【アジール】なんJ哲学・現代思想部 2レッスン目
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倫理・宗教・心理学・キリスト教・禅・中国思想・仏教インド哲学・政治哲学・リベラリズム・歴史・社会学・ポストモダン・言語学……等をテーマに広く深く語るスレ
個人的な悩みから社会問題まで幅広く誰でも受け入れる現代駆け込み寺です。 いろんな書を調べてるとここがよく出てくる
本の紹介サイト
https://1000ya.isis.ne.jp/ これだけはとりあえず読んでおけ本は、アリストテレス『ニコマコス倫理学』だな
大学生になったら読むべき一冊 宗教とか瞑想にも興味あるんよな
理解を深めたい
カルトにはまらないための対抗策でもある 100分で名著とかいう番組とテキストが地味に有能だよな 『寝ながら学べる構造主義』
近代に対して批判し続けたマルクスニーチェフロイトから構造主義が流行るまでの思想の流れがざっとわかる
思想のコペルニクス的転回的なものをうまく書いてて面白かった カミュ『シーシュポスの神話』は途中で投げっぱなし
文章はかっこええんやけどなあ 仏教系はさらに難しい
鈴木大拙『禅』とか
シンプルなことが一番難しいんだよ
NHKテキストとかから読み勧めていくべきだな 井筒俊彦の意識と本質がええよ
仏教やらカバラやら神秘思想のパターンを解説してくれる
哲学も思考パターンが神秘思想と被ってるので哲学書も読みやすくなる
フィクション例えばアキラエヴァサムライ8などの読解にも役立つで >>13
井筒はかなり難しいイメージやな
東洋思想にイスラームも入ってくるしそのうち読みたいけどね 禅と日本文化の新訳が出てるがこれはすごいな
完訳だし >>10
要は我々は我々が思ってるほど主体的に行動したり話したりしてるわけではないってことやな
寝言でも起きて話しててもある意味では同じことなんや
その点仏教は基本的に主体性を認めてないのでだからこそ重要 だから人間は流行りに敏感になったりアフィカスの対立煽りに踊らされてしまう
でもそういうのを人間の本性だからと放っておくとカルトが政権とったり炎上化で人が死んでしまったりするから厄介なんやな 人は主体性を後天的にしか持つことができないんやろな 知ることが難しいのではない。知ったことを実行することが難しいのだ。
司馬遷 釈迦のいう涅槃って永遠の安らぎのことだけどこれつまり死(自殺)のことよな
仏教を突き詰めると死に至る そうかな?
この世が苦しみに満ちているのなら死は救済となるのでは? ただ、自殺では輪廻から解脱できんのよな
下手すると地獄や餓鬼、畜生になる可能性がある ブッダは死ぬ前に悟りを得たのだから、生きてても涅槃に到達できる(有余涅槃)
死んだあとの方が生理的欲求がないから完全な涅槃といえるかもしれないけど、まあどっちも涅槃やね 知らんまに次スレ立ってたんやな
てかなんuでもスレ落ちることあんねな >>27
まあ釈迦の偉いところは生きてる間に真理に達したところやな
しかもその後の生涯を他人に伝えるために費やした
我々には想像つかない景色をみてたのだろう スピリチュアルの駄目なところは決定論、運命論に行き着いてしまうことにある
これは結局のところ人間の努力を放棄してしまうことになるからな
自分の行く末をすべて他のものに委ねてしまうことたしかにそれ自体は宗教的行為かもしれないがこういう姿勢でいるとカルトとかよくわからないセミナーにハマってしまう可能性が高い そういうのにハマる人の特徴は「自分の頭では考えたくない」というのが根底にある場合が多い
どうしたら失敗しないか自分で判断せずに楽をしたいのですべての選択を他人に任せてしまう
そのうち他人のものさしで物事を判断し始め物事を評価するのに他人の下した評価をそのままなぞるように真似しだす
特に断定的な言い方に弱い 決定論て不思議と努力を放棄する方向へ使われるよな
「どうせ不幸になるから努力しません」
「どうあれ救われるので努力しません」 >>33
得ることは後天的な学習
失うことの恐れは先天的だからでは?
