【悟り】マインドフルネス瞑想法 【霊覚】
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マインドフルネスとは、歩行や呼吸、動作など、今行っていることに対して
意識を向けるという、簡単な手法です。
これは単なる健康法にとどまらず、悟りや、
霊性の向上にもつながります。 この状態で完璧というのを自覚なんてのは悟った者の言葉じゃないのか?
偽り、欲が含まれた都合の良いポジティブシンキングにしか見えんのだが 人に内在する神性は元々完璧であり、人は元々悟った存在である。
なぜなら人に内在する神性は神そのものだから。
自分は不完全で未完成な存在だというエゴの声を捨て、
自分は本来は完璧な存在であるゆえ何一つ変わる必要はないという
内なる神の声のままに瞑想すると安らかな瞑想ができる 自分に内在する神性はまだ眠っていて目覚めていないから無いも同然だ、と思うな。
ベッドで寝ようと横になってるとき、何もせず目をつむってくつろいでるとき、
なぜか穏やかで安らかな気持ちにならないか、それが内側からわいてくる神性。
瞑想が熟達してくると、もうこの穏やかで清浄で平和で静かな気持ちは日常生活でずっと湧いてくる。
これはつまり神性つまり神我の井戸から神エネルギーが湧き出てきてる状態。
だからいつも心は穏やかで落ち着いて幸福を感じる。
真我とか神性を難しく考えるな。特別な悟りを開いた者だけが得られる特殊体験だと思うな。
人は思考を静まったとき、この真我のエネルギーは自然に湧き出る。誰でもこのエネルギーを得てる。
真我のエネルギーを得るには、思考を静める必要がある。
もし、自分は不完全で何かにならねばと思ってるとき、真我は閉じる。
もし、悟りを開きたい、覚醒したい、という思いがあると、逆に真我は閉じてしまう。
だから瞑想で一番重要なのは、自分はすでに完璧なのだ、何一つ変わる必要はないのだ、と心から思うこと。
そう思うことで思考が静まり、真我から無限に湧き出てくる愛や幸福感や安らぎを感じることができる。 人が幸不幸を感じるのは、外に原因があると思うだろう。
それを思考によって感情になり、それが気分になる。
普通の人は感情によって気分を左右されてるわけだ。
でも瞑想者は違う。
思考も止め感情も止めたさらに先の、真我の安らぎと平穏と静けさと幸福感の中に浸る。
そこを自分の気分の置き所にする。
だから瞑想者は、外的な世界や感情で気分が乱れることがない。
どんな嵐の中でも、真我の中にある以上、心は平和で幸せであり続ける。
無限とも思える平和と安心感と幸福感なので、神は無限だろうと想像する。 簡単なことだろう。
感情が無くて頭だけで知性だけで生きる男のような人。
逆に知性がなくて感情だけで生きる女のような人。
僧侶みたいに頭も感情もなく神仏の心のみに生きる人。
瞑想者は最後の僧侶みたいに生きる。
知性を働かせず、感情も働かせず、内なる世界の奥にある仏性や神性といわれる真我の心で生きる。
真我はキリストのいう慈愛であり、ブッダの言う慈悲である。
真我は善悪の概念がなくすべてが平等でワンネスである。
自分という概念がなく、他人という概念がない。
真我の心で生きる人は、仏のようになる。
彼には後光が差し、顔は仏のように柔和になる。
オーラが金色に大きく光りだす。
彼から一切の闇が消える。彼に触れた者はたちどころに浄化されてしまう。 瞑想が熟達してくればこの自分の気持ちは自我によるものか真我によるものか、
何パーセント真我状態か、自我が何割出てきてるかとかすぐわかる。
真我100パーセントの状態だと、内側から溢れ出すほどの無限の愛と安らぎと調和と幸福感の気持ちになるし、
思考が働いて自我が出てきたときは、それらの幸福感が消えるかわりに
不安や怒りイライラなどの気持ちになる。好きとか嫌いという気持ちも実は自我によって起こる。
日常生活はこの自我と真我のせめぎ合いのようなもので、瞑想を毎日日課にしてれば
真我状態が長く続くし、瞑想の習慣をやめれば自我状態が続くようになる。
悟りと言われるものはこの真我状態が永遠に続くようになってしまう現象で、
これはやはり瞑想に熟達してくると達成される。
悟りを開いて真我状態で居続けることになっても、思考が消えるわけではない。
なので思考を働かせれば過去の自分の自我も生じることができる。
でもそれは一時的なもので、必要ないなら再び真我状態でいつづけることができる。 うん、だから君悟っても居ないし、それ真我100%でもないからねw
安心していいよw >>850
うんそうだね、典型的な魔境だよ
