〜みなもと太郎「風雲児たち」茶屋 其の伍拾捌〜
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〈___ノ〉ノ \_ノ〈__ノヽ__ノ (__/ 乂__ノ こ二二ノ 題字 平田弘史
・リイド社「コミック乱」(毎月27日発売)にて「風雲児たち-幕末編-」連載中。
「風雲児たち-幕末編-」単行本はリイド社より既刊1〜29巻絶賛発売中。
「風雲児たちワイド版」全20巻もあわせてどうぞ。
ttp://www.leed.co.jp/
前スレ
〜みなもと太郎「風雲児たち」茶屋 其の伍拾七〜
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/comic/1504970036/ 幕末の水戸藩は単純に斉昭一人のせい、という気がしなくもない >>388
面白いよね
ドラマで新規の人が増えたら嬉しい 再放送あるといいな 江戸詰め薩摩藩士は他藩士族との縁組も禁止してたのだろうか?
領国への隠密よりも、他藩士族との縁組禁止の方がされるだろう >>397
まず藩主の子女はそこら中の養子になったり輿入れしたりしている
それに付き添って他藩入りする家臣も当然いる
そういう行き来は当たり前ということを考えたら禁止なんてまずないんじゃないの 篤姫が将軍家に嫁入りしているくらいだし、幕府とつながりはあったんだろう
当時、井伊直弼あたりと対立していたのは水戸と長州
土佐や薩摩はあとからついてきた 言葉の問題や生活習慣が違うから東北と関西の大名同士の縁組は難しいと思ったけど
子女は基本的に江戸暮らしだから関係ないか 仮想敵としてる有力大名とはなにがしかの血縁関係結んでるからな 政略結婚の嫁に情が移ることなんかないから、身分の高い人間の嗣子はみな側室の生んだ子だった 斉昭がセクハラジジイだった
この一事実だけで倒幕を加速させた感あるの凄いよな
斉彬とか安部正弘とかが慶喜が期待をかけてた頃に慶喜を将軍にできていれば
倒幕運動にならなかったんじゃないか?って幻想が生まれる その時期における理想の慶喜と現実の慶喜の乖離っぷりがもっと早く露呈するだけじゃね?
本人からしたらいい迷惑だろうけど >>404
政略結婚の嫁の血筋に継がせたくないから子供を作らなかったって話は世界中にあるけど
正室に男子がいるのに庶子に継がせようとしたらお由羅を持ち出すまでもなく当然お家騒動になるわな >>410
家康が家光を世継ぎに決めた時長子継嗣が原則化してしまった。秀忠は側室の西郷局の子。もっとも秀忠が生まれた年に
長男のの信康は切腹してるけど。 今朝(昨日朝)の「あさイチ」で遠藤憲一さんの回が再放送されて
みなもと先生の職場インタビューも再び流れたね >>411
世の中が落ち着いてきたら長男が継ぐべしになるんだろうな
戦乱の時代は器量実力で判断されてたんだろうけど
庶民まで広まったのは何時ごろだろう >>413
同族会社は兄弟で社長をたらい回しとか多いんだよ
不二家とか円谷プロとか >>402
薩摩から他に出ていくことはあっても、
他から薩摩に来ることはなかった 世継ぎに出来なかったら政略結婚として成立してないだろ
下から上への人質待遇の話じゃないよな >>413
後に生まれた子が成長度で兄を追い越せなくなった頃からじゃないかな 長男は(順当に?)父の跡を継ぐ、
次男以下は養子に出る、で
養子先が父の家の本家だったりすると
結果的に兄が分家、弟が本家の当主、というようなことも。 井伊直弼は、兄たちが次から次へと養子に出されたのに、自分はどこからも声がかからず「一生、部屋住みで終わるのか」状態になった
ところが跡継ぎになるべき男子が死んでしまい・・・ 直亮と直弼の間の兄弟の一人に
家老家の養子になって兄や弟に仕えた人もいる 家斉の養子乗っ取り作戦が水戸藩でも成功してたら
斉昭ラインが消えて幕末どうなっていたか 家斉は50人以上の子供をつくってそれを日本中の大名に養子として押し付けて乗っ取りを果たしたが
水戸の一橋慶喜だけが家斉の血を引いていなかった そんな漫画で描かれてる知識をわざわざひけらかさなくいいよ 養子に出しまくった結果本家の血筋が絶えるという愚策。
しかしなぜ水戸から養子をもらう羽目になったのだろう。
家斉の血筋の紀州や尾張からではだめだったのか? >>418
