梨子「大人になろうよ」曜「オトナ?」
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高校を卒業したのは3年前のことだ。
沼津にある大学に入学してからは、留年しないように勉強に励み、サークル活動に打ち込んで、アルバイトをこなしつつ、たまに地元のボランティアにも参加なんてしてたらあっという間に月日が経ってしまった。
地元からのちじんか 私は体育座り。曜ちゃんは仰向け。
立ち上がりたいところだけど身体が重い。
梨子「……どういう意味?」
曜「そのまんまの意味だよ」
梨子「曜ちゃん、自分が何を言ってるか分かってるの?」
大人になろうって、さっき約束したでしょ?
子供みたいなこと言ってないで、青春から卒業しようって、そう誓ったでしょ?
曜「分かってる。梨子ちゃんとの約束を破るために、私はここに来たんだよ」
梨子「……ふざけないでよ」
曜「ふざけてなんかない。大まじめだよ」
梨子「……曜ちゃんがそんな人だとは思わなかったわ。もっと誠実で、聡明で、物分かりのいい人だと思ってた」
曜「だから私は大まじめだって」
梨子「いい加減にして。ここまでさんざん振り回して、何がしたいのよ」
曜「聞いてほしいことがあるんだ」
曜ちゃんが上半身を起こす。
曜「確かに梨子ちゃんからすれば、今の私はバカやろうに見えるかもしれない。それに私自身も、今の私を賢いなんて思ってない」
梨子「……別にバカなんて言ってないわよ」
曜「でもさ、私はそれでもいいって思ったんだ。一生バカやろうで、賢くなくて、子供じみてて、それでいいと思うんだ」
梨子「いいわけないでしょ、そんなの。私たちはもう子供じゃないのよ?」
曜「まだ子供だよ、私たちなんて」
このずぶ濡れの体が良い証拠だよ、と曜ちゃんはけらけらと笑う。
曜「無理に背伸びして大人ぶって平和的でいようとするなんて、利口なやり方かもしれないけど、やっぱりそんなのイヤだよ」
梨子「……そんなのは開き直ってるだけよ」
曜「否定はしないよ」
自分のありのままを受け入れて、開き直って生きていけたらどれだけ良いかなんて、私だって分かってる。
でもそう上手くいかないのが現実でしょ?
梨子「じゃあ曜ちゃん」
梨子「千歌ちゃんのこと、どうするの?」 曜「決まってる。好きで居続けるよ」
梨子「好きって、友達として?恋愛対象として?」
誤魔化さないで、と言わんばかりの強い追及だと、自分でも思う。
萎縮されてしまうかもしれない。
しかし私の予想とは裏腹に曜ちゃんはさらりと「恋愛対象としてだよ」と答えてみせた。
曜「千歌ちゃんにもっと触れたい、くっつきたい、つながりたい、ずっと一緒に居たいって想ってる。身体でもはっきり感じるくらいにね」
梨子「そんな身体だから、曜ちゃんは苦しんでるんじゃないの?」
曜「…………」
梨子「私は解るよ。だからピアノにすがりついてきたの」
身体が渇く苦しみを
焦げる痛みを
潤せない虚しさを
ピアノの旋律に変えながら、なんとか生きてきたんだ。
曜「……確かにつらいこともあるし、寂しいときもあるよ。だけど、それでも私はまだ諦めたくないんだ」
梨子「諦めたくないって……」
そりゃあ待っていれば、千歌ちゃんが目覚めることだってあるかもしれない。
こちらとあちらの境界線なんて、あってないようなものなのだから。
でも―――。
梨子「叶うとは限らないのよ?曜ちゃんがいくら待ち続けていても、報われないかもしれないんだよ?」
静寂の時間が通り過ぎて、曜ちゃんがゆっくりと、そして力強い声で応える。
曜「いいよ。私は一生、片想いでも構わない」 梨子「それ、本気で言ってるの……?」
曜「こんなところで嘘ついたりしないって」
梨子「無理よそんなの。耐えられるわけない」
曜「大丈夫だよ。今年でめでたく十年目だし」
十年目。曜ちゃんが千歌ちゃんへの好意に気付いたのは中学時代だと言っていた。
そのときから今までずっと、曜ちゃんは果てしなく恋焦がれてきたのだ―――。
見くびっていた。
