鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ

1名無しを整える。2017/10/28(土) 12:13:14.50ID:RQll0QsW
前スレ:鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2

ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

533 サビヤがいった、「何を得た人を<学識ある人>と呼ぶのですか? 何によって<すぐれた人>となるのですか?
 またいかにして<行いの具わった人>となるのですか? <遍歴行者>とはそもそも何ですか?
 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

534 師が答えた、「サビヤよ。教えを聞きおわって、世間における欠点あり或いは欠点のないありとあらゆることがらを熟知して、あらゆることがらについて征服者・疑惑のない者・解脱した者、煩悩に悩まされない者を、<学識のある人>と呼ぶ。

535 諸々の汚れと執著のよりどころを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。三種想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、──かれを<すぐれた人>と呼ぶ。

536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは<行いの具わった人>である。

537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、偽りと慢心と貪欲と怒りと<名称と形態>(個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人、──かれを<遍歴の行者>と呼ぶ。」

 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、座から起ち上って、上衣を一方の肩にかけ(右肩をあらわし)、師に向かって合掌して、ふさわしい詩を以て目のあたり師を讃嘆した。

538 「智慧ゆたかな方よ。諸々の<道の人>の論争にとらわれた、名称と文字と表象とにもとづいて起った六十三種の異説を伏して、激流をわたりたもうた。

166名無しを整える。2017/12/06(水) 17:57:01.69ID:z6PdO8Yv
>>165
○毎田周一先生訳
814.
「性の関係に沈溺(ちんでき)するものが
と長老ティッサ・メッテーヤが尋ねた
そのために没落してゆく様を教えて下さい 師よ
そのお教えを聞いて 私達はそれを遠ざかることを学びたいと思います

○毎田周一先生訳
815
「性の関係に沈溺(ちんでき)する者は
メッテーヤよ と世尊は答えられた
そのために教えすら忘れて
人生の筋道を誤り 気高い道から外れてしまう

性行為にふける者は、性欲に翻弄されて、人生において「ブッダの教え」を実践することが一番大切であることを忘れてしまう。
中村先生訳「これはかれのうちにある卑しいことがらである。」正田先生訳「〔淫欲に束縛された〕彼のうちには、この、聖ならざる〔悩み苦しみ〕があります。」とあるが、この意味は毎田先生訳「人生の筋道を誤り 気高い道から外れてしまう」が分かりやすい。
○毎田周一先生訳
816.
今迄唯一人の道をいそしんでいたものも
性の関係に溺れるようになれば
道を外れた車に似て
世間の人は彼を低級な ただのの人間に過ぎないという

性行為にふけるならば、迷走する乗物に乗って、道から外れて崖から落ちるようなものである。崖から落ちるとは地獄に落ちるということ。
そして、このような行為を行う修行者は、非難されるということ。
○毎田周一先生訳
817.
彼がこれまでもっていた名誉も名声も
すっかり消えてなくなってしまう
そのことを思うにつけて
性の関係から離れることを学ばなければならない

○毎田周一先生訳
818.
どうしたらよいかと思い煩い
彼は貧乏人のように考えて込む
こういう人はひとが何かいったのを
聞いてもどぎまぎする

名誉も名声も失ってしまった者は、「どうしたらよいかと思い煩い」悩む。その有様は「彼は貧乏人のように考えて込む」。貧乏人は今日、明日の食べ物をどうしようかと悩むが、そのように悩む。
性行為に溺れている人は、そのような惨めなことになることを知るべき。

○毎田周一先生訳
819.
それというのもどうしても止められない
貪りのためであり
遂にはひたすら嘘の中へ身を
隠してしまうようになる

他人に叱責されると、自分を取り繕うために、苦し紛れに嘘をついてしまう。
この偈の前半の直訳は「他人の言葉で叱責された者は刃(やいば)を作る」とは、正田先生の訳にあるように自分を傷つける刃(悪行)をすることだが、それは後半で説明されているように嘘をつくこと。
嘘をつくことは五戒の一つである戒を破ることであり、地獄に落ちるような大難(大罪)になる。
性欲に負けて、性行為に溺れることに続く結果はいかに危険な恐ろしいことであることをしっかり理解すべきこと。甘く考えてはいけない。
「それというのもどうしても止められない 貪りのためであり」つまり、性欲に執着して貪欲になっている。セックスに夢中になっている。
(´・(ェ)・`)つ

167名無しを整える。2017/12/06(水) 18:01:49.68ID:z6PdO8Yv
>>165
○毎田周一先生訳
820.
唯一人の道をしっかりと進み
賢い人だと世間からも認められていた人が
一旦性の関係に陥ると 愚鈍な人と同じになり
ただもう引き摺り廻されるばかりである。

性欲に負けてしまうと、賢者と認められていても、愚者と同じことになってしまう。賢者と愚者の違いは、視野の違い。賢者は自分のことと同時に他人のことがよく見えて、他人の都合や他人のためを考えて行動できる。
しかし、愚者は自分のことしか見えない。他人の迷惑など眼中になくなる。性欲には人間をそのようにさせる力がある。注意する必要がある。

○毎田周一先生訳
821.
こんな浅ましいことが
この世間の前にも後にもあることを知って
静かな人はしっかりと唯一人の道を行き
性の関係に盲従しないようにするがよい

、「浅ましいこと」、「災い」、「危険」と訳されたことは、815から820で述べられた事柄。
性行為に耽ることによって、解脱への道を踏み外すこと、人々から非難され、蔑まれること、名誉や名声を失うこと、思い煩い、惨めになること、虚偽を語るようになること、愚か者になることなど。
これらのことは自らまいたことの結果だから、災い(災難)という言葉が適当だと思わないが、大変な災難である。しかし、これらの災難は自分の力で防止できる。
何としてでも防止しなければならない。性欲に負けないために、性行為に耽らないために、孤独に耐えて、一人で修行することに努めるべき。

822
○毎田周一先生訳
唯一人ということをどうしても学ばねばならない
これが最も気高いことである
しかしこれだけでこの上もないところへ行きついたと思ってはならない
彼はそこで涅槃に近づいたといえるだけである

性欲に負けないためには、「独りでいる修行を堅くまもれ」と説かれたが、「独りいる修行」は単に性欲に負けないということに留まらず、「聖者にとって最上のことがらである」とこの偈で述べられている。
何故ならば、独りで行う修行は涅槃に導くものだからである。
しかし、それだけでは涅槃に至らないと注意している。その具体的な内容は書かれてない。
○毎田周一先生訳
823.
どんな欲望にも駆り立てられず
そこから解き放されて生きてゆく静かな人は
既に盲目の命の流れを渡ってしまっているので
欲望のため身動きならぬ人達がただそれを羨ましいと思うばかりである。

欲望を顧みることなく、それから離れて修行し、激流(煩悩)を渡り終わった。そして、諸々の欲望に束縛されなくなった。涅槃に到達した。彼は聖者と呼ばれるのに相応しく、欲望に束縛されている人々からは羨ましいと思われる人になった。

毎田先生の訳で「静かな人」とは、通常の訳では「聖者」のこと。また激流(煩悩)を「盲目の命の流れ」という言葉を使われる。性欲は本能、すべての本能を乗り越えて、解脱して、彼岸(涅槃)涅槃に達するということになった。
(´・(ェ)・`)つ

168鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/06(水) 21:39:38.39ID:v/VcSa4p
>>164 そうじゃ、かなり混乱しているのじゃ。
 なにものにも執着せずに観察すればよいというだけであめのにのう。
 観察によって人は清らかになり、執着からはなれ貪欲もなくなるのじゃ。
 

169名無しを整える。2017/12/07(木) 18:38:43.34ID:Kx9Ri+sP
>>168
鬼和尚こんばんは。
ありのままを観察すればよいだけ、ということは、実践してみれば誰でもくまでも、その効果、(=諸々の観念のによる拘束からの解放)を容易に実感できるのと思うのでありますが、それを伝えるのは難しいでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

170名無しを整える。2017/12/07(木) 18:42:10.29ID:Kx9Ri+sP
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、8、パスーラ

824 かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えが清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみを善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。

825 かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を<愚者である>と烙印し、他人(師など)をかさに着て、論争を交わす。──みずから真理に達したものであると称しながら、自分が称賛されるようにと望んでいる。

826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。

827 諸々の審判者がかれの所論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といっい悲泣する。

828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

830 心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の熟達せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

831 たとえぱ王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声を挙げて進んでゆくようなものである。勇士よ。かの(汝にふさわしい、真理に達した人の)いるところに到れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真実である」と言う人々がいるならば、汝はかれに言え、──「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。

833 またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか? パスーラよ。
かれらの間で、「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いをめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそけだけならば、それを実現することは、とてもできない。

(´・(ェ)・`)つ

171名無しを整える。2017/12/07(木) 19:07:33.53ID:Kx9Ri+sP
>>170
○毎田周一先生訳
824.
人々は「これだけが清らかだ」と主張して
他の教えは清らかでないないという――
そして自分の立場だけを認めることによって
実は色々の 自分だけの真理というものにとりついている

「パスーラ経」のあらすじは特定な見解に固執して論争することの無意味さを教えるもの。ブッダは最後にパスーラに呼びかけて、煩悩を離れた者(ブッダ)と論争することが出来ないことを示唆する。
注釈書によるとこの経の因縁物語は、遊行者パスーラはサーリプッタ長老と欲望に関する論争に負けたので、仏教僧団の中で出家した。しかし指導する師僧を議論で負かした。そして今度はブッダに論争を挑んだ。
彼が祇園精舎のブッダのもとに行くと、神の力で一言も口をきくことが出来なくなった。それに対してブッダがこの経を説いたということ。

「ここにのみ清らかさがある」と言った時点、この見解は仏法(真理)ではないと、毎田先生は解説する。
「ここにのみ」ということは「ここ以外のもの」との対立を作る。対立すれば、異なる見解が現れるからである。異なる見解が現れると論争が現れる。

○毎田周一先生訳
825.
この人達はひとといい争うことが好きで 集りの中に入ってゆき
互いに反対して相手を愚かものと見なし
自分はほめられたいと思って 如何にも道理の解ったような顔をしてものをいい
他人と対立しながらただいい争っている。

○毎田周一先生訳
826.
人の集りの中でいい争うことになったものは
ほめられることを望んで 敗けないように心を砕くが
その甲斐もなく 相手に押切られると 口惜しさに堪えられず
自分も人の弱点を探しているのに 相手が自分の間違いを衝いたことを怒る

議論好きが、論争に参加した時の心理状態を細かく描かれている。

○毎田周一先生訳
827.
いい争うのを裁く人達が あなたのいうことには欠陥がある
だからあなたの方の敗けだというと
その論争に負けたひとは 泣き悲しんで
「あの人が自分を負かしたのだ」と口惜しがる

○毎田周一先生訳
828.
こんないい争いが道を修める人達の間に起こると
彼等の中に勝つと負けるとかいうことがあることになる
こんなことをみてもひとは論争を離れねばならぬ
何故ならそこにはほめられたということの外に何の利益もないからである

