鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ

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1名無しを整える。2017/10/28(土) 12:13:14.50ID:RQll0QsW
前スレ:鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2

ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

533 サビヤがいった、「何を得た人を<学識ある人>と呼ぶのですか? 何によって<すぐれた人>となるのですか?
 またいかにして<行いの具わった人>となるのですか? <遍歴行者>とはそもそも何ですか?
 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

534 師が答えた、「サビヤよ。教えを聞きおわって、世間における欠点あり或いは欠点のないありとあらゆることがらを熟知して、あらゆることがらについて征服者・疑惑のない者・解脱した者、煩悩に悩まされない者を、<学識のある人>と呼ぶ。

535 諸々の汚れと執著のよりどころを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。三種想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、──かれを<すぐれた人>と呼ぶ。

536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは<行いの具わった人>である。

537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、偽りと慢心と貪欲と怒りと<名称と形態>(個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人、──かれを<遍歴の行者>と呼ぶ。」

 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、座から起ち上って、上衣を一方の肩にかけ(右肩をあらわし)、師に向かって合掌して、ふさわしい詩を以て目のあたり師を讃嘆した。

538 「智慧ゆたかな方よ。諸々の<道の人>の論争にとらわれた、名称と文字と表象とにもとづいて起った六十三種の異説を伏して、激流をわたりたもうた。

273名無しを整える。2017/12/25(月) 19:24:33.11ID:DQSkBJuv
>>271
○毎田周一先生訳
963.
「世を厭いて 人里離れた坐る場所や臥せる場所にいて 最高の智慧を求めるものが
サーリプッタよ と世尊は言われた
どのようなことを楽しみ
また 如何に真理のままに生活してゆくかを
私の知り得たままに あなたに話してあげよう

ブッダはその解答を、次のような者に説くことを語る。
@世を厭う者=〔世俗の生活を〕忌避している者
A人のいない坐臥所に親しむ者=人里離れた坐る場所や臥せる場所にいる者=〔無用となり〕遠ざけられた坐所と臥所に慣れ親しんでいる者
B最高の智慧を求める者=さとりを欲する人=正覚を欲する者
次に何を説くかを語る。
@どのようなことを楽しみ=さとりを欲する人が楽しむ境地=平穏〔の境地〕
A如何に真理のままに生活してゆくか=法にしたがって実践する次第=(正田先生訳ではこの項は、どのように説くかの項に入れてある。)
更に、ブッダはどのように説くか語る。
「私の知り得たままに あなたに話してあげよう。」=「わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。」=「法(真理)のままなるとおりに、それを、あなたに言示しましょう
――〔わたしが〕覚知している、そのとおりに。」

○毎田周一先生訳
964.
いつも目醒めて 心をひきしめている修行者は
五つの恐れを しかも恐れてはならない――
即ち 虻(あぶ) 蚊と 爬虫類と
人間への接触と 四足獣とである

修行者は五つの恐怖を恐れてならないというもの。五つの恐怖とは、@虻アブとA蚊(蚋ブヨとも訳されている。)とB爬虫類(蛇など)とC人間との接触とD四足獣です。

「C人間との接触」の人間は盗賊などを指していると思われるが、修行者は盗賊でなくてもすべての人間との接触を恐れてはならない。一切の生命に慈悲の心を育てようとする修行者はどんな人間も恐れてはならない。
(´・(ェ)・`)つ

274鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/25(月) 21:32:19.17ID:BDp2L8Fz
インドは熱帯であるから虫や爬虫類も多かったのじゃ。
それらをも恐れず修業すべきなのじゃ。

275名無しを整える。2017/12/25(月) 22:02:21.08ID:DQSkBJuv
>>274
なかなかの苦行のように思えるであります。
(´・(ェ)・`)つ

276名無しを整える。2017/12/26(火) 18:41:31.13ID:jHrloFhd
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、16、サーリプッタ

964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻と蚊と爬虫類と四足獣と人間(盗賊など)に触れることである。

965 異った他の教えを奉ずる輩を恐れてはならない。──たといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。──また善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。

966 病いにかかり、餓えに襲われても、また寒冷や酷暑をも耐え忍ぶべきである。かの<家なま人>は、たといそれらに襲われることがいろいろ多くても、勇気をたもって、堅固に努力をなすべきである。

967 盗みを行なってはならぬ。虚言を語ってはならぬ。弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈しみを以て接せよ。心の乱れを感ずるときには、「悪魔の仲間」であると思って、これを除き去れ。

968 怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくしておれ。また快いものも不快なものも、両者にしっかりと、うち克つべきである。

969 智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。奥まった土地に伏す不快に堪えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。

(´・(ェ)・`)つ

277名無しを整える。2017/12/26(火) 18:44:57.92ID:jHrloFhd
>>276
○毎田周一先生訳
965.
異教を奉ずるものも恐れてはならぬ
たとえ彼等に幾多の恐るべきもののあるのを見ても――
そして又善いことを求めて止まぬものは
その他の危難にも打克ってゆかねばならない

964で虻と蚊と蛇と人間との接触と猛獣の五つの恐怖を恐れてはいけないと説かれた。怖れるということは、それらを嫌うということで、それらに悪意をもつこと。
そもそも善を求め、心の汚れを除こうとする修行者の心に悪意があってよいのか。悪意は取り除かなければならない。すべての生命に慈しみの心を持たなければいけない。
965では、五つの恐怖の外にも、異教徒に対しても恐れてはならないと説かれている。
ブッダの時代のインドでも新興の仏教に対して、多くの異教徒から迫害や嫌がらせもあった。その後も、イスラム教による仏教寺院と経典の焼き討ちや仏教徒の迫害などがあった。現代でも異教徒のそのような行為は続いている。
しかし、それらを恐れてならない。そればかりではなく、慈しみの心で接することを考えなければならない。
この偈では、更にその他の諸々の危難を征服するようにと説かれている。

○毎田周一先生訳
966.
病気に罹(かか)り飢えに襲(おそ)われても
又寒さやひどい暑さにあっても それを堪え忍ばねばならない
――ことに家を離れて修行するものにそういうことが多いのではあるが
自らを励まし 勇気をもって しっかりと自分の道を行かなければならない

965の四行目に「その他の危難にも打克ってゆかねばならない」と説かれていた。その他の危難とは、具体的には今回に述べられている「病気と飢えと寒さと暑さ」。
病気になると、身体の何処かが痛くなる、或は苦しくなる、身体の自由が効かなくなる、またそれらのことから、死ぬのではないかという恐怖が現れる。
そのため、身体の支配者であるべき心は身体の奴隷になり、いつも身体の心配をして、考えることは病気のことばかりで、自分にとって一番大切なことは、病気が治ることになる。
善を求め、心の汚れを取ることがおろそかになってしまう。その意味で修行者にとって病気は大きな危難。
「飢えは最大の病である。」(ダンマパダ203)と言われるから、病気が修行者の大きな危難であれば、「飢え」は修行を妨げる最大の危難。
飢えた人には、修行などはどうでもよいものになってしまう。瞑想していても食べ物に関する妄想が頭に去来する。しかし、固い決心をした修行者はこれらを克服する。
病気や飢えの危難がなければ、寒さと暑さは修行者にとって大きな危難になる。
ブッダの活動されていたインド東北部の乾季は非常に寒く、夏の暑さは非常に厳しいもの。現代の日本の状態からは考えられないもの。だから、寒さ暑さというものも大きな危難。
しかし、怠け者の修行者にとっては、寒さ暑さは怠けの言い訳になるから、寒さ暑さも危難と言えるのです。修行中、寒い暑いという心が現れたら、心に怠けが現れたと注意しなければならないということ。
修行に集中していれば、寒さ暑さはあまり気にならないもの。修行者は怠け心に負けてはならない。
(´・(ェ)・`)つ

278名無しを整える。2017/12/26(火) 18:46:20.68ID:jHrloFhd
>>276
○毎田周一先生訳
967.
盗むことなく 嘘をつかず
弱いものにも強いものにも ひとしく慈愛を持って接するがよい
心の乱れに気付いたら
『暗黒の部分』が働くのだと それを取払うがよい

966で「寒さ暑さを耐え忍ぶべきだ」と述べたが、苦行を強いるものではない。仏教は苦行を奨励しない。なるべく、寒くもなく暑くもない処で修行できればそれが望ましい。しかし、少しの寒さや少しの暑さで弱音を吐くなと言うこと。
961でサーリプッタ尊者はブッダに以下のように質問しました。
熱心につとめる修行者には、
いかなることばを発すべきか? 
ここでかれのふるまう範囲はいかにあるべきか? 
かれのまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?(中村先生訳)
この質問に対するブッダの解答が967。
1.「いかなることばを発すべきか?」に対して、「虚言を語ってはならぬ。」
これは「偽りを語らない」ということ。
2.「ここでかれのふるまう範囲はいかにあるべきか?」に対しては、「盗みを行なってはならぬ。」及び「弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈しみを以て接せよ。」
前者は「与えられていないものを取らない」ということであり、後者は「生き物を殺さない」ということ。
3.「かれのまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?」に対して「心の乱れを感ずるときには、「悪魔の仲間」であると思って、これを除き去れ。」である。
これは「淫らな行為をしないこと。」及び「放逸の原因となり人を酔わせる酒・麻薬類を使用しない」ということ。
このように考察すると今回の偈は五戒の初期的な表現であると見ることが出来る。

○毎田周一先生訳
968.
怒りと思い上りとの力に屈せず
それらの根を掘りつくして 立たねばならない
そして又好き嫌いをいうことを
すっきりとあなたは克服せねばならぬ

煩悩は三つに分類できる。欲と怒りと愚かさ。最終的にはこの三つをなくすことが目標。
このうち欲は、なくすべきものですが、自分にとって必要なものと思っているから、なくそうという思いがなかなか現れない。
愚かさは欲よりも自分では気づけない。愚かさが現れている時は本当に愚かで、気づくということからかけ離れているからである。
この三つの中では怒りは、気づきやすいもの。しかも、怒りがある時は気分が悪い。本人も怒りたくないと思っている筈。
そこで968では怒り、特に激しい怒り、憤激をとりあげている。
憤激は非常に危険。憤激の結果に現れることは、すべて周りの人々も自分自身も不幸にしてしまう。あとで必ず、憤激さえしなければよかったということになる。
憤激というのは、高慢、過度な慢心から現れることが多い。謙虚な人はあまり怒ることはない。特に憤激などはしない。思い上り、高慢の態度を改めることにより、怒りを少なくすることが出来る。
そして、怒りと高慢の根を掘り尽くして、怒りと高慢を根絶するように説かれている。
968の後半は、好き嫌いをなくすように説かれている。ここでは怒りと関連して考えてみる。
怒りはとくに嫌いなものに対して現れる。好き嫌いの感情が少ない人は怒りはあまり現れない。怒りをなくすためには好き嫌いをなくすことも重要。好き嫌いをなくすことは欲の感情を少なくすることにもなる。
好き嫌いの感情は妄想が作り出すものなので、妄想をなくせば、好き嫌いの感情が少なくなる。この逆も言えることで、好き嫌いの感情を少なくすれば、妄想を少なくすることにもなる。

○毎田周一先生訳
969.
智慧を尊び 善行を楽しみ
以上に述べた危難に打克ち
人里離れた臥せる場所の不快に堪えて
次にいう四つの悲しみをこえねばならない

二行目の「以上述べた危難」とは、964の「虻、蚊、蛇、猛獣、人間」、965の「異教徒」、966の「病気、飢え、寒さ、暑さ」など。これらの堪え忍べと説かれていた。
しかし、968の一行目、二行目の「智慧を尊び 善行を楽しみ、以上に述べた危難に打克ち」とは、ただ堪え忍び、危難に打克てということではなく、智慧を発揮して、それを智慧を実践することで、危難に打克てと説かれている。
覚悟の決まった修行者は危難の時、智慧が現れる。そのことを特にここで述べられている。
(´・(ェ)・`)つ

279鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/26(火) 22:27:03.71ID:D6E7KmPn
>>275 そのようじゃ。
 オショーもたくさんの蚊には困っていたのじゃ。
 今安楽に修業できるものは幸運なのじゃ。

280名無しを整える。2017/12/27(水) 18:21:30.01ID:8VkZXmQ0
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、16、サーリプッタ

970 すなわち『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『(昨夜は)わたしは眠りづらかった』『今夜はわたしはどこで寝ようか』──家を捨て道を学ぶ人は、これら(四つの)憂いに導く思慮を抑制せよ。

