しく言われました」(続く) ブレーンワールド(その47) 自分で描いた地図を見ながら、深い記憶に浸るようにねるは話を続けた。 「で、その北の島にはその風景には似つかわしくない派手な紫色の壁の家があり、子供どうしでそれについてよく話したものです。 北の島には誰も行ったことがなかったので、誰もが好き勝手なことを言いました。 実は、あの家は張りぼてになっているとか、あの中に入れば長崎市内でも東京でも海外でも一瞬でワープすることができるとか。 でも、真実を大人たちに求めても、そっけない言葉しか返ってきませんでした。 『そういや北の島に紫色の家はあるな、ばってんそれがどがんかしたとか?』というように。 ある日、きっと何かを知っていると思った島で一番ご高寿の100歳近くだというお爺さんに、尋ねる機会を得ることができました。 そしたら、『ああ、あの家か。あれは希望の光たい』と仰いました。 希望の光!ああ、なんてゆかしい言葉!と思い、私は興奮しながら話の続きをせがみました。 『今まで他人には話したことはなかったが、特別に話してやるたい」 ねるはその老人の口真似をしながら話しだした。(続く) ブレーンワールド(その48) 「おいが15んなったときたい、見習いとして初めて兄貴ん船に乗った。 まん丸かお月さんが煌々と輝いて、波一つなか日やった。初めて漁に出るおいに気使ってそぎゃん日を選んでくれたんやろもん。 そん日は魚がじぇんじぇん釣れず、なんもやることもなく、おいは海に映ったお月さんば眺めとったたい。 そしたら、急にや、そんお月さんが二つに割れたと思ったら、船が横倒しになり、おいも兄貴も海に投げ出されとった。 バスケットボールくらいの大きさの浮きをおいの方に投げて、『そいば服ん中に入れて、絶対、離すんやなかぞ』って兄貴は叫んだ。 兄貴は浮きは持っとらんやった。15ん身で死んでしもうたら無下らしかと思うたんやろ、おいに浮きば譲ってくれたと。 服ん中に浮きば入れたそん後たい、海面が小山んごと大きゅうなっった。 宙に跳ね上げられた後、海面にたたきつけられたと思うたら、今度は海ん水がおいの体ば海底近くまで叩きつけた。 そがんことが何回も繰り返されて身も心もへとへとうなとった。(続く) ブレーンワールド(その49) ようやく海が治まったと。それもものすごく静かんなった。先まであぎゃん荒れ狂っとた海がぞ、信じられっか? 兄貴ば探そうと思って、辺りば見回したけど、なんも見えん。 波の飛沫が細こう飛び散って、霧ん中にいるんごたった。一寸先はなんも見えん。 海は静かやったけど、そぎゃん様子やったから、どこに向かって泳げばいいんかが分からんかった。おいは死ぬのを覚悟しとったたい。 そしたら、どぎゃんしたことか、お月さんの光が当たって霧が銀幕んごとなって、そん中にそん紫か家が現れた。 急に力が沸いて、そん方向に泳げば助かるような気になっとうた。 そしたら、そん紫か家は逃げていくったい。砂漠で迷うた人には逃げ水ちゅうもんが見えると聞いたことがあったけど、そんごたった。 とにかく必死で紫か家が見える方向に泳いだったい。 そしたら無人島が見えて、そこに上がってほっとした。 ようやく兄貴んこと考える余裕ができた。浮きば海ん中に投げて、「神さん、兄貴ば助けてやらんね。そん浮きば兄貴んとこへ運んでくれんね」と叫んだと。(続く) ブレーンワールド(その50) 次ん日、通りがかりの漁船に助けてもろうて、おいはこん島に戻ってきたとう。そしたら、兄貴はもうすでに帰っとった。 兄貴が無事んとこ見て、おいは泣ぎだして、兄貴に抱き着こうとした。 そしたら、おいの頬ば平手で殴って、兄貴が言うた。 「こん馬鹿があんほど浮きば離すなと言うたのに。おいは生きとっても、わいが死んだら何にもならんやなかか」 なんのことかわからず、昨日んこと話したら、兄貴は驚いた顔しとった。 兄貴にも海面の霧の上にあん紫か家が現れて、そっちに泳いだら、 おいが投げたそん浮きが兄貴んとこに流れ着いて、そんため助かったと言うとった。 希望の光っていうのはそういう意味たい」 ねるの長い話の余韻に浸りながら、ねるの長崎弁を真似して、海を見ながら言う。 「感動的な話ばってん、ちょっと話ができすぎたい」 「やっぱり嘘だと思われますか?」 「天使の存在を心から楽しんで、何人かで共有すれば、天使はフィクションでありながら、しかもフィクションという実在となる。 その話は心から楽しめた。俺とねるちゃんの間では本当のことでいいと思う」 俺の右手の上に自分の左手をねるはゆっくりと重ねた。 体の芯で湧き上がった歓喜が髪の毛から足の爪先まで伝播した。 手に触れられただけでこんなにも仕合わせな気分となるものなのか? この仕合わせが永遠に続くものだと思った。(続く) ブレーンワールド(その51) その直後だった。両耳を押さえ、悶絶の表情となり、ねるはうなだれた。 ねるの前に回って、「どうした、気分が悪いのか!」とねるの両肩を掴む。体が痙攣している。 しばらくその状態が続いたので、スマホを取り出し、救急車を呼ぼうとしたら、ねるは顔を上げた。 「大丈夫?」 「はい、もう大丈夫です」 ねるは覚醒したような表情となっていた。なにか特殊な通過儀礼を一瞬のうちに飛び越えたかのような気配を漂わせていた。 そのただならぬ雰囲気に不安を感じた。 「人の音声のようなものがうなるように頭の中で直接響くと前に言っていたよね。 もしかして、さっき、それが明確に聞こえたの?」 「いえ」とねるは無表情で答えたが、左眉が少し跳ね上がるのを俺は見逃さなかった。 俺の不安は収まらなかったが、ともあれねるが平常の状態に戻り、もうなんともなさそうなことには安堵した。 「負ぶっていこう。道に出たらタクシーを捕まえよう」 「いいえ、本当に大丈夫です。それよりあの人たちを引き留めておいてくれませんか?気持ちが落ち着いたら、私も後で行きます」 「あの人たち?」と言いながら、周りを見渡した。 手をひさしにして、目を細めて逆光となる方向を見たら、砂浜に座っている女性の集団がいた。 強い視線が一斉にこちらのほうへ向けられている。 「分かった。引き留めておくから、絶対に無理はしないように」 彼女たちのほうへ向かった。(続く) ブレーンワールド(その52) 近寄ってみて、俺は驚いた 11人いたが、その全員が美女ばかりだったからである。 もっともその過半数はすでに知っている顔だった。 俺が話しかけようとする前に、そのうちの一人が立ち上がって喋り出した。 「あなたのことは、すでに出会った者たちから聞いてみんな知っています。 初めましてのコはおそらく5人ですね。まず、その5人から自己紹介させていただきます。私は佐々木久美です」 次々に一人ずつ立ち上がって、名乗りを上げた。 「加藤史帆です」 「高瀬愛奈です」 「佐々木美玲です」 「影山優佳です」 ねるがサッカー場で出会ったというのはおそらくこのコだな。 「池袋の本屋さんでお会いましたよね。私は潮紗理奈です」 「同じく池袋のラーメン屋さんでお会いましたよね。齊藤京子です」 こんな低い声をしているのか。見てくれからは想像もつかないな。 「先ほど会ったばかりですよね。私は高本彩花です」 「東村芽衣です」 なんとなくそんな気はしていたが、やはり彼女たち二人もねるを捜していたのか。 立ち上がらない二人を佐々木久美は目で催促する。 公園での二人だな。俺がエキセントリックな高笑いをしたから怖がっているのか? 「公園で出会ったときに二人の会話が聞こえたので、名前は知っている。眞緒さんと芽実さんだったね」 「そうです。井口眞緒と柿崎芽実です」と代わりに佐々木久美は言う。(続く) ブレーンワールド(その53) 名乗りを上げ、ねるとの関係を告げてから、俺は訊いた。 「どういう理由かは知らないが、あなたたちが捜しているのはあいつだね」とねるの方向を振り返る。 ねるの気配が急変した不安をかき消し、ねるは俺のものだと自分に言い聞かせるように「あいつ」と言った。 「あいつもあなたたちと会いたがっているけど、いま動悸が激しいようなので、しばらく待ってほしい」 そう言ったら、全員がそわそわしだした。 「あなたたちがなぜあいつを捜しているのかをよかったら俺にも教えてくれないかな?」 堰を切ったように全員が一斉に喋り出した。 2017年の4月に行われた鳥居坂46の二期生募集のオーディションで自分たちは知り合った。 年齢も出身地もバラバラなのに自然と仲良くなった。 最終オーディションの前日に11人で集まったとき、一人が切り出した。 たしかに自分はアイドルとなることを渇望しているが、でもこのまま鳥居坂46に入るのは違うような気がする。 そしたら、「私も、私も」となって、同じような違和感を全員が共有していることが分かった。 このまま一緒に話していたら、お互いに干渉しあって、重大な進路の決定に影響しかねないと思って、すぐに解散し、 最終を受けるかどうかは個人個人の判断に委ねることにした。 蓋を開けてみたら、結局は誰一人も受けなく、全員が当日に断りのメールや電話を入れた。 そういったことを話してくれた。(続く) ブレーンワールド(その54) 「全員で当欠したのなら、運営側は相当に不審がったんじゃないの?」と俺は訊いた。 佐々木久美は苦笑しながら答えた。 「ええ、私たちを他のプロダクションの偵察部隊か嫌がらせ要員かと思われたんでしょうね。 文面の言葉使いは丁寧ながらも、この世界ではアイドルには絶対になれないといった内容のお怒りのメールが全員に届きました」 「そういう事情はわかったけど、なんであいつのことがそんなに気になるの?話がつながらないんだけど」 「先が見えず、自分の存在意義に不安を覚えるんです。最終オーディションを当欠したのもそのためです」と加藤史帆が切り出し、 「そうなんです。そして、ここにいるみんながそういう不安を持っているんです」と佐々木美玲が続いた。 だが、その後、二人とも黙ってしまった。 「どういうように存在意義に不安を覚えるのかをもっと具体的に話してくれないかな?」 「うまく説明できないんです」と加藤史帆は言う。 高瀬愛奈が代わりに答える。 「生きているという実感が薄いといったようなものです。 何かが欠落しているため、本来、私たちが取るべき道ではなく、外れた道を歩んでいるような気がするんです。 だから、先が見えない日々が続いているんです」 その欠落とやらにねるが関係しているのか?(続く) ブレーンワールド(その55) 気を抜いたら手が下がり、持っていた缶から飲み残しのジュースが砂の上にこぼれ落ちた。 灼けた砂に耐え切れなくなったのか、小さなカニが俺の靴の上を横切っている。 影山優佳が次に口を開く。 「ある日、家族でサッカー観戦に来ていたときです。その日は気持ちが落ち着かずずっとそわそわしていました。 鳥居坂のオーディションの第一次審査をその日に終えて、この10人とは出会ったのですが、何か欠落しているなとは私も思っていました。 そして、その不安の原因がグラウンドを挟んだ反対側の客席にあるような気がしたんです。 ハーフタイムのときにそちらに行ったら、全身に電流が走りました。そこにいたのがあの人なのです。 ジグソーパズルの最後の1ピース、いや最初の1ピースを見つけた思いでした」 「その話の続きはあいつから聞いている」 潮紗理奈が続く。 「あの日、芽実から連絡を受けて、池袋に行ったら、引き寄せられるように本屋さんに入り、あの人を見て同じように私も感じました。 私という存在はあの人を中軸にして組み立て直されるべきだという気がしたのです」 「私もです。あの人を見たとき、日の光も時の流れも正常なものに変わっていくようが気がしたのです」と齊藤京子も話す。 「で、何が言いたいの?」と俺は尋ねる。 「私たちはあの人に従属しているだけの存在にすぎないんじゃないか。 あの人の気まぐれによって私たちの運命は左右されるんじゃないかということです」と潮紗理奈は言う。(続く) ブレーンワールド(その56) 彼女たちの話を聞いて薄気味悪くなって、言葉に詰まった。 そのとき、「そんなことないよ」という声が後から聞こえた。 ねるがやって来ていた。ねるの周りに一斉に人だかりができる。 「私がいなくても、自らの運命を切り開くことがあなたたちにはできる」 一人ひとりの名前を口にしながら、ねるは一人ずつ強く抱きしめた。 その輪の中に入らない者がいる。公園でのあの二人だ。 ねるのほうから座ったままの井口眞緒に近づいていき、その前に跪いた。 「眞緒ちゃん、どうしたの?」 「今日、あなたと出会ったことで私たちの未来はなんとなく予想がつくの。 でも、私は歌もダンスも下手でみんなのお荷物にならないかが心配。私だけ抜けたほうがいい気もする」 眞緒の涙が流れる左頬を右手でゆっくり拭って、眞緒の目を除き込みながら、ねるは言う。 「大丈夫、みんなが教えてくれる。それに眞緒ちゃんには誰からも愛されるという才能があるから。 何もしなくてもいるだけであなたはみんなのためになっている」 俺の高笑いを気味悪がっていたのではなく、そういう不安があったから座り込んでいたのか。少しほっとした。(続く) ブレーンワールド(その57) 最後の一人にねるは向かう。 柿崎芽実は立ち上がって、いまにもねるの胸に飛び込んでいきたそうな表情をしながらも、後ずさりする。 ねるを切望する一方で、恐れているようにも見える。 もしかして池袋でもねるに直接に話しかけなかったのはその恐れのためか?だから俺にねるのことを尋ねたのか? 「芽実、どうしたの?今日だって、あなたが私を感じて、皆を集めてくれたんでしょ。なぜ逃げるの?」とねるは近づく。 柿崎芽実の動きが鈍ったとき、捕まえてねるは抱きしめ、顔を寄せ、頬ずりをする。 「だって、あなたがいると私はモブになっちゃう」 「芽実、そんな心配することはないよ。あなたは私なんかよりずっと大きな可能性を秘めている。 それにこの世界では、私はあなたたちとは一緒に活動できない」 この世界では?なぜそんなことをわざわざ言う必要がある? 他の10人もねるの周りに集まってくる。 「ごめんね、みんな、やむを得なかったことだけど、私の選択した道がみんなの運命を狂わせたみたいで。 残念ながら、ここではみんなと一緒に活動はできないと思う」 ここでは?また、なぜそんな変なことを言う? 「でも、これ以上、あなたたちが運命に翻弄されことはもうないよ」 ねるがそう言い終えると、彼女たち全員の顔が和らいだ。(続く) ブレーンワールド(その58) 彼女たちが去った後に、ねるに尋ねた。 「なあ、ねる、なぜあのコたちの名前を知ってたんだ? あのコたちが俺に自己紹介するときには向こうで座っていたんじゃなかったのか?」 ねるのほうから手を重ねてくれたという昂揚感の直後に、ねるの心が俺から遠ざかっていくような気配に変わった。 仕合わせの絶頂からの得体のしれない不安に突き落とされたことに混乱しあせっていたのかもしれない。 その混乱とあせりから、お前は俺のものだと宣言するように「ねる」と呼び捨てにしてしまった。 「風下だったから、聞こえていました」とそっけなくねるは答える。 ねるは俺を見つめた後、当惑した表情となり、目を伏せた。 その当惑にはどんな感情が隠されているんだ?なぜ前のように微笑んでくれないんだ? 「離れたところから見聞きして、11人全員の顔が名前と一致できるまで即興で覚えたのか? それに初対面の相手に対して、チャン付けや呼び捨てにするのはちょっとおかしい気もするんだけど」 気がかりなことがあると何でも口にせずにはいられない男だと思われたかもしれないと後悔して、言ったそばから撤回した。 「勘ぐるようなこと言って悪かった。今のは無しにしてくれ」 「急用を思い出したので私も帰ります。その缶、一緒に捨てておきます」と俺の手から缶を抜き取って、向きを変えて、ねるは歩き出した。(続く) ブレーンワールド(その59) ねるを呼び止めようとするが、言葉が出てこない。 先ほどのあのコたちの話にも俺は混乱していた。 現実的な局面において、自分に強い影響を与える人物が現れ、自分の運命はその人に従属していると思うことはあるだろう。 そういうことならよくわかる。 しかし、自分の運命がまだ見ぬ誰かに従属していると考えるということなどあり得るのか? この世界は自分によって認識されるから、この世界の中では自分自身が主体であり、すべての決定権は自分自身にある。 たとえ自分の運命を誰かに託すとしても、その託すという決定権は自分自身にある。 しかし、自分の運命を託す誰かがアプリオリに存在していて、託すという決定権自体が自分の意思を超越していることなどありえるのか? 離れていくねるに目を向けると、ねるは一度もこちらを振り返ることはなかった。 物理的に距離が遠ざかっていくその様子は精神的にもねるが俺から離れていくように感じられた。 「ねる」と唐突に呼び捨てにしたことを怒ってんだな。でもすぐに仲直りはできるはずだ。 不安をかき消すためそう自分に言い聞かせていた。(続く) ブレーンワールド(その60) 砂浜での出来事以来、ねるに電話をしても留守電になって出ないし、ねるからかかってくることもない。 メールもスルーされるようになった。 池袋で最初に見たときには綺麗だと目が釘付けになったにせよ、それ以上ではなかった。 