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【スクスタ】ラブライブ！スクールアイドルフェスティバル ALL STARS ★287
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0001名無しで叶える物語(しまむら) (２級) (ﾜｯﾁｮｲ ef10-fvIU [220.158.105.165])
垢版 |
2020/09/26(土) 11:47:26.61ID:0qaev/ig0
!extend:checked:vvvvvv:1000:512

・次スレ作成時は本文頭に【】内を2行以上記述すること(立てると1行消えます)
【!extend:checked:vvvvvv:1000:512】
・次スレは>>950が宣言してから立てること。無理ならばレス番を指定して代行を頼むこと。
・荒らし、煽り、disは徹底放置。反応するのも荒らしと同類。

□公式サイト
http://lovelive-as.bushimo.jp/
■公式Twitter
http://twi tter.com/LLAS_STAFF/
◇スクフェスID
http://www.sifid.net/
☆App Store
http://itunes.apple.com/jp/app/id1377018522
★Google Store
http://play.google.com/store/apps/details?id=com.klab.lovelive.allstars

したらば避難所

ラブライブ！スクールアイドルフェスティバル ALL STARS 避難所
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/anime/10934/1593414718/

※前スレ
【スクスタ】ラブライブ！スクールアイドルフェスティバル ALL STARS ★285
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1600922776/
【スクスタ】ラブライブ！スクールアイドルフェスティバル ALL STARS ★286
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1600992386/

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VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvvv:1000:512:: EXT was configured
0002名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-fvIU [49.98.139.244])
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2020/09/26(土) 11:52:04.47ID:Ijy/H+z4d
【関連スレ】

ラブライブ！総合 1159thLIVE
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599657052/

ラブライブ！サンシャイン!!総合スレ Part907
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1600839620/

ラブライブ！虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 総合スレ 活動80日目
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1600517855/

【スクスタ】初心者質問雑談スレ★8
http://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1599347546/
0003名無しで叶える物語(しまむら) (ﾜｯﾁｮｲ d710-fvIU [220.158.105.165])
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2020/09/26(土) 11:52:34.87ID:0qaev/ig0
Q．リセマラはどこで妥協する？
A．今のガチャで1点狙いはきついから推しが出るまで

Q．ミスしていないのにライブ失敗になるんだけど？
A．スタミナ切れだから育成しよう

Q．育成しても失敗する
A．レベル上げより特訓を優先しよう

Q．特訓で素材が足りない
A．合宿&ライブをぶん回そう
　　マカロンは赤とピンク、金と銀の違いに注意

Q．メモリーが足りない
A．キズナレベルを上げることで入手できる。
　　ホーム画面でキャラを切り替えて触りまくる(1日5回まで)か、スキチケ編成に組み込んでポイントを稼げ。
　　またはライブでもドロップする。

Q．制服以外の衣装はどこ？
A．特訓のスキルツリーを進めると入手できる（SR以上のカードに限る）

Q．ステータスやライブ中の操作について
A．重要なのはアピール（攻撃力）とスタミナ（HP）
　　詳しくは、教えてスクスタとヘルプを見よう

Q．作戦って？
A．今のメンバーで最高のライブパフォーマンスを出すために理解は必須
　　詳しくは、教えてスクスタとヘルプを見よう
　　育成が一通り終わるまでにはマスターすべし

Q．ホーム画面の衣装と背景ってどうやって変えるの？
A．どちらもエピソード→ お気に入り→→きせかえ で変更可

Q．虹アクセ出ない
A．上級ならB評価でも出る、確率は1%未満、数百回ハマリも覚悟して

Q. 上級+のノーツ速度変えられないの？
A. 上級の速度変更しろ

Q. DLPで使ったアクセが分解したり合成材料にしたりできない
A. アクセサリー一覧から該当アクセサリを選択して一括解除ボタン
0004名無しで叶える物語(しまむら) (ﾜｯﾁｮｲ d710-fvIU [220.158.105.165])
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2020/09/26(土) 11:53:27.82ID:0qaev/ig0
合宿で獲得できる有用なひらめきスキル【パッシブスキル：アピール＋】について

★メイン火力の作戦のメンバーにオススメ
・アピール＋[中]:同作戦（ランニング）

★控えメンバーにオススメ
・アピール＋[中]:仲間（腕立て）

★環境次第でオススメ
・アピール＋[中]:同属性（ランニング）
・アピール＋[中]:同タイプ（ストレッチ）
・アピール＋[中]:同学校（ランニング）
・アピール＋[中]:同学年（ランニング）

★間に合わせにお手軽でオススメ
・アピール＋[小]:全員（瞑想）
・アピール＋[小]:仲間（瞑想）　※リーダーに付けたいときはバッヂ使用禁止

※バッヂの効果はリーダーのみで、使用すると銅以上のスキルしか出なくなります

一見レアで強力に見えるボルテージ獲得[特]やボルテージ獲得[極]はほとんど
役に立たない罠なので上に挙げたアピール＋を優先して覚えさせよう

★おまけ
・スタミナ回復[小]:ボイストレーニング
0005名無しで叶える物語(しまむら) (ﾜｯﾁｮｲ d710-fvIU [220.158.105.165])
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2020/09/26(土) 11:53:51.19ID:0qaev/ig0
【日替わり楽曲ドロップ】

銀色のマカロン
・[火] まほうつかいはじめました！
・[木] in this unstable world
・[金] Dream Land! Dream World!
・[土] Pianoforte Monologue
・[日] おやすみなさん！　※金・銀の両方が出る

金色のマカロン
・[月] Beginner's Sailing
・[水] SUPER NOVA
・[金] ありふれた悲しみの果て
・[土] ぶる〜べりぃ♡とれいん
・[日] おやすみなさん！　※金・銀の両方が出る

○○書/植物
・Voタイプ：[月] Sing & Smile!
・Spタイプ：[水] Daring!!
・Gdタイプ：[木] Sing & Smile!
・Skタイプ：[火] One More Sunshine Story
・○○書のみ全タイプ：[土] 孤独なHeaven
・植物のみ全タイプ：[土] さかなかなんだか？
・○○書も植物も全タイプ：[日] SUPER NOVA
0006名無しで叶える物語(しまむら) (ﾜｯﾁｮｲ d710-fvIU [220.158.105.165])
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2020/09/26(土) 11:54:10.59ID:0qaev/ig0
【ゲストについて】
・選択したゲストキャラの個性（フレンドの場合は＋ひらめきスキル）は、ライブ時に編成中央のキャラに"上乗せ"される。
　ゲストの個性等の「同属性」「同作戦」等の『同』は、『編成中央のキャラと同じ』という意味になり、ゲストキャラ自身の属性等とは無関係

・一度使ったゲストは4時間で復活する

・設定は「ホーム＞メニュー＞プロフィール＞ゲスト設定」で行う

・属性ごとにゲストを設定できるようになっているが、わざわざ各属性を揃える必要は全くない
　（例えば、スマイル枠にアクティブSkルビィを置いたとしても、アクティブSkで絞り込めばちゃんと出てくる）

・無理に属性を合わせようとして使えないキャラを置くくらいなら、推しキャラのSR以下でも置いた方がよい
　（大抵はURで絞り込むため、そのときに邪魔にならない）

・有用キャラだからといって、同一のものを複数設定するのはNG。絞り込みの際、設定した数だけズラっとリストに並ぶので邪魔になる。
0007名無しで叶える物語(しまむら) (ﾜｯﾁｮｲ d710-fvIU [220.158.105.165])
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2020/09/26(土) 11:54:29.31ID:0qaev/ig0
カード一覧
　https://i.imgur.com/7JUcSsy.png
タイプ別(月1更新)
　https://i.imgur.com/CeQeEu7.jpg
μ's
　https://i.imgur.com/ipmOo4w.jpg
Aqours
　https://i.imgur.com/r53xzdR.jpg
虹ヶ咲
　https://i.imgur.com/RqILpVQ.jpg

フェス限の歴史
第10回 Vo Gd (穂乃果 梨子)
第09回 Gd Sk (しずく ダイヤ)
第08回 Vo Sp (千歌 凛)
第07回 Vo Sp (愛 絵里)
第06回 Gd Sp (ルビィ 海未)
第05回 Gd Sk (花丸 花陽)
第04回 Vo Sk (彼方 鞠莉)
第03回 Gd Sp (にこ エマ)
第02回 Vo Sp Sk (せつ菜 ことり 善子)
第01回 Vo Gd Sp (曜 真姫 果林)

