https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180322-00008695-besttimes-soci

「財務省が公文書を改ざん」。ジョージ・オーウェルの近未来ディストピア小説『1984年』を思わせる最悪の事態がわが国で発生した。社会学者・宮台真司氏は、適菜収氏が上梓した『問題は右でも左でもなく下である』について、こう述べる。「デマだと攻撃して、反証されると黙り込む卑怯者。自らは平気でデマを噴き、指摘されると黙るクズ。それが『保守政権』を名乗る『美しい日本』ぶり。『保守政権』に重用されて承認されたと喜ぶ承認厨。それが『保守』を自称し『保守政権』を支えるお笑い。本書で自称保守こそ国賊であると納得した僕は、仲間と家族を大切にする国士であろうと決意した」。「朝日新聞の歴史的スクープ」を受けて、今回、適菜収氏が緊急寄稿した! 

■情弱の「自称保守」は恥を知れ! 

 朝日新聞の歴史的スクープにより、一連の安倍晋三事件の一端が明らかになってきた。これはロッキード事件やリクルート事件といった過去の疑獄と比較できるものではない。悪党が不正によりカネを懐に入れたところでタカが知れている。しかし、公文書の改竄が絡んでくると、国家の信用の問題になる。今回は「日本は公文書を改竄する国である」ということが国際社会にバレてしまったのだ。そんな国の政権が北朝鮮の独裁体制や不正の横行を非難しようが、説得力の欠片もない。

 この衝撃は大きい。これをもって「日本は終わった」と嘆く人は多いのかもしれない。

 しかし、以前から私が指摘していたように、日本はすでに終わっていたのである。特に第二次安倍政権になってからは、近代国家としての建前すら放り投げ、下品のどん底に突き進んでいった。今回上梓した『問題は右でも左でもなく下である』(KKベストセラーズ)では、そのあたりの経緯を明らかにした。

 本書では戦後政治の病を振り返ったが、その中から直近の事例を二つ挙げよう。

 後世の人間が歴史を振り返ったとき、日本が最後の一線を突破した指標として挙げると思われるのが、2015年の安保法制騒動と「大阪都構想」事件である。

 安保法制問題の根本は、そもそも集団的自衛権を現行憲法の枠内で通せるか否かだった。集団的自衛権とは、「ある国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う権利」である。普通に憲法を読めば通せないことは自明だ。ほとんどの憲法学者が「違憲」と明言し、集団的自衛権の行使は「従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない」と指摘したのも当然だった。

 仮に憲法との整合性の問題がクリアできたとしても、集団的自衛権の行使がわが国の国益につながるかどうかはまた別の問題だ。国益につながるなら、議論を継続し、正当な手続きを経た上で、法案を通せばいいだけの話。

 ところが安倍は、お仲間を集めて有識者懇談会をつくり、そこで集団的自衛権を行使できるようにお膳立てをしてもらってから閣議決定し、「憲法解釈の基本的論理は全く変わっていない」「アメリカの戦争に巻き込まれることは絶対にない」「自衛隊のリスクが下がる」などとデマを流し、法制局長官の首をすげ替え、アメリカで勝手に約束してきて、最後に国会に諮り、強行採決した。
 要するに安倍政権は国を運営する手続きを歪めたのである。

(略)