深く関わり合ううちにねるの容姿の美さは心の美しさによって裏打ちされていると気づいた。 明るく社交的ながらも、謙虚で気遣いができる。 金持ちのお嬢様ではなくても、天性の優雅さを持っている。 おそらく歳をとってもねるは美しいことだろう。 歳を重ねて容色が衰えたとしても心の美しさから出てくる豊かな表情と天性の優雅さはいつまで経ってもきっと消えることはない。 美しいものはすべて朽ち果てるというが、ねるの永遠の夏は色あせたりはしない。 俺の世界は真っ二つに分けられてしまった。 一つはねるのいる世界で、そこにはすべての幸福、希望、光がある。 もう一つはねるのいない世界で、そこはすべてが憂い、絶望、闇である。 ねるがいない世界なんて考えられない。なのに、そのねるが俺とは会いたがらない。 ねる・・・、ねる・・・、ねる・・・、会いたい・・・。(続く) ブレーンワールド(その61) 本当に観たいと思う番組のときにしか今まではテレビは点けなかったが、画面を見ていないときでも点けることが多くなった。 俺の心の中で残響するねるへの思いをテレビの雑音でかき消すためである。 この日、テレビを点けていたら、交通安全運動のキャンペーンの番組にゲストとして鳥居坂46が出演していた。 テレビの中のレポーターが言う。 「敬愛する人を交通事故で亡くされた原田まゆさんとしては、他人ごとではないですよね」 鳥居坂46のセンターの原田まゆが答える。 「特に子供さんというのは予測のつかない動きをするものです。だから、ドライバーのみなさんには細心の注意をお願いしたいですね」 原田まゆが喋り終わると、「交通事故を防止するためには人と人との絆が大切です」とメンバーの誰かが言う。 絆?その言葉はその場では不自然で唐突である気がした。 その後も鳥居坂46が出演しているテレビ番組を何度か観たが、鳥居坂46のメンバーは「絆」と相変わらず口にしている。 俺の感覚が少しおかしくなっていたのだろうか、表面的には美しく響く「絆」という言葉に何か胡散臭さを感じた。(続く) ブレーンワールド(その62) 「愛国心」と同じような違和感が彼女たちの「絆」には感じられた。 政治家や官僚が汚職などをしたとき、私利私欲に走るのは国を愛する心がないからとして、 「愛国心」というキーワードで連中を糾弾するのはいい。 ただし、その一方で、日本に住んでいるマイノリティを排除するフレーズとしても「愛国心」は使われている。 ギャグでもパロディでもなく、「愛国心」という言葉を本気で使って、ネトウヨが差別発言をしていることからもそれはわかる。 心を一つにして固い結束を誓うために「絆」を使うのはいい。 だが、彼女たちの「絆」には何かを排外するような邪悪さが感じられる。 苦労の末にやっと売れた先輩グループの知名度のおかげで、鳥居坂46は何の苦労もなく売れた。 紅白にも出場でき、CDもミリオンに迫る勢いである。 身銭はそれなりに入るだろうし、近くの家族からも遠くの祖父母・親戚からも同級生たちからも絶大な賛辞を受けているだろう。 全員選抜なので、全メンバーがその恩恵を当然のように受けている。 その権益に対する執着心はおそらくきわめて肥大化している。 もし研修を終えた二期生が合流すれば、鳥居坂46にも選抜・アンダー制が敷かれることとなる。 アンダーに落とされたということになれば、死刑宣告を受けるのにも匹敵するような恐怖かもしれない。 自分たちの権益を蝕もうとするものへの防御壁として、彼女たちは「20人の絆」と口にしているんじゃないのか? くだらない妄想をしているなあと自嘲した。 ねるに会えない心理的な抑圧で心が歪んでいるのだな。(続く) ブレーンワールド(その63) ダイヤモンドアンビルが搬入されるということで、日曜日に研究室に一人で番をすることになった。 ダイヤモンドアンビルとは超高圧・超高温の状態を再現して、地球内部の状態などを調べるための実験機器で、 レーザーを照射して加熱しながら、試料を加圧するために、 それを挟む接触点に地球上でもっとも固いダイヤモンドが使われているというものである。 業者が来て搬入している最中に、隣の研究室の同級生があの機器は何だと尋ねたので答えた。 「はあ?地球物理学なら分かるが、理論物理やってるお前らの研究室に何でそんなものが必要なんだ?しかも相当にバカ高い代物だ」 「さあ、俺もよくわからんが、何でも、高温高圧下での岩石の結晶構造の相転移の変化の様子を調べることで、 宇宙の始まりであるインフレーション時における相転移のイメージのインスピレーションを得るために使うらしい」 「インスピレーションを得る?なんじゃ、そりゃ?そんなことがまかり通るのなら何でもありじゃねえか! 」 「俺にイチャモン付けても何にもならないぞ。先生がいるときにでも文句は言ってくれ」(続く) ブレーンワールド(その64) 「言えるわけないだろ。しかし、お前んとこの研究室の先生はいけすかんな。ノーベル賞候補かなんかは知らんが、評判悪いぜ。 平等に分けられるべき研究費を強引に分捕ってるっていう噂じゃないか。」 「まあ、話はいろいろ聞いてはいるがな」 「それに教え子の女子学生に手付けてるって話だぜ」 「まさか・・・」 「俺んとこの研究室のドクターが学部生だったころに聞いた話だそうだが、 当時お手付きしていた女子学生の生年月日と名前をパソコンのログインのパスツールに使ってたらしい」 搬入が終わり、書類にハンコを押して、研究室の中で一人となった。 教授のパソコンを立ち上げ、研究室で該当しそうな女子学生の生年月日と名前を打ち込んだら、あっさりログインできた。 普段の俺ならそんなことは絶対にやらなかっただろうし、万一やったとしてもすぐにログアウトしただろう。 しかし、ねるに会えない空虚感からそのパソコンの中を探り始めた。(続く) ブレーンワールド(その65) パソコン内のメーラーを探っていると、驚くべきことに総理大臣からの送信メールが見つかった。 しかし、それ以上に驚愕したのはその内容だった。 「親愛なる先生。以前に文科省の事務次官が申し上げた長濱ねるの件についてなにか判明したことがあれば、ご一報をください」 一体何なんだ?送信人が文科省となっているメールを探した。 国内外の大学や研究機関からの大量のメールが送信されているのでスクロールするだけでも手間がかかる。 文科省からのもので一番古そうなのが2017年の1月27日のものだった。 「日本の重力波検出器が2016年末に異常な強さの重力波をとらえました。 しかも、さらに驚くべきことに、スパコンで解析したところ重力波特有の波形でありながらも、なにか意図したかのような規則性があるようです。 しかも日本語の文字列に対応しているかもしれないという報告もあります。 今回の謎の重力波を再び受信する可能性もあります。 ご存知の通り、莫大な予算をかけたKAGRAの完成が間近です。そのテスト運用も間もなく始まるでしょう。 アメリカやヨーロッパに先駆けて、この謎をKAGRAで解き明かすことができれば、その成果を国民に示すことができます。 宇宙物理学の権威でいらっしゃいます先生にご協力をお願いします」(続く) ブレーンワールド(その66) 日本の重力波検出器が重力波をとらえた? この最後のほうの文面から、KAGRAが秘密裏のうちにすでに稼働されているというわけでもなさそうだな。 だったら、その日本の重力波検出器というのは何だ?まさか三鷹にあるあのプロトタイプの重力波検出器か? あんなもんでは遠方の銀河からの重力波は捕らえられない。 近場で重力波を放出するようなイベントが起ったというのは聞いたことがない。 重力波を捕らえたということ自体が大ニュースだが、近場での重力波を捕らえたならさらだ。 本当ならなぜ発表しない? 重力波の波形が意図したかのような規則性を示している? しかも日本語の文字列のようだと? これが本当なら、もっと大ニュースだ。 最先端の検出器でも重力波を感知できるものといえば、ブラックホールや中性子星の合体か超新星爆発かのイベントが起きたときくらいだ。 そんな手に負えそうもないようなものをコントロールして規則性があるように送信する高度な文明があるというのか? 仮にそんな高度な文明を持つ異星人がいたとしても、地球人なんかを相手にするわけがない。 人間がミジンコを本気で相手にするようなものだぞ。(続く)」 ブレーンワールド(その67) 次に古い2017年の2月11日のメールを見てさらに驚愕した。 「スパコンでさらに解析を進めたところやはり日本語の文字列が対応しているとのことです。 どうやらひらがな表記が対応しているということです。 『ながはまねる×××ざか』という文字列となっているとのことです。 ×印の部分は観測時のノイズがひどくて判明できなかったようです」 何なんだ、これはいったい?息を呑みながら次の2017年の2月14日のメールを見た。 「この間のメールで重要なことが判明いたしました。 『ながはまねる』という名前の者が日本国内でただ一人だけ確認できており、長崎県の高校生のようです。戸籍の表記は『長濱ねる』であります」 スクロールさせる手を震わせながら、次の2017年の2月15日のメールを見つけた。 「以前に文科省で事務次官をやられていた方の孫娘さんが長濱ねるの高校の同級生だという事実が出てきました。 その孫娘さんを使って探りを入れようと思います」 まさかあのウザ女が官僚の元事務次官の孫娘なのか?(続く) ブレーンワールド(その68) 2017年の3月28日のメールを開いた。 「例の孫娘さんを使って、先生が今度行われる池袋の書店でのトークイベントに長濱ねるを参加させることに成功したようです。 何か手がかりが見つかれば、ご一報ください。 なお、長濱ねるには公安警察で常時、監視を行うことにしました。総理の許可もいただいております」 ウザ女が意図的にねるから情報を引き出していたとは思えない。知らず知らずのうちに操られていたと考えるのが妥当だろう。 それにしてもあのストーカー男は公安だったのか! 悪質な巨大宗教団体はたしかにあるが、日本を転覆しようと企てるほどのカルト宗教は今は存在していない。 デモや組合活動で国に反旗を翻す左翼は多いが、テロ行為でクーデタを起こそうとするほどの暴力極左は今はいない。 だから、公安は用済みになりかけているというのはよく聞く。 そこで、自分たちの組織の延命を謀るために、どうでもいいような人間を人権無視までして監視して仕事をしている振りをするという噂もある。 そのターゲットとしてねるを監視していたのか。 吐き気にも似た不快感が喉元に上がってきて、次いで激しい怒りが沸きあがった。(続く) ブレーンワールド(その69) ウザ女は言葉巧みに仕向けられ、無自覚のままにねるのことを報告させられていただけだろうが、 何らかの情報を引き出せると思い、電話をかけた。 「ここんとこ、ねるは何かを思いつめていたり、心ここにあらずといたりという感じで少し変なの。 あんたさあ、最近ねると全く会っていないそうじゃない。元気づけてあげなよ」 こちらが要件を言おうとする前に、いつものように一方的にまくしたててきた。 俺は当初の目的も忘れて、「いや、会おうにも、俺は拒否られてんだよ」と情けなく返すのが精一杯だった。 「へー、そうだったの?ちょっと前まではあんたのことを嬉しそうにねるは話していたのに」 やはりあの砂浜での出来事以前にはねるは俺に少しは好意を持っていてくれたんだな。 ねるが心変わりした原因を突き止めることができれば、まだ望みはあるかもしれない。 でも、それを探るためにはねるに直接に会わなければ始まらない・・・・。 「よし、じゃあ、私が取り計らってあげるよ」 渡りに船だった。 自分でも意識していなかったが、ウザ女に連絡した俺の狙いは最初からそこにあったかもしれない。 ねるとの連絡をウザ女が取り持ってくれることを無意識に期待していたのかもしれない。(続く) ブレーンワールド(その70) ウザ女に言われるままに、ねるの住む女子寮を再び訪れた。 初めて行ったときよりも気後れしている。 寮の前まで来たとき、突風が吹き、街路樹がザワザワと揺れる。 それ以上、近づくなと言われている気がした。 前と同じように、テンキーを操作して呼び出し、オートロックを開けてもらい、管理人のオバサンの監視を突破し、部屋まで行った。 呼び出しに応えたのも迎えに来たのも前はねるだったが、今回はウザ女だった。 俺を部屋に通した後に、「じゃあ、あたし、出かけてくるから、二人で十分に話し合ってね」と言って、ウザ女は出て行った。 テーブルで何か書きものをしていたたねるはその手を止め、あのときのように当惑した表情を見せ、俯いて言葉を発しようとはしなかった。 俺は座ることもできず。漫然と立ったままだった。 窓から入ってきた風がテーブルの上の紙を床に落とした。 それを拾うとき、冒頭の文が目に入った。手紙の下書きのようだ。 「突然のお手紙をお許しください。鳥居坂46の二期生募集の最終オーディションを当欠した11人についてのお話があります。 どうか彼女たちにもう一度チャンスを与えていただけないでしょうか? 信じがたいと話だときっと思われることでしょうが、彼女たちがなぜ当欠したのかの理由をお話したいと思います。・・・・・・」(続く) ブレーンワールド(その71) 「勝手に見ないでください」とねるは怒りながら口を開く。 あわてて文面を下にしてその下書きをテーブルの上に置いた。 しかし、そのあとはまた沈黙が続く。 ねるがいるというのに空間は色彩が失われ、よどんだ空気が重くのしかかっている。 やはりねるは俺を完全に拒絶しているのか。現実を再び思い知らされる。 実現のない恋に対して曖昧な態度を取ることは相手を惑わすことにしかならない。 こういう冷淡な態度をとるのもねるの思いやりなんだろう。 だが、理屈では分かっていても、感情の上では割り切れない。 ここまで俺はねるを好きなのに、ねるは俺を拒絶しているという不条理が我慢ならない。 ねるが目の前にいるというのに今や幸福も希望も光もない。 ともかく今は沈黙の状態をどうにかすることを考えよう。 何でもいいから話し合うための突破口となるものはないか? あのストーカー男が公安警察だったということを話せば会話の切っ掛けになるんじゃないか? いや、やめておこう。こういう状況でそんな話をすれば、ますます嫌悪されるだけだ。 それにねるにさらなる不安を加えることにもなる。 俺に打つ手はないのか?(続く) ブレーンワールド(その72) 呼吸を整えて、見切り発車で話し始める。 「ねるちゃん、これまで俺は人並みかそれ以上には女性とは付き合ってきた。 高校のときに付き合っていた女とは東京に出てきたときには当然のように別れた。 大学入ってからも、出会いと別れを繰り返したが、未練を抱く女は一人もいなかった。 俺の人生において、女というのは取り換え可能で、二次的なものにすぎなかった。でも、ねるちゃんだけは違う!」 ねるは顔を上げずに黙って聞いていた。 「いつか、漁師のお爺さんが初めて漁に出たときに、激しく荒れ狂った海で溺れそうになったという話を聞かせてくれたよね。 生活に支障がでるほど色恋至上主義となっている男をそんなイメージでとらえていた。 荒れ狂う恋の波風が吹き付けている海に子船で出航し、恋の波に翻弄されている男を俺は憐れんできた。 嵐の海の中の様子を安全な岸から眺めて、いつもせせら笑っていた。 それがねるちゃんと出会ってからは同じように煩悩の虜になって、この俺が俺のものとも思われないでいる」(続く) ブレーンワールド(その73) 顔を上げ、ねるは無表情で言う。 「それがどうかしたのですか?」 「このままねるちゃんに拒絶され続けたら、もう生きているのさえバカバカしくなる・・・」 冷めた眼つきで睨んでから、重たい空気を裂くようにしてねるは言う。 「そういうことを言うのはやめてください。もしあなたに生きる希望を与えるというのなら、どうぞ私をご自由にしてください。 でも、私の心まで差し上げることは決してできません。それはお分かりですよね」 卑怯すぎる俺の言動に責任を感じたことから発せられた言葉というのは分かっている。 でも、これは好機だ。体が結ばれれば、いずれその心もものにできる。 近寄って、ねるの背中と太腿に左右の手を回し、体を半回転させてねるを床に下した。 ねるの背中は石膏のように硬直して、俺を拒絶している。 池袋で触ったときの柔らかい感触はどこにもなかった。 それでも唇を重ねるが、ねるの唇は開こうとはしない。 ねるの下唇を甘噛みし、ねるの口の中に舌を挿入させながら上半身を倒そうとした。 だが、ねるの上下の歯は固く閉じ、それ以上の侵入を許さなかった。 俺は諦めて、立ち上がり、部屋から出ていくしかなかった。 自分でも信じられないほど冷静になっていた。 ドアを閉めるとき、ねるの背中が見えたが、微動だにしていない。 なのに、目に見えずとも、ねるの中で何かが動き出しているように思えた。(続く) ブレーンワールド(その74) ねるへの思いを断ち切るため、なるべく大学の図書室に閉じこもり、専門書を読み漁った。 夏の間も帰省しなかった。 夜には蝉の鳴き声が聞こえなくなったと思ったら、9月になり新学期が始まっていたことに気づいた。 9月3日は日曜日だったが、朝方、研究室に全員集合せよという連絡が急遽入った。 