こんな風にロマンティックな思い込みをいくらしても悟りなんかにはならない
完全にニセモノのインチキ
自己陶酔しながら、刷り込まれたどこかの本で読んだ言葉を
並べているだけ
だから、悟っていない人にとっても全くわかりやすい話になっているだろ
これがよくあるインチキ覚者だよ
自分自身すら騙しているだけ >>849-855
ここ最近の流れでは推奨しても居ないラベリングを叩いて、ヴィパッサナーなんか下らんと
架空の敵を、よく知りもしないマインドフルネスを否定したことは
自分の中で許してしまって、ごまかすために長文連投
しかも自己の優越性をひけらかしているだけの全く無内容なレスだ
お前が我執に囚われていることすら気づけていない、レベルの低い妄想者であることがよくわかった 自慢げに内観とか言ってるが
やっぱり全く自分の執着が全然見えてない
そんな初心者に毛が生えた程度のところで自惚れていれば
神の光とか言う話にもなるだろう
マインドフルネスとは関係ない
あとラベル貼りは関係ない 瞑想すると最近頭痛するようになったんだけどなんでだろう
頭痛とは無縁だったんだけど 一時的にはそういうことはあるし、自分なら痛みも観察する
観察は意識、内観だけではなくて五蘊に起きること全てだから
しかし10分やると痛くなるなら、10分経つ前にストップするのも手だし
自分の体と相談することだね 頭痛は一般的には血管が拡張した時に起きるんだと思う
寝過ぎの時とかね
でも本当は何が原因かなんてそれだけの情報ではわからないw >>860
禅病かね
頭に血がのぼって苦しい場合は、気を下げるといいらしいよ
丹田意識して呼吸するとか、足暖めるとか四股を踏むとか(冗談じゃなくて)
あとは白隠禅師の軟酥の法とか有名よ >>863
まさしくそんな感じ
丹田に意識ってことは私は腹式呼吸になってないってことはなのかなぁ
四股踏みしてみる 初心者だけど、僕は長文の人の内容には納得できたし参考にしようと思いました。
どっちが正しいとか、上だとかいうレスはやめませんか?
執着のように思えます、見るだけでも余計な思考が起こってしまう。 上だと主張しているのは自称瞑想マスター大先生なんだけどな
自演だろうか? 初心者に執着はわからないよw
瞑想マスターくんにもわからない
だから無自覚なまま一生懸命ごまかしながら執着してる
こうなったらダメな見本だ
初心者が初心者向けにかいたファンタジーだから
納得できるだろうさ >>866
主張してますかね?
長文さんのレスは自分の信じるところを述べてるだけで、自分が一番正しいとも、他者が間違っているとも言ってないように思えます。
自分と違う意見であっても他者に対してリスペクトの気持ちを持つべきだと思います。
でないと争いや競争の執着の気持ちに引きずられる。 瞑想マスター大先生は誰も言ってもいないことを言ったことにして
マウント取りに来てるのだが
それは上下という話じゃないのかな??
ウソを吐いてるのだよ?彼は
自分が確信してるから自我は落ちた、とか
まあ至るところに「俺様が上だ」と書いてあるがなw
それを全部あげつらうのも面倒くさいのだが
こちらはマインドフルネスの一般論を言っているだけ
俺様がどうとかはどうでもいいんだ
意見が違うのではなく、ハッキリと間違っているし
彼が思い込んでるほど高い境地ではないのだから、目を覚まさないかなと思ってる
リスペクトしろと言われる筋合いではないな 繰り返すけど
初心者に執着はわからないよw
瞑想マスターくんにもわからない
だから無自覚なまま一生懸命ごまかしながら執着してる
こうなったらダメな見本だ
初心者が初心者向けにかいたファンタジーだから
納得できるだろうさ 観察するということがわからない、という人にまずサマタをやってみなよと言ったけれど
彼はかぶせてきて
> 感じてる自分の意識というものを感じるようにしてみる。
といった
それは全くの初心者には難しい
サマタをやればそれはすぐに出来るようになるけどね
だから、聖者と呼ばれるような人でもサマタをやらない人は知らないから
あなた以外に誰が居るか教えてくださいと彼に質問した
誰がラベリングのヴィパッサナーの話をしましたか
マインドフルネス知らないよね?とも訊いたつもりだが
彼は質問に答えない、答えられない
信じていると言えば聴こえは良いが、公の場で引きこもりをやっているだけだ
間違いでした、誤解してましたと言えない
言ったら死ぬ病気なのかもしれないが
これ、よくある悟ったつもりで悟ってない人の症状ですので
初心者さんは頭に入れておいて下さいな 誰に訊かれたわけでもない、しかし延々と自ら持論を語るというのは
