盛富の川上本荘の領地を調べたら廿六町九段三百廿歩という数字が出てきたけど、貫高制換算でいくらになるかよくわからん
ここの領家の長福寺と同面積なので地頭として下地中分で半分を取得したってところか
本荘の最大の領主は一色氏守護代延永氏だけど、一色氏は応仁の乱では西軍に属して丹後では東軍の細川氏や若狭武田氏と延々揉めてたから、盛富が出家隠居しても京にいたのはその辺が関係してるのかも

>>814
肝付兼太(兼正)は名前に一族の通字の「兼」が入っている九州の名族肝付氏の末裔(喜入肝付氏)という由緒正しい家柄の出