駅から大学に向かう途中でメールが入った。その着信表示を見ると、ねるからである。 「今日、どうしてもお話しておきたいことがあります。ただ、その前に二人でできるだけ長く過ごしたいと思っています。 もしお受けしてくださるなら返信をお願いします」 どういう気まぐれなのだろうか?俺にはねるが分からない。 ねるへの未練がぶり返すが、もうこれ以上は翻弄されたくないという冷静な判断をする自分もいた。 その二つがせめぎ合った。 行くべきかどうかを迷い、すぐには返信しなかった。 そのくせ、来た道を足は引き返していた。 迷いながら歩いていると、研究室の先輩の院生に出くわした。 「ねえ、知ってるかい?異常な事態が起こっているようだけど」 「え?何かあったんですか?」(続く) ブレーンワールド(その75) 「異常に強い重力波をTAMA300が検出したらしい。正式には発表されてないけど」 まさかあの教授のメールに記されていたことを言っているのか? 「TAMA300というと三鷹の国立天文台の地下にある重力波検出器ですよね。 その名の通り、基線の長さは300メートルしかない。 そんなしょぼい機器で捕らえられる重力波なんて、せいぜいが近隣の銀河くらいからのものでしょ」 「それがね、近隣の銀河どころかどうやら天の川銀河内で起きたイベントの重力波を捕らえたらしいんだ」 「はあ?そんな重大なニュースが耳に入らないわけがない。ガセでしょ。本当ならなぜニュースにならないんですか?」 「いや、本当のことらしいんだよ」 「ただのノイズでしょ。滅多に通らない超大型車とかがたまたまその近くを通過したときのノイズを拾ったとかが原因でしょ」 「TAMA300だけでなく、アメリカの2台のライゴやイタリアのヴァーゴも同じような重力波を検出したらしいんだよ」 「ヴァーゴ?あれはイタリア語読みというかラテン語読みでヴィルゴと発音すべきでしょ」 「つまんないとこに突っ掛ってくるね。嫌なことでもあったのかい?アメリカ人はヴァーゴと言っているから、それでいいんだよ」 「はい、はい、そうですか。でも、それが本当なら、日本に加えてアメリカやヨーロッパでもそんな重大なことをなぜ秘匿したんですか?」 「異常な事態が起こっているとさっき言ったよね。そのため発表できなかったらしいんだ」(続く) ブレーンワールド(その76) 「異常な事態というのを詳しく説明をしてくれませんか?」 「重力波の検出時間が50秒を超えたらしいんだ。それがどういう意味かは分かるよね?」 「ブラックホールの合体による重力波の検出時間は長くても2秒程でしたよね。だったら、それは中性子星の合体によるものですかね」 「そういうことだね。中性子星の重力波が検出されたら、その後に何が行われるかはわかるよね?」 「ブラックホールの場合と違って、中性子星の合体は重力波だけでなく、大量の電磁波や物質を放出しますよね。 天の川銀河の中で起きたのなら、そういったものを観測するのは容易だから、その証拠を見つけようとしますよね」 「そう。ところが、その証拠はいっさい見つらかっていない」 「だったらそれはフェイクニュースでしょ。もう一度、繰り返します。 日本、アメリカ、ヨーロッパでそろいもそろってそんな重大なことをなぜ秘匿したんですか? 中性子星の合体によると思われる重力波を検出したのに、その証拠はいっさい見つからない。 宇宙の未知の現象として大騒ぎするのが普通でしょ」 「もしかすれば全世界を驚天動地させるかもしれないからなんだよ。 その中性子星の合体による重力波はこの世界ではない別のブレーンからのものらしいんだ」(続く) ブレーンワールド(その77) 「はあ?天の川銀河の中で起こったイベントによる重力波なのに、別のブレーンからのものというのはどういうことですか? それに、重力子、つまり、グラビトンと重力波とを混同していませんか? グラビトンは一つのブレーンに固定されずに別のブレーンにも伝わるというのがブレーンワールド・シナリオの主張ですが、 重力波が別のブレーンにも伝わるというのは聞いたことがないですね」 「あのさ、重力子と重力波の違いくらいは分かっているよ。バカにされたようで気分悪いな。 この世界と別の世界のブレーンの間に次元の裂け目のようなものが現れたらしいんだ。ゲートと呼ばれている。 そのゲートが天の川銀河の中に出現して、そこから重力波は漏れてきたようなんだ」 「そのゲートとやらの大きさはどのくらいなんですか?」 「はっきりとは分からないらしいけど、大きくてもせいぜいが数十メートル四方とのことらしい」 「はあ?だったら、その重力波が地球に届くためにはかなり都合のいいことが起こっていないといけませんね。 電球の光と同じように逆二乗の法則で拡散しながら重力波は伝わりますから、ガウスの法則をイメージするように、 遠くの地球まで重力波が伝わってきたときには、地球を完全に覆うような大きな領域であっても、 元々の中性子合体が起った位置ではわずかな領域だったということにはなります。 だから、そのゲートとやらが向こうのブレーンワールドの重力波源の近くにあって、 地球に向かう重力波の領域とゲートの領域が重なれば、重力波は地球まで届くでしょう。 でも、その確率はきわめて小さいはずです。何者かが意図したかのようなそんな都合のいいことがそうそう起こるわけがない。 だいたいそのゲートとやらを本気で信じているんですか?」(続く) ブレーンワールド(その78) 「正しい反論だし、受け入れられない気持ちもわかるよ。でもね、それ以外にもゲートの証拠は見つかっているんだよ」 「具体的に聞かせてください」 「光学望遠鏡でも偶然に捕らえたらしいんだよ」 「はあ?数十メートル四方の大きさと言っていませんでした?太陽系の中にでもなければ、光学望遠鏡で捕らえるなんてできないでしょ」 「それが、どんどん地球に近づいていて、今は火星軌道の内側にまで来ているらしいんだ。はっきりとした軌道は分からないようだけど。 ピントを合わせようとすればするほど、錯視図形のように逆にぼやけてくるそうなんだ」 「その光学望遠鏡による観測って、素人によるものでしょ? シンチレーションによるシーイングの影響じゃないですか? 口径の大きい望遠鏡なら、その影響をモロに受けますから」 「たしかに口径は大きい望遠鏡だよ。なんせ、すばる望遠鏡だから。 だから、当然、素人ではなく、百戦錬磨のプロによる観測だよ。 レーザーガイド星で大気のゆらぎの補正はしているから、シーイングによるものかどうかの判別くらいついているはずだよ。 それにハッブル望遠鏡でも同じような報告がなされているらしい。 宇宙空間にあるハッブルにシンチレーションが関係ないだろ。 だから、ゲートの存在は確実なんだ」 次から次に噴き出す汗でシャツが背中にべっとりと張り付いている。暑い! もう勘弁してくれ。この炎天下でそんなバカバカしいことを熱弁されたら、こちらまで頭がおかしくなりそうだ。(続く) 天文宇宙用語の解説 重力波 質量のある物体は重力をおよぼすことで周りの時空間を歪める。 その物体が不規則な運動をすると、その歪みが伝播していき、波となる。 それが重力波である。 ただし、その波はとても弱いので、観測できるのは超巨大質量を持つものだけである。 ブラックホールの合体や中性子の合体や超新星爆発がその代表例である。 重力子(グラビトン) 重力を介在する粒子である。 自然界にある全ての力は4つの力に帰結できる。 強い力、弱い力、電磁気力、重力である。 強い力はグルーオンが、弱い力はウィーキボソンが、電磁気力は光子、が、重力は重力子が介在して働く。 (ただし、重力子だけはまだ未発見である。) ブレーンワールド・シナリオでは、他の3つの力を介在する粒子は一つのブレーン世界の中だけにとどまるのに対し、 重力子だけは別世界のブレーンにも移動できるとされる。 光学望遠鏡 可視光領域の電磁波を捕らえるための望遠鏡。 電波望遠鏡との違いを強調するときにそう呼ぶ。 すばる望遠鏡 ハワイのマウナケアの頂上にある日本の光学望遠鏡。 次世代の光学望遠鏡はすばるよりもはるかに口径の大きい望遠鏡が予定されているが、現在の時点ではすばるの口径は最大級である。 シンチレーション 場所や時間によって大気は屈折率が変わるため、光が平行でなくなる。 光が集まったり広がったりするため、明るくなったり暗くなったりする。 星がきらめくのはシンチレーションによる。 シーイング シンチレーションによって平行光でなくなった光が、レンズを通ったとき、焦点上の一点に集まらずにひろがり、ピンボケすること。 レーザーガイド星 明るい星がある場合はそれをガイドとして大気の揺らぎを計測して、シンチレーションの影響を少なくする。 しかし、それがない場合には。レーザーを用いてその代用をする人工的な星をつくる。 それをレーザーガイド星という。 ハッブル望遠鏡 正式名称はハッブル宇宙望遠鏡。 その名の通り、地球の周回軌道上の宇宙空間の中にある。 したがって、シンチレーションの影響は受けない。 ブレーンワールド(その79) 「ソースはあるんですか?ソースを教えてもらわないと信じられないですね」 「詳しくは教えられないけど、発信元はマックスプランクやカルテクらしいんだ」 「今日の招集と今の話とは関係あるんですか?」 「それが関係あるんだよ」 「ということは先生も今の話の内容は知っているということになりますよね」 「当然知っているよ」 「先輩は先生から教えてもらったからすでに知っていたというわけですか?」 「あ、いや、あの、・・・・・・」 どうした?なぜ狼狽えている? そういえば、教授のメーラーを探っていたとき、不正ログインした罪悪感に苛まれていたし、 ねるに関連するメールを探すのに頭が一杯だったので、あのときには気に留める余裕もなかったが、 件名に「gravity wave by neutron star」や「the appearance of the strange gate」というのがあったな。 また、マックスプランク研究所やカルフォルニア工科大学から送信されたメールもあった。 そうか、コイツ、俺と同じように教授のパソコンを不正に覗いたんだな。(続く) ブレーンワールド(その80) 「とにかく面白いことが起こってる。さあ、行こう」と俺の腕を引っ張って研究室へ院生は向かおうとする。 「ちょっと待ってください。いましがた知り合いから連絡が来て、研究室に行くかどうかを迷っているんです」 「君はうちの研究室に大学院でも残るつもりなんだろ。だったら、それ以上に重要なことなのか?」 「・・・・・・・・・・・」 「そういえば、君はよその大学の女子大生と付き合っているんだってね。とても美人さんだと評判になっている。 まさかとは思うけど、そのデートを優先させようとしているのか?」 「・・・・・・・・・・・」 「図星だったか。恋愛というのはコストもかかるし、トラブルも多い。プロセスも帰結も予測できない。 学業よりも恋愛を優先させるようなのは終わっている人間だよ」 たしかに俺も前まではそう考えていた。でも、恋愛は損得勘定ではないことをねると出会ってから知った。 「ほかにも同様に楽しいことはいくらでもあるだろう?気晴らしはそちらでやればいい。 リスク回避という観点から見れば、計算不可能な恋愛に踏み込むのは賢くない。」 たしかに、いま俺もねるに翻弄されている。 でも、計算不可能だから価値がある。悲劇もあるから濃密な体験もある。(続く) ブレーンワールド(その81) 「やれることがいろいろある中でそんなものにコミットする人は賢くないよ。ひと言で言えばアホだよ」 でも、そのアホにしか福音はやってこない。リスク回避戦略の合理性だけが支配するアンタのような賢い馬鹿にはなりたくない。 俺は掴まれた腕をほどいてから、言う。 「迷いは吹っ切れました。デートを優先します」 「君、正気かい?あの先生の陰険な性格は知っているだろ。干されて学士論文すら通してもらえないよ」 「そのときはそのときです」 「そうかい?でも、僕としては君が研究室に来なかった理由を先生に告げなければならないね」 厄介なヤツだな。ひとつカマをかけてみるか。 「先輩、ギブアンドテイクといきませんか。俺が具合が悪くなったと先輩から先生には報告してもらう」 「君から僕へのギブは何だい?」 「先輩が先生のメールを勝手に盗み見したのを黙ってあげるということです」 「な、な、何を証拠にそんなことを!」 分かりやすいヤツだ、やっぱり思った通りか。 「先輩、あまりにも熱を込めて喋っていたので、ご自分ではお気づきにならなかったのですか? 何度も『先生へのメールによれば』と言っていましたよ」 「えっー?僕、そんなこと言ってた?」 「ええ、仰ってましたよ。指導教官のパソコンを不正に覗くなんて人の道に悖る行為だと思いませんか?」 まあ、俺も人のことは責められないんだけどな。 「分かった、分かったよ。君のことは先生にはうまく話しておくから、その代わり絶対に黙っていてね」と逃げるように去って行った。 その直後、俺はねるへ連絡した。(続く) ブレーンワールド(その82) ねるのほうが近くまで来てくれるということになり、駅の近くで待ち合わせした。 俺と目が合うと、あの日には何事もなかったかのようにねるは微笑んだ。 ねるのこの笑顔は久しぶりだ。でも、やはりねるが分からない。 俺もねるも朝食を取っていなかったので、以前に何度か利用したことのあるスパゲッティ屋を案内した。 無化調とオーガニックが売りの気取った店で、化学調味料に慣れた俺の舌では美味いとは以前には思えなかった。 値段も高いので、あまり利用しない店だったが、最近、画一的な味を敬遠するようになって、その良さが分かるようになった。 日曜だったが、11時の開店直後ということもあり、他にはおひとり様の客が二人しかいない。 店内は冷房が効きすぎて寒いくらいだ。 俺はイカと明太子のスパゲッティを、ねるはミートソースを頼んだ。 ねるはスプーンを使わず、フォークだけで器用に口に運びながら、他愛のないことを次々に喋る。 「ナポリタンってイタリアではなく横浜で発明されたんですよね」 「ブラックホールに入ったら麺のように長く引き延ばされて、それをスパゲッティ効果というんでしたよね」 聞いていないわけではないが、突然に連絡した意図が気になって受け流してしまう。 「どうしても話しておきたいことって、何?」と俺は訊いた。(続く) ブレーンワールド(その83) ねるはナプキンに手を伸ばし、ソースの付いた下唇を丁寧に拭く。 あの日、ねるの下唇を甘噛みしたことがフラッシュバックする。 もう気にしていないのか? 「話すのはもう少し待ってもらえませんか?」と少し間を開けてからゆっくりとねるは話す。 ねるの視線がほんの一瞬だけ宙を泳ぐ。 目が大きすぎると、その心中を簡単に察せられるな。俺にとってはやはりいい話ではなさそうだ。 店内のBGMにはリストの「愛の夢」が静かに流れていて、遠くの席からフォークが皿に触れる音だけが響く。 静寂を埋めるかのようにねるは他愛のない話をまた続ける。 デザートにタルトが運ばれてきたとき、スマホが鳴った。 「君が死にそうなほど苦しんでいて、今日は来れないと先生には言っておいた。だから、君も例のことは絶対に話しちゃダメだよ」 「了解しまして」と言った後、すぐに切った。 ヘタレめ、そんなことでいちいち電話してくんな。そんなにビビるのなら最初から人のパソコンを不正に覗くなよ。 口元に運んだコーヒーカップから沸き立つ湯気越しにねるがきょとんとした顔で見ている。 よっぽど俺は渋い顔をしていたのか? 「実は、今日は研究室に向かう途中で、先輩に会って、具合が悪いから休みたいと相談したら、 研究室の教授に口添えしてあげるからゆっくり休んできなよと優しい先輩は言ってくれたんだ。 その連絡がいま来て、尊敬する先輩に嘘をつかせたことで自分自身を責めてしかめっ面になったんだ」 食べ終わり、店を出た。(続く) ブレーンワールド(その84) どこか行きたいところはあるかと尋ねたら、どこでもいいと言うので、すぐ近くの博物館に行くこととなった。 「深海」の特別展示をしていた。 休日ということもあって、展示物によっては身動きができないほど人が多いが、ねるは気にする様子もない。 ダイオウイカの標本やマッコウクジラの模型を見ては「うわ〜大き〜い」、発光生物のビデオを見ては「うわ〜きれ〜い」、 奇妙奇天烈な深海生物を見ては「うわ〜キモ〜イ」とねるははしゃぐ。 なにか無理をしているようにも思える。 「実際の映像がまだ撮影されていないけど、見てみたいものとかってありますか?」 「マッコウクジラがダイオウイカを捕食するシーンは見てみたいな」 「でも、そんな深いところで人が水中カメラを持ったまま潜り続けてずっと待っていることなんてできないでしょ」 「今はバイオロギングの技術があるから。ダウンサイジングした水中カメラをマッコウクジラに取りつければいい。 マッコウクジラを傷つけずに体に吸着させる素材なんかも開発されているみたいだし」 「私も見てみたい!あんな大きな生き物どうしのバトルって迫力あるでしょうね」 「お茶の間のテレビでもいずれ見られるようになるとは思う」(続く) ブレーンワールド(その85) 特別展示を一通り見終えて、常設展示のほうにも足を運んだ。 