971 適当な時に食物と衣服とを得て、ここで(少量に)満足するために、(衣食の)量を知れ。かれは衣食に関して恣ままならず、慎しんで村を歩み、罵られてもあらあらしいことばを発してはならない。

972 眼を下に向けて、うろつき廻ることなく、瞑想に専念して、大いにめざめておれ。心を平静にして、精神の安定をたもち、思いわずらいと欲のねがいと悔恨とを断ち切れ。

973 他人からことばで警告されたときには、心を落ちつけて感謝せよ。ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。

974 またさらに、世間には五つの塵垢がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触れられるものに対する貪欲を抑制せよ。

(´・(ェ)・`)つ

281名無しを整える。2017/12/27(水) 18:35:12.97ID:8VkZXmQ0
>>280
1○毎田周一先生訳
970.
「私は何を食べようか」「私はどこでたべようか」
「私は昨夜よく眠れなかった」「私は今日どこで寝ようか」という――
この四つの悲しみをさそい出す考えを
家を捨てて道を修める人は払い去らねばならぬ

何と具体的なのか? 仏教の修行はすべて具体的なもの。真のやさしさも具体的なもの。慈しみは具体的な言葉や行動で表現されるもの。これらの言葉にブッダの慈しみが感じられる。
「家を捨てて道を修める人」は、嘆き悲しみ(悩み)なるような思い・考えを止めるように説かれた。
いろいろ考えるから悩みになる。大丈夫だと思っていれば、悩みはない。大丈夫だと思えないと言うかもしれない。いろいろ考えることは無数にできるが、実際に起こることはそのうちの一つか、それ以外の事柄。
だから心配することは起らないと考えてよい。考えるだけむだ。

万が一不幸なことが起きても、だからどうなのか、起きたことは起きたこと。不幸とも言えないのである。その出来事に対応すればよい。困難があれば、智慧を発揮するチャンス。だから大丈夫なのだ。

○毎田周一先生訳
971.
ほどよい時に食物と衣服とを得られたら
それに充分に満足し その量に足ることを知って
それに向かう心を引締め 慎み深く村を行き
辱められても荒々しく言葉を返してはならない

比丘は托鉢によって、生活の糧を得る。それを乞食(こつじき)と言う。労働はしない。労働とは生活の糧は得るために、体力を使って働くことだが、比丘はそれをしない。
何故ならばそれは世間の生き方だから。比丘は世間の生き方から離れるために、労働をしないで乞食をする。
乞食では、適宜必要な時に、必要は量の食べ物を得たらそれで満足をしなければいけない。必要な量とは、空腹の苦しみをなくし、満腹の苦しみにならない量。比丘はその量を知って、求め過ぎてはいけない。
乞食(こつじき)は「こじき」とも読む。「こじき」は世間では普通尊敬される行為ではない。それは働かないで生活の糧を得る方法だから。それを世間では怠け者と見なすから。
「こつじき」と「こじき」は外からみれば同じように見える。そのため、世間の人々から、侮辱的な言葉を投げかけられる時もある。しかし、比丘はそれに対して粗暴な言葉を返してはならない。
何故なら比丘は覚悟して、世間から離れる生き方をしているのだから。
比丘が世間から離れた生き方をするのは、世間の生き方は欲に基づく生き方だから。
欲から離れた生き方は解脱するため。解脱は一切の苦しみから離れた平安な涅槃に到るため。

○毎田周一先生訳
972.
眼を下にじっと向けて うろうろと歩き廻らず
深い思いの中にあって 何事にもよく気付き
心の靜けさを保って 喜びも悲しみも届かぬ処へゆきつかねばならない
そして疑いの起る余地をなくして 後悔の念をたちきらねばならない

「眼を下に向けて」は、生物を傷つけないように下を向いて歩くという解釈もあるが、この偈の全体の流れからは、自分の内面に意識を向けるということだと思われる。
「うろうろと歩き廻る」は何かを求めて探し求めるというイメージ。ここでは「うろうろと歩き廻らず」だから、探し回らない。求めるものがない。欲がない。満足しているということになる。
「瞑想(禅定)に専念して」は、注釈書によると、「未だ生じてない禅定を生じさせ、また既に生じた禅定に習熟すること」となっている。
禅定のレベルは、八正道の正定で、ブッダは第四禅定までを定義しておられる。ブッダは第四禅定までを推薦していると考えられる。
三行目「平静をもって自己を統一し」(パーリ語原文からの訳)とは、第四禅定を体験して、自己を統一すること。
第四禅定とは、五禅支という禅定の時の五つの心の要素(尋、伺、喜、楽、一境性)のうちの、尋、伺、喜、楽がなく、一境性(集中力)と捨(平静で平等な心)のみがある禅定を言う。
そして、四行目「思いわずらいと欲のねがいと悔恨とを断ち切れ。」と結んである。深い禅定状態にある心には、「思いわずらいと欲のねがいと悔恨」はない。「思いわずらいと欲のねがいと悔恨」があると禅定には入れない。
(´・(ェ)・`)つ

282名無しを整える。2017/12/27(水) 18:40:38.52ID:8VkZXmQ0
>>280
○毎田周一先生訳
973
人から非難されたら その言葉を深く考えて(よくこそいってくれたと)喜びを感ぜねばならぬ
共に道に勤(いそ)しむ者に対しては 心を明るく開いて接し
その時にふさわしいよい言葉を用い
無駄話に過ぎないことは思うことすらないようにするがよい

972は瞑想修行について説かれたものだが、973は日常生活における修行について説かれたもの。
一行目「人から非難されたら その言葉を深く考えて(よくこそいってくれたと)喜びを感ぜねばならぬ」(毎田先生訳)。これはなかなか出来ないこと。
他人から非難されれば、それを受け入れて、反省するのではなく、非難に反発する心が現れる場合が多いが、自分の欠点を指摘してくれる宝のような言葉と受け入れられるならば、自分の欠点を自覚でき、それを自分を修正できる。
だから非難する人に対しては、自分の先生のように思い、感謝すべき。
ダンマパダ76参照。
二行目。「ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。善いことばを発せよ」(中村先生訳)。「ともに修行する人々」とは修行仲間。
これを少し広く解釈して、日常生活で関わりのある人々と理解。
それらの人々の中には、自分の苦手な人、嫌いな人もいる。それらの人々は自分を非難しなくとも、側にいるだけで嫌。彼等も自分の先生。彼等は自分の側にいるだけで、先生になってくれるので有り難い存在。
私が嫌っているのは彼等の自我だし、嫌っている私は私の自我。自我と自我の対立。妄想のかたまりである自我の対立に惑わされてはいけないということも分かってくる。
そして、何とか頑張って、「善いことばを発す」努力を続ければ、少しずつ心が変わってくる。彼等も私に優しい言葉をかけてくる。このようにして、自分の心が変わるのが分かる。

○毎田周一先生訳
974.
又更に世の中には五つの汚れがある
深くものを考える人は それを除くことを学べねばならない――
即ち形と声とそして又味と
香りと触れることとであって それらのものに向う貪りを捨てねばならない

ブッダはサーリプッタ尊者の質問に答えて、初めに「五つの恐れがあって、それらに恐れてはならぬ。」と答えられた。それらは虻と蚊と蛇と人間との接触と猛獣でした。その他、異教徒や病気や飢えの危難についても説かれた。
そして、今回は、「又更に世の中には五つの汚れがある」と述べられる。それらは、形と声と香り味と触れること。形とは眼の対象。声とは耳の対象。香りとは鼻の対象。味とは舌の対象。触れることとは身体(皮膚)の対象。
何故これらが汚れなのか?ここで汚れとは心の汚れを意味しているが、心の汚れは欲と怒りと愚かさ(無智)。
形が眼に作用すると、心は「快」か「不快」か「快でも不快でもない」のいずれかを感じる。快を感じる時はその快を失いたくない、もっと欲しいという欲が現れる。
不快を感じる時はその感覚を嫌がる怒りの感情が現れる。
また快でも不快でもない時は無関心の状態になり、愚かさ(無智)という汚れの状態になる。
という訳で、形は心の汚れになる。同様に声、香り、味、触れることは心の汚れになる。心の汚れに執着すること貪欲と言う。貪欲は打ち負かさなければならない。
(´・(ェ)・`)つ

283鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/27(水) 21:48:44.42ID:TG5jQM7S
それが制感の行なのじゃ。
五つの感覚を制して無我に入るのじゃ。

284名無しを整える。2017/12/27(水) 22:19:30.88ID:8VkZXmQ0
>>283
鬼和尚、こんばんは。
>974 よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。
とは、五感から、執着に連結しないようにしろということでありましょうが、これは、ありのままの観察だけでは達せられることでは無さそうであります。
又、
>貪欲を抑制せよ。
とも言ってますので、
感覚を抑制する、我慢するといった訓練になるのでありましょうかね?
(´・(ェ)・`)つ

285名無しを整える。2017/12/28(木) 08:16:46.53ID:EgOJJkC/
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、16、サーリプッタ

975 修行僧は、よく気をつけて、心もすっかり解脱して、これらのものに対する欲望を抑制せよ。かれは適当な時に理法を正しく考察し、心を統一して、暗黒を滅ぼせ。」
 ──と師(ブッダ)はいわれた。

<八つの詩句の章>第四おわる

まとめの句
 欲望と、洞窟と、悪意と清浄と、最上と、老いと、メッテイヤとバスーラと、マーガンディヤと、死ぬよりも前にと、争闘と、二つの<並ぶ応答>と、迅速と、武器を執ることと、サーリプッタの質問とで、十六になる。
 これらの経はすべて<八つの詩句の章>である。

○毎田周一先生訳
975.
思いも深く よく心の自由を得た修行者は
これらの五つのものに対する強い欲求を離れ
時を外さず 物事を正しく考え抜き
心を集中して暗黒を払い去ってゆくに違いない
  ――と世尊は言われた――

毎田先生訳「これらの五つのもの」とは、974で述べられた「五つの汚れ」のこと。
すなわち、形と声と香りと味と触れること。これらのものが貪瞋痴を作り出すから、これらに対する欲求から離れる。解脱して、これらの欲求から離れると書いてあるが、これらの欲求から離れると解脱する。同一の事柄。
またこのことは、諸々の煩悩から離れることだから、覚ることでもある。この偈に書かれている暗黒とは無明のこと。無明を破ることは覚ること。無明を破るためには、無明を破る智慧が必要。
四行目「心を集中して暗黒を払い去ってゆくに違いない=心を統一して、暗黒を滅ぼせ=〔心が〕専一と成った者、〔世の〕闇を打破するでしょう」は、心は禅定に入り、そして智慧が現る
智慧が現れないと、禅定に入れないということでもある。(ダンマパダ282、372参照)そして無明が破れるの。修行の完成。修行の完成を持って、「サーリプッタ経」が終わり、そして「第4 八つの詩句の章」も終わる。

(´・(ェ)・`)つ
止観の止による禅定ということは、抑制や我慢とはやっぱり違うのでありましょうか?

286名無しを整える。2017/12/28(木) 18:48:25.71ID:EgOJJkC/
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、1、 序

976 明呪(ヴェーダ)に通じた一バラモン(バーヴァリ)は、無所有の境地を得ようと願って、コーサラ族の美しい都から、南国へとやってきた。

977 かれはアッサカとアラカと(両国の)中間の地域を流れるゴーダーヴァリー河の岸辺に住んでいた、──落穂を拾い木の実を食って。

978 その河岸の近くに一つの豊かな村があった。そこから得た収益によってかれは大きな祭りを催した。

979 かれは、大きな祭りをなし終って、自分の庵にもどった。かれがもどってきたときに、他の一人のバラモンがやってきた。

980 足を傷め、のどが渇き、歯がよごれ、頭は塵をあびて、かれは、(庵室の中の)かれ(バーヴァリ)に近づいて、五百金を乞うた。 
(´・(ェ)・`)つ

287名無しを整える。2017/12/28(木) 19:04:30.03ID:EgOJJkC/
>>286
第5 彼岸に到る道の章 第1経 序偈 1.