努力が確実に報われると担保された社会では努力をするんじゃないかな
なろう系ってのはそれをテーマにした作品が多い
レベル制、熟練度制は最たるものかと 価値相対主義で許容性がある人に出会ったことないのは俺だけ?
相手に許容を求めるが、相手の教養、主義、主張は認めないって人にしか出会ってない 最近
哲学史や哲学の本を読み始めたが、チンプンカンプンなんだが?
わざとこんなわかりづらく書いてんの?
なんか同じ文章、同じ本で一つの単語を多義的に使ってる??
小林秀雄読んだ時みたい。
俺が文盲なのか? といってもオカルト的なものを完全に否定はしないけど 哲学とか宗教は普通のことをいかに難しく書く(言う)かという伝統みたいなものがある
日常から乖離した言葉を使うべきって言うような哲学者もいるし
お経も難解で分からないからこそありがたいみたいな価値観があるよね >>34
逆に言うと
努力量と成果がほとんど直線的に比例するような訓練とか行動は精神的に良いというのは分かる気がするな
語学の学習とかやればやった分だけ伸びるし筋トレの良い点もそれ
楽器もそういう要素があるけど音楽は才能が必要やから微妙なところだな
我々は見返りを求めないような努力をすることができるだろうか?
たぶんそれは主観的には努力だと思ってない種類のものなんだろうな
習慣 >>39
布団の中でトイレを我慢する努力は見返りが無い
見返りが無いのに我慢し続ける
それは努力と呼ぶにはどうかとは思う
努力に原因を求めるのは分かりやすいからで
実際の所、感情より理性を優先できるかどうかって話かと
努力を努力と思ってないのは抵抗感が少ないか
理性が優勢ってだけなんじゃないかな >>38
人間ってのは間違ってるのを正したくなる生き物
一方で、間違いを正されるのを嫌う人もいる
女犯、殺人、なんでもアリの浄土真宗でさえ
密教として、間違いを指摘する事だけは固く禁じている
論文や科学的エビデンスなど、反証主義に沿ったものがある一方
反証を避けるために書かれた書物も非常に多い
そういった書物を残した哲学者がフルボッコされ
ボコった側が評価された結果、反証側の資料として、解りにくい愚書が残ってる なんか存在、実在、本質って言葉を多用するけど、全部定義あやふやじゃない?
例えば存在って言葉を、概念上に存在することも含めたり、含めないで物質として存在することとして使ったりしてない?同じ文章や本で。
言葉の定義があやふやな文章は支離滅裂になって相手に伝わらないでしょ
哲学書って全部こんな感じなの?そうじゃない作者か本を教えてください。 国語辞典も似たようなものだけどね
正しい意味、定義が書かれてる訳じゃない
正しくなくても正しいと思ってる人が多い解釈が書かれてるのが国語辞典
分からない単語の意味を調べるのが国語辞典だと思ってる人が多いから
国語辞典では国語辞典について正しく言及できない
悲劇を通り越して喜劇 言葉の意味なんて言ってる人によっても違うし
同じ人でも言ってる時期によって違う
それどころか、後になってから過去の発言の解釈が変わったりする
LGBTなんていい例だよね
今、LGBTの意味を語ると社会的に抹殺されちゃうからね >>42
具体的に誰のどの文章がそうなのか知らないけど
その辺の言葉は形而上学者ならそれなりに注意して使うと思う
少なくともある程度は限定して使っているはずで、ほとんどの場合では逆に限定しすぎない使い方をしているという方が適切かも
限定し過ぎない使い方をするのはその詳細な定義を云々することが論旨から離れるからとか、ある程度開けた定義にしておくことで組み入れられる学説のバラエティを増やすためとか、色々理由はあると思うんだけど
概念のもっとも適切な定式化それ自体が哲学的に重要な論点なんだって事情もあって
言葉の意味をかっちり決めるっていうのは(哲学者的にはやりたいことなんだけど)そう易々とできるものではない
そこで論じられているトピックとの関連性に合わせてあるていどゆるく使うひとも多いんじゃないかな 存在と本質に関していうと
