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膵臓がんの手術を受け、治療を続けていた沖縄県の翁長雄志知事が8日午後、入院先の病院で死去した。辺野古新基地建設の阻止を最大の公約に掲げ、歴代の知事の中でも高い県民支持率を背景に、米軍普天間飛行場の辺野古移設を推し進める国と鋭く対立してきた。政治家としての翁長氏を写真で振り返る。

政治家としての原点

沖縄戦から5年後の1950年、那覇市に生まれた。父助静(じょせい)さんは旧真和志市長を務め、兄助裕(すけひろ)さんは西銘順治知事時代に副知事を務めるなど政治家一家に育ち、復帰前から保革の激しい対立を見て育った。

政治を志したのは小学6年の時だ。父・助静氏が立法院議員選で敗れ、母の和子さんに「お前だけは政治家になるなよ」と抱き締められた日。後に「父の背中を見て決意した幼きあのころの夢を追い求め、政治の門をくぐった」と振り返っている。

そんな翁長氏の政治家としての歩みは那覇市議選に初当選した1985年に始まる。

その後、沖縄県議会議員2期、自由民主党沖縄県支部連合会幹事長3年を務めた。98年の知事選では、大田昌秀県政の与党だった公明党を稲嶺恵一氏への選挙協力に導いて自公態勢を構築した。県議で自民党県連幹事長だった99年当時、辺野古移設に関しては今とは正反対の移設推進派だった。

2000年11月、那覇市長に初当選した。

ウチナーグチの使用を推進する「ハイサイ・ハイタイ運動」に取り組むなど、沖縄人のアイデンティティーにこだわった。翁長氏のあいさつはいつも「ハイサイ、ぐすーよーちゅーうがなびら」(こんにちは。みなさんご機嫌いかがですか)から始まった。

ターニングポイント

「自民党本流」だった翁長氏の転機となったのは07年。

文部科学省の高校歴史教科書検定で沖縄戦における「集団自決」(強制集団死)の日本軍強制の記述が削除・修正されたことに対し、記述復活と検定意見の撤回を求めた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」。

当時那覇市長だった翁長氏も参加。「沖縄が心を一つにして物事に取り組むのは平和問題だけでなく、経済なども今後の諸問題を解決していく上で重要なことでもある。平和を希求する思いは保革を問わず、全県民の根底に流れていることを実感した」とコメントした。

(略)