>>238
○毎田周一先生訳
921.
「明らかな眼を以てあなたが自ら証しせられた煩いを除く法を
いまお聞きしました。
尊き方よ 更に正しい行いについてお示し下さい
人の必ずせねばならぬことと 深く思わねばならぬこととはなんでしょうか」

前半は第一の質問の解答へのお礼の言葉。後半では、修行実践の道(方法)と戒律条項、心の統一についての質問。

○毎田周一先生訳
922.
「目に見えるものを貪り求めず
つまらぬざれ言に耳を貸さず
美味なものを無闇に欲しがらず
世間の何事も愛好せぬがよい

具体的で分かりやすいが、実践することは難しいす。なぜならば、基本的に私達は楽しみたいと思っているから。物を見て楽しみたい。音を聞いて楽しみたい。食べて楽しみたいと思っている。
だから、「眼で見ることを貪ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺してはならない。」と言われてもなかなか出来ない。ではどうするのか?
 眼で見ることを貪ることによって、どのような苦しみを生み出しているのか調べること。
四行目、「世間の何事も愛好せぬがよい」=「世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。」=「世において、何であれ、わがものと〔錯視〕しないように。」
とは、楽しみたいという思いを打ち消すための言葉。世間の何事も楽しめるというよりは、それらに耽溺すれば苦を生み出すことを知らなければならない。それが分かれば、ブッダの今回の言葉を実践できるようになる。

○毎田周一先生訳
923.
刺すような苦痛に会っても
修行者は決して泣き悲しまず
どうしても生きたいなど命を貪らず
恐ろしいものに出会っても震えぬがよい

一行目の直訳は、「触れて感じた時に」だが、二行目は「修行者は決して悲嘆してはならない」だから、苦しくなるものに触れた時のようである。だから、正田先生は病気や飢えを補って訳されている。
そこで、何故このような苦痛に会った時も、修行者は嘆き悲しんではいけないのか?
苦痛に対して嘆かないことは、完全な感官の防護。感覚に対する刺激から心が汚れないように守るため。
凡夫であるならばこのような苦痛に対して嘆くことは普通のことだが、修行者たるものは、心を守ることは重要な修行だから、たとえ大きな苦痛であっても耐え忍ぶべき。
三行目、「どうしても生きたいなど命を貪らず」=「生存を貪り求めてはならない」=「〔迷いの〕生存を渇望しないように」について説明。
大きな苦痛に対して嘆き悲しむのは、生命の危機を感じるから。
生命の危機に対しても動じない修行者は、痛い時は痛いが、嘆き悲しむことがない。何故ならば彼にとっては自分の生命より大切なものがあるから。それは真理の探究。彼は真理の探究にとって嘆くことが相応しくないのであれば嘆かない。
三行目「恐ろしいものに出会っても震えぬがよい」も、恐ろしいものに出会って震えるのは命が惜しいから。」
真理のためならば、命も惜しくない修行者は、恐ろしいものに出会っても震えないす。」彼には「悪事を働くこと」以外に恐ろしいものはない。
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