正室および嗣子は江戸屋敷にしか住めないから、薩摩には来ない 作中じゃ世が不穏になって行く中で慶喜の聡明さに期待が集まったのが大きいんじゃないかと想像してるね
徳川宗家の直系って七代の家継で既に途絶えているし既に本家云々って意識も希薄だったかも
歴代の政治に無関心&無能な将軍じゃまずいと幕閣も危機感を持ってたわけだし 只者じゃなかったんだが、
小細工ばかりやってたのが惜しいと評価されてるな
ちなみに斉昭はあの肖像画は嫁が笑ってしまうくらいキリリとしすぎてて
実際は目元が慶喜そっくりだったらしい 武田義信(よしのぶ)
徳川慶喜(よしのぶ)
高橋由伸(よしのぶ)
「よしのぶ」という名前は縁起が悪い、世(よ)を偲(しの)ぶからか
名門だったのに、滅亡してしまった >>431
足利義宣(よしのぶ)は義教(よしのり)に改名したけど無駄だった 佐竹義宣(よしのぶ)は2人もいる。
2人目の代で常陸から秋田へ減移封されたが
これは縁起が悪いうちに入る? >>435
縁起が悪いほうかなあ
関ヶ原の戦いでは、東軍、西軍、どちらにつくともいえない態度をとり続けて兵を温存
しかし、のちに石田三成や上杉景勝と通じていたとみなされ、
水戸54万石から秋田20万石への減転封 >>431
あの誘拐事件を想起するからリアルでは言わないほうがいいぞ >>436
加藤清正や福島正則の事を考えたら国替えで済まされてその後は目をつけられてひどい目に遭わなかったんだから
むしろ幸運な方でしょ。 佐竹は関ヶ原の戦いではっきり東軍についていてもどこかに飛ばされたんだろうな >>442
その場合は領地の選定が難しいでしょうね。
味方だから54万石から減らすのも難しいし、かといってあの場所に大藩は作りたくないし。
紀州あたりに封じて、後から難癖つけて追い出すパターンでしょうかね。 >>443
岩明均の「雪の峠」では
東軍についていたらむしろそうやって取り潰されていたから
あの判断はまだましだった
みたいなことを
もののわかる一部の家臣が言ってたっけ >>444
毛利も結果オーライだったのかなあ(幕末維新込みでなくても) 西軍には総大将の毛利、開戦の挑発をした上杉、最後まで戦った島津、
改易されても復帰した立花といった幕末まで継続した大名がいる一方
東軍でも豊臣恩顧で福島正則、加藤清正、加藤嘉明、堀秀治という
あっさり改易された大名がいるのは逆にわかりやすい だったら三成に総大将をと言われたときに三成捕まえて家康に差し出せばよかったのに。 毛利は西軍と東軍を両天秤にかけてどっちが勝ってもいいようにしてた。
誤算は徳川の圧勝だったことだろう。 もともと戦国大名たちは自分たちが日本中の大名を全部制圧して独裁者になろうと考えるような
思考法自体なかった。みんな自分たちが強力な大名になって、朝廷から日本中の武士に号令する
許可をもらえばそれでいいと考えた。だから毛利も将軍になるような欲がなかった。
あったらあんな大チャンスを活かさないはずもないし、大阪城を明け渡すとかもはや武士やめろよとしか言いようがない愚も
犯さなかっただろう。 東軍を勝たせた最大功労者は誰?って言ったらもちろん家康なんだが
二番目くらいに石田三成が入ってきそうなあたりがもう色々アレ
なんでお前そんなに味方減らすの上手いんだよっていう >>453
あれは家康と秀忠が同じ戦場にいるリスクを避けるための茶番じゃないかと思う。 >>454
山岡荘八は三河軍団温存説を採ってるけど、立花や鍋島ら、大津城攻囲勢が間に合ったらどうなるかわからなかったし、毛利が大坂退去する保証もなかったし、遊兵をつくる余裕なんて無かったと思う。
秀忠遅参で、豊臣恩顧武将に勝たせてもらった形になって、徳川体制が思いのほか大名の割拠を許すものになってしまったという見方をする学者もいる。 >>424
半分ぐらい成人しないで死んでるんだよなあ。
家慶も27人子供作ったけど生き残ったのが家定だけ。 >>445
所領を大幅に減らされたから恨みはするだろうが、2国持ち大名なんだよなあ。
家康自体は名門好きみたいなところが有ったし、毛利も島津も始めから残すつもりだったんだろうと思うわ。
だけどその後の幕府が仮想敵国化していった様な。
前田も上杉も徳川からみれば仮想敵国だろうに。 >>458
所領四分の一にされて、なおかつ家臣のリストラ禁止って聞いた。
高杉は元は美作、乃木は伯耆の武士だったか?
だからみーんな微禄になっちゃって(禄高シェアリングw)、他藩に比べて藩士の連帯感が維持できたなんて話もある。 >>454
関ケ原自体が半ば偶発的に発生したもので、あの時あの場所で大軍同士がぶつかることが予め定められてたわけじゃないんだから、
結果論の後知恵で秀忠が責められるのは理不尽だとは思う。 >>457
何故だろう?
毒殺される?
恵まれすぎて虚弱体質で当時の過酷な環境に耐えられない? 本能寺の変は信長の嫡男も死んでしまったことが織田家に致命傷だった。
家康ならずとも当時の武将なら跡継ぎと同じ戦場にいることの危険性はわかっていたはず。
本当に愚将と見なされたのならば、5年後将軍になれないと思う。 秀忠が遅参したのは豪雨で伝令が遅参したためで真田が足止めしたからではないけどね
伝令が到着したら真田無視して即座に関ケ原に向かった
遅れたのは天候のせいで不慮の事態なんだからわざと遅参させたという説は疑わしい 今月は長井さんの末路はしょって解説したな
春嶽が作品内での評価落ちて、松平容保登場 将軍と司令官の才能は別ということだと思う
戦は経験が大きいのに経験値がほぼゼロで3万の大軍を任せられるのは土台無理じゃないか >>465
作者、長井さん好きなのかな。
余りに忍びないと。 >>466
もちろんそうだが建前として軍の司令官として無能では困る
この建前は井伊直弼にも適用されている >>467
安藤さんとか長井さんとか好きだよね、みなもと先生
蔵六先生と龍馬が長井さんの辞世の句メモしてたとはしらなかった (/-\) コミック乱を買ってきた。今月の「風雲児たち」は、桂の助言で、長井は無事に長州へ戻る。
島津久光、江戸城へ入らずに政治工作。ほぼ予定通りに進行中。 >>461
今も残る家斉の男系子孫は78歳まで生きた松平斉民の血筋だけいう話を聞くと
元の種が弱かったようにしか思えない >>461
江戸時代における幼児の生存率はかなり低いので…。今と違って予防接種も抗生物質もなく
幼児は風邪ひとつで命取りなのは庶民も将軍家も同じですし。 今月号で「花燃ゆ」での松浦亀太郎の死にざま(長井雅楽を襲撃したが、たぶん護衛者に返り討ちにされ、
重傷を負って切腹という荒唐無稽さ)を「2015年大河ドラマではフィクションな行動をとっていました」と批判しているけど、
先月号からの桂小五郎の行動も全くのフィクション。高杉晋作がすでに上海から帰って来ちゃってるのもフィクションだけど。
>>264の明大の落合教授の論文にも書かれているとおり、桂は江戸には行かずに中山道の中津川宿で藩主一行に合流し、
会議で藩主に公武周旋の仕切り直しを訴えた。この中津川会議は島崎藤村の「夜明け前」にも描かれている有名なもので、
今でも「桂小五郎隠れ家跡」が残っていて観光名所になっているので、完全なフィクションの江戸での長井との遭遇より、
史実の中津川会議を描く方が大河マンガにふさわしかったし、長井暗殺計画のドタバタも>>245の「伊藤公直話」に
描かれている顛末を久坂玄瑞の目線から描く方が面白かったと思う。それ以前に、長井の失脚は久坂が朝廷に工作して
5月に起こした「謗詞一件」がそもそもの原因なので、それをしっかりと描くべきだったと思う。 >>475
とりあえず改行もうちょっとなんとかなりませんか?