存在は議論領域に含まれているかどうか、本質は対象が任意の可能世界でもっている性質っていう理解がわりとスタンダードだと思う >>46
存在の説明がよくわかりません。
本質は議論している世界(概念上とか物質とか)での性質ってこと? >>47
一応、20世紀以降の形而上学は命題を述語論理の言葉でフォーマライズしていて、一連の命題が真である場合に世界はどのようなものであるべきか、どのようなモデルが考えられるかっていうのを念頭においてやってる
存在という概念の1つの簡易的な理解としては、モデルを考えるときに変項の取りうる範囲として指定したもの(に含まれているもの)、あるいは整合的な世界像を組み立てるときに個体として分類されているものが「存在する」ものだっていうアイデアがある
それとは別に「特定の可能世界に存在している」っていう意味での存在概念もあって、それは(世界以外の)個体と世界との関係として理解されていたりする 補足すると、可能世界っていうのは現実世界と現実でない世界とを含むありうる世界を指すオカルトチックな概念で
これを使うと必然性と可能性とか本質とか共外延の語の意味の区別とかを統一的に形を与えて考えることができるから重用されてる
現実世界とは別の世界っていう経験できないものを議論に組み入れてしまうのはずいぶんラディカルなムーブで、それを忌避するクワイン主義のひとなんかは可能世界っていう枠組みは取らないと思うから、先にあげた2つ目の存在概念は問題にならないかも とはいえ存在概念のクラシカルな理解も別に絶対なものではなくて、そもそも存在とはなんぞやみたいな話はずっと議論されてるっぽい
Jonathan SchafferとかAmie Thomassonなんかがこの辺りの論点を扱っていたと思うけどあんまりそこまで食指が届かなくてよく知りません 本質に関しては考えられるすべての世界で対象が持ってないいけない性質のこと
例えばワイがとんでもなく女の子にモテる世界線が考えられるという点でワイが女の子にモテるかどうかはワイにとって本質的な特徴ではないが、ワイが人間ではなくただの石ころだったりする世界は考えられない(石ころだったらもはやそれはワイとは言えない)ので、人間であることはワイの本質になる
わりとこの辺は想像可能性に訴えるところが多くて概念の理解に依存する話になるとは思う うえの話は現代哲学のスタンダードだから、現代の哲学者の議論ではある程度意識されていることだとは思うけど
逆にそれ以前の哲学者とか(年代を問わず)思想家の書く文章なんかについては、うえの理解は当てはまらないと思う 本質は人によっても違うし、違うべきだ
って主義もあってややこしい
そして、そういった主義も主義として認め
社会的構造の一つとして認識すると、それは差別だって人間性を否定される >>48
専門的な用語が多くてよくわからなかったけどありがとう。 前スレ落ちて5chで哲学の話は無理なんやなと思ってたが次スレ立ってた
読書部は小説の話ばかりで退屈してたんや 現代哲学での存在の議論を知りたいなら
倉田剛「現代存在論講義」がええで >>42
「Xとは何か」が知りたいのにまずXの定義を明確にしろというのはナンセンスやろ >>57
いやxを用いて、ある概念の説明をしてるのに、xが多義的って話なんだ >>58
分析哲学ならその辺の用語の使い方は明確にしてると思う
例えばペガサスは「存在」しないけど「存立」すると言って区別するという立場もある あと哲学って結局何するのか概要がよくわからないんだ
例えば哲学から自然科学が分離したってのはわかるんだけど、
分離した後の哲学って、言葉と概念の定義学みたいなもの?
現在存在する概念や新しい概念を論理学に則って定義しようとする学問ってこと?それなら理解できるけど、じゃあ自然科学が未熟だった時代の哲学者(デカルト)とかって概念学と間違った自然科学の混ざった考えを持ってるわけじゃん?
それって現代の定説では部分的そうだけど部分的に違うよ、みたいな感じに解釈されてるの?
哲学って他の学問みたいな限りなく正しい説の体系とかって存在しないの?個々の哲学者が好き勝手言ってるの? >>60
概念に注目するなら、概念間の構成をはっきりさせる概念分析っていうアプローチもあれば、概念を目的に適ったものへと修正的に整備する概念工学っていうアプローチもある
論理学を使うのは公式の形式言語を使うことで(それを学んだひとの間で)文の多義性なんかのすれ違いをなくすことができたり、高階な内容を議論するときに論理学が使えれば便利だったりするから
過去の哲学者の学説はおっしゃる通り間違っている部分もあれば学ぶべきところもあるって感じで受け止められてる 他の学問と比較するなら「限りなく正しい説の体系」と呼ぶべきものがそもそも哲学以外の学問にどれだけあるのかが気になるところかな
ハードサイエンスの成果にばかり目を向けたら学問は限りなく正しい理論を持っていると思いたくなるかもしれないけど
じゃあ言語学や経済学や心理学や生物学やなんやかやについて触れてみたらどうなのかといえば、多くの学問が仮説的により優れた理論を作り出していく途中なんじゃないかと思うから
あんまり「限りなく正しい説の体系」の有無が哲学を特徴付けるとは思わないかな
だから他の学問と同じように色々な学説が競い合ってるというのがワイ的には自然なんやが >>62
書き方が悪かったみたい
なんというか他の学問はもっとも信頼できる仮説を論理学
を使って組み立てて新しい命題=答えを作っていくっていうものだと思っていて、その1番最所の根底には人間が作った定義や帰納法から導き出した仮説があって、絶対的に確実な土台ではないって考えなんです。でも土台が絶対的に確実でなくてもその方法が科学=学問なのかなって思ってて、
で科学の教科書はその方法で検証、組み立てられた確からしい理論や法則、命題が載ってるじゃないですか?
でも哲学はこの人はこんな説、この人はこんな説みたいに、
共通の確かめ方で検証された説、答えが載ってないと思うんです。 過去の哲学に関しては哲学史としてとらえた方がいいかと >>60
哲学は認識論、形而上学、倫理学のような分野ごとに研究したり哲学者(カントやウィトゲンシュタインなど)のテキストを研究したりする
デカルトの心身二元論や神の存在証明は現代では真面目に受け取られてないと思うがデカルトが取り組んだ問題自体は解かれてないから心の哲学や認識論で議論の踏み台によく使われる
「限りなく正しい説の体系」は無いと思う
それぞれの時代ごとに通説というものはあるけど相対性理論やDNAについて分かるようには行かないから好き勝手言っているだけというのはある意味正しいと個人的には思う >>63
学問に確実な土台なんてないっていうのは(アブダクションでも使わなければ)そうなんだと思う
土台がなくても仮説を立て検証することを通して見識を深めていくプロセスこそが学問なんだってのもワイも同じ考えで
哲学も同様にそういうプロセスを取っているとワイは思ってる
例えば概念の必要十分条件を探るパラダイムではみんな一様に件の概念が使用される事例を通して反例を立て学説を洗練させていっていたと思うし
どういう前提群からなにが帰結するかに関する判断も概ね合意の取れている場合が多い
哲学者の間で方法論がまったく共有されていないということは少なくとも現代の哲学について言えばそうではないと思う それに哲学の議論を総説的に扱った文献を読めば
いくつかの答えが(問題は指摘されながらも)示されているんじゃないかと思う
問題があるなら学説としてダメなんじゃないかと言うかもしれないけど、問題の種類によってはそこまで悲観的に見るべきものではないと思う
特にしかじかのことを説明しきれないという趣旨の指摘がしばしばなされるんだけど、それは確かに学説の至らない点ではあるけど決定的な矛盾にはならないし
飛行機がなぜ飛ぶのかを完璧に説明できないからといって、物理学に確からしい学説がないんだということにはならないでしょ