こちらはそれほどは人は多くない。 「全て見てみたい」というねるは言う。 ここには何度も来ているが、ワンフロアーが広い上に、地上から地下まで何層にもなっているので、 一日で全てを回ろうというのは思ったことさえなかった。 ねるの要望に応え、あわただしく回り続けていると、さすがに疲れてきたが、ねるは元気だ。 ささいな疑問でも尋ねてきたり、ちょっとでも興味関心が動いたことには感想を述べたりで、延々と喋っている。 6時間近くは過ぎただろうか?あっという間だ。 出口近くのショップには深海生物関連のグッズが置かれている。 「推し深海生物は何ですか?」と妙な質問をねるはしてきた。 「チューブワームとスケーリーフットかな」 「チューブワームは展示されていましたよね。硫化水素を取り込み栄養に変えるという生物でしたね」 「うん、生物にとって害となる硫化水素を利用するというところに生物の大いなる可能性が感じられる」 「スケーリーフットというのは展示されていませんでしたね。どんな生物ですか?」 「深海の貝で、貝殻だけでなく、貝本体の体表にも硫化鉄でできた鱗を持っているんだ」 「あっはっはっは、変なの!」と笑うねるは躁状態にも思えた。 あれほど頑なに俺を拒否していたねるの豹変ぷりをみて不安はますます強くなったが、とにかくねるが一緒にいて楽しそうにしてくれている、 先のことは考えずに今はこの幸福な時間を噛みしめていればいいんだ。そうやって不安をかき消した。(続く) ブレーンワールド(その86) ショップの隅には深海生物のフィギュアのガチャガチャが置いてあった。 ガチャガチャマシンに貼ってある画像と名称を見て、ねるははずんだ声で言う。 「あっ!スケーリーフットもある!私が当ててプレゼントしてあげますね」 「1回300円だし、6種類もあるから当たるかどうかも分からないから、金がもったいない」 「でも、6回やれば、確率論的に1つは当たる可能性があるってことでしょ」 「母数が多ければ確率1/6通りに行くけど、引く回数が少ないから10回やっても当たらないかもしれない」 「でも、1回で当たることもあるわけですよね」と言いながら、ねるはガチャガチャを回し始めた。 カプセルが落ちてくる音が響く。 カプセルを開け、取り出した説明書を見ながら、「スケーリーフット、ゲット!」とねるは叫ぶ。 俺に渡そうとしたとき、「あれ?このスケーリーフットって白いですね」 「ああ、それは硫化鉄を含まない白い亜種もいて、それもフィギュアに入れたんだと思う」と言いながら受け取る。 「じゃあ、もう1回やって黒いのも当ててみます」 「いいよ、いいよ。この白いのはたぶんシークレットで、フィギュア的にはこちらがレアなんだから」 俺の言うことも聞かず、ねるはまた回す。 「やったー、黒いスケーリーフット、ゲット」 手渡しながら、ねるは言う。 「その二つ、私だと思って、大切にしてくださいね」(続く) ブレーンワールド(その87) そのときだった。「ねる!」と声をかけてきた者がいた。柿崎芽実だ。 「今日、発つんでしょ」と芽実が言うと、ねるは黙ってうなずいた。 俺のほうをちらっと見て、「もう話したの?」とねるに訊く。 「これから」とねるが答えると、「現場までみんなでお見送りしようかとも思ったけど、二人きりのほうがいいよね」 芽実がそう言うと、ねるは首を縦に振った。 「私たちが最終オーディションをなぜ当欠したのかを説明した手紙が事務所に届いて、 その理由がとても信じられないような荒唐無稽なものだったから、変なイタズラかと思って、運営さんは無視していたんだけど、 それを見た安本先生が『面白そうじゃないか』と仰って、私たちのデビューが決定した。その手紙の送り主ってねるなんでしょ」 ねるは肯定も否定もせずに、「よかった」と安堵した表情となった。 その後で、同情するような目で見ながら芽実は俺に言う。 「ねるの気持ちを分かってあげてね」 そうか、ねるは海外留学でもするのか。話しておきたいことというのはそのことか。一、二年、待っていればいいだけのことか。 芽実と二人だけで話したいこともあるだろうと思って、少し離れたところに行って、ベンチに座った。(続く) ブレーンワールド(その88) しばしねると話した後に芽実はこちらに来た。 花柄のオフショルのカットソーに薄茶のキュロットを合わせている。 「靴紐、ほどけている。結んであげるよ」と言いながら、俺の目の前にしゃがんだ。 その途中で芽実の頭が俺の顔の前の近くまで来て、芽実の頭の匂いが運ばれてきた。 甘い香りだ。トリートメントの匂いでも香水の匂いでもない。どこかで嗅いだことはある。でも、思い出せない。 重力に逆らうように上に伸びた耳が、ショートカットにした髪の間から覗いている。 いわゆるエルフ耳だが、ここまで形のいいものは見たことがない。 その愛くるしい顔立ちと相俟ってリアルな妖精のようだ。 鳥居坂46の番組を観るようになって、アイドル事情に少しは詳しくなった。 ジャンクフードに麻痺した舌が画一的な味で満足するように、アイドルヲタの一定数は量産型の美少女を好む傾向にあるようだ。 芽実はいままで見てきたどの美少女にもあてはまらないレアな顔立ちをしている。 アイドルのプロダクションの運営がその貴重さに気づかないわけがないだろうが、その真価を見抜けるヲタはどれだけいるだろうか? 重要なポジションに抜擢されても、人気が伴わなければ、そこから外されるかもしれない。 我がかなり強そうだから、そうなったとき芽実は我慢できるだろうか?(続く) ブレーンワールド(その89) 世界は「この私」に認識されることで生じる。 自我が芽生え始めた子供にとっては、その世界は自分の思い通りのものだとまずは考える。 社会性が身に付いてくるのはその後である。 親をはじめとする周りの大人たちからやってはいけないことを教わる。 「この私」の世界であるにもかかわらず、自分の思い通りにならないこともあるということを知り、世界の中で徐々にバランスを身に付けていく。 ところが、大人になってもそのバランスが崩れることがある。 恋愛において、その相手がかけがえのないものと思い込むのは美徳かもしれないが、 それと紙一重で、その恋愛対象の気持ちすら考慮できなくなり、盲進してしまうこともある。 そういう連中を俺はせせら笑ってきたが、ねると出会って、そのしっぺ返しを受けた。 ねるの本意がそうでないことが分かっていたのに、自分の思い通りに事を運ぼうとした。 バランスよく築き上げてきたと思っていた「この私」の世界はいとも簡単に崩れえるということを思い知った。 芽実にも俺と同じ危うさを感じている。 ただし、芽実の場合は色恋ではなく、自分が常に中心にいて当たり前だという自尊心によって、バランスを崩すかもしれないという危うさがあるように思える。(続く) ブレーンワールド(その90) 芽実の頭から発せられた匂いが何なのかを思い出した。 あれは赤ん坊の頭から発せられる甘い匂いだ。 芽実は赤ちゃんなのだ。 赤ちゃんの純粋さと赤ちゃんのエゴイズムの両方を芽実の匂いは象徴しているかのようだ。 「ねえ、ねえってば、聞いてる?何をぼーっとしているの?」という芽実の言葉で我に返る。 「あ、悪い、ちょっと考え事していて。ようやく結び終えたか。かなり時間がかかったな。あまり慣れてないのかな?」 「何言ってんの?5秒もかかってないよ」 「え?たったの5秒しか経ってないのか?」 「ねえ、もし、ねるに振られたときには、私が付き合ってあげようか?」 予期せぬ角度からの言葉に面食らって、早口となった。 「えっ?あっ、いや、でも、これからアイドルとしてのデビューが決まったんだろ?」 「うわ〜、あたふたしている。まさか本気にされるとは思わなかった。ダサいの。 でも、これからアイドルになりたいというコのためには身を引こうとする心掛けはよしとするわ」 「まあ、あたふたしたのは確かだ。まさかこんなションベン臭いガキにそんなこと言われるとは思ってもいないからな。 オシメが取れたときにでも、もう一度、告ってくれ。そのときには考えてやるよ」 険しい顔で芽実は睨みつける。(続く) ブレーンワールド(その91) 「なあ、お前さんはとても可愛らしい。そして美的感受性に優れているほど、そのビジュアルの価値が分かると思う。 だけど、アイドルヲタクって鈍感そうなのが多いし、人の尻馬に乗って自分の判断ができないのも多いから、お前さんの価値は気づかれないかもしれない。 それにいろんな大人の事情が絡んできて。もしかすれば自分の思い通りにはいかないことも出てくるかもしれない」 「なに、それ?これからデビューに向けて希望を持っているコに言う言葉? 言っていることの意味は分かるよ。けど、なぜそんなことをここで私に言わなければならないのかという意味が分かんない」 芽実が分からないのも無理はない。俺自身にもよく分からない。だが、続けた。 「その自尊心の強さはお前さんの魅力でもあるけど、早まった決断を誘発する危険はそれと表裏一体だから気を付けておけよ。 ときには自分を押さえつけることも必要だし、判断を急がないようにしておけよ。 万一、心ならずもアイドルであることと決別するような事態となっても泣くなよ。 アイドルであってもなくてもお前さんは可愛い、圧倒的に可愛い。 その一つをとっても祝福されているんだから、悲観することはないぞ」 芽実の頭の匂いの魔力がそうさせたのか、自分でも予期していなかった言葉が口から飛び出した。でも不思議と後悔はなかった。 「やれやれ、辞めたときの心配までされちゃったよ。あなたって、さあ、やっぱり変な人だね。 こんな変な男と付き合えるのもねるの懐の深さなのかな」 先ほどの怒りはしぼんでしまったようが、呆れかえった顔をして芽実は立ち上がって、ねるのほうへ向かった。 「それじゃ、ねる、外でみんなで待っているから、私たちとはそこでお別れね」と言って、芽実は去った。(続く) ブレーンワールド(その92) 博物館の出口へ向かうとき、辛抱できずに、ねるに尋ねる。 「話したいことというのは、海外留学するということなのか?そうなら留学先を今すぐ教えてくれないかな?」 そのとき、「ねる!」という大勢の声が聞こえ、あの11人が出口で待っていた。 その声があまりにもよく徹るためか、屋内と屋外の境目が溶けて均一な空間となっているような錯覚を覚えた。 ねるは小走りで、先に屋外に出ると、一人ひとりと抱き合う。いろんな声が多重的に聞こえてくる。 「ねる、元気でね」 「私たちのこと、忘れないでね」 足を止め、傍観し、その微笑ましい光景に心が和んだが、そのずっと向こうに見覚えのある顔の男がいた。 存在感を殺し、背景に溶け込み、視線をこちらに向けることもない。もしあの顔を前に見たことがなければ、見張られていることには気づかないだろう。おそらく公安だ。 あのフェイクニュースを本気で信じているのか? 犯罪には関係のないというよりは犯罪を起こすような人間とは対極にいるねるを本気で調査のターゲットにしているのか?(続く) ブレーンワールド(その93) ねるを取り囲む輪の中に入って、ねるに言った。 「例のストーカー男が見張っている。ほら、寮の付近でうろついていた能面のような顔をしたあの男」 「え?なぜこんなところまで?」 「アイツはどうやら公安調査庁の人間らしい」 「公安調査庁って何なんですか?」 「公共の安全の確保を図るという名目で設置された法務省の外局だけど、今の日本には調査対象がほとんどいなくなり、 人件費ばっかり食う不要官庁ということで、ずっと前から行政改革で廃止すべき対象だと議論されている。 犯罪とは縁遠い人間の監視までして生き延びようとして、ありとあらゆる情報画策をしているらしい。 詳しいことは後で話すけど、あるフェイクニュースが天文学者の間で流布し、それに関連してねるちゃんの名前がなぜか挙がっている。 おそらく公安の連中もそれを本気で信じていないだろうけど、でっち上げる調査対象はいくらでもあったほうがいいんだろうね、 仕事があるように見せかけて、組織の延命を謀ることができるから」 「なんか怖いです。なぜこの居場所がなぜ分かったんですか? パスタ屋さんでも博物館でも尾行や監視されているようには思えませんでした」とねるは不安がる。(続く) ブレーンワールド(その94) 「スマホの電源を入れておくだけで、1分間に1回、あるいはそれ以上、位置記録を絶えず近くの交換局とやり取りされるらしい。 中継基地に発着信のログが磁気テープに残り、絶えず3つの局と交信しているので、 三角測量の原理でピンポイントで位置が分かってしまうというのは聞いたことがある。 おそらくそういう手法で、半年以上もの間、ねるちゃんの居場所は常に把握されていたのだと思う」 「でも、通信傍受法では、通信傍受した場合には傍受された人間に対して傍受したという事実を法務省に伝えて、 適正だったかどうかを証明しなければならないんでしたよね。 半年もそんなことしていたら、通信傍受するのはもう却下されているんじゃないですか」と影山優佳が言う。 「高校生なのにそんなことまでよく知っているね。 たしかにその通りだけど、それはあくまで通信傍受のときだけで、スマホの位置情報を調べるときには、届け出の義務は必要ない」 ねるは小刻みに震えている。 しまった!ますますねるを不安がらせるようなことを言ってしまった。(続く) ブレーンワールド(その95) 「潔白だということを示すため、あえて行動を監視させるというのも一つの手かもしれない」 ねるを安心させるため心ならずのことを言ったが、俺の本意を見透かすように芽実が言う。 「駄目だよ、そんなの。法律に違反してなくても、道徳に反してなくても、人には知られたくないことが人にはいっぱいあるよ。 別の環境におかれれば、人って変わるものでしょ。 学校にいるとき、家庭にいるとき、仲のいい友達だけでいるときなど、違った人格が現れる。 作為的に使い分けているわけでも、仮面を被っているわけでもない。その関りで自然とそうなる。 あなただって、ねると私とでは全然態度が違うよね。ねるには優しく語りかけるのに、私にはぞんざいに口をきく。 犯罪をしていないのに、人のプライベートを監視するなんておかしいよ。あなただって、本当はそう思っているんでしょ」 その話を聞いていて、前に原子についてねるが語っていたことを唐突に思い出した。 それ以上分割できないと意味のatomに「原子」という訳語が与えられたが、原子は分割できる。 同じように、それ以上分けられないものという意味のindividualに「個人」という訳語が与えられたが、芽実の言うとおり、個人も環境で分化する。 「そうね、これから私たちもアイドルデビューするんだし、プライバシーの侵害というのは他人事じゃないわ」と井口眞緒が憤る。 「あなたたちの言うことはすべて正論だ。意図していない自分の姿を他人に見られるというのは明らかな人権侵害だ。 ただ、そういうようにアイツに諭したところで、素知らぬふりをするだろう。 また、おそらく車などの尾行の手段も万全の体制にしている。目を眩ますのはムズい」(続く) ブレーンワールド(その96) 「よし、私が何とかする」と加藤史帆が言う。 こちら側の様子になにか感づいたのか、公安の男の周りにもう3人集まった。おそらく同じ公安の手のものだ。 史帆はすばやく近くまで行き、その4人の間に飛び込んで、わざと転んで、「きゃあ、痴漢!」と叫ぶ。 驚いた通行人たちが一斉にそちらを見る。 「この男の人たち、私を拉致して、集団でレイプするつもりなんです!」と周りに訴える。 「私も見てました」と駆け寄ってきた他のコたちも叫ぶ。 通行人たちが次々にやってきて取り押さえようとする。 「ありがとう、史帆ちゃん。私、先に行ってタクシー捕まえてきます」とねるは車道へ向かう。 一発殴らないと気が済まないと思って、ごった返ししている中に入ろうとするが、 「あなたはもう行って。後は私たちに任せて」と芽実から止められ、ねるの後を追う。 後ろを振り返ると、人だかりの山は大きくなっている。 公安のボケどもが、ざまあみろ、大ポカだな。これだけ大勢の人に見られたら、あの4人は尾行の実行部隊としてはもう使えないな。 でも、あのコたちは面倒なことになりそうだな。まあ、あの11人なら大丈夫な気もする。 タクシーを捕まえていたねるは「早く」と道路際で催促する。 タクシーに入ると、「後で役に立つかもしれない」と言いながら、俺の胸のポケットに何かをなるは入れる。 運転手は後ろを振り返りながら言う。 「今の道路の混雑状況だと、いったん南に下がってから北に上がったほうが速く着きそうなんですが」 「じゃあ、それでお願いします」とねるは答える。 ねるは行き先をすでに指示しているようだ。(続く) ブレーンワールド(その97) 先ほどの騒動の興奮が収まらず、車内ではしばらく言葉を失っていた。 タクシーは滞りなく走っていたが、赤いテールランプが詰まってきたなと思ったら、急に動かなくなった。 渋滞に巻き込まれたようだ。 「ああ、しまった、今日だったか!」と運転手は嘆いた。 前方を見ると、アイドルの制服らしき服を着た女の子がいた。 献花をして、祈りを捧げたら、カメラのフラッシュが一斉に焚かれ、近くに雷が落ちたかのように眩しく光る。 「あれは何をしているんですか?」と俺は運転手に尋ねた。 「知らないんですか?