顯義公
>…前略 兵、何を以って国家に至要なるや、兵は凶器なり、而して能く巨万の金額を費やし
>人民を労し少壮の事業を妨げ、其の学問を礙し、其の性を傷害し、其の才を束縛し
>其の刑罰を厳酷にし、或は又、醜業に習慣し、蜜陰を盛にし、梅毒を繁殖す。…後略
 小説志士の肖像より

この顕義伯の建白書が仇敵山縣有朋の猜疑心を拡大せしめ、政敵とし、無欲の顕義伯を
政界の頂点から追い出す原因となったと思う。師匠であった益次郎の暗殺も不運であった。

高杉晋作が周囲から「次は」と言われたのが「益次郎」、「その次」はと問われたら
「市之充」と答えたことは有名。
岩倉遣節団の中で顕義伯だけは放蕩せず、欧米の軍隊、法律をつぶさに研究している。
身分の卑しい利助などは金髪女を金で買っていたのと対照的である。
悲しいことにこの長きにわたる欧米視察の合間に、山縣が軍部を掌握してしまったことである。
帰国後西南戦争も起きていない時期に徴兵制を断行しようとした山縣を、この建白書で暗に糾弾
したのである。

しかし、顕義伯の欧米視察は無駄ではなかった。兵制の違いをフランス、プロシア、オーストリア、
スイス等などを比較しているし、国民平等であるナポレオン法典を日本の法に参照しようとも
考えていた。

戊辰戦争では五稜郭を落とし、伯は海軍の親玉にもなれたであろう。薩の海軍、長の陸軍などまだ
できあがってない時期だったし。

兎に角顕義伯は真面目過ぎた。松陰先生のように童貞のまま死ぬ、ということはなかったが。
もう少し世あたり上手であれば、大村益次郎が暗殺されなかったら、というIFがつきまとう。
そのIFが現実だったらならば、俺は日大に入れなかったであろう。