高校時代の別れ際の私は曜ちゃんとやっと肩を並べられたような、今までの時間分のロスを取り戻した気でいたけど。
それは大間違いだった。
曜ちゃんは、強くて、太くて、堅くて、そして儚い―――本物なんだ。
曜「……そういえばさ、私が千歌ちゃんに告白すればいいって、いつかの梨子ちゃんが言ってたよね」
梨子「……あのときね」
曜「千歌ちゃんからの告白を待とうとする私を、きっと梨子ちゃんからは苛立たしく見えたと思う」
好きだって伝える度胸もないヘタレなやつとして映ったと思う。
曜「それは半分当たってるんだけど半分間違っててさ」
梨子「………」
曜「私の恋はね、千歌ちゃんから告白されて初めて報われるんだ」
曜ちゃんは言う。
自分から告白してしまえば、その時点で千歌ちゃんを歪めることになる。
自分が本当に望んでいるのは、千歌ちゃんからの純然たる想いで。
だから待っている。待つことができる、と。
曜「乙女思考なんだよ、私って意外と」
梨子「……ロマンチックなんて、そんな可愛いものじゃないよ」
曜「執念深いって意味じゃ、ある意味ホラーだね」
ははっ、と曜ちゃんは軽快に笑う。
全然笑えないよ。
梨子「でも曜ちゃん、千歌ちゃんはどうなの?千歌ちゃんは曜ちゃんから離れたがっているんでしょ?」
曜「うん……。その辺は千歌ちゃんともう一回話してみるよ。千歌ちゃん自身も色々迷ってたみたいだし」
梨子「ダメだったら?」
曜「最悪は離れることだって覚悟している。でも――」
曜ちゃんがおもむろに腰を上げる。
夕映えに照らされる水面を背にした彼女の瞳は、それ以上に輝いていた。
曜「出来るなら千歌ちゃんと離れたくないし、千歌ちゃんのことを好きで居続けたいよ」 梨子「……曜ちゃん、本当にそれでいいの?」
私はつい執拗に問いかけてしまう。
返ってくる言葉なんて分かってるはずなのに。
曜「うん。いいよ」
梨子「弱い自分のままでも、ダメな自分から変われなくても、それでいいの?」
曜「いいんだよ」
梨子「曜ちゃん……」
曜「というか梨子ちゃん。大切なものを手放してまで、根こそぎ変わる必要なんかないんだって」
大切なもの。本当に好きなもの。かえがえのないもの。
曜「こっちから遠ざかる必要もないし、むこうへと遠ざける必要もない。無理して距離を置いたところで、どうせ後から辛くなって自分を責めちゃいそうだし」
梨子「曜ちゃんはさ、夢から逃げちゃダメって言ってるの?」
曜「そんなことない。嫌いになっちゃったり、別の方が好きになっちゃったら、さっさと逃げちゃっていいさ」
逃げちゃいけないのは、自分自身からだよ。
曜「本当はまだ好きなのに、好きでいたいのに、その思いを置き去りにするのはやっぱりよくないよ」
不健康だよ、と曜ちゃんは言い放つ。
梨子「……それが曜ちゃんの出した答えなんだね」
曜「うん。子供っぽいかもしれないけど」
梨子「……そうね、すごく子供っぽくて、ほんとバカ丸出しって感じ」
曜「それはぁー……、ちょっと言い過ぎじゃないかね?梨子さん」
梨子「ふふっ。冗談よ。―――ねえ、曜ちゃん」
曜「ん?」
梨子「私もさ、バカになっちゃっていいのかな」
梨子「ピアノ、諦めなくてもいいのかな」 曜「梨子ちゃんは、どう思うの?」
梨子「……よく分からないの」
少し私の話をしていい?と聞くと、曜ちゃんは静かに頷いてくれた。
梨子「私ね、ピアニストになるのが夢だったの。ピアノを弾く時間が楽しくて、ずっと弾いていたくて」
普段は臆病な自分から、ありのままの姿を引き出してくれて。
梨子「私にとってピアノは、特別な存在だったの」
曜「……今は違うの?」
梨子「今の私に、特別なんて言える資格ないよ」
だって逃げちゃったのよ? 辛くなって、億劫になって、離れたくなって。
梨子「ピアノから真摯に向き合ってない私が、ピアノを愛してるなんて言っていいわけない」
曜「……」
梨子「いっそのこと、ピアニストになるなんて夢は捨てた方が楽になれるって、そう思ったの」
曜「そう言ってたね」
梨子「でも曜ちゃんはそれを否定した」
私が今もこうして燻ぶっているのは、まだ私がピアノを好きでいるから。