Vo6　Gd6　Sp6　Sk4

フェス
　https://i.imgur.com/4iR3rNB.jpg
0008名無しで叶える物語(しまむら) (ﾜｯﾁｮｲ d710-fvIU [220.158.105.165])
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2020/09/26(土) 11:54:53.06ID:0qaev/ig0
【アクセ一覧】
イヤリング：SPゲージ獲得+(元気) 最大0.7%(1.0) [曲中]
キーホルダー：特技発動率+(元気) 最大1.8%(2.5) [曲中]
タオル：特技発動率UP 10ノーツ間1.8%(2.5)上昇 [曲開始時30%]
ネックレス：ダメージ軽減+(元気) 最大0.7%(1.0) [曲中]★
ブレスレット：SPゲージ獲得 自身アピの1.8%(2.5) [AC成功時100%]★
ブローチ：アピール+(元気) 基本アピ最大1.8%(2.5)増加 [曲中]
ヘアピン：クリティカル+(コンボ) 150コンボで最大1.8%(2.5) [曲中]
ポーチ：スタミナ回復 150コンボで最大180(250) [AC成功時30%]★
リストバンド：アピールUP 10ノーツ間アピ1.8%(2.5)増加 [曲開始時30%]
リボン：シールド獲得 150コンボで最大180(250) [AC成功時30%]★

※効果量は金アクセLv1時、( )内は虹アクセ [ ]内は発動タイミング
※★付は作戦外でも効果有、★無しは自身対象(操作中の作戦内のみ有効)
0009名無しで叶える物語(しまむら) (ﾜｯﾁｮｲ d710-fvIU [220.158.105.165])
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2020/09/26(土) 11:55:11.57ID:0qaev/ig0
新アクセ
https://i.imgur.com/Iw2Z7dc.jpg
https://i.imgur.com/6TrWIj7.jpg
https://i.imgur.com/M0NZyXE.jpg


※ベルトの効果の表記は誤り！
　×「ゲーム終了までSP特技で獲得するボルテージが自身のテクニックのn％増加」
　○「ゲーム終了までSP特技で獲得するボルテージが【自身のテクニック×0.000n】％増加」

　仮に作戦内のテクニック合計45,000、ベルトのスキルレベルMAX5%なら45,000×0.0005=22.5(%)
　非装備時のSP獲得量を20万とすると1.225倍になって245,000となります。

日替わり曲まとめ
https://i.imgur.com/4xDH6Of.jpg

タイプ別特訓に必要なマカロン(金銀除く)
https://i.imgur.com/5ub0yW7.jpg
0010名無しで叶える物語(しまむら) (ﾜｯﾁｮｲ d710-fvIU [220.158.105.165])
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2020/09/26(土) 11:55:38.16ID:0qaev/ig0
μ's/Aqours/虹ヶ咲メンバー誕生日一覧

. 1月. 1日　ダイヤ
　 　 17日　花陽
　 　 23日　かすみ
---------------
. 2月. 5日　エマ
　 　 10日　果南
---------------
. 3月. 1日　歩夢
. 　 　 4日　花丸
　 　 15日　海未
---------------
. 4月. 3日　しずく
　 　 17日　曜
　 　 19日　真姫
---------------
. 5月30日　愛
---------------
. 6月. 9日　希
　 　 13日　鞠莉
　 　 29日　果林
---------------
. 7月13日　善子
　 　 22日　にこ
---------------
. 8月. 1日　千歌
. 　 　 3日　穂乃果
. 　 　 8日　せつ菜
---------------
. 9月12日　ことり
　 　 19日　梨子
　 　 21日　ルビィ
---------------
10月05日　栞子
　 　 21日　絵里
---------------
11月. 1日　凛
　 　 13日　璃奈
---------------
12月16日　彼方
0013名無しで叶える物語(しまむら) (ﾜｯﾁｮｲ d710-fvIU [220.158.105.165])
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2020/09/26(土) 11:57:13.66ID:0qaev/ig0
【スクスタパスについて】

Q．お試し版は継続期間に含まれる？
A．含まれません。

Q．お試し中に有償版を購入するとどうなるの？
A．お試し期間が終了します。
　　お試し中に使った無料ガチャとLP回復は復活しません。

Q．いきなり購入したら継続1ヶ月目になる？
A．なります。

Q．購入したら継続特典すぐもらえる？
A．もらえます。

Q．有効期限が切れたら自動で延長される？
A．されません。
0014名無しで叶える物語(しまむら) (ﾜｯﾁｮｲ d710-fvIU [220.158.105.165])
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2020/09/26(土) 12:00:19.50ID:0qaev/ig0
>>13は間違いでこっちが正しい



【スクスタパスについて】

Q．お試し版は継続期間に含まれる？
A．含まれません。

Q．お試し中に有償版を購入するとどうなるの？
A．お試し期間が終了します。
　　お試し中に使った無料ガチャとLP回復は復活しません。

Q．いきなり購入したら継続1ヶ月目になる？
A．なります。

Q．購入したら継続特典すぐもらえる？
A．もらえます。

Q．お試し版の有効期限が切れたら自動で有償版になる？
A．なりません。

Q．有償版の有効期限が切れたら自動更新される？
A．されます。

Q．自動更新分の支払いはどうすれば？
A．iTunesやGoogle Playに残高が残っていれば自動更新されます。
0032名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-D++W [182.251.123.216])
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2020/09/26(土) 12:33:09.71ID:ZGzk888wa
>>1おつ！
0034名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-sgVH [49.98.161.49])
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2020/09/26(土) 12:36:16.41ID:N9/inLt9d
生放送で新規フェス限のお知らせがないと暴れるやつが続出してせっかくの周年気分が台無しになりそうだから、もう逆張りでも何でもいいからフェスやってほしいまであるわｗ
そのためなら発言権返上してもいいわこの際
0047名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟﾌﾟ Sd42-+pNE [49.96.39.169])
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2020/09/26(土) 12:59:46.78ID:Bjr2ynG3d
🦀1マカは交換しろ
0049名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-5PEE [182.251.252.18])
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2020/09/26(土) 13:02:12.60ID:MutFUNt8a
おまえら１周年のURチケ何出た？
0053名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-sgVH [49.98.161.49])
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2020/09/26(土) 13:05:02.05ID:N9/inLt9d
>>47
SBLで弱きものをなぶり殺しにしてメダル総取りしてる課金者は★1限界まで交換しろよとは思う
俺はクソ雑魚だからガチャチケとイベ部員交換するだけでいっぱいっぱいだけど課金者はたっぷり貯め込んでるんだろ？
0069名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-D++W [182.251.123.216])
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2020/09/26(土) 13:31:07.35ID:ZGzk888wa
もう慣れた
0087名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-njwO [1.75.234.153])
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2020/09/26(土) 13:58:39.48ID:YNdLISC8d
>>78
ガチャ間隔ずらす為に7月から下旬にしたから月末はないぞ
0097名無しで叶える物語(たこやき) (ﾜｯﾁｮｲ f788-9HpR [124.145.30.143 [上級国民]])
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2020/09/26(土) 14:04:44.02ID:Jdh2q+HL0
ミラテイブ配信ってスクスタ内の報酬なんか貰えるん？
0102名無しで叶える物語(もんじゃ) (ﾜｯﾁｮｲ 0f88-/QqT [116.65.220.40])
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2020/09/26(土) 14:06:11.89ID:LEnWnUum0
>>94->>39
0103名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-9HpR [182.251.123.216 [上級国民]])
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2020/09/26(土) 14:07:12.77ID:ZGzk888wa
>>100
悪くない報酬やん
0110名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-9HpR [182.251.123.216 [上級国民]])
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2020/09/26(土) 14:11:36.23ID:ZGzk888wa
俺も配信した方がいいんか？
やるぞ？
0113名無しで叶える物語(八つ橋) (ﾜｯﾁｮｲ b754-5Rk+ [60.94.64.68])
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2020/09/26(土) 14:13:19.89ID:+jV6nRd50
友達とかミラティブよく見る人いるなら身バレするかもね
0115名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-9HpR [182.251.123.216 [上級国民]])
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2020/09/26(土) 14:13:58.74ID:ZGzk888wa
ミラテイブ配信ってそもそもミラテイブってなんだよのとこから始まる
0118名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-9HpR [182.251.123.216 [上級国民]])
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2020/09/26(土) 14:15:42.47ID:ZGzk888wa
15分配信しっぱなししたらいいのか
0120名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-9HpR [182.251.123.216 [上級国民]])
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2020/09/26(土) 14:16:39.66ID:ZGzk888wa
ミラテイブって蟹となんか提携でもしとんのか
0123名無しで叶える物語(八つ橋) (ﾜｯﾁｮｲ b754-5Rk+ [60.94.64.68])
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2020/09/26(土) 14:18:01.41ID:+jV6nRd50
累計5000って個人？配信者全体？
0125名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-9HpR [182.251.123.216 [上級国民]])
垢版 |
2020/09/26(土) 14:18:34.68ID:ZGzk888wa
みんなが力合わせて何回も配信したら累計5000いくな
0129名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-sgVH [49.98.161.49])
垢版 |
2020/09/26(土) 14:22:35.97ID:N9/inLt9d
>>105
勘違いだよ
Ver.1.7.0前は上級で★3の抽選率が高かったのを全難易度で抽選率が一律になってその結果上級では★3は明らかに抽選されなくなった
★3が減った分★1が増えたかは微妙だけど★3が減ったことだけは明らか
0134名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-9HpR [182.251.123.216 [上級国民]])
垢版 |
2020/09/26(土) 14:30:35.41ID:ZGzk888wa
なんか勘違いしとるヤツおるやん
0136名無しで叶える物語(もんじゃ) (ﾜｯﾁｮｲ 837c-3Hlp [114.158.60.46])
垢版 |
2020/09/26(土) 14:31:24.35ID:hVCOz/Zs0
スレ民の配信見れるの？
0137名無しで叶える物語(奈良漬け) (ﾜｯﾁｮｲ db4b-I9r0 [112.70.253.8])
垢版 |
2020/09/26(土) 14:40:05.29ID:KRHtFYNg0
ミラティブ配信してたらアプリ落ちるんだが
0140名無しで叶える物語(奈良漬け) (ﾜｯﾁｮｲ db4b-I9r0 [112.70.253.8])
垢版 |
2020/09/26(土) 14:43:29.42ID:KRHtFYNg0
>>138
zenfone max pro m1
0145名無しで叶える物語(奈良漬け) (ﾜｯﾁｮｲ db4b-I9r0 [112.70.253.8])
垢版 |
2020/09/26(土) 14:52:42.82ID:KRHtFYNg0
>>144
なるほどありがとう
0166名無しで叶える物語(とばーがー) (ﾜｯﾁｮｲ 220a-D++W [219.100.21.141])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:05:03.29ID:H7iTfcIc0
とりあえず無料分でUR出たから満足
https://i.imgur.com/WAL27YW.jpg
0170名無しで叶える物語(らっかせい) (ﾜｯﾁｮｲ f7ae-njwO [124.47.252.227])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:06:01.01ID:NJzeeyYt0
こんなん100%盛り上げる為だけの目的で生放送で発表じゃん
0173名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-njwO [1.75.234.153])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:06:23.36ID:YNdLISC8d
>>161
お前昨日からうざいよ
0175名無しで叶える物語(はんぺん) (ﾜｯﾁｮｲ 2f7b-njwO [14.11.132.32])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:06:49.61ID:x0jW0HnU0
>>117
写真加工するんやで…
0180名無しで叶える物語(もんじゃ) (ﾜｯﾁｮｲ 837c-3Hlp [114.158.60.46])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:07:46.64ID:hVCOz/Zs0
3rdソロのMVは生放送で発表するのかな
0183名無しで叶える物語(とばーがー) (ﾜｯﾁｮｲ 220a-D++W [219.100.21.141])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:08:38.38ID:H7iTfcIc0
とりあえず120円入れて今夜の生放送まで様子見かな
0184名無しで叶える物語(らっかせい) (ﾜｯﾁｮｲ c6f7-ZFvJ [153.222.226.106])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:08:45.35ID:DiAlQEzi0
生放送終わるまでフェスこないと思ってからこれはサプライズ
GJ蟹
0192名無しで叶える物語(もんじゃ) (ﾜｯﾁｮｲ 275a-u7T5 [150.249.203.135])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:09:45.27ID:6bGWiztv0
240円で最低保証がないとはいえ20連とか＋ライブキャンディ20個とか安すぎ
0200名無しで叶える物語(しまむら) (ﾜｯﾁｮｲ a26f-HtPz [59.133.186.191])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:11:37.80ID:3eHHdSTY0
>>167
昨日から暴れてるやつだから気にしなくていいよ
0206名無しで叶える物語(しうまい) (ﾜｯﾁｮｲ bf54-ZAfc [126.66.74.100])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:12:08.17ID:h+FOv8EL0
すぐ回すやつなんなん？
放送でもっといい石の使い道出てくるかも知んないのに
0210名無しで叶える物語(もんじゃ) (ﾜｯﾁｮｲ 27a3-u7T5 [150.249.203.139])
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2020/09/26(土) 15:12:50.90ID:TRqxApFT0
生放送終了直後に希果南歩夢3人ピックアップフェス開催
俺の占いは当たる
0212名無しで叶える物語(たまごやき) (ﾜｯﾁｮｲ fb91-54hQ [218.185.158.171])
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2020/09/26(土) 15:13:11.67ID:WNyupAf90
>>197
凸素材、30個でUR1凸分
0220名無しで叶える物語(ささかまぼこ) (ﾜｯﾁｮｲ bf54-f206 [126.76.164.39 [上級国民]])
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2020/09/26(土) 15:14:29.58ID:DJKfawjJ0
100連終わり
UR枚数的に微妙だけど温泉彼方ちゃん欲しかったし弓海ちゃんきたからおっけーおっけー
https://i.imgur.com/sVmGoBQ.jpg
https://i.imgur.com/uc2lIqx.jpg
https://i.imgur.com/z4FVZNT.jpg
https://i.imgur.com/HbAvJ5k.jpg
https://i.imgur.com/lTHv6O2.jpg
https://i.imgur.com/9HBDMbl.jpg
https://i.imgur.com/gHQ6Rb7.jpg
https://i.imgur.com/JqPGoD6.jpg
https://i.imgur.com/wds7zKo.jpg
https://i.imgur.com/QpUPYOa.jpg
https://i.imgur.com/woLGoR5.png
https://i.imgur.com/3QLT2hO.jpg
0227名無しで叶える物語(はんぺん) (ﾜｯﾁｮｲ 2f7b-njwO [14.11.132.32])
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2020/09/26(土) 15:15:31.30ID:x0jW0HnU0
6600円で1凸＋石900個か　フェスエリチ完凸早くさせたいし買うか
0236名無しで叶える物語(しうまい) (ﾜｯﾁｮｲ bf54-ZAfc [126.66.74.100])
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2020/09/26(土) 15:17:11.86ID:h+FOv8EL0
>>218
こんなん有償石じゃなく普通の意志で回させろってんだろ
0241名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-NBcR [182.251.183.170 [上級国民]])
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2020/09/26(土) 15:17:39.00ID:55cR2rkVa
>>203
ぶっ壊れフェスのんたんに震えろ
エマを超えるバストにフェス菜を超えるアピール値だ
0246名無しで叶える物語(もんじゃ) (ｱｳｱｳｴｰ Sa7a-njwO [111.239.172.56])
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2020/09/26(土) 15:18:37.23ID:j34lYgGda
フェス果南のために石貯めてるワイ、絶句
0247名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-njwO [182.251.244.5])
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2020/09/26(土) 15:18:40.50ID:7UYWdxiga
ニジガクフェスもハブられてたけど1人だけハブはまじでアホ。愛を感じないな
0249名無しで叶える物語(きびだんご) (ﾜｯﾁｮｲ 83fe-E7vW [114.173.233.15])
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2020/09/26(土) 15:19:04.27ID:7UVS2xgx0
120円だけでええな
0251名無しで叶える物語(しうまい) (ﾜｯﾁｮｲ b750-ozis [60.43.65.204])
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2020/09/26(土) 15:19:06.48ID:oF67td2x0
>>217
馬鹿にてるっていうかここで追加されるほうが推しは辛いぞ
ニジガクフェスと一緒の状況だからここで新規追加されたとしてもピックアップされないフェス限の闇鍋に放り込まれることになるんだし
むしろ希は今月ピックアップで追加来てるし来なくてよかったよ
0252名無しで叶える物語(しまむら) (ﾜｯﾁｮｲ b754-C3PC [60.111.199.167 [上級国民]])
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2020/09/26(土) 15:19:13.69ID:O9KDNVSy0
おはガチャでフェス限でて草
さすが4倍やな
0258名無しで叶える物語(とばーがー) (ﾜｯﾁｮｲ 220a-D++W [219.100.21.141])
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2020/09/26(土) 15:19:30.86ID:H7iTfcIc0
アニバ当日に120円で済むｂﾆか財布に優しｂ｢ゲームやね
0262名無しで叶える物語(もんじゃ) (ﾜｯﾁｮｲ 0e09-TI1s [119.243.114.128])
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2020/09/26(土) 15:19:58.36ID:UGj1538R0
フェス限のことりまき花丸って使い道ある？
0265名無しで叶える物語(しうまい) (ﾜｯﾁｮｲ bf54-ZAfc [126.66.74.100])
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2020/09/26(土) 15:20:37.31ID:h+FOv8EL0
>>255
ありえねえよな
こんなん1500エンでいい
0267名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌｯ Sd42-DtiP [49.106.215.230])
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2020/09/26(土) 15:20:44.58ID:CfUDzx0yd
>>194
なんだろう辛く激しい戦いの跡が見える
0273名無しで叶える物語(しうまい) (ﾜｯﾁｮｲ 8328-kjqf [114.150.205.130])
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2020/09/26(土) 15:21:33.68ID:aciVgp980
願いがきらめきの時より渋くなってて草
0285名無しで叶える物語(もんじゃ) (ﾜｯﾁｮｲ 0291-+J6I [211.15.208.1])
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2020/09/26(土) 15:23:35.20ID:1Dfe9Zn60
ぽむ高咲しおこフェス限は今晩？
0291名無しで叶える物語(かつお) (ﾜｯﾁｮｲ 8688-gwTV [121.111.6.175])
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2020/09/26(土) 15:24:31.60ID:O5KLj9YB0
我慢できず10連だけ引いたらフェス限ダイヤさん当たった
強いですか？
0292名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-njwO [182.251.244.5])
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2020/09/26(土) 15:24:33.22ID:7UYWdxiga
石は5桁あるのにフェスそのものが既存のしかなくて萎えてるユーザーです
0294名無しで叶える物語(SB-Android) (ｵｯﾍﾟｹ Srbf-gS0e [126.194.111.222])
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2020/09/26(土) 15:24:45.85ID:XQZIB0oBr
しかしμ'sのフェス限弱いな
0296名無しで叶える物語(もんじゃ) (ﾜｯﾁｮｲ 0291-+J6I [211.15.208.1])
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2020/09/26(土) 15:25:18.93ID:1Dfe9Zn60
μ's うみ、まき、りん Aqours ルビー 虹 エママ

無いフェス限が案外ないんだよな…凸出来たらそれでいいけど。
0298名無しで叶える物語(しうまい) (ﾜｯﾁｮｲ bf54-ZAfc [126.66.74.100])
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2020/09/26(土) 15:25:34.33ID:h+FOv8EL0
>>271
ん？！マジ！？
スクフェスで返金実績あるぞそれ！！
0304名無しで叶える物語(しまむら) (ﾜｯﾁｮｲ 8ed1-b+lb [39.111.43.113])
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2020/09/26(土) 15:27:24.02ID:Hi2jdVVe0
>>295
石だけにフォーカスを当てるならそうなんだろうけど
アレ買う人って凸りたい人だから言うほど劣化でもないと思う
パスでも願いは手に入るけどパス込で出来るだけ早めに、だけど安く済ませたい人は1つ買っておけばいいんじゃないかなって思う
0305名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-njwO [182.251.244.5])
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2020/09/26(土) 15:27:29.11ID:7UYWdxiga
放送のサプライズとか言っても無い可能性とほぼあるだろうとバレてる時点で茶番だよね
15時にサプライズで出した方が興奮したわ
0309名無しで叶える物語(もんじゃ) (ﾜｯﾁｮｲ 0291-+J6I [211.15.208.1])
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2020/09/26(土) 15:28:28.29ID:1Dfe9Zn60
>>307
DLPで殺意の光ごり押しするときに使った
0312名無しで叶える物語(もんじゃ) (ｱｳｱｳｳｰ Sa9b-5PEE [106.133.51.140])
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2020/09/26(土) 15:28:52.39ID:ry/HU7wba
正直1stガチャ、ショボくね？
0315名無しで叶える物語(もんじゃ) (ﾜｯﾁｮｲ 0291-+J6I [211.15.208.1])
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2020/09/26(土) 15:29:43.84ID:1Dfe9Zn60
>>313
ビギナーとステ2の有償200までなら買いかなとは。
0320名無しで叶える物語(もんじゃ) (ﾜｯﾁｮｲ 4735-u7T5 [118.241.182.36])
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2020/09/26(土) 15:30:49.81ID:ChempdGG0
1周年ガチャの内容自体はかなり豪華だろ
新キャラがいないから地味に感じるだけで
0329名無しで叶える物語(もんじゃ) (ﾜｯﾁｮｲ 0291-+J6I [211.15.208.1])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:32:15.63ID:1Dfe9Zn60
ハーフのきらめきバカンス以下の課金効率
0333名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-njwO [182.251.244.5])
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2020/09/26(土) 15:33:46.43ID:7UYWdxiga
新キャラ無し
各グループ1人ずつハブられた推しには鬼畜なグループガチャ

これが1周年か
0338名無しで叶える物語(たこやき) (ﾜｯﾁｮｲ f788-9HpR [124.145.30.143 [上級国民]])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:34:46.47ID:Jdh2q+HL0
今日の生放送控えてネガキャンはエアプ
0343名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-njwO [182.251.244.5])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:36:04.35ID:7UYWdxiga
生放送で発表
10月1日から開始とかだと萎えるなあ
毎回イベ後？に来てたイメージはあるが
0348名無しで叶える物語(ささかまぼこ) (ﾜｯﾁｮｲ 4f9d-puC8 [180.11.231.190])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:37:12.15ID:Nu15FdQW0
ステップアップに金を入れるかは生放送で発表される内容次第にしてやろう
0361名無しで叶える物語(SIM) (ｵｲｺﾗﾐﾈｵ MM5e-xsES [61.205.4.192])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:40:35.97ID:uaOXtM2hM
こんなんなら石貯める必要なかったな
0368名無しで叶える物語(ますのすし) (ﾜｯﾁｮｲ c679-/QqT [153.178.236.132])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:41:34.83ID:gmTbJeJY0
スターターセットこの内容で120円とか異様に安いな
500円でも買いだろ
0372名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-njwO [182.251.244.5])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:42:13.14ID:7UYWdxiga
萎えるわ
いつまで推しフェス待たせんだよ
0377名無しで叶える物語(ますのすし) (ﾜｯﾁｮｲ c679-/QqT [153.178.236.132])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:43:54.18ID:gmTbJeJY0
>>357
スクスタは凸れば誰でも使い道あるし強いぞ
逆に凸らなければ一部のフェス限除いて使えない
0385名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-njwO [182.251.244.5])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:46:05.04ID:7UYWdxiga
新規の為や石半端にしかない能無しが爆死か無凸引いて喜ぶガチャだな
しっかり貯めてきて推しはその都度引いてきた古参にはほぼゴミ以下のガチャ
0388名無しで叶える物語(あら) (ﾜｯﾁｮｲ d755-/QqT [220.220.3.29])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:46:10.55ID:jnpYuvW20
フェス限せつ菜　3凸
フェス限千歌　2凸
フェス限彼方　1凸
初期果南　4凸
初期曜　4凸

願い30個はどれに使ったほうがいいんだろ？
0393名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟﾌﾟ Sd42-+pNE [49.96.38.105])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:46:49.65ID:7BiZKu/Ad
>>357
どれもそれなりに強いと思う
しかし君のような有望な新規がいるとはな
0395名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-njwO [182.251.244.5])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:48:06.01ID:7UYWdxiga
有望(脳死でお得だと勘違いしてしまう)な初心者やな
0400名無しで叶える物語(SB-iPhone) (ｻｻｸｯﾃﾛﾗ Spbf-kd6f [126.193.34.204])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:49:32.58ID:/1dC2XV4p
後夜祭合わせて合計無料120連したけどUR4枚か…
クッソ使えねえ
0403名無しで叶える物語(らっかせい) (ﾜｯﾁｮｲ c29f-6HZf [131.147.144.239])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:51:56.32ID:3Lq2ev910
>>307
ナチュラルだからDayDayDayに使えるのもでかい
0404名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-njwO [182.251.244.5])
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2020/09/26(土) 15:52:21.75ID:7UYWdxiga
これ使えば強いは

フェス菜フェス歌フェスマリとかやろ
大体のステージSだけならこいつら3人でほぼいけるはず
後はヨハネパワーとかシールドを臨機応変に入れればいいだけ
0407名無しで叶える物語(らっかせい) (ﾜｯﾁｮｲ 2288-dRpf [27.84.246.185])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:53:12.14ID:ZwXGMXQP0
確定枠せつ菜出て輝き25個で終わって草
0410名無しで叶える物語(もこりん) (ﾜｯﾁｮｲ 47f0-F8K1 [118.7.43.18])
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2020/09/26(土) 15:53:53.68ID:fAd9MTTQ0
スターターコースのバナーにある「10日間ログインするたびに通常ガチャチケット×1＆ライブキャンディ(50)×1獲得！」
って10日ごとに1個ずつしか貰えないように読めるんだが

まあ下見ればログイン10日間で計10個ずつと分かるけど

これも蟹語検定か？
0412名無しで叶える物語(SB-iPhone) (ｻｻｸｯﾃﾛ Spbf-4KtP [126.33.103.225])
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2020/09/26(土) 15:54:09.62ID:mAb1qDH/p
フェスで天井までぶん回してフェス花丸もらう気だけどいいよね？
フェス回復もってないからマリーか花丸の2択なんだがクール回復は2凸曜もってるし耐久力は花丸のが良いらしいから花丸もらおうかと思ってる
でもマリーのが総合評価は高いらしいから怖いんだよな
評価上のマリーのがいい？
0414名無しで叶える物語(もんじゃ) (ｱｳｱｳｳｰ Sa9b-dRpf [106.132.128.49])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:55:10.49ID:vHi1cR5Ba
フェス絵里とフェスエマどっちに輝きぶち込むのがええんやろ
0416名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-njwO [182.251.244.5])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:55:50.32ID:7UYWdxiga
ボルランでも通用する火力も欲しいならマリーで耐久重視ならヘナメル
0421名無しで叶える物語(あら) (ﾜｯﾁｮｲ ce81-75iN [175.28.231.95])
垢版 |
2020/09/26(土) 15:57:47.88ID:5PszNqjx0
>>401
あーそうなんだ。特技とかはそこまで重要じゃないのかな？ステータスを上げて物理で殴る感じか

どこ見ればそういう強い編成が分かるようになるんだろ、現状緑の作戦にアピールが高いやつとシールド、中央にテクニックが高いやつをとりあえずぶち込んでるけど、いいのかな？残りの関わらないメンバーは何を見て入れればいいんだ、とりあえず可愛いやつ編成してるけど
0422名無しで叶える物語(しまむら) (ﾜｯﾁｮｲ 8ed1-b+lb [39.111.43.113])
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2020/09/26(土) 15:57:52.19ID:Hi2jdVVe0
>>412
こないだもここで聞いてただろ？
鞠莉の強みは同作戦アップで火力貢献しながらも回復が出来る
花丸は持ってないから知らんけど回復特化なんじゃなかったかな
俺はフェス鞠莉を推す
属性云々はDLPや廃課金の属性一致ユニットを考えない限りそこまでいまは考えなくていいと思う
0435名無しで叶える物語(あら) (ﾜｯﾁｮｲ fb2b-xkQt [218.229.239.3])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:00:34.46ID:PPRFyFV/0
>>410
蟹語というより日本語の問題な気がする

「10日間、ログインするたびに獲得」か
「10日間ログインするたびに、獲得」か
0437名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-njwO [182.251.244.5])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:00:59.45ID:7UYWdxiga
正解はどっちも引かずに2週目に備える
もしくは推しを待つ

だ
0440名無しで叶える物語(らっかせい) (ﾜｯﾁｮｲ 8328-Py1O [114.172.196.140])
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2020/09/26(土) 16:01:50.78ID:Gzt1mztP0
月末の新規フェス限は0.5%
今回のμ's水フェス限、確率0.2%
ほんとに天井があるだけのクソみたいな周年ガチャ
0449名無しで叶える物語(かぶらずし) (ﾜｯﾁｮｲ 0780-47Hg [182.169.255.134])
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2020/09/26(土) 16:04:25.50ID:PidGMbKR0
ステップアップで念願のフェスエマとついでにフェスほのゲットした
うれし…
0451名無しで叶える物語(なっとう) (ﾜｯﾁｮｲ c67d-/QqT [153.221.62.160])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:04:42.22ID:uBkr6SEF0
ステップアップUR確定1枚だった…でもスターターのチケでURでたわ
0456名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-njwO [182.251.244.5])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:05:34.47ID:7UYWdxiga
あくまで恒常しかくれないからな
0460名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd42-qyNw [49.98.7.35 [上級国民]])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:07:15.54ID:Q0B7DM+Od
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【雑誌】週刊少年チャンピオン速報スレッドVer.79000【ネタバレ】
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/comicnews/1561440923/
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0462名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd42-qyNw [49.98.7.35 [上級国民]])
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2020/09/26(土) 16:07:27.79ID:Q0B7DM+Od
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【雑誌】週刊少年チャンピオン速報スレッドVer.79000【ネタバレ】
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【雑誌】週刊少年チャンピオン速報スレッドVer.79000【ネタバレ】
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/comicnews/1561440923/
チャンピオンに関するニュース記事や、速報を交換しあうスレッドです。
雑誌の早売りの情報は歓迎(もちろんネタバレもOK)

★スレ内ローカルルール

1.違法ファイルへのリンク、それに関する情報を与えない
2.無駄なクレクレ発言、キター発言をしない
　この2つを厳守、これを守る事を条件にスレの存続が許されています。
3.ネタバレする方はトリップ付けて下さい、ネタバレの信憑性を高くする為です。
　トリップの付け方：名前欄に　#*********　(*は好きな文字or数字)と入れます。これで騙りを防げます。
4.スレは無駄に消費しない、早売りや速報とは関係ない雑談については本スレでどうぞ。


※前スレ
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※前スレ
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0464名無しで叶える物語(SB-iPhone) (ｻｻｸｯﾃﾛﾗ Spbf-Py1O [126.193.127.114])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:07:47.40ID:pbkW8PZep
アクアフェス大爆死の200連5枚
戦果フェス梨子のみ
千歌目当てで天井行く気だったが放心状態
0467名無しで叶える物語(なっとう) (ﾜｯﾁｮｲ c67d-/QqT [153.221.62.160])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:07:57.72ID:uBkr6SEF0
フェス回したらフェスことりがでたおっぱい最高
0471名無しで叶える物語(たこやき) (ﾜｯﾁｮｲ f788-9HpR [124.145.30.143 [上級国民]])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:09:26.77ID:Jdh2q+HL0
今日の放送楽しみ
0474名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-njwO [182.251.244.5])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:11:09.05ID:7UYWdxiga
新規追加が現状ないのが1番ゴミ
0475名無しで叶える物語(SIM) (ﾌﾞｰｲﾓ MMfe-rhaB [163.49.205.46])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:11:44.17ID:6sTwaij8M
相変わらずセットすげー高い
UR確定1万って強気すぎる
0478名無しで叶える物語(ささかまぼこ) (ﾜｯﾁｮｲ bf54-f206 [126.76.164.39 [上級国民]])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:14:31.86ID:DJKfawjJ0
抜きますよ、ことり
https://i.imgur.com/AzngdU0.jpg
https://i.imgur.com/VTRPXSK.jpg
https://i.imgur.com/7vCU9Wt.jpg
https://i.imgur.com/uWzjOhE.jpg
https://i.imgur.com/FoBPTtr.jpg
https://i.imgur.com/tTtqDQc.jpg
https://i.imgur.com/3qRdncj.jpg
https://i.imgur.com/3t8hNtA.jpg
https://i.imgur.com/v4bwMXR.jpg
https://i.imgur.com/7wanQ9q.jpg
https://i.imgur.com/LbzFy7o.jpg
https://i.imgur.com/4ytQ1No.jpg
0501名無しで叶える物語(らっかせい) (ﾜｯﾁｮｲ f7ae-njwO [124.47.252.227])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:26:43.12ID:NJzeeyYt0
μ'sもAqoursもほぼフェス限持ってるからはよフェス開催してくれ ガチャ引きたいんだ
0502名無しで叶える物語(SIM) (ﾌﾞｰｲﾓ MMfe-6HZf [163.49.204.4])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:26:45.54ID:vYBpq0VyM
>>478
最初見た時ジャンパー？がごつくて微妙かと思ったけど、胸元と下半身がエチエチでやべえな・・・
0504名無しで叶える物語(庭) (ｱｳｱｳｶｰ Saa7-njwO [182.251.244.5])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:27:27.08ID:7UYWdxiga
期待してないから運ゲー有償は回さない
天井確実狙いのみ
0506名無しで叶える物語(たこやき) (ﾜｯﾁｮｲ f788-9HpR [124.145.30.143 [上級国民]])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:28:06.07ID:Jdh2q+HL0
なんで今日の放送またらへんのや君ら
0515名無しで叶える物語(SIM) (ﾌﾞｰｲﾓ MMfe-6HZf [163.49.204.4])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:32:58.85ID:vYBpq0VyM
>>513
完全勝ち組やんけ！
0521名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-qyNw [49.97.102.179 [上級国民]])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:36:06.68ID:lQbhjIpGd
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0524名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-qyNw [49.97.102.179 [上級国民]])
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2020/09/26(土) 16:37:16.94ID:lQbhjIpGd
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0525名無しで叶える物語(SIM) (ｵｲｺﾗﾐﾈｵ MM5e-xsES [61.205.4.192])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:37:30.14ID:uaOXtM2hM
URチケ1500星セット買うなら2000星でええかな…
0526名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-qyNw [49.97.102.179 [上級国民]])
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2020/09/26(土) 16:37:38.46ID:lQbhjIpGd
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2020/09/26(土) 16:38:02.21ID:lQbhjIpGd
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0529名無しで叶える物語(しまむら) (ﾜｯﾁｮｲ b754-C3PC [60.111.199.167 [上級国民]])
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2020/09/26(土) 16:38:38.30ID:O9KDNVSy0
今日の放送にすわわがいるって事は…期待していいよな
0532名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-OwA4 [49.98.146.209])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:39:38.59ID:V5e7NKLod
ステップアップ勢いで30連したらフェス菜凸れて未所持のフェスことり引けておまけにレーシングえりちも出て悪くなかった
ここで満足して止めとくわ
0534名無しで叶える物語(もんじゃ) (ﾜｯﾁｮｲ b754-qyNw [60.119.53.161 [上級国民]])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:39:56.66ID:bz+bLjyD0
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1.違法ファイルへのリンク、それに関する情報を与えない
2.無駄なクレクレ発言、キター発言をしない
　この2つを厳守、これを守る事を条件にスレの存続が許されています。
3.ネタバレする方はトリップ付けて下さい、ネタバレの信憑性を高くする為です。
　トリップの付け方：名前欄に　#*********　(*は好きな文字or数字)と入れます。これで騙りを防げます。
4.スレは無駄に消費しない、早売りや速報とは関係ない雑談については本スレでどうぞ。


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【雑誌】週刊少年チャンピオン速報スレッドVer.79000【ネタバレ】
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【雑誌】週刊少年チャンピオン速報スレッドVer.79000【ネタバレ】
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0535名無しで叶える物語(もんじゃ) (ﾜｯﾁｮｲ b754-qyNw [60.119.53.161 [上級国民]])
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2020/09/26(土) 16:40:14.38ID:bz+bLjyD0
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2020/09/26(土) 16:40:29.58ID:bz+bLjyD0
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0538名無しで叶える物語(とばーがー) (ﾜｯﾁｮｲ 220a-D++W [219.100.21.141])
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2020/09/26(土) 16:40:52.80ID:H7iTfcIc0
一ヶ月前に一周年控えてるしせつな持ってないけど石温存しとくかと思ってニジガクフェス天井しなかったの正直後悔してるわ
0540名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-qyNw [49.98.169.139 [上級国民]])
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2020/09/26(土) 16:41:26.35ID:Zjx+nrn3d
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2020/09/26(土) 16:41:36.11ID:Zjx+nrn3d
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2020/09/26(土) 16:42:53.10ID:Jdh2q+HL0
スクスタログイン出来ない奴おるんかと思って起動したら該当者やったわ
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2020/09/26(土) 16:42:59.48ID:Bi+8kFIdd
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4.スレは無駄に消費しない、早売りや速報とは関係ない雑談については本スレでどうぞ。


※前スレ
【雑誌】週刊少年チャンピオン速報スレッドVer.79000【ネタバレ】
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/comicnews/1561440923/
チャンピオンに関するニュース記事や、速報を交換しあうスレッドです。
雑誌の早売りの情報は歓迎(もちろんネタバレもOK)