どこか我利我利しているのではないだろうか?とは思う
はたしてそれで大丈夫なのだろうか 彼にとってここはカリスマ願望を満たす場所なんだと思うよw 自己陶酔できることが悟りとか覚醒だと感じてしまうのは
ヨガ系の人にありがちなことだが、滑稽だよね
それならカラオケでも行ってればよろしい
マインドフルネスとは違う閉じた自己満足の為の瞑想だから
本当に悟っていたら感じてる意識を感じるのは難しいと言った
初心者さんの声を無視することはない
瞑想マスターくんがやってるのは公開オナニーショーなんだ
それ以上のものではない
あー、チンチン気持ち良さそう
というのが初心者さんの「納得」 すっかり流してしまったが思い出したので
>>864
歩行瞑想をやってみては? 君らの攻撃性にドン引いたわ
せっかくマインドフルネススレなんだから
他人の分析するだけじゃなく、自分の歪みにも気付こうよ 悟ったと言ってる人は叩かなきゃ駄目なんだよ
自称瞑想マスターの場合はかなりレベル低いので尚更だ 霊覚、ひきよせ、ヨガ
みたいな関係ない奴ばっかり自己主張するスレだから
ここではマインドフルネスの話は無理かもなぁ インド人の能力の話で、
彼らは非常に頭がよいが、嘘も平気で吐く
と言われる
日本人ヨガの連中もインド人化するのか、嘘を吐く
インド文化に対するうさんくさいイメージは親印日本人からくるものでもある
上に見た通りだ
仏教では嘘は自戒しなければならない 仏教的には嘘が駄目という訳ではないんじゃないの
嘘も方便て言葉もある
まあ表面的に人の為であっても実際は我欲、煩悩から来る物ばかりで完全な嘘も方便なんてのはごく稀だと思う マインドフルネスということだと必ずしも守らなければならない
というものではないと思っているが
仏教では悟りを目指す人は五戒、八正道を守ることになっている
その中にはウソを付いてはいけないという戒がある しかし、あたかも悟ったと仄めかしたいのであれば、ウソが混じってはいけない
これは仏教でなくてもヨガでもおなじではないか? ヨガにも八支則というのがあるようだ
その中で嘘を吐かないこととされている その人が悟ったと思って悟ったと言ったのなら、それは嘘にはならないのではないですかね?
あと他者を傷つけない、上から目線をしない、悪口を言わない、競わない。
というのも戎にありましたよね。詳しく知りませんが。
人を言いくるめたいというのは執着に他ならないと思います。
ブーメランになりそうなので、これで最後にしますね。ご用心。 嘘と言ってるのはそこではないのだけれど
自分が思い込んでいるだけなら勝手でしょうが
公共の場で誇大に境地を大きく高く見せているのは嘘ということになります
止めたほうがよろしい
また、以下、自称瞑想マスター氏はそれを全てやってますね 麻原彰晃だって「最終解脱したぞ!」と言ったわけでね… どうも瞑想マスターです。
真我についてもうちょっとわかりやすく話そう。
真我は誰でも体験したことがある。
子供の頃に、悲しくて泣いて自分の中にこもった時、内側から温かいものが湧き出てきて
泣くのがおさまった経験はないか?あるだろ。
それが内なる神、真我に触れる経験。
人は元気なときは外的世界に意識が向いて内的世界は疎かになるけど、
悲しみや辛い経験をすると、内的世界に目を向けるようになる。
そこで自分の内側に存在する光によって勇気と愛とエネルギーをもらい人は立ち直る。
瞑想はこの内なる内的世界に入り、真我の光に触れることでそれらのエネルギーを得る。
瞑想とは思考を静めて無になり空になることではなく、
その空白の無の空間の中に真我の光を発見せねばならない。
それは無の状態のときに神なり私なりを想起することで、ハートチャクラから愛や温かいエネルギーが湧き出てくる。
これをほとんどの瞑想者は知らないので、ほとんどの瞑想者は無表情で貧相な表情をしてしまってる。
でも神々や仏はもっと幸せそうなふくよかな表情をしてるだろう?
それはこの真我から愛や安らぎや穏やかさのエネルギーが湧き出てるからなんだ。
ほとんどの瞑想者はその原理を知らずに、思考を静めて無になることで終わりだと思ってる。
その先、無になった状態で、わたしという自分を意識してみる。
すると胸あたりから無限に湧き出てくる温かいエネルギーが感じられるはず。
それが全身に行き渡り全身から溢れ出す。そして瞑想を終えて鏡を見てほしい。
さっぱりした無表情の瞑想者独特の顔つきではなく、神仏のような幸福そうなあの表情になってることに気づくはず。 神仏のような幸福感を瞑想中に感じることが瞑想の極意。
無心になることが瞑想か?
ヴィパッサナーでラベリングして今に気付くことが瞑想か?
そんなもの瞑想じゃない。
途中段階にすぎない。
瞑想の極意は真我に触れ神の幸福感を体験することにある。真我に触れない瞑想など意味がない。
リラックスの手段でしかない。 この原理はどの宗教にも共通している。
瞑想や祈りで無になったところに神を想うことで、真我は開かれる。
ラマナマハルシ はこれを神ではなく私を想うとした。
実はこれはどちらも同じ原理で、どちらでも構わないが、
効果はラマナマハルシ の私を想うほうが直接的な感じがした。
ノンデユアリティ不二元ではわたしの意識を意識しろと教える。
これも同じことで内なるわたしの源を感じる方法。
どれもまったく同じこと。
そしてどれも瞑想で無我になることは前段階であり、
その先にわたしの源を意識することで真我に到達し、
そこから無限の愛と安らぎと幸福感が湧き出してくる原理。
こんな貴重な知識を知れたのに、まだマインドフルネスで満足してるんですか? >>891
君が満足してるなら君はそれでいいと思うよ
> こんな貴重な知識を知れたのに、まだマインドフルネスで満足してるんですか?
貴重でもないw
マインドフルネスの初歩だね マインドフルネスでは特に真我といったようなものを特に仮定したりしません
段階的に現れてくるものを対象として瞑想は深まるのです
仮に真我と思うものがあったとするならその仮定を超えていくのがマインドフルネスです
最終的には仮の真我とするようなものはなくなり
一切の認識作用も停止した状態になり涅槃という境地になるとされます
なので、ゴータマ・シャカはヨガの悟りを超えたと認められ、新しい宗教が爆誕したのですね
マインドフルネス=仏教は人の境地を読んでそれになったつもりになったり
そういった何かを目指したりするものではありません
経典に説かれるそれぞれの境地を指し示す言葉は非常にそっけないものです
悟った人の言葉も同様です
全て、瞑想者一人ひとりが確認したことだけを信じなさいという事です
しかし得られるものはヨガを超えることは言うまでもありません
マインドフルネスはラベリングや実況中継のメソッドもありますが、
一般的にマインドフルネスとして普及されたのはジョン・カバットジン、ティク・ナット・ハン、ラリー・ローゼンバーグ
あたりのメソッドでしょう
マハーシ式のメソッドではありません 仮に神仏が現れてもそれは捨てるのがマインドフルネス=仏教です
真我なるものがあっても、それは捨てます
瞑想マスター氏が得意になるのも、彼が言ってる内観はマインドフルネスに他ならないので
ヨガの初期の段階を簡単に超えられたのでしょう
なんの疑問もありません
しかし、そこで今の認識での「真我」に留まるならばそこでおしまいです >>889
それ仏教で言ったら禅定状態じゃないかな
そういう状態も仏教では説かれてて、
さらにその先が説明されてる 訂正
>>894 最後の行
マハーシ式のメソッドではありません
削除し忘れました >>897
ですね
まだ色界ですね、楽も残ってるから
その境地はほとんどの瞑想者は知ってる
その先がまだまだあることも知っており
己が悟った、などと勘違いしないだけで 瞑想マスターさんのおかげでとうとう悟りました!
ありがとうございました! >>899
体験するのは容易じゃないし感動も凄いから、
コツ掴んだら皆んなに言って周りたくなるのも
絶対的な自信持っちゃうのもわかる
>>891
瞑想マスターさんにはこういう考え方もあるとだけ
ちょっと目を通してみてほしい
スマさんは口の悪さはあるけど大目に見て
http://umakoshi.hatenablog.com/entry/20170105/1483646279 >>901
禅定は数回あるかないかの神秘体験のようなものだが、
わたしの真我瞑想は毎回その幸福感に入る。
瞑想で無になったところにわたしを念じれば、内側から愛や安らぎや温かさが湧き出てくる。
禅定の神秘体験とはまた別だとおもう。
泣いている子供が布団にくるまり、自らを癒そうとしてるとき
内側から温かい安心感のような平和で安らぎのような気持ちが湧いてくる、
あのような感覚で毎回必ず湧いてくる。
真我を意識する瞑想は必ずそうなる。
真我を意識しない瞑想はそうならない。ただ無になるだけ。
ただ無になるだけの瞑想は、瞑想を終えると心にぽっかり穴が空いたような清々しさを感じる。
真我から愛が湧き出る瞑想をすると、瞑想を終えると胸が温かくなり
全身がエネルギーに包まれたような幸福感で満たされる。 うん、知ってる
それは半年も続けば良いほうだろう
いずれ消えるよ 泣いてる子供が自らの内にある真我で癒されるとき、
座禅組んで背筋伸ばしてマントラ唱えるか?
そんなことしなくても真我はそこにある。
テレビ見てる状態でも、車運転してても、何してても、
自らの内を意識するだけで、真我は開かれ、
そこから無限のエネルギーが湧いてくる。
それは愛であり、安らぎであり、自信や信頼であり、勇気であり、
温かさであり、光であり、希望。 ニューソート系かな
日本だと生長の家
最高の人生を創る瞑想方法 ―神想観―
http://seinenkai.jp.seicho-no-ie.org/shinsokan-meditation
念ずることば
吾れ今五官の世界を去って実相の世界に入る。此処がこのまま実相の世界である。
神の無限の知恵の海、神の無限の知恵の海、神の無限の知恵の海・・
神の無限の愛の海、神の無限の愛の海、神の無限の愛の海・・
神の無限の生命の海、神の無限の生命の海、神の無限の生命の海・・
神の無限の供給の海、神の無限の供給の海、神の無限の供給の海・・
神の無限の悦びの海、神の無限の悦びの海、神の無限の悦びの海・・
神の無限の調和の海、神の無限の調和の海、神の無限の調和の海・・
この大調和の実相の世界にいて吾れ神の子として神より
無限の生かす力の供給を受うけつつあるのである。
神の無限の生かす力自分の中に流れ入る流れ入る流れ入る・・・・。
満たされている。生かされている。満たされている。生かされている。
ありがとうございます、ありがとうございます・・・・。
もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにありて生くるなり。
(以下順次繰り返す) 未だ有身見でしかないのだから悟ってはいないな
マハルシほかの聖者が開いた悟りではないよ
「わたし」を念じてそれで満足しているうちは
あと、禅定がほんの数回というのはブログ主が仏道修行者ではなく西洋哲学の
人だからだろうな
何回でも入れるよ 無になる瞑想ではただ無になるわけではない
今のレベルで無と感じていてもそれより深いところは有であることが観える
それを何階層か観ていかなければ悟れない
「わたし」を念じて反応があるならば
その「わたし」は誰なのかを探求しなければならない
それは、今はまだ「無」と認識している領域の事になる
まだまだ瞑想の入り口じゃのうw マインドフルネスからの禅定には何度でも入れるし
喜悦感、軽楽感、楽感、いずれも強力に感じる
しかしそれも捨てる
なぜなら、それは苦の裏表でしかないからだ
楽あれば苦ありということ
その喜や楽は本当の幸せでも悟りでもない
しかし、自分で抜けられるのであれば多少はその感覚を楽しんでもいい
今の瞑想マスターは深酒をしてるようなものだと考えればいい
抜けられないと、その喜悦、楽が強いほどやってくる苦は大きく感じられる
強烈な自己陶酔の後は強烈な自己嫌悪に陥ることになる
喜悦が生じた時、少し勘のいい凡夫なら悟りとは中庸であるはずだと考える
勘の悪い凡夫はその強力な喜び楽の感覚を悟りと勘違いする
「そんな脅しに乗るものか!」と一度今の喜び楽しみ安らぎに身を委ねてみるのもいいだろう
それが無くなって苦しみが生じた時はこの一連のやりとりを思い出して立ち直るといい 私は、お釈迦様の冷静で頭良すぎる様子を悟りだとおもってたから、
自分が禅定体験しても「これは悟りじゃない」と思えたな。
逆に、「こんな体験があるなら悟りも本当にあるはずだ!」って思った。
ただ、お釈迦様がすごく鬱っぽくて寂しそうなイメージがあったから、
「お釈迦様もこれを体験してればあんなに寂しそうな人じゃなくなれたのに」とか思ってた。
あとで色々調べて、お釈迦様もあれを体験して「これは悟りじゃない」と思ったようだと知り、
余計なお世話と身の程ということも知りました。 余計なお世話だろうかね、、、
瞑想マスターは元来は自信のない人だっただろうと思うんだよな あ、余計なお世話っていうのは、私のお釈迦様への心配のこと。
逆に、瞑想マスターさんが本当に善かれと思って啓蒙してるんだろうことがよくわかるw 解脱したらその時完全に自分でわかりますよ。
それがないならまだ解脱には到っていないということです。 >>900
どういった方法、流れで悟りに至ったか聞かせてください。 思考はすべてのネガティヴな想念を生む。
そしてポジティブな想念も生むが、それはネガティヴと同類なのでけして幸せにはならない。
恐れ、不安、嫉妬、罪悪感、弱さ、怒り、敵意、攻撃性、臆病、
邪悪、意地汚さ、傲慢、ずる賢さ、性格の悪さ、
それらすべては思考から生まれる。
思考を静めれば、それらの活動がストップする。
それらが存在しない内的世界には、とてつもない安らぎと平和と愛と癒しと調和の心が自分の中に存在してることに気付く。それのみが存在することに気付く。
それらは元々ハートあたりに存在していたのだが、思考の活動によって生まれるネガティブなもので見えなくなっていただけ。
なので思考を静めれば、その真我の神の心が見えて感じてくるので、
ちゃんと瞑想ができると、瞑想後はまるで仏様になったかのような平和で慈悲で調和で癒しで愛の心になる。
もしそういう心にならないとすると瞑想の仕方が間違ってるということなので見直したほうがいい。
日常においてもなるべく思考は活動させないほうがいい。
そのため過度な刺激のある映像は避け、つとめて内面の静寂の真我を意識することが大切になる。
瞑想は座禅なんて組まなくていい。背筋も伸ばす必要ない。
ただ重要なのはリラックスできている体勢ということ。
座禅で背筋伸ばすととてもじゃないがリラックスできない。これでは正しい瞑想が逆にできないということにほとんどの瞑想者は気付いていない。
それよりもリクライニングチェアで背もたれに寄りかかりながら瞑想したほうが、100倍真我の心を開ける。 ちなみに瞑想マスターのおれはソファーに持たれて足組みながらとか
ほおづえ付きながら瞑想もする。もちろん猫背で背もたれにもたれて。
瞑想に姿勢など関係ない。
瞑想音楽を流す必要もないし、お香もたく必要ない。
それらはすべて外的な物で、外的な物に意味はない。
目的は思考を静めることだから、思考さえ静まればどんな状態でもどんな体勢でも構わない。
そういう体勢とかやり方にこだわると、とたんに瞑想が辛いものになる。だから続かない。
瞑想はもっと気楽で、テレビみながら、ふと思考を静めて真我を感じてみたり、
車運転しながら思考静めたり、そういう柔軟に瞑想はできる そんなあなたには公衆トイレで瞑想することをおすすめするよ。 >>916
色々教えてほしいから、マスターのスレ建ててほしい
ここはマインドフルネスのスレだから、住み分けって大事 つまりね、
>目的は思考を静めることだから、思考さえ静まればどんな状態でもどんな体勢でも構わない。
>そういう体勢とかやり方にこだわると、とたんに瞑想が辛いものになる。
>それらはすべて外的な物で、外的な物に意味はない。
>瞑想に姿勢など関係ない。
と、言ってるわけだけど…、この人は安楽な姿勢に拘ってるわけ。
形に捉われるなと言いながら、安楽な形に捉われてる。
それはどういうことかというと、少しでも瞑想しにくい状況が出てくると、
途端に瞑想が崩れることを意味してる。
環境によって瞑想が崩れるというのは、真の瞑想じゃないわけ。
>そしてポジティブな想念も生むが、それはネガティヴと同類なのでけして幸せにはならない。
このポジティブとネガティブを越えるというのならなお更、環境が良いとか悪いとか、姿勢がやりにくいとか、やりやすいとか、
そういうことに捉われちゃいけない。
どこでも、どんな姿勢でも、瞑想が出来なきゃいけないわけ。
よく見ると言ってることが矛盾してるのよ。 自分がどういう人間かということを忘れてください。
自分はこういう性格でこういうクセがあってこういう人物像だろうという思考を捨てるんです。
しかし瞑想中もその凝り固まった自我は思考から消えることなく、
純粋な意識というものを感じられずにいる。
そのときは、脳で考えている自分の性格や短所というものを、瞑想中に観察してみる。
ジーッと見つめるようにその思考を観察してみる。
するとその自我の思考は次第に静かになり、残るのは観察しているその意識のみ。
純粋な意識のみが残る。
そのとき瞑想中には、自分が誰かさえわからなくなる。
性格や人間性そして性別やもっといけば人間かどうかさえわからなくなる。
純粋なる意識そのものになる。それが真我の意識。
その純粋な意識の中には、安らぎと愛と調和のみが存在する。
人とは元々そういう存在だったんです。純粋な意識そのもの、つまり神だったんです。
それが肉体をまとい汚れた人間生活によって間違った自分像というものを思考によって出現させ、それを妄信して生きている状態なので、それは苦しいです。
例えていうなら、自分がゴキブリやドブネズミと思いながら生きてるようなもの。
でも本来のあなたは神なんです。そのゴキブリだと思ってる自分の思考を止めてください。
すると純粋なる意識が感じられます。それが本当のあなたです。それが神の発見です。
内なる神はあなたです。その心には愛と安らぎと調和しか存在しません。
どうも瞑想マスターでした。 マインドフルネスやヴィパッサナー瞑想の短所として、
この純粋なる意識というものを焦点に当てないので、
自我が消えることがなかなか難しい。
どうしても思考を止めて無我になることだけを焦点にしてるので、
真我の純粋なる神の意識に目覚めることはほとんど無理といっていい。
真我に目覚めるには、この自分という自我を見ている自分の意識というものに焦点を当てる必要がある。
意識が意識されたとき、意識に光が当たったとき、その意識は覚醒し、自分は神の意識であると知る。
なので意識を意識しない瞑想はリラックスの手段でしかない。
しかしマインドフルネスやヴィパッサナー瞑想でも、それに気付いている意識を意識したとたん、覚醒する。
真我瞑想となる。
例えばマインドフルネスで今聞こえてる音や感覚に気付いてる、
ただ気付いてるだけじゃなく、その気付いている自分の意識を意識してみる。
この感じているのは誰か?とたずねる。感じてるのはわたしだ、と言う。
そのわたしの意識を感じるんだ。
ヴィパッサナーでも同じふうにする。呼吸にあわせて膨らみ縮みとラベリングするだろう。
そのときこの膨らみ縮みを感じてるのは誰か?と観察してみる。
思考が静まり自我が消えてるのに、意識はある。この意識を感じるんだ。
これが覚醒方法。これをすると誰でも簡単に覚醒できる。数ヶ月で。
でもしないと、ほとんどの宗教の修行僧のように一生を悟れないまま終わる。
なぜならこの方法を知らないから。間違った方法でやってきたから。
正しい方法を知れば、あとは簡単。純粋なる自分の意識を感じればいいだけ。
瞑想中も、日常生活中も、四六時中この意識を感じ続けるようにすればいい。 自分はこういう名前のこういう容姿のこういう性格のこういう人間なんだという思い込みがなくなり、
自分は意識だったんだ。
純粋な意識そのものだったんだ。
その意識は神の意識だったんだ。
と理解する日が来たとき、あなたは覚醒し悟りを開きます。
それまで辛抱強く、そして楽しみながら、霊的な道を歩んでいきましょう。 > ヴィパッサナーでも同じふうにする。呼吸にあわせて膨らみ縮みとラベリングするだろう。
しないよw
誰がそのメソッドを推奨しているかな?
いつまで藁人形叩いているんだ? >>915
幸せも不幸の裏表だから意味がないと思ってたけど別物と考えていいんですかね?
何も感じない、だから不安もないけど安らぎもない、そういうことかと思ってました。
安らぎや心の平安がたどり着いた先で得られると思うと救いがあります。 >>931
それは仏道修行者がよくする誤解である。
ブッダの説いた中道に原因があるのだろう。
思考から生じるネガティブなものは、不安、怒り、焦り、嫉妬、などの悪感情。
そして思考から生じるポジティブな感情もある。
やる気、熱意、バイタリティ、強さ、快楽、愛欲、
それらも思考から生じるが、けしてネガティブなものじゃない。
だけどネガティブとポジティブは表裏一体なので、
それらもいずれは苦しみが生じる。
やる気があればやる気がなくなるとしぼむし、快楽も愛欲も、無くなれば渇望になり苦しくなる。
ブッダはそのように言ったのだろうと思う。思考から生じるものに幸せはない。
本当の幸せは、それらの思考を静めたときにハートあたりに静かに感覚として感じられる。
静かなおおらかな安らぎの気持ち、すべてを優しく包み込むような慈愛の気持ち、
すべてが満たされているような満足感と幸福感。
それらはけして消えることがない。なぜならこの真我はあなたの魂が存在したときから永遠に存在してるのだから。
この心境で生きることが本当の幸せであり幸福であり、感謝と愛の気持ちをもって生きることができる。
そしてまた思考が働き自我が動き出すと、自我のポジティブネガティブな感情によって
それらの真我の性質はモヤで見えなくなってしまう。 内観すればモヤモヤなどか晴れるというのは、別に真我と関係がないんだ
僕らのやってるヴィパッサナー(マインドフルネス)とはそういうものだから
釈迦の教えでもある
もちろん真我とか「わたし」なんて念じない 真我の愛や安らぎや調和のエネルギーはけして枯れることがない。
この感覚が失われるときは、思考が活動し感情の荒波にかき消されてしまっているから。
真我のこの愛や安らぎは無限に永遠にあなたの内から湧き出ている。
あなたが思考を静め自分の内に向かうとき、真我はいつでもあなたの心にあることに気付くだろう。
よく瞑想や心を海の波や深海や湖面に例えるが、そんなもの。
感情で波立っていると、真我の心が見えなくなってしまう。
思考を静めて感情が消えると、真我の心が見えてきて、
慈愛、安らぎ、調和、幸福感、静かな自信、そういう真我の心が湧き出てくる。 >>934
モヤモヤが晴れるのは、思考活動が停止し内面がスッキリしたからだろう。
でもそれだけでは、内面が清らかな空白感のような状態の瞑想で終わってしまう。
その先がある。
真我に到達することで、無限に愛や安らぎや調和が湧いてくる。
そこまでいくのが本当の瞑想。 歳を取ると人は丸くなって性格が温厚で柔和で優しくなるだろう。
その理由は老化によって思考活動が弱まることで、
思考が静まり、それによって真我の心が開いてくるからなんだ。瞑想と原理は同じ。
子供や思春期は一番思考活動が盛んだから、凶暴で動物的で感情的でずる賢かったりするだろう。
そして心には愛とか優しさとかあまりない。無邪気な純粋性のみがある。
動物のような純粋性。でも純粋性と真我は違う。
純粋はもちろんいい事だけど、それはまだけがれを知らないというだけで、
それが神の性質かといったらそうじゃない。
神は純粋なもの、そして不純なもの、その両方が含まれる。
なので人が神になるには、動物や子供のままではいけない。
様々な経験をし、沢山の前世を経験し、すべての経験をし終えて、
最終的に汚れを落としていき、最後は真我のみの心になる。
そのときその人は、子供のような純粋性を持ちながら、すべてのものを知っている者となる。
それが神への道。人が初めての転生から最後の転生、輪廻を終えるまでの道のり。
もし今生で瞑想に明け暮れているなら、彼らはもう汚れを落として純粋になる最後の段階なのだろうとおもう。 >>936
マスターがやってるのってここの有分心を見ていく瞑想じゃないの?
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
神秘体験したっていうとブッ飛ばされる禅宗とは違って、
原始仏教では何度も繰り返し禅定状態に入れるように指導されてて、
そしてその後の道筋もはっきり示されてる。
マスターかなりコツ掴んでるみたいだから、
いっそスピリチュアルから仏教に転向してみては?
そして悟ってそのコツも教えてほしい。 瞑想マスターくんは都合よくチェリーピッキングして、
弱い敵を勝手に作り上げて、そいつの何がいけないという根拠も示さず
「俺が駄目だといってるから駄目」と強弁してるに過ぎないんだよなぁ
しかも、ラベリングやれなんて誰も言ってないし藁人形論法だし
そこまで詭弁をまくしたてるのもマインドフルネスが相当に気に入らないんだろう
どうぞ自分のブログかスレ立てて
そちらでやって下さい >>938
そこに真我を仮定する理由が全く無いんだよね
君はしきりと境地を語りたがるが、我々マインドフルネス勢からすれば
「各々が瞑想で確かめるべきこと」
なのであって、語る必要のないことなんだ
何故そんなに自らの境地を語りたがるのだろうか? 雑念に気付けば囚われないってのはわかるんだけど
その雑念に対し良し悪しの判定、ジャッジをしない
というのが難しいんだけどなんかコツないかな
一般的なマインドフルネス(ググれば出るような)って不要な雑念、ストレスを消し去る為、とかそういう所あるじゃない
その心がいかんのか あーやっぱジャッジしまくってる
しかもそのジャッジにジャッジしてはならんとは
瞑想の良し悪しジャッジもいかんのだよな?
難易度高すぎるぜ… >>943
それは最初は無理ですが、失敗してるということに気付いてるなら
それはそれで進んでいきますよ
まずはわーっと頭の中に浮かんでいる雑念が静まるところまで行くことです
これも最初からは難しかったでしょう?
これが安定して出来てきたら対象を観る(感じ取る)ことは出来るようになってきます
本当に「ありのまま評価なし」ではないにしても、対象があれば消えていくまで見届けることです
だんだんありのままに近づいてきます
それまで間(数週間〜数カ月かな?)に、喜悦感、軽楽感、などが出てきます
それらを捨てることで、ありのまま、評価せずの状態になります >>945
うおおマインドフル超集中!(なんだかわからないが幸せ)みたいになるのも落とし穴ですよねこれ
あれこれ考え込むのもどうかとおもうので極力考えない、今だけに集中、の二点に専念しようと思います 自分の頭の中にあるものを、ただ文章を連ねて人に押し付けるってのは
スレ的には良くないことなんだよな
妄想スレになっちゃう この社会は高度な煩悩で出来ている
それ故人々の苦しみも大きいのだな 瞑想マスターは好意的に解釈すれば、みんなに目的地の風景イメージを共有したい
ということだろうけれど レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。