真理を求め修行する人は、他人の評価でなく、自分自身で真理を発見しなければならないから、他人の評価に依存する態度は修行の妨げになる。
真理の発見は心の変革と結びついた事柄。他人の評価ではなく、また何ものにも依存しない心の状態の時、そこに真理が現れる。その意味で論争の無意味さを本当に知った時、真理が理解できる。

(´・(ェ)・`)つ

172名無しを整える。2017/12/07(木) 19:09:34.26ID:Kx9Ri+sP
>>170
○毎田周一先生訳
829.
あるいはまた人の集りの中で 自分の考えを述べて
それがほめられると
その人がかねて望んでいた利益を得たのだから
如何にも得意そうに自惚れることになる

実は褒められることは利益になるかどうかわからない。
人は褒められると嬉しくなる。褒められても自分はまだまだと思う謙虚な人は素晴らしが、多くの人は、心が高ぶる。中村先生の訳で「心が高ぶる」とは高慢になるということ。この高慢が問題。
人が高慢になれば、褒められることは不利益になる。

○毎田周一先生訳
830.
自惚こそは人の苦しみを生み出す土壌である
それなのに彼は愈々いい気になって思い上がったことをいう
これを見てもひとはいい争うことを止めねばならぬ
何故なら賢い人はそんな処に清らかさがあるとはいわないからである

一行目の三人の先生方の訳はニュアンスが異なる。
「自惚こそは人の苦しみを生み出す土壌である」
「心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。」
「その傲慢なるもの――それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地。」
パーリ語の「高慢」を「自惚れ」「心の高まり」「傲慢」とそれぞれ訳されている。
そして「破滅の地」を「苦しみを生み出す土壌」「害われる場所」「悩み苦しみの境地」という言葉で表現された。
論争の勝利者の心の問題点、その時の心の状態の危険性は予想外に大きなものであることにも気づかされる。
「高慢」が「苦しみを生み出す土壌」「害われる場所」「悩み苦しみの境地」であることを知って、論争を止めるように述べている。
さらに四行目には論争に勝つことで「清浄」が得られないと賢者達が説いている。そもそも「清浄(真理)」を求めて論争するのだが、論争では「清浄」は得られないから、論争を止めよということ。

○毎田周一先生訳
831.
たとえば王侯から食禄を得ている勇ましい人が
敵の中に強い相手を求めながら 叫び声をあげて突き進むように
勇ましい人は 敵の居る処へとび込んでゆくがよい
そこにはしかし戦わねばならぬことは何もないのである

論争を好む者、論争を求める者を勇者にたとえて、皮肉を込めて述べている。
中村先生の訳、「王に養われてきた勇士」とは、自分の先生とか先輩の意見や業績に依存している論争者という意味。「相手の勇士」とは「論争の相手」。
「喚声を挙げて進んでゆくようなものである。」とは、論争の相手を探して論争を挑むがよいということだが、その時の論争の相手とは、中村先生がカッコの中で書かれているように、(汝にふさわしい、真理に達した人)。
次に「相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。」とある。これは真理に達した人は、これが真理だと主張する所がないので、あなたは戦うことが出来ないのだと述べている。
(´・(ェ)・`)つ

173名無しを整える。2017/12/07(木) 19:10:26.55ID:Kx9Ri+sP
>>170
○毎田周一先生訳
832.
ある学説をとり上げて議論を吹きかけてきて
「これこそ本当なのだ」という人があれば
そういう人にあなたはいってやるがよい――
いい争うとしても あなたの相手はここにはいませんと

論争を挑む者はある見解(偏見)をもって、「これのみが真理である」と述べるものだから、「汝と対論する者はここにいない」と応えよと教えている。

○毎田周一先生訳
833.
これとは反対に もう敵というものをもたない処に生きて
色々な考えに一つの考えを対立させない人達がある
パスーラよ あなたはこういう人達から何か得られると思うのか
その人達にはもうこれが最上のことだといって掴んでいるものは何もないのである

毎田先生と正田先生の訳では誤解がないと思うが、中村先生の訳の場合は誤解する恐れがある。と言うのは、883の「かれら」は誰をさしているか明確でないから。
「かれら」を882の「(特殊な)偏見を固執して論争をする人々」とも取れなくはない。
その点、毎田先生と正田先生の訳では、「これとは反対に」あるいは「いっぽうで」という言葉があるから、「(特殊な)偏見を固執して論争をする人々」ではなく、「論争をやめた人々」を意味していることになる。
もちろん中村先生の訳も他の先生と同じにも理解できるが、誤解されるおそれがあるということ。
この偈でブッダはパスーラさんに「お前は論争をやめた人々の処に行って、何を求めようとしているのか? 彼等には「最上だと」固執するものは何もないのだよ。」と教えていることになる。

○毎田周一先生訳
834.
ところであなたは色々の学説を心の中で思いめぐらせながら
そこに真理を尋ね求めているようだが
そういうことでは いくら清められた人に出会って学んでいるといっても
それ以上に先に進むことはとてもあなたには出来ないだろう

833偈で「敵というものを持たない処に生きて、色々な考えに一つの考えを対立させない人達とは論争出来ない」という真理が述べられた。
そのことを理解していないパスーラさんは「自分こそは勝利を得るであろう」と思いをめぐらして、心中にもろもろの偏見を考えてブッダと論争しようとやって来た。
ブッダはまさに、「敵というものを持たない処に生きて、色々な考えに一つの考えを対立させない人」なのだから、パスーラさんはブッダと論争しようにも論争出来ない。
それで「パスーラよ。 汝もこの真理(ことわり)を識って、争論と偏見とを離れるべきである。」ということになる。
三人の先生の訳が微妙に違う。パーリ語の yuga(軛を)の訳し方が異なる。
毎田先生と中村先生は軛という言葉がない。正田先生だけが軛という言葉を使っています。軛(くびき)とは、車の轅(ながえ)の端につけて、牛馬の後頸にかける横木。この偈では軛は比喩として使っている。
毎田先生は、「清められた人に出会って学んでいる」という意味に使っている。中村先生と正田先生は「論争しようとすること」という意味に使っている。
注釈書には、山犬とライオンは同じ軛をつけては歩めないように、パスーラとブッダはともに同じ軛をつけて一歩もともに進むことが出来ないと説明されている。

(´・(ェ)・`)つ

174鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/07(木) 21:21:09.92ID:gi9LEfWt
>>169 そうじゃ、観察は微妙なものであるからのう。
 記憶したとおりにできるものではないのじゃ。
 記憶に反する行為なのじゃ。
 そうであるから記憶に依存したものには困難なのじゃ。

175名無しを整える。2017/12/08(金) 08:30:04.32ID:IyYSqRNF
>>174
絵を描くのが下手な人の為の練習法として、対象物を逆さまにして描くと方法があるとのことで、子くまの頃にやってみたら、実際に効果あるのであります。
要は、普段見慣れたものを観察して描く時、記憶に引きずられてしまうが、逆さまにして描くと、見慣れない姿になるので、観察が緻密になる効果を利用した練習方法ではないかと思うのでありま。

心の観察にも使えそうであります。
(´・(ェ)・`)b

176名無しを整える。2017/12/08(金) 18:26:39.51ID:IyYSqRNF
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、9、マーガンディヤ

835 (師((ブッダ))は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。
糞尿に満ちたみの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」

836 (マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者がもとめた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

838 マーガンディヤがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、<内心の安らぎ>ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。
『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない
。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」

840 マーガンディヤがいった、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになのことがではない』と説き、
また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。
教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。
あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。

842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、──かれらはその思いによって論争するであろう。
しかしそれらの三種に関して動揺しない人、──かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。
またかれらは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。

844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしててはならない。

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。
たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれらの本性はそのようなものではないからである。かれらは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。

847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」

(´・(ェ)・`)つ

177名無しを整える。2017/12/08(金) 20:07:05.43ID:IyYSqRNF
>>176
○毎田周一先生訳
835.
「私は嘗て『渇望』と『不満』と『貪欲』と(いう女)を見たが
それと一つになろうとは決して思わなかった
この尿と糞とに充ちた汚いもの それが一体何であろうか
私は足でそれに触れようとさえ思わない」

「マーガンディヤ経」は注釈書によれば、クル国のバラモン・マーガンディヤがブッダにあって、自分の美しい娘を嫁がせようとして、娘を着飾って妻とともに出かけていって申し出ます。
しかし世尊は「美女に用はない」と取り合いません。そこでマーガンディヤは「美女もいらぬとはどいう考えだ」とその考え方を問いただします。
その時の対話がこの経。最後はこのバラモンは妻とともに出家して阿羅漢になったという。
ブッダは次のように語った。「私がブッダになる前に一大決意で冥想の座についた時、悪魔の大軍が襲来して、悟りの完成を妨げに来ました。
その中に『渇望』と『不満』と『貪欲』という名前の悪魔の娘がいました。その三人は人間をだまして美しく見せていましたが、私はだまされません。
汚れた醜いものしか見えませんでした。同棲することはもちろん、足で触れることさえも望みません。糞や尿で満ちた女が何だというのですか。私には興味のないことです。」と。

○毎田周一先生訳
836.
「もしあなたが多くの帝王達に宝玉のように求められてた
その女を手に入れようと思われないのなら
それでは一体あなたは どんな学説と徳行と生活の仕方と
またどんな状態に生まれかわることとを 説こうとされるのですか」

マーガンディヤさんは、多くの王たちに求められている自分の美しい娘を、ブッダに拒否されたことを理解できなかった。
そこでブッダは愛欲を超越して欲望から離れた出家者だと考えた。
それならば、どのようにして愛欲を超越して、欲望から離れるような徳を身につけるのかを聞きたくなった。
ブッダの見解、道徳、生活の仕方、生存の再生(輪廻)について質問した。

○毎田周一先生訳
837.
「『私はこのように説く』ということが抑々私にはないのである
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
この世にある色々の事にとりついてゆく自分であることを知って
私は色々の見解に接しても それを一つも取上げないことにした
こうして初めて私は自分の中に平安を見出したのである」

ブッダの答えは、マーガンディヤさんの期待していたものと大きく異なっていた。
ブッダの答えは出世間のもの。解脱するための答え。それには特定な方法はない。だから、ブッダは「わたくしはこのことを説く」ということがないと答えた。
ただ、「諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」と答えた。
ここで「安らぎ」は涅槃を意味しているが、執着に固執しないことによって涅槃を体験したと述べられている。

(´・(ェ)・`)つ

178名無しを整える。2017/12/08(金) 20:22:31.05ID:IyYSqRNF
>>176
○毎田周一先生訳
838.
「よく考えて確かめられた そのような見解に
とマーガンディヤはいった
そのような見解に捉われないで 静かな人よ
あなたは『自分の内に平安』を見出したといわれますが
そういう意味のことを賢い人達も こういうことだと説き明かしていられるのでしょうか

838は、よく頭を切り替えて読まなければ、マーガンディヤさんが誤解して頓珍漢な愚問をしたことに気づけない。
ブッダは「私はこのことを説く」ということがないと言われているのに、マーガンディヤさんはブッダが何かを説いていて、そのような事柄を他の賢者達も説いておられているのかと質問している。
ブッダは彼の質問に答えるのではなく、自分の意図を説明した。

○毎田周一先生訳
389.
「見解とか 学問とか 知識とか
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
そして徳行とか そういうもので人が清らかになるとは 私はいわない
そして又無見解や無学や無知や
そして不徳や非行などによっても 人が清らかになるとは 私はいわない
そういうことをすべて捨てて 捉われず
拠り所など何も持たず この世のことに少しも望みをかけぬがよい」

838でマーガンディヤさんが質問した問は「<内心のやすらぎ>ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」という愚問。
そこでブッダはその問には答えずに、今回の偈を述べた。
「『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。
『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。」とブッダは述べた。
簡単に言えば、「善いことをしても清らかにならない、またもちろん悪いことをしても清らかにならない。」と述べられた。
ブッダはこの言葉の後に「それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」
と述べたが、マーガンディヤさんはこの言葉の意味を理解する前に前半の言葉に反発してしまった。

○毎田周一先生訳
840.
「もしもそのように見解とか学問とか知識とか
とマーガンディヤはいった
そして徳行とか そういうもので人は清らかにはならぬといわれ
又無見解や無学や無知や
そして不徳や非行などによっても 清らかにならぬといわれるなら
それは人を惑わす教えだと私は思います
ある人々はものの見方で清らかになれると信じているではありませんか」

マーガンディヤさんは、見解とか学問とか知識とか徳行にこだわっている。それ以外の考え方があるとは思いもよらないこと。だからそれらに依っても或はそれらに依らなくても清浄にならないと言われたらどうしたらいいのだと思ってしまう。
そのため、そのような考え方は「人を惑わす教えだ」或は「ばかばかしい教えである」或は「迷愚な教えだ」と思ってしまう。多くの人々は一度ある考えにとりついてしまうとそれ以外の発想が出来なくなるもの。
(´・(ェ)・`)つ

179名無しを整える。2017/12/08(金) 20:34:35.51ID:IyYSqRNF
>>176
○毎田周一先生訳
841.
「自分の考えにだけとりついて ものを聞いているから
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
執著を離れられず あなたは世迷言を言っている
あなたは今ここではっきりと ものを見ていないではないか
そうして私のいうことを人を惑わす教えだなどといっている

ブッダはマーガンディヤさんに教える。
自分の考えという色メガネで物を見ているので正しくもの見られないのだと説かれている。
そもそもマーガンディヤさんの質問は「どのようにして愛欲を超越して、欲望から離れるような徳を身につけるのか?」ということであった。
しかし、マーガンディヤさんはその答えを「そのためには、どのような見解を持ち、どのような道徳を守り、どのような生活をすればよいのか?」という問いの答えを期待した。
マーガンディヤさんの前半の質問は、「どのようにしたら清らかになるか?」ということであり、「どのようにして内心の平安を得るか?」ということ。
しかしマーガンディヤさんの後半の質問はブッダにとっては(真理からみれば)成り立たないもの。
たとえて言えば、ウサギの角は長いですか、短いですか?」というようなもの。なぜならば、見解、学問、知識、徳行などによって人は清らかになるものではないから。

○毎田周一先生訳
842.
等しいとか 勝れているとか あるいはまた劣っているとか そういう比較の立場に立って
ものを考えている人は 必ずひとと争うだろう
しかしこのような物を比較する三つの関係のどちらへも揺れ動かぬ人――
そういう人には『等しい』とか『勝れている』とかいうことはないのである

ブッダはマーガンディヤさんがよく理解できないようなので、話題を少し変えた。比較するということについて話した。二つのものを比較すると違いがあることが解る。
その違いをある人は一方を勝れていると思い、他方は劣っていると思う。或は等しいと判断する場合もある。しかし、この判断は人によって異なる。ある人が勝れていると判断した物を、別の人は劣っていると判断する。
このために論争が起こる。
論争をしない人がいる。このような人は二つのものを比較して違いがあることは分かっているが、勝れているとか劣っているとか等しいとは判断しない。
何故ならばこの世界のどのような二つを取って、比べても決して同じものはなく、違いがあるのは当たり前である。また違いがあるのは片方の存在があるからである。片方がなければ勝れているとも劣っているともいえない。
たとえ勝れていると言われてもそれはもう片方のおかげ。だから勝れていることに価値を置くことは出来ない。
比べて等しいと言う場合も厳密に言えば等しくはない。等しいと、自分の都合で妄想しているだけ。
という訳で、論争しない人の心は比較しても心は落ち着いている。繰り返すが、世の中のものは違ってあたりまえ。それに対して論争することがあるか。

○毎田周一先生訳
843.
道に達した人は 何をさして『これは真理である』と主張するだろうか
又誰に向って『これは虚妄である』と争うだろうか
等しいとか等しくないとかいうことのなくなった人が
一体誰と論争を始めるだろうか

毎田先生訳の「道に達した人」あるいは中村先生訳の「そのバラモン」あるいは正田先生訳の「〔真の〕婆羅門たる彼」は、842で述べられた比較して揺れ動かない人、「等しい」とか「勝れている」とかいう思いのなくなった人を指している。
そのような人は「これは真理である」とか「これは虚妄である」と主張しない。また誰とも論争しないと述べられている。
優劣の思いのなくなった人には、これが「清らかである」とか「これが清らかでない」という思いもなくなっている。そのため内心の平安という状態になっている。
ブッダの説法はマーガンディヤさんの質問に戻って行くが、道に達した人(そのバラモン)は見解、学問、知識、徳行などによって、優劣の思いをなくしたのではない。
見解、学問、知識、徳行にたいする先入観からはなれて、今ここではっきりとものを見ることで、事実を見て優劣を離れたのです。ここが重要なところです。

(´・(ェ)・`)つ

180名無しを整える。2017/12/08(金) 20:38:43.23ID:IyYSqRNF
>>176
○毎田周一先生訳
844.
家の生活を捨ててひとところに定住せず 思いのままに道を行き
村里の生活に親しみ近づかぬ 静かな人は
色々の欲望を離れて 世間には目もくれず
ひとと違った説など述べ立てて 議論する筈がない

優劣の思いない道に達した人、バラモンは、家庭生活を捨てて、定住しないで遍歴する。在家の人々と親交を深めるということはない。このような生活法をしなければならないと考えて、このようにしているわけではない。
道に達した人はいろいろな欲望から離れているので、世間のいろいろな事柄に期待、希望を持たないから、自然にそのような生活態度になる。世間の事柄に目もくれず、関心がないので、それに対して何か特別な見解を持って論争をすることもない。

○毎田周一先生訳
845.
何の捉われもなく この世を堂々と生きてゆく修道者は
これが自分の説だなど論ずべきではない
水に生える棘(とげ)のある蓮が
水にも泥にも汚されぬように
静かな人は安らぎへの道を明かして 情熱に駆られず
欲望にも世間にも汚されない

始めの二行は前回の偈を受けて、道に達した聖者は諸々の偏見から離れているので、自説を取り上げて、論争する筈はない。また論争すべきではないと強調している。
次の二行はそのような聖者を蓮に譬えている。蓮は池底の泥に根を張り、そこから茎が伸び、葉や花は水面に抜き出す。その時、葉や花は水や泥で汚れない。そのように聖者は欲望にも世間にも汚されない。
その時の聖者の様子は安らぎ(平安あるいは寂静)を説く者であって、貪ることがないと述べられている。
これは解脱した聖者の境地。

(´・(ェ)・`)つ

181名無しを整える。2017/12/08(金) 20:46:32.71ID:IyYSqRNF
>>176
○毎田周一先生訳
846.
至上の智慧に到った人は 意見をもつとか物が解るとかいうことで
思い上りはしない 何故ならそのような意見や見解がもうその人にはないからである
彼は如何に行い 如何に学ぶかというようなところに生活の中心をおかない
固定した立場などに立ってはいない

この偈のパーリ語原文の vedagは三人の先生の訳は次の通り。「至上の智慧に到った人」、「ヴェーダの達人」、「〔真の〕知に至る者」、これらを三通り読んでみるとこの語のイメージが解ってくる。しかし訳は全然異なる言葉。

それに続く訳も三人の先生の訳は同じようだが、細かいところでかなり異なる。これはブッダの言葉に対する三先生の理解が異なるから。訳が間違えというわけではないが、理解は異なるということ。

○毎田周一先生訳
847.
思想を持たないものは自由を束縛されない
智慧によって自在を得たものには迷いはない
思想や見解を掴んでいる人達は
ひとにぶつかりながら 世の中を右往左往する

ブッダのマーガンディヤさんへの説法は、想を離れて、慧で解脱した人は自由で迷いがなく、想いと偏見を固執している頑固の人は人々と衝突しながら生きているとまとめられたのです。この偈で「マーガンディヤ経」は終わります。

この偈の一行目の「想を離れた人」と「智慧で解脱した人」を別の人と考えると前者は心解脱した人、後者は慧解脱した人になる。
テーラーワーダ仏教では心解脱の人は不還果で慧解脱の人は阿羅漢。両者もう輪廻することはないが、不還果の人はまだ完全には無明が除かれていない。

(´・(ェ)・`)つ
今回は
>>179
843.の解説で、
>見解、学問、知識、徳行にたいする先入観からはなれて、今ここではっきりとものを見ることで、事実を見て優劣を離れたのです。ここが重要なところです。

と書いてるであります。

182鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/08(金) 22:19:00.35ID:0IfRVJrZ
教義や学問は実践を教えるものじゃ。
それだけでは清らかになれないのじゃ。

しかし、それらによって実践を知ることができるのであるから、それらが無しで清らかになるとも説かないのじゃ。
教義や学問によって実践するべきことを知り、実践することで清らかになるのじゃ。
  

183名無しを整える。2017/12/09(土) 07:58:05.73ID:+fLDLAq4
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、10、死ぬよりも前に

848 「どのように見、どのような戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか? ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたくしに説いてください。」

849 師は答えた「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎しむ。

851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

852 (貪欲などから)遠ざかり、偽ることなく、貪り求めることなく、慳みせず、傲慢にならず、嫌われず、両舌を事としない。

853 快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。

854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆らうことなく、美味に耽溺することもない。
(´・(ェ)・`)つ

184名無しを整える。2017/12/09(土) 10:43:35.87ID:+fLDLAq4
>>183
○毎田周一先生訳
848.
「どのように物を見 又どのように行いを保つ人が
平安であるといわれるのでしょうか
ゴータマよ 私はお尋ねしている 
その最高の人について どうぞ教えて下さい」

この経の因縁物語によると不思議な経。世尊が多くの神々が集まる大集会で説法をしていた時、神々に「さあ一体、身が壊れる(死ぬ)前に何をすべきか」という心が生じたのを知ったが、どの神々も世尊にその問を発しない。
そこで世尊は神々のために御自身の化身(もう一人のブッダ)を作って、その化身に質問させた。
この問はどのようにして寂静者と呼ばれる聖者になるのかという問いではない。聖者はどのように物事を見て、どのように道徳を守っているかを問うもの。聖者の有り方、生き方を問うもの。それを聞いて、死ぬ前に為すべきことを学ぼうとした。
この問の答えは神々ばかりでなく、人間にとっても学ぶべきもの。

○毎田周一先生訳
849.
「死なない前に 愛欲を絶って
と世尊はいわれた
その人は過ぎ去ったことに捉われず
今のことを煩わず 
未来に向かって用意などしない

第一の答えは、死ぬ前に「愛欲(妄執、渇愛)から離れている。」ということ。仏教の根本的な教えである四聖諦で述べられているように、渇愛は苦の原因。
聖者は一切の苦を滅しているから、苦の原因である渇愛を滅している。そこが聖者について語るとき第一のポイントになる。
次のポイントは聖者の時間に対する態度。聖者は過去、現在、未来に対してどのような態度を取っているか述べられている。
過去に対して、正田先生は過去について過去の記憶と解説してるが、聖者は過去或は過去の記憶に対してこだわることがない。だから後悔をすることもなく、思い悩むこともない。
現在については、渇愛から離れているから、執着することがない。執着していないから、物事を正しく見て、判断できる。正しく見て、正しく判断できれば、正しく行為できる。正しく行為できれば、その結果は成功する。
そうすれば人からとやかく言われることなく、称賛される。聖者の現在はいつも平安。その周りの人々も幸せになる。
また、未来についてはまだ起きてないことだから、起きてない事柄について心配することはない。
未来に起きる事象を限りなく予測することが出来る。しかし、その中の一つが起きるかどうか分からない。世の中のことはすべて想定外のことが起きる場合の方がむしろ多い。それらについていちいち心配するのは無意味。
起きた現象に適切に対応すればよい。聖者は悩むことがないから、それらを巧妙に行うことが出来る。それは法に従うということで、聖者の方法。
(´・(ェ)・`)つ

185名無しを整える。2017/12/09(土) 10:49:52.21ID:+fLDLAq4
>>183
○毎田周一先生訳
850.
この静かな人は怒らず怖れず
自惚れず また悔いることなく
聡明に語って 思いをたかぶらせず 
そして言葉を慎しむ

怒りとは、自分の情欲に対立することがある時起こる。しかし聖者は愛欲(妄執、渇愛)から離れているから、情欲がない。そのため怒りが現れない。だから聖者は怒らない。
恐怖とは、死ぬかもしれないという感情。すべての生き物は何としても生きていたいという想いがあるから死ぬかもしれないという感情は恐怖。
しかし、聖者は渇愛がないから、何としても生きていたいという想いがない。だから恐怖がない。そのため聖者は怖れない。
自惚れとは、他人と自分を比較して自分の優位を誇ること。しかし、比較するということをしない聖者は自惚れることはない。また、そもそも自分という想いのない聖者には誇る自己がない。ですから聖者は自惚れない。
悔いるとは、過去の行為について後悔すること。しかし、聖者は過去について捉われていないから後悔することがない。
聡明に語って(よく思慮して語り、明慧によって話し)とは、事実を語ること、自分の主観をまじえずに語ること。その際慈しみの心で語ること。自分の話しで他の人を傷つけることがないように配慮すること。
思いをたかぶらせず(そわそわすることなく、〔心が〕高ぶらない)とは、興奮せずに、落ち着いていること。
言葉を慎しむ(言葉を制し)とは、言葉に関する悪行為(妄語、両舌、悪口、無用語)をしないこと。

○毎田周一先生訳
851.
未来のことを期待せず
過ぎ去ったことを思い出して悲しまず
感覚に触れるものを一定の距離を置いて見
又自分の考えで人生の生き方を決めようともしない

仏教の時間論では過去・未来はなく、あるのは現在のみ。聖者は未来がないことは分かっているから、それに期待も心配もしない、それに執着しない。
過ぎ去ってもう存在しない、有るとすれば観念の世界、記憶の中にある。だから過去を過度に懐かしむことはなく、後悔することはない。だから聖者は過去を憂えるということがない。
現在は今の事柄であるとはいえ、無常だから絶えず変化している。今経験したこともすぐ変化する。だから今の経験にも執着せずに、冷静に対応する。
それが「[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ」ということ。
更に、未来・現在・過去に対する正しい態度で接している聖者は、諸々の誤った見解に惑わせることがない。
梵網経(長部経典第1)の中で、ブッダは世の中の邪見を62に分類して述べている。それは過去に関する説18種と未来に関する説44種で、すべて過去と未来に関するもの。
要するに過去と未来に関する説は邪見になるということ。もちろん聖者はそのような邪見に惑うことはない。
(´・(ェ)・`)つ

186名無しを整える。2017/12/09(土) 11:00:37.66ID:+fLDLAq4
>>183
○毎田周一先生訳
852.
物事に捉われず 正直で 
貪る心がなく 人のためにつくし
控え目で いやな感じを与えず 
人を中傷することがない

聖者のいろいろな特徴。
一番目は「遠ざかる」だが、何から遠ざかるのか?毎田先生は「物事に捉われず」としている。中村先生は「貪欲などから」と言葉を補っている。正田先生は「欲望の対象から」としている。貪瞋痴の煩悩から遠ざかりと理解してよい。
二番目は嘘をつかないこと、正直であること。
三番目は欲望がないこと。
四番目は物惜しみの思いがないこと。毎田先生は自分の持っているもので、「人のために尽くす」と表現されている。
五番目は傲慢でないこと。そのような人は「控え目な人」。
六番目は「嫌われない人」。そのような人はもちろん人に「いやな感じを与えない」。
七番目は「人を中傷しない」。中傷とは「無実のことを言って他人の名誉を傷つけること」だが、パーリ語の本来の意味は仲たがいをさせるような言葉を使うことなので、両舌の方が近い言葉。

○毎田周一先生訳
853.
快楽に耽らず 
思い上がっていい気にもならず 
おだやかで 機智に富み
自分の信ずることを人におしつけず 
又自分はどうしても無欲にならねばならぬとも思っていない

「快いものに耽溺せず」について。生きることのほとんどは苦であっても、少しの楽があるために人間は生きることを嫌がらずに、何としても生きて生きたいと思っている。
しかし、聖者は快いもの(快楽)は人間を迷わす毒だと知って快いもの(快楽)に耽溺しない。聖者はその理由を知って、渇愛を滅しているから、快いもの(快楽)に執着することがない。
「高慢にならず」について。852の「傲慢にならず」とほぼ同じ。毎田先生は「思い上がっていい気にもならず」と説明している。
「柔和で」について。正田先生は「〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕」と説明している。
「弁舌さわやかに」につい。毎田先生は「機智に富み」と訳されている。正田先生は「即応即答〔の知慧〕ある」と説明されている。教条的な知識でなく、事実に即した分かりやすい智慧による話をするということ。
「信じることなく」について。毎田先生は「自分の信ずることを人におしつけず」と訳された。正田先生は「限定された特定の信仰を持たず」と説明されている。注釈書には信は盲信として、自信が覚った法を信じ、誰の法も信じないとしている。
「なにかを嫌うこともない」について。毎田先生は「自分はどうしても無欲にならねばならぬとも思っていない」と訳された。
正田先生は「離貪という行為自体が存在しない」と説明された。聖者は何かをしようとする作為がないので、離欲もしようとも思わない。すなわち無為の態度。
(´・(ェ)・`)つ

187名無しを整える。2017/12/09(土) 11:03:22.25ID:+fLDLAq4
>>183
○毎田周一先生訳
854.
何かを得ようとして学ぶのではなく 
従って何も得られなくてもあわてず
愛欲に捉われて 人と関係をきしませず 
又美味を貪りもしない

「利益を欲して学ぶのではない。」について。正田先生は「利得(行乞の施物)を欲して学ばず」と訳して、利得を行乞の施物と説明された。比丘(出家者)は食事のお布施をもらうために、経典を学ぶのではない。
次の「妄執のために他人に逆らうことなく」について。妄執は愛欲あるいは渇愛、欲望と考えて良い。「他人と逆らう」とは他人と対立すること。
何故対立するのか。それは他人と利益が対立するから。他人との対立の本質は利益の対立であり。欲望の対立。しかし、そもそも聖者は対立する欲望がないから、対立しない。
「美味に耽溺することもない。」について。853「快いものに耽溺せず」がより具体的に、「美味」になった。聖者は美味しいものにも耽溺しない。
解脱した人は、美味しいからと言ってそれに引きずられない。聖者にとっては味に関する煩いのない安穏な状態は最高。ブッダは「涅槃は最高だ。」と述べておられる。
(´・(ェ)・`)つ

188鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/09(土) 21:35:50.80ID:TC81LoVQ
過去も未来も今にも囚われずに進むのじゃ。

189名無しを整える。2017/12/10(日) 10:06:18.42ID:Fgndxcc4
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、10、死ぬよりも前に


855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人を自分と)等しいとも思わない。また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。かれは煩悩の燃え盛ることがない。

856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存の断滅のための妄執も存在しない。

857 諸々の欲望を顧慮することのない人、──かれこそ<平安なる者>である、とわたしは説く。かれには締めの結び目は存在しない。かれはすでに執著を渡り了えた。

858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過)があるというであろうが、かれはその(非難)を特にきにかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

860 聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』とも『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。

861 かれは世間において<わがもの>という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。かれは実に<平安なる者>と呼ばれる。」

(´・(ェ)・`)つ

190名無しを整える。2017/12/10(日) 10:51:03.60ID:Fgndxcc4
>>189
○毎田周一先生訳
855.
歓び悲しみも届かぬ静かな処に いつもすっきりした気持で居り
この世の中で 自分を人と等しいとも思わなければ
また勝れているとも劣っているとも思わず
総じて何の思い上りもない

一行目。パーリ語のウペッカー(捨)、意味は冷静、平静。これは喜怒哀楽の感情から離れた状態。毎田先生は「歓び悲しみも届かぬ静かな処」と訳された。
この言葉のあとに「常に気づき(念)のある(者)」が続く。それは常に気づきあると、平静でいられるから。毎田先生は気づきのある状態を「すっきりした気持ちでいる」と訳された。気づきあれれば気持ちはすっきりしている。
二行目、三行目。「この世の中で、自分を人と等しいとも思わなければ、また勝れているとも劣っているとも思わず」。
これは、一行目の状態にある聖者は、自分を他人と等・勝・劣と思わない。平静で気づきのあると、自分を他人と比較することなく、等・勝・劣を思わない。自分と他人の区別よりも人間として、対等・平等であることを感じている。
四行目「彼には、諸々の増長〔の思い〕は存在しない。」(正田先生訳)。一行目から三行目で述べた聖者はこのような方だという。中村先生訳の「かれは煩悩の燃え盛ることがない。」ということ。

○毎田周一先生訳
856.
この人が何の拠り処ももたないのは
物事の本性をよく知って それによりかからぬからである
そこには生きようとする強い願いも
又生きることを止めようとする強い願いも そのどちらもない
(※○正田大観先生訳
彼に、〔他者に〕依存することが存在しないなら、
法(真理)を知って、依存なき者となります。
彼に、〔迷いの〕生存への〔渇愛の思いが〕、あるいは、〔迷いの〕生存から離れることへの
渇愛〔の思い〕が、見い出されないなら――(9))
一行目と二行目の関係は、三人の先生方の考え方が違う。毎田先生は、二行目が原因で一行目が結果。中村先生は一行目と二行目が並列的。正田先生は一行目が原因で二行目が結果。どの訳も一理ある。
パーリ語に忠実に訳すると正田先生のようになるが、そうすると、一行目はどのようにしてそうなるのか考えてしまう。すなわち、どのようにして依存しない者になるのかと言うこと。
その点、毎田先生のように、「物事の本性をよく知って それによりかからぬからである」と考えると解りやすい。依存しないためには、物事の本性をよく知ることだということになる。
物事の本性を知るとは、無常だと知るということ。無常なものには依存できない。無常なものは確固たるものではないから、それに依存できない。そのことを正しく知った人は依存しない。
という訳で、「物事の本性をよく知って それによりかからぬからである」ということになる。
三行目、四行目は、聖者には渇愛がないということ。渇愛の内容には三種類ある。@欲愛:五欲(眼、耳、鼻、舌、身、意の欲)に対する渇愛。A有愛:生きたいという渇愛。B無有愛:死にたいという渇愛。
この偈は渇愛の有愛と無有愛が表現されている。
一、二行目と三、四行目の関係。すなわち依存しないことと渇愛がないこととどのような関係があるのか?
キーワードは無常。物事の本性は無常であると知った人は、依存しないと同様に、物事の本性が無常だと知った人には渇愛は起こらない。
渇愛は渇愛の対象を契機として起こるが、その対象は無常であり、渇愛の対象になりえないと知ってしまえば、渇愛は起こらない。
五欲に対する渇愛は分かりやすい。生きることも、死ぬことも無常。今自分が考えている生も死も無常。渇愛の対象にならない。
そのことを正しく知れば聖者と同じように、「生きようとする強い願いも、又生きることを止めようとする強い願いも、そのどちらもない」。

(´・(ェ)・`)つ

191名無しを整える。2017/12/10(日) 10:51:57.69ID:Fgndxcc4
>>189
○毎田周一先生訳
857.
色々の欲望を悉く顧みないでゆく人
こういう人を平安な人と私はいう
彼を縛るものは何もなく
彼は既に彼は執著をこえてしまっている

人々の関心の第一は自分の欲望だが、それに関心がない、期待しないということはどういうことか。
通常自分の欲は捨てられない。しかし、自分の欲を超える関心が自分の心に起きた時、それは因縁により起こる。
その時私達は自分の欲への関心がなくなる。その時私達は自分の欲を乗り越える。その時心から欲がなくなる。
このようにして、欲を顧みず、期待しない人は、欲のない人になり、欲のない状態を経験する。
欲望がなければ心を駆り立てるものがない。私達の心はこの駆り立てるものによって平安であることはできない、また静かな状態ではいられない。
しかし、心を駆り立てるものがなければ、平安で静かになる。そのため、欲望のない人は平安の者(寂静者)という。
そのような人には束縛(拘束するもの)はない。そして彼には執着の思いがなくなる。このような人は再生する結び目がないから、彼はもう輪廻転生はしない。

○毎田周一先生訳
858.
その人の処には子供も家畜もおらず 
田畑や屋敷もない
そして彼が手に入れたものとか 未だ手に入れなかったものとか
そういうものが彼の内には何もない

子供がいるということは結婚して幸せな家庭ができ子供ができるということ。家畜が居るということは畜産という安定した職業があり、田畑や屋敷があるということは財産があるということ。すなわちそれは現代でも通用する理想的な幸福の世間的なイメージ。
この偈では、子供もいない、家畜もいない、財産もない人について述べられている。これは世間的な考えでは不幸な人になる。それについて具体的な評価をしていない。
三行目のattとnirattにはそれぞれ二つの訳がある。
attは@得たもの、A自己、自我nirattは@捨てたもの、A無我、非我。毎田先生及び中村先生は、「得たもの、捨てたもの」の訳を取り、正田先生は「自己、自己でないもの」という訳をしている。
簡単に訳しなおすと「彼には得たものも捨てたものもない」或は「彼には自我も無我もない」ということになる。
これをあえて説明すれば、「彼には得ようとしたものも捨てようとしたものがない」であり、作為がないということになる。それを「自我も無我もない」という言葉で表現している。

○毎田周一先生訳
859.
世俗の人や修道者や婆羅門達が
この人のことをどんなにとやかくいおうと
いわれる事柄自身が既に彼の無視していることだから
そんな論議のために動かされはしない

世間の凡夫や覚ってない沙門やバラモンは、解脱と関係のないいろいろなことを言いう。
その中には人間は安定な職業を持って、結婚して家庭を持ち、子供を作ることが幸せなのだとも言う。
しかし、解脱という目的をわきまえた人には、そのような見解は眼中にない。またその他の世俗的な楽しみにも興味がないから、世俗の人々の言うことによって、心は動揺しない。
(´・(ェ)・`)つ

192名無しを整える。2017/12/10(日) 10:54:49.96ID:Fgndxcc4
>>189
○毎田周一先生訳
860.
静かな人は貪らず 利己心がなく
自分が勝れているとも
また等しいとも 劣っているともいわないで
時の流れに流されず 却って時を超えている

貪りを離れることと慳(物惜しみ)がないことは、聖者にとって重要な徳目。
毎田先生は「慳(物惜しみ)」がない」ことを「利己心がなく」と訳された。852では「人のために尽くし」と訳された。もの惜しみの意味を深く考えてのこと。
二行目、三行目の「自分が勝れているとも また等しいとも 劣っているともいわないで」について。これらの境地は有身見(自分がいると言う感覚)のない聖者にとっては当然のこと。
すなわち、聖者は勝れているとか等しいとか劣っていることは単なる妄想であると実感している。
四行目は、三人の先生方の訳は表現がかなり異なる。kappaの意味の取り方。kappaはスッタニパータの373、517に出てきた。
kappaの意味を列挙。
@ 時、時間、劫(コウ)、長時、周期的な時間の長さを言う→輪廻の一時期をいうことがある
A 教令、法則
B 分別、妄想、はからい、想念、概念
C カッパ樹、如意樹
毎田先生はkappaの意味を「時間」と取って、「時の流れに流されず 却って時を超えている」と意訳された。
中村先生は「分別、妄想」と取って、「かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。」と訳された。
正田先生は「時間」と取って「〔概念化した〕時間(劫:間時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)なき者は、〔概念化した〕時間に至りません(輪廻しない・妄想しない)。」と訳され、カッコで説明されている。
仏教の時間論では過去・未来はなく、有るのは現在(今)のみ。今しかないから、時間はないとも言える。無時間。だから、時間に関する概念や思考はすべて妄想であると言っていい。
そのような考え方に立てば、時間で訳しても、妄想と訳しても同じことになる。「時の流れに流されず 却って時を超えている」とは「妄想の流れに流されず、かえって妄想を超えている」となる。

○毎田周一先生訳
861.
彼はこの世に自分の持物が何もないが
ないからといって別に悲しみはしない
又色々な事をとりあげて それにあくせくすることもない
――こういう人をこそ平安な人という」

この世において自分のものが何もなくとも悲しまない人は、自分自身も自分のものではないという事実が解っている人。
仏教は無我を説き、物を所有する個人すらないことを説いている。どうしてこの世において自分のものがないことに嘆くことがあるか。

三行目の直訳は「諸々の法において行かない」だが、中村先生が「欲望に促されて」捕捉して訳されているように、「かれは[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。」であり、
毎田先生訳のように「それにあくせくすることもない」ということ。まさに、それは寂静者(平安なる者)と呼ばれる人。

(´・(ェ)・`)つ

193鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/10(日) 20:45:23.08ID:jdWhm8A6
それを訳してなぜ実践できないのかのう。
不思議なことじゃ。

194名無しを整える。2017/12/10(日) 21:34:52.28ID:Fgndxcc4
>>193
鬼和尚、こんばんは。
どの部分に対するご指摘でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

195名無しを整える。2017/12/11(月) 18:38:40.45ID:59JZ/XEJ
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、11、争 闘

862 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳みと慢心と傲慢と悪口しは、どこから現われ出たのですか? これはどこから起ったのですか? どうか、それを教えてください。」

863 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳(モノオシ)みと慢心し傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

864 「世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にははびこる貪りは何にもとづいて起るのですか? また人が来世に関していだく希望とその成就とは、何にもとづいて起るのですか?」

865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また人が来世に関していだく希望と成就とは、それにもとづいて起る。」

866 「さて世の中で欲望は何にもとづいて起るのですか? また(形而上学的な)断定は何から起るのですか? 怒りと虚言と疑惑と及び<道の人>(沙門)の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

867 「世の中で<快><不快>と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には正起と消滅とのあることを見て、世の中には<外的な事物にとらわれた>断定を下す。

868 怒りと虚言と疑惑、──これらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現れる。疑惑ある人は知識の道に学べ。<道の人>は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか? また何がないときにこれらのものが現れないのですか? また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」
(´・(ェ)・`)つ

196名無しを整える。2017/12/11(月) 18:57:50.21ID:59JZ/XEJ
>>195
○毎田周一先生訳
862.
「何処から闘争と論争と
憂いと悲しみと 利己心と
傲慢と 人に対する誹謗とが 起こるのでしょうか
それがどこから起こるかを どうぞお教えて下さい

この経の因縁物語は「死前経」と同じように、神々の大集会でブッダの説法を聞いていて、「一体どこから争いなど八つのことが起こるのか?」
という疑問を持った神々がいたので、その理由を明らかにするために、化仏(ブッダの化身)を作り、自分に質問させて、この経を説いたと言われている。

○毎田周一先生訳
863.
「闘争と論争と
憂いと悲しみと 利己心
傲慢と 人に対する誹謗とは 愛ゆえに起こる
闘争と論争とは 利己心に結びつき
論争が起これば 人を誹謗するようになる」

化仏の質問に対するブッダの回答。
質問の回答は、すべて「愛」=「愛し好むもの」=「愛しいもの(自己中心的な愛着や愛執の対象)」から起こるというもの。愛が「自己中心的な愛着や愛執の対象」であると解説される。
以上の回答に追加して、争いと論争については物惜しみ(=利己心)に結びついていると述べられている。
子供の時は玩具の取り合いから、青年期になれば恋人の取り合い、成人になれば仕事の取り合い、国家間では領土の取り合いで戦争になる。これらはすべて愛し好むものの取り合い。
これらの争いに負けた者たちは、憂いと悲しみがある。また勝った者たちも無傷ではいられない。負けた者たちの報復が待っている。安心して寝ていられない。いつ攻撃があるか分からない。いつも不安な夜を過ごさなければならない。
勝者も敗者と同じように憂いと悲しみがある。これらすべて「愛」から起こる。
争いが起これば、口での争いも起こり、論争になります。そして論争が起これば、悪口や誹謗、中傷なども出てくる。

○毎田周一先生訳
864.
「愛はこの世で何を元として起こるのでしょうか
又世間に拡がってゆく貪りは 何から起こりますか
そして人が来世に向って希望を抱き
それが果たされるのは 何に基づくのでしょうか」

ブッダの回答に対する質問者(化身)の質問。何に基づいて争いと論争など八項目が起きるかという質問に対して、ブッダはすべて愛(愛し好むもの)に基づいて起こると答えた。
この質問者はここで、それならば「愛」は何に基づいて起こるのか質問した。
更に、この質問者は、世間に蔓延している貪欲は何に基づいて起こるのか質問した。
また、「人が来世に向って希望を抱き、それが果たされるのは何に基づくのか」と質問した。この意味は人々が死後、善い所に生まれ変わる希望を持って、その結果が現れるのは何に基づくのかということ。
(´・(ェ)・`)つ

197名無しを整える。2017/12/11(月) 19:00:21.52ID:59JZ/XEJ
>>195
○毎田周一先生訳
865.
「この世に愛があり
世間に拡がる貪りがあるのも欲求ゆえのことである
人が来世に向って希望を抱き それが果たされるのも 
同じく欲求ゆえのことである」

「愛(愛するもの)は欲望に基づいて起こる」とブッダは答えた。
愛(愛するもの)は、好きなもの。これは欲望がなければないのか? それがはっきりわからないのは、私達にはいつも欲望があるから。欲望がない状態を知らないから。
欲望がなかった時を経験していれば、その時、愛するもの好きなものがないことがよく分かるはず。
この偈では貪欲も欲望に基づいて起こると述べられている。貪欲は欲望に対する執着だから、欲望がないとき貪欲は起こらない。
また、来世に対する希望とその結果も、死後にも安楽な生活をしたいという欲望から起こることは明らか。

○毎田周一先生訳
866.
「それではその欲求は この世で何を元として起こるのでしょうか
又色々に考えて断定を下すことは 何に由るのでしょうか
怒りと嘘と疑いと そして
修道者があれこれと指摘する事柄は 何に基づくのでしょうか」

質問者は、その欲望は何に基づいて起こるのか質問した。
しかし、次に「断定」が続くのは少し分かりにくい。毎田先生はいろいろ考えて結論を出すという意味で「断定」と言っている。
中村先生は、欲望が世俗的なテーマだから、それに対して、世俗を超越したという意味で、断定に「形而上学的な」という説明を付けた。
正田先生は「〔世の人々が下す〕諸々の〔断定的〕判断」としている。
いずれにせよ、質問者は、欲望に続いて、断定は何に基づいて起こるのかを質問している。
さらに、怒りと偽りの言葉と疑惑は何に基づいて起こるかと質問した。
「修道者=<道の人>(沙門)=沙門」の意味は注釈書によるブッダを指している。つまりブッダによって説かれた「怒りと偽りの言葉と疑惑」ということ。

○毎田周一先生訳
867.
「この世で『快と不快』とはいわれることを元として
欲求が生じる
色や形の世界で なくなるとか生じるとかいうことのあるのを見て
世間の人は考えをめぐらし断定を下すのである

欲望が発生するのは、欲望の対象である物があるから。しかし、ただ物があるだけでは欲望が発生しない。
そこで、、物に触ったとき、快とか不快とかを感じられる物から欲望が発生すると述べている。
より具体的に言うならば、見て美しいと感じられるとか美しくないと感じられるもの、或は美味しいとか不味いと感じられるもの等が欲望を発生させるのだということ。
この偈の後半は、「断定は何から起こるのですか」と言う質問にたいする回答。
すなわち「色や形の世界」=「物質的存在」=「形態」の消滅と生起が断定(判断)の因縁になっていると説かれている。
(´・(ェ)・`)つ

198名無しを整える。2017/12/11(月) 19:01:17.19ID:59JZ/XEJ
>>195
○毎田周一先生訳
868.
怒りと嘘と疑いと
これらも亦(快と不快との)二つに過ぎない
そして思い惑う人は 修道者があれこれと指摘していることを知って
智慧の道を進むようにするがよい」

866の質問「怒りと嘘と疑惑は何から起こるのですか?」に対するブッダの解答。ブッダはこれらも「快と不快」の二つがあるとき現れると説かれた。
怒りについては、分かりやすい。不快なものに対してはそれを避けようとするエネルギーが現れる。それが怒り。そのため怒りは「快と不快」があるとき現れると説かれた。
ここで「不快」と表現せずに。「快と不快」と表現されているのは、快と不快は個人によって受け止め方が異なるから。
人間に好き嫌いという感情を引き起こすものが怒りの元になるから。
それでは、なぜ嘘は快と不快から起こるのか?「人は何故嘘をつくのでしょうか?」。 それは浅はかな自己防衛のため。
浅はかなというのは、真の意味で自己防衛は真実にあることを知らない者の自己防衛だから。
自己防衛とは、不快を避けて、快を求めること。これが死から免れることだと思っている。この目的のためには事実か虚偽かは問題にならない。ある場合には事実に反することでも言う。これが嘘の真相。
では、疑惑はどのようにして「快と不快」から起こるのか?
疑惑も自己防衛の結果だが、その「快と不快」が避けるべきものか受け入れるべきものか分からないとき現れる。そのような者に対しては、沙門(ブッダ)が説かれた「智慧に関する知識」を学ぶとよいと教えている。

○毎田周一先生訳
869.
「快と不快とは又何を元にして起こるのでしょうか
何がないとき これらもないのでしょうか
また『なくなるとか 生じるとか』いうことの意味は
何に基づくのでしょうか それを話して下さい」

ブッダが、「欲望は快と不快から起こる。また怒りと嘘と疑いも快と不快から起こる」答えられたので、質問者は、更に「快と不快とは何を元として起こるのか?」と質問した。
ブッダの解答が快と不快と無関係の事柄でないことを確かめるために、「何がないとき、快と不快がないのか?」と質問している。
それは「AがあるときBがあり、AがないときBがない。」という形式の質問。このときAとBに因果関係がある。
更に、この質問者は、快と不快が有るときと無いときと、物事の生起と消滅に何等かの関係があるのではないかと予想したのか、「生起と消滅ということの意義と、それの起こるもととなっているものを、教えて下さい。」と頼んだ。
(´・(ェ)・`)つ

199鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/11(月) 22:02:33.35ID:drEez4CN
全体的にじゃな。
このようにすれば安楽になると知っていても出来ないのは不思議なのじゃ。

200名無しを整える。2017/12/11(月) 22:24:21.69ID:59JZ/XEJ
>>199
集中する訓練と、
ありのままに観察することだけで、
楽になれると言う実感を得てから、学んだ方が、
書かれていることの意味がよくわかるかも知れぬでありますね。
頭でっかちにになり、専門用語の知識ばかりついても、ちぃ〜とも役にたたないばかりか、逆に邪魔になるかもでありますね。

そんな意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

201名無しを整える。2017/12/12(火) 15:49:09.53ID:hF+NjSln
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202名無しを整える。2017/12/12(火) 18:29:00.07ID:VDaZxf5X
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、11、争 闘

870 「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官の接触が存在しないときには、これらのものも起こらない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」

871 「世の中で感覚による接触は何にもとづいて起るのですか? また所有欲は何から起るのですか? 何ものが存在しないときに、<わがもの>という我執が存在しないのですか?

872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、<わかもの>という我執も存在しない。形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」

873 「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか? 楽と苦とはいかにして消滅するのですか? どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。
──わたくしはこのように考えました。」

874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。──このように理解した者の形態は消滅する。

875 「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。
──この世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(タマシイ)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしようか?」

876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうち(最上の清浄の境地がある)と、巧みに語っている。

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

(´・(ェ)・`)つ

203名無しを整える。2017/12/12(火) 18:33:59.12ID:VDaZxf5X
>>202
○毎田周一先生訳
870.
「触れることによって 快と不快とが起こり
触ることのないとき それらのこともない
『なくなるとか 生じるとか』いうことの意味も
それと同じく触れることによると私はいう」
(※○正田大観先生訳
〔世尊は答えた〕「快と不快〔の二者〕は、因縁として接触(触:感覚・経験)から〔発生しました〕。
接触が存在していないとき、これらのものは、まさに、有ることなくあります。
虚無、さらには、また、実体という、〔まさに〕その、この義(無と有の概念的二項対立)は、因縁としてこれ(接触)から〔発生すること〕を、このことを、あなたに説きます」〔と〕。(9))

ブッダは「快と不快は何に基づいて起こるのか?」と質問されたので、「接触に基づいて起こる。」と答えた。また、「何がないとき、快と不快がないのか?」とも聞かれたので、「接触のないとき、快と不快もない。」と答えた。
更に、ブッダは生起と消滅についての質問にも、「接触があるとき生起があり、接触のないとき消滅がある。」と答えられた。
確かに、快である喜びも不快である悲しみも、嬉しいことや悲しいことに遭遇(接触)したときに起こる。細かく言えば、感覚器官に何かが接触したときに快や不快と言う感覚が生まれる。逆に、このような接触がなければ、快不快の感覚は生まれない。
物事の生起と消滅についても、接触に説明されている。新な接触があるとき生起であり、その接触がないとき消滅。
正田先生は、消滅を虚偽、生起を実体と訳されている。そしてこれは「無と有の概念的二項対立だ」としている。

○毎田周一先生訳
871.
「触れるということがこの世でどうして起こるのでしょうか
又執著することがどうして起こるのでしょうか
何がなくなると
触れることも触れることでなくなるのでしょうか」

一行目と四行目がワンセット、二行目と次のワンセットと考えると分かりやすい。
「AがあるときBもある。」「AがないときBもない。」「Aが生じるときBも生じる」「Aが滅するときBも滅する。」で完全な因果論を述べられるが、その一部を活用している。
一行目は、ブッダが、「快と不快は感官による接触によって起こる」と述べたので、質問者は「世の中で感覚による接触は何にもとづいて起るのか?」と質問した。
更に、四行目で「何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのか?」と質問する。
二行目の「また所有欲は何から起るのか?」という質問と対にして三行目で、「何ものが存在しないときに、<わがもの>という我執が存在しないのか?」と質問した。「所有欲=<わがもの>という我執」と考えると分かりやすい。
二行目と三行目の質問は、一行目と四行目と関連した解答を質問者は予想している。快と不快は楽と苦に繋がる。
この先に決定的に重要な質問に至り、ブッダに仏教の真髄を聞きだすことになる。

○毎田周一先生訳
872.
「名と形とに由って 触れることが生じる
求めることを元として執著があり
求めることがなければ 我執もない
形がなければ 触れることも触れることではなくなる」

871の質問に対するブッダの解答。質問と同じように一行目と四行目をワンセット、二行目と四行目をワンセットとして読むと分かりやすい。
先ず、「感官による接触は何にもとづいて起こるのか?」と質問されたので、ブッダは「名称と形態とに依って感官による接触起こる。」と答えた。
そして四行目で「形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」と答えた。
四行目の解答の中になぜ「名称」が入っていないのか?名称は形態があるから、それに対する名称がある。形態がないときは名称がない。形態がなければ感官による接触が起こらない。
だから、ここでは「形態が消滅したときは<感官による接触>ははたらかないと述べられた。
「所有欲は何から起こるのか?」という質問に対するブッダの解答は「所有欲は欲求を縁として起こる。」。更に三行目で、「欲求のないときには、<わがもの>という我執も存在しない。」と答えられた。
ここで思い出すべきは、876で「<快><不快>と称するものに、依って欲望が起こる。」という言葉。
欲求と欲望はほぼ同じ意味だから、「形態から接触、接触から快・不快、快・不快から欲望(欲求)、欲望(欲求)から所有欲(我執)」という流れが考えられる。こうなると、形態が消滅したとき、所有欲(我執)も消滅することになる。

(´・(ェ)・`)つ

204名無しを整える。2017/12/12(火) 18:41:45.64ID:VDaZxf5X
>>202
○毎田周一先生訳
872.
「名と形とに由って 触れることが生じる
求めることを元として執著があり
求めることがなければ 我執もない
形がなければ 触れることも触れることではなくなる」

871の質問に対するブッダの解答。質問と同じように一行目と四行目をワンセット、二行目と四行目をワンセットとして読むと分かりやすい。
先ず、「感官による接触は何にもとづいて起こるのか?」と質問されたので、ブッダは「名称と形態とに依って感官による接触起こる。」と答えた。
そして四行目で「形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」と答えた。
四行目の解答の中になぜ「名称」が入っていないのか?名称は形態があるから、それに対する名称がある。形態がないときは名称がない。形態がなければ感官による接触が起こらない。
だから、ここでは「形態が消滅したときは<感官による接触>ははたらかないと述べられた。
「所有欲は何から起こるのか?」という質問に対するブッダの解答は「所有欲は欲求を縁として起こる。」。更に三行目で、「欲求のないときには、<わがもの>という我執も存在しない。」と答えられた。
ここで思い出すべきは、876で「<快><不快>と称するものに、依って欲望が起こる。」という言葉。
欲求と欲望はほぼ同じ意味だから、「形態から接触、接触から快・不快、快・不快から欲望(欲求)、欲望(欲求)から所有欲(我執)」という流れが考えられる。こうなると、形態が消滅したとき、所有欲(我執)も消滅することになる。

○毎田周一先生訳
873.
「どのように知った者にとって形がなくなるのでしょうか
楽と苦も亦どうしたらなくなるのでしょうか
そのなくなるということを ありのままにお教え下さい
『そのことを知りたい』と 私は熱望しております」

「形態から接触、接触から快・不快、快・不快から欲望(欲求)、欲望(欲求)から所有欲(我執)」ということになるから、形態の消滅は一切の苦と楽の消滅につながる。
そこで質問者は「どのように修行した者に、形態が消滅するのか?」と仏教の核心になる質問をする。仏教の目標は一切の苦からの解脱だから。
また、質問者は解答を予想して、確認のために「楽と苦とはいかにして消滅するのか?」と質問した。
しかし、形態の消滅に関しては詳しく知らない。そこで「どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。」そして「それを知りたいという心になった。」と質問者は述べた。
これは発心。ここから仏教の修行が始まる。これは誓願であり、これにより解脱することが出来る。

ブッダはこの誓願に答えて、仏教の真髄を874で述べるす。
(´・(ェ)・`)つ

205名無しを整える。2017/12/12(火) 18:52:11.26ID:VDaZxf5X
>>202
○毎田周一先生訳
874.
自然に思うように思うのでもなく 間違って思うでもなく
それかといって思わないのでもなく 思いをなくそうとするのでもない――
と丁度このように知るもの知るものにとって 形はなくなる
何故なら 思いによって ありとあらゆる妄想が起こるからである

いよいよ仏教の核心。
「形態の消滅のためには、どのように修行すればよいのか?」と問われたブッダはいきなり、なぜ、思い方について答えのか?
その理由は四行目にある。「何故なら、思いによって、ありとあらゆる妄想が起こるからである。」と。
「自然に思うように思うのでもなく、間違って思うでもなく、それかといって思わないのでもなく 思いをなくそうとするのでもない。」と言われると、
ではどうするのかと質問したくなる。せっかくブッダが形態の消滅方法を教えてくれたが、どうしていいか分からないのが実情。
それならば思わなければいいのだなというわけには行けない。「思わないのでもなく、思いをなくそうとするのでもない」とも言われているから。
これは一種の公案。
この言葉を理解するためには、「真理の言葉」が必要。その言葉がこの偈の中に述べられている。それは「思いによって ありとあらゆる妄想が起こるからである。」。
すなわち、形態も、ありとあらゆる妄想の一つであり、思いによって起こったものであると知った者には形態は消滅するということ。これこそが「真理の言葉」だと知った者は解脱する。
毎田先生は、「思いによって ありとあらゆる妄想が起こると言われる、一句こそは、仏法の真理の一句である。
怖そるべき、まことの一句である。その意味でこの874偈は第四章の最頂点に位するというべきである。」と述べている。
これは形態が滅すれば、接触がなくなり、接触がなくなれば、快・不快がなくなり、欲望がなくなり、我執がなくなり、一切の苦と楽がなくなるという仏教の根本に関わる一句だからである。
正田先生の訳「諸々の虚構の名称(世界認識の道具として虚構された概念)は、因縁として表象〔作用〕(想:認識対象を表象し概念化する働き)から〔発生する〕」。
言葉は難しいけれど丁寧に訳されている。
874偈については、まだ説明してない一番大切なポイントがある。ブッダの解答は一種の公案のようだと述べた。この公案を解くには智慧が必要。ではその智慧はどのようにして現れるのか。それは一大事の因縁によって現れると言われる。

○毎田周一先生訳
875.
「お尋ねしたことを 本当に明らかにお教え下さったので
更に付け加えてお尋ねしますが どうかそれも教えて下さい――
ある賢い人達は この世ではここまでが
人としての最高の清らかさであるといいますが
それともそれ以外のことを説く人もあるのでしょうか

○毎田周一先生訳
876.
「ある賢い人達は この世ではここ迄が
人としての最高の清らかさであるというが
それらのうちのある人達は その外に
一切が無に帰すると巧みに説いて そんなことを究極のこととして論ずる」

ブッダは、質問者の追加の質問に答えた。ある賢者達は、「形態の消滅」が人間の精神の最高の清浄であると主張します。
しかし、別の賢者達は「一切が無に帰すること=(精神も肉体も)残りなく消滅すること=〔生存の〕依り所という残りものがないもの(無余依)」が最高の清浄だと説いていると述べます。

○毎田周一先生訳
877.
「静かな人はこんな人達が『拠り処をもつ人』であると知り
その拠り処が一体何であるかを明らかにし それを離れて自由の人となる
しかし智慧の人が決してあれこれの生き方をしないことを知っているから
人といい争ったりしないのである」

質問者の最後の問に対して、「形態の消滅が最高の清浄だと言う人達も、それを拠り所にしてこだわっていると知った。
それに対して、一切が無に帰すことが最高の清浄と言う人達もその見解にこだわっていると知った。
それらのこだわりをよく知って、解脱した人はそれらの論争に近づかないのである。」と全体をまとめた。

「争いと論争の経」この経はスッタニパータ第四章の頂点にあると言われているが、難しく、特に874偈は難解だが、仏教の真髄が述べられている。

(´・(ェ)・`)つ

206鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/12(火) 22:15:23.57ID:OYgi2Bae
>>200 そのようなものじゃ。
 少しでも実践する者の方が経の意味もよくわかるようになるのじゃ。
 実践する者は幸福なのじゃ。
 実際に安楽への道を歩んでいるのであるからのう。
 実践が全てなのじゃ。
 

207名無しを整える。2017/12/13(水) 18:29:35.43ID:DQ6rZs1E
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、12、並ぶ応答─小篇

878 (世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。
──「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。

879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人でない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真理なのであろうか?

880 もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であって、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。

881 またもし自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるのならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるから。

882 諸々の愚者が相互に他人に対していうことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。

883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の<道の人>は同一の事をを語らないのであろうか?

884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。

885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか? かれは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか? あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?

886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。
かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考研を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。

(´・(ェ)・`)つ

208名無しを整える。2017/12/13(水) 18:40:13.44ID:DQ6rZs1E
>>207
○毎田周一先生訳
878.
「賢い人達が めいめい自分の見方に立ち それをしっかり○まえて
みなが違う説を述べ――
『こういうように知るものが真理を知って居り
これを斥けるものは完全な人間ではない』といっています。
今回の「小集積経」も、「争いと論争の経」と同じように、神々の大集会における神々の疑問を晴らすために、化仏(化身)を作り、質問させて、述べたものであると言われている。
世の中の論争者は自分を賢いとし、他の論者を愚かだと決めつけていることを指摘して、その態度を批判している。すべて自分の断定を捨てる人は論争しないと述べている。
内容は4章4の「清浄八詩句経」と次の4章13の「大集積経」と重なるところがある。
質問者(化仏)が世の中の論争者の態度について述べている。
○毎田周一先生訳
879.
「その人達は自分の立場を離れないでいい争い
『外のものは愚か者で 正しくない』といっています
その人達はみな自分こそ正しいと思って説いていますが
一体 これらのうちで どの説が真理なのでしょうか」
質問者の言葉。「では一体これらのうちで どの説が真理なのでしょうか?」と問うことになった。
○毎田周一先生訳
880.
「もしも他人の説を認めないものが
愚か者で 畜生 低能ということになれば
彼等も亦すべて愚か者で 低能ということになる
何故なら彼等はみな自分の説を掴んで離そうとしない者ばかりであるから
論争者が他人の説を認めないならば、愚か者で低能であると言うのであれば、論争者はすべて愚か者で低能であると言わざるを得ないというもの。なぜならば、彼等はすべて、自分の説を固執して、離そうとしていないから。
○毎田周一先生訳
881.
またもし自分で正しいと認めている物の見方で清められて
清らかな智慧の人 正しい人 悟った人となるなら
彼等のうち誰ひとりとして 低能などあろう筈がない
何故なら彼等の物の見方は 彼等自身にとって みな同じ完全無欠なものだからである
ブッダの次の答えは前回と反対の事柄。すなわち、自分の見解で清浄になり、真理に達した人になるならば、誰も劣った人にはならないということ。何故ならば、自分の見解を述べる人は、自分の見解は正しく、完全だと思っているから。
しかし、実際は自分の見解を述べる論争者達は、お互いに相手を愚か者、相手の見解は正しくないと言い合っているのが、実状。何故か。
○毎田周一先生訳
882.
対立するものが互いに相手を愚かだといってきめつけている どちらの見方に対しても
私は『こちらが真理である』などとはいわない
彼等は自分の見方をそれぞれ真理として
他人を『愚かだ』と見ているのに過ぎない」
「世の賢者と言われる人々や学者達は、お互いに自分の見解に固執して、自分の説を正しいとして、他の説は不完全で劣っている。では一体どの説が真実なのでしょうか?」と質問者はブッタに問う。
それに対して、ブッダは880で、「もし他人の説を認めない者が愚か者になるならば、すべての者は愚か者になる」と言われ、
また881では逆に、「自分で正しいと認める見解で、自分が浄められ、悟った者になるのならば、誰一人として愚か者にはならない」と述べられた。
それらの言葉は、その内容の否定を意味している。何故ならば実状はそうではないことが明らかであるから。
そこで882で、ブッダは対立するどちらの見解に対して、「こちらが真理であるなどとは言わない。彼等は互いに自分の見解を真理とし、相手を愚か者と言っているに過ぎない。」と述べた。
○毎田周一先生訳
883.
「一方の人が『まことだ 本当だ』ということを
外の人は『無意味だ 間違っている』といい
みなが自分の説にとりついて いい争っています
どうして道を修める人達が 一つのことを一致していわないのでしょうか」
今回は質問者の第二の質問。
(´・(ェ)・`)つ

209名無しを整える。2017/12/13(水) 19:05:16.45ID:DQ6rZs1E
>>207
○毎田周一先生訳
884.
「真理は一つであり 第二のものはないと
本当に知るならば それでも尚いい争うことはないだろう
処が彼等はそれぞれに違ったことを 真理として それをめいめいでほめたたえている
だから道を修める人達は 一つのことを一致して言わないのである

ブッダの解答は「「真理は一つであり 第二のものはないと本当に知るならば それでも尚いい争うことはない。」ということ。
この解答は実は結構難しい。これだけ言われて、なるほどとはなかなか思えないのではないか。なぜ真理が一つならば論争しないのか?
先ず、真理とはどういうものか? また一つである真理とはなにか?
仏教で真理と言えば、人を解脱に導く言葉と理解しておく必要がある。
そうすると、真理を知らない人は、解脱に導く言葉を知らないから、同じ言葉を言えない。真理を知っている人には論争する必要はない。また論争する無意味さをよく知っているから論争しない。

(´・(ェ)・`)つ

210名無しを整える。2017/12/13(水) 19:07:15.12ID:DQ6rZs1E
○毎田周一先生訳
885.
「自分を正しいと主張する人が
どうしてそれぞれの真理を説いて 真理がいくつもあることになるのでしょうか
彼等は多くの真理を 様々に聞いたのでしょうか
それとも彼等は疑わしい 根拠もない考えを 頭の中へ植えつけられているのでしょうか」

ブッダは覚ってない人に真理を伝える時、言葉によってしか伝えられない。だから、真理を言葉で表現して、伝える。
ただ、覚ってない凡夫はその言葉を正しく理解できないだけ。覚ってない修行者も理解できないが、その言葉を手掛かりに、言葉の真意を理解しようとし、それを理解したとき覚る。

○毎田周一先生訳
886.
「沢山のさまざまな真理があろう筈がない
いくつもあるのはただ世間で 永遠の真理だと思っているものがあるのに過ぎない
人々は色々の根拠のない考え方を組み合わせて
『これが真理だ あれは虚偽だ』とこの二つのことを並べていっているのである

前回の偈は「自分を正しいと主張する人々がそれぞれの真理を説いているが、真理がいくつもあることになるのか? 彼等はいろいろ聞いたからか? 頭のなかでいろいろ考えたからか?」という質問であった。今回の偈はブッダのこれに対しての答え。
ブッダは真理は一つであると述べているから、当然真理が幾つもあるはずがないと答えた。しかし、世間にはいろいろ真理があるように見えるのは、それぞれの人がそれぞれの思う真理を真理だと述べているのに過ぎないのだと説明された。
その方法は根拠のない思いを組み合わせて、「これは真理だ。あれは虚偽だ。」と説いているのだとブッダは痛烈に批判した。

世間に真理がいろいろあるように見えるのは、結局それは真理と思って言う人も、真理と思って聞く人も一つである真理を知らないから。
もし、言う人も聞く人も真理が分かっていれば、一つである真理を説くだろうし、真理を知った人は真理以外の言葉を聞いてもそれを真理とは思わないから、真理がいろいろあるとは思わない。
(´・(ェ)・`)つ

211鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/13(水) 21:16:48.66ID:KQXhVUp/
真理とは四諦なのじゃ。
苦を滅し、悟りに導く真理なのじゃ。
それを知れば論争する暇も無く実践あるのみなのじゃ。

212名無しを整える。2017/12/14(木) 18:51:10.80ID:/4OJGAGC
>>211
鬼和尚こんばんは。
ふむふむ。
人生は苦であり。苦を克服するためには、心をありのままに観察し、観察により、心も自我も観念に過ぎないものであり、実体がないと見極めて、無我にまで達すればよいのでありますね。
そもそも自我などないものだと言う理屈を暗記して議論してみても、苦を克服することはできず、ひたすら無我と見極められるまで、観察するのでありますね。

人生は苦であると言うことと、それを克服するための修行方法であるところの止観が真理でありますね。
(´・(ェ)・`)つ

213名無しを整える。2017/12/14(木) 18:55:37.78ID:/4OJGAGC
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、12、並ぶ応答─小篇

887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。

888 反対者を(愚者)であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。

889 かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。

890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。
また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称しているのであれば、諸々の、<道の人>のうちには愚者は一人も存在しないことになる。

891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。

892 ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。

893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

(´・(ェ)・`)つ

214名無しを整える。2017/12/14(木) 19:12:04.95ID:/4OJGAGC
>>213
○毎田周一先生訳
887.
見解とか学問とか徳行とか思想とか
そういうものに腰をおろして 人を軽蔑し
自分の独断の上に立って 得意げに
『これを知らぬものは 愚か者で 間違っている』といっている

○毎田周一先生訳
888.
他人を『愚か者』と見るのだから
自分自身を『正しい』というのである
つまり自分を正しいと認めるから
他人を軽蔑して そういうことをいうのである

○毎田周一先生訳
889.
見当の狂ったものの見方をしながら 自分を完全なものと思い
高ぶってのぼせ上がり もう心がそれだけになり
自分をこの世の神聖な第一人者だと自認している
それというのも彼の見方は 自分にとってそんなにも立派な完全なものだからである

自分が正しいと主張する人の心の状態を述べている。見当違いのものの見方をしながら、慢心によって狂い、自分を完全な者であると思い、意で灌頂している。

「意で灌頂しているのです。」とは、自らを自らの手で王位に就けること、即ち自分をこの世の王のように一番偉いと思いこんでいるということ。まさに狂っている。そして、そのような人々にとって、自分の見解は立派なものと考えている。

○毎田周一先生訳
890.
もし人にそういわれた丈で 劣った人になるのなら
そのようにいう彼自身が低能ということになろう
又もし自分一人でそう思えば 最高の智慧の人 賢い人となるのなら
家を離れて道を修める人達の中に 誰一人として愚か者はいないことになる

今回の偈は、880、881で述べた内容の再説。「もし人に言われただけで劣った人になるなら、そう言った人は低能になる。何故なら他人は他人を愚か者と言うから。」
もう一つは「又自分一人でそう思えば、最高の智慧者になり、賢い人になるのなら、誰でも賢い人になる。何故なら、皆自分は賢いと思っているから。」である。

しかし、実際にはそのようなことはない。だから、上の仮設は成り立たない。

○毎田周一先生訳
891.
『これ以外の教えを説く人は 清らかでも完全でもない』と
異説を称える人達は一般にそういうのである
何故なら彼等は自分の説の正しさに夢中になり
のぼせ上っているからである

何故このように、自説に執着する人々について、言葉を少し変えて、繰り返し述べるのか。言葉が少し変われば、イメージが少し変わる。イメージが変われば、あるイメージでは分からなかった人も分かることがある。
ブッダは言葉を少し変えて繰り返し述べ、分からなかった人を分かるように、頭で理解するだけでなく、心でも分かるように、懇切丁寧に教えておられる。
(´・(ェ)・`)つ

215名無しを整える。2017/12/14(木) 19:13:43.33ID:/4OJGAGC
>>213
○毎田周一先生訳
892.
『ここにこそ清らかさがある』と説いて
他の教えの中には 清らかさがないという――
このように異説を称える人達は すべて執著して
自分自身の道をしっかりつかまえて論じている

その人の言葉が真実かどうかは、その人の言葉や行いでわかる。自分は清浄だと言いながら、他人を批判することはどうか。その態度は清浄とは思えない。
だから、この人は言っていることとその態度が違っている。もうこの事実で彼は間違っていると言える。

○毎田周一先生訳
893.
自分の道をしっかり○まえて論ずるものが
外の誰を『愚か者』だということができよう
外の説を愚かだ 汚れた教えだというのなら
外ならぬ彼自身が 不和を引き起す当人ではないか

○毎田周一先生訳
894.
彼は独断の上に立って その説を作り上げ
世間に出て 論争に憂身をやつす――
一切の断定を捨ててしまえば
人は世間で誰とも争わないで済むのに」

ブッダは893で自説に固執している論者自身が世間に不和をもたらしていることを指摘して、批判したが、それに対しての平和な道が894で示された。
「一切の断定を捨ててしまえば、人は世間で誰とも争わなくて済むのに」ということ。これはブッダの金言。心に銘記しておけばその功徳は大。
誰には他人ばかりでなく、自分自身も含む。自分自身も誰かの一人だから、自分自身とも争わないということになり。自分自身と争わないとは、心に葛藤がないということ。
心に葛藤がない人の心は安定して、穏やか。一切の断定を捨てれば、心も安定して、穏やかになる。
断定とはなにか?自分の制限された想いで作り出されたもの。これは無限の世界で通用するはずがない。通用出来ない断定を振り回せば世界は混乱する。だから、「断定を捨てれば」よいと述べられている。
それではどのように想うべきかという問題がある。874の「ありのままに想う者でなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。」そのように想う者のように想うべきなのだ。
(´・(ェ)・`)つ

216鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/14(木) 21:59:19.64ID:bkt2o+wU
>>212 そうじゃ、人を悟りに導く法こそ真理と呼べるものなのじゃ。
 そうでなければ人が真理として記憶し、伝えていく必要も無いものじゃ。
 四諦を実践していくことが真理を守り伝えていくことなのじゃ。

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