ほら、いま飛ぶ鳥を落とす勢いの鳥居坂46のセンターの原田まゆですよ。 この鳥居坂の場所で交通事故で死亡した中学のときの恩師を弔ってるんですよ」 鳥居坂46が交通安全キャンペーンでテレビに出ていたときに言っていたのはこれか。 運転手は話を続ける。 「いろんな事情で鳥居坂というグループ名も変える予定だったそうですが、 グループ名と場所の名が一致するという強烈な出来事があれば利用しない手はないですよね、たとえ不幸な事故であっても」 ああ、以前にウザ女が話そうとしていたのはそのことだったのか。 原田まゆのセンターにこだわり、当初のセンター予定の逸材が辞める事態まで招いたと言っていたな。 「亡くなったということには同情を禁じえないけど、肉親ではなく中学のときの恩師というのではインパクトは弱くないですか?」 「でも、小さい女の子を助けたというのは美談でしょ」 「美談?」 「その恩師は道路に飛び出した女の子を救おうとして成功したんですけど、自分は亡くなったんですよ」(続く) ブレーンワールド(その98) ワイドショーや夕方のニュースでそういう証言をする子供がいたことを思い出した。 自分の体験したことなのに無理に暗記していることを空んじるような話し方が奇異だった。 「でもねえ、実はいろいろとウラがあるという話なんですよ。原田まゆとその教師とは付き合っていたといった。 それも、二人でいるところをパパラッチに見つかり、逃げる最中に無理に道路に飛び出し、 教師だけが引かれて死亡したのが真相じゃないんかという噂もあるんですよ。 それをかき消すために月命日にはほらこうやって必ず祈りを捧げに来るんですよ」 「でも、実際に助けられた女の子はいるんでしょ?」 「それが、ねえ、その子が現れたのは事故があってから一週間後、このネット時代におかしいとは思いません? よし、とっておきの情報をお教えしましょうや! 実は、教師を事故に追い込んだパパラッチが働いている出版社の会長とその助けられたという女の子のお爺さんが旧知の間柄だという話なんですよ」(続く) ブレーンワールド(その99) 「つまり、結果的に教師を死亡事故に追い込んだ責任逃れするために、存在もしない女の子をつくりあげ、美談に仕立て上げた。 そういうことですか?」 「まあ、解禁前の中吊り広告の情報を盗まれたということで、そこの出版社と対立している別の出版社の会社員の人が言ってた話ですけどね。 だけどね、その話が本当だとすれば、原田まゆはそれを知らないわけがない。そうすると、アツツには当然報告するでしょう」 「アツツ?ああ、安本敦のことか」 「で、ね、その出版社はアツツが関係するアイドルグループのメンバーのスキャンダルを毎週のように記事にしていたんですよ。 ところが、その事故以来、全くなくなってしまった。なんか妙に符合すると思いません?」 ああ、そういうこともウザ女は言っていたな。 「つまり、事件の真相を知った安本敦がその出版社を脅して、自分のとこのアイドルを狙えないように謀ったというわけですか?」 「へへへへ、それはあっしの想像なんですけどね。でも、もしそうだとしたら快挙でしょ。 あの出版社ときたら、巨大宗教団体の悪質な行為であろうが、超大手の芸能プロダクションの社長のホモレイプであろうが、 一般のマスコミでは絶対に手を出さないことまで記事にする」(続く) ブレーンワールド(その100) 「でも、それって賞賛すべきことじゃないんですか?」 「ああ、それはとてもいいことですね、失礼しました。 でも、若いアイドルのスキャンダルを報じるというのはどうですかね? それだけでタレントとしての生命を絶たれることもあるいうのに、あんな牧歌的な表紙にしているのを見ると腹立ちますよ。 どんな手を使おうが、それを黙らせたアツツをあっしは尊敬しますね。 よく『知る権利』とか言いますけど、政治家の汚職とか巨大宗教団体の悪質行為とかなら、白日の下に晒す必要があると思います。 だけどね、芸能人のプライバシーを暴くことかが公共の利益になるとは思えませんね」 「それは同感ですね」 「でも、あっしの同僚には、アイドルはファンの夢の上に成立しているから、男なんか作っちゃいけないから、 だから、それを暴く週刊誌は正義というのがいるんですよ」 「全てのアイドルが男を作っちゃいけないというなら、それは無理というものですね」 「やっぱり全てのアイドルが清廉潔白というのはフィクションなんですかね」(続く) ブレーンワールド(その101) 「何を以て清廉潔白というのは措くとしても、フィクションを核として宗教なんかも成立していますよ」 「え?そうなんですか?」 「たとえばキリスト教ではイエスの復活とかマリアの処女降誕とかが信仰の核にありますよね。処女降誕はカトリックだけですが。 水槽の中で死んだメダカは生き返らないし、メスだけの水槽では稚魚は生まれないというのは子供でも知っています。 明らかなフィクションですが、でもそれを核としたキリスト教は世界中の数十億の人々の精神的な支柱となっている。 あらゆる宗教はフィクションという実在なんですよ。 悪質行為を集団で繰り返し、人を追い込むあの巨大宗教団体のようなのは論外ですが、 そうじゃない限りフィクションであっても社会の中に組み込まれるべきだと思います」 「なるほど、アイドルというのはまさに偶像崇拝で、宗教と同じように、フィクションという実在になりますね。 いずれにしてもデバガメ週刊誌でプライバシーを暴かれたアイドルは誰からも不信の目が向けられるからかわいそうですね」 「ええ、でも、それにとどまらず、もっと大きな問題があります。アイデンティティの崩壊につながるという危険ですね」 「それはどういうことなんですか?」 芽実が言ったことを敷衍しながら、言う。 「我々は変わらないという幻想を常に懐いています。我々すべての行為は一人の自分に属するものと信じています。 だけど、ある人に対する場合と別なある人に対する場合とでは、我々はそれぞれ人間が違うんですよ。 そのこと一つとっても我々のアイデンティティの統一は非常に危うい状態にあります。 だから、そのために邪魔となるストーリーは徹底的に排除する必要があり、個人の私生活は聖域にされるべきです。 スキャンダルや私生活の暴露というのは誰にとっても危険ですが、 公私では完全な別人格となっているかもしれないアイドルにとってはなおさらでしょう」(続く) ブレーンワールド(その102) 「お客さん、いいこと言いますね。あっしが普段もやもやと思っていることを見事に言語化してくれますね。 ホント、あっちこちに監視カメラはあるわで、プライバシー侵害が起こりやすい世の中ですね。 タクシー試験もつい最近に受けたばかりですが、なんか監視されているようなんですね。 試験監督は試験時間の間だけ単に監視しているだけなんですが、 その後もその感触が尾を引いて気持ち悪いんですよ。考えすぎですかね?」 「う〜ん、もしかしたらズレていることを言うかもしれませんが、 フランスの哲学者のミッシェル・フーコーが近代の試験は観察装置のためにもあると言っています。 たえず見られているという事態、つねに見られている可能性があるという事態をつくり出し、 個人を服従強制の状態に保つようにしている、と。 よく大学入試とかで人間本位が強調される場合には、監視装置としての試験の役割はよりその度合いを強めることになりますね。 政府の機関で学者を推薦あるいは拒否するときなんかにも、似たようなことはありますね。 『総合的に判断した』とか『俯瞰的に判断した』とかいったように。 理由も示さず、そんな訳の分からないことを言うのなら、きわめて悪質な観察装置となりますね」 あれ?普段なら知識をひけらかすようなことには慎重になっているのに、なぜ余計なことまでべらべらと喋る? ねるに博学多識であると認知されたいのか?いや、違う。心の奥の不安がそうさせている。何が不安なんだ? ねるは海外留学するだけで、一時の別れということで安心していたんじゃなかったのか?(続く) ブレーンワールド(その103) 運転手が言ったことを振り返ってみる。 そういう週刊誌でも書かないような原田まゆの不確定な情報を想像も交えて嬉々と話していたとも思える運転手が、 芸能人のプライバシー侵害を嘆くのは矛盾しているようにも思えるが、彼の中では筋道だっているのだろう。 前方の視界には原田まゆ当人も大勢のマスコミもファンもいつの間にかいなくなっていた。 タクシーは発進した。 「話を戻すと、なぜ鳥居坂という名前を変更しようとしたんですか?」と俺は運転手に尋ねた。 「諸説あるようなんですが、ほら、精神障害者の真似をする鳥居ナントカという女芸人がいたでしょ。 同じ名前だとイメージが悪くなるからだというように聞いています。 他にも画数が悪いためだとかいう話もありましたね」 「変えようとしていた名前はなんだったんですか?」 「あれなんだっけかな?えーっと、えーっと、ああ、そうだった!お客さんの行き先と同じ名前じゃないですか!けやき坂でした!」 「えっ?行き先って羽田空港じゃなかったのか?」と俺はねるに向かって言ったら、ねるは俯いた。 「けやきざか」という文字列が頭の中で点滅し、教授のパソコンの中で見た「×××ざか」の記憶を呼び起こし、二つがシンクロした。 まさか・・・・・・。(続く) ブレーンワールド(その104) 「フェイクニュースに関連してねるちゃんの名前が挙がっているということをさっき話したけど、 その名前と一緒に『×××ざか』という文字列もあったんだ」 「そうですか」とねるは他人事のように答える。 「例の発作が起こったとき、なにか音声らしきものが聞こえるというようなことを言っていたけど、 あの砂浜のときに、それは『けやき坂』というのが判明していたんだじゃなかったのか?」 「・・・そうよ・・・」と、前を見ながら、ねるは答えた。 変な考えが浮かんだ。あり得たかもしれない反実仮想の悔恨にねるは苛まれ、その感情は並行世界にまで干渉した。 しかし、相互応答はねる一人の力ではどうにもならず、あの11人がインターフェースの役割を果たした。 ただし、一人あるいは数人ではその送受信はノイズがひどく、ねるを苦しめた。 11人そろったときに初めて明確なメッセージを並行世界からねるは受け取った。 そういう妄想をしていると頭がクラクラし、目がピントボケし、前と左右の車窓が近づいたり遠ざかったりした。 すがるように横を見ると、熱火が顔に輝き、眼差しに燃え、ねるは全身に生気をみなぎらせていた。(続く) ブレーンワールド(その105) タクシーは横断歩道を少し通り過ぎたところで停止した。けやき坂に到着したようだ。 俺が財布を出す前に、ねるは五千円札をすでに取り出して、「お釣りはいいです」と言い、俺には「早く!」と降りるのを促した。 「ありがとうございます!」と喜ぶ運転手の言葉を尻目に俺とねるは外に飛び出した。 焦るねるだったが、「スマホ、わすれていませんか?」と運転手から呼び止められ、取りに行った。 午後7時前だったが、すでに外は暗くなっている。 そうか、残暑が厳しいとはいえ、夏至から2か月半も経っているので、この時間だともう暗くなるのは当たり前か。 急いで戻ってきたねるは、青が点滅する歩行者信号を強引に渡ろうとして、俺の手を引っ張りながら走り出した。 横断歩道の真ん中のセーフティアイランドに来たときに、赤となり、足を止めた。 その直後だった。六本木の街が一斉に暗くなった。 停電なのか・・・・。なぜこのタイミングで?偶然だろうが、ちょっと嫌な感じだ。 目の前の道路には車は1台もなく、信号が機能しなくなったためやって来る車もなかった。 真っ暗な中で街にいる人々の囁くような声が聞こえた。誰もが戸惑って、声を抑制しているのだろうか? 街はゴーストタウンと化していた。(続く) ブレーンワールド(その106) この日は満月に近かったが、東側だけに厚い雲がかかっていた。 さらに登ったばかりで低い位置にあるはずの月には高いビルが立ちふさがっていたので、月光は漏れなかった。 しばらくして目が暗闇に順応してくると、光害がなくなった六本木の街はいつもとは違った光景を見せてくれた。 六本木の高層ビルが大きな影となり、黒い巨人が迫っているように感じた。 その大きな黒い影の背景には満天の星空が広がる様子がよく見えた。真西から少し南にずれた方向にはビルが歯抜けの状態となっていた。 ねるを待つ間に、ビル群のその方向の一角が更地の状態となっていたのを思い出した。 さらに、おそらくその更地の後ろ側には公園かなにかになっているのだろうか、 その方向は奇跡的に低い高度でも星空が見通せ、スピカを目印におとめ座が現れている。 「私、誕生日の前夜の9月3日に、自分の生まれ星座のおとめ座を見るのが夢だったんですけど、生まれ星座を誕生日近くに見ることは難しいですよね。 まさか東京の繁華街の真ん中でその願いがかなうとは信じられないです」 タクシーの中では、重苦しかったねるの緊張が一瞬ほどけ、笑顔を見せた。(続く) ブレーンワールド(その107) ねるの星座はおとめ座だったな。 ギリシャ神話を思い出した。 星座はギリシャ神話の神と結びつけられているが、おとめ座には複数いる。 特に有名なのが。正義の女神アストライア、農耕の女神デメテル、デメテルの娘ペルセフォネーの三神である。 ねるにぴったりなのはペルセフォネーじゃないかと思った。 ペルセフォネーが花摘みをしていると突然大地が割れ、地獄の神ハデスにさらわれる。 ペルセフォネーの母親のデメテルは悲嘆にくれながら探して彷徨い、ペルセフォネーが地獄に連れ去られたということを知る。 農耕を司るデメテルだが、職分を放棄し、大地は荒れ、作物は枯れ果て、飢饉が起きることもかまわず、ペルセフォネーを取り戻しに行く。 ねるの母親は芸能界が地獄のような場所だと思って、必死になってねるを連れ戻そうと思ったんだな。深い愛情を思いやった。 ペルセフォネーは地上に連れ戻されるが、地獄のザクロを口にしていたため、冬の間だけ地獄で過ごすこととなる。 だから、冬には作物は枯れてしまうこととなったという。 ねるから何かよくないことを告げられるのを恐れていた俺は逃避するようにそんなことを考えていた。(続く) ブレーンワールド(その108) ねるは口を開いた。重苦しい調子に戻った。 「黙って去ろうと思っていたのですが、お別れを言います」と一言一言を噛みしめるようにねるは言った。 「別れって?どこに行くつもり?」 「口で説明しても信じてもらえないと思います」 「いつまでも待っている自信はある」 「二度と戻ることはないと思います」 「もしねるちゃんが許してくれるのなら、大学やめて一緒についていってもいい」 「無理です。いえ、生理的に受け付けないといったような意味で言ったのでは決してありません。でも無理なんです」 俺は言葉を発することができなかった。 「海のように深くこんな私を愛してくださって本当にありがとうございました。 二人で一緒に過ごした時間は、本当に、本当に、とても心地がよかったです。 この思い出は私の心の中に大事に仕舞われ、内側からいつも私を照らし続けてくれると思います」 (続く) ブレーンワールド(その109) ねるの行き先がどこかも分からないというのに、ねるの鉄のような決心を翻すのは無理だと感じて、俺は落涙していた。 それでも足掻いた。 「でも、ねるちゃん、俺のことは割り切れるとしても、病床に伏せているあなたのお母さんは・・・」 「母は少し前から快方に向かって、今はもう大丈夫です、私が大学で勉学に勤しんでいると思って安定しています。 私がアイドルになりたいという話を二度と持ち出さない限り、健康でいられると思います」 「お母さんはあなたがいなくなるということを承知しているの? もしそうじゃないなら、あなたがアイドルになることよりも、あなたがいなくなることのほうが遥かに辛く、病状がまたぶり返すかもしれない」 「・・・・・・それも大丈夫です」 「大丈夫って?あなたがいなくなるのに大丈夫って意味が分からない。どう考えたっておかしいよ。 いったい誰があなたの代わりになるというの?」(続く) ブレーンワールド(その110) 正時を示す電子音が腕時計から鳴った瞬間、おとめ座の中の一角が怪しく光った。 天使の梯子のように淡い光が差し込み、その光に包まれて降りてくる者がいた。 あっという間に地上に達した。 その一連の不思議な光景よりもその顔を見てぎょっとなった。 どう答えるかは予想はついたが、「お前は誰だ?」と叫ばずにはいられなかった。 「私は長濱ねる」と侵入者は答えた。 ねるの体も輝きだした。 ねると“ねる”とは軽く会釈だけをして、ただ黙って見合って、お互いの鍵とスマホと財布を交換した。 「ねる、いったい何が起こっているんだ?」と俺は声を震わせた。 「私は何が何でもアイドルになりたいんです」とねるは言う。 そして、 “ねる”も言う。 「私は、自分のプライバシーを持てず、自由に外も歩けないアイドル人生に嫌気がさして、普通のキャンパスライフを夢見ています。 だから、彼女と私の人生を交換するということになりました。 運命の鎖から解き放れたとき、人は最大の自由を手にすることができると私の世界の哲学者は言いましたが、 それをアクロバティックな形で私たちは実現するのです」(続く) ブレーンワールド(その111) ねるの代わりを“ねる”がするのか?