■プーチンはやはり「棚上げ」狙い?

1956年、日ソは戦争を終結し、国交を回復する「日ソ共同宣言」に署名、これを条約として双方の議会で批准した。領土については、国後と択捉の問題で合意ができなかったため、平和条約とはならず、「共同宣言」としたものである。

つまり今年の9月プーチン大統領がウラジオストックで言った、「領土問題を棚上げした平和条約」は、この日ソ共同宣言をそのまま平和条約に昇格させようというもので、1956年当時の交渉の経緯に頬かむりして日本世論をあざむくものだと言われても仕方ない。

ちなみに、この日ソ共同宣言の頃からすでに、日本は歯舞・色丹だけで満足するべきだという声が、日本国内にあった。

吉田総理はサン・フランシスコ平和条約に署名した時の演説で、国後・択捉は一貫して日本領であったことに諸国の注意を向ける発言をしているが、1951年に米占領軍による公職追放から返り咲き、ソ連との関係回復に熱意を燃やした鳩山一郎総理は、ソ連に宥和的であった。

当時のダレス米国務長官は、日本が歯舞と色丹の返還のみでソ連と手を打ち、その勢いで沖縄の返還を求めてくるのを恐れ、「日本が国後、択捉を諦めるなら、米国は沖縄を日本に返還しない」と日本を脅す(青木富貴子「昭和天皇とワシントンを結んだ男」)。

冷戦終結後、「沖縄はもう返還された。冷戦ももう終わったのだから、昔のダレス長官の要求ももう反古なのだ。日本は歯舞・色丹だけで手を打って構わないのだ」という声が、日本の一部に出ているが、これも情けない話だ。歴史的・法的に考えて自国領であるものは、米国の立場に関係なく、返還を要求していくべきものだろう。

ソ連の時代、北方領土問題はほとんど動かなかったが、日本は1970年代、総額1兆円を超える融資を供与して、サハリンの石油・ガス、シベリアの原料炭、森林開発など、大々的な「シベリア開発」を行った。

これは、日本の民間が主導したもので、「政府が領土問題を言い立てるから、ソ連との経済関係が進まない」という一部の認識を覆すものだった。

今でも、利益があり、国際情勢が許すものであれば(例えば米国が制裁を課してこない等)、ロシアとの経済関係はいかようにでも進めることができるし、実際製造業を中心に日本の大企業はかなりの直接投資をロシアで展開してきている。

■ソ連崩壊後、2回のヤマ

北方領土問題は、ソ連が崩壊して、エリツィン大統領が権力を握ってから、本格的に動き始めた。

単純化して言うと、彼の時代「山」は2つあった。1つは1993年10月彼が来日した時の――議会にたてこもった保守反対派を戦車砲で「制圧」して国際的に総スカンを食らった直後の訪日で、立場が弱かった――、「東京宣言」である。

これは議会で批准された条約ではなく、共同声明の類なのだが、両首脳の署名つきで、北方4島の名を明示的に挙げるとともに、「その帰属の問題を歴史的・法的事実に立脚し、これまでの合意文書、そして法と正義の原則を基礎に平和条約を早期に締結」とうたっている。

もう1つの山は1997年11月、橋本龍太郎総理とエリツィン大統領がクラスノヤルスクで「2000年に向けて平和条約を締結する」ことで合意してから、2001年3月森喜朗総理とプーチン大統領が「イルクーツク声明」を発表するまでの4年余である。

この時はエリツィン大統領がプーチン氏に、橋本総理が小渕氏、ついで森氏に交代する波乱があったものの、関係者が努力して前向きの勢いを維持した。

イルクーツク声明では、東京宣言の趣旨がほぼ繰り返されているが、これに加えて森総理はプーチン大統領に、2種類の協議を立ち上げることを提案している。

1つは歯舞、色丹の返還を前提とした上で、その具体化について、もう1つは国後、択捉の帰属についてのもので、それぞれの成果を合わせて平和条約とすることが念頭に置かれていた。プーチンも、その場でそれを拒否はしなかった。

これは、今回の「1956年共同宣言を基礎に平和条約締結の交渉を促進する」ということに酷似している。北方領土問題は右イルクーツク会談以降、後退に後退を重ね、18年余も経過した今、やっとイルクーツク会談の時点にまで戻ってきたかに見える。

つづく