二代目の氏綱が生まれたのは新九郎が32歳の時の長享元年(1487年)だからまだ10年くらい先
小笠原の娘との婚姻もその前数年くらいというところだろうけど、文明から長享への改元がこの年の7月で小鹿範満討伐が11月だから、氏綱が生まれた頃には新九郎はその準備で駿河にいたことになる