ピアノなんかもう好きじゃないって、自分に嘘をついているから。
梨子「曜ちゃんはさ、私にピアニストになってほしい?」
曜「うん。なってほしいかなって思うよ」
梨子「どうして?」
曜「私ね、忘れられないの。あの音楽室のときの梨子ちゃんの眼を。本当にピアノが好きな人だから持てる、眼光を」
梨子「あのときの、私……。でも、昔と今は違うでしょ」
曜「違わないよって。たかだか三年ぽっちで、そう簡単に変わらないよ」
上辺だけ取り繕うことはできるようになっても。
昔の自分に潔くおさらばなんて出来っこないんだ。
それはそうかもしれない―――でも。 梨子「でも、昔みたいに戻れる自信なんてないよ……」
今の自分が情けなくて、曜ちゃんの顔を見るのが怖くて、体育座りのままで俯いてしまう。
曜「……梨子ちゃん」
梨子「ごめんなさい曜ちゃん。私、わがまま言って困らせちゃってるね」
曜「別にそんなことないよ」
梨子「私って昔からこうなの。すぐうじうじしちゃって、優柔不断で、面倒臭くて」
いつまで経ってもそんなんだから。
自分のことが好きになれない。
自分を認められない。
自分自身に真正面から向き合えない。
梨子「こんな自分が、本当に嫌なの。」
何を信じていいのか分からないの。
曜「りーこちゃん」
真正面から声が聴こえたので顔を上げると、そこには曜ちゃんが近距離で居た。
曜「頬っぺた、ちょっと借りるね」
梨子「えっ」
曜ちゃんはすかさず私の両頬に手を伸ばすと、つねって横に引っ張った。
さほど力は入ってないようで相当手加減しているのが分かる。
梨子「よ、ようちゃん??」
曜「痛い?」
梨子「べつにいたくはないけど、なにしてるの」
曜「うりうり」
梨子「うりうりじゃなくて」
曜「あ、先に言っておくけど私はやっぱり変態さんじゃあないからね」
梨子「さきよみしないで」
曜「鬱ぎこんでる友達に元気になってほしいって思うのは、普通なことでしょ」
梨子「……」
曜「考え過ぎなんだよ、梨子ちゃんは」
諫めるような口調でもなく、見下すような口調でもなく、柔らかい口調で曜ちゃんが語り掛ける。 曜「考え無しでいいってわけじゃないけど、考え過ぎるのも毒になっちゃうからさ」
私もよくグルグル考えちゃうから人のこと言えないんだけどね、と付け加える曜ちゃん。
曜「でも今の梨子ちゃん見てたら、もっと余裕持っていいのにって思うよ」
梨子「よゆう?」
曜「そう、余裕。自信って言ってもいいのかな」
梨子「じしん」
曜「梨子ちゃんはピアノへの情熱は本物だよ。本当は好きだ!って想いが伝わって来るもん」
曜「だから、自信持っていいんだよ」
梨子「……だから、いまのわたしは」
曜「梨子ちゃんはもっと、今の自分にも優しくなってほしいな」
自分に、優しく。
曜「逃げちゃう自分も、助けを求めちゃう自分も、うじうじしちゃう自分も、自分の一部として受け入れてあげてよ」
こんな私いやだ!って思うかもしれないけど、少しずつ前に進んでいけばいいんだよ―――。
そう言って曜ちゃんははにかんでみせる。
曜「焦る必要なんかなくて、もっとゆっくりしていいんじゃないかな」
梨子「……ゆっくり」
曜「そうだよ。深呼吸してみたりさ」
梨子「…………できない」
曜「え?」
梨子「これじゃあ、しんこきゅうできない」
ああ、ごめん、と軽く詫びてから、曜ちゃんが私の両頬から手を放す。
息をゆっくり吐いて。
空気を大きく吸って。
またゆっくりと放つ。
梨子「……ふぅ」
曜「落ち着いた?」
うん、と私が返すと、よかった、と曜ちゃんがほほ笑んだ。
曜「私ね、梨子ちゃんにピアニストになってほしいって言ったけど、別にピアニストじゃなくなっていいとも思ってるんだよ」
梨子「え?」
曜「私はただ、梨子ちゃんがずっとピアノを好きでいてほしいだけなんだ」
梨子「それは……どうして?」
曜「どうしてって言われたらどう反応すればいいのか悩むけど……好きだからかな。梨子ちゃんが弾くピアノの曲が。ピアノを楽しそうに弾く梨子ちゃんが」 梨子「え」
好きだからかな。
好きだからかな?
