脚本家ダルダノ・サッケッティのインタビューからバーヴァ父子に関わる部分の抜粋

・「わたしは目撃者」の原案はサッケッティ一人で書いた
・アルジェントが原案に自分の名義を追加した上にアイディアの発案者まで名乗り出す
・サッケッティとダリオが大喧嘩、新聞沙汰に
・二人の大喧嘩が新聞記事になりマリオ・バーヴァのプロデューサー・ザッカリエッロがサッケッティに興味を示して原案を依頼する
・サッケッティが書いた原案がマリオ脚本・監督の「血みどろの入江」として映画化
・「血みどろの入江」1971年のシチェス映画祭で大好評、後にアボリアッツでグランプリ候補(受賞は「激突!」に奪われる)
・気をよくしたマリオがサッケッティに第2作の脚本を依頼したのが1971~72年頃
・「幽霊屋敷の話を」とマリオから依頼を受けてサッケッティが書いた脚本が「ザ・ショック」
・「ザ・ショック」は1972年に撮影開始予定だったがプロダクションが倒産し企画は宙に浮く
・1975年頃に息子ランベルト・バーヴァがサッケッティに無断で「ザ・ショック」の映画化を画策
・俳優ルイジ・モンテフィオリ(ジョージ・イーストマン)がサッケッティに「ランベルトに気をつけろ」と忠告してその事実を知る
・完成した「ザ・ショック」の脚本クレジットには脚本を一行も書いていないランベルトの名前が一番大きく記載されサッケッティ驚愕