ねるがアイドルとなり、かつ、ねるの母親を安心させるという解決法がそれなのか? そんな馬鹿なことを本気で実行しようとしているのか? 並行世界なんて物理学上の仮象ではなかったのか?本当に現実に存在するのか? 驚きのあまりひるんでいると、ねるの体は光に包まれて美しく輝きだした。 天からの光に吸い込まれ、宙に浮きあがる。 あわてて俺はねるの身体を掴もうとするが、寸でのところで届かない。 力の限り俺は声を張り上げる。 「ねる、お前の現実はこっちにある。お前のリアルな世界はこっちにある。 そっちの世界は嘘偽りだ。そちらに行ったら、お前は虚構の世界の中で生きていくことになるぞ! ねる!騙されているかもしれない。そっちの世界は戦争や飢饉に満ちているかもしれない! そっちの世界は地獄だぞ!ねる、行くな!行ってはいけない!」 俺の叫びもむなしく、ねるはあっという間に天高く上がり、判別がつかないほど小さくなった。 天からの光は消え、ねるは次元の裂け目に消えてしまった。(続く) ブレーンワールド(その112) 俺は泣き叫んで、這いつくばり、額をアスファルトに打ち付け、自傷行為に走った。 脳震とうを起こしたのか、地面が割れ、地獄に落下し、業火で燃やされたかのような錯覚に苦しみ悶えた。 ところが、それを和らげるように薔薇色の靄が俺を包んだ。 顔に柔らかい何かがあてがわれ、えもいえぬ香りが漂ってくる。心地いい振動が体に伝わってくる。慰める優しい声も聞こえてくる。 視覚も嗅覚も触覚も聴覚も混然一体となる。 吸い込んだらいいのか?耳を澄ましたらいいのか?啜りながらどっぷり浸ったらいいのか?香りの海に快く身をまかせればいいのか? 苦しみと快楽のせめぎ合いで上下の区別はつかず、方向感覚を失っていた。 快楽が打ち勝ち、俺はエクスタシーに落ちた。 夢とも現実とも分からない中で、エクスタシーに攻められ、夢精した。その後でも恍惚は続いた。 いや、騙されるな!ねるが与えてくれたものじゃない! エクスタシーの妖しい力に俺は激しく抵抗し、全身を震わせ、力の限り「ねる、なる、ねる」と悲痛な声をあげる。 おそらくこれ以上はないというくらいの醜態で泣き叫び続けた。 停電が回復した。地べたに這いつくばっている俺の顔を硬いアスファルトから何か柔らかいものが守ってくれているようだ。 正座している女性の両太腿に俺は顔を押し付け、俺の両手はその臀部をつかんでいた。 いや、でも、これはねるじゃない!偽物だ! 顔を上げると、同情の涙で溢れている“ねる”がいた。(続く) ブレーンワールド(その113) 「高校で習う基本的な波動関数は三角関数なのに、量子力学の波動関数は指数関数となりますよね。 なぜ全く違った形の式で表されるんですか?」と“ねる”は尋ねる。 「eのiθ乗は、cosθ+i sinθに等しいから、量子力学の波動関数も三角関数で表されるということでは同じようなものだけどね」と俺は答える。 「なぜ、わざわざ指数関数で表記するんですか?」 「指数関数で表わしたほうが、計算処理がシンプルになるんだ。 微分しても元の関数に戻り、しかも時間tで偏微分すればエネルギーEが取り出せ、 変位xで偏微分すれば運動量pが取り出すことができるのできわめて楽に計算処理ができる」 「ああ、なるほど。それは納得です。でも、量子力学の波動関数では、実数項cosθだけでなく、虚数項i sinθも出てきますよね。 そもそもなぜ虚数項を付け加えるんですか?」 「ぶっちゃければ、実験結果と矛盾しないから、そう表すとしか言いようがない。 ただ、実数項だけならそれによる確率波の変位が全領域で0となる時刻が必ずあり、一瞬とはいえ波が消滅し、 二重性のもう一面である粒子としての電子も消滅することになり、矛盾が起きてしまう。 ところが、cosθとsinθは位相がずれているので、虚数項があるため、波が完全に消え去るというのを防いでくれるというのは言える。 偽りの数である虚数が量子力学の肝となっているというのは神秘的と思わないかな?」(続く) ブレーンワールド(その114) 「虚数が現れるというのはそれほど神秘的なのですか? (a, b)+(c, d)=(a+c, b+d)、(a, b)×(c, d)=(ac-bd, ad+bc)という具合に、虚数の演算は実数ペアを対応させるだけのことですから」 「そういう指摘は的外れかな。 虚数の演算は実数ペアを対応させることができるといっても、それは存在しない虚数に概念的な計算を対応させただけのこと。 天使というのは白い大きな羽を持って、心清く、天上にいるというように言葉でならその概念を説明できる。 でも、存在しないはずの天使が実際に現れたら、驚きじゃない?それと同じ。 実際には存在しない虚数が量子力学の実在の現象の中に組み込まれていることを神秘的といっているんだ」 「学部生が習う物理で、他に虚数が現れるということはないのですか?」 「いくらでもあるよ。振動や交流の解を求めたりするときとか、 特殊相対性理論で、ミンコフスキー空間での三平方の定理や内積をユークリッド空間と同じ形にすることを考えるときとか。 でも、それらは数学的なテクニックにすぎない。あるいは、あくまで架空である虚数を寓意的に用いているにすぎない。 心の美しい人間の心を存在しないはずの天使の清い心に譬えるのと同じようなことかな。 だから、それらで虚数が出てきても驚きはしない。 だけど、量子力学での虚数は実在のものとして組み込まれている。 あたかも天使が現実に出現したということに等しい」 「なるほどそういうことですか!実数ペア云々という高校数学の知識だけでイキガった自身が恥ずかしいです」と“ねる”は頭を掻く。 あれから2か月経ち、秋が深まった季節となっていた。 俺は“ねる”と同棲して、高校課程までしか履修していない“ねる”に大学で習うことを教えている。(続く) 量子力学の波動関数を知らないと何のことか分からないので、その説明をしておこう。 ただし、最低限、高校物理を履修した人しか対象としない。 (1)高校物理で波動関数の式 高校物理で波動関数は、ある一点での単振動が空間的に伝播していくと説明される。 (ただし、高校物理では、「波動関数」という言い方ではなく、「波の式」と称することが多いようだ。) 単振動の式は、 ψ=Asinωt=Asin2πft (ψは振動の変位、ωは角振動数、fは振動数) 位置xの場所では、x/vだけ遅れた変位が伝わるので、 ψ=Asin2πf(t−x/v) 上の式では、sinという形で表されているが、一般的にはそうならない。 初期位相がπ/2であれば、cosとなるし、他の形にもなりえる。 ここでは、cosで表して、面倒だから、初期位相は0とする。 ψ=Acos2πf(t−x/v)=Acos2π(ft−x/λ) (v=fλの式を用いた。) (2) 量子力学の波動関数の式 量子力学の波動関数の式は、(1)の式に虚数項i Asin2π(ft−x/λ)を加えるだけである。 ψ=Acos2π(ft−x/λ)+i Asin2π(ft−x/λ) オイラーの式e^iθ=cosθ+isinθから、 ψ=Ae^i2π(ft−x/λ) ここで、量子力学らしい表記とするため、高校の原子物理分野でも習うE=hf、p=h/λを用いる。 Eはエネルギー、pは運動量である。 hはプランク定数で、Hをディラック定数(h/2π=Hである)とする。 (以前に、ダークエネルギー密度を求めたときには、hをディラック定数として、Hをハッブル定数としたが、ここでは文字が表す量を変えているので注意してほしい。) したがって、 ψ=Ae^i2π(Et−px)/h=Ae^i(Et−px)/H ただし、標準的な式の形は累乗のところの正負が逆になっている(累乗のところにマイナスが付いている)。 物理や数学では左回りを正とするのが原則だが、虚数が絡んでいる場合には右回りを正とするためである。 最初の単振動の三角関数の中にマイナスを入れれば済む話である。 そうすると、 ψ=Ae^i(px−Et)/H これが、量子力学における波動関数である。 なお、三角関数の形で表記にすれば、 ψ=Acos(px−Et)/H+i Asin(px−Et)/H (3)複素平面上の等速円運動の正射影 (2)の説明だと、i Asin2π(ft−x/λ)を唐突に加えたという感が強いので、その背景を掘り下げてみる。 単振動の変位の式を求める場合は、大学以後ではもちろんだが、高校でもある程度の進学校なら、2回線形微分方程式の解として教わることが多いと思う。 等速円運動の正射影であるというのは幼稚な方法だから無視しろと高校生のときに俺も言われた。 ただし、授業では使わなかったとはいえ、高校の物理の教科書は一応受け取ったので、その内容は知っている。 その幼稚な方法が量子力学における波動関数が何たるかを考えるときには役に立つ。 横軸が実軸 縦軸が虚軸 赤丸が初期位置 青丸が時刻tの位置 緑色の光が実軸へ正射影させている 黄色の光が虚軸へ正射影させている 複素平面上で、半径A、角速度(ω=)2πf、初期位置(A,0)の等速円運動を考える。 回転の向きは普通は左回りに取るが、(2)でも書いたように、ここでは右回りにとる。 t秒後において、実軸と虚軸に正射影した式はAcos(−2πft)とiAsin(−2πf t)であり、複素座標はAcos(−2πft)+iAsin(−2πf t)となる。 こういう振動が元となって、量子力学の波動関数はつくられていると見なしてやる。 後は(1)でやったのと同じように、位置xの場所では、x/vだけ遅れた変位が伝わるとすれば、 ψ=Acos(px−Et)/H+i Asin(px−Et)/H が導ける。 古典物理では実数の振動しか考えなかったのに、量子力学では実数の振動に虚数の振動が加わるということとなる。 上のことさえ理解できれば、量子力学の神秘性を必ずや感じることとなる。 (4)虚数項があるため確率波が0となるのを避けられる 電子の検出確率を表す確率波はψの絶対値の2乗で表される。 換言すれば、実部の係数Acos(px−Et)/Hと虚部の係数Asin(px−Et)/Hをそれぞれ2乗した和で表される。 この計算は面倒なのでやらないが、その様子は定常波と同じようなものだと受け止めていい。 定常波は入射波と反射波とが重ね合わされてできる。 その計算結果は、それぞれの因子が変数tと変数xだけで表されることになり、全ての領域で変位が0となる時刻が必ずある。 それと同様に、実数項だけで確率波を考えた場合には必ずある時刻で検出確率がゼロとなる。 つまし、電子が消えてなくなるという矛盾が起きる。 したがって、波動関数の実数項だけでは無矛盾の波動関数は絶対につくれないこととなる。 しかし、量子力学の波動関数には、虚数項も含まれていて。cosとsinの位相がずれているため、 実数項の係数の2乗で時間tを含む因子がゼロとなっても、虚数項のほうのそれは0とはならない。 したがって電子が消滅するという矛盾を回避できる。 (5) シュレディンガー方程式 波動関数の式からシュレディンガー方程式(波動方程式)がどのような式になるかというのを示しておく。 疲れてきたので、簡単にポイントだけ書いておく。 ψ=Ae^i(px−Et)/Hと指数関数の形で表わせば、計算が楽な上に、偏微分しても元の形のままで、エネルギーと運動量を係数として外に出せるのがポイントである。 ・ψをtで偏微分した式とψをxで2回偏微分した式をつくる。 ∂ψ/∂t=−iEψ/H、∂^2ψ/∂x^2=−p^2ψ/ H^2 (Eψ=iH・∂ψ/∂t、p^2ψ=−H^2・∂^2ψ/∂x^2) ・ポテンシャルエネルギーをVとして、エネルギー保存則の式をつくる。 E= p^2 /2m+V ・上の式にψを左から作用させる。 なぜ、素直にψを乗ずると言わないのかというと、ここがまた量子力学の奇妙なところだが、 エネルギーEと運動量 pを演算子と見なさなければならず、一般的に交換法則が成立しないので、上のような言い方となる。 ・以上から、シュレディンガー方程式が導ける。 iH・∂ψ/∂t=−H^2/2m・∂^2ψ/∂x^2+Vψ 実際の計算では上の流れたは逆で、シュレディンガー方程式の解から波動関数を求めることとなる。 そのシュレディンガー方程式にも虚数項があるので、量子力学の波動関数も必ず虚数項を含むこととなる >>315 再度、訂正。 313の図のほうが正しく、314のほうが間違っていた。 【右回りを正】としているので、314のように右回りしている場合には、位相角が2πftとなる。 −2πftとするためには、313のように左回りに回っているとしなければいけない。 ブレーンワールド(その115) あの六本木の夜の出来事から丸一日は泣き続け、食事は喉を通らなかった。 死にそうなほど苦しんでいるという嘘の報告をヘタレ先輩が教授にしていたため、 研究室の同級生が見舞いにきてくれて、俺の様子を教授に報告した。 その衰弱を見て、ずる休みではなく本当に具合が悪かったと教授に訴えてくれた。 かいがいしく俺を世話する一方で、客人に対しても心あるもてなしを“ねる”はした。 “ねる”の深い献身のおかげで立ち直ることができ、“ねる”を受け入れることに時間はかからなかった。 だが、ときどきあの夜のことがフラッシュバックする。 それが心配だからということで“ねる”は寮には一度も行かず、ねるの持ち物をウザ女に運んでもらって、俺と一緒に住んだ。 ねるのスマホやパソコンには、メーラーやスケジュールやファイルやディレクトリーやハイパーリンクが残されていたはずである。 それらをセーブデータとして受け継ぎ、首尾よくコンティニューしたためか、ねると“ねる”との区別が俺はつきにくくなっていた。 というよりも、ねると“ねる”の区別がつくこととねると“ねる”の区別がつかないこととの間の区別がつきにくくなっていた。 あの六本木の夜のことは偽の記憶で、最初から“ねる”と出会っていたというのが本当だったという気もしている。 量子力学では実数と虚数の区別をつける必要がないように、ねると“ねる”との区別をつける必要もない気もしている。 “ねる”は虚数的な存在であるとしても、俺の前にリアルに存在している。(続く) ブレーンワールド(その116) 1Kの狭い部屋が俺の住処だった。 シルエットとなった雑居ビルと電信柱のわずかな隙間から夕方にだけ日が差す安アパートに住んでいた。 “ねる”と同棲するのは住環境が悪すぎるので引っ越すことにした。 家庭教師のアルバイトなどで溜めていた金も十分にあったが、引っ越しや新居の費用に充てるための思わぬ臨時収入があった。 あの11人と公安調査庁の連中との間で裁判沙汰となっていた。 闇で暗躍する公安調査庁の人間が恥も外聞もかなぐり捨てて訴訟したということで、世間の注目が注がれていた。 何の疑惑もないないのに、公安調査庁の人間からつきまとわれて困っている友人を守るために、ああいう行動に出たというのが11人の言い分だった。 しかし、その友人がつきまとわれていたという証拠がないので、11人側は不利な状況だった。 タクシーの中でねるが俺の胸ポケットに入れたのは日付入りのカメラ画像のメモリーカードで、 あの能面のような男がねるの住む寮の前で、何か月間も見張りをしている様子がそこにははっきりと映っていた。 それを11人側に直接に渡してもよかったのだが、もっと効果的な方法をあると思った。 今では安本敦の関連するアイドルを追わなくなった週刊誌の編集者に連絡を取った。 待ち合わせたファミレスで、そのメモリーカードの画像をノートパソコンで見せたら、「10万円までなら出しましょう」と言ってきた。 金を貰うことなどそのときまで全く考えていなかったのだが、どうせなら吹っ掛けてやろうと方針を急転換した。 「安すぎやしませんか?秘密のベールに包まれてきた公安調査庁の人間のスキャンダルな画像ですよ。 正義の行いをしているはずの公安調査庁の人間が何の罪もない一人の女子大生にストーカーしていたという貴重な証拠ですよ。 これを掲載できたら、売り上げを伸ばすだけでなく、会社の社会的ステータスも上がりますよ」 メモリーカードは100万円で売れた。(続く) ブレーンワールド(その117) 週刊誌は売れに売れ、能面男は訴訟を取り下げ、あの11人の正当性が報じられ、そのデビューも注目された。 「けやき坂46」というグループの正式名称も決定した。 敵の敵は味方ということで、安本敦が関係するアイドルのスキャンダルを狙ってきたあの週刊誌も掌を返したようにけやき坂46の応援キャンペーンを始めた。 カラーグラビアで3人ずつを4週連続にわたって取り上げることとなった。 鳥居坂46の最終オーディションを当欠した11人に加え、 鳥居坂46デビュー直前にグループを離脱した平手友梨奈の12人でけやき坂46はデビューすることとなった。 「とりい坂46」と記して「ひらがなとりい坂46」と読ませ、鳥居坂46のアンダーグループというように当初には予定されていたが、 世間を賑わかせたことがいい宣伝となり、しかも完全に勝利したことが好印象となり、独立したグループにするという方針に変わった。 