「厭離穢土欣求浄土」は戦国時代、徳川家康の馬印に用いられたことで知られる。
松平元康(後の徳川家康)は、桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である
三河国大樹寺へと逃げ隠れた。前途を悲観した元康は松平家の墓前で自害を試みるが、
その時13代住職の登誉が「厭離穢土欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと
言われる。すなわち、戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、
国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい
求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成すとの意味であった。

「西方極楽浄土」は仏教における、極楽の世界のことです。
仏教書には「極楽は西方十万憶仏国土をすぎたところ」と記されており、
西を向いて拝むことは極楽浄土に向かってお参りすることになるとされています。

2000年10月1日 天皇陛下明仁さま・皇后陛下美智子さまは
皇居(江戸城)の真西にある京都府久美浜町(京丹後市)の東に隣接する
網野町(京丹後市)で開催された第20回全国豊かな海づくり大会にご臨席された!

2001年12月1日 愛子さまが誕生された!

天皇陛下の御先祖様の徳川家康・細川忠興が好んで食べ、
関ケ原の戦いで勝利に導いた郷土料理「このしろ寿司」!
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの前、丹後国久美浜(京都府京丹後市)を
治めていた細川家の家臣松井康之は、徳川家康に謀反の疑いをかけられ窮地に陥った
細川忠興に進言して、久美浜特産の「コノシロの麹漬け」を端午の節句の
贈り物として家康に献上させ、細川家は難を逃れたと言い伝えられている。
このしろ寿し2樽を献上したことに対する、徳川家康から松井康之への礼状の写しが
有る。このしろ寿司には「この城を守る」という忠誠の意味が有る!江戸時代に
細川家は丹後国(京都府)から熊本に移動しこのしろ寿司は熊本の郷土料理に成った!
江戸時代に久美浜代官所が設置され廃藩置県では久美浜県が設置された!

https://bunshun.jp/articles/-/11480
皇族と旧皇族の交流の場である「菊栄親睦会」などでは、寿司の出張屋台も設営され、
数々の寿司職人が寿司を握ってきたが、特に「二葉鮨」の3代目は「昭和天皇の
御寿司番」とも呼ばれるほど、たびたび御用にあずかったという。陛下は特に
コハダの寿司をお気に召していたが、コハダのことはいつも「コノシロ」と
標準和名でお呼びになっていたそうで、生物学者でもあらせられた陛下らしい
こだわりだと3代目は語っていたという。

黄金のマスクのツタンカーメン級発見!久美浜で黄金の太刀発見!
1981年、京都府京丹後市久美浜町須田の湯舟坂2号墳
(6世紀後半約1450年前に築造)で大小2対の竜が向かい合って、玉をくわえた
黄金の太刀が発見された。国指定重要文化財に指定されているこの太刀は、
全長1.2mで、環頭柄頭の最大径は10.8cmの見事なもの。環頭や柄には金箔が
施されている。

久美浜湾岸の南に隣接する場所にかぶと山(192メートル)が有り、
北東の場所から見るとエジプトのクフ王のピラミッド(139メートル)に見え、
かぶと山山頂から真北を見ると日本海水平線と平行して砂州が久美浜湾と日本海を
分断していて絶景スポットだ!細川忠興と側室の間にできた娘を松井康之の息子と
結婚させ久美浜城に住まわせた!愛子さまの御先祖様の細川忠興も、かぶと山に
登った可能性が有る!久美浜町内では野生のコウノトリが産卵・定住している!
久美浜湾は皇居(江戸城)の真西に有り、西方極楽浄土、
皇室にとってパワースポットである!

皇居(江戸城)の真西の西方極楽浄土パワースポット
京都府京丹後市久美浜町、かぶと山山頂ライブカメラ
http://www.city.kyotango.lg.jp/top/kanko_bunka_sports/livecamera/5099.html

天皇陛下と春日局の御先祖様の三条西実隆(1455年生まれ)が
1501年に書いた勧進状が皇居(江戸城)の真西の京都府京丹後市久美浜町に
京都府指定文化財として有る!