関東大震災(2)
 「不逞(ふてい)鮮人が放火して回っている」「井戸に毒を投げ入れた」−。
 そんな流言が東京や横浜で広まったのは、関東大震災後の大正12年9月1日夜から2日にかけてである。

 都市部の火災はおさまらず、新たな火の手も上がっていた最中だ。警視庁や神奈川県警察部は厳戒態勢をとり、住民らは自警団を組織、その一部が朝鮮出身者らを迫害する事件が起こりはじめた。

東京日日新聞に衝撃的な見出しが躍ったのは、そんなときだった。

 「鮮人いたる所めつたぎりを働く」「日本人男女十数名をころす」「横浜を荒し 本社を襲ふ 鮮人のために東京はのろひの世界」…

 震災被害で紙面は1枚、裏表の2頁だけだが、1面のおよそ3分の1を「不逞鮮人」の記事が占めていた。

 誰もが情報に飢えていたときだ。こうした報道により、流言は“事実”と化したといえよう(※1)。

 3日以降、関東一帯で朝鮮出身者らへの迫害が頻発する。神経過敏となった各地の自警団は、朝鮮出身者とみるや集団で取り囲み、殴打し、殺害した。

 この事態に、治安維持にあたっていた警察と軍隊は驚愕(きょうがく)した。それまでの捜査や情報分析で、流言の多くが事実無根と分かっていたからだ。

 警察と軍隊は朝鮮出身者の保護に乗り出し、千葉県習志野の陸軍廠舎(しょうしゃ)や各地の警察署などに計約7千人を収容、流言を戒めるビラを散布するなどして沈静化に努めた。

 だが、自警団などによる迫害はその後も続いた。
× × ×
 政府の対応も十分だったとは言いがたい。すでに書いたように、震災発生の翌日に新内閣が発足したばかりだったことも、必要な措置が遅れる一因となった。

2につづく

産経新聞
https://www.sankei.com/premium/news/181118/prm1811180010-n1.html