それに合わせて、グループの名称も「けやき坂46」に変更されたという次第である。 俺はまとまった金が手にでき、週刊誌も売れ、けやき坂46の運も上向いた。 三者が得をしたというわけだ。(続く) ブレーンワールド(その118) アイドルには全く興味を示さない“ねる”だったが、けやき坂46には何か思い入れがあるようだ。 平手友梨奈がけやき坂のメンバーとなったことがテレビを報じられているのを驚いた様子で見ていた。 けやき坂46のデビューシングルはダブルセンターの体制で、もう一人は柿崎芽実だった。 芽実の頭の匂いとともに彼女が言ったことを思い出した。 「今日、発つんでしょ」「ねるの気持ちを分かってあげてね」「アイドルになりたいというコのためには身を引こうとする心掛けはよしとするわ」 芽実を始め、あの11人はどこまでねるの事情を知っていたのだろうか? 「一本のけやき」は心地いいメロディで、このグループのデビューシングルの表題曲にふさわしい。 だが、アルファベット表記のカップリング曲「Another Possibility」のほうが俺には興味深かった。 歌詞の冒頭はエリオットの有名な英語詩から引用されている。 What might have been is an abstraction remaining a perpetual possibility only in a world of speculation. What might have been and what has been point to one end, which is always present. そうなっていたかもしれないことは、憶測の世界の中だけであり得続けるという抽象にすぎない。 けど、そうなっていたかもしれないこともそうであったことも結局は同じで、いつもそこにある。 拙訳すればそういう意味である。 人生の岐路に立ったとき、選び取るのはたった一つの道だけだが、選ばなかった人生も実は存在していて、それと出会うこともあるかもしれない。 そういったたような日本語の歌詞が後に続いた。 ねるが差し出し人じゃないかと博物館の中で芽実が指摘した手紙のことを思い出した。 その手紙から安本がインスピレーションを得て作詞したのではあるまいか。(続く) ブレーンワールド(その119) “ねる”の胸には何が去来しているのだろうか? だが、“ねる”とはいっさいそういう話はしなかった。 けやき坂46のことだけでなく、ねるのことも、あの日のことも。 言葉にすれば、“ねる”が消えてしまうような気がするから。 それにしても、ねるが使っていたスマホやパソコンを“ねる”はいま使っているが、機能不足で不服という様子ではない。 また、“ねる”の元の世界は、少なくとも高校生が量子力学を履修しているというレベルには達していない。 そういうことから察するに、あの世界とこの世界の文明レベルはほぼ同じくらいと考えるのが妥当だろう。 そうすると重力波をコントロールして「長濱ねる」や「けやき坂」という文字列を意図して送信したのは誰の仕業なのだろうか? 高次元に棲息する超高度知性生命体と呼ぼうが、神と呼ぼうがかまわないが、そんなものの仕業とすれば、その動機はなんなのか? 同情なのか? 離れた二つの水槽があり、その一つの水槽の中のミジンコともう一つの水槽の中の“ミジンコ”がその住みにくさに喘いでいる。 その二匹を取り換えれば、二匹にとって望ましい環境になるということが分かっていて、それを実行したのか? あるいは単なる遊びなのか? ねるも“ねる”もそして俺もRPGの中のキャラクターのようなもので、神というプレーヤーが与えた役割通りに動いただけなのか?(続く) ブレーンワールド(その120) 彗星ならその位置と速度が分かれば、太陽や近くにある惑星の重力の影響でその運動は決定するので、簡単に軌道計算はできる。 だが、ゲートはどういう仕組みで運動しているのかは分からないので、その軌道は謎のままだった。 あの夜の後、嗚咽し苦しみ続けながらも、やっていたことがあった。 9月3日19時ジャストにおとめ座の中のどの場所が光ったのかは鮮明に覚えていた。 それがゲートに違いないことは確信していた。 おとめ座のα星スピカとδ星ポリマを結ぶ直線上で、スピカからポリマへ満月4個分がゲートの位置だった。 その時刻におけるゲートの赤経αと赤緯δを、α=13h 19m 11.99s、δ=−9°49′27.3″と算出し、 けやき坂にある横断歩道のセーフティアイランドの東経λと北緯Φは、ネット地図から、Φ=35°39′33.2″、λ=139°43′48.7″とあったので、 けやき坂にある横断歩道のセーフティアイランドから見たゲートの出現位置を、 高度は9°32′8.47″で、真南からの方位角は70°31′13.4″と算出した。 そのデータと計算式と計算結果を教授に報告した。 その日の高度による温度勾配のデータを調べて、大気による光の屈折などの補正をして、より正確な出現位置を研究室では計算した。 ゲートの位置を特定する他のデータは曖昧なものばかりで、それらの寄せ集めだけではゲートの軌道を特定するのに決め手を欠いたが、 俺の提出したデータが功を奏して、俺の研究室でははっきりとした軌道が算出された。 それは論文として「ネーチャー」に教授名義で提出された。 なお、教授のパソコンを勝手に覗いたということを正直に告白して、その非礼を詫びた。 教授からは何の返答もなく、眉ひとつ動かさない無反応だったが、ペナルティを受けることは特になかった。(続く) 上に書いたゲートのけやき坂の場所から見たゲートの方向は一応は計算したので、その導出過程を書いておく。 (1)必要なデータ値 スピカの赤経、赤緯は、13h 25m 11.57937s、−11° 9′40.7501″である。 ポリマの赤経、赤緯は、12h 41m 39.64344s、−1° 26′57.7421″である。 2017年の9月3日0時のグリニッジ恒星時Θ_0は、Θ_0=22h41m16.6sである。 けやき坂にある横断歩道のセーフティアイランド(以下、セーフティアイランドと略す)の東経λ、北緯Φは、 Φ=35°39′33.2″、λ=139°43′48.7″とした。 (なお、実際には、けやき坂にはセーフティアイランドどころか歩行者用信号機もないようだ。 ここでは横断歩道のある場所を一つ選んで、東経と北緯の値を調べた。) (2)計算は球面幾何における三角関数の式を使う。 球面幾何の三角関数の式は平面幾何のものよりは複雑で、理解するためには三次元空間の把握能力も必要だが、それ専門の理工書を見れば誰でも理解できると思うので、ここでは割愛する。 ただ、角距離を球面三角形の辺の長さなぜしていいのか?というのはよく尋ねられるので、簡単に説明しておく。 基本的には球面上の球面三角形の辺の長さは、平面の場合と同じように、実際の長さを使わなければならない。 半径1の単位球では、その球面上の2点間の距離は角距離をラジアンで表したものに等しい。 天球の半径は1ではないし、用いる角度もラジアンではなく度を用いるのが普通だ。 だが、半径1の単位球の球面上に球面三角形が描かれていて、その全体を拡大したとき、拡大前後の2つの球面三角関数は相似となるので、球面三角関数の式は全く同じとなる。 また、sinやcosの中身はラジアンでも度でもどっちでもかまわない。 したがって、天球上の角距離を度で表したものを球面三角形の辺の長さとしてもかまわないことになる。 (3) 2017年の9月3日19時のゲートの赤経、赤緯 スピカ、ポリマの位置を、A、Bとし、また北極星の位置をPとする。 PA、PBの角距離は、101° 9′40.7501″、91° 26′57.7421″となる。 大円PAと大円PBのなす角度は、 13h 25m 11.57937s−12h 41m 39.64344s=0 h 43m 31.94s=10° 52′59.1″ AB間の角距離をθとすれば、球面余弦定理から、 cos θ=cos 101° 9′40.7501″cos91° 26′57.7421″+sin101° 9′40.7501″sin91° 26′57.7421″ cos 10° 52′59.1″ =14.52720678°(=14° 31′37.94″) スピカからポリマへのほうに満月4個分がゲートの位置であるとした。 満月の視直径は30′なので、満月4個分の角距離は2°である。 A、Bを通る大円上にあり、AからBに向かって、満月4個分の位置をCとすれば、 AC、CBの角距離は、2°、12.52720678°である。 角距離の比によって、大円は内分されるので、平面幾何における内分の式がそのまま使える。点Cの赤経α、赤緯δは、 α=(13h 25m 11.57937s×12.52720678°+12h 41m 39.64344s×2)÷14.52720678° =13h 19m 11.99s δ=(−11° 9′40.7501″×12.52720678°−1° 26′57.7421″×2)÷14.52720678° =−9° 49′27.3″ (4) 2017年の9月3日0時のセーフティアイランドの地方恒星時Θとセーフティアイランドに対するゲートの時角H 2017年の9月3日0時のグリニッジ恒星時Θ_0は、Θ_0=22h41m16.6sである。 2017年の9月3日0時のセーフティアイランドの地方恒星時Θは、時差9時間を考慮して、 Θ=Θ_0+(19−9)ν+λ/15 (ただし、νは太陽時間に対する恒星時間の比の値で、ν=1.00273791となる。) 値を代入すれば、Θ>24となるので、求まった値から24を引くと、 Θ=18h1m50.41s セーフティアイランドに対するゲートの時角Hは、 H=Θ−α=4h42m38.42s=70°39′36.3″ (5) 2017年の9月3日19時のゲートの角高度hと方位角A セーフティアイランドから見たゲートの角高度をhとすれば、球面余弦定理から cos(90°−h )= cos(90°−φ )cos(90°−δ )+sin(90°−φ )sin(90°−δ )cos H ∴sin h =sin Φ sin δ+cos Φ cos δ cos H 値を代入すると、sin h =0.1656618799 ∴h =9°32′8.47″ セーフティアイランドから見て、ゲートの真南からの方位角をAとすれば、球面正弦定理から、 sin (90°−δ )/ sin(180°−A )= sin (90°−h )/ sin H ∴sin A=cos δ sin H/cos h 値を代入すると、sin A =0.9427602104 ∴A =70°31′13.4″、109°28′41.6″・・・(a) 南の空に見えたのは分かっているので。A =70°31′13.4″と決定してもいいのだが、念のために球面幾何の座標変換で使うもう一つの式を用いると、 sin (90°−h )cos(180°−A )= sin (90°−φ )cos(90°−δ )−cos (90°−φ )sin(90°−δ )cos H ∴cos A =(sinφ cos δ cos H−cosφsinδ)/ cos h 値を代入するとcos A =0.3334714125 A =70°31′13.4″、289°28′46.6″・・・(b) (a)、(b)の両方を満たすのは、A =70°31′13.4″ セーフティアイランドからゲートまでの距離は上の計算では明らかにはならないが、その方向だけは算出できる。 >>327 ×ただ、角距離を球面三角形の辺の長さなぜしていいのか? ○ただ、角距離を球面三角形の辺の長さであるとなぜしていいのか? >>327 の7、8行目を訂正 球面三角形の辺の長さがsinやcosで表されるわけがなかった。 × だが、半径1の単位球の球面上に球面三角形が描かれていて、その全体を拡大したとき、拡大前後の2つの球面三角関数は相似となるので、球面三角関数の式は全く同じとなる。 また、sinやcosの中身はラジアンでも度でもどっちでもかまわない。 ○ だが、半径1の単位球の球面上に球面三角形が描かれていて、その全体を拡大して半径rの球としたとき、拡大前後の2つの球面三角関数は相似となり、 球面三角関数の式の両者の違いは、前者に対し後者の辺の長さが180r/π倍になっているだけにすぎない。 そして、その180r/π倍は球面三角関数の左辺と右辺とで相殺されるだけである。 ブレーンワールド(その121) 「量子力学はとても関心をそそられるんですけど、難しいですね。少し疲れました。ちょっと休憩にしましょう」 “ねる”の言葉に反応し、俺はカーテンを閉め、“ねる”に抱きつく。 “ねる”は長崎弁 で咎める。 「あんたん頭の中はそれしかなかと?しょっちゅうそがんことされたら私の身がもたんたい。こがん朝っぱらからホントいやらしか」 “ねる”は少しS気があり、自分の主張を通すときには長崎弁にスイッチする。 “ねる”は俺の腕からするりと抜け、俺が閉めたカーテンを開け、レースのカーテンまで開ける。 秋の透明な光が部屋いっぱいに差し込んで、ワックスがけしたフローリングの床に反射する。 さらに窓も開けながら、「ああ、いい天気、今日は涼しいというか暖かいですね。お散歩に出ましょう」と“ねる”は言う。 この“ねる”は本心をさらけ出してくれて、気兼ねせずに思った事を言い合える。 いや、もっと親密になっていたら、あのねるとも遠慮の入らない仲となり、同じように心を通わることができていたかもしれないな。 いずれにしても、心のコアの部分では優しさと気品にあふれているというのはこの“ねる”にもあのねるにも共通している。(続く) ブレーンワールド(その122) 丘の上にある近くの公園まで辿り着いたら、広々した芝生は日差しを浴びて眩しく輝いている。 大きな黒揚羽蝶が飛んでいる。 斜面を吹き上がってきた突風が芝生を波打たせ、一本の影が前方から背後へと運ばれていく。 黒揚羽蝶はあっという間に遠くへ去ってしまう。 “ねる”も連れ去られるような不安にとらわれて、あの六本木の夜のことがフラッシュバックする。 悟られまいと平然と装うが、体が小刻みに震える。 “ねる”は俺を掴んでベンチまで引っ張ってきて、膝枕に誘導する。 “ねる”は美しい瞳で俺を見つめる。 “ねる”の体臭と香水と柔軟剤の混じった甘美な匂いが漂う。 俺の顔や腹をなでて、心地いい振動を与えてくれる。 「大丈夫ですよ。あなたの傍にはいつも私がいます」と“ねる”の声が優しく囁く。 不安は霧散し、エクスタシーに包まれ、時が止まったかのようだ。 “ねる”が俺の終着駅であってくれと願う。 「ピーッヒョロー」と甲高く鳴く声が聞こえる。 水彩画で描かれたような鮮やかな青空を見ると、トンビがサーマルを捕まえ、高く高く上昇している。 “ねる”は俺の視線の先を追って、見上げる。 「トンビに何をお願いしたの?」と“ねる”はいたずらっぽく笑った。(続く) 昨日は朝から神経をすり減らすような数式とずっと格闘していて、その式とここで使う式とを混同するという錯乱を起こしてしまった。 >>327 のままでかまわない、>>332 のほうが間違っている。 ブレーンワールド(そのi) ねるは身震いしている。 原爆が投下され焼け野原となった地獄絵図がそこにあった。 きのこ雲と火柱が上がっていて、どこもかしこも死人の山となっている。 生き残った人はさらに悲惨だった。 死んだ赤ちゃんを抱きながら、「起きて、起きて」と叫ぶ母親。 熱線によるやけどの火ぶくれが破れ、ボロキレのように皮膚にぶら下がった人。 血の泡を吹きながらのた打ち回る人。 目の玉が飛び出している人。 肉がちぎれ、内臓が飛び出している人。 長崎市にある原爆資料館にねるは来て、その悲惨な状況の写真を見て身震いしている。 けやき坂46および欅坂46の中心メンバーである長濱ねるは長崎県の大使となった。 その仕事の一つとして、原爆資料館を市のホームページで紹介する役割を請け負った。 大使とか仕事とかからではなく一人の人間として、原爆で亡くなった人々に祈りを捧げる。 原爆という悪魔の兵器がこの地上からなくなることを強く願う。(続く) ブレーンワールド(その2i) その後、浦上天主堂に移動した。 カトリックとプロテスタントの合同500周年記念祭が秋に浦上天主堂で行われる予定で、そのゲストとしての予行のために来た。 ステンドグラスからふりそそぐ七色の光は美しく、まるで神の国が目の前に現れたようだ。 小聖堂の中にある被爆マリア像に案内される。 被爆してケロイドとなった皮膚を晒すという自己犠牲をしてまで戦争の悲惨さを訴える人を被爆マリア像は彷彿とさせる。 ねるは涙を流す。 さらに、その後には、長崎と天草のキリシタン文化が世界文化遺産に推薦されたことを受けて、 ユネスコへアピールするために地元のテレビ局の番組への出演をする。 日本の土俗宗教とカトリックとが融合して独自なものとなったキリシタン文化の中心が長崎であることを誇らしく思う。 それらが終わったら、飛行機でとんぼ返りし、東京での仕事が待っている。 充実しながらも、忙しい日々が続く。(続く) ブレーンワールド(その3i) 今いる世界にねるがやって来で数日経ったが、前の世界と今の世界とでは2か月ほどの時差があり、今日は2017年7月22日である。 富士急ハイランド施設内のコニファーフォレストで欅共和国2017が行われている。 ねるはコンサート会場のバックヤードの中にいる。 けやき坂46のメンバー全員を不思議そうにねるは見つめる。 あの11人がそろったときに天啓を聞いて、それに導かれて私はやって来たんだった。 今どうしているのだろうか?順風満帆であってほしい。 バックヤードにやって来た女性マネージャーからねるは尋ねられる。 「例のこと深慮した?」 激務が続いているため、欅坂46かけやき坂46かのどちらか一方に専念するように運営から促されているが、ねるは決断はしかねている。 メンバーにはまだ秘密にされているが、何とはなしに聞いていた東村芽衣が、「アヤ、シンリョってなに?」と尋ねる。 「お医者様に診てもらうことよ」と高本彩佳は誇らしげに答える。 あちゃー、アヤちゃん、それは診療だよ。 「アヤ、物知りやね」と芽衣は言う。 どひゃー、どの世界にいてもアヤちゃんはアヤちゃんで、メイちゃんはメイちゃんだな。二人のおバカは並行世界を超越している。 あっ!ものすごく失礼なことを思ってしまった。心の中だけでだけでも謝っておこう。ごめんね、アヤちゃん、メイちゃん。(続く) ブレーンワールド(その4i) マネージャーの問いかけへの答をねるは考え込む。 ああ、迷うな。でも、恐れはしない。もっと大きな決断をすでに私はしているのだから。 ひらがなメンバーと離れ離れになるのは絶対にできないけど、一人ひとりのメンバーにスポットが当たるためには私がいないほうがいいような気もするしなあ。 「ねえ、みんな聞いて。ひらがなけやき坂を離脱したり、あるいは芸能界に残らない人が出てきても、私たちはいつまでも仲間だよね。 嬉しいときも悲しいときも、近くにいても遠くにいても、ずっと友達でいましょう」 ねるの唐突な呼びかけに他のメンバー全員は一瞬あっけにとられるが、すぐに誰もが同意し、全員が温かい気持ちになる。 ライブが始まり、欅坂46の歌の後、けやき坂16の「ひらがなけやき」「僕たちは付き合っている」が続いて、 また、欅坂46の歌が続き、ねるのソロ曲「また会ってください」が続く。 ねるには休みがない。 ソロ曲が始まると、サイリウムの色がねる個人のシンボルカラーである紫色に一斉に変わる。 そこにねるは幻影を見る。ああこれが私の希望の光だったんだ。 歌い終えると、万雷の拍手が鳴り響く。 歓喜と熱気がねるの身体を満たしていく。 万感の思いがねるの脳裏に去来する。とめどなく溢れては流れ出ていく。その思いは汲めども汲めども尽きない。 この先、何もまだ決めていないし、何が待ち受けているのかも分からない。でも、今はアイドルであることをとにかく心の底から楽しもう!(了) けっこう加筆することになるだろうと思っていたが、予想よりもかなりその分量が増えて、精も根も尽き果ててしまったので、もう小説文は書きたくない。 ただし、もしかすれば、また書きたくなるかもしれないので、スレは当面は維持しようかと思う。 >>299 の出来事が起こった日を9月3日に選んだのは、欅坂46の4thシングルに収録されている長濱ねるの個人PV↓がその日を取り上げているためである。 https://www.youtube.com/watch?v=6vRn72IjRfE >9月3日の夜空におとめ座は見えますか? 9月4日が長濱の誕生日なので、自分の占星月の星座であるおとめ座がその前日の9月3日に見えるのか?と語りかけている。 占星月とその星座が見えるかどうかは、>>12 の「エル・エステ」の中でも説明しているが、少し補足説明をしておこう。 黄道十二宮の決められたその当時なら、9月3日にはおとめ座は日中にだけ出現するので、太陽の強烈な光で見ることはできない。 ところが、歳差が起きていることによって、現在なら見ることができる。 歳差とは太陽による潮汐力によって地球の自転軸の方向がずれることである。 歳差を定量的に求めるのはかなり難しいが、定性的にどういう具合にずれていくのかというだけなら、比較的簡単である。 力のモーメントの向きを外積の向きに定めるということを知っていれば、高校生でも理解できるので、ざっと説明しておこう、 地球とともに公転する座標系でみれば、太陽からの重力と回転による遠心力とが地球の中心ではつり合っている。 ところが、太陽に近い側では重力のほうが、太陽に遠い側では遠心力のほうが大きくなっているため潮汐力が働く。 公転面に対して地軸が垂直なら、その潮汐力は地球を両側から引っ張る力にしかならないが、地軸が傾いているため、偶力モーメントが働くこととなる。 地球を回転させる力の外積の向き(もちろん、地軸の向きである)とその偶力モーメントの外積の向きとを合成させたものが変化後の地軸の向きとなり、 その微小変化をつなぎ合わせていけば、【時計回り】に小さな円を描いて地軸は回転することとなる。 地軸が回転している状態で考えると混乱しやすいので、地軸が回転していない、つまり、地軸の向きが常に一定の方向を向いているとして考えてやる。 そのとき、相対的に天球が【反時計回り】に回転するということになる。 つまり、地球の公転の向きに黄道十二宮の星座はずれていくこととなり、歳月が後のほうにずれていくこととなる。 天の北極から見たとき、地球の公転や自転の向きは実際の向きである【反時計回り】で、 地軸が回転している(その向きは【時計回り】)効果は、それと逆向きに天球が回転している(その向きは【反時計回り】)としていて、錯綜しているので注意しておきたい。 面倒な定量的な計算から歳差の周期(地軸が1回転する周期)は26000年ほどになることは知られているので、 それが天下り的に与えられているとして、西暦2017年における黄道十二宮の星座のずれの値を求めてやる。 占星月が決められたのが紀元前150年ほどなので、 西暦2017年においては、 (2017+150)÷26000×365日≒30日 ということになり、 そして、それは地球の公転の向きと同じ向きにずれるので、1か月ほど後にずれることになる。 ざっくりといえば、占星術でおとめ座に対応する8月23日から9月22日までの期間は現在ではしし座ということになり、 その期間ではおとめ座はしし座から地球が好転する方向へ30°(1か月間に相当)だけずれているということとなる。 そうすると、夕方の短い時間になら、9月3日におとめ座を観ることはできるというわけである。 左図は紀元前150年のときの黄道十二宮の状態で、右図は現在の黄道十二宮の状態である。 中心の赤いのが太陽である。 下の円が地球で、上半分の白い部分で昼に、下半分の黒い部分で夜となっている。 Vはおとめ座Virgoで、Lはしし座Leoである。 右図で、下半分の黒い部分の欠けたところで夕方となっていて、そのときおとめ座は見える。 >>334 の次の一文は、幾度か考え直した。 >“ねる”の体臭と香水と柔軟剤の混じった甘美な匂いが漂う。 最初は体臭の匂いとしていたのだが、生々しくなると思って、前に投稿したものは柔軟剤に変えた。 味気なく物足りないと思って、今回、さらに上のように変えた。 実は、「欅って、書けない?」で高本彩佳が言ったことを実は参照とした。 字句は不正確だが、高本は次のように語っていた。 「私は柔軟剤の匂いが好きなんです。特に、その人の匂いと香水の匂いと柔軟剤の匂いが混じり合った匂いが好きなんです」 で、そのミックスされた匂いが最高なのが守屋茜で、香水の匂いだけがちょっときついのが加藤志保だと言っていた。 「ブレーンワールド」の中で、高本彩佳と東村芽衣をおバカあつかいにして悪かったが、 あくまで学校のお勉強はできないというだけで、けっして二人とも頭は悪くない。 東村に関してはぱっと思いだせないが、高本に関しては初期のブログは読んでいて面白かった。 頭の中から泡のように浮かんでき考えに向き合って、未消化のままだが誠実に自分の深層心理を表現していた。 整理して書けたらもっとよかったんだが、深層心理を引き出すというのは難しい作業で、訥々と語るように書くというだけでも馬鹿にはけっしてできない。 自分を見つめ直す時間がコロナ禍のおかげでできたといったようなことを最近もブログに書いていたが、うまくまとめなくていいからもう少し掘り下げて書いてほしいとこだったな。 日記のように自分のためだけに書こうとしてもそんなにやる気は起きない。 けど、誰かに見せる、とりわけ不特定多数の者に見せるということであれば、自然と絞り出そうとする。 後で見返したとき、自分がこんなことまで考えていたんだなあと思い出すことができれば、感受性が深まっていく。 人というのは慣れによって感受性が弱くなってしまうが、書いていくことを続ければ、感じる能力が深まっていく。 感じたから書くのだけど、また書くことで感受性が磨かれていく。 絢音の今日のブログで次のような記述があった。 >最近、銀河系には少なくとも36の知的文明が存在するはずだ、という研究報告がありましたが、現在の技術では信号を検知することも不可能とのこと。 >私が生きている間に交信することは出来ないようなので、星が綺麗に見える場所に行きたいな、と思う今日この頃です。 概算で知的文明間の距離を計算してみる。 天の川銀河の半径を5万光年、厚みを千光年とする。 その体積は、 50000^2×3.14×1000=7.85×10^12 36の知的文明が存在するのなら、その平均の占有体積は、 7.85×10^12÷36=2.18×10^11 よって、知的文明が存在する星と星と平均距離は、 (2.18×10^11)^1/3≒6000光年 地球から最短の知的文明の星までの距離もその平均程度だとすれば、往復に要する時間は6000×2=1万2千年となるので、 絢音が生きている間には交信できないというのは正しい。 リライトする前の「ブレーンワールド」が終了したのが2017年の春ごろだったので、2017年の秋のことはいい加減なことが書けた。 だからKAGRAは稼働しているし、欅坂かけやき坂かの長濱ねるの去就もまだ決定していないという設定にできた。 今回リライトするにあたってその修正は苦肉の策だった。 KAGRAの代わりにtama300を重力波検出装置として登場させたり、ねるの世界と“ねる”の世界とに2か月の時差を設けたりした。 なお、先週の「サイエンスZERO」予告にtama300の様子が一瞬だけ映っていたので、明日の放送でおそらく紹介される。 長濱ねるのサイリウムの色は紫×紫であることは2017年当時は誰でも知っていると思ったので前はあえて書かなかったが、今回は>>339 で明記した。 というのも、長濱が欅坂を卒業した後に、サイリウムカラーを紫×紫に丹生が変更していたため、混乱が生じると思ったからだ。 日向坂(けやき坂)で長濱のサイリウムカラーを受け継ぐということは、大袈裟に言えば、オリックスでイチロウの永久欠番の51を受け継ぐのと同じようなものだが、 長濱ほどではないにしても丹生もかなりの人気メンだし、先輩からも同期からも後輩からも好かれるという丹生だから、長濱もきっと喜んでいただろうと思う。 ところが、2020年11月2日の丹生のブログでサイリウムカラーの変更の告知があった。 >以前は紫×紫だったのですが、今年に入ってくらいからずーっと悩んでおりまして、 (中略) >これから丹生のサイリウムカラーはオレンジ×オレンジとなります 長濱ももしかすれば残念がっているかもしれないが、日向坂のライブに長濱が登場する可能性が出てきたようにも思える。 もちろんメンバーとしての復帰はほぼ100%ないと思うが、ゲストとしてステージに上がる可能性はありな気もする。 柿崎や井口も一緒に上がってくれればより嬉しいが、さすがにそれは無理かな? ソロ曲に加え、一期生と共に「ひらがなけやき」を、日向坂メンバー全員と共に「誰よりも高く跳べ」を歌ってくれれば言うことはない。 ソロ曲のとき、会場が紫一色に染まったら、丹生のサイリウムカラーの変更が生きてくることになる。 「丹生ちゃんはサイコパスか?」というスレが最近まであったので、それについて考えてみる。 サイコパスというと悪いイメージだけを持っている人も多いと思う。 6年前だったと思うが、NHK Eテレの「白熱教室」で常識とは少し違った見方をしていた。 サイコパス特性が強い者の率が多い職業の第1位が企業の最高責任者で、第2位が弁護士だった。 全ては覚えていないが、ベストテンの殆どが、聖職者・外科医・救急隊といった社会的にステータスの高い職業だった。 そして、サイコパスの特性は凶悪犯よりも社会的に成功した者のほうにより多くみられるということも言っていた。 また歴史的な偉人の中にもそこそこにはサイコパス特性があるという。 イエス・キリストもサイコパス特性がある人物とされていた。 ただし、その特性があまりにも強すぎると、ヒットラーとかヘンリー8世のような残虐者となってしまうようだ。 【同情心の欠落や自己中心的な傾向】といった邪悪なファクターがサイコパス特性にはある。 暴力や精神的虐待といったトラウマが未成年期に根付くと、それがトリガーとなって、そういう邪悪なファクターが表面に出る。 ただし、その性質は現れるとは限らない。 エピジェネティクスに譬えてそういうことを説明していた。 エピジェネティクスとは、ざっくり言えば、遺伝子のオン・オフを環境が行っているというものである。 たとえば、がん遺伝子の多寡は人によるが、がん遺伝子を多く持っている人でも、 煙草はいっさい吸わない、酒はほどほどにするという具合に節制すれば、がんになるとは限らない。 それと同じようにサイコパス特性が強くても、ちゃんとした育てられ方をされていれば、残虐者にはならない。 否、それどころか社会的に有用な人間となりえる。 というのも、【冷静さや集中力や説得力や大胆さやストレス耐性】といった有益なファクターもサイコパス特性にはあるからだ。 反社会的なことと結びつかなければ、サイコパス特性は社会で成功するためには不可欠なものであるようだ。 社会的に成功するためには、特定の職業に対する能力だけでなくその能力を最大限に活用できる人格が必要であるというのは言うまでもない。 カリスマ性、プレゼン力、コミュ力、戦略好きといった社会で成功するのに必要な人格とサイコパスとの間には強い相関関係があるという。 馬鹿もくせに自信満々という奴を学生時代に誰でもよく目にしていたんじゃないか? 実力は全くないのにコミュ力抜群のシューカツ番長とか、中身ゼロだがプレゼンで聴衆を惹きつける湘南SFC野郎とか。 久しぶりに会ってみると、そこそこには成功している。 たとえ、その職業に必要な能力を持ち合わせていないとしても、サイコパス特性があれば、ゴリ押しとハッタリで成り上がれるからだと思う。 さらに、その職業に高い能力があり、サイコパス特性もあれば、社会的に成功する確率はきわめて大きくなるはずだ。 さて、丹生についてである。 金曜日の夜のラジオはすべて聞いたが、もう数年間はラジオパーソナリティをやっているかのような見事な喋りっぷりだ。 喋ったことを文字起こしして、それを読んだらおそらくつまらないだろうが、音声でなら惹きつけられ、次が待ち遠しかった。 また、一人でのテレビの外仕事も丹生はすべてうまくこなしている。 >>353 に挙げた【冷静さや集中力や説得力や大胆さやストレス耐性】というサイコパス特性があるからだと思う。 そして、金持ちの上品な家で育ったというのとは少し違うだろうが、温かい家庭で大切に育てられたというのは間違いなさそうだ。 そのため、【同情心の欠落や自己中心的な傾向】といった悪いファクターはまったく顕在化していない。 結論を言う。 丹生にはサイコパス特性があると個人的には思っているが、いい面だけが出ている。 うまく使いこなせば、人前に出るアイドルにはサイコパス特性は大きな武器である。 何十年も専門としている研究者くらいしか超紐理論(超弦理論)は理解できないというから、当然その関連の理工書は読んでいない。 知識を仕入れたのはいくつかの啓蒙書からである。 全て図書館で借りて読んだので、手元にはなく、思い出す限り挙げておく。 (1)エレガントな宇宙 ブライアン・グリーン (2)隠れていた宇宙(上・下巻) ブライアン・グリーン (3)奇想、宇宙をゆく マーカス・チャウン (4)数学的な宇宙 テグマーク (5)宇宙は何でできているのか 村山斉 (6)宇宙はどのような時空でできているのか 群和範 (7)不自然な宇宙 須藤靖 マルチバースや並行宇宙に関しては特に(4)が詳しくて面白いが、相応の理解や知識がないと読みこなすのは厳しいと思う。 また、テグマーク独自の科学哲学も理解するのにかなり骨が折れる。 この類の本はだいたい1時間あれば読破できるが、(4)だけは読み終えるのに3時間以上はかかった。 (7)が、(4)の内容をコンパクトにまとめていて読みやすいので、興味ある人には勧めたい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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