976
スッタニパータの最後の「第5 彼岸に到る道の章」が始まる。ヴェーダ聖典の奥義に精通したバラモンの師バーヴァリが16人の彼の高弟を連れてブッダの所に訪れた。
この偈のバラモンがバーヴァリ師。
無所有の境地は所有物や生活資材から離れることと言われている。

977
この偈の「彼」とは、バラモンのバーヴァリ師。彼はヴェーダに通暁していた達人で、コーサラ国の輔相(国師、司祭)であとたが、高齢になったため、それを辞退して、出家して、無所有の境地を目指していた。
コーサラ王からは手厚い保護を受けていた。しかし、彼自身は落穂や木の実を生きる糧としていた。
落穂は収穫のあとに落ち散った稲などの穂だから、不要になったものであり、また木の実は樹木にとっては取られることが期待されたものだから、樹木を害するものではない。

978
ゴーダーヴァリー川の近くに大きな村があった。その村で耕作などによって百千金に及ぶ収益が生まれた。
資産家たちはアッサカ国の王の処に行って、「王様、収益を使って下さい。」と申し出た。しかし王は「私はそれを使わない。バラモンの処に持って行きなさい。」と言った。
バラモン(バーヴァリ)は、それを自分で使わないで、布施供養祭を営んだ。このようにして彼は毎年毎年、布施を行っていた。

979
ある他のバラモンがバーヴァリ・バラモンを庵に訪れたことが、「第5 彼岸に到る道の章」が始まる切っ掛けになる出来事。

980
バーヴァリ・バラモンの処にやって来たバラモンは、足を痛め、喉が渇き、歯は汚れ、頭はちりをあびていました。彼は遠くから歩いてやって来たのだろう。
彼は、バーヴァリ・バラモンに近づいて、五百金をくれるように要求した。彼はバーヴァリ・バラモンが王の保護を得て、大きな収入を得て、大きな祭りを営んでいることを聞きつけて、その金の一部を自分にくれるように要求したのだと思われる。
当時のインドでは、今もそうかもしれないが、持たない者が持っている者からもらうということ(インドの常識?)は当然という感覚がある。

(´・(ェ)・`)つ

288鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/28(木) 21:47:12.11ID:uD2d+cfL
>>284 五感を観察する事でも制することができるのじゃ。
 それらを観察すれば自分の目とか見たこととか、自分が見るという自己同一化がなくなるからのう。
 実践あるのみなのじゃ。

 貪欲は三毒の一つなのじゃ。
 煩悩であり、修業の邪魔になるから滅すべきものなのじゃ。
 それだけを抑制しようとしても難しいじゃろう。
 原因から観察する事でそれもなくなるのじゃ。

289名無しを整える。2017/12/29(金) 08:09:02.11ID:NclIDNo0
>>288
鬼和尚、おはようございます。
ふむふむ。
我慢とか抑制を持ち込むと、「自分の」感覚を我慢、抑制というように、自我を強化してしまうでありましょうかね。
ここにおいても、あくまでありのままの観察が肝心でありますね。
観察されるものは観察するものではないと言うことが腑に落ちてしまえば、一気に解決なのでありましょうが、なかなか落ちぬくまであります。
(´・(ェ)・`)つ

290名無しを整える。2017/12/29(金) 17:44:39.05ID:NclIDNo0
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、1、 序

981 バーヴァリはかれを見て、座席を勧め、かれが快適であるかどうか、健康であるかどうか、をたずね、次のことばを述べた。

982 「わたくしがもっていた施物はすべて、わたしが施してしまいました。バラモンよ。どうかおゆるしください。わたくしには五百金がないのです。」

983 「わたくしが乞うているのに、あなたが施してくださらないならば、いまから七日の後に、あなたの頭は七つに裂けてしまえ。」

984 詐りをもうけた(そのバラモン)は、(呪詛の)作法をして、恐ろしいことを告げた。かれのその(呪詛の)ことばを聞いて、バーヴァリは苦しみ悩んだ。

985 それは憂いの矢に中てられて、食物もとらないで、うちしおれた。もはや、心がこのような気持では、心は瞑想を楽しまなかった。

986 バーヴァリが恐れおののき苦しみ悩んでいるのを見て、(庵室を護る)女神は、かれのためを思って、かれのもとに近づいて、次のように語った。

987 「かれは頭のことを知っていません。かれは財を欲しがっている詐欺者なのです。頭のことも、頭の落ちることも、かれは知っていないのです。」

988 「では、貴女は知っておられるのでしょう。お尋ねしますが、頭のことも、頭の落ちることをも、わたくしに話してください。われらは貴女のおことばを聞きたいのです。」

989 「わたしだってそれを知っていませんよ。それについての知識はわたしにはありません。頭のことも、頭の落ちることも、諸々の勝利者(ブッダ) が見そなわしておられます。」

990 「ではこの地上において頭のことと頭の裂け落ちることとを、誰が知っておられるのでですか? 女神さま。どうかわたしに話してください。」

991 「むかしカピラヴァットゥの都から出て行った世界の指導者(ブッダ)がおられまするかれは甘蔗王のの後裔であり、シャカ族の子で、世を照す。

992 バラモンよ。かれは実に目ざめた人(ブッダ)であり、あらゆるものの極致に達し、一切の神通と力とを得、あらゆるものを見通す眼をもっている。あらゆるものの消滅に達し、煩いをなくして解脱しておられます。

993 かの目ざめた人(ブッダ)、尊き師、眼ある人は、世に法を説きたもう。そなたは、かれのもとに赴いて、問いなさい。かれは、それを説明するでしょう。」

994 <目ざめた人>という語を聞いてバーヴァリは歓喜した。かれの憂いは薄らいだ。かれは大いに喜んだ。

995 かのバーヴァリはこころ喜び、歓喜し、感動して、熱心に、かの女神に問うた。
「世間の主は、どの村に、またどの町に、あるいはとせの地方にいらっしゃるのですか?
そこへ行って最上の人である正覚者をわれわれは礼拝しましょう。」

996 勝利者・智慧豊かな人・いとも聡明な人・荷をおろした人・汚れない人・頭のおちることを知っている人・牛王のような人であるかのシャカ族の子(ブッダ)は、コーラサ国の都であるサーヴァッティーにまします。」
(´・(ェ)・`)つ

291名無しを整える。2017/12/29(金) 17:53:16.95ID:NclIDNo0
>>290

981 982

983 984
注釈書によると「(呪う)用意をしてから」とは、
牛糞・森の花・クサ草などを取って、大急ぎでバーヴァリ・バラモンの庵の戸口に行き、牛糞を地面になすりつけ、花をまき散らし、草を敷き拡げ、左足を長口のある水瓶の水で洗って、七歩ほど行って、自分の足裏をこすって、
このような欺瞞を行って」ということ。
このような何か意味がありそうな欺瞞でバーヴァリ・バラモンを嚇した。バーヴァリさんにとってはとんだ災難だが、このおかげでバーヴァリさんはブッダに会う切掛けになったのだから、よかったのかもしれない。

985 986
バーヴァリさんはヴェーダ聖典に精通したバラモンだったが、それだからこそ自分の知らない呪いの言葉のまやかしに騙されてしまったのかもしれない。呪いの言葉が、矢のように彼の心を打ちぬいて、嘆き悲しむ。
そのため食べ物を食べることもできず、やつれはてる。
それを見かねた、彼の庵を守る女神がバーヴァリさんに近づいて、言葉をかける。

987、988
女神がバーヴァリさんを安心させようとして語った言葉は「かれは頭のことを知っていません。かれは財を欲しがっている詐欺者なのです。頭のことも、頭の落ちることも、かれは知っていないのです。」
(中村先生訳)
バーヴァリさんは、少し安心したかもしれないが、「頭と頭落ち」の意味が分からなければ完全には安心できない。そこで、彼は声をかけてくれた女神にその意味を聞いた。

989 990
女神様も頭や頭落ちについては知らなかった。ただ女神様はそのことについて勝利者が知っていると言った。この場合、勝利者とは一切を知るブッダを意味している。
「頭と頭落ち」とは、ブッダのみが知るもの。そうするとバーヴァリさんでもなくてもその意味を知りたくなる。バーヴァリさんは女神様に、この世界のどこの誰がそれを知っているのか尋ねた。

991 992
女神様は、頭と頭落ちについて知る方を教える。その方は、カピラヴァットという都の出身で、甘蔗王の子孫であり、釈迦族の王子であった。彼は出家して、修行して、悟りを開かれた。
つまり一切の現象に精通し、一切の神通力がり、一切を知る方であり、一切の煩悩を滅尽し、解脱し、一切の依存するものを滅尽した方である。

993 994
中村先生の訳で覚者と正覚者を「目ざめた人」を区別してないが、覚者はBuddhoの訳で一切の法を悟った者という意味で、正覚者はSambuddhoの訳で正しく一切の法を悟った者という意味。
世尊(尊き師)とは、bhagavの訳で六つの福徳をそなえた方という意味。
この六つとは@自在「自分に従わせる徳」、A道・果・涅槃の出世間法、B名声「よい評判」、C吉祥「めでたしるし」、D意欲「思い期待どおりにすべてが成就した徳」、E努力精進と言われている。
さて、バーヴァリさんはヴェーダ聖典に通暁した達人だから、「正覚者」の意味はよく知っていた。彼は「正覚者」という言葉を聞いただけで喜んだ。
「正覚者」は一切知者だから、バーヴァリさんが悩んでいた疑問は、正覚者に聞けば分かるとすぐに理解した。また彼は、正覚者はいつでも現れるものではないと言うことも知っていた。だから、自分は幸運であると思った。

995 996
正覚者がおられることを知ったバーヴァリさんは、大喜びで女神様にその方はどこにおられるか尋ねた。女神様は「コーサラ国の都のサーヴァッティ(舎衛城)におられると答える。
バーヴァリさんの心にその方に対する畏敬の念が現れて、彼はそこに行ってその方に礼拝したくなった。
996では、その正覚者を、勝利者、智慧ゆたか人(多大なる知慧ある方)、いとも聡明な人(優れた広き思慮ある方)、荷を下ろした人(〔人としての〕重荷を離れた方)、汚れのない人(煩悩なき方)、
頭落ちることを知っている人、牛王のような人(人の雄牛たる方)、釈迦族の子と表現している。
(´・(ェ)・`)つ

292鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/29(金) 19:32:56.47ID:+tUCr3hH
>>289 そうじゃ、あるがままに観るのじゃ。
 そうすれば気づくこともおおくなるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

293名無しを整える。2017/12/29(金) 21:04:41.30ID:NclIDNo0
>>292
鬼和尚ありがとうであります。

ところで、「見るものは、見られるものである」(A)と言う表現を、あちこちで目にするのでありますが、
その意味は、
人が認識している世界は、その人の記憶と照合した上でとらえられた観念であり、世界そのものではなく、むしろ、認識しているその人そのものであると言うような理解で良いのでありましょうか?

くまは、>>289に書いたように、「見るものは見られるものではない」(B)、と考えていたのでありますが、これは間違いでありましょうか?

例えば、身体や心を観察対象として、厭離すると言うことは、自分だと思っていたものは、自分ではなく、自分などどこにもいないと言うことに気付こうとすることだと思うのでありますが、

その際、見るもの(=主体)、見られるもの(=客体)ではないと考えた方がイメージしやすいきがするのであります。

(A)と(B)は反対のことを言ってるようでありますが、(A)は全ては観念に過ぎないこと、実在するもなど何もないと説くときに使われ、(B)は無我を説くときに使われると言うような理解でも良いのでありましょうか?、
(´・(ェ)・`)つ

294名無しを整える。2017/12/30(土) 08:53:25.92ID:uG1AuBfx
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、1、 序

997 そこでかれは(ヴェーダの)神呪に通達した諸々の弟子・バラモンたちに告げていった、
「来たれ、学生どもよ。われは、そなたらに告げよう。わがことばを聞け。

998 世間に出現すること常に稀有であるところの、かの<目ざめた人>(ブッダ)として命名ある方が、いま世の中に現れたもうた。そなたらは急いでサーヴァッティーに赴いて、かの最上の人に見えよ。」

999 「では(師)バラモンよ。かれを見て、どうして<目ざめた人>(ブッダ)であると知り得るのでしょう? われらはどうしたらそれを知り得るか、それを教えてください。われらは知らないのです。」

1000 諸々の神呪(ヴェーダ)の中に、三十二の完全な偉人の相が伝えられ、順次に一つ一つ説明されている。

1001 肢体にこれらの三十二の偉人の相のある人、──かれには二つの前途があるのみ。第三の途はありえない。

1002 もしもかれが、<転輪王>として家にとどまるならば、この大地を征服するであろう。刑罰によらず、武器によらず、法によって統治する。

1003 またもしもかれが家から出て家なきに入れば、蔽いを開いて、無上なる<目ざめた人>(ブッダ)、尊敬さるべき人となる。

1004 (わが)生れと、姓と、身体の特徴と、神呪(習ったヴェーダ)と、また弟子たちと、頭のことと、頭も裂け落ちることとを、ただ心の中で(口に出さずに)かれに問え。

1005 もしもかれが、見るはたらきの障礙のない<目ざめた人>(ブッダ)であるならば、心の中で問われた質問に、ことばを以て返答するであろう。」

1006 バーヴァリのことばを聞いて、弟子である十六人のバラモン──アジタと、ティッサ・メッテイヤと、プンナカと、およびメッタグーと、

1007 ドーカタと、ウパシーヴァと、ナンダと、およびヘーマカと、トーデイヤとカッパとの両人と、賢者ジャトゥカンニンと、

1008 バドラーヴダと、ウダヤと、ポーサーラというバラモンと、聡明なるモーガラーシャと、大仙人ピンギヤと、──

1009 かれらはすべて、それぞれ衆徒を率い、全世界に命名があり、瞑想を行い、瞑想を楽しむ者で、しっかりと落ち着いていて、前世に宿善を植えた人々であった。

1010 髪を結い羚羊皮をまとったかれは、すべてバーヴァリを礼し、またかれに右まわりの礼をして、北方に向って出発した。

(´・(ェ)・`)つ

295名無しを整える。2017/12/30(土) 09:10:16.39ID:uG1AuBfx
>>294
997 998
バーヴァリさんは、コーサラ国の輔相(国師)の息子として生まれ、三つの大丈夫の相(偉人の相)をそなえ、三ヴェーダの奥義を究め、父の死後は輔相の地位についていたが、三代の王に使えた後、出家した。
彼には16人の年長の奥義をきわめた内弟子がおり、更にそれぞれの内弟子には合計一万六千人の弟子がいた。
バーヴァリさんは、女神様の言葉を聞いて、弟子達を呼び集めた。そして弟子達に「学生どもよ。」と呼びかけるが、
この時の「学生」は、現代語で使われている「がくせい」ではなく、「がくしょう」と読み、今の意味の学生とは違う。研究者や教授という意味に理解した方がよい。なにしろヴェーダの奥義をきわめた達人たちだから。しかし、まだ覚者ではない。
「しかし、今日そのような善い評判の正覚者がこの世に現れたことを聞いた。その方はサーヴァッティーにおられますから、急いでそこに行って、人間として最上の人(両足尊)に会ってくるように。」と弟子達に命じた。
ダンマパダ182参照

999 1000
三十二相については、スッタニパータ「第3大きな章 7.セーラ・バラモン経の序」に記載。

1001 1002 1003
バーヴァリ・バラモンの弟子たちへの、三十二相を持つ偉大な人の説明。つまりこの相を持つ人は輪転王になるか、正覚者になるかのどちらかだということ。

1004、1005
三十二相をそなえた正覚者の能力は凄い。人の心の中が分かる。それはいわゆる他神通と言われる神通力。しかし、この能力は「見るはたらきの障礙のない人」にとっては特別な能力という訳でなく、自然な力なのだと思われる。
なぜならば、人間のすべての行動はその人の心の表現なのだから、その人を、ありのままに見れば当然その人の心が分かってくるからである。
また、他人を自分自身であるように感じる能力があるためで、自分のことならばわかる。

1006 1007 1008
16人のバーヴァリさんの高弟の名前が列挙されている。
これらの16人の弟子の一人一人がブッダに質問。その問答がこの章の本文になる。
序偈におけるバーヴァリさんの疑問、頭と頭落ちに関するブッダの解答は仏教の真髄を示す。

1009 1010
十六人の弟子達は、それぞれが多くの弟子を指導しており、全インド中で名前の知られた有名人であった。また彼等は瞑想にも勝れ、禅定を楽しむ者達でもあった。
「前世に宿善を植えた人々」とは、前世で善い行いをし、それが今世でブッダに会い、また質問できるという幸運にめぐり会ったということ。
結髪とは当時のバラモン達の髪方で、修行者は羊の皮の衣を着ていた。
「右まわりの礼」とは、「自分の右肩を相手の方に向けて、相手の人の回りをめぐること。敬礼の一つ。
右回りをすることは、当時バラモンたちのあいだで行われていて、それを仏教が取り入れたことが解る」と中村先生の「ブッダのことば」の注釈に書かれている。

(´・(ェ)・`)つ

296名無しを整える。2017/12/30(土) 18:35:48.92ID:uG1AuBfx
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、1、 序

1011 ムラカの(首都)パティターナに入り、それから昔の[都]マーヒッサティへ、またウッジェーニーへ、コ゜ーナッダ、ブェーディサへ、ヴァナサというところへ、

1012 またコーサンビーへ、サーケータへ、最高の都サーヴァッティーに行った。(ついで)セータヴィヤへ、カピラヴァットゥへ、タシナーラーの宮殿へ(行った)。

1013 さらに享楽の都市パーヴァーへ、ヴェーサーリーへ、マガダの都(王舎城)へ、またうるわしく楽しい(石の霊地)に達した。

1014 渇した人が冷水を求めるように、また商人が大きな利益を求めるように、暑熱に悩まされている人が木陰を求めるように、かれらは急いで(尊師ブッダのまします)山に登った。

1015 尊き師(ブッダ)はそのとき僧衆に敬われ、獅子が林の中で吼えるように修行僧(比丘)らに法を説いておられた。

1016 光を放ちおわった太陽のような、円満になった十五夜の月のような目ざめた人(ブッダ)をアジタは見たのであった。

1017 そこで(アジタは)師(ブッダ)の肢体に円満な相好のそなわっているのを見て、喜んで、傍らに立ち、こころの中で(ブッダにつぎのように)質問した。──

1018 「(わが師バーヴァリの)生年について語れ。(バーヴァリの)姓と特徴とを語れ。神呪(ヴェーダ)に通達していることを語れ。(師)バラモンは幾人に教えているのか?」

1019 (師はいわれた)、「かれの年齢は百二十歳である。かれの姓はバーヴァリである。かれの肢体には三つの特徴がある。かれは三ヴェーダの奥義に達している。

1020 偉人の特徴と伝説と語彙と儀規とに達し、五百人(の弟子)に教授し、自分の教説の極致に通達している。」

1021 (アジタいわく)、「妄執を断じた最高の人よ。バーヴァリのもつ諸々の特徴の詳細を説いてください。わたくしに疑いを残さないでください。」

1022 [師いわく]、「かれは舌を以てかれの顔を蔽う。かれの両眉の中間に柔い白い毛(百毫) がある。かれの隠所は覆いに隠されている。学生ょ、(かれの三つの特徴を)このように知れ。」

1023 質問者がなにも声を出して聞いたのでないのに(ブッダが)質問に答えたもうたのを聞いて、すべての人は感激し、合掌して、じっと考えた。──

1024 いかなる神が心の中でそれらの質問をしたのだろか? ──神か、梵天か、またはスジャーの夫なる帝釈天か? ──また[尊師は]誰に答えたもうたのだろう?

(´・(ェ)・`)つ

297名無しを整える。2017/12/30(土) 18:43:07.98ID:uG1AuBfx
>>296
1011
16人の弟子達は、16の都市を巡ってブッダの所に行く。

1012 1013
16という数字はインド文化では満数という意味がある。

1014
ブッダはサーヴァティーにおられると聞いて、そこに向っていたが、ブッダは活動の場所を移動されていた。そこで彼等はブッダの向かわれた場所に移動して行った。
そしてついに、ブッダはパーサーナカ廟(霊地)におられることがわかった。そこは山であった。それで彼等はその山に登った。
その時の彼等に気持ち、真理を求める気持ちを、三つに譬えで表現されている。
先ず、喉の渇いた人が水を飲みたい時の気持ち、商人が利益を求めようとしているときの気持ち、そして、灼熱の太陽の下で少しでも涼しさを求めて日陰を探している時の気持ち。

1015
バーヴァリさんの弟子達が、パーサーナカ廟についた時に、正覚者(ブッダ)は多くの比丘達に敬われて、森の中で吼えるライオンのように、説法をされていた。
「獅子吼とは、獅子のように吼えること声量豊かに語る、雄弁に語ることと思われている向きもあるが違う。雄弁に、大声で、流暢に、また説得力にあふれた話しの仕方ではない。
獅子吼とは、相手が誰であろうとひるむこと無く、正しいことを言う勇気ある姿勢をいう。百獣の王ライオンは勇敢な動物なので、その勇気ある姿勢から『獅子吼』と言っている。

ブッダの説法に関しては、「スッタニパータの第3 大きな章 4.善語経」
450.立派な人々は説いた──
最上の善いことばを語れ。(これが第一である。)
正しい理を語れ、理に反することを語るな。これが第二である。
好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。
真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である。
このようにブッダは説法される。これが獅子吼。

1016 1017
彼が正覚者であることを、更に確かめるために、喜びでワクワクして、師匠のバーヴァリさんに教えられて通りに、心の中で声を出さずに問を発した。

1018
アジタさんが心の中でブッダに質問した内容、実はこの質問は師匠のバーヴァリさんに、1004に示されている質問してくれと頼まれた内容。

1004には、生まれ(年齢)と姓と特相と真言(ヴェーダ)と弟子達と頭と頭落ちについて質問してくれと頼まれている。

1019、1020
ブッダは、アジタさんの心の中の問に対して、答えをのべた。

1021、1022
ブッダは、バーヴァリさんの特相について、三つあると答えた。しかし、アジタさんはバーヴァリさんの特相を具体的に知りたいと思った。
そこで、ブッダはバーヴァリさんの舌は大きく、その舌で顔を覆うことができる、また眉の間に白い毛が生えている、さらに陰部は身体の内に隠されていると説明した。
日本語では大舌相(だいぜつそう)、白毫相(びゃくごうそう)、 陰蔵相(おんぞうそう)と言う。

1023 1024
アジタさんの心の中の質問に対して、ブッダが1019、1020、及び1022でお答えになったので、人々に畏敬の念が起こり、合掌して考えた。
如何なる神が心の中で質問したのだろうかと、人々は考えた。この人々はアジタさんを除く、バーヴァリさんの15人の弟子とその弟子達。彼等は神か梵天か帝釈天が質問したのかと考えた。そしてその答えは誰に答えたものか考えた。

(´・(ェ)・`)つ

298鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/30(土) 21:05:02.80ID:EBAOCSTV
>>293 そうじゃ、見るものという観念は実は見られているから成立しているのじゃ。
 見る主体があるという観念は実は見られたものなのじゃ。
 それに気づけば自我が見られるのじゃ。
 見るものとして主体があるとと思っていたのが実はそうではなかったと気づくのじゃ。
 そのように理解すると善いのじゃ。

299名無しを整える。2017/12/30(土) 22:16:13.81ID:uG1AuBfx
>>298
鬼和尚こんばんは。

主体と思っていたものが、見られて=客体となって初めて成立する観念であることが見きわめられれば、
>>293の(B)の「見るものは見られるものではない」、と言う正しい結論と矛盾するとはっきり気付けるので、主体の不存在、無我に気付けるという理解で良いのでありましょうか。
(´・(ェ)・`)つ

300名無しを整える。2017/12/31(日) 09:05:28.68ID:28vahqdW
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、1、 序

1025 (アジタがいった)、「バーヴァリは頭のことについて、また頭の裂け落ちることについて質問しました。先生! それを説明してください。仙人さま! われらの疑惑を除いてください。」

1026 (ゴータマ・ブッタは答えた)、「無明が頭であると知れ。明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである。」

1027 そこで、その学生は大いなる感激をもって狂喜しつつ、羚羊皮(の衣)を(はずして)一方の肩にかけて、(尊師の)両足に跪いて、頭をつけて礼をした。

1028 (アジタがいった)、「わが親愛なる友よ。バーヴァリ・バラモンは、かれの弟子たちとともに、心に歓喜し悦んで、あなたさま(ブッダ)の足下に礼拝します。眼あるかたよ。」

1029 (ゴータマは答えた)、「バーヴァリ・バラモンも、諸々の弟子も、ともに楽しくあれ。
学生よ、そなたもまた楽しくあれ。永く生きよ。

1030 バーヴァリにとっても、そなたにとっても、もしも疑問が起って、心に問おうと欲するならば、何でも質問なさい。」

1031 <目ざめた人>(ブッダ)に許されたので、アジタは合掌して坐して、そこで真理体現者(如来)に第一の質問をした。

ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、2、学生アジタの質問

1032 アジタさんがたずねた、
「世間は何によって覆われているのですか? 世間は何によって輝かないのですか? 世間をけがすものは何ですか? 世間の大きな恐怖は何ですか? それを説いてください。」

