>>928
519
「何を得た人を<バラモン>と呼ぶのですか?」のブッダの解答です。
バラモンとは、一切の悪をしりぞけて、自己を確立している人。
一切の悪をしりぞけているので、世間の塵、煩悩の垢から離れている。
煩悩の垢(五蓋)から離れて、心の統一(禅定)によって、智慧を得て、輪廻の原因を越えた人。
渇愛や偏見に執着しないので、とらわれのない人。
そのような人が崇高な人(バラモン)。
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「何によって<道の人>と呼ぶのですか?」に対するブッダの解答。
「安らぎに帰して(静まった者となり)」samao(沙門)は静まった人ということ。
沙門は出家修行を意味するときがあるが、そうすると比丘と同じような意味になる。しかし、出家修行者の内面に注目すると、心が静まっているということが重要。
ものごとを良い悪いとこだわると心が静まらない。世間の塵とは欲や怒りのこと。これらの煩悩から離れると心は静まる。
善悪を捨てること。
善と判断しても、悪と判断しても単純には決められないということがある。
善悪を言って騒がずに、冷静に必要な対応・対策をするべき。
この世のこと、あの世のことを知って、生死を超越すれば、心は動揺することなく、心は静かな状態。
人間の最大の関心事は生と死。この問題に決着をつけるためには、この世あの世についてよく知る必要がある。心を静まった沙門はこの問題に決着をつけた人。
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「どうして<沐浴をすませた者>と呼ぶのですか?」に対するブッダの解答
あらゆる悪をなくした人、悪を洗い清めた人を「沐浴者」と呼ぶ。
その際、罪や悪である心の汚れは、感覚や認識の領域(十二処)で生じるので、「全世界のうちで内面的にも外面的にも(内に、さらには、外に、一切の世において)」と表現されている。
眼耳鼻舌身意と色声香味触法において心が汚れる。これらの十二処で汚れたらすぐ汚れをなくす人を沐浴者というと述べた。
仏教では時間というものはないと考えている。あるのは存在の変化だけ。その変化を見て、時間があると妄想分別しているのだと言う。
十二処で心の汚れが生じるとは、そこから時間や妄想分別が現れること。「時間に支配されている」とは妄想分別していること。悪を洗い清めた人とは妄想分別をしない人。その人が「沐浴者」
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「どうして<竜>と呼ぶのですか?)」に対するブッダの解答。
訳語の竜(竜)のパーリ語はngoですが、その意味は「@象、A龍、Bすぐれた聖者(行者、とくに仏をさす)」。
「何故すぐれた聖者を龍(象)と呼ぶのですか?ということ。
すぐれた聖者は、この世において如何なる罪も作らず、悪も為さない。
世間のしがらみ(束縛)の中にいても、それに決して拘束されることはない。
あらゆることに対して執着することがない。解脱している。それは完全に自由であるということ。
そのような人がすぐれた聖者であり、龍(象)と呼ばれるのにふさわしい人。
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@ 田(Khetta)の意味は、耕地、田、田畑(身心または業を示すことがあります。
福田(布施や供養を捧げる対象となる仏、僧団など、ここに種をまくと、功徳・福徳という果が得られるというので田に例えられる。)
「田の勝者」とは、「心身に打ち勝った者」と理解して、質問の意味は「ブッダは誰が身心に打ち勝った者というのですか?」ということ。
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「諸々の目ざめた人(ブッダ)は誰を<田の勝者>と呼ぶのですか?に対するブッダの解答。
身心とは五蘊(色受想行識)。五蘊を考察すれば、それらは無常であり、苦であり、無我であることが知られる。これらを知れば、これらに対する執着がなくなる。執着がなくなれば、これらから解脱する。
更に、人間のみならず神々や梵天の身心も考察して、それらに対する束縛を根本から断ち切って、解脱し、自由になっている人。
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