読みづらいことこの上ないです。
掲示板に書き込むにも作法ってもんがございますでな。 >>474
加えて衛生状態も。
日本は欧米に比べても清潔だったけど。 コミック乱立ち読みしてきた
松平容保が出てきたなぁ・・・
一方、春嶽様ってけっこうアレな人なのか?w 橋本左内がどんな活動助言をしたか詳細に描かず御殿で井伊と対立した春嶽だけ描くからこうなる
その点は藤田東湖を描かなかった斉昭も似たようなものであろう 長井雅楽と桂小五郎は来原良蔵を介した親戚筋にあたる。
長井と来原は母親同士が福原家出身の姉妹なので母方のいとこ。
来原は桂の妹と結婚したから、桂より4つ上だけど義弟。
つまり長井にとって桂はいとこの義弟、桂にとって長井は義兄のいとこ。
木戸幸一から見ると、系譜上の祖父である桂(木戸孝允)は祖母の兄、
つまり大叔父、長井は実の祖父来原のいとこということになる。 >>478
左内あっての人だよな。
久光だって大久保がいなかったら何ができたやら。 >>475みたいな書き込みを見ると、
みなもと先生が「楽しい漫画を描く力量を持った歴史マニア」
であることを改めて認識する 今回のテーマは長井と桂のキャラ立てなのでこうでなければならない
薩摩の狂気の後は長州の狂気を書くことが必要
事実からの逸脱もできないんじゃ話進まないよ
年表見るだけで興奮できるような域には達したくない >>483
作中で杉田玄白の蘭学事始の「うず高く」のネタ紹介してたのは
こういう細かい指摘が沢山あったことに対しての回答だろうね >>478
橋本左内がいるときはハキハキして
いなくなるとまるで鈍って
三岡八郎や中根雪江が出てくると
また機敏になる
つまり、そういうこと >>482
大名一人でもできたのは
斉彬、鍋島直正、一橋慶喜とか一握りじゃね ひえもんとり、えのころめしは「黒い伝説」でしょ?
薩摩琉球国の評判を貶めることを意図して、同国を悪の存在として描いた客観性を欠いた歴史的資料またはプロパガンダ 犬食自体は古くからあったしルイスフロイスも客観的に書き残してるんで悪意あっての記述じゃないだろうね
ひえもんとりだの肝練りなんかも誇張っぽいけど薩摩の人達自身が認めてむしろ誇ってる風潮すらあるし…
熊本第六師団の凶暴さというか勇猛さは有名だったしそういう風土なんだろうね ひえもんとりとか似たようなことは他藩でもやってた。
例えば鼻削ぎ刑とか初期はどの藩でもやってたが、江戸中期ぐらいになるとどの藩も廃止した。
唯一会津藩だけが祖法を守り続けてたので、鼻が削がれた罪人は会津者と言われてた。
ひえもんとりも似たようなもんだよ。 会津武士が薩摩武士と並んで日本最強クラスの武士という評価だったって風雲児たちには描いてあったけど
それを実証する機会はあったの?
あるいは一応そういう評価が江戸時代に共有されたことはあったの? >>489
郷中教育は士族だけで平民には行わなかったから
西南戦争以後の鹿児島の兵隊と薩摩士族は別物に考えた方がいいみたい 悲劇のヒロイン会津様ついに出て来たけど、
会津が落ちた後容保様本人ってどうなったのかぜんぜん知らんことに気付いた。
殺されることはないと思うがどうなったの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています