【悟り】マインドフルネス瞑想法 【霊覚】
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マインドフルネスとは、歩行や呼吸、動作など、今行っていることに対して
意識を向けるという、簡単な手法です。
これは単なる健康法にとどまらず、悟りや、
霊性の向上にもつながります。 それは邪見ですな
そもそも無ではないし、妄想でしかない >>942
自分が経験したと主張することって、誰にも論理的に証明する必要がないんだよな
ただ、愛を感じたとか、神の意識に合わせろとか、具体性のない話しを繰り返せば
自分が深淵な世界を知っている者として振る舞える
カルト宗教の教祖みたいなヤツは、ほとんどこの手法だろ
もし本当にわかってるのなら、上から目線で一方的に論拠のないようなことを吹聴しまくるんじゃなくて、
きちんと論理だてて、誰にでも納得できるように説明しないといけない
それが出来ないで教祖のように振る舞うんなら、よそでやれってことだ 瞑想のコツはすべての執着を捨てる。
瞑想はじめたら、色々雑念が浮かんでくる。
今日起きた事、明日のこと、心配事、気にしてること。
それらによって思考が働いてしまい、深い瞑想に入れなくなっている。
それらの思考によって気分が暗く重くなっている。
だから瞑想を始めたら、まずそれらの執着を一つ一つ捨てる作業をする。
現実は変わらないから、心の中で捨てていく。
それを放棄します。執着しません。と言いながら。一つ一つ手放していく。
そしてすべて捨て去ったとき、心は無限の解放感を感じ、
ハートから全身に安らぎと愛のエネルギーが広がっていく。
今まで感じた事ないような安らぎと愛の無限のオーラが肉体をこえて広がっていく。
それは真我の心が開かれたということ。
この安らぎの境地に達することこそ瞑想の醍醐味である。 宗教的な儀式、聖典、作法、それらが真我からあなたを遠ざける。
あなたは外にいる神仏を崇拝し、グルや教祖を指導者と仰ぎ、
聖典や仏典を神聖視し熟読し、それらの内容を自分の信念とし、
その宗教的な作法や儀式や瞑想法によって、神を求めようとする。
しかしそれらすべてが、あなたを神から遠ざける。
なぜならそれらすべてはあなたの思考活動によって信じられているのであって、
思考から神は発見することはできない。
神は思考をすべて捨てたところにいる。それはつまりそれらの宗教的なものを捨てたときに発見される。
あなたが宗教的な神への執着を捨てたとき、
宗教的な聖典への執着を捨てたとき、
宗教的な儀式への執着を捨てたとき、
あらゆる宗教的な信仰心を捨てたとき、
そして世俗のあらゆる執着を捨てたとき、
ようやく神は発見される。真我はあなたと一つになる。 わかりました!神聖なる瞑想マスターのレスを熟読しそれを自分の信念とします! あなたが善悪と信じてる事も捨てる。
宗教的に禁止とされてること。
社会的に法律違反とされてること。
または宗教敵に善とされてること。
社会的に良しとされてること。
それらの概念も捨てる。
もしあなたがスピリチュアルに生きていて、肉を食べないような信念を持つようにしていたり、
逆にある善行を徳のために自分に課している場合、
その信念も思考によって生まれるわけで、思考が働いてる以上神を発見することはできない。
それらの信念も捨て去ったとき、その自分の心に残るもの。それが神です。
神はこれはいい、これは悪いとは定義しない。
なぜならすべては神なのだから。神の心はすべての執着を捨てたときに、あなたの内に見えてくる。 >>954
あなたのレスは孤立しているんですよ。
何が愛が広がっていくですか。
自分が主張することばっかり考えていて、
人のこと考えてないじゃないですか。
もっと他人と調和したレスをしたらどうですか。
語ることの前に、まず行いを正しましょうよ。 神はただ在る。
あなたが精神的に成長しようと必死に山を登っているときも、
神はただそこに在る。
あなたが数百年走り続けようと、神は1ミリも動いていない。
必死に瞑想しようと、神に近づくため念仏を唱えようと、
神は1ミリも近づくことはないし、離れることはない。
神はすでにそこにある。あなたはすでに神と一つであったことを知る。
神であるあなたが、必死に瞑想して100年修行しても見つからない。
ただ自分に気付くとき、わたしは神というものだったことがわかる。
あなたは星空を見上げたとき、それすべてが自分であると知る。
人々を見たとき、それが自分であると知る。
あなたはすべてであって、あなたでないものなど一つも存在せず、
あなたは神と言われるものそのものだったことに気付く。
そこにはただ気づきがあるだけである。深い瞑想で発見されるようなものではない。
神は気づきだった。あなたが気づいてるその意識そのものだった。
それが真我である。それは大いなる愛と安らぎと調和の感覚である。 この神意識はどのように感じられるか。
自分の意識が届く範囲すべてが神の空気の中にいるような感じか。
その空気自体が自分でありもっと大きな何者かのもののような感じがする。
この意識はとても解放的で包括的ですべての思考が静まっていて、
安らかで愛にみたされ心地よい幸せな感覚がする。
これが真我の意識なのだろう あなたは自分が何者だと思っているだろうか?
日本人のこの両親の元に生まれたこういう名前のこういう性格の人間、
と思っているだろう。
神意識の自分は、自分のことをそのように考えない。
自分とは大いなる意識であり、それは愛と安らぎと調和という性質のものである。という感じ。
もちろん人間的な存在の自分というものも思考を働かせれば出現する。
思考を働かせればこの性格もクセも考え方も物の見方も出てくる。
でも現在は普段ほぼ思考が働いてない状態なので、
自分は意識であり愛と安らぎと調和という性質の存在、という感覚が感じられる。 悟ろうと神を発見しようと頑張ることをやめてください。
神はあらゆる努力や頑張りを放棄したところに存在します。
熱心に瞑想をしたところで神は発見できません。
神を発見することを諦めたときに。神は見つかります。
なのであらゆる願望を捨ててください。
あらゆる努力も捨ててください。
何かになろうともしないでください。
これは矛盾してるようですがそういうものなんです。
池にいる魚のようなものです。
必死に探そうとバチャバチャすると魚は逃げていってしまいます。
そっと覗き込むと魚は純粋にその姿をあらわします。
神もそういうものです。必死に探そうとすればするほど神は見えなくなります。
探すのを諦めたとき、神はその姿をあらわします。
なのでけして神を探そうと探求しないでください。
神はすでにそこにあるのです。
そこにあるものをそっと感じるだけでいいんです。 あなたが理想とする理想的人物になることを放棄してください。
人格者や善人になろうとしないでください。
思考によってこうなろうと思った人格はしょせん思考によって生まれた偽の人格ということを知ってください。
あなたの理想とするブッダやキリストや聖者の人格は、
彼らの自我が消え真我が目覚めたその真我の性質そのものです。
なのであなたがすることは、善良で慈悲深くあろうとすることでなく、
思考を静め自我を静めることだけでいいんです。
すると真我は自然と内からでてきて、その神のような性質をあらわします。
これが慈悲か、これが人類愛か、自分のように隣人を愛するとはこういうことか、
すべてがとても自然に理解できます。
なのであなたはそういう理想的人物に近づこうとせず、
自分の思考を静めることだけに専念すればいいんです。
思考が静まれば、あなたの動物的肉体に依存した性格も消えるので、
神なる性質そのものをあらわします。
その姿を鏡でみるとき、そこに仏様のような表情のあなたが写ります。 真我の状態とはどれほど幸福感のあるものか。
部屋で一人壁に向かって何もしてない状態でも、愛と安らぎで全身が満たされるほどです。
歩いてるとき、すわってるとき、横になってるとき、
何もしてないとき、24時間ずーっとこの幸福感に包まれています。
ハートから無限に湧き出てきてそれが全身に行き渡って、肉体数メートルまで広がっている感覚です。
なので楽しいことやワクワクすることがもう何やっても何も感じないんです。
逆に辛い事苦しいこともなにも感じません。
あるのは絶対的な安らぎと愛と幸福感のエネルギーのようなものに包まれた感覚。
不安や恐れなど存在しません。それらの真我のエネルギーで闇さえも消えてしまいます。
もう何もしたくないくらい怠惰になります。何か楽しいと言われてることをすること自体がめんどくさいんです。
今ここに存在してるだけで幸福感に満たされて頭がボーっとするほどですから。
この世のすべての快楽を合わせても、この幸福感にはかないません。
それほどまでに強烈なエネルギーです。
全身が神の愛につつまれたようなそれくらいの感覚です。 人の嫌がることはしないの。
宗教板に行きなさい。
善良で慈悲深く感謝して人のためにと社会に出て働きなさい。
いつまでも同じことを繰り返し言ってないで前に進みなさい。 【超悪質!盗聴盗撮・つきまとい嫌がらせ犯罪者の実名と住所を公開】
@高添・沼田(東京都葛飾区青戸6−26−6)
※盗聴盗撮・嫌がらせつきまとい犯罪者のリーダー的存在/犯罪組織の一員で様々な犯罪行為に手を染めている
老義父は息子の嫁の痴態をオカズに自慰行為をし毎晩狂ったように射精をしている/息子の嫁をいつもいやらしい目で見ているエロ老義父なのであった
A井口・千明(東京都葛飾区青戸6−23−16)
※犯罪首謀者高添・沼田の子分/いつも逆らえずに言いなりになっている金魚のフン/親子孫一族そろって低能
低学歴で醜いほどの学歴コンプレックスの塊/超変態で食糞愛好家である/醜悪で不気味な顔つきが特徴的である
B宇野壽倫(東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸202)
※色黒で醜く太っている醜悪黒豚宇野壽倫/低学歴で人間性が醜いだけでなく今後の人生でもう二度と女とセックスをすることができないほど容姿が醜悪である
異臭を流し込んでくるなどの嫌がらせを何度も繰り返ししつこく行ってくる嫌がらせ犯罪者である
C色川高志(東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103)
※色川高志はyoutubeの視聴回数を勝手に短時間に何百何千時には何万回と増やしたり高評価・低評価の数字を一人でいくつも増やしたり減らしたりなどの
youtubeの正常な運営を脅かし信頼性を損なわせるような犯罪的業務妨害行為を行っています
※色川高志は現在、生活保護を不正に受給している犯罪者です/どんどん警察や役所に通報・密告してやってください
【通報先】
◎葛飾区福祉事務所(西生活課)
〒124−8555
東京都葛飾区立石5−13−1
рO3−3695−1111
D清水(東京都葛飾区青戸6−23−19)
※低学歴脱糞老女:清水婆婆 ☆☆低学歴脱糞老女・清水婆婆は高学歴家系を一方的に憎悪している☆☆
清水婆婆はコンプレックスの塊でとにかく底意地が悪い/醜悪な形相で嫌がらせを楽しんでいるまさに悪魔のような老婆である
E高橋(東京都葛飾区青戸6−23−23)
※高橋母は夫婦の夜の営み亀甲縛り食い込み緊縛プレイの最中に高橋親父にどさくさに紛れて首を絞められて殺されそうになったことがある
F長木義明(東京都葛飾区青戸6−23−20) 第三者視点から見るとあなた方のほうが、特定の人に執着しているように見える。 初心者もすっかり引いちゃったな、まだ見てるかな?
呼吸、数える、歩行、その他何でも良い
ゆっくりとその行為に没頭する練習を毎日続ければ思考は止まる
「わたし」である必要はないよ
それはいずれ捨てないとならないので、特別な意味を持たないもののほうがよい
ある程度思考が止まるようになったら、また来て下さい 質問した初心者が再度来るまで、長文マスターは放置しますかね しかし >>957−964 あたりは、結構いいこと言ってるんだよな。
初期のレスより良くなってきてる。
ただ、ハート云々ってのは気に入らんな。
しらべてみると、ハートから愛が、エネルギーが。。。と言ってるやつが
意外といるね。
そういうところからの受け売りをつぎはぎしてるのか、
もし実体験が少しでも入ってんのなら、スレから排除しようというのは
良くないんだけどな。
よく、そういうスピリチュアル的なことって、一度神秘的体験をしてから、
また元に戻っちゃうってこともある。
元に戻った場合は、その時の素晴らしい体験を語りたくなっちゃうんだよな。
体験はしてるんだけど、元に戻ってるから執着は強い、みたいな。。
現時点だはまだどっちか不明だな。 過去ログざっと読んでみた
「ここはマインドフルネスのスレだから、ヨガの話をしたい人はヨガのスレに行ってください」と言う人がいて苦笑いした
ヨガだって一つのマインドフルネスなんだけどね
表面しか見てない人がマインドフルネスを長文で語ってほしくないね >>957-964だって観念ばかりじゃないかなぁ
なにも捨てる必要ないよ
気付いて、見守ってりゃ十分だよ
消えるものは勝手に消えるから、「捨てろ」と説教したって意味がない
かえって囚われてしまう
長文君は全ての信念を捨てろと言ってるけど、「捨てる」という判断の中にもうジャッジが入ってる
「信念は幻想に過ぎない」という"信念"に引っかかってるから、ああいう矛盾を作っちゃうんだよね 正しくは、ヨガで終わるならマインドフルネスではない
かな
それは訂正するよ >>976
> ヨガで終わるならマインドフルネスではない
あなたはヨガをよく知った方がいいよ
ヨガはあなたが考えてるほど底が浅くない。
マインドフルネスという用語はアメリカの研究者がパーリ語のサティを翻訳したものだけど、まじで上辺だけの浅い訳語だと思う。
新語みたいなもんだな。
だから後の研究者や指導者の解釈もあり、今ではマインドフルネスの解釈にも幅があるけど、経験や感覚に注意を向ける点で概ね共通している >>975
なるほど、確かに放棄しろというのは違和感があるな。
結果的にそうなるんであって、出来ないうちに自分からやるもんじゃないからな。
マインドフルネスが進んで行くうちに自然にそうなるというんならわかるんだけど。 ヨガにとって「経験と感覚に注意を向ける−観照」は全ての出発点。
初歩中の初歩だ
>>976さんはラージャヨーガとジュニャーナ・ヨーガとタントラヨーガをよく研究したらいい。
タントラのアンタルマウナ行なんか、もろにマインドフルネスだ。
しかもヨーガにとって、それは初歩レベル。
ヨガの呼吸もポーズも瞑想も、思考・感覚・経験に意識を向ける観察が無かったら成功しない
ヨガで終わるなら?
あんまし無知を晒すと、スレ住民に笑われるよ
マインドフルネスで終わるなら・・・が正解だ >>973
私もハートを強調する必要性は感じない。
現世を豊かに心安らかに生きようという目的の中ではハートも大切だけど、マインドフルネスは全部を俯瞰してる状態だからね
気付いてる状態
ハートが無くても、愛が小さくても、心が穢れていても、全てに気付いてるのが観照だから。
まあ「結果的」にハートが満たされた状態は起こり得るけどね 観察はヴィパッサナー、サティは気づきなどと訳されてるんですが
サティはヨガではないよね
マインドフルネスとはサマタ、ヴィパッサナーといったヨガ的な瞑想に始まるが
釈迦の悟りがヨガを超えてる以上、マインドフルネスはヨガに終わらないもの
少なくとも仏教、マインドフルネスの立場からはそうだけどな
どうもヨガ優位的な考えの方は我々が捉えてるようなサティの実態を
ご存知ないのではないかと思う
だから「真我」を念じることはいずれ邪魔になるから捨てたほうが良いですよと言ってるんだ
「真我」を観察対象にして、見ていれば消えていく、でもいい
執着しないことを捨てると言ってるだけだから >>980
あなたは「観」と「止」を知識だけで捉えてるでしょ?
テーラワーダ仏教のヴィパッサナー実践者がよく勘違いする、盲点なんだよね
禅がヒントになるかも
座禅する瞑想的な行と日常生活での動禅は本来同じ。
サティは「気付いてる状態」。
日常生活でも瞑想中でも、ただ気付いてる状態。
でもあなたは「観」の概念に引っかかってるから、生活と瞑想を別々のように考えてる
「観」を深めるには「止」を深める必要があり、「止」を深めるには「観」を深める必要がある。
ヨーガはその全ての階梯を有している。
あなたのヨガに対する見解は断片的すぎる >>982
> 釈迦の悟りがヨガを超えてる以上、マインドフルネスはヨガに終わらないもの
あなたがヒンシュクを買った理由がよく分かるよ
マインドフルネスという概念は、仏教を断片的に切り取ったもの
ヨガを断片的に切り取ったもの
マインドフルネスというレベルで終わる限り、仏教の悟りに近付けないし、ヨガの悟りにも近づけない
そろそろ気付こうね
私はヨガ優位主義者じゃないよ
仏教が優位でもいいし、ヨガが優位でもいい。つーか「どうでもい話」だよ。
あなたこそ「どちらの方が優れているのか?」というつまらない欲念に執着してる
だからしつこく「ヨガで終わるなら」というフレーズを繰り返すわけだよ 瞑想の方法が被ってるのはわかった。
詳しい人、自分が気になるのは
ヨガで到達できる最高地点がお釈迦様にとっては
悟りとは思えなかったって点なんだけど、
その到達点の違いをわかりやすく
教えてもらうことってできる? 真我など仮定せずにも観察(ヴィパッサナー)は出来る
観察をしていけばサティが現れる
そこに意識を向けることは観察と同じ働きをするよ
しかし、そこで「わたし」などと念ずると瞑想マスターが言うようなことは起きる
全的な気付きからは遠ざかるが、やはりそれも消えてなくなる
よって真我にしがみつくのはマインドフルネスではないとわたしは言ってる
知識ではなく、やってみればわかることなんだがなぁ >>986
言葉が足りなかった
瞑想で観察をしていると、やがて日常的にサティが現れる >>986
ヨーガで説いている真我とは「観察者」のこと。
だから真我は求めるものではない
結果的に真我がただ現れる、というだった
時代背景も考えた方がいい
当時はバラモン信仰が根付いてたんで、真我や神々への信仰に囚われる行者が多かった
本来の真我は「しがみつくもの」「もとめるもの」ではない
単なる現れだし、全体的な統合 >>985
仏典だって釈迦が書いたものじゃないから、その判断は難しいなぁ。
釈迦牟尼の教えが後世で宗教化されると、「優位性」という我欲に引っかかる人が現れるし、「仏陀の悟りはヨーガを超えていた」という神話を創作する
個人的には、どうでも話だけどね。
ひとつのヒントになりえるのはラマナ・マハルシという覚者。
ジュニャーナ・ヨーガの成就者だけど、「彼の悟りはレベルが低い」と批判する人はそんなにいないでしょ?
つーか究極の覚者という呼び名も高い
けれど仏教とヨガは、真我の定義づけが異なるよね
仏教には縁起思想があるから、真我を認めない
でも不二一元論やラーマナ・マハルシが説いた真我は、個という枠じゃないんだ。
全体性を意味してるんだ
なので仏教のニルヴァーナと本質的に同じじゃないかと思う。私見だけどね。 >>988
その立場にわたしはかなり近い
大抵のマインドフルネスのメソッドはサマタとヴィパッサナー(もどき)が合わさったもの
そこから始めていくからね
ここの流れで言えば
ヴィパッサナー(もどき)がダメだ、ラベリングがダメだ、って言うけど
それはヨガ的、サマタ的なものなのだから否定することないじゃん?
と思うわけです
一方で真我については上に書いた通りだし
だから瞑想マスターはマインドフルネス(状態)の手前に居るというのがわたしの見解
それだけをとれば悪いことではないけど、あたかも悟ったんだとアピールするのは良くない
マインドフルネス=仏教の悟りはまだまだ先のこと >>989
そこは瞑想マスターの言っていたことへのわたしの意見ですから
瞑想マスターの説いてたこととずらして反論されても議論にはなりません >>992
それを言い訳と言うんだよね
あなたの話は、瞑想マスター話の枠に収まりきってなかったからね
「釈迦の悟りはヨガを超えている」
「マインドフルネスはヨガに終わらないもの」
「ヨガで終わるならマインドフルネスではない」
これが間違いだと言ってる。
あなたが本当に注意深くあるなら、「瞑想マスターさんの話で終わるならマインドフルネスではない」と書くだろう 瞑想マスターの話は断片的だが、ID:TpEzfAaEさんの話も断片的だね
マインドフルネス=仏教の悟り
という定義もおかしい
サティは仏教の教えの断片だし、研究者が英語に訳したとき深い意味が失われた >>990の続きだけど、ニルヴァーナの意味も変化していった。
本来は生命欲に象徴されるような「煩悩」の焔が消えた境地
ラマナ・マハルシが語った真我にすごい似ている
マハルシは「生命の営みは心の働き」「その心を真我に統合し、心の欲がすべて消えて、輪廻が無くなる」という道を説いた
なので本質は仏教と一緒だと思うね
でも>>989の説明のように、真我を我執の対象にするヨガ信者が多かったんだよ
だから仏教側も、そういった囚われを批判し、「釈迦の方が優れてる」というストーリーを創作したんじゃないかなぁ・・ >>990
それなら良いでしょう
「真我」がマハルシの言う「that」であるとするなら
あるいはあなたの言ってる
> 結果的に真我がただ現れる、というだった
それは涅槃ではないですよ
以上です >>995
それなら、瞑想マスターはマハルシを正しく理解していなかった
という事でいいのかな? >>996
あなたは本当に断片に囚われるね
何に執着してるのか知らないけど
真我がただ現れるとは、「生命の営みが出来ない全体性」ということ
全体性においては、陰陽という命の活動原理がないから、煩悩も現れない
本来の涅槃の定義だ
大乗仏教では涅槃の定義が壮大になったけど、本当は「ただ煩悩が消えた境地」。 >>997
私は正直、瞑想マスターには興味がない
あなたが好きなように決めたらいい
私は単にヨーガの定義のズレを指摘したかった。それだけですよ 涅槃寂静に至り、全ての認識作用が消えてしまった後
その涅槃が観察対象となるとする流派もある
パオではそう指導していると聞いたことがある
だから、もしかするとマハルシは「わたしは誰?」を説い続けそこに言ったかもしれないが
恐らく彼がごく稀な天才だったからと考えるほうが妥当でしょう
二禅三禅あたりで真我を体験したと勘違いすることは
体験者なら理解できること
その境地を誇大にアピールすることは本人にとって良いことではないです このスレッドは1000を超えました。
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