哲学も同じでいいんじゃないかなと思うけど >>66
なんか体系的に組み立てたものはなくて、みんなそれぞれ最初から概念、定義を作り直してるみたいに感じるのですが >>68
あらかじめ言っておくとフランス思想はワイの考えている哲学ではないからそこは留意してほしい
ワイの見てきた哲学に関して言えば通説として知られている学説を叩き台にして議論を始めるか、概念の正しく適用される事例をいくつか引くことで概念に関する学説を立てていくかがスタンダードで
最初からオリジナルの概念を持ち込んでいるってことはあんまりないかな 現代哲学哲学の主流は現代哲学の主流の中においてのみ認められる
現代哲学を社会に持ち出す行為は人として許されない
密教としてしか存在を許されてない現状があるんだよな
相対主義は一意に定まる存在を認めてしまうと矛盾してしまうから
論理や科学そのものを否定する立場を取ったりする
本来の相対主義はそんなもんじゃ無いハズなんだか
構造主義を否定するための相対主義を持ち出すもんだからおかしくなる オリジナルな概念を持ち出しても認識出来ないからなぁ
対立する概念があって、やっと意味が生まれる カントの現代的意義ってどうなん?
哲学勉強してたらカントの名前が結構出てくるから今さら感性やら悟性やら勉強してるんやけども >>44
言語の定義って不可能だよな
文の中からそれだけ抜き出して意味をつけようとしても文脈によって意味が少しづつ変わるのが言葉の特徴やから
文章が全部終わってからはじめてその言葉の意味は確定する(あるいはそれでもしない場合もある)から文脈から独立した言語というのは意味を持たない
前後の文脈を欠いた発言の一部だけを切り取って判断するのがネットやネットニュースでよくありがちやけど不毛なんだよな
いわゆる名言もどういう文脈で使われたのかを知らないと誤解してしまいがち
これは気をつけないといけない 哲学のニ大論点ってまとめると存在論と認識論になるのかな?
我々を我々たらしめるものを考えるというのは分かるんだけど
認識論の場合は神をどのように捉えているのかがまず重要だから特に現代人には分かりにくいな >>72
難しすぎてなかなか読めてないけど倫理の重要性を説いた点に意義があるんだろうな
共産主義から転向したナベツネもカントを持ち出してマルクスや共産主義には倫理がないって批判してる
マルクス的な世界観では戦争や環境破壊を避けられないのかもしれん
平和や自然環境のためにはカント的な考え方が重要なんだと思う
他者を手段としてのみならず目的としてとらえないと自然環境は守られないのではないか まあそもそも万能な書や思想や理論というものがあるわけはないから欠けてるものがある事自体は仕方ないけど >>66
「概念の必要十分条件を探るパラダイム」とその仮説検証のプロセスとは具体的にはどんなもの? >>77
ゲティア問題が代表的やな
仮説検証はメタ哲学で事例の方法とかいう名前で呼ばれてるものや
具体的なシナリオを用意してそこで概念が正しく適用されるか否かを証拠に概念の条件を探っていく方法論 >>72
倫理方面では義務論の代表的な論者として多いに意義がある
超越論的観念論の話はワイのやってる範囲ではほとんど言及されないかな あとカントが引かれることがあるとすると
言語哲学の分析的命題と総合的命題の区別の議論とか
形而上学の不可識別者同一性の議論で水滴の話が引かれるのは見たことがあるかな なんか哲学史のテキストとか読むと観念論の話が大々的に出てきたりするけど現代哲学では観念論はほとんど死語だったりする >>78
その場合仮説検証のプロセスでは仮説が「知識という概念の必要十分条件は○○である」という命題でデータが事例や具体的なシナリオということ? >>83
だとすると哲学の仮説検証のやり方は、「知識の必要十分条件は〇〇である、それを裏付ける事例は××である」となる
しかしそのデータ=事例の正しさをどうやって担保するの?
科学では実世界で起こっているということがデータの正しさを担保するけど
事例は思考実験上のものだから哲学者の直観に頼らざるを得ない
その直観が正しいとなぜ言えるのか? >>84
ワイは認知・心理主義も全然ありだと思ってるから事例に対する直観は概念の学説を裏付ける直接の証拠にほかならんと思うで
言語の文法を探るために適文不適文についての直観を証拠にするのが当然なように概念の構成を探るために直観を使うのはなにも間違っていない
人間の直観(やその他の心の働き)は実世界で実際に起こっていることだから別に空想の話をしているわけでもない
もっともメタ哲学の代表的な論者は心理主義を認めたがらないようで言語哲学や形而上学はおろか認識論についてもそういう立場のひとがおるみたいやな
ワイは賛同できんが >>85
単なる一動物の認知機構がどうなっているか分かっても世界の真理や本質は分からないと思っているからではないかな
それは心理学がやればいいことであって哲学じゃなくてもいいじゃんとなる >>86
世界の真理や本質という言葉でなにを含めているのかはわからないけど、ヒトが知識や意図や原因という概念でなにを理解していて社会生活のなにに役立てているかという話は明らかに世界で生じていることに関する実質的な知識だと思うから、それが哲学にとって重要なことでないと見做されるのは納得できないかな
ヒトの心に関することだから心理学と協働することになるだろうけど(別に心理学に限らずとも経済学や生物学や他の特殊科学とも協働できればいいなと思うが)、主題となる概念が社会制度と深く関わっている以上は制度に関わる概念の修正的な検討は哲学のおはこだと思うし
そこからどういう規範的な議論を引き出すのかという明らかに経験的な領域を越えた話は哲学でやらなきゃダメじゃんと思う >>87
(意図はまだしも)知識や原因はヒトがいなくても客観的にあるものという気がする
数学や物理学の研究でヒトの認知機構に着目するのが悪手であるのと同様に、知識や原因などの哲学的概念を明らかにするためにヒトの心に着目するのは悪手なのでは? >>88
ワイが触れたのはヒトの心に依存しない原因概念の解明ではなくヒトが原因概念をどのように理解しているかという話
因果についてはヒトの心から独立したものがあっても良いとは思うが道徳的な責任追及の場面で使われる原因という概念もまた別にあっておかしなことはないと思う
哲学が解明するのはヒトの心に依存しない概念でなければならないという前提はワイにはよくわからないし論点先取だと思う >>89
責任や意図に関する議論は重要だと思うし「哲学が解明するのはヒトの心に依存しない概念でなければならない」とまでは言わないが
アプローチとして心理主義的な議論は納得感はあれど単純につまらないと思ってしまう
自然科学の知見を使うべきでないとも思わないが、ヒトの認知や社会生活はこうなっているという事実レベルの話をしてもそうなんだ以上の感想にならない カントは歴史でしか無いと思ってる
現在の主義主張にカントの思想を当てはめてもアドホックにしかならん
カントが持ち出されるのは
ポジショントークで相手に許容を強いる目的で使われることが
私の経験的には多い 自閉症や統合失調の存在が無いって前提でしか語られてない哲学が多すぎ 科学ってのは再現性が義務づけられてる
人の心の在りようで帰結が変わるものは科学ではない
だけど、科学でないってだけで、劣るものって感じる人多すぎ
説得力に価値を見出してる人は科学の持つ説得力に科学の価値を見てるのだろう 人は全ての知見を持って産まれてくる
学習とは思い出してるだけだ
って考え方は根強い
人に優劣は無くて、本気を出してないだけって考え方だね
カントって、自閉症や統合失調は心が風邪をひいてるだけで
人の認識には何ら影響を与えないから、哲学では言及するなって流れを作った人でもある
前提が間違っていたら、得られる帰結は正しいとは言えないわな 理屈も屁理屈もどちらも受け手の感情によるもので
哲学とは対極にあるものなんだよな
納得もそう
納得できるかどうかで哲学を選り好みするのは哲学的とは言いたくない 納得してる人が多いかどうかってのは
哲学からすれば無関係な事の筈だが
時代、時代で何が主流かってのが
哲学の醍醐味として扱われる節がある
その当時の背景を投影して理解するには必要な事ではあるんだが
今現在、個人が哲学的な事を語るには不要な事なんだよね
相手が何を知っていて何を知らないかがわかれば
帰納的に経験からパターンに当てはめて語り合うことはできるが
コミュニケーションをとる前段階の概念の共有に過ぎないと思う 『力と交換様式』柄谷行人
出てるけど集大成って感じで興味深いな
交換様式A=互酬(贈与と返礼)
交換様式B=服従、保護(略奪と再分配)
交換様式C=商品交換(貨幣と商品)
で交換様式Dが何なのか
DはAの高次元での回復なんだが
霊性や神的な力が関わるものとしている
資本ネーション国家が揚棄されるとき、真に自由で平等な社会がやってくる 個人的には「「修養」の日本近代―自分磨きの150年をたどる」が面白そう 今の哲学の流れってどうなってるの?
構造主義に対してポスト構造主義がいちゃもんつけてるけど相手にされないってままなんかね >>102
哲学ってのは前提に左右されない本質を見出すこと
構造主義とは物事を分解し、共通項を探ることによって本質を見出し
関連性から、社会やら科学やら芸術やら
あらゆるものの奥に潜む構造を理解しようとする流れ
アカデミックな考え方と聞いて皆が想像する手法に近いんじゃないかな 哲学を哲学史から理解しようとすると
主義主張を新しい思想によって否定することの繰り返しになる
だから○○主義って呼び方は主義主張と捉えられやすいんだけど
構造主義は主義と言うより手法ととらえた方がいい
科学は再現性のあることを取り扱う手法だから
主義主張とは違う感じがするけど
例えば性の自認について科学的ではないと言及すると
主義主張の側面が産まれてくる 差別って言葉がある
構造主義は脱構築によって分解され
分別、区別するんだけど、ポスト構造主義者はその行為を差別と指摘する
区別と差別は違うって言う人もいるが
区別は差別なんだよ 構造主義は内田樹の入門書読んでもよく分からんかった >>90
ワイはKnobeの論文やら読んでそこそこ面白いやんと思ってしまったからなあ
それにワイの感覚では(経験的な証拠としての直観に頼るという意味で)心理学的に哲学をやることは従来の哲学のやり方からそれほど逸脱したものではないというか
ほとんどの哲学者が暗に直観使ってるやんと思ってるんよな
逆に直観によらずして哲学的な主題について真実を知るのってどうやってやるん?と疑問に思う
学説が説明すべき現象はどこからやってくるんやと もちろん純粋に命題間の論理的ないし形而上学的な帰結関係を見るだけなら命題の現実の真偽にはコミットしなくてもいいから現実との接点はひとまずおくことができるんだろうけど
それだけでは哲学の目的を充分に達成しないだろうからまずもって哲学は学説が説明すべき諸々の現象(e.g.誰かが何かを知っているという関係の生起)を取り決める必要があり
この現象が現象として俎上にあげられるためにはそれが(説明すべき)現象として知られているということの根拠が必要となるし
その根拠は認識のソースとしての根拠と考えるのが自然だろうから哲学も経験的な認識から独立ではないと思う >>108
そもそも概念の目的が何か?というところだと思うんよね
概念を作る取っ掛かりとして直観を使うことは否定しないが
その概念の評価基準が直観あるいは現象の説明というのは疑問が残る
例えばホッブズやルソーの社会契約説の概念は現象を説明するような類のものではないだろう 論理学では矛盾した前提からどのような帰結にでも推論することが可能
人の認識を前提に推論すると何でもアリになってしまう
例えば芸術を脱構築すると
芸術=権威あるいは権威に依らないもの
に分解できる
哲学では前提に左右されない事が求められるから
芸術に精神性を含めると哲学で語れない 厄介なことに芸術は権威と無関係なものと主張する人ほど芸術に権威を求めてる
評価されたものほど芸術
価値が高いものほど芸術
だと、権威が落ちてしまうからね
だからポジショントークとして、芸術は権威と無関係なものとしたがる
構造主義では芸術は権威あるいは権威で無いもの
と言う構造そのものを取り扱えるのが強みだな 哲学を脱構築したときに
哲学=理性もしくは経験に根ざしたもの
に分けられる
矛盾が含まれるから、何でもアリになっちまう
理性のみで構築される哲学と、経験によって構築できる哲学をそれぞれ取り扱い
統合できるかどうかで考えたいと俺は思う
感情より理性を優先できる人、出来ない人が存在する以上
混ぜると危険 哲学に意味や目的を見出そうとするのは権威的な考えだと思う
哲学が生み出した数学、論理学、科学の価値なんてものは言うまでもないと思う
それじゃダメなんかね
哲学は知を愛する行為そのもので構わんと思うんだよ
仮に哲学がたどり着く先が無かったとしてもね カントじゃないけど
直感や信仰、思い込みなどが寄与した
コペルニクス的展開もあるよね
直感だろうがなんだろうが、批評の対象になるものならばそれだけで構わないとは思う
反証主義では反証可能性が担保されてる必要があるが
反証可能性が無くとも、今現在反証可能性が無いだけかもしれんしね
哲学のいいところは、反証可能性の無いものも取り扱えることだと思う 心身二元論の「実体」(subject)って物質と概念が存在するって意味?それとも物質が存在するって意味? 自然科学科学的な前提が間違ってる哲学ってわけわからないし、意味あるの?
時代的に科学が発展してなかったら仕方ないけど… 世間一般的に哲学だと思われてるものの正体がそんなもんでしょ
無知故に哲学に則してると思われてきた歴史の積み重ねに過ぎない
少なくとも私は哲学においていかなる前提にも左右されない真理というものを見聞きしたことはない 哲学は哲学としての存在意義を模索してるところがあって
科学の領分は科学に任せて
心理学の領分は心理学に任せ
哲学でしか扱えないようなものを哲学が引き受けてきたって側面がある
残りカスだけ取り扱ってる時代もあるから
無意味なものと思っちゃうのも仕方がない
如何に人は認知バイアスに囚われ
自閉症みたいな認知能力しか無い人間が
周りの哲学者を説得して回ったってドラマは
読むべき価値があるとは思う >>120
精神ってのは概念上、定義的に存在するってこと?
それなら理解できる。
でも心身二元論の解説読むとなんか違うっぽいんだよなぁ >>117
自然科学が正しいって前提そのものが間違ってるって考え方が主流
LGBTなんかがいい例
生物学における男女の分別は差別であり
自認においてのみ性は決定する >>121
目の前にリンゴが存在するのと同じように精神が存在するということ
存在するというのは言語的や論理的ではなく形而上学的にという意味 神が死んで自然科学が発展してきた現代において心身二元論を支持している人はほとんどいない
現代の一般人のほとんどは唯物論者なのでは >>124
唯物論を支持する唯心論者や
唯心論を支持する唯物論者が溢れてるかと 哲学ってのは全ての学問の中で一番簡単な学問だからね
感情より理性を重んじられるなら小学生でも理解できる
合理性を身につけないまま経験主義に陥ったりして頭が固くなったり
納得を判断基準に置く拘りの強い人だと修得が難しいだけ 現代霊性論おもろいな
伝統宗教と民間宗教を分けながらうまく説明してる
統一教会などのでてきた文脈も解説されている chatgptを哲学的に考察した文献ってあるんやろうか >>107
あいつバカでしょ
東大の過去問であいつが反知性主義について書いた文章見てゴミなのを確信した 死に際に普遍文法全否定のchatgptが出てくるのどんな気持ちなんだろうか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています