獨協大学名誉教授 右崎正博 氏

憲法における「表現の自由」の保障の中心的意味は政府に対する自由な批判を保障すること
国益という抽象的で中身のよくわからない理由で制限を加えるとなると表現の自由の中心的な意味が失われてしまいます
「表現の自由が広く国民に認められ、国民が自由に表現するためには、その機会を提供することも必要です。
国や自治体が文化的な催しを後援する場合、人々の表現の内容に介入しない態度を貫くことで、国民の表現の
自由が実質的で豊かになると考えるべきです。
 実際の社会では社会的・経済的不平等を背景に表現の自由を享受できる人とそうでない人がいます。
多数者の表現だけが許され、少数者の表現が締め出されるとなれば、国民は一方の意見にしか接することができなくなります。
公的機関は多様な表現の機会を保障し、少数の意見にも接することができるようにする態度が求められます。
名古屋市の横やりは表現を締め出し、「知る権利」を侵害するものです。
 今回の事案では少数の表現者側に対する激しい攻撃もあり展示が中止されるという異常事態になりましたが、
表現の自由を妨げる側を取り締まるべきで、表現する側に制限を加えることは『表現の自由』のあり方として本来は正しくありません。
市民が他者の表現したことを受け取ることも表現の自由の一部であり『知る権利』の問題です」