1033 師(ブッダ)が答えた、
「アジタよ。世間は無明によって覆われている。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である、とわたしは説く。」

1034 「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎ守るものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説いてください。」

1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」

1036 アジタさんがいった、「わが友よ。智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか? おたずねしますが、このことをわたしに説いてください。」

1037 アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」

1038 「この世には真理を究め明らめた人々もあり、学びつつある人もあり、凡夫もおります。おたずねしますが、賢者は、どうかかれらのふるまいを語ってください。わが友よ。」

1039 「修行者は諸々の欲望に耽ってはならない。こころが混濁していてはならない。一切の事物の真相に熟達し、よく気をつけて遍歴せよ。」

(´・(ェ)・`)つ

301名無しを整える。2017/12/31(日) 10:44:19.42ID:28vahqdW
>>300
1025、1026
アジタ学生は心の中で、バーヴリ・バラモンの一番切実な問である「頭について、頭が裂け落ちることについて」その意味を尋ねた。
ブッダは呪いの言葉であると思われた言葉に対して、その真実の意味は明らかにする。それはすべての生命にとって宝というべき真理であり、仏教の真髄だった。
ブッダは頭とは無明を意味しているのだと述べた。そして頭を裂け落とさせるものとは明知(智慧)であると説かれた。
無明である頭を裂け落とすと明知が現れる。明知が現れた時、修行者はありのままに見ることが出来る。そして解脱する。これこそが解脱のメカニズム。仏教の真髄。

1026では、さらに明知は信と念と定と意欲と精進と結びついていると説かれている。無明を克服するものは明知だが、それは信と念と定と意欲と精進を縁にして生まれる。
信は自分も解脱できるという信念。念は注意深くいること、解脱に関わることを見逃さないこと、自分の心の観察もあるが、人の言葉も注意深く聞くこと。今回の経で言えば、呪いの言葉にも真理を見出そうとすること。
定は心の落ち着きと静けさ。妄想をなくすこと。意欲とは解脱しようとする意欲。そうして精進とは解脱をあきらめないで挑戦すること。すべて解脱に向って進むこと。これらが明知に結びついている。

1027 1028
ブッダに頭と頭落ちについて真実の意味を聞いたアジタさんは、大いなる感激(畏敬の念)を持って、中村先生訳では、「狂喜しつつ」、皮の衣の片方の肩を脱いで、ブッダの足元にひざまずいて、頭をブッダの足につけて最敬礼をした。

1029、1030 1031
ブッダは、アジタさんが自分の言葉を理解したことを知り、バーヴァリ・バラモンとその弟子達すべてを祝福した。
さらに、心に思う疑問があるのならば、何でも尋ねるがよいと、質問することを許可した。

1032
アジタさんはブッダに対して8つの質問をした。
今回は世間に関するもの。ここで世間と訳したパーリ語はloka。lokaには世界とか世間のいう訳語がある。しかし、仏教の関心の中心は生命や人間だから、世界とか世間と言っても、具体的にはその中の生命や人間に焦点を当てて考えた方が理解しやすい。
1.人間は何によって覆われているのか?
2.人間は何によって輝かないのか?
3.人間を汚すものは何か?
4.人間の大きな恐怖は何か?
これらの質問は、アジタ学生の深い自己の洞察から生まれたもの。多くの人間は自分が何かにおおわれていることに気付いていない。皆自己の現状を当たり前であると思っているから、おおわれていることに気付けない。
おおわれているとどうなっているのか?周りを正しく見えてない。雲っているとか、くすんで見えている。アジタさんはそのことに気付いたから、ブッダにそのことを質問した。
自分がおおわれていることに気付いている人には、自分が輝いていないことにも気づく。
さらに輝きについて言えば、自分が汚れているから輝かないことも分かる。
アジタさんは人間の恐怖についても質問した。

1033
世間・人間は何に覆われているのか? ブッダの解答は世間・人間は無明によって覆われているというもの。アジタ学生は自分を覆っているものを感じた時、これは何だと思ったが、わからない。これは無明だと教えられた時、無明の実体が見えて来た。
この章の序偈において、無明が頭であると教えられたアジタ学生にとっては、この解答によって二度真理が明らかにされたということ。
世間・人間は何によって輝かないか? 解答はもの惜しみと怠惰(放逸)。確かに、ケチな人や怠け者は輝いてない。
世間・人間を汚しているものは何か? 欲心(渇愛、欲望)。世間・人間を構成している地、水、火、風を汚しているのはすべて人間の欲望の結果だから、世間(世界)・人間を汚しているのは欲望であると言ってよい。
世間・人間の大きな恐怖は何か? 解答は苦悩(苦しみ)。これは教えられて、よく考えればわかる。私達は苦しみを恐れ、苦しみを避けながら生きている。これは生きることの実態。

(´・(ェ)・`)つ

302名無しを整える。2017/12/31(日) 10:56:23.10ID:28vahqdW
>>300
1034
中村先生の訳は、「煩悩の流れは」とあるが、パーリ語原文には「煩悩の」はない。そこで正田先生は「諸々の〔欲望の〕流れは」とカッコで〔欲望の〕を入れて訳されている。
流れだけでは、意味がよく分からないので、煩悩あるいは欲望などを補って理解する必要がある。1033で、ブッダの解答の中にあった「無明、貪り、怠惰、欲心など」をアジタ学生は「流れ」と受け止めたのだと思われる。
では「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる」の「あらゆるところ」とは「どこか」についても考えておく。
一応「六処」のすべてところという意味であろう。
詳しく言えば「六内所(眼、耳、鼻、舌、身、意)」と「六外処(色、声、香、味、触、法)」と考えておけばよい。
これらの場所に、煩悩、欲望が流れる。アジタ学生はこれらの流れを「せき止めるものは何ですか?」と質問した。
もう一つ「その流れを防ぎ守るものは何ですか?」という質問をしたように訳されているが、パーリ語からは同一の質問のようにもとれる。
「せき止める」と「防ぎ守る」と異なる動詞で質問したのだと思われる。なぜならば、1035のブッダの解答は一つだから。
もう一つの質問は、「煩悩(欲望)の流れは何によって塞がれるのか?」ということ。この二つの質問の違いは、洪水を土嚢で防ぐか、堤防で防ぐのかの違いではないかと思われる。
実際には堤防も決壊することがあるので、洪水も決壊も起こらない治水対策かもしれない。

1035
煩悩(欲望)の流れをせき止めるもの、煩悩(欲望)の流れを防ぎ守るものが何かがブッダによって説き明かされる。
その解答は、サティ(念)。中村先生訳では「気をつけること」。この言葉は英語では「マインドフルネス」言われ、日本語では「気づき」と訳される場合が多い。
ここではブッダがサティ(念、気づき)の定義を明確にしている。サティ(念)は煩悩(欲望)の流れをせき止め、防ぎまもるもの。だから、単に気づいていることではない。煩悩(欲望)の流れを止めない「気づき」はサティではない。
サティは悪い心が起こらないように注意すること。サティは何でもかんでも気づいていることではない。そうでなければ、サティによって煩悩(欲望)の流れをせき止められない。
次は煩悩(欲望)の流れを塞ぐもの。煩悩(欲望)の流れを根本的に塞ぐ、煩悩(欲望)をなくすこと。煩悩(欲望)がある限りは、常にサティによって、その流れを止めなければならないが、煩悩(欲望)をなくしてしまえば、サティの必要もない。
その時は解脱した時、覚ったとき。
煩悩(欲望)の流れを塞ぐとは、解脱すること、覚ること。そのためには智慧が必要。だから、流れを塞ぐものは何かに対するブッダの解答は智慧。

(´・(ェ)・`)つ

303名無しを整える。2017/12/31(日) 11:03:31.58ID:28vahqdW
>>300
1036
中村先生の訳は、そのまま読むと、アジタ学生はなせこのような質問をしたのか分からない。なぜならば、智慧と気づきと名称と形態がすべて一緒に消滅するように解される。
特に何故智慧と気づきも消滅することを問う必要があるのかと思う。
(○正田大観先生訳、1036 
かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕
「まさしく、しかして、知慧が〔諸々の欲望の流れの統御となり〕、さらには、気づきが〔諸々の欲望の流れの防護となる〕、というのなら、
では、敬愛なる方よ、名前と形態(名色:現象世界)を、
これを、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説いてください。
どこにおいて、この〔名前と形態〕は止滅するのですか」〔と〕。)
その点正田先生の訳であるならば、「智慧と気づき」と「名前と形態」を別のグループとして、消滅(止滅)するものは、「名前と形態」であることが解る。
つまりアジタ学生はブッダに「どこにおいて、この〔名前と形態〕は止滅するのですか」と尋ねたことがわかる。
アジタ学生のこの質問は彼の深い洞察による結果。彼は彼岸(涅槃)に到ることを考えていた。そのため前の質問でブッダに智慧によって解脱することを教えられたので、それは名称と形態の消滅だと理解した。
だから、どこで(いかなる場合に)消滅するか尋ねた。そうでなければ、何故アジタ学生が名称と形態の消滅について尋ねたかわからない。
「名称と形態」について。中村先生訳「ブッダのことば(スッタニパータ)」の注(岩波文庫416ページ)には「名称と形態。この両者が現実の世界においては個人存在を構成している、と考えられていたことが、よく解る。」と書いてある。
それを踏まえて考えると、個人存在と言っても、それは個人の肉体ではなく、この場合問題にしている個人存在は自我意識。自我意識の消滅が解脱。自我意識は非常に根強いものがあり、簡単には消滅しない。
だから簡単には解脱出来ないということがある。この自意識は顕在意識にも潜在意識にも存在している。解脱において消滅されるべき自我意識は顕在意識のみならず、潜在意識における自我意識をも含むの。
名称と形態の消滅という場合の名称と形態の意味は、名称は浅い部分の潜在意識。形態は深い部分の潜在意識。浅いとは観念的な潜在意識であり、深いとは肉体に結びついている潜在意識であると考えられる。
観念的な潜在意識より、肉体に結びついた潜在意識は消滅しにくいから、浅いと深いに区別される。このように考えることは、1037で明らかにされるブッダの解答を深く理解するために必要なこと。

1037
1036のアジタ学生の質問のポイントは「智慧と気をつけることとによって、名称と形態はいかなる場合に消滅するのですか?」ということ。
つまり、智慧と気をつけることによって、名称と形態が消滅するのだが、そのメカニズムはどのようになっているのかを質問している。
その質問に対して、ブッダは「智慧と気をつけることとによって、識別作用が滅止し、名称と形態が残りなく滅びた場合に、解脱が起こるのです。」と答えている。」
「識別作用」について。パーリ語のViaの訳。正田先生は「識知〔作用〕」と訳されており、(識:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)と解説されている。
この解説に基づいて説明すると、識別作用が止滅するということは、自己と他者を識別する作用がなくなるということ。これは自我意識がなくなるということ。これが智慧と気をつけることによって為される。
自我意識は虚妄なのだから、智慧が現れればそのことがありのままに解るということ。顕在意識における自我意識はもちろん、潜在意識における自我意識(名称と形態)が消滅する。
(´・(ェ)・`)つ

304名無しを整える。2017/12/31(日) 11:07:35.70ID:28vahqdW
>>300
1038
アジタ学生はブッダに解脱の道筋に説いてもらったが、更に具体的にどのようにその道筋を歩むべきかを尋ねた。
バーヴァリ・バラモンの16人の弟子とそれぞれに千人規模の弟子達がいたので、いろいろなレベルの修行者がいたのだと思われる。
そこで、アジタ学生は「真理を究め明らめた人々」と「学びつつある人」そして「凡夫」に分けて、それぞれがどのような行いをすべきか尋ねた。
「真理を究め明らめた人々」はもう学ぶものがないという意味で、無学と呼ぶ。それの人々は阿羅漢を指している。
「学びつつある人々」。学ぶことがあるという意味で有学。それでもこれらの人々は、預流果、一来果、不還果のいずれかの人々を指している。悟っていない修行者は凡夫。

1039
1038で、修行者を無学、有学、凡夫に分けて、「彼らの振る舞い(正しい行為のあり方)を、わたしに説いてください」と頼んだ。
しかし、ブッダは修行者を分けずに、すべて修行者に対する正しい行為のあり方を説かれたように思う。
ブッダの解答は、先ず「諸々の欲望において、その欲望に執着しないように」ということ。
「意に濁りなき者として存するように。」これは心に、わだかまりや、恨みや、敵意などをなくすこと。
これらの思いが心にあると、心はいつも、ざわついていて、落ち着かない。すると、心は汚れ、正しく判断することが出来なくなり、何事も失敗してしまう。だから、心は濁りのない、澄んだ心にすべきなの。
次は「一切の事物の真相に熟達し(一切諸法(現象世界)に巧みな智ある者として)」だが、これはなかなか難しいことだが、これを目指して修行すべきだと理解すればよい。
「よく気をつけて遍歴せよ(〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するように)」だが、これもなかなか難しい。
よく気をつけて(気づきある比丘として)、サティ(念)を絶やさずに、ということだが、これはアジタ学生の始めの質問にたどりつく。
ここでは「遍歴せよ。」となっている。これをどのように受け止めるべきか。各自が解脱に向けて、課題を見つけて、いろいろ挑戦してみよというようなこと。

(´・(ェ)・`)つ

305名無しを整える。2017/12/31(日) 13:12:35.71ID:28vahqdW
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、3、学生ティッサ・メッテイヤの質問

1040 ティッサ・メッテイヤさんがたずねた、「この世で満足している人は誰ですか? 動揺することがないのは誰ですか? 両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されることがない、聡明な人は誰ですか? 
あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれますか? この世で縫う女(妄執)を超えた人は誰ですか?」

1041 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。諸々の欲望に関して清らかな行いをまもり、妄執を離れて、つねに気をつけて、究め明らめて、安らいに帰した修行者、──かれには動揺は存在しない。

1042 かれは両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されない。かれを、わたしは<偉大な人>と呼ぶ。かれはこの世で縫う女(妄執)を超えている。」

ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、4、学生プンナカの質問

1043 プンナカさんがたずねた、
「動揺することなく根本を達観せられたあなたに、おたずねしょうと思って、参りました。仙人や常の人々や王室やバラモンは、何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのですか?
先生! あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

1044 師(ブッタ)は答えた、
「プンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、われらの現在のこのような生存状態を希望して、老衰にこだわって、犠牲を捧げたのである。」

1045 プンナカさんがいった、
「先生! およそこの世で仙人や常の人々や王族やバラモンが盛んに神々に犠牲を捧げましたが、祭祀の道において怠らなかったかれらは、生と老衰をのり超えたのでしょうか?
 わが親愛なる友よ。あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

1046 師は答えた、
「プンナカよ。かれらは希望し、称賛し、熱望して、献供する。利得を得ることに縁って欲望を達成しようと望んでいるのである。供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない。
かれらは生や老衰をのり超えてはいない、とわたしは説く。」

1047 プンナカさんがいった、
「もしも供犠に専念している彼らが祭祀によっても生と老衰とを乗り越えていないのでしたら、わが親愛なる友よ、では神々と人間の世界のうちで生と老衰とを乗り越えた人は誰なのですか?
先生! あなたにお尋ねします。それをわたしに説いてください。」

1048 師は答えた、
「プンナカよ。世の中でかれこれ(の状態)を究め明らめ、世の中で何ものにも動揺することなく、安らぎに帰し、煙なく、苦悩なく、望むことのない人、──かれは生と老衰とを乗り越えた、──と、わたしは説く。」

(´・(ェ)・`)つ

306名無しを整える。2017/12/31(日) 13:19:48.82ID:28vahqdW
>>305
1040
ティッサ・メッテヤ学生がブッダに質問。
質問文としては次の5つになっている。
1.この世で満足している人は誰か?
2.動揺することがないのは誰か?
3.両極端にも中間にも汚されることがない人は誰か?
4.あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれるか?
5.この世で妄執(貪愛)を超えた人は誰か?
この内の3番目の「両極端にも中間にも」は何を意味するか?。
仏教は中道を説いているが、その時は両端とは快楽と苦行。中道の場合は智慧の道(八正道)。
しかしこの偈でいう中間は世間で言う中間で、中道ではない。快楽で汚れるとは快楽に溺れること、苦行に汚れるとは、意味のない苦行に価値をおくこと。中間に汚れるとは、無関心になり怠惰になること。
或は賞賛と非難も両端になる。中間は無視されることになるか。賞賛で汚れるとは喜び、舞い上がって、高慢になること。非難で汚れるとは、怒りで興奮し、相手に攻撃的になるなど。無視で汚れるとは、寂しくなり、悲しくなって落ち込むことなど。
中村先生訳の「縫う女」はパーリ語のsibbiniにそのような意味があるからだが、カッコ内にあるように、妄執(貪愛、愛着)の意味と取ればよい。

1041
ブッダは、ティッサ・メッテヤ学生の初めの質問「この世で満足している人は誰ですか?」には直せず答えず、二番目の「動揺することがないのは誰ですか?」という問いに答えていく。
動揺するとは、心が揺れ動くこと。「諸々の欲望に関して」という時は、食欲と性欲を考えればよい。「清らかな行いをまもり」とは、生きるために必要な食事で済ませ、性欲は個人が生きるためには必要ないから、それを抑えるということ。
そうすると心は、食欲と性欲で動揺することがない。食欲と性欲があればそれらによって動揺する。
欲望をなくすことは困難だが、「アジタ経」の質問で「煩悩(欲望)の流れを止めるものはサティ(念、気づき、気をつけること)であることを学んだ。
だから「常に気づきある者」(正田先生訳)は渇愛を離れることができ、欲望を初期のうちに止めることができる。
更にそのような人は「〔法を〕究めて」、智慧が現れて、解脱し、涅槃に至る。そのような人は動揺することはなく、ブッダが直接は答えなかったが、この世で満足している人である。

1042
この偈の始めの言葉「彼」とは、前偈で述べられた「動揺しない人」を指している。この彼が、ティッサ・メッテヤ学生の三番目の質問「両極端にも中間にも汚されることがない人は誰ですか?」の解答。
すなわち、動揺しない人は両極端にも中間にも汚されない。
そして、四番目の質問「あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれますか?」の解答も、彼であり、動揺しない人であり、両極端にも中間にも汚されない人。
更に、五番目の質問「この世で妄執(貪愛)を超えた人は誰ですか?」の解答も彼であり、動揺しない人であり、両極端にも中間にも汚されない人。
ブッダが直接答えなかった第一番目の質問「この世で満足している人は誰ですか?」の解答も彼。つまり解脱して、涅槃に到った彼。

1043
プンナカ学生の質問。
プンナカ学生の始めの言葉は、前回の問答の一つのテーマが「動揺することのない」であったため、ブッダを「動揺することのないあなた」と呼び、さらに「両端を知りつくした方」として、「根本を達観されたあなた(根本を見る方)」としている。
これはプンナカ学生のブッダへの称賛の言葉であり、自分もそのような人間になりたいという思いがあるのだと思われる。
質問は「仙人や常の人々や王室やバラモンは、何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのですか?」ということ。
この質問の真意は、これらの人々は何を求め、望んでいるのかということ。この思いは現在社会で神や神々を信仰している人々の気持ちと同一のものがあると思われる。

(´・(ェ)・`)つ

307名無しを整える。2017/12/31(日) 14:22:59.47ID:28vahqdW

308名無しを整える。2017/12/31(日) 14:24:51.66ID:28vahqdW
>>305
1044
ブッダの解答。王族やバラモン達は、この世の生活にある程度満足していた。だからそのような生活をいつまでも続けたいと思っていた。
だが、老いという問題があった。だんだん身体が弱って、病気にもなる。更にその先に死があるという恐怖を感じていた。
そのために、彼らは神々に、安楽な生活をできるだけ長く続けられるように、また、死後にはよい世界に生まれ変われるように願って犠牲を捧げて、祭祀を営んだ。
しかし、それが本当に意味があるのかどうか、そのことについてもプンナカ学生は尋ねることになる。

1045
この偈は、言葉の繰り返しを除くと、「祭祀の道において怠らなかったかれらは、生と老衰をのり超えたのでしょうか?」「祭祀によって、かれらは生と老衰をのり超えたのでしょうか?」と言う質問だけになる。
(´・(ェ)・`)つ

309名無しを整える。2017/12/31(日) 14:26:47.43ID:28vahqdW
>>305
1046
プンナカ学生の次の質問「祭祀によって、彼らは生と老衰をのり超えたのでしょうか?」に対するブッダの解答は「彼らは生と老衰を乗り超えていない。」ということ。
その理由は、彼らの祭祀は、利得を得ることによって欲望を達成することを望んでいるから。すなわちこの世の生存を貪っているから。
この理由を納得するためには、「生と老衰を乗り超える」とはどういうことか理解しておかなければならない。
「生と老衰」とは自我が経験するものであり、自我を概念と見る立場では「生と老衰」も概念。そのことに気付いた時、「生と老衰を乗り超えた」という。
この世の生存を貪っている人は「生と老衰」を概念とは思えず、実体のあるものとして生存を貪る。
別の説明としては、「生と老衰」に続いて、病気そして死が続く。そして新たな「生と老衰」がある。これは輪廻を意味している。
「生と老衰を乗り超える」とは輪廻を乗り超えるという意味。欲望を欲求し、生存を貪る人は輪廻を解脱できないから、生と老衰をのり超えられない。

1047
「一体誰が生と老衰を乗り超えたのですか?」というのがプンナカ学生の質問。
生を乗り超えるとは、輪廻において誕生を繰り返さないというよりは、王族やバラモンのような身分として生まれたいという思いを超えるということ。
そのような人々にとって生を乗り超えるとは、身分に価値を置かないということ。これは人間を身分で差別しないこと。
また老衰を乗り超えるとは、老いを惨めだと思わないということ。また若いから幸せであるとか、老人だから不幸だとは思わないこと。これは人間を年齢で差別しないこと。年齢に価値を置かないこと。
このように考えると、犠牲を神々に捧げる王族やバラモン達は生と老衰を超えていない。これらを乗り超えた人は身分によって人間を差別せず、身分に価値を置かない人。
また年齢によって人間を差別せず、年齢に価値を置かない。そのような人は実際にはどのような人なのか?それが今回のプンナカ学生の質問。

1048
プンナカ経の出だしは「動揺することがない」と言う言葉だったが、最後の偈で、「生と老衰を超えた人」を「動揺することがない人」であると説かれる。
そして、動揺のない人は、安らぎに帰した人であり、煙がない人と(身に悪行がない人と言う意味)、苦悩がなく、望むことがない人。すなわちそのような人はすべての煩悩をなくした阿羅漢。
阿羅漢は生存への執着をなくしており、輪廻を繰り返すことはない。
生まれ(身分)や年齢に価値を置くことがないので、それらによって人間の差別することはもちろんない。これらは解脱する前の価値観の消滅すなわち不必要な識別作用の消滅によるもの。
(´・(ェ)・`)つ

310鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/12/31(日) 21:34:40.52ID:YX8ao/HG
>>299 そのような理解でよいのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。
 実践有るのみなのじゃ。

311名無しを整える。2018/01/01(月) 09:16:53.09ID:B7cuMvmh
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、5、学生メッタグーの質問

1049 メッタグーさんがたずねた、
「先生! あなたにおたずねします。このことをわたしに説いてください。あなたはヴェーダの達人、心を修養された方だとわたくしは考えます。世の中にある種々様々な、これらの苦しみは、そもそもどこから現われ出たのですか。」

1050 師(ブッタ)は答えた、
「メッタグーよ。そなたは、わたしに苦しみの生起するもとを問うた。わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。世の中にある種々様々な苦しみは、執著を縁として生起する。」

1051 実に知ることなくして執著をつくる人は愚鈍であり、くり返し苦しみに近づく。だから、知ることあり、苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因(=執著)をつくってはならない。」

1052 「われらがあなたにおたずねしましたことを、あなたはわれらに説き明かしてくださいました。あなたに他のことをおたずねしますが、どうかそれを説いてください。
どのようにしたならば、諸々の賢者は煩悩の激流、生と老衰、憂いと悲しみとを乗り越えるのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説き明かしてください。あなたはこの法則をあるがままに知っておられるからです。」

1053 師が答えた、
「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、いま眼のあたり体得されるこの理法を、わたしはそなたに解いて明かすであろう。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ。」

1054 偉大な仙人さま。わたくしはその最上の理法を受けて歓喜します。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えるでしょう。」

1055 師が答えた、
「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。

1056 このようにして、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、わかものとみなして固執したものを捨て、生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、この世で智者となって、苦しみを捨てるであろう。」

1057 「偉大な仙人のことばを聞いて、わたくしは喜びます。ゴータマ(ブッダ)さま。煩悩の要素のない境地がよく説き明かされました。たしかに先生は苦しみを捨てられたのです。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのです。

1058 聖者さま。あなたが懇切に教えみちびかれた人々もまた今や苦しみを捨てるでしょう。
竜よ。では、わたくしは、あなたの近くに来て礼拝しましょう。先生! どうか、わたくしをも懇切に教えみちびいてください。」
(´・(ェ)・`)つ

312名無しを整える。2018/01/01(月) 09:29:55.81ID:B7cuMvmh
>>311
1049
メッタグー経。
「世の中にはいろいろな苦しみがありますが、その源は何か?」
これは仏教で解決すべき根本的な問い。メッタグー学生はブッダに、正攻法、真正面からの質問をした。
この質問は、正しく洞察されたものだった。世の中にある種々の苦しみは、単純に考えれば、飢えた時の苦しみは、食べ物がないから。また、病気の時の苦しみは病気が原因。人々の考えは苦しみの原因は、人間に対する外部的な種々の要因に及ぶ。
しかし、メッタグー学生は苦について種々の外部定要因ではなく、一つに集約される内部的要因が何かと言う質問をしている。

1050
ブッダは、「世の中にある種々様々な苦しみは、執著を縁として生起する。」(中村先生訳)と端的に答えることが出来た。「執著を縁として」を正田先生は「依り所(依存の対象)という因縁から」と訳されている。
Upadhiは、パーリ語辞書には「存在の拠り所」と書いてある。十二因縁の教えによれば、存在(有)の拠り所は、執著(固執)であるから、執著=存在の拠り所と考えてよい。「執著=存在の拠り所」が苦の源であるとブッダはメッタグー学生に教えた。
この偈で、ブッダが自分の教えについて、「わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。」と述べたことは重要。
ブッダは、伝承でもなく、人から聞いたことでもなく、憶測でもなく、自分自身が悟って、知ったことを、しかもそれを隠すことなく、ありのままに説くと言明している。

1051
「執著=存在の拠り所」が苦の源である」ことについての説明のつづき。
苦の源を知らない人は、愚かにも執著を繰り返し、そのために繰り返し苦しんでいる。だから、苦しみの源をよく知って、苦しみの生起の元を観察した人は、執著(存在の依り所)を作ってはならないと説かれた。
しかし、多くの人々は苦しみの源を知らない。それ故に苦しみの源(執著)を繰り返している。
もしくは、知っていても、執著を止められずに、苦しみを繰り返すことになっている。この場合も本当には解っていないということかもしれない。
苦しみの源は自分の外にはなく、自分の内にあるから見ることが難しいから。見ることができ、止めることが出来れば、解脱する。

1052
今回は、メッタグー学生の二番目の質問。
「どのようにしたならば、諸々の賢者は煩悩の激流、生と老衰、憂いと悲しみとを乗り越えるのでしょうか?」
一番目の質問は、苦しみの源を問うものだった。その解答は執著(存在の依り所)だった。だから苦を作らないためには、執著(存在の依り所)を作ってはならない。しかし、実際には、人々は執著(存在の依り所)を作ってしまう。
そのために、いろいろな煩悩が現れ、人々は苦しむことになる。また、プンナカ経で問題にした生と老衰等による苦しみも現れる。そしてまたそのために憂いと悲しみが襲ってくる。
この質問は執著を作ってしまった人は、どのようにするかというもの。ブッダは苦しみの根源とそれを乗り超える法則を悟った方だから、この質問にも答えて下さいとメッタグー学生は頼んだ。

1053
ブッダはメッタグー学生の第2の質問に対して、人に聞いたことでなく、今ここで体験されるありのままの法(理法)をありのままに説き明かそうと述べた。そしてその理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り超えなさいという。
メッタグー学生は執著を作って、苦しみ、憂い悲しむことになってしまった人は如何にするかという質問だったが、そのような人でも理法を知って、改めて執著をなくすことが必要。

(´・(ェ)・`)つ

313名無しを整える。2018/01/01(月) 09:47:51.86ID:B7cuMvmh
>>311
1054
メッタグー学生は二番目の質問に答えられた理法をまだ聞いてない。
しかし、1053でブッダが「伝承よるのではなく、いま眼のあたりに体得された理法を聞いて、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ」言われたので、それに応えて、今回の偈を述べた。「偉大な仙人様」はブッダを指している。
「世間の執著を乗り越えるでしょう。」について復習。執著とは存在の拠り所。十二因縁の教えによれば、執著(固執)を縁にして存在(有)が生じる。つまり執著は存在の拠り所。
存在の拠り所は、自分というものをあるかどうかわからないまま、自分が何かわからないまま、つまり無明のまま、自分が有るとして架空の自分を確立すること。
それが存在の拠り所。そして執著の意味は架空の自分を執著によって確立すること。

1055
いよいよ、メッタグー学生の第2の質問にたいするブッダの解答。ブッダはメッタグーに対して、「君が意識するものすべてに対して」と言う。
それを上と下と横と中央に分類した。これら何を意味しているのか。
単に意識する対象を空間的に、上にあるもの、下にあるものというように理解できたが、注釈書には、上は未来の時、下は過去の時、横と中は現在の時と言われていると書かれてる。
しかし、この上、下、横、中は、時間や空間の意味ではなく、価値観(優劣観)の上下と取った方がブッダの真意を理解しやすい。
価値のあるもの(優れているもの)、価値のないもの(劣っているもの)、価値が普通のもの(同等のもの)のように理解する。
このようにメッタグー学生が意識するすべての事柄に関して、先ず、喜びを意識することを取り除くように、ブッダは述べた。
例えば、ダイヤモンドに対してこれは価値のあるものであり、優れた宝石だと喜びの意識を持たない、あればそれを取り除くということ。価値や優劣は架空の自分がつくった観念。

1055
次は、ブッダは偏執(固着)を除き去るように述べた。喜びの意識のあるものには偏執(固着)する意識が現れる。これは執著。
執著はその対象への執著もあるが、気づきにくいことだが、その対象に執著する自分に執著している。そこで架空の自分が確立されていく。偏執(固着)する意識を除き去ると、架空の自分への執著がなくなっていく。
更に、ブッダは識別(識別作用)を除き去るようにと説く。無明を縁として行が生じるが、行は自分と他を区別する作用。この行によって識別作用が生じる。自分と他を識別する作用。架空の自分が識別され、それに対する他が識別される。
だから、識別作用が除き去れば、執著する自分もなくなり、対象(例えばダイヤモンド)への執著も除き去る。
このようにして、執著は存在の拠り所だから、依り所がなくなり、生存状態にとどまることがなくなる。すなわち、輪廻から解脱する。

(´・(ェ)・`)つ

314名無しを整える。2018/01/01(月) 09:54:32.30ID:B7cuMvmh
>>311
1056
メッタグー学生の第2の質問に対する解答の続き。
自分が気づいてよく知っていることは何であれ、それに対して喜びと偏執と識別を除き去るように注意していると、「わがものとみなして固執したものを捨てる」と説かれる。ここがこの偈の眼目。
「わがものとみなして固執したもの」は、文字通りには、自分の外の対象だが、実はこの時、自分はわがものと見なす自分に固執している。
だから、それに対して喜びと偏執と識別を除き去るようにすると、わがものと見なす自分を除き去っていく。
そのような自分がなくなれば、生や老衰や憂い悲しみはなくなり、この世の苦しみを捨て去ることになる。

1057
メッタグー学生はゴータマ・ブッダを偉大な仙人と呼んだ。
偉大な仙人の言葉とは、メッタグー学生の二つの質問に対するブッダの解答。
第一の質問に対する解答は「世の中の種々苦しみは執著(存在の拠り所)を縁として生起する」というもの。
第二の質問に対する解答は「何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちに留まるな」というもの。
これらの言葉によって、苦しみの原因が明らかにされ、それを取り除く方法が示された。
だからメッタグー学生は、それらの言葉を喜び、「たしかに先生は苦しみを捨てられたのです。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのです。」と述べた。

1058
メッタグー学生が述べた言葉であるが、真理の言葉を聞いたのならば、あとは実践するだけ。それなのに、彼は、ブッダに「懇切に(停滞なく)教えみちびいてください。」と頼んでいる。
人間の実状は一度真理の言葉を聞いただけで、理解することはできず、ましてや実践することが出来ない。

(´・(ェ)・`)つ

315名無しを整える。2018/01/01(月) 10:26:52.12ID:B7cuMvmh
   ∧_∧
  (・(ェ)・)
  /|=宗=|\
 (_)LLLLLL(_)
鬼和尚、あけおめ、ことよろであります。

316名無しを整える。2018/01/01(月) 11:01:20.46ID:B7cuMvmh
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、5、学生メッタグーの質問

1059 「何ものをも所有せず、欲の生存に執著しないバラモン・ヴェーダの達人であるとそなたが知った人、──かれは確かにこの煩悩の激流をわたった。かれは彼岸に達して、心の荒びなく、疑惑もない。

1060 またかの人はこの世では悟った人であり、ヴェーダの達人であり、種々の生存に対するこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく、望むことがない。『かれは生と老衰とを乗り越えた』


ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、6、学生ドータカの質問

1061 ドーカンさんがたずねた、「先生! わたくしはあなたにおたずねします。このことをわたくしに説いてください。偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」

1062 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世でおいて賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」

1063 「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」

1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」

1065 「バラモンさま。慈悲を垂れて、(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法を教えてください。わたくしはそれを認識したいのです。わたくしは、虚空のように、乱され濁ることなしに、この世において静まり、依りすがることなく行きましょう。」

1066 師は言われた、
「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」

1067 「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」

1068 師は答えた、
「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。

(´・(ェ)・`)つ

317名無しを整える。2018/01/01(月) 11:17:59.89ID:B7cuMvmh
>>316
1059
ブッダの言葉。中村先生訳で最初の言葉「何ものをも所有せず」、正田先生訳では「無一物」は重要なキーワード。このことであとに続く「欲の生存に執著しない」ことができる。
「何ものも所有せず」とは、自分のものは何もないという意味で、自分のものは何ものもないことを理解していること。
生物はすべて大自然から一時的に借りて生まれてくる。死ぬ時にそれらすべて、大自然に返して何もなくなるから。
さらに、このことを本当に理解するためには、自分ものと思う時の自分がないことも理解していなければならない。何かを見たり、聞いたりする時の主体である自分は無明(無知)から始まって、仮に現れた自分。実はそれは存在していない。
しかし、それが行(「自他」形成作用)によって仮に生まれてくる。それは自我と言ってもよい。自我は見たり、聞いたりすると欲しくなり(渇愛)、自分のものにしたくなる(執著)。
本来、自分のものはないと理解していると、自分のものにしたくなることがない。そうすると、執著することもなくなる。執著がなくなれば、「欲の生存に執著しないことになる。」
さて今回の偈に戻れば、そのような人は「──かれは確かにこの煩悩の激流をわたった。かれは彼岸に達して、心の荒びなく、疑惑もない。」ということ。「彼は解脱して、涅槃に達したのです。」とブッダは述べられた。
「自分のもの何もはない」ということに関して、ダンマパダ62参照。

1060
「「何ものをも所有せず、欲の生存に執著しない人であるとそなたが知った人、」は「この世では悟った人であり、種々の生存に対するこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく、望むことがない。」
この偈をよく理解するためには、「メッタグー経」の1055と1056を復習。
「生と老衰を超える」方法について述べられている。それは「何であろうと、それに対する喜びと偏執と識別捨てることによって、生と老衰と憂いと悲しみを捨てる」というもの。
「生と老衰を乗り超える」とはどういうことか?については「プンナカ経(プンナカ学生の問い)4.」1046参照。
「生と老衰を乗り超える」とはどういうことか理解しておくべき。
「生と老衰」とは自我が経験するものであり、自我を概念と見る立場では「生と老衰」も概念なのである。そのことに気付いた時、「生と老衰を乗り超えた」というのである。
この世の生存を貪っている人は「生と老衰」を概念とは思えず、実体のあるものとして生存を貪る。
別の説明としては、「生と老衰」に続いて、病気そして死が続く。そして新たな「生と老衰」がある。これは輪廻を意味している。「生と老衰を乗り超える」とは輪廻を乗り超えるという意味。

(´・(ェ)・`)つ

318名無しを整える。2018/01/01(月) 11:38:59.94ID:B7cuMvmh
>>316
1061
ドータカ学生の問いは疑問文の形で述べられていないから、不明確だが、
「あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ=涅槃)を学びましょう。」と述べているから、自分の安らぎ(自分の涅槃)について教えて下さいと言うことだと思われる。
「自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」という文章に関して、中村先生の「ブッダのことば」(岩波文庫)の注に次のように書いてある。
「この文章をみるかぎり、安らぎを実現するために学ぶことがニルヴァーナであり、ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。
ブッダゴーサの注によると、「貪欲などをなくすために(ニルヴァーナのために)戒などを実践するのだと言い、ニルヴァーナを目的とみなし、戒などの実践を手段と見なしている。後代の教義はみなこういう見解をとっている。
しかしこういう見解によるならば、人間はいつになっても、戒律の完全な実践は不可能であるから、ニルヴァーナはついに実践されないであろう。
この詩の原文によって見るかぎり、学び実践することが、ニルヴァーナであると漠然と考えていたのである、と解することができよう。」
中村先生の注のように、すなわち「ドータカ学生がニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あること」と考えていたのならば、この後のブッダの偈(言葉)で修正されることになると思われる。
もちろん、ドータカ学生はそれを期待していたのだと思われる。

1062
この偈の「自己の安らぎを学べ。」についても、「ブッダのことば」(岩波文庫)の注に、中村先生は次のように書いてある。「ここでも『自己の安らぎ(ニルヴァーナ)を学ぶ』というのは、よく気をつけて、熱心であることにほかならない。」と。
今回の偈はブッダの言葉だから、この偈の解釈が中村先生の注の通りであれば、それはブッダの教えということになる。
しかし、ブッダは自己の安らぎ(ニルヴァーナ)について、理法を述べてはいないから、「『自己の安らぎ(ニルヴァーナ)を学ぶ』というのは、よく気をつけて、熱心であることにほかならない。」ということで完結させてはいけないように思われる。
これから理法を述べるから、よく気をつけて、熱心に聞いて、学べと述べているとうに思われる。

1063
ドータカ学生の言葉。この偈の趣旨は二つあり、一つは、彼はブッダが無所有の境地にあることを認め、それ故に「私はブッダを礼拝します」ということである。
当時のバラモン達にとっては「無所有の境地」は最高の境地であり、バラモン達が目指す境地であると考えていた。第五章の976で、16人の学生達の師匠であるバーヴァリ・バラモンも「無所有の境地を得ようと願って」と書かれていた。
もう一つは、「わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」ということ。ではこの諸々の疑惑とは何か? 無所有の境地で振舞われるブッダにお願いしていることだから、無所有の境地とは何であるか? 
どうすればその境地に至れるか? また私もその境地に至れるか?等の疑惑だと思われる。また無所有の境地と自分の安らぎ(涅槃)との関係についてドーカタ学生はどのように考えていたのか等これから明らかになる。

(´・(ェ)・`)つ

319名無しを整える。2018/01/01(月) 11:42:54.24ID:B7cuMvmh
>>316
1064
今回はブッダの言葉。前半は、ブッダは疑惑ある者を解脱させることは出来ないと述べている。
疑惑ある者は自分で自分の疑惑をなくすべきであると言う。自分で解脱できるか分からないと迷っている人は解脱出来ない。自分は解脱できると確信した人のみが解脱できるのだろうから。
しかし、疑惑ある者を突き放しているわけではない。ブッダの話す最上の真理を聞くならば、自分で自分の疑惑を晴らすことができるだろうということ。
疑惑の具体的な内容は、無所有の境地とは何であるか? どうすればその境地に至れるか? また私もその境地に至れるか?等だから、それらは最高の真理を知れば解決できるであろう。
また無所有の境地と自分の安らぎ(涅槃)との関係については、ブッダは解脱という言葉で説明してるので、解脱することで最高の境地である安らぎ(涅槃)に達するので、無所有の境地は当然達することができると考えておられるように思われる。

1065
この偈ではドータカ学生がブッダに「遠離の法」を教えて下さいと頼んでいる。遠離の法を中村先生は「(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法」と訳されている。
ただこの偈をよく読むと、ドータカ学生は、遠離の法について一応のイメージを持っていることが解る。
大空のように何ものにも妨げられることないこと、すなわち静かな場所で他人に邪魔されないように一人でいること。次は、静かな心でいること。更に何ものにも依存しないで修行・生活すること。
これらを実践できるためには、どうしたらよいかブッダに尋ねている。以上三つのことを後に、身離、心離、依遠離の三離としてまとめられている。
この偈にそって以上考えてみたが、このような考え方は世間の常識から離れていることを始めに理解しておかなければよく分からないことなのである。
世間では、一人孤独でいることは寂しく避けるべきことであり、一人静かにいるよりは、多くの人々とワイワイ、ガヤガヤ騒ぐことが楽しいと考えているのだから。
この世の苦悩は人々と集合するからだと解っていないと遠離の法を求める気にならないのである。

1066
1053 参照
師が答えた、
「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、
いま眼のあたり体得されるこの理法を、
そなたに説き明かすであろう。
その理法を知ってよく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ。」
1066
師は言われた、
「ドータカよ。伝承によるのではない、
まのあたり体得されるこの安らぎを、
そなたに説き明かすであろう。
それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」
中村先生は同じパーリ語を少し違った訳にしてあるが、パーリ語原文の違いは「メッタグーよ」と「ドータカよ」及び「理法」と「安らぎ」だけである。
メッタグー学生には、煩悩、生と老いと悲しみを乗り越えるために、伝承でない体得された理法を説いたが、ドータカ学生には遠離の法を教えるために、伝承でない体得された理法を説くことになる。

(´・(ェ)・`)つ

320名無しを整える。2018/01/01(月) 11:45:52.40ID:B7cuMvmh
>>316
1067
メッターグー経1054参照。
「最上の理法」が「最上の安らぎ」に変わっているだけ。
1054
偉大な仙人さま。
わたくしはその最上の理法を受けて歓喜します。
その理法を知ってよく気をつけて行い、
世間の執著を乗り越えるでしょう。
1067
偉大な仙人さま。
わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。
それを知ってよく気をつけて行い、
世の中の執著を乗り越えましょう。
ブッダが「伝承によるものでない、まのあたりに体得された安らぎを解き明かそう」と仰られたので、それに彼は歓喜した。
また、「それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ」と命じられたので、それを受けて「それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」と応えた。

1068
ブッダのドータカ学生への最後の教え。この偈はメッタグー経の1055と前半は同じだが、後半は少し異なる。
前半は「上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと」ということで、あなたが意識しているものは何でもということだった。
「上と下と横と中央とにおいて」については、「それを上と下と横と中央に分類した。これら何を意味しているのか。
単に意識する対象を空間的に、上にあるもの、下にあるものというように理解できたが、注釈書には、上は未来の時、下は過去の時、横と中は現在の時と言われていると書かれている。
しかし、この上、下、横、中は、時間や空間の意味ではなく、価値観(優劣観)の上下と取った方がブッダの真意を理解しやすいと思われる。
価値のあるもの(優れているもの)、価値のないもの(劣っているもの)、価値が普通のもの(同等のもの)のように理解するのです。」
1055の後半は次の通り。
「それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。」
今回の1068は次の通り。
「それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。
表現は異なるが、趣旨は同じ。微妙な違いを指摘すれば、1055では「喜びと偏執と識別とを除き去って」であるが、1068では「生存への妄執をいだいてはならない」という所だと思われる。
(´・(ェ)・`)つ

321名無しを整える。2018/01/01(月) 12:04:07.85ID:B7cuMvmh
>>318
けっきょく、
中村先生の言うように、
>「・・・安らぎを実現するために学ぶことがニルヴァーナであり、ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。
なのか、
ブッダゴーサの注に
>「貪欲などをなくすために(ニルヴァーナのために)戒などを実践するのだと言い、ニルヴァーナを目的とみなし、戒などの実践を手段と見なしている。
なのか、
どちらが、正しいのでありましょうか?
ニルヴァーナを目的地とすることは、悟りを目的地とすることでありましょうから、
ブッダゴーサが正しいかは別としても、
>ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。
と言うのは、目的が曖昧になりすぎるような気がするであります。
(´・(ェ)・`)つ

322名無しを整える。2018/01/01(月) 14:26:02.71ID:B7cuMvmh
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、7、学生ウバシーヴァの質問

1069 ウバシーヴァさんがたずねた、
「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。あまねく見る方よ。」

1070 師(ブッダ)は言われた、「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、<なにも存在しない>と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」

1071 ウバシーヴァさんがいった、
「あらゆる欲望に対する貪りを離れね無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」

1072 師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」

1073 「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用(あとまで)存在するのでしょうか?」

1074 師が答えた、「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」

1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

1076 師は答えた、
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」

(´・(ェ)・`)つ

323名無しを整える。2018/01/01(月) 14:58:57.49ID:B7cuMvmh
>>322
1069
ブッダと第6番目の学生ウパシーヴァさんとの対話。ウパシーヴァさんはブッダに「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして、大きな煩悩の激流をわたることはできません。
わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。」と弱音を吐いているようにも聞こえる。
「<よりどころ>をお説きください。」は、これからこの困難を乗り越える決意の表れである。

1070
ウパシーヴァさんは無所有処定(無色界の禅定の一つ)を得ている。この禅定は色界禅定の上のレベルの高度な禅定。彼は既に多くの修行を積んでいる修行者。
しかし、禅定というものは、レベルの高い禅定状態であっても悟りとは異なり、禅定状態の時にのみ、煩悩が機能しない状態になっているだけで、禅定状態から離れると、元の人間に戻り、人格などは変わっていない。
そのことを知っていたから、ウパシーヴァさんは「一人では激流を渡れない」と言った。

そこで、ブッダはウパシーヴァさんに「無所有処定」の体験を<依り所>にして、その時の「何ものもない」という思い(表象)を依り所にして、
諸々の欲望を捨て、諸々の疑惑を離れて、渇愛(欲しいという思い)の消滅を、気づきを持って、昼も夜も求めなさいと教えた。
「何ものもない」と言う思いは普通の人には思えない思いである、ウパシーヴァさんは「無所有処定」の体験をしたから、そのように思える。
禅定には色界禅定と無色界禅定とある。
色界禅定は以下の通り、これは八正道の正定で定義されているもの。
第一禅定には、もろもろの欲をはなれ、もろもろの不善の法をはなれ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じた喜びと楽がある。(尋、伺、喜、楽、一境性)
第二禅定には、大まかな考察、細かな考察が消え、心の統一された、大まかな考察、細かな考察のない、心の安定により生じた喜びと楽がある。(喜、楽、一境性)
第三禅定では、喜びを離れていることから、平静を備え、念を備え、正知をそなえて住み、楽を身体で感じる。(楽、一境性)
第四禅定には、楽を断ち、苦を断ち、苦も楽もない、平静による念の清浄がある。(捨、一境性)
さらに無色界の禅定がある。
空無辺処定は、無辺の空間を対象として定める禅定。
識無辺処定は、無限の認識を対象として定める禅定。
無所有処定は、何ものもそこにはないものを対象として定める禅定。
非想非非想処定は、想でも無想でもない状態に入る禅定。

1071
禅定状態においては欲望や怒りを鎮静させているだけ。だから禅定状態から離れれば、またそれらの煩悩は現れてくる。だから、煩悩のある状態に退き後戻りする。
しかし、あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のもの(その他の煩悩)を捨ててしまえば、この状態を<想いからの解脱>と述べているが、「その時は禅定から離れても煩悩が戻ってこないのか」
とウパシーヴァさんはブッダに尋ねている。これに対してブッダは如何に答えられるのか?

1072
今回の偈は前回の疑問文が肯定文に変わっただけ。すなわち、「・・・・・最上の<想いからの解脱>において解脱した人、かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」から次の文に変わっただけ。
「・・・・・最上の<想いからの解脱>において解脱した人、かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」何故そのように言えるのかと言えば、ブッダが実際に体験した事実だから。
この偈で特に学ぶべきことは、禅定を究めると言うよりは、偈の前半の「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、その他のもの(煩悩)を捨て、」ということを、日常生活のなかでよく気づき、実践することだと思われる。
(´・(ェ)・`)つ

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