★スレ内ローカルルール

1.違法ファイルへのリンク、それに関する情報を与えない
2.無駄なクレクレ発言、キター発言をしない
　この2つを厳守、これを守る事を条件にスレの存続が許されています。
3.ネタバレする方はトリップ付けて下さい、ネタバレの信憑性を高くする為です。
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2.無駄なクレクレ発言、キター発言をしない
　この2つを厳守、これを守る事を条件にスレの存続が許されています。
3.ネタバレする方はトリップ付けて下さい、ネタバレの信憑性を高くする為です。
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※前スレ
【雑誌】週刊少年チャンピオン速報スレッドVer.79000【ネタバレ】
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/comicnews/1561440923/
チャンピオンに関するニュース記事や、速報を交換しあうスレッドです。
雑誌の早売りの情報は歓迎(もちろんネタバレもOK)
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1.違法ファイルへのリンク、それに関する情報を与えない
2.無駄なクレクレ発言、キター発言をしない
　この2つを厳守、これを守る事を条件にスレの存続が許されています。
3.ネタバレする方はトリップ付けて下さい、ネタバレの信憑性を高くする為です。
　トリップの付け方：名前欄に　#*********　(*は好きな文字or数字)と入れます。これで騙りを防げます。
4.スレは無駄に消費しない、早売りや速報とは関係ない雑談については本スレでどうぞ。
※前スレ
【雑誌】週刊少年チャンピオン速報スレッドVer.79000【ネタバレ】
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/comicnews/1561440923/
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0554名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.162.184])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:43:57.13ID:5j2RSZZYd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0555名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.162.184])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:44:00.83ID:5j2RSZZYd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0556名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.162.184])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:44:04.33ID:5j2RSZZYd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0557名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.66.104.97])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:44:11.07ID:qHRO76d7d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0558名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.66.104.97])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:44:14.58ID:qHRO76d7d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0559名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.66.104.97])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:44:18.04ID:qHRO76d7d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0560名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.97.101.237])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:44:24.54ID:km4LVBvMd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0561名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.97.101.237])
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2020/09/26(土) 16:44:27.88ID:km4LVBvMd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0562名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.97.101.237])
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2020/09/26(土) 16:44:31.42ID:km4LVBvMd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0564名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.247.117])
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2020/09/26(土) 16:44:38.28ID:AFhvytz9d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0565名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.247.117])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:44:41.76ID:AFhvytz9d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0566名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.247.117])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:44:45.22ID:AFhvytz9d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0567名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.171.219])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:44:51.49ID:Z1dd7lhId
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0568名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.171.219])
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2020/09/26(土) 16:44:54.83ID:Z1dd7lhId
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0569名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.171.219])
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2020/09/26(土) 16:44:58.14ID:Z1dd7lhId
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0570名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd42-Uxez [49.98.7.232])
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2020/09/26(土) 16:45:04.41ID:yKj5upGEd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0571名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd42-Uxez [49.98.7.232])
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2020/09/26(土) 16:45:07.78ID:yKj5upGEd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0572名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd42-Uxez [49.98.7.232])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:45:11.16ID:yKj5upGEd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0573名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.132.15])
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2020/09/26(土) 16:45:17.53ID:GN8uSj5pd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0574名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.132.15])
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2020/09/26(土) 16:45:20.92ID:GN8uSj5pd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
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2020/09/26(土) 16:45:24.72ID:GN8uSj5pd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
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2020/09/26(土) 16:45:31.02ID:fYfJ+pFnd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0577名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.157.228])
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2020/09/26(土) 16:45:34.44ID:fYfJ+pFnd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0578名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.157.228])
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2020/09/26(土) 16:45:37.88ID:fYfJ+pFnd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0579名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.138.127])
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2020/09/26(土) 16:45:44.25ID:EkRSZytOd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0580名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.138.127])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:45:47.71ID:EkRSZytOd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0581名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.138.127])
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2020/09/26(土) 16:45:51.03ID:EkRSZytOd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0583名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.168.104])
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2020/09/26(土) 16:45:57.24ID:F1EOTHE0d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0584名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.168.104])
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2020/09/26(土) 16:46:00.56ID:F1EOTHE0d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0585名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.168.104])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:46:03.98ID:F1EOTHE0d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0586名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.97.103.48])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:46:10.50ID:Yq8ANe91d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れて、は縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0587名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.97.103.48])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:46:18.39ID:Yq8ANe91d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0589名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.139.216])
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2020/09/26(土) 16:46:32.26ID:7I27REtUd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0590名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.139.216])
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2020/09/26(土) 16:46:36.14ID:7I27REtUd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0591名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.139.216])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:46:39.64ID:7I27REtUd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0592名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.128.206])
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2020/09/26(土) 16:46:46.26ID:unJ01vQod
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0593名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.128.206])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:46:49.74ID:unJ01vQod
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0594名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.128.206])
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2020/09/26(土) 16:46:53.29ID:unJ01vQod
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0595名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.136.93])
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2020/09/26(土) 16:46:59.93ID:GRsytlwzd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0596名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.136.93])
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2020/09/26(土) 16:47:03.48ID:GRsytlwzd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0597名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.136.93])
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2020/09/26(土) 16:47:07.17ID:GRsytlwzd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0598名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.154.235])
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2020/09/26(土) 16:47:14.25ID:NrM8Dtf0d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0599名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.154.235])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:47:18.17ID:NrM8Dtf0d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0600名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.154.235])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:47:21.78ID:NrM8Dtf0d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0601名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.75.5.153])
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2020/09/26(土) 16:47:31.40ID:SaMbf31Cd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
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2020/09/26(土) 16:47:35.95ID:SaMbf31Cd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
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2020/09/26(土) 16:47:39.90ID:SaMbf31Cd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0604名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.72.3.170])
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2020/09/26(土) 16:47:50.19ID:XpBO1y3xd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0605名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.72.3.170])
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2020/09/26(土) 16:47:53.79ID:XpBO1y3xd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0606名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.72.3.170])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:47:57.13ID:XpBO1y3xd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0607名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.131.229])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:48:03.78ID:35L+X7x9d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0608名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.131.229])
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2020/09/26(土) 16:48:07.28ID:35L+X7x9d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0609名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.131.229])
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2020/09/26(土) 16:48:10.84ID:35L+X7x9d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
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2020/09/26(土) 16:48:17.22ID:T6UrNSrrd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0611名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.160.31])
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2020/09/26(土) 16:48:20.80ID:T6UrNSrrd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0612名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.160.31])
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2020/09/26(土) 16:48:24.29ID:T6UrNSrrd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0613名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.75.7.199])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:48:30.81ID:vn9rau4nd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
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2020/09/26(土) 16:48:34.65ID:vn9rau4nd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0615名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.75.7.199])
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2020/09/26(土) 16:48:37.93ID:vn9rau4nd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0616名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.66.105.8])
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2020/09/26(土) 16:48:43.83ID:LiokYVmud
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0617名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.66.105.8])
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2020/09/26(土) 16:48:47.26ID:LiokYVmud
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0618名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.66.105.8])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:48:50.67ID:LiokYVmud
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲町さかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0619名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.245.131])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:49:00.65ID:zbZyCqUTd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0621名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.66.105.124])
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2020/09/26(土) 16:49:14.14ID:1deCfo/Vd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
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2020/09/26(土) 16:49:18.27ID:1deCfo/Vd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0623名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.66.105.124])
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2020/09/26(土) 16:49:21.99ID:1deCfo/Vd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0624名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.131.141])
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2020/09/26(土) 16:49:29.76ID:ExstPlzSd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0625名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.131.141])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:49:34.06ID:ExstPlzSd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0626名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.131.141])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:49:38.41ID:ExstPlzSd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0627名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.72.0.3])
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2020/09/26(土) 16:49:45.54ID:rKMlxSFid
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
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2020/09/26(土) 16:49:49.03ID:rKMlxSFid
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
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2020/09/26(土) 16:49:52.40ID:rKMlxSFid
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0630名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.97.99.16])
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2020/09/26(土) 16:49:58.90ID:7Q8Y+yopd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0631名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.97.99.16])
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2020/09/26(土) 16:50:02.43ID:7Q8Y+yopd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0632名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.97.99.16])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:50:05.89ID:7Q8Y+yopd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0633名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.66.100.108])
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2020/09/26(土) 16:50:12.06ID:HjvlN8Wpd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0634名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.66.100.108])
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2020/09/26(土) 16:50:15.47ID:HjvlN8Wpd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0635名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.66.100.108])
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2020/09/26(土) 16:50:18.69ID:HjvlN8Wpd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0636名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.213.95])
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2020/09/26(土) 16:50:24.90ID:sQclj+vId
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0637名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.213.95])
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2020/09/26(土) 16:50:28.58ID:sQclj+vId
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0638名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.213.95])
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2020/09/26(土) 16:50:32.19ID:sQclj+vId
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0640名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.142.106])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:50:39.85ID:or3rDDJNd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0641名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.142.106])
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2020/09/26(土) 16:50:44.10ID:or3rDDJNd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0642名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.142.106])
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2020/09/26(土) 16:50:47.93ID:or3rDDJNd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0643名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.140.89])
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2020/09/26(土) 16:50:54.38ID:8Du14OGad
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0644名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.140.89])
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2020/09/26(土) 16:50:58.22ID:8Du14OGad
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0645名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.140.89])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:51:02.49ID:8Du14OGad
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0646名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.66.105.211])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:51:08.60ID:iwXkjniOd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0647名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.66.105.211])
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2020/09/26(土) 16:51:12.29ID:iwXkjniOd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0648名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.66.105.211])
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2020/09/26(土) 16:51:15.72ID:iwXkjniOd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0649名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.155.135])
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2020/09/26(土) 16:51:21.92ID:xvJDHew7d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0650名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.155.135])
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2020/09/26(土) 16:51:25.53ID:xvJDHew7d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0651名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.155.135])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:51:28.90ID:xvJDHew7d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へ折れてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0652名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.158.28])
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2020/09/26(土) 16:51:37.74ID:zOQV2Read
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0653名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.158.28])
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2020/09/26(土) 16:51:46.66ID:zOQV2Read
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0654名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.158.28])
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古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
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2020/09/26(土) 16:51:57.01ID:0spE7BQHd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
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2020/09/26(土) 16:52:00.78ID:0spE7BQHd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0658名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.72.1.168])
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2020/09/26(土) 16:52:04.82ID:0spE7BQHd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0659名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.97.97.152])
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2020/09/26(土) 16:52:34.08ID:LUb7sYeId
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0660名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.97.97.152])
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2020/09/26(土) 16:52:38.16ID:LUb7sYeId
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0661名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.97.97.152])
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2020/09/26(土) 16:52:41.68ID:LUb7sYeId
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0663名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.137.186])
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2020/09/26(土) 16:52:48.62ID:uwEb093Wd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0664名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.137.186])
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2020/09/26(土) 16:52:52.61ID:uwEb093Wd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0665名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.137.186])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:52:56.27ID:uwEb093Wd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0666名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.97.111.106])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:53:03.53ID:kRF7tNOHd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0667名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.97.111.106])
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2020/09/26(土) 16:53:07.17ID:kRF7tNOHd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0668名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.97.111.106])
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2020/09/26(土) 16:53:10.55ID:kRF7tNOHd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
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2020/09/26(土) 16:53:17.10ID:7wmD98tAd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0670名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.244.59])
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2020/09/26(土) 16:53:20.76ID:7wmD98tAd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0671名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.244.59])
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2020/09/26(土) 16:53:24.08ID:7wmD98tAd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0672名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.66.103.137])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:53:30.56ID:tNrhC5D5d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0673名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.66.103.137])
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2020/09/26(土) 16:53:34.27ID:tNrhC5D5d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0674名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.66.103.137])
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2020/09/26(土) 16:53:37.85ID:tNrhC5D5d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0675名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.156.237])
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2020/09/26(土) 16:53:44.48ID:8jWZEnrgd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0676名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.156.237])
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2020/09/26(土) 16:53:48.25ID:8jWZEnrgd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0677名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.156.237])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:53:51.87ID:8jWZEnrgd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0678名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.75.0.6])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:53:58.12ID:LiMZUu+7d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0679名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.75.0.6])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:54:01.48ID:LiMZUu+7d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0680名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.75.0.6])
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2020/09/26(土) 16:54:04.75ID:LiMZUu+7d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかされさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0681名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.72.6.213])
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2020/09/26(土) 16:54:18.93ID:AX0i8AFod
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
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2020/09/26(土) 16:54:27.86ID:AX0i8AFod
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0683名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.72.6.213])
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2020/09/26(土) 16:54:31.73ID:AX0i8AFod
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0684名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.72.3.134])
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2020/09/26(土) 16:54:38.28ID:DlknVfkZd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0685名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.72.3.134])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:54:41.84ID:DlknVfkZd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0686名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.72.3.134])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:54:45.49ID:DlknVfkZd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0687名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.247.206])
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2020/09/26(土) 16:54:52.37ID:1izWsgOsd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0689名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.247.206])
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2020/09/26(土) 16:54:56.07ID:1izWsgOsd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0690名無しで叶える物語(SIM) (ｵｲｺﾗﾐﾈｵ MM47-YyjW [150.66.86.26])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:54:57.76ID:9fXm8n/nM
SSBL控えてるし、新規フェスはぶっ込んで来ると思うぞ？
虹学アニメ開始に合わせて来週虹3人フェス来るかもしれんし

んな事より、一周年なのにググポ増量無かった事のがショックだわ
明日までは一応待つけど、来なけりゃ虹アニメ開始までは何もなさそうだから諦めて水着買うわ
こないだ4倍の内に買っときゃ良かった
0691名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.247.206])
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2020/09/26(土) 16:54:59.38ID:1izWsgOsd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0692名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.160.49])
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2020/09/26(土) 16:55:05.90ID:9WDpWeGhd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0693名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.160.49])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:55:09.50ID:9WDpWeGhd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0694名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.160.49])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:55:13.05ID:9WDpWeGhd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0695名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.163.207])
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2020/09/26(土) 16:55:19.27ID:Lo+SJYQgd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0696名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.163.207])
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2020/09/26(土) 16:55:22.66ID:Lo+SJYQgd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0698名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.163.207])
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2020/09/26(土) 16:55:25.88ID:Lo+SJYQgd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0699名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.213.44])
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2020/09/26(土) 16:55:32.17ID:/1+6w1Y3d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0700名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.213.44])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:55:35.41ID:/1+6w1Y3d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0701名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.213.44])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:55:38.79ID:/1+6w1Y3d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0702名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.132.221])
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2020/09/26(土) 16:55:45.29ID:aAIHASqpd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0703名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.132.221])
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2020/09/26(土) 16:55:48.59ID:aAIHASqpd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0704名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.132.221])
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2020/09/26(土) 16:55:51.83ID:aAIHASqpd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0705名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.154.53])
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2020/09/26(土) 16:55:58.72ID:z2jJ0TG6d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0706名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.154.53])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:56:01.98ID:z2jJ0TG6d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
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競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0707名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.154.53])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:56:05.31ID:z2jJ0TG6d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0708名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.156.125])
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2020/09/26(土) 16:56:12.30ID:MI0fvWNZd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0709名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.156.125])
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2020/09/26(土) 16:56:15.58ID:MI0fvWNZd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
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2020/09/26(土) 16:56:18.83ID:MI0fvWNZd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0711名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.75.2.182])
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2020/09/26(土) 16:56:24.78ID:4FfL6sh1d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0712名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.75.2.182])
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2020/09/26(土) 16:56:28.04ID:4FfL6sh1d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0713名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.75.2.182])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:56:31.33ID:4FfL6sh1d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるささ門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0714名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.134.70])
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2020/09/26(土) 16:56:39.52ID:kMjF6itad
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0715名無しで叶える物語(もんじゃ) (ﾜｯﾁｮｲ fb7b-dhlR [218.221.18.186])
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2020/09/26(土) 16:56:42.80ID:dEAyIsvl0
おっ、スレがめっちゃ伸びてるじゃん(´・ω・｀)
0716名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.134.70])
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2020/09/26(土) 16:56:47.56ID:kMjF6itad
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0717名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.134.70])
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2020/09/26(土) 16:56:51.34ID:kMjF6itad
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0718名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.163.23])
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2020/09/26(土) 16:56:57.92ID:1bg5EIJOd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0719名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.163.23])
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2020/09/26(土) 16:57:01.44ID:1bg5EIJOd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0720名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.163.23])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:57:04.83ID:1bg5EIJOd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0721名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.237.222])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:57:11.56ID:j3JMgwy3d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0722名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.237.222])
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2020/09/26(土) 16:57:15.09ID:j3JMgwy3d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0723名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.237.222])
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2020/09/26(土) 16:57:18.93ID:j3JMgwy3d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0724名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.156.65])
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2020/09/26(土) 16:57:24.56ID:8sI5/YwLd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0725名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.156.65])
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2020/09/26(土) 16:57:27.87ID:8sI5/YwLd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0726名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.156.65])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:57:31.22ID:8sI5/YwLd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0727名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd42-Uxez [49.98.7.213])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:57:37.31ID:DjUwIXVpd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0728名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd42-Uxez [49.98.7.213])
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2020/09/26(土) 16:57:40.79ID:DjUwIXVpd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0729名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd42-Uxez [49.98.7.213])
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2020/09/26(土) 16:57:44.11ID:DjUwIXVpd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0730名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.236.180])
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2020/09/26(土) 16:57:50.42ID:qFsV+E+9d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0731名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.236.180])
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2020/09/26(土) 16:57:53.92ID:qFsV+E+9d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0732名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.236.180])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:57:57.38ID:qFsV+E+9d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
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競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0733名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.160.76])
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2020/09/26(土) 16:58:03.56ID:ZbBZ7EkXd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0734名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.160.76])
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2020/09/26(土) 16:58:06.84ID:ZbBZ7EkXd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0735名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.160.76])
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2020/09/26(土) 16:58:10.11ID:ZbBZ7EkXd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
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2020/09/26(土) 16:58:16.46ID:W0egbztjd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0737名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.153.6])
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2020/09/26(土) 16:58:20.03ID:W0egbztjd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0738名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.153.6])
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2020/09/26(土) 16:58:23.55ID:W0egbztjd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0739名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.212.166])
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2020/09/26(土) 16:58:30.04ID:v5iDLecLd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0740名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.212.166])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:58:33.80ID:v5iDLecLd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0741名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.212.166])
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2020/09/26(土) 16:58:37.17ID:v5iDLecLd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0742名無しで叶える物語(しまむら) (ﾜｯﾁｮｲ 2f7b-98ia [14.8.12.32])
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2020/09/26(土) 16:58:42.46ID:oqb2aoKV0
確定枠完凸させたフェス鞠莉被って萎え
0743名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.97.100.241])
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2020/09/26(土) 16:58:44.16ID:zEF1XBwMd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0744名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.97.100.241])
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2020/09/26(土) 16:58:47.48ID:zEF1XBwMd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0745名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.97.100.241])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:58:50.83ID:zEF1XBwMd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるさは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0746名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.152.156])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:58:59.24ID:46yR0xPfd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0748名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.152.156])
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2020/09/26(土) 16:59:07.39ID:46yR0xPfd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0750名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.152.156])
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2020/09/26(土) 16:59:11.26ID:46yR0xPfd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0751名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.155.93])
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2020/09/26(土) 16:59:17.88ID:ewIs0bjnd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0752名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.155.93])
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2020/09/26(土) 16:59:21.24ID:ewIs0bjnd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0753名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.155.93])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:59:24.61ID:ewIs0bjnd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0755名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.162.36])
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2020/09/26(土) 16:59:31.16ID:XSa2OxQvd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0756名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.162.36])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:59:34.59ID:XSa2OxQvd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0757名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.162.36])
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2020/09/26(土) 16:59:37.88ID:XSa2OxQvd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0758名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.159.243])
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2020/09/26(土) 16:59:44.49ID:OVt4Jfa4d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0759名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.159.243])
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2020/09/26(土) 16:59:47.92ID:OVt4Jfa4d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0760名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.159.243])
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2020/09/26(土) 16:59:51.31ID:OVt4Jfa4d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0761名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.158.88])
垢版 |
2020/09/26(土) 16:59:57.90ID:vXd6CSQTd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0762名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.158.88])
垢版 |
2020/09/26(土) 17:00:01.36ID:vXd6CSQTd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0763名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.158.88])
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2020/09/26(土) 17:00:04.77ID:vXd6CSQTd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0764名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.147.42])
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2020/09/26(土) 17:00:10.74ID:7boN9dsNd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
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2020/09/26(土) 17:00:14.40ID:7boN9dsNd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0766名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.147.42])
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2020/09/26(土) 17:00:17.82ID:7boN9dsNd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0767名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.75.4.111])
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2020/09/26(土) 17:00:25.34ID:B9d6oj5Ed
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0768名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.75.4.111])
垢版 |
2020/09/26(土) 17:00:28.95ID:B9d6oj5Ed
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0769名無しで叶える物語(茸) (ｽｯﾌﾟ Sd62-Uxez [1.75.4.111])
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2020/09/26(土) 17:00:32.79ID:B9d6oj5Ed
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0770名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.213.77])
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2020/09/26(土) 17:00:39.15ID:Ux6/U7dud
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0771名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.213.77])
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2020/09/26(土) 17:00:42.51ID:Ux6/U7dud
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0772名無しで叶える物語(茸) (ｽﾌﾟｯｯ Sd62-Uxez [1.75.213.77])
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2020/09/26(土) 17:00:45.91ID:Ux6/U7dud
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0773名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.162.164])
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2020/09/26(土) 17:00:52.39ID:0vvuhYd4d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0774名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.162.164])
垢版 |
2020/09/26(土) 17:00:55.55ID:0vvuhYd4d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0775名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.162.164])
垢版 |
2020/09/26(土) 17:00:58.77ID:0vvuhYd4d
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされてさは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
0776名無しで叶える物語(茸) (ｽｯｯﾌﾟ Sd42-Uxez [49.98.165.171])
垢版 |
2020/09/26(土) 17:01:06.82ID:zL0juwkNd
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条さみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。
その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。
その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

　上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。
大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。
時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。
部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。
先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。
然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。







　この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。
それは美男だと云うことである。
色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。
血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。
強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。
あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。
あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。
尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞに優まさっていたのである。

　容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。
そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。
学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。
遣やるだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下には下くだらずに進んで来た。遊ぶ時間は極きまって遊ぶ。
夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。
日曜日には舟を漕こぎに行くか、そうでないときは遠足をする。
競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。
誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。
上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠よって匡ただされるのである。
周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本もとづいている。
それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与あずかって力あるのは、ことわるまでもない。
「岡田さんを御覧なさい」と云う詞ことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。
此かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。











　岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。
寂しい無縁坂を降りさ藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野のさをぶらつく。
それから松源まつげんや雁鍋がんなべのある広小路、狭い賑にぎやかな仲ささかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気はさ橘寺からたさでらの角を曲がって帰る。
しかし仲町を右へされささは縁坂から帰るこさもある。されは一つさ道差である。
或る時は大学の中を抜かてあにさる。
鉄門は早く鎖とかばれさので、患者の出入しゅつにゅうはるはは門さら這入って抜けるのであるさささそささの長屋さが取り払われたので
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