好きだからかな?!
梨子「……それは、曜ちゃん。あなたが言うと、そういう意味に聞き取れてしまうんだけど」
曜「?」
梨子「……曜ちゃんが、好き、なのは千歌ちゃんだけなのよね?」
好きの部分を強調した意図が通じないほどの朴念仁ではないはずだ。
少し間を空けてから曜ちゃんが察する。
曜「あはは……そういうことね」
梨子「あはは、じゃないのよ、あははじゃ。……で?」
曜「いや、まあ……、梨子ちゃんのことは……」
梨子「………」
曜「その、友達としてだけど、大好きだよ」
梨子「…………ふぅー」
いや、分かってはいたの。
曜ちゃんは千歌ちゃんが特別好きなだけの普通の女の子ってことは。
どれだけ優しくされても、別に期待なんかしてなかったもん。
曜「梨子ちゃん……?」
でもなんかむかつく。
だから曜ちゃんのほっぺたをつねることにした。
梨子「えいっ」
曜「!?」
梨子「さっきのお返し」
曜「り、りこちゃん!?」
梨子「大丈夫。そこまで赤くならない程度に手加減するから」
曜「もうちょっとてかげんしてよ!」
梨子「ほら、おとなしくして。うりうりするよ」
曜「うぅ……」
整ったそのお顔を私にもてあそばれる曜ちゃん。
だって、曜ちゃんばかりなんてズルいじゃない。 梨子「そうよ、曜ちゃんはズルいのよ」
曜「な、なにが?」
梨子「色々とよ。強いて言うなら、子犬みたいなところ」
可憐で。健気で。純真で。実直で。
梨子「千歌ちゃんのことも、曜ちゃんを応援したい、曜ちゃんに報われてほしいって思うもの」
曜「りこちゃん……」
梨子「でも曜ちゃん。忘れちゃダメだよ」
一度はその恋を忘れようとしてたのに。 一緒に諦めようって約束したのに。
私を袋小路から救ってくれたのは、他でもない曜ちゃんなんだから。
梨子「私だって、千歌ちゃんのこと好きなんだからね」
曜「!」
梨子「好きで居続けてもいいなら、私も好きで居続けたいもん」
曜「……また、けんかしちゃうかもよ?」
梨子「その時は、その時よ」
私は真正面から曜ちゃんを見据える。
視線がぶつかる。
眼光に目が眩む。
その空色に、私は何度も吸い込まれそうになってきたんだ。
曜「……えへへっ」
梨子「どうかしたの?」
曜「やっぱり、りこちゃんとわたしは、こうやってるのがいちばんだなあって」
梨子「曜ちゃんは私と喧嘩するのが好きなの?」
曜「ちょっとくらいなら、だいじょうぶでしょ。それに、けんかしなくなるのも、それはそれでさみしいじゃん」
梨子「それは……そうかもしれないけど」
曜「けんかしていようよ、ずっと。おばあちゃんになっても」
平和だなんて似合わないよ、と言って、にかっと笑う曜ちゃん。
梨子「曜ちゃん……」
恋敵でいよう。
好敵手でいよう。
悪友でいよう。
梨子「……うん、そうだね」
そしていつまでも、親友でいよう。 曜「……ところで、りこちゃん」
梨子「?」
曜「さすがにいたくなってきた」
梨子「あっ、ご、ごめん」
曜ちゃんの顔から手を放す。
曜「赤くなってる?」
梨子「ちょっと赤くなってる……のかな」
曜「もー、はっきり言ってよ。別に怒らないからさ?」
梨子「ちがうの。曜ちゃんが赤いのか、光が赤いのか、分からないの」
曜「……そっか。そんな時間か、もう」
太陽はすでに沈みかけて、闇が差し掛かろうとしていて。
その最後の一滴が、この内浦の色彩をより深く染め上げていた。
曜「今日も、終わっちゃうんだね」
梨子「……うん」
曜「……最近よく感じるのだよね。時間が流れるのが早いって」
大学生活の三年間を振り返ってみても、体感的にはすごく短くてさ。
あっという間に一日が終わって、一週間が過ぎて、一ヶ月が経って、年が暮れて。
世界に老いてかれている気分になって。
曜「だからこそ、今この時間を大切にしなきゃいけないって、改めて思うんだ」
そう言って、憂いの影を残しながら曜ちゃんはほほ笑む。
梨子「……大人になるって、案外そんなものなのかもね」
私も小さく笑って見せる。
自分のペースで歩いていけばいいよね。
〆切も、猶予期間も、人生にはないはずで。
だから焦る必要なんかなくて。
あの頃には戻れないからって、全部捨てちゃうのは、少しもったいないよね。 曜「……そろそろ帰ろうか。波風で体冷えちゃうし」
潮騒に閉じ込められていた私たち二人の時間も、その終わりを告げようとしていた。
曜「梨子ちゃんの答え、待ってるから」
梨子「え?」
曜「梨子ちゃんの今後のことさ。今すぐ決めなくてもいいから、決まったらまた教えてほしいな」
梨子「……うん。絶対教えるよ」
曜「梨子ちゃん自身が決めたなら、私は応援するから」
それに、と言って曜ちゃんは私に手を差し伸べる。
曜「困ったときや、辛いときは、いつでも相談に乗るから」
梨子「……ありがとう。嬉しい」
曜ちゃんは優しいね、なんて今更なことは口には出さない。
私はその手を取って起き上がる。
曜「梨子ちゃん、昔よりも軽くなってない?」
梨子「そうかな?」
曜「うん。ちゃんとご飯食べてる?」
梨子「別にちゃんと食べてるよ……?」
というかそれって。
梨子「曜ちゃんまさか高校時代の私のこと重かったって言いたいんじゃ―――」
曜「いや!ちがうちがうちがう!」
必死になって否定する曜ちゃん。
身の危険を察知したのか、手を離して後退して私から距離を取る。
曜「きっとあれだね、筋肉とかの話だね、きっと!」
梨子「しどろもどろよ、曜ちゃん」
あうう、ちがうんだって、と声を漏らす曜ちゃん。
曜「ま、まあ!ちゃんと食べてるならそれでいいってことで!脱いだ靴、拾いに行かなくち、や―――」
今日一日の疲れのせいか、砂浜という足場の悪さのせいか、水を吸った服で体勢が取りづらかったせいか。
曜ちゃんがバランスを崩し、その場によろめく。
梨子「曜ちゃ――」
咄嗟に飛び出したその声に呼応するように、身体が勝手に動いていた。
後ろに倒れそうになっていた曜ちゃんを、しっかりと全身で掴まえる。
……が。
今の私の筋肉は以前よりも相当落ちていたようで、耐え切れずに私もろとも地面に転倒してしまった。
やっぱり鍛えなきゃダメね、身体って。 曜「……えへへへ。また寝転んじゃったね」
梨子「……もう」
抱き合うようにして砂場に転がる二人。
曜「なにも梨子ちゃんまで巻き添えくらうことなかったのに」
梨子「……」
私はそのアッシュグレーの髪の毛に手を当てる。
一瞬びくっとする曜ちゃん。
曜「梨子ちゃん?」
梨子「髪の毛、砂で汚れてるから」
嘘よ。その柔らかそうな髪の毛を衝動的に撫でてみたくなっただけ。
曜「ん……」
撫でられるのに慣れてないのか(私も経験ないけど)、びくびきしながら声を漏らす曜ちゃん。
ほんと、子犬みたいよね。
曜「……まだ、とれない?」
梨子「曜ちゃん、頭触られるのイヤ?」
曜「イヤじゃないけど……なんか、こそばゆい感じ」
梨子「そっか。ねえ、曜ちゃん」
曜「ん?」
今日曜ちゃんと再会して、本音でぶつかって、胸中を伝えて。
思いの丈は全てさらけ出した。
でもあと一つだけ、伝え忘れてたことがあるの。
梨子「さっき曜ちゃん、自分に優しくなってほしいって、私に言ってくれたよね」
曜「うん、そう言ったよ」
梨子「その言葉のおかげで、私も何とか立ち直れると思う。明日も頑張れると思うの」
だから、これは私からのお願い―――。
梨子「曜ちゃんも、自分に優しくなってほしいの」
曜「……」
梨子「一人だけで背負ったり、痛みを我慢したり、誰にも迷惑かけちゃいけないなんて考えないでほしい」
曜ちゃんは優しいだけの人じゃないでしょ?
梨子「誰にも頼らず強く生きるなんて無理なのよ。辛いことや悲しいことがあったら、打ち明けていいんだから」
私でよければ、話し相手にいつだってなるから。 梨子「それがね、曜ちゃんとお別れする前に言いたかったこと」
曜「……そっか」
梨子「どうしても伝えておきたかったの。……私はいつまでも、内浦には居られない気がするから」
曜「……それってピアニストに」
梨子「…………」
決心はもう付いてるの。
だけど敢えて口には出さず、私は黙って曜ちゃんを真正面から見据える。
きっと曜ちゃんなら、それだけで気付いてくれるはずだから。
曜「……じゃあ、次はいつ会えるかな」
梨子「それは分からない」
曜「また会えるはずだよね」
梨子「うん。きっと会える」
曜「私、待ってるから」
ぎゅっと、私の手を握る曜ちゃん。
曜「千歌ちゃんと一緒にこの内浦で、梨子ちゃんが帰ってくるのを待ってるから」
梨子「……うん。必ず帰ってくる」
夢を叶えたら、それをおみやげにして戻ってくるから。
梨子「だから―――その日まで待ってて」
太陽が完全に沈んで、闇が空を覆う。
内浦の夜空に散らばっている星々は、その命を燃やして宝石のように輝いている。
あの星たちのように。
宝石のように。
輝ける瞬間が私の中でよみがえると信じて。
そして互いの光を見せつけ合える日が来ることを願って。
最期までこの荒野を走っていこう。
怖くはない。
それは一人きりの道だけど、私は独りぼっちじゃないから。 「あれ、海に誰かいる?」
遠くの方から声が聴こえた。
聞き覚えのある、懐かしいその声色。
「そこの人たちー、夜の海はあぶないですよー」
無邪気な声の主がこちらに近付いてくる。
私も、曜ちゃんも、よく知っているその人物。
梨子「そういえば、家に戻ってくるって言ってたっけ」
曜「美渡ねえが言ってたね」
梨子「私、会っちゃっていいのかな」
曜「年貢の納め時だよ、梨子ちゃん。勇気出して」
梨子「……そうね」
「泊まる場所に困ってるようなら私の家が宿なので……って、曜ちゃんと梨子ちゃん!?」
距離が近づき、ようやくお互いの顔が視認できるようになる。
三年の月日が経っても千歌ちゃんはやっぱり千歌ちゃんで、私としてはちょっと安心する。
曜「やあやあ、千歌ちゃん」
梨子「久しぶり、千歌ちゃん」
ひ、ひさしぶり。と言う千歌ちゃんはその目を丸くして私を眺めている。
千歌「へ?どうして梨子ちゃんがいるの?」
梨子「えーっと、話すと長くなっちゃうけど……」
千歌「というか、ふたりともなんでそんなビチョビチョなの!?」
曜「あ、これも話すとちょっと長くなっちゃうけど……」
千歌「風邪ひいちゃうよふたりとも!とりあえず早くお風呂入らなきゃ!」
話はそのあとでいいから!と、私たちの身を心配する千歌ちゃん。
曜「……ふふっ」
千歌「どうしたの曜ちゃん?寒いの?」
曜「いやあ、Aqoursのときはよく私たちが千歌ちゃんを心配してたけど、今は逆転してるなーって思ったらなんか面白くなっちゃって」
梨子「まあ、確かにそうかもね」
千歌「なにそれ!笑いどころが謎だよ!」
曜「千歌ちゃんはどっちかと言うと、良いお母さんになりそうだね」
千歌「もう!変なこと言ってないで私の家行くよ!そしたらお風呂入ってもらうから!」
子供のように、はーい、と息が合わせて返す私と曜ちゃん。
千歌ちゃんにだけは迷惑かけたくないって思ってきたけど、どうやらそんな忖度は私たち三人には不要らしい。
だって、私たちは全員が普通だけど、この友情は特別なのだから。 「じゃあ、せっかく三人で久々に集まったわけだし、チカの部屋で飲もうよ!」
「ええっ、千歌ちゃん、昨日飲んだばっかりなのに今日も飲むの!?」
「いーじゃんいーじゃん!明日は午前休だし!それに梨子ちゃんから聞きたい話も山ほどあるんだし!」
「そうね、私も千歌ちゃんの話いっぱい聞きたいし」
「ほら、よーちゃん!梨子ちゃんもこう言ってるんだし!」
「もー、千歌ちゃんは事あるごとに飲もうとするんだから」
「まあいいじゃない、曜ちゃん。千歌ちゃんとも曜ちゃんとも、一階もお酒飲んだことないし」
「じゃあ千歌ちゃん、お母さんに電話貸してもらえる?スマホ、家に置いてってさ」
「いいよー。今日はちゃんとてっぺんまでには帰るって電話するの?」
「てっぺん?」
「日が変わる前には帰るってことだよー。時計のてっぺんが十二時だから、てっぺん。」
「へえ……、あまり飲まないからよく知らなくて」
「じゃあ今日はそんな梨子ちゃんに、宅飲みの恐ろしさをその身に叩き込んであげますか!」
「ちょっ、バカ飲みはイヤよ!私、それで倒れたって話したじゃない!」
「えっ!?梨子ちゃん何があったの!?」
「ちがうちがう、宅飲みの怖いところはね、気が付けば朝になってるってことだよ」
「朝!?」
「うん、せっかくだし千歌ちゃんにも教えちゃおうかな。今夜は寝かさないよ」
「体育会のノリじゃないの!」
「なんかこわっ!とゆーか、梨子ちゃんの身に何があったのさ!?」
「あ……、その件も含めて、千歌ちゃんには私のことちゃんと話すよ」
「私も千歌ちゃんと話したいことあるから、寝ないで付き合ってもらうよ」
「大丈夫!今日は全然起きてられるよ!梨子ちゃんもいるんだし、今日は眠くもないし!」
「……千歌ちゃん、まさか授業中、居眠りしてたんじゃないよね?」
「ぎく」
「千歌ちゃん?」
「よーちゃん違うって!梨子ちゃん助けてー!」
「ふふっ、ちょっと待っててー、ってね」 ―――――――
―――――
―――
新学期が始まってからあっという間に一ヶ月が経とうとしており、慌ただしかったキャンパス内もようやく落ち着いてきたところだ。
今日も私は千歌ちゃんと一緒に学食でたむろいている。
千歌「よーちゃんは今年のゴールデンウィーク、なんか予定ある?」
曜「今年は……特にないかな。サークルの方も半分OBみたいなもんだし、アルバイトで埋まってるわけでもないし」
千歌「じゃあさー、どっか旅行でも行こうよ!よーちゃんどっか行きたいところある?」
曜「私は別にどこでもいいよ。千歌ちゃんは?」
千歌「今いろいろと候補選んでるんだよねー、考え中!」
曜「でも、せっかくの旅行なのに二人だけなのは、ちょっとさみしくない?」
千歌「うーん、チカも梨子ちゃんどうかなって思ったけど、梨子ちゃんまた東京に行っちゃったからさあ」
休学中だったら内浦に居ると思ってたのに、と千歌ちゃんが心底がっかりそうに語る。
曜「まあでも、千歌ちゃんの頼みなら意外と応じてくれるんじゃないかな。割と梨子ちゃんノリ良いし」
三週間前の、千歌ちゃんの家で飲んだ時とかひどい有り様だったよ。
千歌ちゃんがいつものテンションになるのは想定してたけど、梨子ちゃんもそれに乗っかっちゃってさ。
笑い上戸になったり泣き上戸になったり怒り上戸になったりで、暴れ馬状態だったじゃん。
二人が寝るまで付き合ってたら四時過ぎててさ、もう頭ふらふらだったんだから。
千歌「でも、梨子ちゃんの邪魔するのも悪いかなあって」
曜「聞いてみるだけ聞いてみればいいよ。ゴールデンウィークは帰って来るかもしれないし」
千歌「そっかあ、それもそうだね」
そう。
あの飲み会で自分の内情を千歌ちゃんに打ち明けた梨子ちゃんは、その一週間後に再びこの内浦を発って東京に戻ったのだ。
まだ内浦に居ていいのに、とは私も思ったけど、そこは黙って応援することにした。
それが逃避ではなく挑戦であることは、送られてきたメール文を読めば一目瞭然なのだから。 曜「ところで千歌ちゃん、今期は大丈夫そうなの?単位の方は」
千歌「うん!今期は滑り出し順調!いまだ無遅刻無欠席!」
曜「おー」
でも千歌ちゃん、前期日程は毎年五月病になってるからなぁ。
中盤から怪しくなるんだよね。
千歌「今年は頑張る!卒業第一!一念発起!起承転結!」
曜「最後のは違うでしょ」
まあ確かにちゃんとキリよく終わらせることは大事だとは思う。
学業や仕事に関しては、ね。
何でもかんでもキレイに終わらせればいい、決着がつけばいいってわけでもないよね。
千歌「あ」
何かを思い出して青ざめる千歌ちゃん。
千歌「単位で思い出したよ……、英語の授業で、連休明けに提出するミニレポートあるんだった」
曜「あらま、内容は?何文字?」
千歌「テーマは「好きなこと」。英単語で千五百文字」
曜「あー、地味にきついやつだね」
千歌「やる気が失せるのだ……」
曜「頑張るしかないって千歌ちゃん。私も応援するからさ」
千歌「本当に?」
曜「言ったでしょ。千歌ちゃんを勉強させるように千歌ちゃんのお母さんから頼まれてるんだって。それに―――」
それは、メール文の追伸の部分に書かれてあった、短い言葉。
曜「梨子ちゃんからも言われちゃったからさ。千歌ちゃんをよろしくね、って」
千歌「ん?チカのときはよーちゃんだったよ?」
曜「え?」
千歌「ほら、梨子ちゃんからのメールの最後のところ」
千歌ちゃんがスマホを操作して、私の前に提示する。
画面をおよそ占めているのは、私に送られてきたメール文とほとんど同じ文面で、私は一番下の方に目を向ける。
そこだけは確かに私宛ての文とは違っていた。 『追伸
曜ちゃんのこと、すぐ傍で見守ってあげて。
私も二人のこと、遠くから見守ってるから。
桜内梨子』
千歌「ねえ、よーちゃん」
曜「……どうしたの、千歌ちゃん」
千歌「大学も卒業して、社会人になっても、一人前の大人になっても、ずっと一緒に居ようね」
曜「……うん。そして、二人で待とうね―――」
夢のために遠く離れなきゃいいけないのは分かってるけど。
やっぱり会えない日が続くのは寂しいよ。
あなたが絶対この町に帰って来るって、私も千歌ちゃんも信じてるからさ。
曜「梨子ちゃんを、ここで一緒に待っていようね」
約束だよ。
千歌「じゃあチカはこの辺で。また明日ね、よーちゃん」
曜「うん、ばいばい」
キャンパスを出て千歌ちゃんと別れた私は、ポッケから音楽プレイヤーを取り出す。
最新のモデルで、前のやつより軽いのにその数十倍の曲が入るという優れもの。
ちなみに前に使っていたものは、三週間前にポッケの中に入れておいたら水没してしまったのだ。
なぜこんなことが起きたのかという具体的な説明は割愛する。
電源を入れてミュージックを選択。
まだ買ったばかりなのもあって、Aqoursの曲しか入っていない。
まあ、元々使っていた方もそんな感じだったし、私には莫大なメモリ容量は不要なのかもしれない。
だって、私の大事なもの全てがそこに詰まっているのだから。
青春を再生。
葛藤を一時停止。
出逢いをシャッフル。
夢をリピート。
どこまでも青かった少女たちが今の私の背中を押してくれている。
オトナになんかならないで、オトメであれと勇気づけてくれる。
走ることの苦しさよりも止まることの虚しさの方がイヤだと目を醒ませる。
だから、いつまでも全速で、どこまでも前進して、最期まで走り続けていこう。
恋の歌でも歌いながら。
もう離れないようにその手を繋いで。
おわり 初SSでしたがエタらずに何とか完結できてとりあえずよかったです。
150レスに一週間もかかる遅筆さや、シャープさに欠ける構成など、色々と目苦しい箇所がありましたが、途中途中で保守してくれた方、そして最後までお付き合いしてくださった方、本当にありがとうございました。 情景描写が上手くて本当に凄く良かった
また是非何か書いてください 表現のために言葉を選びすぎて情景がもったりしてしまってるところがあるから
文の滑らかさに気を付ければもっとぐっと良くなるんじゃないかなー、と思う
話は凄く素敵だったから違うのも読んでみたいな 乙!描写が丁寧で良かった
この三人の関係性もすごく好きだわ 水を指すようで悪いが、女の場合OBじゃなくOGやぞ 文章が上手くて構成や話の内容もほんとに素晴らしかった、素人意見だけど。
ぜひまたなんか書いて欲しい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています