鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2 [無断転載禁止]©2ch.net
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大好評なので、続スレッドを建てたのじゃ
みな、儂のことが好きなのじゃ
よって、みな、儂の弟子じゃ
儂は、悟りを開いて、もうこれ以上、悟ることはないのが、みなは、そうではないじゃろ
儂のように悟りたければ、儂の言うことを聞くのじゃ スレ立て 感謝じゃて♫🍶🍶🍶🍶🍶🍶
鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2 は熱燗の盛況のうちに終幕じゃてw
第2号も 熱燗じゃよ熱燗w🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
🍶 ヽ(´o`)3 美味いのう〜〜♫ 🍶🍶🍶🍶🍶🍶 >>1 ご苦労さんなのじゃ。
数息観をすると自己啓発にも役立つのじゃ。 数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。 更にコピペじゃ。
未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。
感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、
「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、
今、感じている感覚を観察するのじゃ。
その鐘の音によって生じる感情も、「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと
巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。
物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて、
「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。
このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、
最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。
続き、さらなる詳細はこちらまで
■鬼和尚の仏教勉強会
外部リンク:onioshyou.blog122.fc2.com 人の心は縁起によって起こるのじゃ。
例えばものを見るという縁によって、それをあれこれと分別する心が起こる。
分別する心に縁として、それを好む、好まぬという感情が起こる。
好む、好まぬという心を縁として、執着と嫌悪が起こる。
執着するものを得られない、又は嫌悪するものから逃れられないという事を縁として、苦が起こる。
このように縁起によって自らの心を何度も何度も観察するのじゃ。
すると自らの心を観照する事が出来る。
自らの心を観照することによって厭離が起きる。
これが縁起の法じゃ。 わしは金剛経を読んでいる時、観照が起こったと前に書いたのう。
観照によってわしの自我は消え去った。そして静寂と安心が起こった。もはや守るペき自我が無いことにより、緊張と不安が消えたためじゃった。
そして、智慧が湧いた。
自我が消えた故に、自我の歪みを受ける事の無い、平等性智が起こったのじゃ。
わしはその智慧に問うた。
(ここでは言葉を使う必要上わしという主語を使うが、その時の心にわしは無かったと覚えておくのじゃ)
この境地が最後のものであるのか、すると自然に智慧が湧き起こり、答えが湧いて出た。
この境地が最後のものではない、未だ安心と静寂を認識するものが残っている、と。
そこでわしは更に認識するものを観察し、それが実体が無く、空であると観じた。
自我が消えてしまえば認識を破壊するのは容易であった。
空であると観じていると、認識するものが消えた。
そして、認識するものがなくなると、言葉やイメージで表せるものが全て消え去った。
そこにおいてはもはや見る者も、見られるものも、見るという事も無かった。
言葉もイメージも、記憶さえも無かった。
全てが無かった。
そして無でさえも無かった。
今、何年も経ってからでさえ語るべき言葉の無いものじゃった。
わしはそこで全ての技を捨てた。空であると言う観も捨てた。
そこでは為すべきことは無く、為す己が無く、為すという行為さえ無かった。 わしは再び問うた。(本当はもうわしは無いんじゃよ、わかっとるね?)
この境地が最後であるかと、智慧が答えた。
この境地が最後である。何故ならもはや為すべき事も、為すべき者もおらず、為す事も無いのだから。と、智慧が答えた。
そこには智慧があった。平等性智、大円鏡智、妙観察智等の智慧が全てあった。
無為にして坐り続けるわしの前に、一切の神秘が開かれた。
わしは世の一切が平等であり、空間さえも一つの同じ意識を共有しているのを感じる事が出来た。
わしは死の意識を知り、死がもはや無い事を知った。
死は意識の消滅ではなく、変化に過ぎないことを知った。
わしは経典の言葉が理解出来るようになった。お釈迦さまが何を言わんとしていたのか、判るようになったのじゃ。
世界は全て一つの意識で出来ており、それは唯一なるが故に、一つと数える事さえ無いものであった。
わしは長らく坐っていたようじゃ。
永遠の安らぎである涅槃がそこにはあったのじゃ。
わしは菩薩の誓いを思い出した。
悟りを得たら、再び地上に返って人々を導くと言う菩薩の誓願が、わしを押し止めた。
わしは定を解き、ここに帰ってきた。
自我は無くなっていた。
人と話をする為に擬似的自我を作り出したのじゃ。
この辺で良かろう。
ここにはもはや為すべき事も無く、為す者も無い、最上の境地である事が判った。
もはや為すべき事も、成すべき者も無い故に、最上であると理解し得たのじゃ。 >>8 >>9 >>10 >>11 >>12 >>13
はい、ダメ❗
偽鬼和尚の数息観はダメ❗
インチキ❗適当な事を述べているのじゃて♫
熱燗じゃよ熱燗w 🍶🍶🍶🍶🍶 美味いのう〜〜♫🍶🍶🍶🍶🍶 何で、まことが、自己啓発2ちゃんねるまで
連いてくるんだ? まあ、いいじゃないか!
スレッドが伸びていいじゃないか! みなの衆
元気にやっているようじゃな
みな、精進するのじゃ 各鬼和尚たちよ 名無しさんの儂のファンたちよ
鬼和尚を讃えよ 声高らかに唱えよw
♫ 主は来ませり〜 主は来ませり〜 主は〜♫ 主は 鬼和尚ォォ〜〜〜〜♫
🍶 ヽ(´o` )3 美味いのう〜〜♫🍶🍶🍶🍶🍶 >>8 ご苦労さんなのじゃ。
みんな>>8から読んで実践するのじゃ。
成功も向こうからやってくるじゃろう。 >>20
はい、ダメじゃてね♫
>>8 >>9 >>10 >>11 >>12 >>13 は無視して実践するじゃてw
成功疑いなしじゃて♫
では お祝いじゃて♫ 熱燗じゃ熱燗 🍶 ヽ(´o`)3 美味いのう〜〜🍶🍶🍶🍶🍶 >>20
鬼和尚、こんばんは。
10個のアファメーション暗記したであります。
「潜在意識、マーフィーの法則」というサイトを見つけたであります。
アファメーションがたくさん紹介されてるのでありますが、長文なので暗記はあきらめて毎朝読むようにしてみるであります。
欲張って色々やってみるであります。
(´・(ェ)・`)つ >>22
とるべき道を教えてほしい時のアファメーション。
「私は答えが私の中に存在し、今私に与えられようとしていることを知っています。
潜在意識の無限の知性とかぎりない知恵は、私を通じてあらゆる決定をくだし、私の人生について唯一の正しい行為と正しい決定が行われます。
私はめざめた意識の中にやってくる導きを理解します。私がそれを見落とすことは決してありません。」
潜在意識、マーフィーの法則より
(´・(ェ)・`)つ
>>18 みなさんに喜んでもらえるのが
何よりの報酬じゃ そんなに言うのら説法するのじゃ
人は、自分から苦に逝っているのじゃ
悟りとは道じゃ
道とは、自分の人生じゃ
自分の人生を知るのは、自分を知ることじゃ
よって、人生を知れば、自分から苦に逝くことも
ないのじゃ 当たり前じゃ
仏の道を歩く者は、みな、同じことを言うのじゃ ここは仏の教えを説くスレではないのじゃて♫
悟りなのじゃて 鬼和尚の悟りじゃw
熱燗じゃ熱燗じゃて♫ 🍶 ヽ(´o`)3 今日も朝から美味いのう〜〜♫
🍶🍶🍶🍶🍶 >>22 そうじゃ、どんどん実践すると善いのじゃ。
それだけでも変っていくじゃろう。
>>25 観察やアファメーションなどに効果があるのは、自己イメージを変えられるからなのじゃ。
観察によって自分の本心をみれば、囚われていた観念がわかり、なくすことができるのじや。
アファメーションでは新たな自己イメージを作ることができるのじゃ。
両方行えば理想の自己イメージになるのも早いのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 >>30
はい、全然ダメw
どこが仏教じゃてw バカなことを言ってないで 熱燗をいただくのじゃて♫
そうして 姿勢正して瞑想ーっ! とやるのじゃてw
剣道部がそうやっていたじゃてw でどんどん馬鹿になっていたじゃてw
じゃからのう〜 儂は熱燗だけにするように工夫したのじゃてw
🍶 ヽ(´o`)3 美味いのう〜〜🍶🍶🍶🍶🍶🌸🌸🌸🌸🌸 ツキを呼び込みたいときのアファメーション。
「私は今日を楽しみ、喜びます。 今日は私の人生に奇跡が起こるはずです。
私には今日驚くべき触れ合いがあるはずです。 私は、すばらしい、とても興味ある人々に会うでしょう。
そして私は、最善だけを期待するようにします。 私は、常に最善が私のところにもたらされることを知っています。
私は、幸運がいろいろな方法で私のところにもたらされることを知っています。
潜在意識
マーフィーの法則より
(´・(ェ)・`)つ >>30
鬼和尚、おはようございます。
どんどん実践!どんどん精進!するであります。ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ ここは仏の教えを説くスレではないのじゃて♫
悟りなのじゃて 鬼和尚の悟りじゃw
熱燗じゃ熱燗じゃて♫ 🍶 ヽ(´o`)3 今日も朝から美味いのう〜〜♫
🍶🍶🍶🍶🍶 何を言ってるのじゃ
仏教勉強会、と、書いてあるのじゃ
よって、仏の教えを説くところじゃ スレ違いと言って返り討ちに遭うのは
10年前からだなww 皆の衆 おは〜じゃてw
ふおほっほほほほ〜〜じゃて♫ 仏教とあるじゃて but よ〜く見てごらんじゃてw
仏と教の間に『魔』とあるのじゃてw すなわち此処は『仏魔教』の温床じゃて👹
儂=鬼和尚が御降臨されたのぢゃw 悟りは熱燗じゃ熱燗じゃて♫
🍶 ヽ(´o`)3 美味いのう〜〜🍶🍶🍶🌸🌸🌸👹👹👹 酒飲みは年中 熱燗じゃて♫🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
本当に熱いのは熱燗とは言わんのじゃてw🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
「ぬる燗」に近い 絶妙なのをいただくのぢゃw 🍶🍶🍶🍶🍶
神楽坂にある老舗にては絶妙熱燗があるんじゃてw🍶🍶🍶🍶
🍶 ヽ(´o`)3 まだまだ熱燗は美味いのう〜〜♫🍶🍶🍶🍶🍶 何を言っているのじゃ
ぬる燗がいいというのはシロートじゃ
ぬる燗だったら、後で冷めるじゃろ
熱燗だったら、熱燗でもぬる燗でもタノシメルのじゃ
そして、喉が火傷するほどをグット飲み干すのが「プロ」の飲み方なのじゃ 反論と思えば反論になるのじゃ
おまえさんも精進して、喉が火傷するほどの
熱燗を飲むのじゃ トロっという絶妙さじゃてw🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
貧乏人は神楽坂へは行かんからのう〜〜♫🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
熱燗は美味いのう〜〜♫ 毎日飲み続けてこその熱燗じゃてw🍶🍶🍶🍶🍶🍶
毎日熱燗やらんじゃて 熱燗のアマじゃて♫ 🍶 ヽ(´o`)3🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶 >>35 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。 >>50
>>51
>>52
ふおほっほほほほー‼🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
キチガイ発狂クレイジー じゃてw 🍶🍶🍶🍶🍶
熱燗でも飲んで 脳ミソにガソリン入れて🍶🍶🍶
回転させることじゃてw 仏教スレってのはどのスレじゃて♫🍶
鬼和尚としてそっちにも出張するかじゃて♫🍶🍶
熱燗は美味いのう〜〜♫ 🍶 ヽ(´o`)3🍶🍶🍶🍶 仕事を成功させたい時のアファメーション
「私は今日、私の仕事をすべて心の法則に従って完成し、偉大なことをなし遂げるでしょう。
私の潜在意識は、あらゆることをなし遂げる、新しい、よりよい方法を私に教えてくれます。
私は、無限の力のおかげでどんな障害物も、どのような妨げもないことがわかっています。
私の作業は神の作業です。 なぜなら、神は私をとおして作用しているからです。
神の作業の遅滞はありません。 いかなる人間も場所も事物も、神の作業を邪魔することはできません。 神はつねに成功し、いっさいの仕事を完成させます。
神の愛をとおして、神の秩序の中に、私は私のいっさいの仕事を遂行し、実現させます。」
潜在意識マーフィーの法則より(´・(ェ)・`)つ まことも変わらないよな!
宗教2ちゃんねるで、さんざん、おまえに
いじめられているのに、大法螺吹くのは、
昔から、同じだよな!🎵 統合失調症の所以か
その癖を治さないと、まことは、
一生、不幸のままだよなww >>57 そのとおりじゃ
まことというボケナスが、ハッキング、遠隔操作をして
スレッドを建てられないようにしたのじゃ
儂は、人間が出来ているのにのう
わざわざ、話させるではないのじゃ 🍶ふおほっほほほほー ♫‼🍶🍶😍🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
まことボケナス御人の活躍もあり スレ投稿数 累積速度が 大繁盛化しとるじゃてw
これも 儂 即ち鬼和尚のお陰じゃてw🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
前からおる鬼和尚は あらかじめ仕込んでおいたマガイ物じゃてw🍶🍶
皆の衆 熱燗飲んで鬼和尚と化して呉れ給えじゃてw🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
🍶 ヽ(´o`)3 美味いのう〜〜♫🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶 まこと、まことってキチガイだなってキチガイじゃてw🍶🍶
🍶 ヽ(´o`)3 美味いのう〜〜♫ 🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶 おい!
コテ無し鬼和尚!
調子に乗るな。
〆るぞ? 実践が全てなのじゃ。
実践しなければ成果も無いのじゃ。 🍶まこと、まことってキチガイだなってキチガイじゃてw🍶🍶🍶🍶
おい!コテあり鬼和尚>>65!キチガイじゃてw🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
調子に乗るなキチガイだなってキチガイじゃてw🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶😍
〆るぞ?キチガイじゃて♫🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
※クイズ 😍のマークは幾つあるじゃて❓(絵文字見えないむきはスマソ)
🍶 ヽ(´o`)3 美味いのう〜〜♫ 🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶 全実践\(^o^)/ 😍😍🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶😍
不実践無成果(−_−;) 🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶😍😍😍🍶🍶
🍶 ヽ(´o`)3 熱燗は美味いのう〜〜♫🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
※クイズ 😍のマークは幾つあるじゃ❓(絵文字見えないむきはスマソ) 過去の過ちを払拭したい時のアファメーション
「私は過去のすべての過ちを自分に対して許します。 私は誰も責めません。
過去の過ちはすべて、私の未来の成功、繁栄、前進のための踏み石となるはずです。
私は、潜在意識がいつも私を導いてくれていること、私がすることはすべて正しいと絶対的に信じています。
私はすべてのことに自分の全力を尽くしています。 私は恐れることなく自信を持って前進します。」
潜在意識マーフィーの法則より(´・(ェ)・`)つ >>68
ジョセフ・マーフィーはキリスト者(牧師)じゃてw🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
ここの『仏魔教スレ』とは関係ありじゃてw おおいに「魔-フィる」がよろしい♫
今日も熱燗じゃてw 🍶 ヽ(´o`)3 美味いのう〜〜♫ 🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶 まこと君よぉ
おまえが言っても意味がないぜ
第三者が言わなきゃ、なww >>70 : まこと2017/04/16(日) 15:02:43.97 ID:JZ3r1w1Q 🍶🍶
まこと、まことってキチガイだな。ってキチガイじゃてw🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
>>71 : 名無しを整える。2017/04/16(日) 15:03:30.90 ID:3lOkygy8 🍶🍶
まこと君よぉ ってキチガイじゃてw 🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
おまえが言っても意味がないぜ ってキチガイじゃてw🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
第三者が言わなきゃ、なwwってキチガイじゃて♫🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
>>72 : 名無しを整える。2017/04/16(日) 15:03:58.01 ID:vbeUFfYe 🍶🍶
恥さらしだな!ってキチガイじゃて♫🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
🍶ヽ(´o`)3 熱燗は昼も夕も 美味いのう〜〜♫🌸🌸🌸🍶🍶🍶🍶🍶🍶😍😍 🍶そうだ❗そうじゃて🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
まこと、まことってキチガイだな。まこと、まことってキチガイだな。
まこと、まことってキチガイだな。まこと、まことってキチガイだな。
まこと、まことってキチガイだな。まこと、まことってキチガイだな。
まこと、まことってキチガイだな。まこと、まことってキチガイだな。
まこと、まことってキチガイだな。まこと、まことってキチガイだな。
まこと、まことってキチガイだな。まこと、まことってキチガイだな。
まこと、まことってキチガイだな。まこと、まことってキチガイだな。
まこと、まことってキチガイだな。まこと、まことってキチガイだな。
まこと、まことってキチガイだな。まこと、まことってキチガイだな。
🍶🍶🍶 夜も熱燗は美味いのう〜〜♫ 🍶 ヽ(´o`)3 🍶🍶🍶🍶😍🍶🍶 >>75鬼和尚へ🍶
>>76のような 熱燗のように熱い感じてよいかじゃてw
🍶 ヽ(´o`)3 美味いのう〜〜♫🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶 >>75
鬼和尚、こんばんは。
(´・(ェ)・`)ゞ くるったようにでありますか。
電車の中で、ガラ携のメモに入れたのを黙読したり、仕事の休憩中にPC に打ち込んだりしてるであります。
仕事中は仕事に関することに限定してるであります。
くるったように反復するであります。
ありがとうであります。 でありますかじゃてw
してるでありますじゃてw
してるでありますじゃてw
するでありますw ありがとうでありますじゃてw
儂は子供の時分に 田舎の婆さんの過酷な労働の手伝いをして報酬貰った時に
その報酬で「月旅行」というロケット花火を400発こうて、瓶を並べて差し込んで
連続打ち上げしたじゃてw
そんときに「月光〜やで〜〜♫」と叫んで打ちまくった♫💥💥💥💥
月光〜やで〜〜とういうでありますwという感じじゃて♫💥💥💥💥💥
🍶 ヽ(´o`)3 美味いのう〜〜♫ 🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶 まこと君よぉ
何でそんな必死なんだ?
高が遊びという余裕が持てなくてどうする? まったくそのとおりだな!
何で、そんなに、まこととバレるのをおそれているんだ?! 皆の衆 おは〜 (^o^)/
今日も今日とて熱燗じゃて♫ 美味いのう〜〜♫ 🍶 ヽ(´o`)3 🌅🌅🌅🍶🍶🍶 憎しみから解放されたい時のアファメーション。
「これまで私を傷つけた人をすべて許します。
彼らを永久に解き放ちます。
私は過去を忘れ、完全な健康と調和と平和の輝かしい未来に心を向けます。
私の心は落ち着き、澄みわたって静かです。」 (´・(ェ)・`)つ >>87
甘いのう〜〜♫
許しているようではしこり有りじゃてw
これじゃ❗ ありがとう ありがとう ありがとう じゃて♫
ふおほっほほほほー w 熱燗は美味いのう〜〜♫ 🍶 ♪( ´θ`)ノ🍢 もう温かいから、隠し蔵なのじゃ
ロックで飲むのじゃ
これが、プロの飲み方なのじゃ 酒も道じゃてw 酒道は神楽坂の伊勢藤じゃてw
毘沙門さんところぢゃ ♫ 🍢\(^o^)/🍶 お燗最高じゃ♫ 美味いのう〜〜🍶🍶 >>77 おぬしも鬼和尚じゃ。
自分で狂ったように唱えるのじゃ。
>>78 そうじゃ、どんどん繰り返すのじゃ。
潜在意識にしみこんでいくじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>92鬼和尚!分かったじゃて♫
これぢゃ‼
お燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃ
お燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃ
お燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃ
お燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃお燗ぢゃ
美味いのう美味いのう美味いのう美味いのう美味いのう美味いのう美味いのう
美味いのう美味いのう美味いのう美味いのう美味いのう美味いのう美味いのう
美味いのう美味いのう美味いのう美味いのう美味いのう美味いのう美味いのう
キチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイ
キチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイ
キチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイ
どうじゃて♫ 🍶\(^o^)/🍣 美味いのう〜〜♫ >>92
鬼和尚、こんばんは。 (´・(ェ)・`)ゞ
↑これではこの鬼和尚、アル中になって、キチガイになってしまうであります。
ちょぴっとかわいそうな気がするであります。
止めてあげてはいかがでありましょうか?
夢の中から解決法を得たい時のアファメーション
「私は今夜、夢を見ます。 そして明日の朝、その夢を思い出します。
問題の解決は夢の中で与えられ、私は答えがやってきた瞬間に目をさまします。
最初は解決できそうもないように見えた問題でも、新しい見解や答えが、夢の中で示されるにちがいありません。 」 昨日は、刺身に隠し蔵だったのじゃ
今日は、ステーキなのじゃ 生臭坊主!!
坊主が、刺身なんか喰べていいのかよ!! バカモノ!!
一休さんを見るのじゃ!
和尚さんは、隠れて、甘いものや魚を喰べていたじゃろ!
健康の薬とか抜かしていたじゃろ! 皆の衆 おはよう〜w
関東は台風一過 春の嵐去りて 晴天じゃて♫
お山は快晴w 六根清浄♫
>>94名無しさんへ。すでにアルアル中坊の基地外市民なの「であります」じゃて♫
鬼和尚も各鬼和尚じゃてw これでいいのじゃw
🍶 \(^o^)/🍶 両手にお燗じゃて♫
まずは お燗ぢゃお燗 🍶🍶🍶 美味いのう〜〜♫ 🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶 お燗〜〜んは〜〜飲めぇ飲〜〜め♫ 飲むうならぁぁ〜ば〜〜♫
🍶\(^o^)/🍶 両手にお燗ぢゃお燗じゃて♫ ☀☀☀☀☀☀ >100 ゲッツ‼
ゲッツ‼ゲッツ‼ゲッツ‼
お燗もゲッツ🍶 お燗もゲッツ🍶 お燗もゲッツ🍶
お燗美味いのう〜〜♫ 🍶\(^o^)/🍶 両手にお燗じゃて♫ ↑典型的自演自爆をしていることに
気付いていないようだ >>101
おまえは典型的誤解誤爆だと
気付いていないようじゃてw
🍶\(^o^)/🍶 両手にお燗じゃてw 美味いのう〜〜♫ 仏教スレで瞬殺されたからって、他の板で醜態晒すなよ? おの鬼和尚と称するキチガイは、書く都度IDを変更し、時には質問者役、時には回答者役、時には傍観者役を演出し一日中張り付いています。
また、まことまことと言ってるのもこいつです。 >>103
>>104
キチガイだな。
🍶\(^o^)/🍶 両手にお燗じゃてw お燗は美味いのう〜〜♫ 🍶🍶🍶🍶🍶 >>103
>>104
ストロングマシン鬼和尚の正体 よう見破った♫
なんで見破った?
まさか‼ お燗飲んだじゃて♫ 🍶\(^o^)/🍶両手にお燗じゃて♫美味いのう〜〜♫ >>106
デパスに熱燗かよ・・・
いつの間にか失禁とかしてねーか?
着々と破滅への階段を登っているな。 >>107
大丈夫じゃてw
儂を誰だと思っとるw 鬼和尚じゃてw
神オムツ履いてるから細工は流々ぢゃ♫
🔫\(^o^)/🍶 片手にピストル〜〜♫ 片手に〜〜熱燗〜♫
🍶美味いのう〜〜♫🍶🍢🍶🍢🍶🍢🍶 >>94 自分でとめるじゃろう。
わしであるからのう。
>>109
うむ、儂だから良いことを言うのう〜〜♫
「神オムツ パイルダーON」♫
熱燗を止めるのはキチガイ
キチガイを止めるのは美味いのう
美味いのうを止めるのは珍味
珍味を止めるのはお燗
お燗を止めるのは熱燗
熱燗を止めるのは・・・
🍶\(^o^)/🍶 おおぉぉ〜♫ 両手にお燗と熱燗じゃて♫ 美味いのう〜〜♫🍶🍶 >>109
(´・(ェ)・`)ゞおはようございます。
それはひとつの・・・自他の別なしと言うやつでありますか?
お金持ちになりたい時のアファメーション。
「私はお金が好きです。私はお金を愛します。私はお金を賢明に、建設的に、思慮深く使います。お金はたえず私の生活を循環しています。
私はお金を喜んで手離し、それは何倍にも増えて私のところに戻ってきます。お金は良いものです。実に良いものです。お金は私のところになだれのように豊富に流れてきます。私はそれを良いことだけに使います。」
潜在意識マーフィーの法則より >>101
おまえは典型的誤解誤爆だと
気付いていないようじゃてw
🍶\(^o^)/🍶 両手にお燗じゃてw 美味いのう〜〜♫ 何に誤解があんだよww
宗教2ちゃんねる、も、まことしかいないの
本当じゃねえかww
まあ、ネットしかまことの情報がないわけだし
悪い受け取られ方されても仕方ないんちゃうん? まことも必死だな!
まこととバレたくなくて
必死になって第三者を装っているぜ! 第一、何の関係のないやつが、まことを弁護を
しているのが、一番の自爆だしな! 通訳なしに、みなが矛盾を理解しているのも
オカシイしな! まことは、自演などしていないのじゃ
おまえ達の妄想じゃ 鬼和尚、デパスて中毒性があるし、耐性が出来てだんだん効果が弱くなるらしいが?
医師は何て言ってるの? たくさんの儂がおるようで 結構❗結構❗じゃてw
にぎやかなのがよいじゃて♫ にぎやかにお燗をいただく 最高ですかぁ〜〜じゃて♫
うむ、デパスなんかは序の口じゃて♫ 🍶\(^o^)/🍶両手にお燗じゃて♫
🍶美味いのう〜〜♫🍶 ♫デパース‼
デパスウイング🕊
デパスカッター✂
デパスビーム⚡
デパスアロー💫
デパス熱燗お燗🍶w やはりこれじゃて♫
🍶\(^o^)/🍶 両手にお燗じゃてw 美味いのう〜〜♫🍶🍢🍶🍢🍶🍢🍶 >>111 そうじゃ、全てわしなのじゃ。
わしでないものはないのじゃ。
>>121
鬼和尚、ありがとうであります。
思い=観念は全て、観念に「過ぎない」ものでありますね。
人もくまも、観念に過ぎない世界で、「苦」を感じるのでありますね。
無我を証する道を歩み続けたいと思うであります。
ありがとうであります。(´・(ェ)・`)ゞ >>121
やっと、ホンモノの鬼和尚の言葉の凄さがわかって
きたようだなww 何を言っている
このスレッドにニセモノなどいないのじゃ 皆の衆 おはよう*\(^o^)/*じゃてw
人間の姿勢は思考と感覚、行動が組み合わさって出来上がります。どれか一つでは
なく、三つすべてが相互に作用しているのです。これらは各自が置かれている条件
下で身につけた習慣から生じるもので、育った環境や教育、影響を受けた人物など
に左右されます。人をつくるのは各自の経験です。そのため一人ひとり異なる姿勢
を持っています。思考や感覚、行動が、どのようにしてその人の姿勢に深く影響す
流のか理解するには、そもそも、どうしてこれらが身についたのか理解する必要が
あります。これらの理解を為すには、お燗をたっぷり飲むのであります、じゃてw
🍶\(^o^)/🍶 両手にお燗じゃて♫ 美味いのう〜〜♫ "どこでもできる!オんラいンカじノ!!!
おかげさまで会員数1100人突破しました!
お客様情報不要!!即プレー可能!!!
★いンかジNINEで検索★
質問、アカウント発行はホームページからLINEで!!" >>77 おぬしも鬼和尚じゃ。
自分で狂ったように唱えるのじゃ。
>>78 そうじゃ、どんどん繰り返すのじゃ。
潜在意識にしみこんでいくじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
境地は、口では説明出来ないのじゃ
あえて言うなら、ありのままを指すじゃろう
心は澄みきっていて、川の流れのようじゃ
川の流れのように、ありのままに風景が映り、時が流れていく
まあ、こんなところじゃろ
聞いたことと体験は別物じゃ
ボクシングを見るのとやるのとの違いくらい別物じゃ
おまえさんも、精進するのじゃ お、恐れ入りました
鬼和尚
いや、鬼和尚様
これからも、ヨロシクお願いします >>133
でも、鬼和尚
修行者は、時間を感じないと言うぞ 🍶おはよう*\(^o^)/*皆の衆よw
煩悩対し知恵、原罪に対し博愛というのだが、それはあくまでものお話でそこには
思考、分別がある。思考は言葉によってなされるのだから。これを言説不可得と言
うのじゃてw 如来蔵とか悟りの心とか言い出した時点ですでに違うものを指してい
るのぢゃw われわれの生存はマナの煩悩、四我によってまもられているのぢゃよw
完全な一元化、主体と客体を統合することは至難なのじゃてw その為にはキチガイ
になることぢゃw 昼間からお燗飲んで美味いのう〜〜と熱燗美味いのう〜〜の違い
を味わうことじゃて♫
🍶\(^o^)/🍶 両手にお燗でたっぷりいただく♫ 美味いのう〜〜♫ 🍶🍢🍶🍢🍶 天挑五輪決勝トーナメント完結である‼編
『なにごとも
用心に越した
ことはない
フフッ それが
長生きの秘訣
じゃて・・・・・‼
🍶\(^o^)/🍶 両手にお燗じゃてw 美味いのう〜〜♫🍶🍢🍶🍢🍶🍢🍶 練活気挿法
人間はどんなスポーツ選手でも 自己の潜在的肉体能力を 50~60%しか使用して
いないという。この気挿法の目的は 自己催眠をかけることによって 精神的な
集中力から自らのもつ身体能力を瞬間的に100%ひきだすことにある。
通常自己催眠に至る方法としては種種あるが 密九教の呪文を唱えることが多い。
現代でも重量上げなど 瞬発的なパワーを要求されるスポーツの超一流選手達の
中には この法を人知れず体得実践している者がいるといわれる。
(第七章「超辞苑ー精神は肉体を超えるー」(民明書房刊行)より抜粋
🍶\(^o^)/🍶 お燗は美味いのう〜〜♫🍢🍶🍢🍶🍢🍶 修行者は、時間の流れを感じない
と、聞いているんだよ! 確かに、修行に没頭すると、時間を感じないが
これは、時間を忘れるわけではないのじゃ
時間は感じないが、流れは感じるのじゃ
ありのままと流れのままは、同義語なのじゃ
みな、精進するのじゃ / ̄ ̄\
〜& ‖ 夢 ‖
|∬ ∬|
|ii≦≧ii|
∧∧ .‖
/⌒ヽ)__‖
_〜( );;;;::\
" "" """""""" ""/;
"" """ ""/:;
くまはこれから、お墓掃除にゆくのである。
草ボーボーになると、周囲のお墓参りの人に迷惑かけちゃうのである。 瞬噭殺駆
瞬噭殺駆(しゅんきょうせつく)…
素早い動きを基礎とした秘奥儀は中国拳法にも数あるが 中でも最高峰とされて
いるのが この瞬噭殺駆である。この技の修業法は 硫酸池に浮かべた不溶性の紙片
の上を 驚異的速さで駈けぬけるというものであり 失敗すれば即死の恐るべき荒行
であった。これを成し遂げ達人の域に達した者は、瞬きする間に二十間(約36m)
を移動したという。
余談ではあるが 我々が親しんでいる「かけそば」は
当時 修業者達が 座して食べる暇を惜しみ 器を持って
駆けながら食べたそばが その名の由来である。
「貴方にも出来る❗中国拳法修業百科」太公望書林刊 より抜粋‼
🍶\(^o^)/🍶 両手に花なんぞよりも 両手にお燗じゃてw
瞬噭殺駆の応用じゃてw 時間も流れも超越する体術の体得じゃて♫
敢えて言えば「無想転生」ぢゃw お燗に かけそばぢゃw
🍶美味いのう〜〜♫ 🍶🍜🍶🍜🍶🍜🍶 >>143
ありのままと流れのままは、同義語か
ここは、反論出来そうもねえや おまえさんは、勇者なのじゃ
歓迎するのじゃ
いつでも、質問するのじゃ 昔から、まことは、こーゆー誘導が多いな
何がしたいのかよくわからんが 無心の草むしりは、瞑想に等しき効果あり。
コツは、ひたすら作業に没頭し、極力思考を排除することのみである。
2日つづけて、実践。
心地よきことこの上なし。
(´・(ェ)・`)つ 🍶\(^o^)/🍶
草むしり実践❓ 実践って❓ 意味不明じゃてw
キチガイだなw 「実践」とは、実際に行うこと、という意味である。
草むしり という単純作業に無我夢中で没頭する ということを実践したのである。
気持ちよいのである。おすすめするのである。(´・(ェ)・`)つ 🍶\(^o^)/🍶
ようしわかった❗
そんなら愛知県静岡県神奈川県 三県の公園の草むしりやれ🤗
お前に譲るから ずっと気持ちよくなってろじゃてw ほう
草むしりとは関心じゃのう
おまえさん達も見習って精進するのじゃ 鬼和尚、こんばんは。
たまに瞑想が深まるときときもあるのであります。
無思考に近いところまでは、行けるのでありますが、問題はそこから先なのであります。
集中し、集中しているかとすらも忘れて「忘我」まで行けることはまだまだ少ないのであります。
てか、滅多にないのであります。
そこゆくと、草むしりのような単純作業に没頭することは、忘我への近道のような気がしたのでありますが、如何なものでありましょう(´・(ェ)・`)つ >>162 それもあるじゃろう。
一つの仕事に集中することも修業なのじゃ。
忘我に行こうとすれば遠ざかるのじゃ。
ただひたすらに今ここにある呼吸に集中するのじゃ。
強い集中の時こそ心身の力を抜くのじゃ。
そのために姿勢を正すのじゃ。
姿勢が正しくないと力が抜けないのじゃ。
姿勢を正しくして力を抜けば瞑想はどこまでも深くなっていくのじゃ。 >>163
鬼和尚、ありがとうであります。
> 忘我に行こうとすれば遠ざかる
そうなのであります。
もとめると得られないことは、経験的にわかってるのでありますが、そのただひたすらというのが、滅多にうまく行かないのであります。
これでも、ぼちぼち、できるようになってきてるのでありますが、
なんか一気に進みたい・・・・と、ついつい求めてしまうのであります。
精進不足であります。
反省であります。
(´・(ェ)・`)つ つうか、過疎化している啓示2ちゃんねるに
鬼和尚がスレを建てた途端、活発しはじめる
もんな!
まことは、こーゆー矛盾に気付いていないww 過疎化している掲示板に、まことが来てから
活発化しはじめて、みな、どう思うんだろう
なww >>164 そうじゃ、ひたすら集中するのみなのじゃ。
またおいでなさい。 >>170
鬼和尚、おはようございます。
日常生活の中で、できるだけ無意識の思考を排除し、瞬間瞬間の意識のとらえるものに気付くことに集中してみているであります。
できるだけ・・・で、ありますが。
(´・(ェ)・`)つ >>174瞬間瞬間の意識のとらえるものに
気付くことに集中、というのが、間違え
ておるのう 鬼和尚様コンニチハ。
私は哲学板一覧すべて制覇しました。
退屈です。
宜しくお願いいたします✨😹 >>177
これから小一時間、満員電車瞑想法を実践するのである。
(´-(ェ)-`) お前さんは、夜中1時くらいに就寝するみたいじゃのう 🍶\(^o^)/🍶じゃてw
キチガイだな 🍶美味いのう〜〜♫ >>179さんへ じゃてw
キチガイだなw
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫ >>187
くまは、ほぼ泥酔に近い今でありますが、他者を見ることを戒め、自己を観察すると言うことの重要性を知れただけでも、くまの生涯にくいなしと言えるであります。
確かに、キチガイとか悪魔とか思わざるを得ない人がいたとしても、キチガイをキチガイと認識できる限りに於いて、自分の本心の中にキチガイがあると思うくまであります。
(´・(ェ)・`)つ だからキチガイでいいだろうwじゃて
基地外と悪魔は大違いだぞwじゃて
わかったら まあいっぱい飲めよwじゃて♫
🍶\(^o^)/🍶美味いのう〜〜♫🍶 >>189
だから、キチガイではいけないのであります。
何でもありではないのであります。
キチガイはキチガイであることを自覚できないのであります。
キチガイでない人は、自己の中にキチガイ見いだしつつそれと戦うのであります。
自己を観察し、自分の中にあるキチガイに気づき、それを真正面から見つめることにより消すことが容易であるのおしえが「止観」の技だとおもうのであります。
病でもなく、自らキチガイの道を選択する人もいるのであります。
キチガイでいいのだ、と言うのがオウムやISISでありましょう。
(´・(ェ)・`) >>190
夜中にグチグチしているやろうだなwじゃて
まあ飲めw🍶🍶
おまえのは「止観」ではなく「視姦」の類いだろうwじゃて🍶
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫ >>190
キチガイが何をいっとるw じゃて♫
🍶\(^o^)/🍶 >>193
そうじゃ キチガイじゃてw
ワシよいいことを言うのう〜〜♫
まあ飲めw 🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫🍶 >>194
オワタくんも、お酒を少し控え、「止観」を実践すれば、きっと今よりもっと楽になれるでありますよ。
精進あるのみなのであります。
(´・(ェ)・`)つ >>195
アホかおまえはw
オワタのダボはおまえぢゃw
キチガイ野郎wじゃて
早く御陀仏しろよw ワカタカ‼
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫ >>196
(´・(ェ)・`)つ
御陀仏してお釈迦になるのでありますか?
うんうん、それもわるくないかもでありますね。 >>197
そうだ!
おまえのようなヘッポコはおシャカになった方がいいw
ワカタなw
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜wじゃて >>198
(´-(ェ)-`)
確かに、へっぽこくまなのである。
へっぽこ脱出大作戦として、
>>23>>34>>54>>68>>87>>94>>111
を実践中なのである。
(修行の基本は>>8 〜>>13 である) >>200get
うんよろしいw
まあ飲めwじゃて 🍶\(^o^)/🍶 ◆◆◆◆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆◆◆ \\ ≪ ワカヤマンとは和歌山のIT系資格試験マニアです ≫ //
◆◆
@和歌山県和歌山市出身の40代前半で都会に対して強い憧れを抱いている。脂性である。
A自称和歌山大学システム工学部卒(偏差値48程度)の自宅警備員(引きこもり)である。※https://www.facebook.com/profile.php?id=100015107231671
B社会復帰を目指しているが社会適応能力が著しく欠如しており、実質2chに明け暮れている。レスポンスの早さには定評がある。
C就業に支障を来たす程、語彙が乏しく、貧弱な一行レスを多投する。資格試験においても読解問題や記述問題で相当苦労している。
DパソコンやIT系資格試験に強い関心があり、お勧めの本はないかと話題を振ることが多く、自作自演でレスをする。書込みID確認に強い拘りを持つ。
E首都圏在住の資格合格者に根強い憎しみを抱いており、とりわけコテハン9氏やアナル男爵氏に対する思い入れが強く、「氏ね」等連呼する。
FH24NW試験において9氏に直接対決を挑むも惨敗を喫する。9氏は野球やTVゲーム等に夢中になりながらも合格。この年の和歌山県合格者はわずか1名。
GNW試験の出題予想を披露するがあまりにもスカタンであり、嘲笑の的となる。H22〜28年度NW試験7年連続不合格である。
HH25〜28年度AU試験を受験する。語彙力、文章能力が著しく欠如しているため、受験自体見当違いであり、不合格となる。和歌山県合格者は2年連続ゼロ。
INW試験前後は男性の性器を象ったAAでスレ住人、とりわけ合格者に対して度重なる挑発行為を行う。
J気に入らないことがあると発狂し、AAの連投、過疎スレへの誘導、センスを感じさせない煽りや一行レス自演を披露する。
KH26年度合格発表時に他人の合格に便乗しようとするが和歌山県の壊滅的な合否統計情報に阻まれ、嘗てないほど精神不安定に陥っている。
L真昼間から頻繁に自宅ADSL回線でntwkym0*****.wkym.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jpというホストを利用して書き込みをしている。
◆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ まあ、いいじゃないか!
おまえだって、酒が好きなんだろ?! まあ、酒は好きだが、良い友達だな
要するに、オレが依存症になることはない 「I AM THAT ニサルガダッタ・マハラジとの対話」の抜粋を、2ちゃんその他のネットで拾ってきて読んでるのである。
「真我」を「ただ一つの意識」に置き換えて読んでるのである。
高い本なので、抜粋は助かるのである。
(´・(ェ)・`)つ >>202 ← 酒乱にすらなれないダボw じゃて
まあ飲めよw ワシのどこが依存症じゃw 全内臓機能順調じゃてw
超人の飲酒の理解は うぬらには理解できぬもにぢゃw
ワカタカw 🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫ >>205
高い本とか言ってセコイ奴には本の理解などできぬw
そんな事も分からんのかwじゃて
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫ 訂正
>>206
酒乱にもなれない?
頭大丈夫か? なんだ!
まことは、酒乱なのか!
ネット依存症の次は、アルコール依存症か! おまえらはみんなキチガイだw じゃて
分かったなwじゃて
セックス依存もつく加えておけw いいなじゃてw
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫ たったの数万円の本も買えない 買わない分際が
瞑想だとか止観だとか 駄べるんじゃないのw じゃて
やめちまえw じゃて
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫ ここの住人の前鬼和尚とかはスケールがミニのダボw じゃて
儂が本物の鬼和尚になり ストロングマシン鬼和尚、各鬼和尚を輩出したお陰で
鬼和尚スレは本格的胎動を始めたのじゃてw
まあ飲めよw 飲まざれば道はなく 飲めばその道が道となり飲む道となる。
飲めばわかるさ‼ ありがとーw
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫ ダァ〜〜♫ 🍶 後鬼和尚から前鬼和尚へ🍶
おまえは息を数えなければ不動心出てこないのかw じゃて♫
このボケw このスレでのおまえの役は終わったw じゃて♫
修行なんかいらないのw おまえみたいなのは地道な暮らしを心がけよw
わかったなw わかったら もう出てくんなw
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫ に、しても、まことが酒を飲むなんて、あまり
聞いたことがないよな 酒と嘘は、ほどほどがいいのじゃ
酒に飲まれてはいけないのじゃ
嘘に飲まれてもいけないのじゃ まことが20代だと思ってたとき、酔っぱらって
書き込んでたことがあったなあ
飲まれている独特の醜態を晒していたが まことは、酒の醜態晒しても、反省がないわな
まあ、あまり、飲まれているところは、見たこ
とがないが 嗚呼 さーけは飲めぇ飲め 飲むぅならば〜〜♫
日のもとぉ いちのぉ 鬼和尚ぉ〜〜♫ 🍶
何か小魚のメダカみたいなのが水槽で朝から何か言っておるわw じゃて
儂は神だから 「天行健」🍶 酒にはじまり酒でおわるのじゃてw
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫ >>216
ブッダは筏の喩えを説いた。
筏は捨てられるのだ。
鬼和尚も筏なのだ。 >>215
鬼和尚、こんばんは。鬼和尚が、
>金剛経を読んでいる時、観照が起こった(>>12)と、仰ってますので、
くまも、一時期、岩波の般若心経-金剛経で暗記するくらい読み込んでみようとしたのでありますが、
その時点では、今一つのめり込めませんでした。
最近今一度読み込んでみたいと思うようになってきたであります。
ニサルガダッタマハラジなどは、読んでてすぐにのめり込めるであります。
こっちでもよいでありましょうか?
(´・(ェ)・`)ゞ ↑、そうじゃ、それでもよいのじゃ。
自分の好みに合わせて学ぶがよいのじゃ。
そうすれば最後には全てに通じるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 >>226
鬼和尚、ありがとうであります。
日常生活で、今に意識をを向けるようにできるだけしていて、突発的に沸き上がる感情等に気付く技が高まってきたことにより、
くまにとって一番手強かった「怒り」の感情も、いなせるようになってきたように思うであります。
(´・(ェ)・`)つ 昨日は、鰹のたたきに豚の生姜焼きだったのじゃ
それに、ビール🍺2杯、熱燗2合に越及寒梅2合を飲んだのじゃ >>226
鬼和尚、おはようございます。
昨夜のつづきなのでありますが、日常の「観」をしていて、だんだん慣れてきて、反応としての感情があらわれると同時に、「ほらほらあらわれた」とその発見を楽しんでるように感じるようなことがあり、
それが「怒り」の感情だったりすると、発見の楽しみにより、当たり前のように、怒りは瞬間蒸発するときがあるであります。
反応としての感情を感じてるのは自我であり、それが生じたことを他人事のように発見してるのも自我であります。
このことと、自我が生じる瞬間をとらえる「観照」はどのように違うのでありましょうか?
また、「ほらほらあらわれた」的な観察の延長線上に「観照」は起こりえるものなのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ >>228
鬼和尚よ 盛り上がっているのう〜〜♫
🍶\(^o^)/🍶美味いのう〜〜♫ >>227 よかったのじゃ。
またおいでなさい。
>>229 観照は自我が今ここではっきり気付かれるものじゃ。
これが自分と思っていたものであったと気付くのじゃ。
感情から推測するのとは違うのじゃ。
そのように観察していけばいずれは自我にも気付くことができるじゃろう。
恐れを超えて精進あるのみなのじゃ。 まあ飲めw
観察などいらんw 観察しているようじゃダメじゃてw
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫ >>233 ← このレスにお応えしようwじゃて
「>この酒乱が…」← 観察力が足りないというか無いw 全然ダメなセリフ!
結論は、おまえはキチガイだなw
分かったかよw
🍶\(^o^)/🍶美味いのう〜〜♫ >>235
キチガイ発狂クレージーだなw
美味いのう〜〜♫🍶 >>231
鬼和尚、ありがとうであります。
>これが自分と思っていたものであったと気付く
気づいてしまえば、どうってことないのでありましょうか?
それとも、わぁああ!これはすごいぜ!って感じでありましょうか?
ほょっと、記憶がよみがえった瞬間に同時に強い感情が生じた時に、それを他人事のように見ている意識からすると、その記憶と、反応である感情を自我だと思ってるのだなと思うのであります。
(´・(ェ)・`)つ >>237
酒乱以下のキチガイだなw
気づいてしまえばキチガイw
それとも、わぁああキチガイ!
ほょっと、キチガイだなw
キチガイでありますw
(=^ェ^=)つ 🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
美味いのう〜〜♫
(=^ェ^=)つ/🍶🍢🍶🍢🍶🍜🍜🍜 >>237 何も想わないのじゃ。
想うものがなくなるからのう。
そのように見ていると観るのじゃ。
それを続けていれば自我にも気付くじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。 >>240
鬼和尚、ありがとうであります!
>何も想わない
>想うものがなくなるから
そうでありました。
思うと言うのは主体があると確認してるようなものでありますね。
ようやっと最近、難なく無思考に近い状態を意思によりちょぴっとキープできるようになってきたので、
それを続ければよいのでありますね。
>>239
ほよっ? 親戚の方でありましたか?
(´・(ェ)・`)つ >>240
>>241
↑
自作自演w
全然ダメな会話調w
まあ飲め🍶
美味いのう〜〜♫ 🍶\(^o^)/🍶 >>233 ← このレスにお応えしようwじゃて
「>この酒乱が…」← 観察力が足りないというか無いw 全然ダメなセリフ!
結論は、おまえはキチガイだなw
分かったかよw
🍶\(^o^)/🍶美味いのう〜〜♫ >>243
まこと君
相変わらず、まったく関係のない反論だなww >>244
>>245
>>246
↑
🍶キチガイだなw
このスレみたいに無用のクズが2ちゃんの大半w
過疎スレで2〜3人で書き込みやっているゴミw
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫ お応えしようwじゃて🍶🍶🍶🍶
キチガイばかりぢゃw
基地外スレぢゃw
美味いのう〜〜♫ 🍶\(^o^)/🍶🍶🍶🍶 >>241 そうじゃ、それを続けたらよいのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。 >>249
鬼和尚、ありがとうであります。精進するであります。
ところで、ニサルガダッタマハラジの言葉をネットで拾い読みしてるのでありますが。
「真我」は、「ただ一つの意識」と読み替えてるのでありますが、
「愛」は「慈悲」とでも読み替えればよいでありましょうかね?
>私の世界では、愛が唯一の法則だ。
私は愛を求めず、ただ与えるだけだ。
それが私の本性なのだ。
ニサルガダッタさんは、自分の本性を愛だと言ってるであります。
(´・(ェ)・`)つ >>249
>>250
↑
同一人物だろw
くだらねえこと言ってねえで早くクソして寝ろ!
🍶\(^o^)/🍶 >>244
>>245
>>246
↑
🍶キチガイだなw
このスレみたいに無用のクズが2ちゃんの大半w
過疎スレで2〜3人で書き込みやっているゴミw
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫ >>253
その言葉はそのままおまえにかえすよw
🍶\(^o^)/🍶美味いのう〜〜♫ >>254
>短気は損気
おまえいいことを言うな〜w
だがまだまだぢゃw
おまえは飲み方が足りんw
飲み足りんぢゃw
短気は損気の後があるのぢゃ!
特別に伝授してやろうw
こうぢゃ!
「飲み足りん 短気は損気 損して得とれ」これぢゃ!
おおいに味読して 一法でも二法でもマスターしてくれwじゃて
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫ (´・(ェ)・`)つ
くまが止観に取り組んで、一番最初に実感したのは、妄想雑念を消すことは、予想以上に容易いと言うことであった。
次は、足のしびれに対する受けとめかたの変化である。最初の一年くらいは、30分くらいで、足のしびれが瞑想の邪魔となり、それが「苦」であったが、
あることをきっかけに、しびれはしびれとしてあっても、それが苦でなくなった。
身体の固いくまが、今やケッカフザまでできるようになった。
更に、進むと、不安がなくなった!
追い詰められて、くまはその不安を何とかしたいと始めた瞑想であった。
それが、なぜだか知らぬが、一番最初に、薄らぐと言うよりもどうでもよくなり、そのことで、フリーズしていた心が軽くなった。
然れど、怒りの感情は、今でもしぶとく、くまを悩ませることがある。
けど、怒りも、どうでもよくなる方向に進んでいるとは思うくまである。
精進するのである。 >>250 善いことじゃ。
それでよいのじゃ。
全て愛なのじゃ。 (´・(ェ)・`)/🍶 美味いのう〜〜♫
荒いクマが死姦を取り込んで、一番アイアンで実践したのは、淫想怨念を蹴ることは、予定異常に容易いということでなかった。
次々は、足立のしびれに対する受けとめかたの変人である。最初の百年くらいは、30秒くらいで、足裏のしびれが妄想の美魔女となり、それが「苦い」であったが、
あることをきっかけに、しびれはしびれとしてあっても、それが苦いでなくなった。
頭の固い熊五郎が、今やヤンキーまでできるようになった。
小泉進次郎だと、不安がなくならなかった!
追分に詰められて、熊殺しウイリーはその不安を何とかしたいと始めた妄想であった。
それが、なぜだか知床が、一番最高に、薄々と言うよりもどうでもよくなり、そのことで、プリーズしていた心が軽薄になった。
然れど、怒りの勘定は、今でもしぶとく、森の熊さんを悩ませることがある。
けど、怒りは肉体を鋼鉄と化し、どうでもよくなる方面に進んでいるとは思う穴熊である。
精進料理作るのである。 >>259 小田急線善行駅じゃ。
その酒で酔うのじゃ。
全国に愛人いるのじゃ。 >>253
その言葉はそのままおまえにかえすよw
🍶\(^o^)/🍶美味いのう〜〜♫ >>259
(´・(ェ)・`)つ
うむ。
改名し、写経を始めたのであるか!
よい心がけである。
然れど、誤字脱字が多いようである。
精進しなされ。 >>258
鬼和尚、ありがとうであります。
愛と慈悲はおなじでありますね。
ともだちから、「存在の詩」という本をもらいました。
これも読みごたえのありそうであります。
(´・(ェ)・`)つ >>261まこと2017/05/07(日) 05:03:46.68ID:+v7Uimen
> >>253
> その言葉はそのままおまえにかえすよw
> 🍶\(^o^)/🍶美味いのう〜〜♫
↑
これを書いた261の者、まったく芸なし野郎w
儂、すなわち鬼和尚のマネしかできへんのじゃなぁ〜
美味いのう〜〜♫🍶 >>262
イカデビルがほざくなw
(♯`∧´)/🍶 >>263
>>264
↑
(´・(ェ)・`)/🍶
くまは酔うのでありますw
あびるほど飲むのでありますw
あびる優のいい体を肴に祝杯であります\(^o^)/🍶 >>264 よかったのじゃ。
どんどん読むとよいのじゃ。
またおいでなさい。 >>269
却下w
儂の 御真名は……‼
♫ジャカジャカジャカジャン♫
ハイ❗
『酒神乱舞(バッカス乱舞』じゃてw
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫ >>268
鬼和尚、ありがとうであります。
くま、朝の通勤電車では、長短のアファメーションを読んでから、呼吸に集中。
帰りの社内では、携帯で、ニサルガダッタマハラジを読んでるであります。
で、寝るまでの間に、ちょぴっとづつ、存在の詩を読むようにしたであります。
偶然いただかなければ、手にすることはなかった本であります。
ありがたいことであります。
(´・(ェ)・`)つ ↑よいことじゃ。
実践する者だけが進んでいくのじゃ。
実践するくまも進んでいくじゃろう。
更に精進あるのみなのじゃ。 >>274
本物の鬼和尚さん
酒はわかりますが、嘘もいいのですか? >>271
>>272
↑
ハイ 駄目❗
自作自演w やはりね 酒じゃ酒w
酒を飲んで 昭和の歌謡を聴くんじゃてw
蓄音機でのう〜〜♫
♫ 折れたタバコの吸いがぁらで〜〜♫ あなたの「嘘」が分かるのよ〜♫
誰かいい人 できたのね〜〜♫ でき〜たぁのぉねぇ〜〜♫
中条きよしの唄う 名演歌『嘘』をご鑑賞じゃわいw
🍶\(^o^)/🎤 お酒も歌もうまいのう〜〜♫🍶 >>280
ありがとうwありがとうwありがとうw
じゃて♫
🍶\(^o^)/🎤 歌も酒もうまいのう〜〜♫ >>281
─-─┬──┬────
_| []__[]__ ||
| ○ ○ ||
| |_______.||
 ̄|「. ||
||... ∧〃∧||
||...(*・(ェ)・|
 ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(つ と ||
-------------( (┏||
.... し'し||||
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
うむ。
良い心がけである。
けど、飲みすぎには注意である。
アルコールは空気や水とは違うのである。
むろん、自らにいいきかせてるくまである。 >>282
がとうありwがとうありwがとうありwがとうじゃてww
もう一つ
かりんとうwかりんとうwかりんとうwじゃてww
🍶\(^o^)/🎤 酒美味い 歌も上手くて かりんとう w
いい句じゃてw >>282
がとうありwがとうありwがとうありwがとうじゃてww
もう一つ
かりんとうwかりんとうwかりんとうwじゃてww
🍶\(^o^)/🎤 酒美味い 歌も上手くて かりんとう w
いい句じゃてw (´×(ェ)×`)⇦グサっ‼ 氏ね くま公
⇧⇧⇧
グサっ‼ 下からも串刺しだぁ❗ >>283
氏ね❗くま公❗グサっ‼⇨(´×(ェ)×`)⇦グサ‼氏ね くま公くま公‼
下からも串刺しだ❗グサっ❗⇧⇧氏ね‼ うむ。本当に、死ねるのでありましょうか?
もしかしたら、死ねないかも知れぬであります。
2元の発想は、分かりやすいであります。
実感にかなうであります。
1元の発想は、分かりにくいであります。
実感とかけ離れてるであります。
けど、生死の究極の苦を乗り越えるためには、1元の発想が必要なのかも知れぬと、愚考するくまであります。
(*・(ェ)・*)つ おまえは愚考ではなくて、愚かなくまw
わかったなw
さっさと寝ろw
🍶 美味いのう〜〜♫ >>290
だからー、
この酒乱が・・・❌
この酒神様は……⭕
と言いなさいw
🍶\(^o^)/🎤 歌(中條きよし『嘘』)もいいのう〜〜♫
🍶🍶🍶🍶🍶 酒も美味いのう〜〜♫ >>292
>>293
>>294
キチガイトリプルファイター w
🍶🍶🍶\(^o^)/🍶🍶🍶 両手にトリプルじゃてw
美味いのう〜〜♫ 🍶\(^o^)/🍶
イライラではないのじゃてw
あっ❗ ライ♫ライ♫ ライライライライ♫♫
美味いのう〜🍶 上手いのう〜🎵🎶♬🍶 >>296
>おい、タコ助
おい、タコ助w
んっ❗ タコ助→タコス→タコっス→タコ八郎っス
タコ八郎さん お酒大好き🍶
どこでも小便するじゃてw
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜♫ >>296
>おい、タコ助
タコ助 とかけて クレクレ ととく
その心はw
何でも欲しがる クレクレタコラ〜〜♫
🍶\(^o^)/🍶美味いのう〜♫ >>301
↑
この鬼和尚はもう古いじゃてw
>>8なんか読んで実践なんかしたら301鬼和尚のような
馬鹿ボンになるから やめたほうがいいwじゃて🍶
さすがに 儂のアドバイスは鋭いのう〜〜♫
🍶\(^o^)/🍶 儂は何をやってもうまいのう〜〜♫ >>298
>>299
おい、タコ助
何をイライラしている? >>303
?るいてしライライを何
助コタ、いお www
おわかりかな?
「を何」→ 「ヲナニ」→ 「オナニー」www
うむ、おぬしなかなか出来るなw
🍶\(^o^)/🍶 うまいのう〜〜♫ ティロパはその「マハムドラ-の詩」の中で次のようにうたっています・・・・・
マハムドラ-はすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
いまこの詩を与うべし
「空」は何ものも頼まず
マハムートラ-は何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきをうち壊し
解脱を手の内にするなり
『存在の詩』より(´-(ェ)-`)つ >>305
アホか くまコウはw
おまえ「存在の詩」て、ラジニーシじゃねえかよw
ナロパ、ティロパを語るのなら、ナーローチュードッグを
修行してなきゃ 語れねえよw
ラジニーシには無理w
鬼和尚もくまコウも センスがねえw
🍶\(^o^)/🍶 >>306
うむ。
オワタくんに、ナーローチュードッグの解説を許可する。
それでは、どうぞ。
(´-(ェ)-`)つ >>307
馬鹿野郎 教えを請え くまコウがw
グンドー(加行)、灌頂(ワンクル)、ルン・ティも
受けたことのない素人相手に6法の話なんか
できるかよw 何もわかってないんだな〜〜♫
くまコウは バカだから中華料理の具にでもなっちまえw
🍶\(^o^)/🍶 くまの右手は ことに美味いのう〜〜♫ >>308
うむ。
(´-(ェ)-`)つ
許可を取消す。 『マハムドラ-の詩』つづき
もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり
空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん
空間に象と影の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に怪我さるることなし
『存在の詩』より
つづく(´・(ェ)・`)つ
おはよう。諸くま君。
本日も張り切って参りましょう! >>310
訂正
怪我さるる(最後の行)→汚さるる
(/。\) 『マハムドラ-の詩』つづき
長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず
「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表され得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり
『存在の詩』より
つづく(´・(ェ)・`)つ >>312
基地外だなwじゃてw
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫ 『マハムドラ-の詩』つづき
からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝のからだを休ませよ
マハムドラ-は何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん
『存在の詩』より
次回につづく(´・(ェ)・`)つ >>314
この中空の竹を曲解しとるクンダリーニ指導者の
出目金キチガイがおったのぉ〜〜♫
くまコウも チベット密教のグンドーも行わず
その上、ナローパの六法の灌頂、ティルン、
ナローパ六法のそのものの加行、
そういうことを順序踏んでやりもしないで
ラジニーシの適当な文章を こんなところで出していると
地獄行きだぞw
チベットには「翻訳者は地獄行き」という戒めがあるんだぞw
間違いだらけの訳なんか載せるのは 無知のなせる業だw
くまコウは 早いとこ剥製にでもなれwじゃて
🍶\(^o^)/🍶 美味いのう〜〜♫ >>315
おろかで無知なくまであるが、
>「翻訳者は地獄行き」という戒めがあるんだぞw
↑このようくだらぬな戒めはブッダから発せられるものではなく、むしろ反するものであると確信しつつ、暇を見て続けるのである。
(´・(ェ)・`)つ >>316
間違いの翻訳を流せば 間違いの理解がうまれる
読んだやつは 間違いの理解をし みんな地獄行きw
その原因は 理解の浅い奴が翻訳し 解説したことにあるw
おまえはそれがわからんのか?
基地外野郎w >>315
中空の竹 についての、オワタくんが正しいと思う解釈とかをコメントすれば良いと思うでありますよ。
オワタくんの戒を逸脱しない範囲で書けば良いと思うでありますよ。
オワタくんは、何やら記憶のおもちゃ箱にたくさん専門用語を持ってるようなので、
ここは一つくまが、それを吐き出す機会をしんぜよう。
(´・(ェ)・`)つ >>317
論理的に説明できることであれば、厳密な翻訳が必須でありましょう。
自我があるのかないのか、心があるのかないのか・・・と言うことを求めることに於いて、正しい翻訳を読み、正しく理解したところで、
なんの役に立つのでありましょうか?
自らの実践の応援歌になれば、それでよいのだと、くまは思うでありますよ。
(´・(ェ)・`)つ くまコウは頭は大丈夫か?
あのなー、 ナロパは どこの人間だw
何語で話していたんだw
英語ですべての日本語を訳すことができるかw
できねえだろうw
チベット語ですべての伝授し理解しなければ意味は分からないのw
チベットの法を日本語に置き換えることは不可能なんだよw
中空の竹だって同じことだよw
おまえはしっかりチベット語をやって 顕教の良書を
読んで、グンドーやってから来いw
おまえなんか 同じ土俵に立ってねえんだよw >>320
くまは、くまの「苦」が克服できればよいのであります。
チベット仏教にも、密教にも興味ないであります。
オワタくんは、チベット仏教の信者でありますか?
それとも、修行オタクくんでありますか? >>322
黙れ❗
これぢゃw
↓
「くま殺し」www 『マハムドラ-の詩』つづき
真言、波羅蜜多、の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに
いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり
切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
『存在の詩』より
つづく
>>324
鬼和尚、こんばんは。精進するであります。(´・(ェ)・`)つ >>303
?るいてしライライを何
助コタ、いお www
おわかりかな?
「を何」→ 「ヲナニ」→ 「オナニー」www
うむ、おぬしなかなか出来るなw
🍶\(^o^)/🍶 うまいのう〜〜♫ コイツらは全員やらせキチガイw
死んじまえw
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
326まこと2017/05/16(火) 09:48:49.43ID:5ukRSiG6>>327
>>303
?るいてしライライを何
助コタ、いお www
おわかりかな?
「を何」→ 「ヲナニ」→ 「オナニー」www
うむ、おぬしなかなか出来るなw
🍶\(^o^)/🍶 うまいのう〜〜♫
327名無しを整える。2017/05/16(火) 09:49:36.95ID:r3dZON30
>>326
おい、タコ助
何をイライラしている?
328名無しを整える。2017/05/16(火) 09:50:11.19ID:QKd3ibxf
まことが、「イライラ」に反応しとる
329名無しを整える。2017/05/16(火) 09:50:36.52ID:CYmA5jxB
分かりやすい性格だぜ >>325 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。 『マハムドラ-の詩』つづき
マハムドラ-に於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラ-に於いて
人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり
解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり
ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行いへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし
『存在の詩』より
つづく
>>331
鬼和尚、こんばんは。(´・(ェ)・`)つ コイツらは全員やらせキチガイw
死んじまえw
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
326まこと2017/05/16(火) 09:48:49.43ID:5ukRSiG6>>327
>>303
?るいてしライライを何
助コタ、いお www
おわかりかな?
「を何」→ 「ヲナニ」→ 「オナニー」www
うむ、おぬしなかなか出来るなw
🍶\(^o^)/🍶 うまいのう〜〜♫
327名無しを整える。2017/05/16(火) 09:49:36.95ID:r3dZON30
>>326
おい、タコ助
何をイライラしている?
328名無しを整える。2017/05/16(火) 09:50:11.19ID:QKd3ibxf
まことが、「イライラ」に反応しとる
329名無しを整える。2017/05/16(火) 09:50:36.52ID:CYmA5jxB
分かりやすい性格だぜ >>336名無しを整える。2017/05/17(水) 08:07:39.14ID:s6nY+QnD
>おい、タコ助
>何をイライラしている?
↑↑↑↑↑
テメエなんか死んじまえw 『マハムドラ-の詩』つづき
二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏む者、ブッダフッドに至らん
はかなきかなこの世
幻や夢のごと、それは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
まもなく汝はマハムドラ-にたどり着き
無達成なるものを達成せん
『存在の詩』より
つづく
>>338
鬼和尚、こんばんは。(´・(ェ)・`)つ
読書に精進してるであります。 >>336名無しを整える。2017/05/17(水) 08:07:39.14ID:s6nY+QnD
>おい、タコ助
>何をイライラしている?
↑↑↑↑↑
テメエなんか死んじまえw おい、タコ助
何をイライラしている?
それじゃあ、図星だと言っているようなもんだぞ 氏ね w
↓↓↓↓↓↓
>>342名無しを整える。2017/05/18(木) 09:38:05.02ID:QAYxpabl
おい、タコ助
何をイライラしている?
それじゃあ、図星だと言っているようなもんだぞ
>>343名無しを整える。2017/05/18(木) 09:38:38.97ID:MyIRJ2jZ
まことは、この手の言葉に弱いんだよ! >>339 他人が工作員に見えるならば自分が工作員なのかもしれん。
自分の本心をよくみてみるのじゃ。
>>340 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。 『マハムドラ-の詩』つづき
木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん
心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見出だすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし
『存在の詩』より
つづく
>>346
鬼和尚、こんばんは。(´・(ェ)・`)つ
いつも、ありがとうであります。 氏ね w
↓↓↓↓↓↓
>>342名無しを整える。2017/05/18(木) 09:38:05.02ID:QAYxpabl
おい、タコ助
何をイライラしている?
それじゃあ、図星だと言っているようなもんだぞ
>>343名無しを整える。2017/05/18(木) 09:38:38.97ID:MyIRJ2jZ
まことは、この手の言葉に弱いんだよ 反論しているつもりかも知れないが
憤慨しているのがバレバレだぞ 氏ねw
↓↓↓↓
351名無しを整える。2017/05/19(金) 07:32:14.62ID:JvV8mT3Q
おい、タコ助
何をイライラしている?
352名無しを整える。2017/05/19(金) 07:33:10.39ID:Zrgp08lT
反論しているつもりかも知れないが
憤慨しているのがバレバレだぞ >>347 他人がそのように見えるならばもしかするとおぬしがそうであるからかもしれん。
自分をよく観てみるのじゃ。
>>348 そうじゃ、裸眼をもって見つめるのじゃ。
ただ一瞥で無明もなくなるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。 コイツは キチガイだなw
↓↓↓↓↓↓↓
354鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/05/19(金) 21:11:49.00ID:3ag7ND61
>>347 他人がそのように見えるならばもしかするとおぬしがそうであるからかもしれん。
自分をよく観てみるのじゃ。
>>348 そうじゃ、裸眼をもって見つめるのじゃ。
ただ一瞥で無明もなくなるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。 氏ねw
↓↓↓↓
351名無しを整える。2017/05/19(金) 07:32:14.62ID:JvV8mT3Q
おい、タコ助
何をイライラしている?
352名無しを整える。2017/05/19(金) 07:33:10.39ID:Zrgp08lT
反論しているつもりかも知れないが
憤慨しているのがバレバレだぞ 氏ねw
↓↓↓↓
357名無しを整える。2017/05/20(土) 08:20:29.78ID:kF6ogPRt
おい、タコ助
何をイライラしている?
358名無しを整える。2017/05/20(土) 08:20:58.65ID:8Mm16tC5
>>356
おい、タコ助
何を反応している? >>355 他人がそのように見えるならば実はおぬしがそうであるからかもしれん。
お大事に。 クズ ヨゴレ ルンペン野郎 氏ね❗
↓↓↓↓↓
>>360鬼和尚
>>355 他人がそのように見えるならば実はおぬしがそうであるからかもしれん。
お大事に。 氏ねw
↓↓↓↓
357名無しを整える。2017/05/20(土) 08:20:29.78ID:kF6ogPRt
おい、タコ助
何をイライラしている?
358名無しを整える。2017/05/20(土) 08:20:58.65ID:8Mm16tC5
>>356
おい、タコ助
何を反応している? しかし、おまえの思わく通り、「イライラ」に
反応しているよな! どうなんだろうな
何か、まことは、上から目線に弱い いや
上から目線、と、妄想するかと思ってたな
まあ、イライラしているときに、イライラしたいる
と、言われれば、誰でも怒るだろ
特にまことはなww 全員 キチガイw ここは基地外部落だなw 氏ね❗
↓↓↓↓↓↓↓↓↓
363名無しを整える。2017/05/21(日) 07:33:49.07ID:lHfhFu1P
おい、タコ助
何をイライラしている?
364名無しを整える。2017/05/21(日) 07:34:39.13ID:zZJpyYez
しかし、おまえの思わく通り、「イライラ」に
反応しているよな!
365名無しを整える。2017/05/21(日) 07:35:22.18ID:8mpNlqzc
どうなんだろうな
何か、まことは、上から目線に弱い
366名無しを整える。2017/05/21(日) 07:35:53.52ID:wKiguv39
上かは目線だったのか!?
367名無しを整える。2017/05/21(日) 07:37:17.58ID:Rjl82Jxe
いや
上から目線、と、妄想するかと思ってたな
まあ、イライラしているときに、イライラしたいる
と、言われれば、誰でも怒るだろ
特にまことはなww
368名無しを整える。2017/05/21(日) 07:37:51.39ID:egDd7T1b
つまり、図星だったってことだな! 乞食ルンペン野郎w 氏ね❗
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
363名無しを整える。2017/05/21(日) 07:33:49.07ID:lHfhFu1P
おい、タコ助
何をイライラしている?
364名無しを整える。2017/05/21(日) 07:34:39.13ID:zZJpyYez
しかし、おまえの思わく通り、「イライラ」に
反応しているよな!
365名無しを整える。2017/05/21(日) 07:35:22.18ID:8mpNlqzc
どうなんだろうな
何か、まことは、上から目線に弱い
366名無しを整える。2017/05/21(日) 07:35:53.52ID:wKiguv39
上かは目線だったのか!?
367名無しを整える。2017/05/21(日) 07:37:17.58ID:Rjl82Jxe
いや
上から目線、と、妄想するかと思ってたな
まあ、イライラしているときに、イライラしたいる
と、言われれば、誰でも怒るだろ
特にまことはなww
368名無しを整える。2017/05/21(日) 07:37:51.39ID:egDd7T1b
つまり、図星だったってことだな! 『マハムドラ-の詩』つづき
与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラ-はすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに−
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマへと溶解し
自己意志と高慢は無の中に消滅せん
『存在の詩』より
つづく
>>354
鬼和尚、こんにちは。
>裸眼をもって見つめる
←観念フィルターを通さず、ありのままをすべて受け入れる。
観念、分別のない観照者として、あることに一瞬でも真に気付ければ、
>ただ一瞥で無明もなくなる
のでありますね!
精進するであります(´・(ェ)・`)つ >>371
>観念フィルターを通さず、ありのままをすべて受け入れる。
観念、分別のない観照者として、あることに一瞬でも真に気付ければ、
↑ちょぴっと訂正であります。
観念フィルターを通して見ているのだと、観照者として、自覚しようとすることが、瞑想修行であり。
それを続けるうちに、観念、分別は夢幻であったと、気付ければ、Ok!
みたいな感じでありましょうか?
バグワンさんは「瞑想」を行為としてだけでなく、状態としても説明してるようでありますね。
鬼和尚、こんな理解で良いでありましょうか?
(´・(ェ)・`)ゞ キチガイだな 割引❗
↓↓↓↓↓↓↓↓
371名無しを整える。2017/05/21(日) 15:16:48.88ID:hmm7DJ9Q>>372
『マハムドラ-の詩』つづき
与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラ-はすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに−
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマへと溶解し
自己意志と高慢は無の中に消滅せん
『存在の詩』より
つづく
>>354
鬼和尚、こんにちは。
>裸眼をもって見つめる
←観念フィルターを通さず、ありのままをすべて受け入れる。
観念、分別のない観照者として、あることに一瞬でも真に気付ければ、
>ただ一瞥で無明もなくなる
のでありますね!
精進するであります(´・(ェ)・`)つ 373名無しを整える。2017/05/21(日) 17:39:09.22ID:01bwphux
キチガイだな 割引❗
↓↓↓↓↓↓↓↓
371名無しを整える。2017/05/21(日) 15:16:48.88ID:hmm7DJ9Q>>372
『マハムドラ-の詩』つづき
与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラ-はすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに−
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマへと溶解し
自己意志と高慢は無の中に消滅せん
『存在の詩』より
つづく
>>354
鬼和尚、こんにちは。
>裸眼をもって見つめる
←観念フィルターを通さず、ありのままをすべて受け入れる。
観念、分別のない観照者として、あることに一瞬でも真に気付ければ、
>ただ一瞥で無明もなくなる
のでありますね!
精進するであります(´・(ェ)・`)つ 373名無しを整える。2017/05/21(日) 17:39:09.22ID:01bwphux
キチガイだな 割引❗
↓↓↓↓↓↓↓↓
371名無しを整える。2017/05/21(日) 15:16:48.88ID:hmm7DJ9Q>>372
『マハムドラ-の詩』つづき
与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラ-はすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに−
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマへと溶解し
自己意志と高慢は無の中に消滅せん
『存在の詩』より
つづく
>>354
鬼和尚、こんにちは。
>裸眼をもって見つめる
←観念フィルターを通さず、ありのままをすべて受け入れる。
観念、分別のない観照者として、あることに一瞬でも真に気付ければ、
>ただ一瞥で無明もなくなる
のでありますね!
精進するであります(´・(ェ)・`)つ >>372 そのような理解でよいのじゃ。
瞑想実践が全てなのじゃ。
またおいでなさい。 >>371
訂正:ダルマ→ダルマタ
>>376
鬼和尚、ありがとうであります。
裸眼での観察は超むずかしそうでありますが、観念フィルターを通して見てるのだと言うことを意識することは、慣れればくまでもできるであります。
そこまででも、十分安楽効果あるのでありますが、
そこから先へなかなか進めないであります。
けど、バグワンさんの本は、鬼和尚の説法並みに元気でるであります。
(´・(ェ)・`)つ 全員 キチガイw ここは基地外部落だなw 氏ね❗
↓↓↓↓↓↓↓↓↓
363名無しを整える。2017/05/21(日) 07:33:49.07ID:lHfhFu1P
おい、タコ助
何をイライラしている?
364名無しを整える。2017/05/21(日) 07:34:39.13ID:zZJpyYez
しかし、おまえの思わく通り、「イライラ」に
反応しているよな!
365名無しを整える。2017/05/21(日) 07:35:22.18ID:8mpNlqzc
どうなんだろうな
何か、まことは、上から目線に弱い
366名無しを整える。2017/05/21(日) 07:35:53.52ID:wKiguv39
上かは目線だったのか!?
367名無しを整える。2017/05/21(日) 07:37:17.58ID:Rjl82Jxe
いや
上から目線、と、妄想するかと思ってたな
まあ、イライラしているときに、イライラしたいる
と、言われれば、誰でも怒るだろ
特にまことはなww
368名無しを整える。2017/05/21(日) 07:37:51.39ID:egDd7T1b
つまり、図星だったってことだな! キチガイだな
↓↓↓↓↓↓
376鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/05/21(日) 21:21:50.97ID:7CSng0DG>>377
>>372 そのような理解でよいのじゃ。
瞑想実践が全てなのじゃ。
またおいでなさい。
377名無しを整える。2017/05/21(日) 21:35:28.63ID:hmm7DJ9Q
>>371
訂正:ダルマ→ダルマタ
>>376
鬼和尚、ありがとうであります。
裸眼での観察は超むずかしそうでありますが、観念フィルターを通して見てるのだと言うことを意識することは、慣れればくまでもできるであります。
そこまででも、十分安楽効果あるのでありますが、
そこから先へなかなか進めないであります。
けど、バグワンさんの本は、鬼和尚の説法並みに元気でるであります。
(´・(ェ)・`)つ キチガイだな
↓↓↓↓↓↓↓
379名無しを整える。2017/05/22(月) 07:35:08.04ID:k8SLezii
おい、タコ助
何をイライラしている?
380名無しを整える。2017/05/22(月) 07:35:36.08ID:0JWiRB3r
>>378
おまえは、北朝鮮か?! >>377 それで自分を観てみるとよいのじゃ。
どのように観えるか試してみるのじゃ。
別の自分が見えるかもしれんのじゃ。 『マハムドラ-の詩』つづき
至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり
はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてガンがーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ−
『マハムドラ-の詩』おわり
『存在の詩』より
>>383
鬼和尚、見たいであります。
観念フィルターが落ちれば、自我はなく、その落ちる時は、「滝のごとく転落するを感じ」なのでありますね。
それは、まさに死の恐怖であり、発狂の恐怖なねでありましょうか?
けど、滝に転落しなければ、海にたどり着けないでありますね。
見れるつもりで見てみるであります。
鬼和尚、ありがとうであります(´・(ェ)・`)つ キチガイだな
↓↓↓↓↓↓↓
379名無しを整える。2017/05/22(月) 07:35:08.04ID:k8SLezii
おい、タコ助
何をイライラしている?
380名無しを整える。2017/05/22(月) 07:35:36.08ID:0JWiRB3r
>>378
おまえは、北朝鮮か?! イライラの次は、国語が苦手、に反応しているのか?!
まことはwwwwww >>383
鬼和尚、おはようございます。
くま、見てみたであります。
そこにはあいもかわらぬくまがいたであります。
されど!、
最近、なんちゃって不動心が実感できてるのでありま。
あいもかわらぬくまは、日常の些事に怒ったり、悲しんだり、嫉妬したり、憐れんだり、不安に思ったりするのであります。
日常生活では、巻き込まれることも、まだたまにあるなでありますが、
瞑想中、なんちゃって無思考の中で、待ち受けてそれらの感情浮遊を発見したときは、それらがあることを認め、直ちに離脱できるのであります。
なんちゃって不動心であります。
あいもかわらぬくまを、覚めた目で見るただ一つにして無二なるくま(?)は不動心なのであります。
(´-(ェ)-`)つ 信心銘
01至道無難 唯嫌揀択 但莫憎愛 洞然明白
至道(しどう)無難(ぶなん)、唯揀(ゆいけん)択嫌(けんじゃく)。但(た)だ憎愛(ぞうあい)莫(な)ければ、洞然(とうねん)として明白(めいはく)なり 。
鬼和尚の仏教勉強会 ブログにより。
つづく(´・(ェ)・`)つ >>384 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>388 善かったのじゃ。
座り続ければ真の不動心になるじゃろう。
精進あるのみなのじゃ。 >>390
おい、鬼和尚、いや、まこと
座ったこともないおまえが、何でそんなことが
わかるんだ? まことは、ネット検索だけで、悟れると思ってんだよ! 信心銘
02毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆
毫釐(ごうり)も差(しゃ)有(あ)れば、天地(てんち)懸(はる)かに隔(へだ)たる。現前(げんぜん)を得(え)んと欲(ほっ)せば、順逆(じゅんぎゃく)を存(ぞん)すること莫(なか)れ。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
>>390
鬼和尚、ありがとうであります。
一度断念した信心銘の暗記に再チャレンジであります。
(´・(ェ)・`)つ >>391 他人が座った事も無いように見えるならば、実はおぬしがそうであるからかもしれん。
自分の本心をみてみるのじゃ。
わしに夢中であることがわかるじゃろう。
>>394 そうじゃ、どんどん学ぶとよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 >>395
鬼和尚、ありがとうであります。
漢詩のほうが暗記しやすいでありす。
以前8割くらい暗記してたので、今回完璧をめざすであります。
マハムドラ-の詩も、信心銘に似た感じを受けたであります。
マハムドラ-って、漢語で表すと何になるんでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ ↑まことと呼ばれて
まことと呼び返すのは
まことのクソジジイくらいなものだろww まことは、バリバリの理系なんてボサいたのわ
プロ野球2ちゃんねるに貼られて、発狂してん
だよ! 信心銘
03違順相争 是為心病 不識玄旨 徒労念静
違順(いじゅん)相争(あいあらそ)う、是(これを)心病(しんびょう)と為(な)す。玄旨(げんし)を識(し)らぞれば、徒(いたず)らに念静(ねんじょう)に労(ろう)す。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
鬼和尚、こんばんは(´・(ェ)・`)つ
マハムドラ-の詩、にある、
>ゆったりと自然に
とは、ありのままを、受け入れることであり、
受け入れるとは、それを認め、肯定することではなく、
どのような自分自身の感情も感覚も思いも、「自分のもの」でも「自分」でもないとを知ることでありましょうかね?
鬼和尚の「苦滅の法」は、感情などの反応に自己同一化してしまうことから、離脱する法でありますね! ..,Λ_Λ
/ノ・(ェ)・)
2130米砲は発射
相変わらず米債完全連動!
くま、106%
衝撃に備えよ! >>396 大印とかいうのじゃ。
大いなる印じゃな。
チベットから中国に伝わった時は大手印とか訳されたのじゃ。
ムドラーを手による印と訳したのじゃな。
しかし、ムドラーは手によるものだけでなく肉体でも行うから手印は間違いなのじゃ。
心で行う故に大印でよいのじゃ。
>>401 そのようなものじゃ。
否定と肯定の彼方にマハームドラーはあるじゃろう。
観察によってそれも可能なのじゃ。 >>404
鬼和尚、ありがとうであります。
大印で調べてみたら、出てきたであります。
(´・(ェ)・`)つ キチガイか
まことは、中高生の挨拶のようなものにも
馴染めなかったようだな 信心銘
04円同大虚 無欠無余 良由取捨 所以不如
円(まど)かなること大虚(たいきょ)に同(おな)じ、欠(か)くること無く余(あま)るこし無し。良(まこと)に取捨(しゅしゃ)に由(よ)る、所以(ゆえ)に不如(ふにょ)なり。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
(´・(ェ)・`)つ 信心銘
05莫逐有縁 勿住空忍 一種平懐 泯然自尽
有縁(うえん)を逐(お)うこと莫(なか)れ、空忍(くうにん)に住(じゅう)すること勿(なか)れ。一種平懐(いっしゅへいかい)なれば、泯然(みんねん)として自(おの)ずから尽(つ)く。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
>>410
いつも、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ キチガイか
まことは、中高生の挨拶のようなものにも
馴染めなかったようだな 信心銘
06止動帰止 止更弥動 唯滞両辺 寧知一種
動(どう)を止(や)めて止(し)に帰(き)すれば、止(し)更(さら)に弥(いよい)よ動す。唯(ただ)両辺(両辺)に滞(とどこお)らば、寧(なん)ぞ一種(いっしゅ)を知らんや。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
マハムドラ-の詩は知人に、バクワンの存在の詩をいただいて再読することになりましたが、
最初の出会いは、マハムドラ-の詩も信心銘も、鬼和尚がブログや掲示板で詳しく解説してくれたお蔭でありました。
鬼和尚、これらの他に、岩波等にないもので、おすすめはありますか?
(´・(ェ)・`)つ ↑原始仏典などを読むとよいのじゃ。
阿含経典ともいうのじゃ。
>>417
鬼和尚、ありがとうであります。
以前購入して、読まずにしまいこんでしまったのがあるぱずなので、探してみるであります。
(´・(ェ)・`)つ 信心銘
07一種不通 両処失功 遣有没有 従空背空
一種(いっしゅ)通ざれば、両処(りょうしょ)功(こう)を失(しっ)す。有(う)を遣(や)れば有を没(ぼっ)し、空(くう)に従えば空に背(そむ)く。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
(´・(ェ)・`)つ >>418 そうじゃ、読んでみるのじゃ。
勉強になるじゃろう。
またおいでなさい。 信心銘
08多言多慮 転不相応 絶言絶慮 無処不通
多言多慮 (たごんたりょ)、転(うた)相応(そうおう)せず。絶言絶慮(ぜつごんぜつじょ)、処(ところとして)通ぜずということ無し。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより
(´・(ェ)・`)つ
これくらいづつなら、暗記できるのであります。 >>424
鬼和尚、おはようございます。
本日も、張り切って参ります! 沈黙は金なり、とは、いらんことを言わないことじゃ
よって、キチガイとは関係ないのじゃ けど師匠
世の中には
言わなくていいことを言って
言わなければいけないことを言わない
者もいると思いますが だから、「いらんことを言わない」と言っておるじゃろ!! 信心銘
09帰根得旨 随照失宗 須臾返照 勝却前空
根(こん)に帰(き)すれば旨(し)を得(え)、照(しょう)に随えば宗(しゅう)を失す。須臾(しゅゆ)も返照(へんしょう)すれば、前空(ぜんくう)に勝却(しょうきゃく)す。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
(´・(ェ)・`)つ 一瞬で、見られるものは見るものではないと気づければ、それで上がりなのでありますね!
(´・(ェ)・`)つ >>426 こんばんはなのじゃ。
>>432 そうじゃ、観られているのが自我なのじゃ。
いつでも観られているのに、観るものと認識しているのじゃ。
その矛盾に気づくのじゃ。 野郎共?
ここも、まことのクソジジイしか
いないじゃないか(笑) そんなこと、今更、言わなくてもわかっているじゃないか! おい!
自爆轟沈・三毒ヘタレのかかし丸!
>それともビビってるのか?
>マヂで訪ねるからちゃんと教えろ
さぁ!
場所は教えた通りだ!
早よせいや?
いつ行くんだ?
行く日を宣言しろや? 【かかし、妙心寺に討ち入り宣言⁉︎】
かかし!
珍説・奇説や屁理屈を言っては絡んでくるあのかかしが、臨済宗の一居士に間違いを指摘されたのを逆恨みし、臨済宗妙心寺に物申しに行くそうです!
乞うご期待!! 信心銘
10前空転変 皆由妄見 不用求真 唯須息見
前空(ぜんくう)の転変(てんぺん)は、皆(みな)妄見(もうけん)に由(よ)る。真(しん)を求むること用(もち)いざれ、唯須(ただすべか)らく見(けん)を息(や)むべし。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
色付けされた「真」は、「真」ではない・・・ってか、「真」の対極の「偽」を前提とする時点で、いかんのでありましょう。
下手な考え休むに似たりでありましょう。
>>433
鬼和尚、こんばんは。
矛盾に気づくことができても、ストンと落ちるところまでが無限に遠い道程のようであります。
(´・(ェ)・`)つ ↑気付くことができるまで何度もひたすらに観察あるのみなのじゃ。 >>442
鬼和尚、ありがとうであります。
知ろうとすることを止めた方が、より多く気づける機会に遭遇できるであろうと言うのが、先人や鬼和尚のアドバイスでありますね。
(´・(ェ)・`)つ >>442
>気付くことができるまで何度もひたすらに観察あるのみなのじゃ
鬼和尚、いや、まことの文面を見ると、観察より
考えるが先になっているがな 考えること
観察すること
この矛盾をまことは、わかってない
まことの話を見ると、そのへんに壁ある
さて、その答えは
ど素人のまことには、教えてあーげないww 信心銘
11二見不住 慎忽追尋 纔有是非 紛然失心
二見(にけん)に住(じゅう)せず、慎(つつし)んで追尋(ついじん)すること勿(なか)れ。纔(わず)かに是非(ぜひ)あれば、紛然(ふんねん)として心(しん)を失(しっ)す。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
良いとか悪いとか、対極を想定しないことには、そもそめ観念は成立しないのでありますね。
むしろ、反応としての快不快に従う方がましで、
自我の観念に実体がないことを確信できれば、
自他の別はないのであり、
全ての調和と快と安寧を求める心情に自ずとなるのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ >>443>>447 そうじゃ、知るのではなく感じるのじゃ。
感じことを受け入れるのじゃ。
観念のある人間には難しいことであるがのう。 うわははは〜〜❗
ホホホホっ❗
観察工夫 八法十六法だ キチガイだな 信心銘
12二由一有 一亦莫守 一心不生 万法無咎
二は一に由(よ)って有(あ)り、一も亦(また)守ること莫(なか)れ。一心(いっしん)生(しょう)ぜざれば、万法咎(とが)無し。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
分別が、悟りを遠ざけるのでありますね。
>>448
鬼和尚、おはようであります。
(´・(ェ)・`)b
考えるな!感じろ!でありますね おーぷん2ちゃんねるのオカルト板に行って
意味不明って検索してから260番のレス見てみ。
きっと必要なことが書いてある。 信心銘
13無咎無法 不生不心 能随境滅 境逐能沈
咎(とが)無ければ法(ほう)無し、生(しょう)ぜざれば心(しん)ならず。能(のう)は境(きょう)に随(したが)って滅し、境は能を逐(お)うて沈む。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより
観念と心(自我)、認識と世界についてでありますね。
(´・(ェ)・`)つ >>451 そうじゃ、感じるのじゃ。
全てをありのままに感じ受け入れるのじゃ。
おーぷん2ちゃんねるのオカルト板に行って
意味不明って検索してから260番のレス見てみ。
きっと必要なことが書いてある。 信心銘
14境由能境 能由境能 欲知両段 元是一空
境は能に由って境たり、能は境に由って能たり。両段を知らんと欲せば、元(もと)是(これ)一空(いっくう)。
15一空同両 斉含万象 不見精粗 寧有偏党
一空(いっくう)両(りょう)に同じ、斉(ひと)しく万象(ばんぞう)を含む。精粗(せいそ)を見ざれば、寧(いずくん)ぞ偏党(へんとう)有らんや。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより
認識なければ存在はなく。
精粗も違いはない。分別を棄て、一空にくつろげば良いのでありますね。
>>455
鬼和尚、おはようであります。
ありのままに感じ、受け入れるであります。
(´・(ェ)・`)つ張り切って参ります! 信心銘
16大道体寛 無難無易 小見狐疑 転急転遅
大道大寛(だいどうたいかん)なり、難無(なんな)く易(い)無し。小見(しょうけん)は狐疑(こぎ)す、転(うた)た急(きゅう)なれば転た遅(おそ)し。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
あわてず、囚われず、リラックスすることが大切なのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ ↑そうじゃ、大道体寛なのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 25歳看護師です、女性の友達がほしいのですが。暇の方連絡まってます。good-par.shiina@docomo.ne.jp千葉県八街市八街ほ973-13椎名 教泰043-442-1501、090-3202-8219 いよいよ一来補的 キチガイ劇場のはじまりです❗
『働くおじさん 鬼和尚劇場です』♫♫♫♫♫♫ 信心銘
17執之失度 必入邪路 放之自然 体無去住
之を執(しゅう)すれば度(ど)を失(しっ)し、必ず邪路(じゃろ)に入る。之を放てば自然(じねん)にり、体(たい)、去住(きょじゅう)無し。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
>>460
鬼和尚、こんばんは。
今週も張り切って参ります!
(´・(ェ)・`)つ >>466
鬼和尚、こんばんは。
仕事も、何もかも、修行と思って臨むであります。
他人のしたことしなかったことを見ず、自分のしたことしなかったことだけを、ありのままに見るであります。
無理せず、リラックスして、ありのままに。
(´・(ェ)・`)つ 信心銘
18任性合道 逍遥絶悩 繋念乖真 昏沈不好
性(しょう)に任(にん)ずれは道(どう)に合(がっ)す、逍遥(しょうよう)として悩(のう)を絶(ぜっ)す。繋念(けねん)は真に乖(そむ)く、昏沈(こんちん)は不好(ふこう)なり。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
性とは、自分の本性のことでありますね。
ありのままの自分のことでありますね。
任ずれば、とはそれを受け入れるのでありますね。
「ありのまま」を肯定してみたたり否定してみたりするのが、繋念であり、昏沈、でありますね。
ありのままを受け入れちゃえば、夢幻のように消えてしまうのでありますよね。
(´・(ェ)・`)つ ↑そうじゃ、ありのままにあればよいのじゃ。
そうすればなにもいらなかったと気付くのじゃ。 >>470
鬼和尚、こんばんは。
ありのまま、
◎..◎
( ____ )カエルのパパであります。
(´・(ェ)・`)ついつも、ありがとうであります。 >>470
おい、まこと
おまえは、ありのままを否定していたよな?
頭大丈夫か? とまで言っていたよな? まことは、その場しのぎの反論をするから
矛盾するんだよ! 信心銘
19好不労神 何用疎親 欲趣一乗 勿悪六塵
不好(ふこう)なれば神を労す、何ぞ疎親することを用ひん。一乗に趣かんと欲せば、六塵を悪(にく)むこと勿れ。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。 >>475
六塵とは、色・声・香・味・触・法の六境のことだそうであります。心を汚し煩悩を起こさせるので、塵と言われてしまうのでありますが、
ここでは、それすらもにくんではいかんと、一切分別はいかんということでありますね。
(´・(ェ)・`)つ ↑そうじゃ、法も囚われては魔境になるのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。 >>477
鬼和尚、こんばんは。
以前、信心銘は、ある程度修行の進んだ者が、壁に突き当たった時に読むと価値がわかると言う趣旨のことを仰ってましたが、
一切の執着を離れないと、気付きはあらわれないのでありますね。
求めると得られず。
追うと逃げられるであります。
面白いものであります。
不思議であります。
一所懸命やってると、いろいろと向こうからやってくるのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ それでは、信心銘を読むのじゃ
あきらかに、おまえさんは、壁にブツかっておるじゃろ 確かに、まことは、壁にブツかってはいるが
悟りもわかってなければ、修行もしとらんが 何だコイツwすげぇんだけどw
しかもブログが自己啓発系でめっちゃ勉強になるわ
こんなんなりてぇ〜
http://salariedmannokuseni.seesaa.net/ 信心銘
20六塵不悪 還同正覚 智者無為 愚人自縛
六塵を悪(にく)まざれば、還って正覚に同じ。智者は無為なり、愚人は自縛す。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
(´・(ェ)・`)つ ↑そうじゃ、自分で自分を縛っているのじゃ。
自分で自分を解放するのじゃ。 >>483
鬼和尚、こんばんは。
自縄自縛で自爆せぬためには、ありのままに観察するだけで良いのでありますね。
そうすれば、観念妄想は夢幻のように消えてしまうのであります。
(´・(ェ)・`)つ 急な出費などで、今月の生活費?家賃が足りなくてお困りの方。
ヤミ金でお困りの方。
保証人、担保不要です。
詳しくはHPをご覧下さい。
会社にお勤めの方、自営業、フリーター、風俗・水商売など業種にかかわらずお気軽にご相談ください。
エヌピーオー法人 sta 信心銘
21法無異法 忘自愛著 将心用心 豈非大錯
法に異法無し、妄(みだ)りに自から愛著す。心を将(もっ)て心を用う、豈(あ)に大錯(たいしゃく)に非(あら)ざらんや。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
法が悪いのではなく、法に執着するからうまく行かないのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ 今朝、不思議な経験をしたであります。
くまは、日常出来るだけ「今」に意識をとどめるようにしてるのでありますが、
それがやりやすいのは、歩いているときなのであります。
毎週駅頭で演説してる人がいるのであります。
今朝、その演説の声に気付きつつも、早口の論理的な語りが耳に確かに入っているのでありますが、言葉が音の組み合わせにしか聞こえず、不思議な感じでありました。
その後電車内での車内アナウンスは普通に聞こえましたが、
何とも不思議な経験でありました。
鬼和尚、あれは、修行の成果でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ >>484 そうじゃ、観察するだけで自縛は解き放たれるのじゃ。
自分を縛っていたのは自分だけであったと気付くのであるからのう。
自解放なのじゃ。 キチガイに観察なんかできねえ
なにせキチガイだからw >>491
キチガイの自覚のない
本物のキチガイはテメエだw
氏ね 信心銘
22迷生寂乱 悟無好悪 一切二辺 浪自斟酌
迷えば寂乱(じゃくらん)を生じ、悟れば好悪(こうお)無し。一切の二辺、浪(みだ)りに自から斟酌す。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより
分別するから迷うのだ!
(´・(ェ)・`)つ >>488 そうじゃろう。
言葉とその意味が厭離したのじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。 >>495
鬼和尚、こんばんは。
>言葉とその意味が厭離
言葉が音の羅列にしか聞こえない状況下でも、確かにその事を受け止めてる思考は通常通りであり、何もわからなくなっているわけではなかったであります。
で、ありますので、不安や混乱はなく、不思議な経験を楽しんで実感できたであります。
けど、これが、恒常化すると、生活に支障をきたすでありますね
(´・(ェ)・`)つ >>495 言語獲得装置システムじゃ
心理学では、人間は、言語を拾って成長するのじゃ 信心銘
23夢幻虚華 何労把捉 得失是非 一時放却
夢幻空華(むげんくうげ)、何ぞ把捉(はしゃく)に労せん。得失是非、一時に放却せよ。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
(´・(ェ)・`)つ >>496 そうじゃ、言葉も観念であるから厭離もおこるのじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。 信心銘
24眼若不睡 諸夢自除 心若不異 万法一如
眼(まなこ)若し睡らざれば、諸夢自から除く。心若し異ならざれば、万法一如なり。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
(´・(ェ)・`)つ 信心銘
25一如体玄 兀爾忘縁 万法斉観 帰復自然
一如体玄なり、兀爾(こつじ)として縁を忘ず。万法斉(ひと)しく観ずれば、帰復自然(じねん)なり。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
自ずから叱り=ありのままに帰れば良いのでありますね!
(´・(ェ)・`)つ >>507
訂正
叱り → 然り
(´・(ェ)・`)ゞ >>506
何で、エンリやカイリが、アカギになったの? 厭離をエンリやオンリやカイリと言ってた者がいたのじゃ
カイリにちなんで、カイジと言ったのじゃ
そして、カイジからアカギになったのじゃ >>509
鬼和尚、
同一人物への激しい愛しさと激しい憎しみが混ざり合った感情に苦しんでいます
消し方を教えてください 信心銘
26泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止
其の所以を泯(みん)じて、方比すべからず。動を止むるに動無く、止を動ずるに止無し。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
比べたりせずに、ありのままを感じときゃ良いのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ >>513 数息観などを行い、冷静な心でその感情を観察するのじゃ。
紙に書いてもよいのじゃ。
大抵は強い執着からそのような感情が起こるのじゃ。
執着している者に拒否されたりすると憎んだりするのじゃ。
執着を原因として愛と憎しみが起こると観察するのじゃ。
執着が無ければ愛も憎しみもない観察するのじゃ。
全てが観察できればきえるじゃろう。
>>515 そうじゃ、なにも比べずありのまにみるのじゃ。 信心銘
27両既不成 一何有爾 究境窮極 不存軌則
両(ふた)つながら既に成らざれば、一 何ぞ爾(しか)ること有らん。究境窮極(くぎょうくごく)、軌則(きそく)を存せず。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
>>516
↑ここがちょぴっと難しいのであります。
例えば、主観と客観、両方ともないのであって、それらが一つのものである、てなわけではないのである。
要するに、ものごとの見方考え方の正解の規則なんてものはないのだ!
・・・少なくとも、修行に際して、一切の観念を棄てよ、という理解で良いのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ >>518
それとも、動と止 がともになければ、(何か別の)一つであるみたいなことではなく、
何か規則があるわけではないので、そのようなことをあーでもないこーでもないと考えるのは無駄だよと言ってるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ >>518 そうじゃ、両局の観念を捨てれば一つの観念さえも無なのじゃ。
数えると言う事もないからのう。
観念の論理も存在しないのじゃ。 >>520
鬼和尚、こんばんは。
そもそも、極などないのでありますね。
無限であり、永遠であり、
2ではなく、無論1でもないのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ 本物の鬼和尚さん
まことは、ネットのオカルトな悟り話を鵜呑みしてるんですよ
これじゃあ、悟れませんよね? オカルトな話は、比叡山で物議が交わされているのじゃ
結局、黙って座禅をしろという結論に達するのじゃ
悟りの前では、オカルトは否定されているのじゃ >>516
お返事ありがとうございます。続きは後日ブログの人生相談のほうに書かせてもらいます。よろしくご教授のほどをお願いいたします。 ●●●橋本市長発言と慰安婦問△題の本質●●●
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28契心平等 所作倶息 狐疑尽淨 正信調直
心の平等に契(かな)えば、所作倶(とも)に息(や)む。狐疑(こぎ)尽(ことごと)く浄(つ)きて、正信(しょうしん)調直(ちょうじき)なり。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
(´・(ェ)・`)つ >>521 そうじゃ、無なのじゃ。
無でさえもない無なのじゃ。
>>513 実践しなくては悟れないじゃろう。
おぬしも実践あるのみなのじゃ。
>>526 どういたしまして、またおいでなさい。 不動心があるが、本当にあんなことが出来ると
まことは、思ってんのかねえ 自分が「人間」と知ることじゃ
不動心にたどり着くのは、10万人、100万人に
一人くらいじゃろ
が、人間は神様ではないのじゃ
が、神様に、近づくことは出来るのじゃ
みな、精進するのじゃ 信心銘
29一切不留 無可記憶 虚明自照 不労心力 非思量処 識情難測
一切留めず、記憶すべきなし。虚明(こみょう)自ら照らして、心力を労せず。非思量の処、識情測(はか)り難し。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
>>529
そうさんさんも、あらゆる表現で、たたみかけるように、「無」であることを、伝えようとしてるのでありますね。
何かのスタートラインとか基準である0とかでなく、無であると。
(´・(ェ)・`)つ >>532 そうじゃ、何も留めず、記憶すべきこともないのじゃ。
ひとたび気付きがおこれば、何もかも手放しで変容は終始するのじゃ。 >>534
鬼和尚、こんばんは。
「変容」待ちのくまであります。
けど、待ってると来ないので、
今にやすらぐようにしようと思う、くまであります。
(´-(ェ)-`)つ >>531
本物の鬼和尚さん
じゃあ、10万人、100万人に一人の不動心を
得たら、オカルト染みたことが出来るの? 知らんのじゃ
そして、知りたいとも思わないのじゃ
不動心なんてない、と、悟るのが悟りじゃ 信心銘
30真如法界 無他無自 要急相応 唯言不二
真如法界、他無く自無し。急に相応せんと要(ほつ)せば、唯だ不二(ふに)と言うのみ。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
(´・(ェ)・`)つ >>535 今にやすらいでもくるじゃろう。
精進し続ければいずれは誰もがそこに至るのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。 信心銘
31不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗
不二なれば皆な同じ、包容せずと言うこと無し。十方の智者、皆な此(こ)の宗に入る。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
(´・(ェ)・`)つ 信心銘
32宗非促延 一念万年 無在不在 十方目前
宗は促延(そくえん)に非ず、一念万年(いちねんまんねん)。在と不在と無く、十方も目前。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚、こんばんは。
なんとも壮大な話しであります。
時間も空間もなく、
あるというのであれば、
全宇宙も、宇宙誕生以来の全時間も、
目前にすべてあるのでありますね。 そうじゃ、時間も空間も全て今ここにあるものじゃ。
永遠も一瞬なのじゃ。 信心銘
33極小同大 忘絶境界 極大同小 不見辺表
極小は大に同じく、境界を忘絶(ぼうぜつ)す。極大は小に同じく、辺表(へんぴょう)を見ず。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
鬼和尚こんばんは。(´・(ェ)・`)つ
たった16文字で無限を言い尽くしてるように思えるであります! そうじゃのう、名文じゃな。
極大極小皆同じなのじゃ。 >>548
鬼和尚こんばんは。
この名文をあじわえるだけでも、くまはありがたいと思うであります。 信心銘
34有即是無 無即是有 若不如此 必不須守
有は即ち是れ無、無は即ち是れ有。若し此(か)くの如くならずんば、必ず守ることを須いず。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
鬼和尚、こんばんは。
(´・(ェ)・`)つ
不ニを実感、得心できるまで、修行をやめちゃいかんのでありますね! >>549 そうじゃ、ありがたいことじゃ。
>>552 そうじゃ、不二感得まで精進あるのみなのじゃ。 鬼和尚、いや、まこと
おまえは、その意味をわかって言ってたんか? おまえも人聞きが悪いな!
まことは、自己満足のネット検索だけで
話しているだけじゃんか! 信心銘
35一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢
一は即ち一切、一切は即ち一。但(た)だ能(よ)く是(か)くの如くならば、何ぞ不畢(ふひつ)を慮(おもんばか)らん。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚、こんばんは。
信心銘、明日でいよい最終回であります。
鬼和尚の仏教勉強会の講読ゼミといたしまして、『マハムドラ-の詩』、『信心銘』に続きまして、鬼和尚の推奨されるところを取り上げたいと思うであります。
何がよいでありましょうか? 以前、takeshikedaと言う人ーの『正法眼蔵』の解説サイトを読んで、ふむふむと思えたのでありますが、
そもそも、道元と言う人は、難しいことを難しい言葉で解説することはできても、
鬼和尚やそうさんさんのように、難しいことを優しく解説する力はイマイチだったような気がするのであります。
takeshikedaの解説はわかりやすかったのでありますが、
鬼和尚の解説も読んでみたいであります。
いかがでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ >>556>>557 正法眼蔵は長い上に自伝とかもあってあまりいみがないのじゃ。
ダンマパダを書くとよいのじゃ。 >>558
承知いたしましたであります。
真理のことばは、島流しに際して一冊だけ持ち込みが許可されるとしたら、選ぶであろう本であります。
日曜日からはじめるであります。
(´・(ェ)・`)つ 信心銘
36信心不二 不二信心 言語道断 非去来今
信心不二、不二信心。言語(ごんご)の道断え、去来(こらい)今(こん)に非ず。
鬼和尚の仏教勉強会ブログより。
見るもの聞くもの、自分の外にある事物もも、学んだ知識も思考も、状況に応じての感情も、全てその在処は心であり、
心を観察することが、『信』=悟りに至る唯一無二の道なのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
次回より、ダンマパダのはじまりです。 真理のことば(ダンマパダ)
第一章 ひと組みずつ
1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。──車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。──影がそのからだから離れないように。
(´・(ェ)・`)つ
うむ。清らかな心のくまでありたいであります。 そうじゃ、人の世界は心によって創られているのじゃ。
心が清ければ清い世界にいられるのじゃ。 >>563
清い世界で生きるくまになるであります! (´・(ェ)・`)つ まことが清い世界だって!?
ハッキング、遠隔操作をしているやつが
何を言っているんだ??? 真理のことば(ダンマパダ)
第一章 ひと組みずつ
3 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息(ヤ)むことがない。
4 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。
(´・(ェ)・`)つ
ふむふむ。 >>564 善いことじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第一章 ひと組みずつ
5 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
6 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。──このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。
(´・(ェ)・`)つ
覚悟しよう! とくまも思うのである。 真理のことば(ダンマパダ)
第一章 ひと組みずつ
7 この世のものを淨らかだと思いなして暮し、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。──弱い樹木が風に倒されるように。
8 この世のものを不淨であると思いなして暮し、(眼などの)感官を抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。──岩山が風にゆるがないように。
(´・(ェ)・`)つ
「思いなして暮し」、てところが胆かなと愚考したくまであります。 そうじゃ、この世を不浄であると思い為して暮らすのじゃ。
そうすれば容易に捨てられるのじゃ。
世間を捨てて永遠を得るのじゃ。 >>572
鬼和尚、ありがとうであります。
で、ありますよね!
不浄観は、空 と同じく悟るためのテクニックであると思うであります。
止観のテクが、あまりにも簡単な、ほぼ万人が実践し、実感できそうなテクのために、宗教家が自らに対する執着のために、神秘のベールに包み込もうとしてることが、不幸の原因と思うであります。
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第一章 ひと組みずつ
9 けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制が無く真実も無いのであるから、黄褐色の法衣にふさわしくない。
10 けがれた汚物を除いていて、戒律をまもることに専念している人は、自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、観察は誰にでも出来るものじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第一章 ひと組みずつ
11 まことでないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(マコト)に達しない。
12 まことであるものを、まことであると知り、まことでないものを、まことでないと見なす人は、正しい思いにしたがって、ついに真実(マコト)に達する。
(´・(ェ)・`)つ
ふむ。そりゃそーでありましょう。 そうじゃ、嘘ばかりついていると本当と嘘がわからなくなってしまうのじゃ。
まことであるものをまこととしるのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第一章 ひと組みずつ
13 屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。
14 屋根をよく葺いてある家には雨が洩れ入ることが無いように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することか無い。
くまの住み処は雨漏りだらけであります。
ちょぴっとづつ修理中であります。
(´・(ェ)・`)つ 鬼和尚、こんばんは。
雨漏りしないように修理するのは、強い意志力を要するでありますね。
たいへんであります。
今、くまがやってるのは、雨漏りしてるところに器を置いて、床が腐らないようにしてるだけみたいであります。
それでも、今のところ何とかしのげちゃうので、屋根を修理しょうという強い意思が欠けてしまうのでありましょう。
(´-(ェ)-`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第一章 ひと組みずつ
15 悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。
16 善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が淨らかなのを見て、喜び、楽しむ。
17 悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。「わたくしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦悩のところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。
18 善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第一章 ひと組みずつ
19 たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。──牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類には入らない。
20 たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執著することの無い人は、修行者の部類に入る。
(´・(ェ)・`)つ >>580 観察が進めば自然に出来るようになるじゃろう。
欲も観念によるものであるからのう。 >>583
観念で観念を克服しようとするから、議論になるのでありましょう。
観察もありのままも観念でありますが、
ありのままに観察すれば、きっと、観念を克服して、何か実感できるのでありますね!
(´-(ェ)-`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第二章 はげみ
21 つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである。
22 このことをはっきりと知って、つとめはげみを能く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地をたのしむ。
(´・(ェ)・`)つ
ふむふむ。
つとめはげむくまになり、かつそれをよろこぶくまにならねばならぬのでありますね。
なまけものはダメなのでありますね。 苦の直中にある時は、止観瞑想が救いとして効果を実感できるので、励めるのであります。
それで、ちょぴっと楽になると、怠け心にまけるくまであります。
(´-(ェ)-`)つ >>584 そうじゃ、実践あるのみなのじや。
更にはげむとよいのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二章 はげみ
23 (道に)思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健く奮励する、思慮ある人々は、安らぎに達する。これは無上の幸せである。
24 こころはふるい立ち、思いつつましく、行いは清く、気をつけて行動し、みずから制し、法にしたがって生き、つとめはげむ人は、名声が高まる。
(´・(ェ)・`)つ
やっぱり、一所懸命努力しなけりゃいかんのでありますね。
たいへんであります。
けど、たいへんだと思わなけりゃ、たいへんじゃなくなるのでありましょう。 鬼和尚、別なスレにも謝罪を書き込んだのですが、
何年か前、何も知らずに「鬼和尚は悟ってない」などと書きこんでしまい申し訳ありませんでした。 真理のことば(ダンマパダ)
第二章 はげみ
25 思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島をつくれ。
26 智慧乏しき愚かな人々は放逸(ホウイツ)にふける。しかし心ある人は、最上の財宝(タカラ)をまもるように、つとめはげむのをまもる。
鬼和尚こんばんは。(´・(ェ)・`)つ
智慧乏しく愚かなくまなれど、
思慮あるくまをめざすであります。 >>591 ゆるすのじゃ。
これからは善事を積み、精進あるのみなのじゃ。
そうすれば福楽はつきしたがい、苦はなくなるじゃろう。
>>592 そうじゃ、勤め励んで思慮あるくまをめざすのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 鬼和尚ありがとうであります。
精進することを目的とするであります。
(´・(ェ)・`)つ >>593
鬼和尚ありがとうございます。
精進します。 真理のことば(ダンマパダ)
第二章 はげみ
27 放逸に耽るな。愛欲と歓楽に親しむな。おこたることなく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る。
28 賢者が精励修行によって怠惰をしりぞけるときには、智者の高閣に登り、自から憂い無くして(他の)憂いある愚人どもを見下す。──山上にいる人が地上の人々を見下すように。
(´・(ェ)・`)b
ふむ。 この点は間違いでありましょう。
見下したりしたらいかんであります。 悟った後にもラマナ・マハルシは実母を特別扱いしています。
彼女の病気回復を懇願する賛歌を作ったり、彼女の死後は定住地を彼女の墓のそばに移したり。
鬼和尚にとってもお母様は特別な存在ですか? >>594 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>595 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>597 そうかもしれん。
恩を受けた分を返すのじゃ。
急な出費などで、今月の生活費?家賃、携帯代が足りなくてお困りの方。
ヤミ金でお困りの方。
保証人、担保不要です。
是非ご相談下さい、詳しくはHPをご覧下さい。
会社にお勤めの方、自営業、フリーター、風俗・水商売など業種にかかわらずお気軽にご相談ください。
エヌ ピー オー 法人 エス ティー エー >>598
レスありがとうございます。
恩を受けたと思っているのは自我ですか? のことば(ダンマパダ)
第二章 はげみ
29 怠りなまけている人々のなかで、ひとりつとめはげみ、眠っている人々のなかで、ひとりよく目醒めている思慮ある人は、疾くはしる馬が、足のろの馬を抜いてかけるようなものである。
30 マガヴァー(インドラ神)は、つとめはげんだので、神々のなかでの最高の者となった。つとめはげむことを人々はほめたたえる。放逸なることはつねに非難される。
(´・(ェ)・`)つ
ふむ。怠け者では何もかわらぬでありますね。
どん怠け者でも、否応なく修行に向かわせるために「苦」が平等にあるのでありますね。 >>600 仮の観念なのじゃ。
それがなくては法を説くことも無いのじゃ。
それも報恩の一部であるからのう。
>>601 そうじゃ、勤め励むのじゃ。
そうすれば一切の苦も消えていくのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二章 はげみ
31 いそしむことを楽しみ放逸におそれをいだく修行僧は、微細なものでも粗大なものでもすべて心のわずらいを、焼きつくしながら歩む。──燃える火のように。
32 いそしむことを楽しみ、放逸におそれをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。
(´・(ェ)・`)つ
僭越ながらくまも、ニルヴァーナの近くにいるような気がするときもあるのであります。 真理のことば(ダンマパダ)
第三章 心
33 心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直くする。──弓師が矢の弦を直くするように。
34 水の中の住居(スミカ)から引き出されて陵の上になげすてられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。
(´・(ェ)・`)つ
少しづつでも精進して、
水の中に戻れば、よいのでありますね。 >>602
レスありがとうございます。
仮の観念がそうすることを要求するのでしょうか? >>603>>604 そうじゃ、近いじゃろう。
精進あるのみなのじゃ。
>>605 何も要求しないのじゃ。
為すがままなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第三章 心
35 心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。
36 心は、極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は心を守れかし。心を守ったならば、安楽をもたらす。
37 心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制する人々は、死の束縛からのがれるであろう。
38 心が安住することなく、正しい真理を知らず、信念が汚されないならば、さとりの智慧は全からず。
39 心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることが無い。
(´・(ェ)・`)つ
38 を検索してみたのである。
『「信念が汚されないならば」の原文はPariplavapas?dassa(パリプラワパサーダッサ)ですので、「信念が動揺している人」または「信念が不安定な人」と訳す事ができます』
カップ麺情報とともに教えてくれてる賢者のサイトがあったであります。 >>606
レスありがとうございます。
仮の観念は鬼和尚の意思とは関係なく浮かんでくるのですか?
また、悟ってないものの観念と悟った人の仮の観念との違いは何なんでしょう? 真理のことば(ダンマパダ)
第二章 はげみ
39 心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることが無い。
40 この身体は水瓶のように脆いものだと知って、この心を城廓のように(堅固に)安立して、知慧の武器をもって、悪魔と戦え。克ち得たものを守れ。──しかもそれに執著することなく。
こんばんは鬼和尚(´・(ェ)・`)つ
計らいとは計算でありましょう。
まさに観念のことでありましょう。
観念は、実感に繋がらないでありましょう。
ひたすらに実感を求める実践のみが、悟りへの道なのでありますね。 >>609 わしの意志によるものじゃ。
もはやわしはいないがのう。
誓願によってあるとしているのじゃ。
悟っていなければ観念を観念と気付くこともなく、自分と思っているのじゃ。
そしてそこからぬけ出せないのじゃ。
悟った者は観念を観念と知っているのじゃ。
いつでも抜け出せるのじゃ。
>>610 そじゃ、実践によって観念は観念と気付くのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二章 はげみ
41 ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう、──意識を失い、無用の木片のように、投げ棄てられて。
42 憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。
43 母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらにすぐれたことを、正しく向けられた心がしてくれる。
(´・(ェ)・`)つ
ふむふむ。 >>611
レスありがとうございます。
悟っていない私の場合、日常生活のほとんどが記憶のパターンにより意識せずとも成され
それが何らかの理由で実行できない、もしくは初体験など該当するパターンが無いと
注意がそれに注がれるという状態なのですが
悟った人の仮の観念(鬼和尚の意思)による行動には、このようなパターンによるものというものがありますか? >>610>>612訂正。
第三章 心
で、ありました。(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第四章 花にちなんで 】
44 だれがこの大地を征服するであろうか? だれが閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろうか? わざに巧みな人が花を摘むように。善く説かれた真理のことばを摘み集めるのはだれであろうか?
45 学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろう。わざに巧みな人が花を摘むように、学びにつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。
(´・(ェ)・`)つ >>613 同じなのじゃ。
ほとんどは記憶によって日常のことなどは行うのじゃ。
同じでなければ衆生の心がわからないから無意味なのじゃ。
真理のことば(ダンマパダ)
第四章 花にちなんで 】
46 この身は泡沫(ウタカタ)のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへいくであろう。
47 花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、眠っている村を、洪水が押し流して行くように、──
48 花を摘むのに夢中になっている人が、未だ望みを果たさないうちに、死神がかれを征服する。
(´・(ェ)・`)つ >>616
レスありがとうございます。
ニサルガダッタ・マハラジは例えば下記のように『アイ・アム・ザット 私は在る』の中で
"覚者のようにふるまう"指導を幾人かの人に指導しています。
鬼和尚はこの方法をどう思われますか?
--------------------------------------------------------------------------------
「自分自身を乞食だと信じきっている王子を
決定的に確信させる方法はただひとつしかない。
彼に王子としてふるまうようにさせるのだ。
そうして何が起こるかを見てみなさい。
私の言ったことが、あたかも真実であるようにふるまってみなさい。
そして実際に何が起こるか判断するがいい。」
「あたかも完全に得心したかのようにふるまいなさい。
そうすれば、確信はやってくるだろう。
単なる言葉が何の役に立つというのだろう?
マントラや精神的パターンは助けにならないだろう。
しかし非利己的な行為、身体の関心事とその利益のすべてから自由になった行為が
あなたを実在の確信そのものに連れていくだろう。」
(『アイ・アム・ザット 私は在る』より/コピペ元『アセンション館通信』様)
-------------------------------------------------------------------------------- ↑それもよいじゃろう。
自分の限界を広げる効果があるじゃろう。
大抵の者は自分は悟りなど得られないとか思い込んでいるからのう。
実践あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第四章 花にちなんで 】
49 蜜蜂は(花の)色香を害をずに、汁をとって、花から飛び去る。聖者が、村に行くときは、そのようにせよ。
50 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。
51 うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。
52 うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りあるものがあるよえに、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある。
(´・(ェ)・`)つ
ふむふむ、観念、知識は実践をともなはなければ、無意味なのでありますね。 >>620
49をググってみたら↓こんなのがでてきたのである。
ジャイナ教聖典にも、
「蜜蜂は樹の花から蜜を吸い、花を害わずに自身を満足させる。世間において、所有を離れた沙門たる修行者は、そのような花における蜜蜂のように、布施と食物を求めるべきである」
(『ダサヴェーヤーリヤ』12、3)
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、知識とは実践のためにあるものじゃ。
実践が無ければ全ての知識は無意味なのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第四章 花にちなんで
51 うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。
52 うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りあるものがあるよえに、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある。
53 うず高く花を集めて多くの華鬘(ハナカザリ)をつくるように、人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。
54 花の香りは風に逆らっては進んで行かない。栴檀(せんだん)もタガラの花もジャスミンもみなそうである。しかし徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。
55 栴檀、タガラ、青蓮華、ヴァッシキー──、これら香りのあるものどものうちでも、徳行の香りこそ最上である。
訂正>>620
害をず→害わず
(´・(ェ)・`)つ 徳のあるくまになりたいものであります。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、学んで実践すればなれるじゃろう。
精進あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第四章 花にちなんで 】
56 タガラ、栴檀の香りは微かであって、大したことはない。しかし徳行ある人々の香りは最上であって、天の神々にもとどく。
57 徳行を完成し、つとめはげんで生活し、正しい知慧によって解脱した人々には、悪魔も近づくよし無し。
58 大道に棄てられた塵芥の山堆の中から香しく麗しい蓮華が生ずるように。
59 塵芥にも似た盲(メシイ)た凡夫のあいだにあって、正しく目ざめた人(ブッダ)の弟子は知慧もて輝く。
>>625
鬼和尚、おはようございます。
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第五章 愚かな人
60 眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い。
61 旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ。
62 「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
63 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
(´・(ェ)・`)つ
第五章はくまのことでありますね。
けど釈迦さんは優しいのであります。
ちゃんと、63でフォローしてくれてるのであります。
然れど、愚かなくまに変わりはないのであります。 >>626 こんばんはなのじゃ。
>>627 自分が愚かと知れば賢者なのじゃ。
賢いくまなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第五章 愚かな人
64 愚かな者は生涯賢者につかえても、真理を知ることが無い。匙(サジ)が汁の味を知ることができないように。
65 聡明な人は瞬時(マバタキ)のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。──舌が汁の味をただちに知るように。
66 あさはかな愚人どもは、自己に対して仇敵(カタキ)に対するようにふるまう。悪い行いをして、苦い果実(コノミ)を結ぶ。
67 もし或る行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
68 もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。
>>628
(´・(ェ)・`)つ
68のように思えるくまになりたいものであります。 そうじゃ、どんどん善事を積むとよいのじゃ。
そうすれば後悔はせず喜びがあるのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第五章 愚かな人
69 愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの現われないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかしその罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。
70 愚かな者は、たとい毎月(苦行者の風習にならって一月に一度だけ)茅草の端につけて(極く小量の)食物を摂るようなことをして、(その功徳は)真理をわきまえた人々の十六分の一にも及ばない。
71 悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟する。)その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。
72 愚かな者に念慮(オモイ)が生じても、ついにかれには不利なことになってしまう。その念慮はかれの好運(シアワセ)を滅ぼし、かれの頭を打ち砕く。
鬼和尚こんばんは。(´・(ェ)・`)つ
72でいう『念慮(オモイ)』とは、状況を切り抜けるための思いつき、みたいな意味でありましょうか? そのようなものじゃ。
その場の思い付きとか浅い考えなのじゃ。
常に善事を思っていればそのようなものに惑われることも無いのじゃ。 >>632
(´・(ェ)・`)つ鬼和尚、ありがとうであります。
欲にとらわれず、自分を計算に入れずにありのままを認識することができれば、正しい智恵もわくのでありましょうが、難しいでありますね。 真理のことば(ダンマパダ)
第五章 愚かな人
73 愚かな者は、実にそぐわぬ虚しい尊敬を得ようと願うであろう。修行僧らのあいだでは上位を得ようとし、僧房にあっては権勢を得ようとし、他人の家に行って供養を得ようと願うであろう。
74 「これは、わたしのしたことである。在家の人々も出家した修行者たちも、ともにこのことを知れよ。およそなすべきことなすべからざることとについては、わたしの意に従え」──愚かな者はこのように思う。こうして欲求と高慢(タカブリ)とがたかまる。
75 一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地にはげめ。
(´・(ェ)・`)つ
愚かな人の章は以上であります。 >>633 そうじゃ、日々の実践が難しいことも出来るようにしてくれるのじゃ。
日々精進あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第六章 賢い人
76 (おのが)罪過を指摘し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え。──隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。
77 (他人を)訓戒せよ。、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛され、悪人から疎まれる。
78 悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。
79 真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。聖者の説きたまうた真理を、賢者はつねに楽しむ。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、真理を喜ぶのじゃ。
そして実践あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第六章 賢い人
80 水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。
81 一つ岩の塊が風に揺るがないように、賢者は非難と賞讃とに動じない。
82 深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。
83 高尚な人々は、どこにいても、執著することが無い。快楽を欲してしゃべることが無い。楽しいことに遭っても、苦しいことに遭っても、賢者は動ずる色がない。
84 自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。財をも国をも望んではならぬ。邪なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。(道にかなった)行ないあり、明らかな知慧あり、真理にしたがっておれ。
85 人々は多いが、彼岸(カナタノキシ)に達する人々は少い。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。
(´・(ェ)・`)つ
子や財は、望んではならぬのであって、子や財を持つこと自体は別問題なのでありましょう。
得るために、ずるっこしたらいかんのでありましょう。 無我の実感を得て、悟りに至るためには、まず、努力してしっかりした自我を確立せねばならぬのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、自己を整えてこそ日々の修業も続けられるのじゃ。
心が乱れれば修業もおろそかになるものじゃ。 デパスマンだ!
\\\└(՞ةڼ◔)」////
デパスマンすごいなあ! デパスマンだ!
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デパスマンすごいなあ!
デパスマンかっけーなー! 真理のことば(ダンマパダ)
第六章 賢い人
86 真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸に至るであろう。
87 賢者は、悪いことがらを捨てて、善いことがらを行え。家から出て、家の無い生活に入り、楽しみ難いことではあるが、孤独のうちに、喜びを求めよ。
88 賢者は欲楽をすてて、無一物となり、心の汚れを去って、おのれを浄めよ。
89 覚りのよすがに心を正しくおさめ、執著なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、束縛を離れて自由になるのじゃ。
それが真の自由なのじゃ。 鬼和尚こんばんは。
苦しむ自我があると言うのが錯覚だったと気づければよいのでありますね。
自我から解放され、真の自由になるのでありますね。
主体はないと確信できれば、その確信した主体も消え去り、ってか、後ろに下がる感じでありましょうか?
意識が、記憶や感情を、高ぶりも落ち込みもせず、たんたんくまくまと見てる感じでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第七章 真 人
90 すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。
91 こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。白鳥が池を立ち去るように、かれはあの家、この家を捨てる。
92 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。
93 その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。
空にして無相の境地・・・・でありますか。
(´・(ェ)・`)つ パキシルくん
\( ‘ᾥ’ )/
デパスマン
\\\└(՞ةڼ◔)」////
リスペリドン
(´◉◞౪◟◉) >>645 そうなればもはや何もないのじゃ。
ただ妄想から覚めた感じなのじゃ。
一切が一つに感じられるのじゃ。
ただ一つであるのみなのじゃ。 >>648
鬼和尚ありがとうであります。
(´-(ェ)-`)b
ただひとつでありますね。
エアコンと灯りを消してちょぴっとすわるであります。 パキシルくん
\( ‘ᾥ’ )/
デパスマン
\\\└(՞ةڼ◔)」////
リスペリドン
(´◉◞౪◟◉) 真理のことば(ダンマパダ)
第七章 真人
94 御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人──このような境地にある人を神々でさえも羨む。
95 大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎しみ深く、(深い)湖は汚れた泥がないように──そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。
96 正しい知慧によって解脱して、やすらいに帰した人──そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。
97 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を絶ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、──かれこそ実に最上の人である。
98 村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。
(´・(ェ)・`)つ
ふむ。
何かを信ずことではなく、努力して作るものでもないのでありますね。
気付けばよいだけなのでありましょうが、
それが難しいのであります。 >>649 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
ただひたすらに観察していけば気付きもやってくるのじゃ。 鬼和尚、こんばんは。
>>651
97 >(善悪をなすに)よしなく、は何故善をなすによしなくではなくて、善悪なのでありましょうか?
善悪も観念であり、妄想であるからでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ 自分にとって善い事とか悪いことなのじゃ。
自我の性質によって好悪があり、執着があり、苦も生まれるのじゃ。
その分別が無ければ一切の苦もない者なのじゃ。 >>654
鬼和尚ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
なるへそへそのごま! で、あります!
何ですぐそれに気づかなかったなでありましょう。
修行不足でありました。
至道無難唯嫌揀択 でありました!
真理のことば(ダンマパダ)
第七章 真 人
99 人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれは快楽を求めないからである。
第八章 千という数にちなんで
100 無益な語句を千たびかたるよりも、聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞くほうがすぐれている。
101 無益な語句よりなる詩が千もあっても、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。
102 無益に語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。
103 戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。
104、105 自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、──このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。 唯だ一つの自己にうち克ち、じつに最上の勝利くまになるであります。
(´-(ェ)-`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第八章 千という数にちなんで
106 百年のあいだ、月々千回ずつ祭祀(マツリ)を営む人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。
107 百年のあいだ、林の中で祭祀(マツリ)の火につかえる人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。
108 功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神をまつり犠牲(イキニエ)をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、(真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。行ないの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。
109 つねに敬礼を守り、年長者を敬う人には、四種のことがらが増大する。──すなわち、寿命と美しさと楽しみと力とである。
(´・(ェ)・`)つ >>655>>666 そうじゃ、計らいを捨てて勝利者となるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第八章 千という数にちなんで
110 素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
111 愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、知慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
112 怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きるほうがすぐれている。
113 物事が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、事物が興りまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうがすぐれている。
114 不死(シナナイ)の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。
115 最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きるほえがすぐれている。
>>658
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚、ありがとうであります。
最上で優れた一日を迎えられるよう、張り切って参ります!! そうじゃ、一日でも怠らずに精進するとよいのじゃ。
そうすれば一日も早く悟りも訪れるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第九章 悪
116 善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。
117 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。
118 人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。善いことがつみ重なるのは楽しみである。
119 まだ悪い報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときは、悪人はわざわいに遭う。
120 まだ善い報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭うことがある。しかし善の果報が熟したときは、善人は幸福(サイワイ)に遭う。
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚、こんばんは。
一日も怠らずに精進するのは難しいでありますが、
常に意識的にあろうとすること、無意識に妄想に巻き込まれることに気づくことは。
ちょぴっと練習するだけで、くまでも誰でもできると思うであります。
そのことだけでも、生きることがむちゃくちゃ楽になるでありますね。 なにしましょ?
|∧_∧
|*・(ェ)・*)
|⊂ノ.
|`J
くま98%
明日は4時おきせねばなりますまい。
納涼会強行離脱して帰巣せねばなりますまい。 善いことじゃ。
修業を実践すれば安楽になり、善事を実践すれば幸福も訪れるのじゃ。 >>662
(*-(ェ)-*)つ
誤爆でありました。 真理のことば(ダンマパダ)
第九章 悪
121 「その報いはわたしには来ないであろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。
122 「その報いはわたしには来ないであろう」とおもって、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳にみたされる。
123 同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、危険な道を避けるように、また生きたいとねがう人が毒を避けるように、ひとはもろもろの悪を避けよ。
124 もしも手に傷が無いならば、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。傷の無い人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪の及ぶことがない。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、善い事だけをするのじゃ。
自他の利益を求めるのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第九章 悪
125 汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、そのわざわいは、かえってその浅はかな人に至る。風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。
126 或る人々は[人の]胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に墜ち、行ないの良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎに入る。
127 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。
128 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い。
>>666
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚ありがとうであります。
善い事だけをするように努めるのが、天界コースでありますね。 そうじゃ、どこにいても悪の報いは免れないのじゃ。
善事をして天にいたるとよいのじゃ。 >>668
鬼和尚、ありがとうであります。
くまには悟ることは難しくても、せめて天界に行けるよう頑張るであります。
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第十章 暴 力
129 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。已が身をひきくらぺて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
130 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
131 生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。
132 生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、非暴力で天に行くと善いのじゃ。
カンジーも天に行ったのじゃ。
非暴力でこの世で大きな目標を果たし、天にも行けるのじゃ。 >>671
(´・(ェ)・`)つ
がんじーさんみたいな立派なくまにはなれなくても、昼休みの公園でできるだけ、ありんこを踏まないように気をつけて歩いたりしてるであります。 真理のことば(ダンマパダ)
第十章 暴 力
133 荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
134 こわれた鐘のように、声をあららげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。
135 牛飼いが棒をもって牛どもを牧場に駆り立てるように、老いと死とは生きとし生けるものどもの寿命を駆り立てる。
136 しかし愚かな者は、悪い行ないをしておきながら、気がつかない。浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。──火に焼きこがれた人のように。
137、140 手むかうことなく罪咎の無い人々に害を加えるならば、次に挙げる十種の場合のうちのどれかに速やかに出会うであろう、
──(1)激しい痛み、(2)老衰、(3)身体の傷害、(4)重い病い、(5)乱心、(6)国王からの災い、(7)恐ろしい告げ口、(8)親族の滅亡(ホロビ)と、(9)財産の損失と、(10)その人の家を火が焼く。この愚かな者は、身やぶれてのちに、地獄に生まれる。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、日々善事を積むとよいのじゃ。
悪事の報いは確実にくるものじゃ。
善事を積んでいれば後で悩むこともないのじゃ。 おまとめサポート
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第十章 暴 力
141 裸の行も、髻(マゲ)に結うのも、身が泥にまみれるのも、断食も、露地に臥すのも、塵や泥を身に塗るのも、蹲(ウズクマ)って動かないのも、──疑いを離れていない人を浄めることはできない。
142 身の装いはどうあろうとも、行ない静かに、心おさまり、身をととのえて、慎みぶかく、行ない正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<バラモン>とも、<道の人>とも、また<托鉢遍歴僧>ともいうべきである。
143 みずから恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか?
144 鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。信仰により、戒しめにより、はげみにより、精神統一により、真理を確かに知ることにより、知慧と行ないを完成した人々は、思念をこらし、この少なからぬ苦しみを除けよ。
145 水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、慎しみ深い人々は自己をととのえる。
(´・(ェ)・`)つ
138、139はどうしたのでありましょう? くりかえしであるから省いたのじゃろう。
よくあることじゃ。
自己を整えるのじゃ。 >>677
鬼和尚ありがとうであります。
なるへそへそのごまであります。
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第十一章 老いること
146 何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?──世間は常に燃え立っているのに──。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?
147 見よ、粉飾された形体を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病いに悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。
148 この容色は衰えはてた。病いの巣であり、脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。生命は死に帰着する。
149 秋に投げすてられた瓢箪(ヒョウタン)のような、鳩の色のようなこの白い骨を見ては、なんの快さがあろうか?
150 骨で城がつくられ、それに肉と血とが塗ってあり、老いと死と高ぶりとごまかしとがおさめられている。
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第十一章 老いること
150 骨で城がつくられ、それに肉と血とが塗ってあり、老いと死と高ぶりとごまかしとがおさめられている。
151 いとも麗しい国王の車も朽ちてしまう。身体もまた老いに近づく。しかし善い立派な人々の徳は老いることがない。善い立派な人々は互いにことわりを説き聞かせる。
152 学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの知慧は増えない。
153 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、──家屋の作者(ツクリテ)をさがしもとめて──。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
154 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
155 若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、魚のいなくなった池にいる白鷺のように、痩せて滅びてしまう。
156 若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、壊れた弓のようによこたわる。──昔のことばかり思い出してかこちながら。
(´・(ェ)・`)つ
くまもくまの巣の作者の正体を見たいものであります。 155、156 でありますが、
清貧修行のすすめと言うことでよいのでありましょうか?
若いうちに努力して、実利的な技をみがき、財を得るか、そうでなければ、修行せよとの解釈を読んだことがあるであります。
(´・(ェ)・`)つ 若いときに放蕩をして財産を無くさないようにするのじゃというのじゃ。
足るを知るようにという在家のものに対する教えじゃな。 >>682
(´・(ェ)・`)つ
ふむふむ。なるへそへそのごまであります。
鬼和尚ありがとうであります。 真理のことば(ダンマパダ)
第十二章 自 己
157 もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。
158 先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。
159 他人に教えるとおりに、自分でも行なえ──。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのええるであろう。自己は実に制し難い。
160 自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
161 自分がつくり、自分から生じ、自分から起った悪が知慧悪しき人を打ちくだく。──金剛石が宝石を打ちくだくように。
(´・(ェ)・`)つ 161
金剛石は、堅くて強いことの例えのようでありますが、
ここでは、しぶとい自我のことを言ってるのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ そのようなものじゃ。
自己を整えて安楽になるのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十二章 自 己
162 極めて性の悪い人は、仇敵がかれの不幸を望むとおりのことを、自分に対してなす。──蔓草(ツルクサ)が沙羅の木にまといつくように。
163 善からぬこと、己れのためにならぬことは、なし易い。ためになること、善いことは、実に極めてなし難い。
164 愚かにも、悪い見解にもとづいて、真理に従って生きる真人・聖者たちの教えを罵るならば、その人は悪い報いが熟する。──カッタカという草は果実が熟すると自分自身が滅びてしまうように。
165 みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。
166 たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。
(´・(ェ)・`)つ
人は他人を浄めることができないのでありますね。
自分の目的を知り、自分のつとめに専念しなけりゃいけないのでありますね。 そうじゃ、他人を見ずに自分の修業に励むのじゃ。
そうすれば悩まされることも囚われることもなく進めるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十三章 世の中 】
167 下劣なしかたになじむな。怠けてふわふわと暮らすな。邪な見解をいだくな。世俗のわずらいをふやすな。
168 奮起てよ。怠けてはならぬ。善い行いのことわりを実行せよ。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。
169 善い行ないのことわりを実行せよ。悪い行ないのことわりを実行するな。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。
170 世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。
171 さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺(タンデキ)するが、心ある人はそれに執著しない。
(´・(ェ)・`)つ
怠けてふわふわ暮らすくまさ、下劣な仕方になじんでるのだと自覚せねばなりますまい。 そうじゃ、執着せず精進すれば安楽になるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十三章 世の中 】
172 また以前は怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世の中を照らす。──あたかも雲を離れた月のように。
173 以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。──雲を離れた月のように。
174 この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。網から脱れた鳥のように、天に至る人は少ない。
175 白鳥は太陽の道を行き、神通力による者は虚空(ソラ)を行き、心ある人々は、悪魔とその軍勢にうち勝って世界から連れ去られる。
176 唯一なることわりを逸脱し、偽りを語り、彼岸の世界を無視している人は、どんな悪でもなさないものは無い。
177 物惜しみする人々は天の神々の世界におもむかない。愚かな人々は分かちあうことをたたえない。しかし心ある人は分かちあうことを喜んで、そのゆえに来世には幸せとなる。
178 大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第一階梯(カイテイ)(預流果)のほうがすぐれている。
世界初の、聖者の第一階梯(カイテイ)(預流果)のくまになるのである。
(´-(ェ)-`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第十四章 ブッダ
179 ブッダの勝利は敗れることがない。この世においては何人も、かれの勝利には達しえない。ブッダの境地はひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?
180 誘なうために網のようにからみつき執著をなす妄執は、かれにはどこにも存在しない。ブッダの境地は、ひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?
181 正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれを羨む。
182 人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、少ないチャンスをいかすのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。 >>694
鬼和尚、こんばんは。
預流果とは、「煩悩を断じ終って、もはや地獄、餓鬼、畜生の三悪道に堕ちることがなくなる状態」だそうでありますが、
具体的にどんな状態になったら預流果と言えるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第十四章 ブッダ
183 すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、──これが諸の仏の教えである。
184 忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない。
185 罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。──これがもろもろのブッダの教えである。
186 たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」としるのが賢者である。
187 天上の快楽にさえもこころ楽しまない。正しく覚った人(=仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。
188 人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹など多くのものにたよろうとする。
(´・(ェ)・`)つ >>695 いろいろ説があるのじゃ。
自分の身があるという見解や苦行などが正しいという見解や疑いを離れている状態というのじゃ。
正しい教えを受け入れる心境になった状態といえるのじゃ。
そうなればもはや三悪に堕ちる心配も無いのじゃ。 >>697
鬼和尚ありがとうであります。
くまは、
自分の身があるという見解からは、離れることができてないであります。
苦行などが正しいという見解は、離れてるであります。
正しい教えを受け入れる心境にはなってるのでありますが、
実感が伴わないのであります。
(´-(ェ)-`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第十四章 ブッダ
189 しかしこれは安らかなよりどころではない。これは最上のよりどころではない。それらのよりどころによってはあらゆる苦悩から免れることはできない。
190、191 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。
──すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克(チョウコク)と、(4)苦しみの終減(オワリ)におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)。
192 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免れる。
193 尊い人(=ブッダ)は得がたい。かれはどこにでも生れるのではない。思慮深い人(=ブッダ)の生れる家は、幸福に栄える。
194 もろもろのみ仏の現われたまうのは楽しい。正しい教えを説くのは楽しい。つどいが和合しているのは楽しい。和合している人々がいそしむのは楽しい。
195、196 すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、何ものをも恐れず、安らぎに帰した、拝むにふさわしいそのような人々、もろもろのブッダまたその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でもそれを計ることができない。
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚、おはようであります。
くまは、できるだけ「今」に意識をとどめおくことと、自己観察の実践により、
四つの尊い真理─(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克(チョウコク)と、(4)苦しみの終減(オワリ)
(3)の途中くらいまで来れたであります。
鬼和尚のおかげであります。 >>698 更に実践あるのみなのじゃ。
>>699 善いことじゃ。
おぬしの実践の賜物なのじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十五章 楽しみ
197 怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。
怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮らしていこう。
198 悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮そう。
199 貪っている人々のあいだにあって、患い無く、大いに楽しく生きよう。貪っている人々のあいだにあって、むさぼらないで暮らそう。
200 われわれは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食(ハ)む者となろう。
201 勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
202 愛欲にひとしい火は存在しない。ばくちに負けるとしても、増悪にひとしい不運は存在しない。
このかりそめの身にひとしい苦しみは存在しない。やすらぎにまさる楽しみは存在しない。
203 飢えは最大の病いであり、形成せられた存在(=わが身)は最もひどい苦しみである。このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナという最上の楽しみがある。
>>700
鬼和尚ありがとうであります。
203 ニルヴァーナという最上の楽しみ て言うのは、苦を乗り越えた先の境地でありましょうかね。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、苦を滅して永遠の喜びに至るのじゃ。
全ての苦の根本原因は自我であるからのう。
苦から観察して自我も滅する境地に至れば大悟も近いのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十五章 楽しみ
204 健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。
205 孤独(ヒトリイ)の味、心の安らいの味をあじわったならば、恐れも無く、罪過も無くなる、──真理の味をあじわいながら。
206 もろもろの聖者に会うのは善いことである。かれらと共に住むのはつねに楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。
207 愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、つねにつらいことである。──仇敵とともに住むように。
心ある人と共に住むのは楽しい。──親族に出会うように。
208 よく気をつけていて、明らかに知慧あり、学ぶところ多く、忍耐づよく、戒めをまもる、そのような立派な聖者・善き人、英知ある人に親しめよ。──月がもろもろの星の進む道にしたがうように。
>>702
鬼和尚、おはようであります(´・(ェ)・`)つ
くまは、おろかなくまであります。
おろかなくまとともに歩むのはつらくても、お釈迦さんはともに歩んでくれるのでありましょう。
けど、自分のことは自分でしなくちゃだれも救ってくれないのでありましょう。 >>703 そうじゃ、自分で自分を救うのじゃ。
ほかに救うものなどいないのじゃ。
自分を主として進むのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十六章 愛するもの
209 道に違(タゴ)うたことになじみ、道に順(シタガ)ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。
210 愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
211 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。
212 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
213 愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
214 快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
>>705
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚おはようであります。
頑張るであります。 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
執着が無ければ恐れもないのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十六章 愛するもの
215 欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。
216 妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。妄執を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。
217 徳行と見識とをそなえ、法にしたがって生き、真実を語り、自分のなすぺきことを行なう人は、人々から愛される。
218 ことばで説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(オモイ)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、(流れを上る者)とよばれる。
219 久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちはかれが帰って来たのを祝う。
220 そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。──親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。
(´・(ェ)・`)つ220の「善業が迎え受ける。」とは、善行の結果がその人にあらわれると言う意味だそうであります。善因善果でありますね。
>>707
鬼和尚ありがとうであります。 そうじゃ、常に善事をしていれば善い所に生まれかわるのじゃ。
どんどん善事を積むとよいのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十七章 怒 り
221 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。
222 走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人──かれをわれは<御者>とよぶ。他の人はただ手綱を手にしているだけである。(<御者>とよぶにはふさわしくない。)
223 怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。
224 真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。
鬼和尚おはようであります。(´・(ェ)・`)つ
くまも観察により怒りを消し去ることが、だいぶできるようになったであります。
でもそれは過去の怒りであります。
今まさに直面する事態に対しては、反応として怒りを感じてしまうであります。
そんな時は、できるだけ怒りを感じてると観察、自覚するようにしてるであります。
くまも鬼和尚のように、くまは何も思わないのじゃ と言えるようになりたいであります。 ふむ。
>むらむらと起る怒りをおさえる人──かれをわれは<御者>とよぶ。
取敢ず、御者になればよいのでありますね。
くま、観察によりいろいろと楽になったのであります。
けど、不動心が身に付いたと言うよりも、生来怠け者のくまが、何もかもどぉ〜でもよくなっちゃったみたいな感じなのであります。
そのような自分に対して怒り、克己心を奮い起こす為に怒りを使えばよいのでありますね。
(´・(ェ)・`)b そうじゃ、何でも使うとよいのじゃ。
勇猛心で恐れも乗り越えるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十七章 怒 り
225 生きものを殺すことなく、つねに身をつつしんでいる聖者は、不死の境地(クニ)におもむく。そこに至れば、憂えることがない。
226 ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、ニルヴァーナを得ようとめざしているならば、もろもろの汚れは消え失せる。
227 アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。
228 ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、世間の者は昨日褒めた者を今日は非難したりするものじゃ。
権力に阿ったりするためにのう。
世間の評価に真実は無いのじゃ。
ただひたすらに悟りを目指すのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十七章 怒 り
229 もしも心ある人が日に日に考察して、「この人は賢明であり、行ないに欠点がなく、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、
230 その人を誰が非難し得るだろうか? かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。神々もかれを称讃する。梵天でさえもかれを称讃する。
231 身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。身体について慎んでおれ。身体による悪い行ないを捨てて、身体によって善行を行なえ。
232 ことばがむらむらするのを、まもり落ち着けよ。ことばについて慎んでおれ。語(コトバ)による悪い行ないを捨てて、語によって善行を行なえ。
233 心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。心について慎んでおれ。心による悪い行ないを捨てて、心によって善行を行なえ。
(´・(ェ)・`)つ
むらむらくまくま 怒りを捨てて肉体と言葉と心で善事をするのじゃ。
そうすれば死んでも安心なのじゃ。 怒りは肉体も心も蝕むものでありますね。
しぶとく、克服しがたい感情でありますね。
けど、きっと、転化できれば凄いエネルギー源になるでありましょう。
そのエネルギーで善事を行えれば、よいのでありますが・・・・・
実戦あるのみでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚、いつもありがとうであります! 真理のことば(ダンマパダ)
第十七章 怒 り
234 落ち着いて思慮ある人は身をつつしみ、ことばをつつしみ、心をつつしむ。このようにかれらは実によく己れをまもっている。
第十八章 汚 れ
235 汝はいまや枯葉のようなものである。閻魔王の従卒もまた汝に近づいた。汝はいま死出の門路に立っている。しかし汝には旅の資糧(カテ)さえも存在しない。
236 だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、天の尊い処に至るであろう。
237 汝の生涯は終りに近づいた。汝は、閻魔王の近くにおもむいた。汝には、みちすがら休らう宿もなく、旅の資糧も存在しない。
238 だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、汝はもはや生と老いとに近づかないであろう。
239 聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、──鍛冶工が銀の汚れを除くように。
240 鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところ(地獄)にみちびく。
241 読誦しなければ聖典が汚れ、修理しなければ家屋(イエ)が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ、なおざりになるならば、つとめ慎しむ人が汚れる。
(´・(ェ)・`)つ >>717 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
どんどん実践すると善いのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十八章 汚 れ
242 不品行は婦女の汚れである。もの惜しみは、恵み与える人の汚れである。悪事は、この世においてもかの世においても(つねに)汚れである。
243 この汚れよりもさらに甚だしい汚れがある。無明こそ最大の汚れである。修行僧らよ。この汚れを捨てて、汚れ無き者となれ。
244 恥をしらず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者は、生活し易い。
245 恥を知り、常に清きをもとめ、執著をはなたれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮す者は、生活し難い。
246 247 生きものを殺し、虚言(イツワリ)を語り、世間において与えられないものを取り、他人の妻を犯し、穀酒・果実酒に耽溺する人は、この世において自分の根本を掘りくずす人である。
248 人よ。このように知れ、──慎みがないのは悪いことである。──貪りと不正とのゆえに汝がながく苦しみを受けることのないように。
(´・(ェ)・`)つ
無明こそは最大の「汚れ」なのでありますね。
うぅぅ 無明=自我があると思っている、>>244 のような、心のよごれた者は、生き易く、
無我に至った>>245 のような聖者は生き難いのでありますね。。
苦の根本原因は、我があるという誤った観念だからこそ、「無明こそは最大の「汚れ」」といわれ、るのでありますね。
たとえ生きにくくても、苦を克服したければ、無我に至る道を歩むべきなのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、無明が観察されてなくなるまで精進あるのみなのじゃ。
自分という固体があるという観念が無ければ一切の苦も無いのじゃ。
そして苦のない清浄の境地に至るのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十八章 汚 れ
249 ひとは、信ずるところにしたがって、きよき喜びにしたがって、ほどこしをなす。だから、他人のくれた食物や飲料に満足しない人は、昼も夜も心の安らぎを得ない。
250 もしひとがこの(不満の思い)を絶ち、根だやしにしたならば、かれは昼も夜も心のやすらぎを得る。
251 情欲にひとしい火は存在しない。不利な骰(サイ)の目を投げたとしても、怒りにひとしい不運は存在しない。迷妄にひとしい網は存在しない。妄執にひとしい河は存在しない。
252 他人の過失は見やすいけれど、自己の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまう。──狡猾な賭博師が不利な骰(サイ)の目をかくしてしまうように。
253 他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔っている。
254 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。ひとびとは汚れのあらわれをたのしむが、修行完成者は汚れのあらわれをたのしまない。
255 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。造り出された現象が常住であることは有り得ない。真理をさとった人々(ブッダ)は、動揺することがない。
(´・(ェ)・`)つ うむ。
狡猾な賭博師くまではなく、道のくまになるであります。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、自分のしたこととしなかったことだけをみるのじゃ。
それが出来れば道の人にもなるのじゃ。
心を整えて進むのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十九章 道を実践する人
256 あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人。
257 粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。
258 多く説くからとて、それゆえにかれが賢者なのではない。こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、──かれこそ<賢者>と呼ばれる。
259 多く説くからとて、それゆえにかれが道を実践している人なのではない。たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人──かれこそ道を実践している人である。
260 頭髪が白くなったからとて<長老>なのではない。ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。
(´・(ェ)・`)つ
空しく老いぼれたくまであっては、がっかりであります。 そうじゃ、日々の精進によって道を実践していることになるのじゃ。
精進しなければ白髪のじじいになるだけなのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十九章 道を実践する人
261 誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。
262 嫉みぶかく、吝嗇(ケチ)で、偽る人は、ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。
263 これを断ち、根絶やしにし、憎しみをのぞき、聡明である人、──かれこそ「端正な人」とよばれる。
264 頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、<道の人>ではない。欲望と貪りにみちている人が、どうして<道の人>であろうか?
265 大きかろうとも小さかろうとも悪をすべてとどめた人は、もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、<道の人>と呼ばれる。
(´・(ェ)・`)つ
くま丸刈りでありますが、それだけでは当然、道のくまではないであります。うん。 そうじゃ、道を実践するのじゃ。
実践が全てなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十九章 道を実践する人
266 他人に食を乞うからとて、それだけでは<托鉢僧>なのではない。汚らわしい行ないをしているならば、それでは<托鉢僧>ではない。
267 この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ<托鉢僧>と呼ばれる。
268 269 ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が<聖者>なのではない。秤を手にもっているように、いみじきものを取りもろもろの悪を除く賢者こそ<聖者>なのである。
かれはそのゆえに聖者なのである。この世にあって善悪の両者を(秤りにかけてはかるように)よく考える人こそ<聖者>とよばれる。
270 生きものを害うからとて<聖者>なのではない。生きとし生けるものどもを害わないので<聖者>と呼ばれる。
271 272 わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。
修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚こんばんは。
「無」としかあらわすことができない「概念A」と、概念Aをも否定しつつ、「無」としかあらわすことができない「概念B」があり、
ともにその内容は「無」としかあらわすことができない。
概念Bは「概念」そのものを否定しているとすると、概念Bは「概念を否定する概念」というパラドックスに陥ってしまう。
ABはほぼ同じ内容を表しており、
ただ、概念Aを追求する対象として設定するよりも、
ひたすら観察により自我の不存在を見極める方がおすすめだよ!って言うのが、お釈迦さんの説明でありましょうか?
(A=真我、B=無我)
こんな、理解でよいでありましょうか? そのような理解でよいのじゃ。
知識や記憶で理解できない物事はただひたすら実践によって体感する以外にないのじゃ。
実践が全てなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二十章 道
273 もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれている。もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦)がもっともすぐれている。
もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。人々のうちで<眼ある人>(=ブッダ)が最もすぐれている。
274 これこそ道である。(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。
275 汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。
276 汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。
(´・(ェ)・`)つ 八正道
第一「正見(しょうけん)」。
一切の物事は無常であると言う見解。
第二「正思惟(しょうしゆい)」
欲に絡んだ思考、怒り憎しみに絡んだ思考、加害的な思考をやめる。
第三「正語(しょうご)」
粗悪語、無駄話、嘘などを語らない。
第四「正業(しょうごう)」殺生、窃盗、邪な行為をやめ。
第五「正命(しょうみょう)」仕事のために悪を犯すな。
第六「正精進(しょうしょうじん)」悪事をしないで、善事行うように、努力すること。
第七は「正念(しょうねん)」。空想せずにく、いまここで、自分が行う現実に気づいていること。
第八は、「正定(しょうじょう)」。落ち着いていること、集中力があること。
だそうであります。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、修行者は実践によって自ら目覚めたものになるのじゃ。
お釈迦様も道標になるだけなのじゃ。
実践が全てなのじゃ。 >>734
道標はありがたいであります。
道標がなければ迷ってしまうであります。
鬼和尚、ありがとうであります。
くまは迷わずにすんでるであります。
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第二十章 道
277 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
279 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
280 起きるべき時に起きないで、若くて力があるのに怠りなまけていて、意志も思考も薄弱で、怠惰でものうい人は、明らかな知慧によって道を見出すことがない。
281 ことばを慎しみ、心を落ち着けて慎しみ、身に悪を為してはならない。これらの三つの行ないの路を浄くたもつならば、仙人(=仏)の説きたもうた道を克ち得るであろう。
282 実に心が統一されたならば、豊かな知慧が生じる。心が統一されないならば、豊かな知慧がほろびる。生じることとほろびることとのこの二種の道を知って、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえよ。
283 一つの樹をを伐るのではなくて、(煩悩の)林を伐れ。危険は林から生じる。(煩悩の)林とその下生えとを切って、林(=煩悩)から脱れた者となれ。修行僧らよ。
(´・(ェ)・`)つ >>735 よかったのじゃ。
実践在るのみなのじゃ。
心を統一して智慧を磨くのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二十章 道
284 たとい僅かであろうとも、男の女に対する欲望が断たれないあいだは、その男の心は束縛されている。──乳を吸う子牛が母牛を恋い慕うように。
285 自己の愛執を断ち切れ、──池の水の上に出て来た秋の蓮を手で断ち切るように。静かなやすらぎに至る道を養え。めでたく行きし人(=仏)は安らぎを説きたもうた。
286 「わたしは雨期にはここに住もう。冬と夏とにはここに住もう」と愚者はこのようにくよくよと慮って、死が迫って来るのに気がつかない。
287 子どもや家畜のことに気を奪われて心がそれに執著している人を、死はさらって行く。──眠っている村を大洪水が押し流すように。
288 子も救うことができない。父も親戚もまた救うことができない。死に捉えられた者を、親族も救い得る能力がない。
289 心ある人はこの道理を知って、戒律をまもり、すみやかにニルヴァーナに至る道を清くせよ。
(´・(ェ)・`)つ
うぅぅ・・・・いそがねばなりますまい。 愛するなではなく、執着するなでありますね。
自分以外に自分を救うことができるものはいないのでありますね。
そして、その自分とは幻想であり、自他の別ないのでありますから、自分を助けることか、他者を助けることなのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ 真言や念仏を唱えたり、神仏に帰依して深く信仰したりすることも、集中力を高めて非日常の境地を体感するテクニックでありましょう。
そこで体感した感覚に執着すると、妄想の自我が強化されてしまうので、
お釈迦さんは敢えて、その示すところは同じでも「アートマン」の追求ではなく、「無我」の気づきの道を説いたのでありましょう。
しかし、ないものをないと気付くことより、
たとえその内容は「無」としか表現できないものであるとしても、追求する対象があった方が取り組みやすいと思えば、アートマンの追求でもよいのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ それは人の素質によるのじゃ。
アートマンがやりやすい者にはアートマンがよいのじゃ。
そうでなければ別の道を行くがよいのじゃ。
自分に合った道を行くのじゃ。 >>741
(´・(ェ)・`)つ鬼和尚ありがとうであります。
マハラジの言葉をネットで拾い読みしてるであります。
> 真我の実現なしには、いかなる徳も本物ではない。
すべてを通して同じ生命が流れ、あなたがその生命なのだということを、疑いを超えて知ったとき、あなたはすべてを自然に自発的に愛するだろう。
あなたが、あなた自身へのあなたの愛の深さと豊かさを悟ったとき、すべての生きているものたちと宇宙全体があなたの愛情のなかに含まれていること を知るだろう。
しかし、何であれあなたから分離していると見るとき、あなたはそれを愛せない。
なぜなら、あなたはそれを恐れているからだ。
疎外は恐れを引き起こし、恐れは疎外をより深くする。
それは悪循環だ。
真我の実現だけがその輪を断ち切ることができる。
固い決意でそれに向かいなさい。
『私は在る』(p231)
無我を体得すれば、ほんもの(?)の慈悲が沸き起こる、と読み替えることができるでありますね。 真理のことば(ダンマパダ)
第二一章 さまざまなこと
290 つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。
291 他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は、怨みの絆にまつわれて、怨みから免れることができない。
292 なすべきことを、なおざりにし、なすべからざることをなす、遊びたわむれ放逸なる者どもには、汚れが増す。
293 常に身体(の本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には、もろもろの汚れがなくなる。
294 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の武家の王をほろぼし、
(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。
295 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の、学問を誇るバラモン王をほろぼし、
第五には(「疑い」という)虎をほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、それを実現することが広大なる楽しみなのじゃ。
そのためにつまらぬ快楽は捨てるがよいのじゃ。
この世の全てを捨てて全てを得るのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二一章 さまざまなこと
296 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に仏を念じている。
297 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に法を念じている。
298 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常にサンガ(修行者のつどい)を念じている。
299 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に身体(の真相)を念じている。
300 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も不傷害を楽しんでいる。
301 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も瞑想を楽しんでいる。
302 出家の生活は困難であり、それを楽しむことは難しい。在家の生活も困難であり、家に住むのも難しい。心を同じくしない人々と共に住むのも難しい。(修行僧が何かを求めて)旅に出て行くと、苦しみに遇う。だから旅に出るな。また苦しみに遇うな。
303 信仰あり、徳行そなわり、名声と繁栄を受けている人は、いかなる地方におもむこうとも、そこで尊ばれる。
304 善き人々は遠くにいても輝く、──雪を頂く高山のように。
善からぬ人々は近くにいても見えない、──夜陰に放たれた矢のように。
305 ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、常に実践に精進するのじゃ。
修業を楽しむのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二二章 地 獄
306 いつわりを語る人、あるいは自分でしておきながら「わたしはしませんでした」と言う人、──この両者は死後にはひとしくなる、──来世では行ないの下劣な業をもった人々なのであるから。
307 袈裟を頭から纒っていても、性質(タチ)が悪く、つつしみのない者が多い。かれら悪人は、悪いふるまいによって、悪いところに(地獄)に生まれる。
308 戒律をまもらず、みずから慎むことがないのに国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食らうほうがましだ。
309 放逸で他人の妻になれ近づく者は、四つの事がらに遭遇する。──すなわち、禍をまねき、臥して楽しからず、第三に非難を受け、第四に地獄に墜ちる。
310 禍をまねき、悪しきところ(地獄)に墜ち、相ともにおびえた男女の愉楽はすくなく、王は重罰を課する。それ故にひとは他人のなれ近づくな。
311 茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行僧の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。
312 その行ないがだらしなく、身のいましめが乱れ、清らかな行ないなるものもあやしげであるならば、大きな果報はやって来ない。
313 もしも為すべきことであるならば、それを為すべきである。それを断乎として実行せよ。行ないの乱れた修行者はいっそう多く塵をまき散らす。
(´・(ェ)・`)つ
断乎として塵をまき散らさないくまにならねばなりますまい。 そうじゃ、なすべきことを断乎として実行するのじゃ。
そうすれば大きな果報を得るじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。 >>748
鬼和尚、ありがとうであります。
そうでありますね。
たとえば、
他人のしたことしなかったことを見ない。
自分のしたことしなかったことだけを見る。
常に意識的であるように心掛け、妄想に囚われないように気を付ける。
そういうことだけを意識して断乎として実戦するだけでも、人生の在り様は様変わりするでありますね。
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第二二章 地 獄
314 悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後で悔いる。単に何かの行為をするよりは、善いことをするほうがよい。なしおわって、後で悔いがない。
315 辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も守られているように、そのように自己を守れ。瞬時も空しく過ごすな。時を空しく過した人々は地獄に墜ちて、苦しみ悩む。
316 恥じなくてよいことを恥じ、恥ずべきことを恥じない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。
317 恐れなくてもよいことに恐れをいだき、恐れねばならぬことに恐れをいだかない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。
318 避けねばならぬことを避けなくてもよいと思い、避けてはならぬ(=必ず為さねばならぬ)ことを避けてもよいと考える人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。
319 遠ざけるべきこと(=罪)を遠ざけるべきであると知り、遠ざけてはならぬ(=必らず為さねばならぬ)ことを遠ざけてはならぬと考える人々は、正しい見解をいだいて、善いところ(=天上)におもむく。
(´・(ェ)・`)つ
うぅぅ・・・地獄行きは嫌でありますが・・・怠け者は地獄行きなのでありますね。 (´・(ェ)・`)つ
地獄とは、この世のことと言う説もあるであります。
怠け者が苦しむのは当り前でありますかね。 >>749 そうじゃ、ただ一つの教えでも実践すれば大いに利益があるものじゃ。
自分を観る習慣がつけば社会でも役に立つのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
>>750>>751 そうじゃ、この世でも怠けていれば苦しむことになるのじゃ。
老病死の苦が必ずやってくるからのう。
元気なときに修業していれば苦もなくせるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二三章 象
320 戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質(タチ)が悪いからである。
321 馴らされた象は、戦場にも連れて行かれ、王の乗りものともなる。世のそしりを忍び、自らをおさめた者は、人々の中にあっても最上の者である。
322 馴らされた騾馬は良い。インダス河のほとりの血統よき馬も良い。クンジャラという名の大きな象も良い。しかし自己(オノレ)をととのえた人はそれらよりもすぐれている。
323 何となれば、これらの乗物によっては未到の地(=ニルヴァーナ)に行くことはできない。そこへは、慎しみある人が、おのれ自らをよくととのえておもむく。
324 「財を守る者」という名の象は、発情期にこめかみから液汁をしたたらせて強暴になっているときは、いかんとも制し難い。捕らえられると、一口の食物も食べない。象は象の林を慕っている。
325 大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り、くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。
326 この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう、──象使いが鉤(カギ)をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。
327 つとめはげむのを楽しめ。おのれの心を護れ。自己を難処から救い出せ。──泥沼に落ち込んだ象のように。
(´・(ェ)・`)つ
大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な、大きな豚のようなくまであってはなりますまい。
射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われはひとのそしりを忍ぶ、ぞうのようなくまなならねばなりますまい。
324の象さんには、ダナパーラという名のある親孝行な象さんだそうであります。 正直なところ、くまは、大食いではないまでも、じゅうぶんに豚さんのようなくまなのである。
頑張ってぞうさんのようなくまにならねばならぬのである。
(´・(ェ)・`)つ しかし、
>ころげまわって寝て
と言う表現は、真に迫ってるでありますね。
もしや、お釈迦さんも怠け者の「苦」を実体験してるのではありますまいか?
(´・(ェ)・`)つ ↑そうかもしれん。
昔は王子であったからのう。
四門を出て怠けている場合ではないと気付いたのじゃ。 >>758
で、ありますよね。
きっとそうでありましょう。
どんなちっぽけな苦も本人にとっては深刻なものでありましょう。
その事をよく知っていたお釈迦さんであるからこそ、苦の克服法を編み出して、分かりやすく説いたのでありましょう。
それを現代によみがえらせて普及に貢献してる鬼和尚に感謝であります。
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第二三章 象
328 もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。
329 しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。
330 愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独(ヒトリ)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。──林の中にいる象のように。
331 事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば、命の終るときに楽しい。(悪いことをしなかったので)、あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。
332 世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。世に修行者を敬うことは楽しい。世にバラモンを敬うことは楽しい。
333 老いた日に至るまで戒しめをたもつことは楽しい。信仰が確立していることは楽しい。明らかな知慧を体得することは楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい。
本日も張り切って参りましょう!
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、張り切って精進あるのみなのじゃ。
楽しく修行するのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二四章 愛 執
334 恣(ホシイママ)のふるまいをする人には愛執が蔓草(ツルクサ)のようにはびこる。林の中で猿が果実(コノミ)を探し求めるように、(この世からかの世へと)あちこちにさまよう。
335 この世において執著のもとであるこのうずく愛欲のなすがままである人は、もろもろの憂いが増大する。──雨が降ったあとにはビーラナ草がはびこるように。
336 この世において如何ともし難いこのうずく愛欲を断ったならば、憂いはその人から消え失せる。──水の滴が蓮華から落ちるように。
337 さあ、みなさんに告げます。──ここに集まったみなさんに幸あれ。欲望の根を掘れ。──(香しい)ウシーラ根を求める人がビーラナ草を掘るように。葦が激流に砕かれるように、魔にしばし砕かれてはならない。
338 たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹が再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる潜勢力をほろぼさないならば、この苦しみはくりかえし現われ出る。
339 快いものに向って流れる三十六の激流があれば、その波浪は、悪しき見解をいだく人を漂わし去る。──その波浪とは貪欲にねざした想いである。
340 (愛欲の)流れは至るところに流れる。(欲情の)蔓草は芽を生じつつある。その蔓草が生じたのを見たならば、知慧によってその根を断ち切れ。
341 人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤される。実に人々は歓楽にふけり、楽しみをもとめて、生れと老衰を受ける。
342 愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。束縛の絆にしばられ執著になずみ、永いあいだくりかえし苦悩を受ける。
343 愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。それ故に修行僧は、自己の離欲望んで、愛欲を除き去れ。
344 愛欲の林から出ていながら、また愛欲の林に身をゆだね、愛欲の林から免れていながら、また愛欲の林に向って走る。その人を見よ! 束縛から脱しているのに、また束縛に向って走る。
345 346 鉄や木材や麻紐でつくられた枷(カセ)を、思慮ある人々は堅固な縛とは呼ばない。宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること、──それが堅固な縛である、と思慮ある人々は呼ぶ。それは低く垂れ、緩く見えるけれども、脱れ難い。
(´・(ェ)・`)つ
339の 三十六の激流=三十六の渇愛
1.愛欲 : 色、声、香、味、触の五欲に対する渇愛
2.有愛 : 生存に対する渇愛
3.無有愛 : 虚無への渇愛
・ 眼、鼻、耳、舌、身、意において上記三種類の渇愛がある。
・ 渇愛の対象として、色、声、香、味、触、法で渇愛が分類される。
→18十18=36
この渇愛がすべて快楽を求めて流れ、執着になる。
だ、そうであります。
ふむふむ。
生存や虚無への渇愛と言うのもあるのでありますね。
知らなかったであります。 鬼和尚、こんにちは。(´・(ェ)・`)つ
ダンマパダはもうじき読み終わるであります。
引き続きましての、自主ゼミでは、スッタニパータを取り上げたいと存じます。
スッタニパータの一部には、最もお釈迦さんの発した言葉に近いものが含まれるとされている反面で、解釈の別れるところや、原典の欠落してる部分もあるようでありますので、
この機に、じっくり読んでみたいとおもうであります。
如何でありましょうか? ↑善いことじゃ。
どんどんやるとよいのじゃ。
間違いなく勉強になるじゃろう。
実践在るのみなのじゃ。 >>764
鬼和尚こんばんは。
どんどんやるであります。
(´・(ェ)・`)つありがとうであります。 毎月のお支払い、生活費、携帯代でお困りの時はご相談下さい。お金の悩み、相談はエス ティー エーで
詳しくはHPをご覧下さい。 真理のことば(ダンマパダ)
第二四章 愛 執
347 愛欲になずんでいる人々は、激流に押し流される、──蜘蛛がみずから作った網にしたがって行くようなものである。思慮ある人々はこれをも断ち切って、顧みることなく、すべての苦悩をすてて、歩んで行く。
348 前を捨てよ。後を捨てよ。中間を棄てよ。生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。
349 あれこれ考えて心が乱れ、愛欲がはげしくうずくのに、愛欲を淨らかだと見なす人には、愛執がますます増大する。この人は実に束縛の絆を堅固たらしめる。
350 あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄(キヨカラヌモノ)であると観じて修する人は、実に悪魔の束縛の絆をとりのぞき、断ち切るであろう。
351 さとりの究極に達し、恐れること無く、無欲で、わずらいの無い人は、生存の矢を断ち切った。これが最後の身体である。
352 愛欲を離れ、執著なく、諸の語義に通じ諸の文章とその脈絡を知るならば、その人は最後の身体をたもつものであり、「大いなる知慧ある人」と呼ばれる。
(´・(ェ)・`)つ
352は、教典の語義を熟知して、正しく理解せよと言う意味だそうであります。
正しく理解するのは、簡単ではないようでありますね。 そうじゃ、本当に正しく知るのは悟った後なのじゃ。
それでもどんどん学ぶべきなのじゃ。
学び続ければ気付くことも多くなるのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二四章 愛 執
353 われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解脱している。みずからさとったのであって、誰を[師と]呼ぼうか。
354 教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えの妙味はすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。妄執をほろぼすことはすべての苦しみうち勝つ。
355 彼岸にわたることを求める人々は享楽に害われることがない。愚人は享楽のために害われるが、享楽を妄執するがゆえに、愚者は他人を害うように自分も害う。
356 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は愛欲によって害われる。それ故に愛欲を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
357 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は怒りによって害われる。これ故に怒りを離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
358 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は迷妄によって害われる。それ故に迷妄を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
359 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は欲求によって害われる。それ故に欲求を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、執着から諸々の苦は起こるのじゃ。
それは人が苦しまないようにしようとか思っても出来ないものじゃ。
観察によってのみ執着は消え、苦は厭離されるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二五章 修行僧
360 眼について慎しむのは善い。耳について慎しむは善い。鼻について慎しむのは善い。舌について慎しむのは善い。
361 身について慎むのは善い。ことばについて慎しむのは善い。心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。修行僧はあらゆることがらについて慎しみ、すべての苦しみから脱れる。
362 手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、最高につつしみ、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、──その人を<修行僧>と呼ぶ。
363 口をつつしみ、思慮して語り、心が浮わつくことなく、事がらと真理とを明らかにする修行僧──かれの説くところはやさしく甘美である。
364 真理を喜び、真理を楽しみ、真理をよく知り分けて、真理にしたがっている修行僧は、正しいことわりから堕落することがない。
365 (托鉢によって)自分の得たものを軽んじてはならない。他人の得たものを羨むな。他人を羨む修行僧は心の安定を得ることができない。
366 たとい得たものは少なくても、修行僧が自分の得たものを軽んずることが無いならば、怠ることなく清く生きるその人を、神々も称讃する。
367 名称とかたちについて「わがもの」という想いが全く存在しないで、何ものも無いからとて憂えることの無い人、──かれこそ<修行僧>とよばれる。
368 仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、動く形成作用の静まった、安楽な、静けさの境地に到達するであろう。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、身口意を慎み、真理に従うのじゃ。
名前と形象を離れて安らぐのじゃ。
そして悟りの境地に赴くのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二五章 修行僧
369 修行僧よ。この舟から水を汲み出せ。汝が水を汲み出したならば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。貪りと怒りとを断ったならば、汝はニルヴァーナにおもむくであろう。
370 五つ(の束縛)を断て。五つ(の束縛)を捨てよ。さらに五つ(のはたらき)を修めよ。五つの執著を超えた修行僧は、<激流を渡った者>とよばれる。
371 修行僧よ。瞑想せよ。なおざりになるな。汝の心を欲情の対象に向けるな。なおざりのゆえに鉄丸を呑むな。(灼熱した鉄丸で)焼かれるときに、「これは苦しい!」といって泣き叫ぶな。
372 明らかな知慧の無い人には精神の安定統一が無い。精神の安定統一していない人には明らかな知慧が無い。精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。
373 修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。
374 個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解するに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとって喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。
375 これは、この世において明らかな知慧のある修行僧の初めのつとめである。──感官に気をくばり、満足し、戒律をつつしみ行ない、怠らないで、淨らかに生きる善い友とつき合え。
(´・(ェ)・`)つ
370の 四種類の「五つ」について。
1) 「五つを断て」の五つ=「五下分結」
1.有身見 2.疑 3.戒禁取 4.欲愛 5.激怒
2) 「五つを捨てよ」の五つ=「五上分結」
6.色貪 7.無色貪 8.慢 9.掉挙 10.無明
3) 「五つを修めよ」の五つ=「五根」
1.信根 2.精進根 3.念根 4.定根 5.慧根
4) 「五つを超えた」五つはは
1.貪 2.瞋 3.痴 4.慢 5.見 です。
だ、そうであります。
専門用語は慣れるしかないでありますね。 「初めの5つの束縛」
1.「有身見(うしんけん)」=自分自身に執着する考え方。
2.「疑惑(ぎわく)」=原因と結果の法則に、疑いをもつこと。
3.「戒禁取(かいごんじゅ)」=ブッダの「教え・法」とは異なる異教者の教えを守ること。
4.「欲貪(よくとん)」=貪る欲。
5.「瞋恚(しんに)」=怒り。
4つの道
1. 預流道(よるどう)― 聖者の流れに入った人。
2. 一来道(いちらいどう)― 聖者流れに入っているけれど、一度だけ世俗の世界に戻ることがある。
3. 不還道(ふげんどう)― もう二度と世俗の世界には戻ることがない。
4.阿羅漢道(あらかんどう)―貪り、怒り、気づきのない愚かさが完全に滅した聖者。
「さらに上の5つの束縛」
1.「色貪(しきとん)」=色・形あるもの、身体に執着すること。
2.「無色貪(むしきとん)」=心に執着すること。
3.「慢(まん)」=慢心。
4.「浮つき」=後悔(こうかい)、興奮(こうふん)、動揺(どうよう)、感情(かんじょう)の高ぶり。
5.「無明(むみょう)」= 誤った見方、考え方によって、無常なものを、永遠と取り違えてしまうこと。
この「さらに上の5つの束縛」を捨断するために、煩悩の静まり、寂静のため「正しい覚り」にいたるために
五根―「信根」「勤根」「念根」「定根」「慧根」を練修修行する。
1.「信根(しんこん)」=「信」ブッダの道、中道、智慧に向かう正見です。教えを深く理解すること。原因と結果の法則を信じます。
2.「勤根(ごんこん)」=精勤(しょうごん)・勤勉・精進努力です。
3.「念根(ねんこん)」= 今の心に集中すること。正しく注意します。正しく専念します。
4.「定根(じょうこん)」=禅定:止― 静かに坐ります。息・呼吸に集中します。観― よく観て深く観透します。
5.「慧根」=、智慧。智慧そのものです。
貪(むさぼ)り・瞋(いか)り
痴(ち・気づきのない愚かさ)・
慢心・邪見
これら「5つの執着」を超えます。
「5つの執着」を超えたならば、
「4つの煩悩=暴流(ぼる)」、
欲・有(生存)・邪見・無明
これらの「暴流を渡った人」と言われます。
「4つの煩悩=暴流(ぼる)」:
1.「欲」とは、
好ましい色・形あるもの、
声(音)、香り、味、触れるもの、
これら5種に対する欲望「5種妙欲」です。
2.「有(生存)」とは、
身体と心に対する貪欲です。
また、魂は永遠不滅と考える欲です。
3.「邪見」とは、
原因と結果の法則によらない、
異教者の62ある見解です。
4.「無明」とは、
誤った見方、考え方によって、
無常なものを、
永遠と取り違えてしまうことです。
足に結ばれた紐(ひも)を、
刀で断ち切るように、
束縛、執着を断・捨・離します。
解説をネットから拾ってみたであります。
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第二五章 修行僧
376 その行ないが親切であれ。(何ものでも)わかち合え。善いことを実行せよ。そうすれば、喜びにみち、苦悩を減するであろう。
377 修行僧らよ。ジャスミンの花が萎れた花びらを捨て落とすように、貪りと怒りとを捨て去れよ。
378 修行僧は、身も静か、語(コトバ)も静か、心も静かで、よく精神統一をなし、世俗の享楽物を吐きすてたならば、<やすらぎに帰した人>と呼ばれる。
379 みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。
380 実に自己は自分の主(アルジ)である。自己は自分の帰趨(ヨルベ)である。故に自分をととのえよ。──商人が良い馬を調教するように。
381 喜びにみちて仏の教えを喜ぶ修行僧は、動く形成作用の静まった、幸いな、やすらぎの境地に達するであろう。
382 たとい年の若い修行僧でも、仏の道にいそしむならば、雲を離れた月のように、この世を照らす。
(´・(ェ)・`)つ ご苦労さんなのじゃ。
そのように段階ごとに次々に完璧に心が整えられるわけではないがのう。
無明とは自分があるという観念なのじゃ。
全てと離れた個我としての自分という観念がある限り苦は生まれ続けるのじゃ。
それを厭離するために修業もあるのじゃ。 >>776
鬼和尚、おはようであります(´・(ェ)・`)つ
緻密に分析されるのはよいのでありますが、何が大切で、何処が要点なのかわけわからなくなってしまうでありますね。
要点は、
>全てと離れた個我としての自分という観念
を厭離するために修業するのだ!と言うことでありますね。
全て=ブラフマンでありますね。
バラモンの語源もブラフマンでありますね。 真理のことば(ダンマパダ)
第二六章 バラモン
383 バラモンよ。流れを断って。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知る者であれ。
384 バラモンが二つのことがら(=止と観)について彼岸に達した(=完全になった)ならば、かれはよく知る人であるので、かれの束縛はすべて消え失せるであろう。
385 彼岸(カナタノキシ)もなく、此岸(コナタノキシ)もなく、彼岸・此岸なるものもなく、恐れもなく、束縛もない人、──かれをわれはバラモンと呼ぶ。
386 静かに思い、塵垢(チリケガレ)なく、おちついて、為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、最高の目的を達した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
387 太陽は昼にかがやき、月は夜に照し。武士は鎧を着てかがやき、バラモンは瞑想に専念してかがやく。しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。
388 悪を取り除いたので<バラモン>(婆羅門)と呼ばれ、行ないが静かにやまっているので<道の人>(沙門)と呼ばれる。おのれの汚れを除いたので、そのゆえに<出家者>と呼ばれる。
389 バラモンを打つな。バラモンはかれ(=打つ人)にたいして怒りを放つな。バラモンを打つものには禍がある。しかし(打たれて)怒る者にはさらに禍がある。
390 愛好するものから心を遠ざけるならば、このことはバラモンにとって少なからずすぐれたことである。害する意(オモイ)がやむにつれて、苦悩が静まる。
391 身にも、ことばにも、心にも、悪い事を為さず、三つのところについてつつしんでいる人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
392 正しく覚った人(=ブッダ)の説かれた教えを、はっきりといかなる人から学び得たのであろうとも、その人を恭しく敬礼せよ、──バラモンが祭の火を恭しく尊ぶように。
393 螺髪を結んでいるからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真理と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。
394 愚者よ。螺髪を結うて何になるのだ。かもしかの皮をまとって何になるのだ。汝は内に密林(=汚れ)を蔵して、外側だけを飾る。
395 糞掃衣をまとい、痩せて、血管があらわれ、ひとり林の中にあって瞑想する人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第二六章 バラモン
396 われは、(バラモン女の)胎から生れ(バラモンの)母から生れた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは「<きみよ>といって呼びかける者」といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執著のな人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
397 すべての束縛を断ち切り、恐れることなく、執著を超越して、とらわれることの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
398 紐と革帯と網とを、手網ともども断ち切り、門をとざす閂(カンヌキ)を滅ぼして、めざめた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
399 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
400 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、──かれをわれは<バラモン>とよぶ。
401 蓮葉の上の露のように、錐の尖の芥子のように、緒の欲情に汚されない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
402 すでにこの世において自分の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
403 明らかな知慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最後の目的を達した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
404 在家者・出家者のいずれとも交らず、住家がなくて遍歴し、欲の少ない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
405 強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さずまた殺させることのない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
406 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあさて執著しない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
407 芥子粒が錐(キリ)の尖端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
408 粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによって何人の感情をも害することのない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
(´・(ェ)・`)つ
398
紐(怒り)と革紐(渇愛)と綱(六十二邪見)を
手綱(煩悩)と共に切断し
門の鍵(無明)を開け、悟った人彼を私はバラモンと呼ぶ
だ、そうであります。
六十二邪見とは、長部経典第一「梵網経」にある「我」と「世界」に関する六十二の哲学的見解だそうであります。
401
欲望の対象になるものが目の前にあっても、それを欲しいというような欲望が心に少しも現われない、とどまらないことのたとえ
だそうであります。 真理のことば(ダンマパダ)
第二六章 バラモン
409 この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうとも粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも、すべて与えられていない物を取らない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
410 現世を望まず、来世をも望まず、欲求がなくて、とらわれの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
411 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
412 この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
413 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
414 この障害・険道・輪廻(サマヨイ)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく、疑惑なく、執著することなくて、心安らかな人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
415 この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
416 この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生存の尽きた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
417 人間の絆を捨て、天界の絆を越え、すべての絆をはなれた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
418 <快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った英雄、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
419 生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、よく行きし人、覚った人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
420 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知り得ない人、煩悩の汚れを滅ぼしつくした真人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
421 前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、無一物で、何ものをも執著して取りおさえることの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
422 牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望の無い人・沐浴者・覚った人(ブッダ)、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
423 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
(´・(ェ)・`)つ
次回からスッタニパータの講読ゼミのはじまりであります。
自主ゼミバックナンバー
1)「潜在意識、マーフィーの法則」>>23〜
2)「マハムドラ-の詩」>>305〜
3) 「信心銘 」>>389〜
4)「真理のことば(ダンマパダ)」>>562〜 >>777 そうじゃ、厭離するのはそれだけでよいのじゃ。
そしてブラフマンにも至るのじゃ。
バラモンもブラフマンの徒であり、ブラフマンに至るものなのじゃ。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章1、蛇
1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
3 奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
4 激流が弱々しい葦のの橋を壊すように、すっかり驕慢を減し尽くした修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
5 無花果の樹の林の中に花を探し求めて得られないように、諸々の生存状態のうちに堅固なものを見いださない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
6 内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
7 想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
8 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、すべてこの妄想をのり越えた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
9 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
10 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って貪りを離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
11 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って愛欲を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
12 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って憎悪を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
13 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って迷妄を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
14 悪い習性がいささかも存することなく、悪の根を抜き取った修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
15 この世に還り来る縁となる<煩悩から生ずるもの>をいささかももたない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
16 ひとを生存に縛りつける原因となる<妄執から生ずるもの>をいささかももたない修行者はこの世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
17 五つの蓋いを捨て、悩みなく、疑惑を越え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
(´・(ェ)・`)つ >>782
(´・(ェ)・`)つおまけ
ネットでひろった解説メモ
1。 三つの種類の感覚
快の感覚→欲の感情
不快な感覚→怒りの感情
快でも不快でもない感覚→無関心か迷いの感情
怒りは単に、感覚で不快に感じただけのことで起きる。正義の怒りなどない。
なのだそうであります。
2。欲の根= 生存欲は生命の本能 生命である限り欲はなくすことはできない
無常、苦、無我であることを知り尽くし、生きていることに執着がなくす。
4。3種類の慢
1.増上慢 : 自分が他人より上だと考える。慢心。優越感。
2.同等慢 : 自分が他人と同等と考える。これで安心する
3.卑下慢 : 自分が他人より劣っていると考える。劣等感。
「私は存在する」という実感から、自分を基準にして他者と比べるは心のはたらき。
7。想念とは、
@欲の思い、A怒りの思い、B加害の思い、C親族への思い、D国への思い、E不死の思い、F他人への愛情に関する思い、G利得・尊敬・名声を得たい思い、H軽蔑されないための思い。
9。一切のものは虚妄
聖徳太子の「世間虚仮」(コケ)=本来は真実でないこと。
14、15。潜在煩悩を終わらす方法が「中部経典第18蜜丸経」
7つの潜在煩悩
@カーマラーガ(愛欲)、Aパティガ(怒り)、Bディッティ(見解)、Cヴィチキッチャー(疑)、Dマーナ(慢)、Eバワラーガ(生存欲)、Fアヴィジャー(無明)。
17。五蓋とは五つの〔解脱の〕妨害
:貪り・怒り・心の沈滞[おちこみ]と眠気・心の高揚[たかぶり]と悔恨・疑惑の思い)禅定を妨げる煩悩 ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章2,ダニヤ
18 牛飼いダニヤがいった、
「わたしはもう飯を炊き、乳を搾ってしまった。マヒー河の岸のほとりに、わたしは(妻子と)ともに住んでいます。わが小舎の屋根は葺かれ、火は点されている。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
19 師は答えた、
「わたしは怒ることなく、心の頑迷さを離れている。マヒー河の岸のほとりに一夜の宿りをなす。わが小舎(すなわち自身)はあばかれ、(欲情の)火は消えた。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
20 牛飼いダニヤがいった、
「蚊も虻もいないし、牛どもは沼地に茂った草を食んで歩み、雨が降ってきても、かれらは堪え忍ぶであろう。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
21 師は答えた、
「わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している。もはや筏の必要はない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
22 牛飼いダニヤがいった、
「わが牧婦(=妻)は従順であり、貪ることがない。久しくともに住んできたが、わが意に適っている。かの女にいかなる悪のあるのをも聞いたことがない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
23 師は答えた、
「わが心は従順であり、解脱している。永いあいだ修養したので、よくととのえられている。わたしにはいかなる悪も存在しない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
24 牛飼いダニヤがいった、
「私は自活しみずから養うものである。わが子らはみなともに住んで健やかである。かれらにいかなる悪のあるのをも聞いたことがない。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
25 師は答えた、
「わたしは何人の傭い人でもない。みずから得たものによって全世界を歩む。他人に傭われる必要はない。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
26 牛飼いダニヤがいった、
「未だ馴らされていない牛もいるし、乳を飲む仔牛もいる。孕んだ牝牛もいるし、交尾を欲する牝牛もいる。牝牛どもの主である牡牛もいる。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
27 師は答えた、
「未だ馴らされていない牛もいないし、乳を飲む仔牛もいない。孕んだ牝牛もいないし、交尾を欲する牝牛もいない。牝牛どもの主である牡牛もここにはいない。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
28 牛飼いダニヤがいった、
「牛を繋ぐ杭は、しっかり打ち込まれていて揺るがない。ムンジャ草でつくった新しい縄はよくなわれている。仔牛もこれを断つことができないであろう。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
29 師は答えた、
「牡牛のように結縛を断ち、臭い臭いのする蔓草を象のように踏みにじり、わたしくしはもはや母胎に入ることはないであろう。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
30 忽ちに大雲が現われて、雨を降らし、低地と丘とをみたした。神が雨を降らすのを聞いて、ダニヤは次のことを語った。
31 「われらは尊き師にお目にかかりました、われらの得たところは実に大きいのです。眼ある方よ。われらはあなたに帰依します。あなたはわれわれの師となってください。大いなる聖者よ。
32 妻もわたしもともに従順であります。幸せな人(ブッタ)のもとで清らかな修行を行いましょう。生死の彼岸に達して、苦しみを滅しましょう。」
33 悪魔パービマンがいった、
「子のある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。人間の執著(しゅうじゃく)する元のものは喜びである。執著する元のない人は、実に喜ぶことがない。」
34 師は答えた、
子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著する元のもののない人は、憂うることがない。」
(´・(ェ)・`)つ >>785
29は、
悩み苦しみの原因である財産(牛)への執着を断ち切る。
輪廻して、再び生まれ変わることを拒否。もっと生きたいという本能を拒否。
苦しみの原因である渇愛の克服。
だそうであります。
(´・(ェ)・`)つ ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章3、犀(さい)の角
35 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。
36 交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍い(わざわい)の生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
38 子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。
39 林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
40 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
41 仲間の中におけば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。
42 四方のどこでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦痛に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
43 出家者でありながらなお不満の念をいだいている人々がいる。また家に住まう在家者でも同様である。だから他人の子女にかかわること少し、犀の角のようにただ独り歩め。
44 葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを捨て去って、在家の束縛を断ち切って、健き人はただ独り歩め。
45 もしも汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。
46 しかしもし汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。
47 われわれは実に朋友を得る幸を讃め称える。自分より勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。
48 金の細工人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金の腕輪を、一つの腕にはめれば、ぶつかり合う。それを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
49 このように二人でいるならば、われに饒舌といさかいとが起るであろう。未来にこの恐れのあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。
50 実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を攪乱する。欲望の対象にはこの患いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
51 これはわたくしにとって災害であり、腫物であり、禍であり、病であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
52 寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽の熱と、虻と蛇と、──これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、人は財産が在る故に却って悩むのじゃ。
財産がもっと増えればよいとか、減ったらどうしようとか思うからのう。
何もなければ悩みも無いのじゃ。
悩み無く犀の角のように歩むのじゃ。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章3、犀(さい)の角
53 肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。
54 集会を楽しむ人には、暫時の解脱に至るべきことわりもない。太陽の末裔<ブッダ>のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め。
55 相争う哲学的見解を越え、(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。
56 貪ることなく、詐ることなく、渇望することなく、(見せかけで)覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。
57 義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。貪りに耽って怠っている人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。
58 学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を去って、犀の角のようにただ独り歩め。
59 世の中の遊戯や娯楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。
60 妻子も、父母も、財産も穀物も、親類やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。
61 「これは執著である。ここは楽しみは少し、快い味わいも少くて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。
62 水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。
63 俯して視、とめどなくうつろうことなく、諸々の感官を防いで守り、こころを護り(慎しみ)、(煩悩の)流れ出ることなく、(煩悩の火に)焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。
64 葉の落ちたパーリチャッタ樹のように、在家者の諸々のしるしを除き去って、出家して袈裟の衣をまとい、犀の角のようにただ独り歩め。
(´・(ェ)・`)つ >>789
61 は、
欲望は、魚にとってのエサに見せかけた釣り針である。人間は、欲望にだまされる。そこに幸福や楽しみがあるように見える。
生命にとって欲望は、苦しみから逃れようとして現れる。だから、欲望が苦の原因であることに気が付けない。
だ、そうであります。
(´・(ェ)・`)つ そのようなものじゃ。
苦の原因となるのは執着であるがのう。
生きるために欲するのはよいのじゃ。
執着無く生きるがよいのじゃ。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章3、犀(さい)の角
65 諸々の味を貪ることなく、えり好みすることなく、他人を養うことなく、戸ごとに食を乞い、家々に心をつなぐことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
66 こころの五つの覆いを断ち切って、すべてに付随して起こる悪しき悩み(随煩悩)を除き去り、なにものかにかたよることなく、愛念の過ちを断ち切って、犀の角のようにただ独り歩め。
67 以前に経験した楽しみと苦しみを擲ち、また快さと憂いとを擲って、清らかな平静と安らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め。
68 最高の目的を達成するために努力策励し、こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。
69 独座と禅定を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に従って行い、諸々の生存には患いのあることを確かに知って、犀の角のようにただ独り歩め。
70 妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。
71 音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。
72 歯牙強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め。
73 慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
74 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、結び目を破り、命の失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
75 今の人々は自分の利益のために、交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。
(´・(ェ)・`)つ >>792
66 「五つの覆い」の二通りの解釈。
(心の汚れの断ち切り方の違い)
1)伝統的理解
「五蓋:欲の思い・加害の思い・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い」
これらが心にあると初禅(第一禅定)になることを妨げる。
初禅に入れば、五蓋と言われる心の汚れが除かれる。
ただし、五蓋がなくなっているのは禅定にいる時だけ。
2)心の五つの障碍を、五感からの汚れと見る。心の汚れはどのように現れるかを観察すると、五感が何かを感じたとき、心が汚れる。
だから、心を汚さないようにするために、五感からの刺激を、心の汚れの原因にしないこと。それは感覚を守ると言う。
感覚を、自己から切り離して、客観的に観察することで実現できる。ただ感覚があると観察できたとき、心は汚れない。
だそうであります。
(´・(ェ)・`)つ 五感でよいのじゃ。
それで次の随煩悩とも繋がるのじゃ。
要するに感覚を制することなのじゃ。
それによって瞑想も深くなり、執着も無くすことができるのじゃ。 >>794
おーぉ!
そうでありますね、その方が、前後の繋がりがよく、無理やり説明してる感がなくてすっきりするでありますね。
あと、>>786 に書いた29の解説でありますが、
>財産(牛)への執着を断ち切る。
ことと同じように、
>もっと生きたいという本能を拒否。
苦しみの原因である渇愛の克服
と言う説明に違和感を感じるのでありますが、違和感の理由は説明できないであります。
(´・(ェ)・`)つ ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章4、田を耕すバーラドブァージャ
わたしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はマガダ国の南山にある「一つの茅」というバラモン村におられた。そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、種子を捲く時に五百挺の鋤を牛に結びつけた。
そのとき師(ブッダ)は朝早く内衣を着け、鉢と上衣とをたずさえて、田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャが仕事をしているところへ赴かれた。ところでそのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは食物を配給していた。
そこで師は食物を配給しているところに近づいて、傍らに立たれた。田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、師が食を受けるために立っているのを見た。そこで師に告げていった、
「道の人よ。わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え。」と
(師は答えた)、「バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う」と。
(バラモンがいった)、「しかしわれらは、ゴータマさん(ブッダ)の軛も鋤も鋤先も突棒も牛も見ない。それなのにゴータマさんは『バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う。』という」と。
そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは詩を以て師に呼びかけた。
76 「あなたは農夫であるとみずから称しておられますが、われらはあなたが耕作するのを見たことがない。おたずねします。──あなたが耕作するということを、われわれが了解し得るように話してください。」
77 (師は答えた)「わたしにとっては、信仰が種である。苦行が雨である。知慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)きである。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることが鋤先と突棒とである。
78 身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和が私にとって(牛の)軛を離すことである。
79 努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。
80 この耕作はこのようになされ、甘露の果実もたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」
(´・(ェ)・`)つ >>795
くまが、>>786の説明に感じる違和感は、
生存本能、生存欲に対する執着を、財産に対する執着と同じようにとらえることへの違和感であります。
欲と言う観点から見て、それを拒否するとか説明するよりも、、その欲を感じる主体の有無と言う観点からアプローチする方が取り組みやすく思うのであります。
(´・(ェ)・`)つ >>796
農業によるたとえ話
種=信・・・信仰というよりも、「理解力」その理解力を確信にまで、すなわち悟りまで育てようというたとえ話だそうであります。
種を育て、育むものは雨。
雨=苦行・・・修行
修行が理解力を育てる。具体的に言えば八正道の実践が理解力を育てる
種をまく畑はよく耕されておかなければ、種は育たない。
理解力は心に育つ。
心が煩悩で荒れていれば、理解力は育たない。
この煩悩をなくすものは智慧。
心を耕す道具は智慧。
軛(くびき)と鋤(すき)が智慧。
鋤棒=轅(ナガエ)は、牛がまっすぐに歩くようにするもの。
道徳を守るために必要なことは慚(はじること)を知る心。轅は恥に譬えられた。恥を知る心で正しい道をまっすぐ歩ける。
軛と犂と轅を連動して使用するため、それらを結ぶ縄が必要。
その縄を心=意に譬えた。
智慧と恥とを結びつけるのが意。
意は心の感覚器官。
心の情報は意を通じて伝達される。
気を落ちつけること=念(気づき)を鋤と突棒に譬えた。
畑の石や障害物を見極めるのは鋤と突棒。心の煩悩を見極めるのは念(気づき)。
(´・(ェ)・`)つ
ふむふむ。解説を読んでみると、なかなかどうしてよくできたたとえ話であります。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章4、田を耕すバーラドブァージャ
81 詩を唱えて[報酬として]得たものを、わたくしは食うてはならない。バラモンよ、このことは正しく見る人々(目ざめた人々)のならわしではない。詩を唱えて得たものを、目ざめた人々(諸のブッダ)は斥ける。
バラモンよ、定めが存するのであるから、これが(目ざめた人々の)生活法なのである。
82 全き人である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪い行いを消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者のための(福)田であるからである。
「では、ゴータマ(ブッダ)さま、この乳粥をわたしは誰にあげましょうか?」
「バラモンよ。実に神々・悪魔・梵天とともなる世界において、神々・人間・道の人・バラモンを含む生きものの中で、全き人(如来)とかれの弟子とを除いては、この乳粥を食べてすっかり消化し得る人を見ない。
だから、バラモンよ、その乳粥を青草の少いところに棄てよ、或いは生物のいない水の中に沈めよ。」
そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャはその乳粥を生物のいない水の中にうずめた。
さてその乳粥は、水の中に投げ棄てられると、チッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙りを立てた。
譬えば終日日に曝されて熱せられた鋤先を水の中に入れると、チッチタ、チッチタと音を立て、大いに湯煙りを出すように、その乳粥は、水の中に投げ棄てられると、チッチタ、チッチタと音を立て、大いに湯煙りを出した。
そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは恐れおののいて、身の毛がよだち、師(ブッダ)のもとに近づいた。そうして師の両足に頭を伏せて、礼拝してから、師にいった、
─「すばらしいことです、ゴータマさま。すばらしいことです、ゴータマさま。
譬えば倒れた者を起こすように、覆われたものを聞くように、方向に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで真理を明らかにされました。
故にわたくしはここにゴータマさまに帰依します。また真理と修行僧のつどいに帰依します。わたしはゴータマさまのもとで出家し、完全な戒律(具足戒)をうけましょう。」
そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、師(ブッダ)のもとで出家し、完全な戒律を受けた。
それからまもなく、このバラモン・バーラドヴァーシャさんは独りで他の人々から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、無上の清らかな行いの究極
──諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが──
を現世においてみずからさとり、証、具現して、日を送った。
「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえたた。もはや再びこのような生存を受けることはない。」
とさとった。そうしてバーラドヴァーシャさんは聖者の一人となった。
(´・(ェ)・`)つ 生存の欲はなくさなくてよいのじゃ。
その他修業の邪魔にならない欲もなくさなくてよいのじゃ。
修業の邪魔になる貪欲だけを無くすべきなのじゃ。
それが煩悩なのじゃ。
修業の邪魔にならない欲は煩悩ではないのじゃ。 >>800
鬼和尚ありがとうであります(´・(ェ)・`)つ
で、ありますよね。
生存本能を拒否するとかいい放つのは、
無常なんだから諦めろと言ってるだけでありまして、
修行方法の説明として、不適切でありましょう。
そもそもそんなことは、スッタニパータには書いてないであります。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章5、チュンダ
83 鍛冶工のチュンダがいった、「偉大な智慧ある聖者・目ざめた人・真理の主・妄執を離れた人・人類の最上者・優れた御者に、わたしはおたずねします。──世間にはどれだけの修行者がいますか? どうぞお説きください。」
84 師(ブッダ)は答えた、「チュンダよ。四種の修行者があり、第五の者はありません。面と向かって問われたのだから、それらをあなたに明かしましょう。
──<道による勝者>と<道を説く者>と<道において生活する者>と及び<道を汚す者>とです。」
85 鍛冶工チュンダはいった、「目ざめた人々は誰を<道による勝者>と呼ばれるのですか? また<道を習い覚える人>はどうして無比なのですか?
またおたずねしますが、<道によって生きる>ということを説いてください。また<道を汚す者>をわたくしに説き明かしてください。」
86 「疑いを越え、苦悩を離れ、安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、貪る執念をもたず、神々と世間とを導く人、──そのような人を<道による勝者>であると目ざめた人々は説く。
87 この世で最高のものを最高のものであると知り、ここで法を説き判別する人、疑いを絶ち欲念に動かされない聖者を修行者たちのうちで第二の<道を説く者>と呼ぶ
88 みごとに説かれた<理法にかなったことば>である<道>に生き、みずから制し、落ち着いて気をつけていて、とがのないことばを奉じている人を、修行者たちのうちで第三の<道によって生きる者>と呼ぶ。
89 善く誓戒を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚し、傲慢で、いつわりをたくらみ、自制心なく、おしゃべりで、しかも、まじめそうにふるまう者、──かれは<道を汚す者>である。
90 (彼らの特長を)聞いて、明らかに見抜いて知った在家の立派な信徒は、『かれら(四種の修行者)はすべてこのとおりである』と知って、かれらを洞察し、このように見ても、その信徒の信仰はなくならない。
かれはどうして、汚れた者と汚れていない者と、清らかな者と清らかでない者とを同一視してよいであろうか。」
第一 蛇の章6、破 滅
わたしが聞いたところによると、──あるとき師(ブッダ)は、サーヴァッティーのジェータ林、<孤独なる人々に食を給する長者>の園におられた。
そのとき一人の容色麗しい神が、夜半を過ぎたころ、ジェータ林を隈なく照らして、師(ブッダ)のもとに近づいた。近づいてから師に敬礼して傍らに立った。そうしてその神は師に詩を以て呼びかけた。
91 「われらは、<破滅する人>のことをゴータマ(ブッダ)におたずねします。破滅への門は何ですか? 師にそれを聞こうとしてわれわれはここに来たのですが、──。」
92 (師は答えた)、「栄える人を識別することは易く、破滅を識別することも易い。理法を愛する人は栄え、理法を嫌う人は敗れる。」
93 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第一の破滅です。先生! 第二のものを説いてください。破滅への門はなんですか?」
94 「悪い人々を愛し、善き人々を愛することなく、悪人のならいを楽しむ。これは破壊への門である。」
95 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第二の破滅です。先生! 第三のものを説いてください。破滅への門は何ですか?」
96 睡眠の癖あり、集会の癖あり、奮励することなく、怠りなまけ、怒りっぽいので名だたる人がいる、──これは破滅への門である。」
97 「よく分かりました。おっしゃるとおりです。これが第三の破滅です。先生! 第四のものを説いてください。破滅への門は何ですか?」
98 「みずからは豊かで楽に暮らしているのに、年老いて衰えた母や父を養わない人がいる、──これは破滅への門である。」
99 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第四の破滅です。先生! 第五のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」
100 「バラモンまたは<道の人>または他の<もの乞う人>を、嘘をついてだますならば、これは破滅の門である。」
(´・(ェ)・`)つ >>802
88の 第三の道を歩む方法
三十七菩提分法
1.) 四念処
2.) 四正勤
3.) 四如意足
4.) 五根
5.) 五力
6.) 七覚支
7.) 八支道(八正道)
以上、4+4+4+5+5+7+8=37
1.)四念処とは、瞑想における四つの観察対象。(大念処経及び念処経)
身(身体)、受(感覚)、心(行為の原因)、法(法則)。
1.身念処:自分の身体と自分の身体の動きを観察する。
2.受念処:感覚の観察する。
目、耳、鼻、舌、身、の五感官から、色(形)、声(音)、香(匂い)、味、触(身体感覚)を観察する。
その際、それぞれの感覚において、苦(不快)、楽(快)、不苦不楽(快でも不快でもない)を観察(感じる)する。
苦から心に怒り現れ、楽からは心に欲が現れ、不苦不楽からは心に無知が現れる。
3.心念処:心を観察する。
心に欲、怒り、無知、憂い、があるか、清らかな心か、落ち着いた心か、解放された心かなどを観察。
4.法念処:法(真理、法則)を観察する。これは身、受、心の観察において観察する。
特別に法を見るということではない。
五蓋、五蘊、十二処、七覚支、四聖諦の観察。
無常、苦、無我を観察し、体得する。
(´・(ェ)・`)つ(つづく) >>803つづき
2.)四正勤(八正道の正精進同じ)
1. 律儀勤 :注意する努力、「防ぐ努力」。まだ生じない不善を抑えて起こさない努力。
2. 断勤 :捨てる、または「なくす努力」。生じた悪・不善を捨てる努力。
3. 修勤 :増進、または「生じさせる努力」。また生じてない善を生じさせる努力。
4. 随護勤 :「維持する努力」。既に生じている善を根付かせ、さらに完全になるまで増進する努力。
3.)四如意足は目的を達成するための四つの要素。目的とは禅定や悟りを指す。
1. 欲如意足: 満足。常にそれを行うことを欲求し、さらに良い結果を得たいと望むこと。
2.精進如意足: 精進。そのことを努力し、勤勉、忍耐でやり遂げること。
3.心如意足: 意図する思考。考えをそれに集中して心をこめて、心身共にその行為に捧げること。
4.思惟如意足: 熟考または試行。智慧を用いて行ったことを真剣に調べ、原因を探り、欠点を点検して、計画し、改善方法を求めるなど。
4.)5.)五根と五力の項目は同じ
1. 信 :理解
2. 精進 :努力
3. 念 :気付き
4. 定 :集中
5. 慧 :智慧
これらは修行を進ませ、涅槃に到るための能力とエネルギー。そのうちの能力を五根と言い、エネルギーを五力と言う。五つの項目はバランスよく養成することが必要。
具体的には、信が強すぎると慧の養成の妨げになり、精進が強すぎると定の養成の妨げになる。念のみは全体の牽引者の役割があり、念の養成は他のものの妨げにならない。
6.)七覚支、段階的に習得される悟りの要素。
1番目念覚支に挑戦すれば、自動的に二番、三番・・・とすすむ。
1.念覚支:身体、感覚、心、法則に気付き、観察すること。
2.択法覚支:念覚支の実践で、さらに細かく観察し、現象の変化を発見すること。
3.精進覚支: 念覚支、 択法覚支の修行を繰り返し実践・努力すること。
4.喜覚支:念覚支、 択法覚支、 精進覚支の修行の努力の後に、喜びが生まれる。それは欲や怒りがなくなる時に生まれる精神的な喜びである。
5.軽安覚支:心身が軽やかになり、リラックスしてくる。 喜覚支は少し興奮している状態であるが、何度か 喜覚支を経験すると、落ち着いて 軽安覚支を経験すると言われる。この状態になれば楽に 念覚支、 択法覚支が実践できる。
6.定覚支: 軽安覚支を経験した人には、安定した集中力が現れる。そのため、現象の実相が洞察できるようになる。ここまでの過程で、人格も変わる、見方も変わる。
7.捨覚支: 定覚支が確立すると、善いことがあっても、悪いことがあっても動じない、感情がない状態、何事も公平で平等に見ることができる心になる。
これらの七つの要素がそろった時に悟りを達成します。
7.)八正道
1.正見(正しい見解)、2.正思惟(正しい考え方)、3.正語(正しい話し方)、4.正業(正しいい)、5.正命(正しい職業)、6.正精進(正しい努力)、7.正念(正しい気づき)、8.正定(正しい集中)。
(´・(ェ)・`)つ
5.)七覚支、の7.捨覚支、
これが不動心でありましょうかね。 >>801 そうじゃ、煩悩とは何かわかっていないのじゃ。
三毒が煩悩なのじゃ。
煩悩となる貪欲を滅して進むがよいのじゃ。 >>805
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚ありがとうであります。
三毒=克服すべき根本的な三つの煩悩
貪・瞋・癡(とん・じん・ち)
でありますね。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章6、破 滅
101 「よくわかりました。おっしゃるとうりです。これが第五の破滅です。先生! 第六のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」
102 「おびただしい富あり、黄金あり、食物ある人が、ひとりおいしいみのを食べるならば、これは破滅への門である。」
103 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第六の破滅です。先生! 第七のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」
104 「血統を誇り、財産を誇り、また氏姓を誇っていて、しかも已が親戚を軽蔑する人がいる、──これは破滅への門である。」
105 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第七の破滅です。先生! 第八のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」
106 「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって得たものをその度ごとに失う人がいる、──これは破滅への門である。」
107 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第八の破滅です。先生! 第九のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」
108 「おのが妻に満足せず、遊女に交わり、他人の妻に交わる、──これは破滅への門である。」
109 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第九の破滅です。先生! 第十のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」
110 「青春を過ぎた男が、ティンバル果のように盛り上がった乳房のある若い女を誘き入れて、かの女について嫉妬から夜も眠れない、──これは破滅への門である。」
111 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第十の破滅です。先生! 第十一のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」
112 「酒肉に荒み、財を浪費する女、またはこのような男に、実権を託すならば、これは破滅への門である。」
113 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第十一の破滅です。先生! 第十二のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」
114 「クシャトリヤ(王族)の家に生まれた人が、財力が少いのに欲望が大きくて、この世で王位を獲ようと欲するならば、
これは破滅への門である。
115 世の中にはこのような破滅のあることを考察して
賢者・すぐれた人は真理を見て、
幸せな世界を体験する。」
(´・(ェ)・`)つ >>806 そうじゃ、三毒を滅して進むのじゃ。
そうすれば破滅は無いのじゃ。
ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章7、賤しい人
わたしが聞いたところによると、──あるとき師(ブッダ)は、サーヴァッティーのジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者>の園におられた。そのとき師は朝のうちに内衣を着け、鉢と上衣とをたずさえて、托鉢のためにサーヴァッティーに入った。
そのとき火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャの住居には、聖火がともされ、供物がそなえられていた。さて師はサーヴァッティー市の中を托鉢して、かれの住居に近づいた。火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャは師が遠くから来るのを見たる
そこで、師にいった、「髪を剃った奴よ、そこにおれ。にせの<道の人>よ、そこにおれ。賤しい奴よ、そこにおれ」と。
そう言われたので、師は、火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャに言った、「バラモンよ。あなたはいったい賤しい人しはなにかを知っているのですか? また賤しい人たらしめる条件を知っているのですか?」
「ゴータマさん(ブッタ)。わたしは人を賤しい人とする条件をも知っていないのです。どうか、わたしが賤しい人を賤しい人とさせる条件わ知り得るように、ゴータマさんはわたくしにその定めを説いてください。」
「バラモンよ、ではお聞きなさい。よく注意なさい。わたくしは説きましょう。」
「どうぞ、お説きください」、と火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャは師に答えた。
師は説いていった、
116 「怒りやすく恨みをいだき、邪悪にして、見せかけであざむき、誤った見解を奉じ、たくらみのある人、──かれを賤しい人であると知れ。
117 一度生まれたものを(胎生)でも、二度生まれるもの(卵生)でも、この世で生きものを害し、生きものに対するあわれみのない人、──かれを賤しい人であると知れ。
118 村や町を破壊し、包囲し、圧制者として一般に知られる人、──かれを賤しい人であると知れ。
119 村にあっても、林にあっても、他人の所有物をば、与えられないのに盗み心をもって取る人、──かれを賤しい人であると知れ。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、生まれによって賎しいのではないのじゃ。
行いによって賎しい者となるのじゃ。
行いによって貴い者にもなるのじゃ。
>>810
(´-(ェ)-`)つ貴いくまになるか、賎いくまになるかは、くましだいでりますね。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章7、賤しい人
120 実際に負債ががあるのに、返済するように督促されると、『あなたからの負債はない』といって言い逃れる人、──かれを賤しい人であると知れ。
121 実に僅かの物を欲しくて路行く人を殺害して、僅かの物を奪い取る人。──かれを賤しい人であると知れ。
122 証人として尋ねられたとき、自分のために、他人のため、また財のために、偽りを語る人、──かれを賤しい人であると知れ。
123 或いは暴力を用い、或いは相愛して、親族または友人の妻と交わる人、──かれを賤しい人であると知れ。
124 己れは財豊かであるのに、年老いて衰えた母や父を養わない人、──かれを賤しい人であると知れ。
125 母・父・兄弟・姉妹或いは義母を打ち、またはことばで罵る人、──かれを賤しい人であると知れ。
126 相手の利益となることを問われたのに不利益を教え、隠し事をして語る人、──かれを賤しい人であると知れ。
127 悪事を行なっておきながら、『誰もわたしのしたことを知らないように』と望み、隠し事をする人、──かれを賤しい人であると知れ。
128 他人の家に行っては美食をもてなされながら、客として来た時には、返礼としてもてなさない人、──かれを賤しい人であると知れ。
129 バラモンまたは<道の人>、または他の<もの乞う人>を嘘をついてだます人、──かれを賤しい人であると知れ。
130 食事のときが来たのに、バラモンまたは<道の人>をことばて罵り食を与えない人、──かれを賤しい人であると知れ。
131 この世に迷妄に覆われ、わずかの物が欲しくて、事実でないことを語る人──かれを賤しい人と知れ。
132 自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなった人、──かれを賤しい人であると知れ。
133 人を悩まし、欲深く、悪いことを欲し、ものおしみをし、あざむいて(徳がないのに敬われようと欲し)、恥じ入る心のない人、──かれを賤しい人であると知れ。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、行いによって賤しいものとなり、貴いものともなるのじゃ。
善事を行えば貴いものとなり、福楽も付き従うのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章7、賤しい人
134 目ざめた人(ブッダ)をそしり、或いは出家・在家のその弟子(仏弟子)をそしる人、──かれを賤しい人であると知れ。
135 実際は尊敬さるべき人ではないのに尊敬さるべき人(聖者)であると自称し、梵天を含む世界の盗賊である人、
──かれこそ実に最下の賤しい人である。
わたしがそなたたちに説き示したこれらの人々は、実に<賤しい人>と呼ばれる。
136 生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。
137 わたしは次にこの実例を示すが、これによってわが説示を知れ。チャンダーラ族の子で犬殺しのマータンガという人は、世に知られた令名の高い人であった。
138 かれマータンガはまことに得がたい最上の名誉を得た。多くの王族やバラモンたちはかれのところに来て奉仕した。
139 かれは神々の道、塵汚れを離れた大道を登って、情欲を離れて、ブラフマン(梵天)の世界に赴いた。(賤しい)生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行なっているのが見られる。
140 ヴェーダ読誦者の家に生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行っているのが見られる。
141 そうすれば、現世においては非難せられ、来世においては悪いところに生まれる。(身分の高い)生れも、かれらが悪いところに生まれまた非難されるのを防ぐことはできない。
142 生まれによって賤しい人となるのではない、生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人となり、行為によってバラモンともなる。
このように説かれたときに、火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャは、師にいった、
「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです、ゴータマさま。あたかも倒れた者をおこすように、覆われたものを開くように方角に迷った者に道を示すように、
あるいは『眼ある人々は色を見るであろう』といって暗夜に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで法を明らかにされました。
ですから、わたしは、ゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまは、わたくしを在俗信者として受けいれてください。今日以降命の続く限り帰依します。」
(´・(ェ)・`)つ 素晴らしいことじゃ。
この世の真理がお釈迦様の言葉で明らかになったのじゃ。
誰も生まれによって賎しくなり、苦に陥るのではないのじゃ。
悪い行いによって賎しくなり、苦に陥ることにもなるのじゃ。
善事を行えば福楽も付き従うのじゃ。 >>815
鬼和尚、こんばんは(´・(ェ)・`)つ
お釈迦さんは、因習差別が支配する25百年前のインドで、無常、無我を説いただけでなく、縁起や因果応報も真理として説いたからこそ偉大なのでありますね。
善事を行えば福楽も付き従うのでありますね。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章、8、慈しみ
143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。
145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
146 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
148 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。
150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥つつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
152 諸々の邪まな見解にとらわけず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。
(´・(ェ)・`)つ >>816 そうじゃ、悟りを求めないものにもお釈迦様は幸福になる道を説いているのじゃ。
どんどん善を積んで福楽を楽しむとよいのじゃ。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章、9、雪山に住む者
153 七岳という神霊(夜叉)がいった、「今日は十五日のウポーサタである。みごとな夜が近づいた。さあ、われわれは世にもすぐれた名高い師ゴータマ(ブッダ)にお目にかかろう。」
154 雪山に住む者という神霊(夜叉)がいった、「このように立派な人のこころは一切の生きとし生けるものに対してよく安立しているのだろうか。望ましいものに対しても、望ましくないものに対しても、かれの意欲はよく制されているのであろうか?」
155 七岳という神霊は答えた、「このように立派なかれ(ブッダ)のこころは、一切の生きとし生けるものに対してよく安立している。また望ましいものに対しても、望ましくないものに対しても、かれの意欲はよく制されている。」
156 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは与えられないものを取らないであろうか? かれは生きものを殺さないように心がけているであろうか? かれは怠惰から遠ざかっているであろうか? かれは精神の統一をやめないであろうか?」
157 七岳という神霊は答えた、「かれは与えられないものを取らない。かれは生きものを殺さないように心がけている。かれは怠惰から遠ざかっている。目ざめた人(ブッダ)は精神の統一をやめることができない。」
158 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは嘘をつかないであろうか? 粗暴なことばを発しないであろうか? 中傷の悪口を言わないだろうか? くだらぬおしゃべりを言わないだろうか?」
159 七岳という神霊は答えた、「かれは嘘をつかない。粗暴なことばを発しな。また中傷の悪口を言わない。 くだらぬおしゃべりを言わない。」
160 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは欲望の享楽に耽らないだろうか? その心は濁っていないだろうか? 迷妄を越えているであろうか? 諸々のことがらを明らかに見とおす眼をもっているだろうか?」
161 七岳という神霊は答えた、「かれは欲望の享楽に耽らない。その心は濁っていない。迷妄を越えている。目ざめた人として諸々のことがらを明らかに見とおす眼をもっている。」
162 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは明知を具えているだろうか? かれの行いは全く清らかであろうか? かれの煩悩の汚れは消滅しているであろうか? かれはもはや再び世に生まれるということがないであろうか?」
163 七岳という神霊は答えた、「かれは明知を具えている。またかれの行いは清らかである。かれのすべての煩悩の汚れは消滅している。かれはもはや再び世に生まれるということがない。」
163a (雪山に住む者という神霊がいった)、「聖者の心は行動とことばとをよく具現している。明知と行いとを完全に具えているかれを汝が讃嘆するのは、当然である。」
163b 「聖者の心は行動とことばとをよく具現している。明知と行いとを完全に具えているかれに、そなたが随喜するのは、当然である。」
(´・(ェ)・`)つ >>819
お釈迦さん=覚者の心、戒、徳、を夜叉に語らせてるそうであります。
夜叉とは(やしゃ、サンスクリット語:yaka、パーリ語: yakkhaの音写)古代インド神話に登場する鬼神。薬叉(やくしゃ)とも称する。一般にインド神話における鬼神の総称
三毒=克服すべき根本的な三つの煩悩
貪・瞋・癡(とん・じん・ち)= 欲と怒りと無知が問題
この三つのために生命は悩み苦しむ
智慧があれば、この三つをなくすことが出来る。
しかし、この三つをなくす智慧を得ることを妨害するのもこの三つ。
欲が苦しみの原因だと解ったとしても、心は欲を捨てることを嫌う。
欲は智慧の邪魔をする。
その智慧を使って三つを減らすというように前進する。
その方法が瞑想。
(´・(ェ)・`)つ だそうであります。 それを無くすことができるのは観察なのじゃ。
貪欲も怒りも原因から観察すれば消えるのじゃ。
その気付きが叡智なのじゃ。
どんどん実践すると善いのじゃ。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章、9、雪山に住む者
164 (七岳という神霊がいった)、「聖者の心は行動とことばとをよく具現している。さあ、われらは明知と行いとを完全に具えているゴータマに見えよう。」
165 (雪山に住む者という神霊がいった)、「かの聖者は羚羊のような脛があり、痩せ細って、聡明であり、小食で、貪ることなく、森の中で静かに瞑想している、来たれ、われらはゴータマ(ブッダ)に見えよう。
166 諸々の欲望をかえりみることなく、あたかも獅子のように象のように独り行くかれに近づいて、われらは尋ねよう、──死の縛めから解き放たれる道を。」
167 (その二つの神霊がいった)、「説き示す人、説き明かす人、あらゆることがらの究極をきわめ、怨みと恐れを越えた目ざめた人、ゴータマに、われらは問おう。」
168 雪山に住む者という神霊がいった、「何があるとき世界は生起するのですか? 何に対して親しみ愛するのですか? 世間の人々は何ものに執著しており、世間の人々は何ものに悩まされているのですか?」
169 師は答えた、「雪山に住むものよ。六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親しみ愛し、世界は六つのものに執著しており、世界は六つのものに悩まされている。」
170 「それによって世間が悩まされる執著とは何であるか? お尋ねしますが、それからの出離の道を説いてください。どうしたら苦しみから解き放たれるのでしょうか。」
171 「世間には五種の欲望の対象があり、意(の対象)が第六であると説き示されている。それらに対する貪欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。
172 世間の出離であるこの道が汝らに如実に説き示された。このことを、われは汝らに説き示す、──このようにするならば、苦しみから解き放たれるのである。」
173 「この世において誰が激流を渡るのでしょうか? この世において誰が大海を渡るのでしょうか? 支えなくよるべのない深い海に入って、誰が沈まないのでしょうか?」
174 「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。
175 愛欲の想いを離れ、一切の結び目(束縛)を越え、歓楽による生存を滅しつくした人──、かれは深海のうちに沈むことがない。」
176 (雪山に住む者という神霊がいった)、「深い智慧があり、微妙な意義を見、何ものをも有せず、欲の生存に執著せず、あらゆることがらについて解脱し、天の路を歩みつつあるかの大仙人を見よ。
177 世に名高く、微妙な意義を見、智慧をさずけ、欲望の起る根源に執著せず、一切を知り、よく聡明であり、気高い路を歩みつつあるかの大仙人を見よ。
178 今日われわれは美しい[太陽]を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちよく起き上がった。激流をのり越え、煩悩の汚れのなくなった<覚った人>にわれらは見えたからである。
179 これらの千の神霊どもは、神通力あり、誉れたかきものどもであるが、かれらはすべてあなたに帰依します。あなたはわれらの無上の師であります。
180 われらは、村から村へ、山から山へめぐり歩もう、──覚った人をも、真理のすぐれた所以をも礼拝しつつ。」
(´・(ェ)・`)つ >>822
166
二人の夜叉がブッタに最も聞きたかったことは、「死の縛めから解き放たれる道」=死の恐怖を克服する方法。
それを直接訊くのではなく、
生きることについて質問した。
※経典で世間(世界)というところは、生きもの、生命(人間)とした方が解りやすい場合が多いそうであります。
168
「世間は何によつて成り立つて居るのでせうか」、「何があるとき世界は生起するのですか?」と言う意味は「生きているとはどういうことでしょうか?」ということ。
生命(人間)が生きることは何によって成り立っているか?
生命(人間)は何に親しむのか?
生命(人間)は何に執着するのか?
生命(人間)は何によって悩まされるのか?
169
世界(生きること)は六つによって成り立っている」。
六つとは六つの内処(眼・耳・鼻・舌・身・意)と六つの外処(色・声・香・味・触・法)。
→「六内外処に親しむ。」、「六内外処に執着する。」、「六内外処に悩まされる。」
死の恐怖生の克服→生きることについて分析→悩みを整理→悩みの解決方法を質問
170
人間が悩まされる執着とは何か?、どうしたらそれから解放されるか?
171
六種の欲望の対象への執着が人間を悩ます。
六種の欲望の対象に対する貪欲を離れることで、苦しみから解放される。
六種の欲望の対象とは色・声・香・味・触・法。
172
世間の出離。
欲望を満たそうとするのが世間。
ここでは欲望から離れることを述べているので、世間から出離。
↑三つの偈=仏教の核心である四聖。
@苦諦、苦があり、
A集諦、苦の原因が欲望であることが明らかにされ、
B滅諦、欲望から離れることで苦が滅する
C道諦、このようにして苦が滅すること。
一言で「欲望から離れること」と言われても、そんなことが出来るのか?
173
誰が一体この世で激流を渡れるのか?
ここで激流とは欲望のこと
誰がこの世で海を渡れるのか?
ここで海とは死の恐怖(から解放)=死の恐怖を誰が克服できるのか?
174
常に戒を守る人、智慧があって、心を統一させている人、注意を自分の心に向け、心に欲が現れないように守っている人が、渡り難い激流を渡ることが出来る。
175
常に戒を守り、智慧あり、心の統一のある人、気付きのある人は、心に欲が現れないようにすることができる。智慧があれば、欲や苦しみの原因であることをよく理解して、心の統一と気付きある人は、欲の想いから離れることによって、欲が心に現れることを抑えることが出来る。
「一切の束縛を超えた人」とは十結と言われる十の煩悩をすべてなくした人。=阿羅漢十結とは
1.有身見(うしんけん):永遠不滅の真我があると言う誤解
2.疑:迷って確信がないこと
3.戒禁取(かいごんしゅ):無意味な苦行やあらゆる宗教儀式・儀礼
4.貪欲:五欲に執着すること
5.瞋恚(しんに):いらいらして怒ること
6.色貪(しきどん):色界禅定に執着すること
7.無色貪(むしきどん):無色界禅定に執着すること
8.慢:自分と比較すること。自分を重要と思うこと
9.掉挙(じょうこ):落ち着きのないこと
10.無明:真実を知らないこと
179
二人の夜叉の弟子が千人、師匠の夜叉と一緒にブッタに帰依したということだそうであります。
(´・(ェ)・`)つ それらを離れる法が止観なのじゃ。
心を集中させて、六処が観察され尽くせば執着は無くなり、出離も出来るのじゃ。
それが説かれているのじゃ。 >>824
今回の部分は、たいへん重要は教え満載でありましたが、日頃の鬼和尚のコメントやブロゲで、すでにより分かりやすく解説していただいているところばかりのようであります。
独学で、お経を習得するのはたいへんなことでありますね。
鬼和尚に感謝であります。
(´・(ェ)・`)つ でおーと名乗る、俺は悟りをひらいたと自称する、施設に収容されている宗教性妄想患者が作成した文章。
>俺は、最近裏工作的に牧師の霊的指導を笑、
>当然そういう風に魅せずにな笑。
>世話になっている坊主に俺は、自分の修行が
>進まんのにクリスチャンの世話ばかりしてい
>ると笑。
>今日は、さっき書いたが、修行マニアの書い
>た本(どちらかというと仏教、神道系など、
>神秘主義修行の内容が多いのに笑)に、世話
>になっている坊主の公案修行、鈴なのど本を
>書いてあるのを読んだ。
>彼は本物だと知っていたが、きちんとした出
>版社に載るようになったとは笑。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章、10、アーラブァカという神霊
わたしか聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はア−ラヴィー国のアーラヴァカという神霊(夜叉)の住居に住みたもうた。そのときアーラヴァカ神霊は師のいるところに近づいて、
師にいった、「道の人よ、出てこい」と。「よろしい、友よ」といって師は出てきた。
(また神霊はいった)、「道の人よ、入れ」と。「よろしい、友よ」といって、師は入った。
ふたたびアーラヴァカ神霊は師にいった、「道の人よ、出てこい」と。「よろしい、友よ」といって師は出て行った。
(また神霊はいった)、「道の人よ、入れ」と。「よろしい、友よ」といって師は入った。三たびまたアーラヴァカ神霊は師にいった、「道の人よ、出てこい」と。よろしい、友よ」といって師は出てきた。
(また神霊はいった)、「道の人よ。入れ」と。「よろしい、友よ」といって師は入った。
四たびまたアーラヴァカ神霊は師にいった、「道の人よ、出てこい」と。
(師は答えた)、「では、わたしはもう出て行きません、汝のなすべきことをなさい」と。
(神霊がいった)、「道の人よ、わたしは汝に質問しよう。もしも汝がわたしに解答できないならば、汝の心を乱し、汝の心臓を裂き、汝の両足をとらえてガンジス河の向こうの岸に投げつけよう。」
(師は答えた)、「友よ。神々・悪魔・梵天を含む世界において、道の人・バラモン・神々・人間を含む生けるものどものうちで、わが心を乱し、わが心臓を裂き、わか両足をとらえてガンジス河の向こうの岸に投げつけ得るような人を、実にわたしは見出さない。友よ。
汝が聞きたいと欲することを、何でも聞け」と。そこでアーラヴァカ神霊は、師に次の詩をもって呼びかけた。──
181 「この世で人間の最高の富は何であるか? いかなる善行が安楽をもたらすのか? 実に味の中での美味は何であるか? どのように生きるのが最上の生活であるというのか?」
(´・(ェ)・`)つ >>827
あーらバカは嫌な奴でありますね。
病んでる夜叉でありましょか?
お釈迦さんはそんなあーらバカのことも友と呼び掛ける大人でありますね。
(´・(ェ)・`)つ >>825 そうじゃ、正しい知識が正しい実践に導くのじゃ。
正しい法を知れば効果も現れるのじゃ。
>>828 そうかもしれん。
ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章、10、アーラブァカという神霊
182 「この世では信仰が人間の最上の富である。徳行に篤いことは安楽をもたらす。実に真実が味の中で美味である。知慧によって生きるのが最高の生活であるという」
183 「ひとはいかにして激流を渡るのであるか? いかにして海を渡るのであるか? いかにして苦しみを越えるのであろうか? いかにして全く清らかとなるのであるか?」
184 「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみを超え、知慧によって全く清らかとなる。」
185 「ひとはいかにして智慧を得るのであろうか? いかにして財を獲るのであるか? いかにして名声を得るのであるか? いかにして交友を結ぶのであるか? どうすれば、この世からかの世に赴いたときに憂いがないのであろうか?」
186 [師いわく、──]「諸々の尊敬さるべき人が安らぎを得る理法を信じ、精励し、聡明であって、教えを聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。
187 適宜に事をなし、忍耐づよく努力する者は財を得る。
誠実をつくして名声を得、
何ものかを与えて交友を結ぶ。
188 信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれら四種の徳があれば、かれは来世に至って憂えることがない。
189 もしもこの世に誠実、自制、施与、耐え忍びよりもさらに勝れたものがあるならば、さあ、それら他のものをも広く<道の人>、バラモンどもに問え。」
190 [神霊いわく、──]「いまやわたしは、どうして道の人、バラモンどもに広く問う要がありましょうか。わたしは今日<来世のためになること>を覚り得たのですから。
191 ああ、目ざめた方がア−ラヴィーに住むためにおいでになったのは、実はわたくしのためをはかってのことだったのです。わたしは今日、何に施与すれば大いなる果報が得られるかということを知りました。
192 わたしは、村から村へ、町から町へめぐり歩こう、──覚った人を、また真理のすぐれた所以を、礼拝しつつ。」
(´・(ェ)・`)つ >>830
182
仏教では信とは理解に基づく確信を言う。盲信ではなく、理解することが必要。
183
1. いかにして、激流を渡るか? 激流とは貪欲を意味する。
2. いかにして、海を渡るか?海とは、生と死、死の恐怖、果てしのなく繰り返してきた輪廻を海と譬えている。
3. いかにして、苦しみを乗り越えるのか?
4. いかにして、汚れた心を清めることが出来るのか?
184
1. 激流を渡るのは、←信。
信が、人間の最高の富とされるのは信によって、激流を渡ることが出来るから。
スッタニパータ(第1章4、77偈、)「信仰が種である」→信を育てて、悟りという実を収穫する。
五根、五力と言う修行法。内容はどちらも同じ、@信、A精進、B念、C定、D智慧信があってこそ、修行が始まる。信は具体的には、三帰依。仏法僧に対する帰依。これがあるので、貪欲の激流という困難を渡ることが出来る。
2. 生死すなわち輪廻の海を渡るのは←不放逸
不放逸とは、気づき(念)を怠らないこと。これにより、煩悩をなくし、輪廻から解脱できる。
3. 苦しみを乗り越える←精進
すなわち、八正道の実践
4. 心の汚れを清めるのは、←智慧
↑五根、五力の内容の内の四つが述べている。「定(集中)」は、念(気付き)の実践により現れるから、特別に述べてなくとも、この偈は五根、五力の修行と考えてもよい。
185
どのようにして1. 智慧を、2.財を、3. 名声を、4.交友を、5. 死ぬ時に悲しまないことを得るのか?
186
どのようにして智慧を得るのか?
四つの事由(因)が必要。
@ 涅槃を得るための阿羅漢の教えを信じること。=八正道の実践で涅槃に到ることを理解すること。
A その教えを聞こうと願うこと。=八正道、意味を詳しく学ぼうと思うこと。
B 不放逸すなわち気付きを怠ることがないこと。=瞑想を繰り返し実践すること。
C 聡明であること。=気持ちをしっかりさせること。
瞑想を繰り返し実践すること。
気持ちをしっかりさせること。
187
どのようにして財(富)をえるか?
適宜に仕事をして、忍耐強く、努力する人は財(富)を得る。最高の富は信→信についても同様。
どのようにして名声を得るか?
真実=誠実によって得る。
どのようにして友好を結ぶか?
何かを与えて友好を結ぶ。プレゼント作戦でありますね。
188
どのようにしたら死後に悲しまないか?
四つの性質があれば、死後悲しむことがない。真実(誠実)、法、気力、喜捨。
法=ダンマ「法、教法、真理、正義;もの、一切法、諸法の法」意味は文脈に応じて理解。
。
(´・(ェ)・`)つ
結局、あーらバカ夜叉とくんは、お釈迦さんに質問したいことが山ほどあったのでありますね。
最初は照れ隠しで意地悪してみたのでありましょう。
友好を結ぶ方法は、プレゼントってのは微笑ましいでありますが、お釈迦さん、他に思い付かなかったのでありましょうか? 微笑とか優しい言葉も施しなのじゃ。
無財の七施もあるのじゃ。 >>832
なるへそ!へそのごまであります!
(´・(ェ)・`)つ
187
>何ものかを与えて交友を結ぶ。
にも、深い意味があるのでありますね。
「無財の七施」
1. 眼施(がんせ):いつも優しい眼差(まなざし)しで人に接する。
2. 和顔悦色施(わがんえつじきせ):いつも笑顔で接する。
3. 言辞施(ごんじせ):優しい言葉で接する。
4. 身施(しんせ):困った人を見たら助けてあげる。
5. 心施(しんせ):ほかの人のために心を配る。
6. 床座施(しょうざせ):席や場所を譲る。
7. 房舎施(ぼうじゃせ):訪ねてくる人がいれば一宿一飯の施しを行い労をねぎらう。
施しとは、優しい心があれば、誰もが実践することができるのであり、その優しい心こそが、交友を結ぶために重要なのでありますね。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章、11、勝利
193 或いは歩み、或いは立ち、或いは坐り、或いは臥し、身を屈め、或いは伸ばす、──これは身体の動作である。
194 身体は、骨と筋とによってつながれ、深皮と肉とで塗られ、表皮に覆われていて、ありのまま見られることがない。
195 身体は腸に充ち、胃に充ち、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓あり、
196 鼻汁・粘液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏がある。
197 またその九つの孔んらはねつねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、
198 鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。
199 またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。
200 また身体が死んで臥するときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。
201 犬や野狐や狼やは虫類がこれをくらい、鳥や鷲やその他の生きものがこれを啄む。
202 この世において知慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)の言葉を聞いて、このことを完全に了解する。なんとなれば、かれはあるがままに見るからである。
203 (かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう)と内面的にも外面的にも身体に対する欲を離れるべきである。
204 この世において愛欲を離れ、知慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。
205 人間のこの身は、不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出る。
206 このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また軽蔑するならば、かれは(見る視力が無い)という以外の何だろう。
(´・(ェ)・`)つ >>834
四段階の悟りのうち、最初の悟りで、克服する三つの煩悩、@有身見、A疑、B戒禁取がある。
有身見は始めの一番手ごわい煩悩。
「私がいる、この身体は私なのだ」という見解は、解脱を目指す修行者にとって、克服すべき始めの難関。
この難関を克服するためには、この身体をよく観察することを勧めた。
肉体について、細かく、丁寧に、ありのままに観察す過程が示されている。
ここで学ぶべきことは、そのような不浄な肉体に執着するのは止めなさいということ。
人々は自分の身体に執着して、身体は一番大切、一番かわいいと思っている。そのように思っている限り、人は身体に拘束、束縛されることになる。そのように思っている限り、心は身体の奴隷になっている。
身体の奴隷とは、五感の奴隷ということ。
五感から心に欲や怒りが生まれる。
五感に快の感覚があれは欲が生まれ、
不快があれば怒りが生まれる。
五感の奴隷とは欲と怒りの奴隷ということ。
身体に執着すると、欲や怒りの煩悩の奴隷になる。
身体をありのままに見ることにより、身体への執着から離れることが出来まる。
そうすると、煩悩の支配から離れることが出来る。
それは煩悩を克服すること。
それがゆえに、この経を「勝利の経」と言うのです。
(´・(ェ)・`)つ
ふむふむ。 >>833 そうじゃ、慈悲の心が善事の元なのじゃ。
慈悲によって人は福楽も付き従えるのじゃ。
ブッダのことば(スッタニパータ)
第一 蛇の章、12、聖 者
207 親しみ慣れることから恐れが生じ、家の生活から汚れた塵が生ずる。親しみ慣れることもなく家の生活もないならば、これが実に聖者のさとりである。
208 すでに生じた(煩悩の芽を)断ち切って、新たに植えることなく、現に生ずる(煩悩)を長ぜしめることがないならば、この独り歩む人を<聖者>と名づける。かの大仙人は平安の境地を見たのである。
209 平安の境地、(煩悩の起こる)基礎を考究して、そのたねを弁(わきま)え知って、それを愛執する心を長せしめないならば、かれは、実に生を滅ぼしつくした終極を見る聖者であり、妄想をすてて(迷える者の)部類に赴かない。
210 あらゆる執著の場所を知りおわって、そのいずれをも欲することなく、貪りを離れ、欲のない聖者は、作為によって求めることがない。かれは彼岸に達しているからである。
211 あらゆるものにうち勝ち、あらゆるものを知り、いとも聡明で、あらゆる事物に汚されることなく、あらゆるものを捨て、妄執が滅びて解脱した人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
212 智慧の力あり、戒と誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執著から脱して、荒れたところなく、煩悩の汚れのない人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
213 独り歩み、怠ることのない聖者は、非難と賞賛とに心を動かさず、音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、他人に導かれることなく、他人を導く人、──諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。
214 他人がことばを極めてほめたりそしったりしても、水浴場における柱のように泰然とそびえ立ち、欲情を離れ、諸々の感官をよく静めている人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
215 梭のように真直ぐにみずから安立し、諸々の悪い行為を嫌い、正と不正とをつまびらかに考察している人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
216 自己を制して悪をなさず、若いときでも、中年でも、聖者は自己を制している。かれは他人に悩まされることなく、また何びとをも悩まさない。諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
217 他人から与えられたもので生活し、[容器の]上の部分からの食物、中ほどからの食物、残りの食物を得ても、(食を与えてくれた人を)ほめることなく、またおとしめて罵ることもないならば、諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
218 婬欲の交わりを断ち、いかなるうら若き女人にも心をとどめず、驕りまたは怠りを離れ、束縛から解脱している聖者──かれを諸々の賢者は(真の)<聖者>であると知る。
219 世間をよく理解して、最高の真理を見、激流を超え海をわたったこのような人、束縛を破って、依存することなく、煩悩の汚れのない人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
220 両者は住所も生活も隔たって、等しくない。在家者は妻を養うが、善く誓戒を守る者(出家者)は何ものをもわがものとみなす執著がない。在家者は、他のものの生命を害って、節制することがないが、聖者は自制していて、常に生命ある者を守る。
221 譬えば青頸の孔雀が、空を飛ぶときは、どうしても白鳥の速さに及ばないように、在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。
<蛇の章>第一 おわる
まとめの句
蛇とダニヤと[犀の]角と耕す人と、チュンダと破壊と賤しい人と、慈しみを修めることと雪山に住む者とアーラヴァカと、勝利とまた聖者と、──
これらの十二の経が「蛇の章」と言われる。 この最後に書いてあるのは出家が偉いとか、在家がいかんということではないのじゃ。
悟りを求めて修業するためには出家が有利であると言っているだけなのじゃ。
なにものも持たず修業に専念できる出家が悟りを求めるには有利であるのは当然なのじゃ。
いろいろと世間のしがらみがある在家では修業に不利であるといっているだけなのじゃ。 >>838
お釈迦さんの頃の出家は、
死人の着ていた布切れを洗って継ぎはぎしてまとい、野原や洞窟に草を敷いて眠り、食物はこじき行をして得ていたのでありましょうから、
修行に有利とといっても、仏教教団ができたあとの、出家とはわけが違うのでありましょうが、
悟りを求める人は、それくらい本気じゃなくちゃいかんのでありましょうね。
(´・(ェ)・`)つ ブッダのことば(スッタニパータ)
第2 小なる章、1,宝
222 ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、すべて歓喜せよ。そうしてこころを留めてわが説くところを聞け。
223 それ故に、すべての生きものよ、耳を傾けよ。昼夜に供物をささげる人類に、慈しみを垂れよ。それ故に、なおざりにせず。かれらを守れ。
224 この世または来世におけるいかなる富であろうとも、天界における勝れた宝であろうとも、われらの全き人(如来)に等しいものは存在しない。この勝れた宝は、目ざめた人(仏)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
225 心を統一したサキヤムニは、(煩悩の)消滅・離欲・不死・勝れたものに到達された、──その理法と等しいものは何も存在しない。このすぐれた宝は理法のうちに存在する。この真理によって幸せであれ。
226 最も勝れた仏が讃嘆したもうた清らかな心の安定を、「ひとびとは(さとりに向かって)間をおかぬ心の安定」と呼ぶ。この(心の安定)と等しい者はほかに存在しない。このすぐれた宝は理法(教え)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
227 善人のほめたたえる八輩の人はこれらの四双の人である。かれらは幸せ人(ブッダ)の弟子であり、施与を受けるべきである。かれらに施したならば、大いなる果報をもたらす。
この勝れた宝は<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。
228 ゴータマ(ブッダ)の教えにもとずいて、堅固な心をもってよく努力し、欲望がなく、不死に投入して、達すべき境地に達し、代償なくして得て、平安の楽しみを享けている。この勝れた宝<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。
229 城門の外に立つ柱が地の中に打ち込まれていると、四方からの風にも揺るがないように、諸々の聖なる真理を観察して見る立派な人は、これに譬えられるべきである、とわれは言う。この勝れた宝<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。
230 深い智慧ある人(ブッダ)がみごとに説きたもうた諸々の聖なる真理をはっきりと知る人々は、たとい大いになおざりに陥ることがあっても、第八の生存を受けることはない。この勝れた宝は<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。
(´・(ェ)・`)つ 225
ブッダ説いた教え(法)が最高の宝
四聖諦という教え(法)。
1、 生きることは苦である。
2、 苦の原因は渇愛である
3、 苦の原因をなくすことで、苦をなくすことが出来る。
4、 苦をなくす方法。
この教えがあるから、苦をなくすことが出来る。だから、宝。
苦の原因をなくすこと、すなわち渇愛を滅尽して、確かに苦がなくなった体験、実証した境地。それを悟りといい、解脱とも言う。また苦が滅尽した境地、涅槃とも言う。
禅定は、煩悩の滅尽、離貪、不死の境地。
226
滅尽定=涅槃の境地
すべての煩悩をなくしている、ブッダの褒め称える禅定。
すべての煩悩をなくした悟りの禅定。
これを間のない、瞬間の悟りの禅定。
無間定と言われる。
涅槃に到る禅定は最高。最高の宝
227
勝宝である仏陀の弟子たち、サンガを紹介
八輩四双の人々
@ 預流道、
A 預流果
B 一来道
C 一来果
D 不還道
E 不還果
F 阿羅漢道
G 阿羅漢果
228.
生命は、生きること、死ぬことで悩み苦しんでいる。
阿羅漢達は欲から離れ、不死の境地達した。
仏陀の教えに基づいて励めば、不死の境地に達することができることを、。阿羅漢達は実証した。
阿羅漢達はサンガのリーダー。だからサンガも優れた宝。
229
不還果、一来果、預流果も勝宝。人々に幸せをもたらす宝。
「ヤティンダキーロー」とは、インドラ神の柱と言われる城門の前に立てられている標柱。これは地中深く埋めて立てられ、四方から吹くどんな風にも揺らがない。揺らがない物の象徴です。
揺らがない人、「預流果」のこと。仏陀の教えの中心である「四聖諦」を正確に観察して、確信している。この確信があるから揺らがない。彼らは涅槃への道、最高の幸福への道であることを理解している。
四聖諦を学び、実践すれば、揺らがない確信を持てる。迷い悩む多くの人々の中にいて、確信が持てることは幸せの第一歩。
230.
預流果、三種類。
第一種の人は、その人のただ一つの人生だけで、一来果、不還果、阿羅漢になる人。
第二種の人は二回か三回生まれ変わり、そして涅槃に到る人。
第三種の人は七度神(天)と人間に生まれ変わりを繰り返し、最後に苦の終息に到る、すなわち涅槃に到る人。第三種の人は極七返生者とも言います。しかし、何れにせよ、最後は涅槃に到る。
預流果、すなわち涅槃への流れに乗った人。
深淵な智慧で語られた四聖諦は理解するのは難しい。預流果はそれを実践し、真理あることを明らかにした。
四聖諦が揺るがない、不動の確信になっている。
たとえ途中でどんなに怠けることがあっても、七回も人生を繰り返すことがあっても、最後はすべての煩悩を捨て、心を清らかにして涅槃に到る。
(´・(ェ)・`)つ >>839 そうじゃ、世間の全てを捨てて悟りを求める者が出家するのじゃ。
生きるのに最低限の物しか求めないのじゃ。
悟る以外の道を無くすのが真の出家なのじゃ。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第2 小なる章、1,宝
231 [T]自身を実在とみなす見解と[U]疑いと[V]外面的な戒律・誓いという三つのことがらが少しでも存在するならば、かれが知見を成就するとともに、それらは捨てられてしまう。
かれは四つの悪い場所から離れ、また六つの重罪をつくるものとはなり得ない。このすぐれた宝が<つどい>のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
232 またかれが身体によって、ことばによって、またはこころの中で、たとい僅かなりとも悪い行為をなすならば、かれはそれを隠すことができない。
隠すことができないということを、究極の境地を見た人は説きたもうた。このすぐれた宝が<つどい>のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
233 夏の月の初めの暑さに林の茂みでは枝が花を咲かせたように、それに譬うべき、安らぎに赴く妙なる教えを(目ざめた人、ブッダが)説きたもうた、──ためになる最高のことがらのために。
このすぐれた宝が目ざめた人(ブッダ)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
234 勝れたものを知り、勝れたものを与え、勝れたものをもたらす勝れた無上の人が、妙なる教えを説きたもうた。このすぐれた宝が<目ざめた人>(ブッダ)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
235 古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない。その心は未来に執著することなく、種子をほろぼし、それが生長する事を欲しないそれらの賢者は、灯火のように滅びる。このすぐれた宝が(つどい)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
236 われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間のつかえるこのように完成した<目ざめた人>(ブッダ)を礼拝しょう。幸せであれ。
237 われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した<教え>を礼拝しよう。幸せであれ。
238 われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した<つどい>を礼拝しよう。幸せであれ。
(´・(ェ)・`)つ >>843
231
知見を成就=四聖諦が真理であるという確信=預流果は以下三つの煩悩がなくなる。
第一、有身見。実体として変わらない私がいるという見解。自我意識。
第二、疑。四聖諦や因果法則などの仏説に対する疑い。
第三、戒禁取(カイゴンシュ)。無意味な苦行や宗教儀式・儀礼は解脱に到らない道だとわかること。
四悪趣
@地獄:楽のない苦しみのみの世界。
A畜生:人間以外の動物の世界。
B餓鬼:飢えと渇きの楽のない世界。
C阿修羅:楽のない怖れおののく生命の世界。
六重罪
@母親を殺すこと。
A父親を殺すこと。
B阿羅漢を殺すこと。
C仏陀を傷つけること
Dサンガを分裂させること。
E他の宗教を信じること。
235
阿羅漢に達した弟子たちについて
236〜
神々の王である帝釈天が述べたこと。 教えを受けられる環境に生まれるだけでもラッキーじゃ。
真理を受け入れられる心境でいたことも大いなる幸運なのじゃ。
この幸運を生かして今実践に励むのじゃ。 >>845
まったくその通りであります。
超ラッキー!
大当りくまであります。
(´・(ェ)・`)つ
常に今あるを念じ、思考、感情、感覚を観察し続けられるように、精進するであります。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第2 小なる章、2、なまぐさ
239 稷(キビ)・ディングラカ・チーナカ豆・野菜・球根・蔓の実を善き人々から正しいしかたで得て食べながら、欲を貪らず、偽りを語らない。
240 よく炊がれ、よく調理されて、他人から与えられた純粋で美味な米飯の食物を舌鼓うって食べる人は、なまぐさを食うのである。カッサパよ。
241 梵天の親族(バラモン)であるあなたは、おいしく料理された鳥肉とともに米飯を味わって食べながら、しかも<わたしはなまぐさものを許さない>と称している。
カッサパよ、わたしはあなたにこの意味を尋ねます。あなたの言う<なまぐさ>とはどんなものですか。」
242 「生物を殺すこと、打ち、切断し、縛ること、盗むこと、嘘をつくこと、詐欺、だますこと、邪曲を学習すること、他人の妻に親近すること、──これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない。
243 この世において欲望を制することなく、美味を貪り、不浄の(邪悪な)生活をまじえ、虚無論をいだき、不正の行いをなし、頑迷な人々、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。
244 粗暴・残酷であって、陰口を言い、友を裏切り、無慈悲で、極めて傲慢であり、ものおしみする性で、なんびとにも与えない人々、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。
245 怒り、驕り、強情、反抗心、偽り、嫉妬、ほら吹くこと、極端の傲慢、不良の徒と交わること、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。
246 この世で、性質が悪く、借金を踏み倒し、密告をし、法廷で偽証し、正義を装い、邪悪を犯す最も劣等な人々、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。
247 この世でほしいままに生きものを殺し、他人のものを奪って、かえってかれらを害しようと努め、たちが悪く、残酷で、粗暴で無礼な人々、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。
248 これら(生けるものども)に対して貪り求め、敵対して殺し、常に(害を)なすことにつとめる人々は、死んでからは暗黒に入り、頭を逆さまにして地獄に落ちる、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。
249 魚肉・獣肉(を食わないこと)も、断食も、裸体も、剃髪も、結髪も、塵垢にまみえることも、粗い鹿の皮(を着ること)も、火神への献供につとめることも、
あるいはまた世の中でなされるような、不死を得るための苦行も、(ヴェーダの)呪文も、供犠も、祭祀も、季節の荒行も、それらは、疑念を超えていなければ、その人を清めることができない。
250 通路(六つの機官)をまもり、機官にうち勝って行動せよ。理法のうちに安立し、まっすぐで柔和なことを楽しみ、執著を去り、あらゆる苦しみを捨てた賢者は、見聞きしたことに汚されない。」
251 以上のことがらを尊き師(ブッダ)はくりかえし説きたもうた。ヴェーダの呪文に通じた人(バラモン)はそれを知った。なまぐさを離れて、何ものにもこだわることのない、跡を追いがたい聖者(ブッダ)は、種々の詩句を以てそれを説きたもうた。
252 目ざめた人(ブッダ)のみごとに説きたもうた──なまぐさを離れ一切の苦しみを除き去る──ことばを聞いて、(そのバラモンは、)謙虚なこころで、全き人(ブッダ)を礼拝し、即座に出家することをねがった。
(´・(ェ)・`)つ >>847
訂正
239
「稷(キビ)
↑239〜 241は「」 >>847
過去世にカッサパ仏がティッサという苦行者に教えたこと。
始めの3偈(239〜241)ティッサの言葉
中間の9偈(242〜250)カッサパ仏の言葉
最後の2偈(251〜252)は経の編集者の言葉
242.
殺すこと、盗むこと、嘘つくこと、他人の妻に親しむことなど=なすべきことでないこと=悪いこと。
243
心の内面に注目
欲望に対して抑制のない人
美味しいものを求めて貪っている人
その味を貪るために、『種々の間違った生活(邪命)』と呼ばれる不浄な状態と混じりあっている人
は、生臭である。
「虚無論をいだき、」=何であれ存在しないという見解(断見論)とは、
十項目の邪見。
@布施はない、A献供はない、B祭祀はない、C善作・悪作の諸業の果報はない、D此世はない、E他世はない、F母はいない、G父はいない、H化生・有情いない、I沙門・阿羅漢はいない。
これらはブッダが一番批判した邪見。
「頑迷な人々、」とは、現世に執着し、こだわり、真理を悟り難いこと。頑固な人、教え難い人は確かにいて、そのような人は成長は困難。
これらの人々が生臭である。
249
戒禁取(カイゴンシュ)と疑(ギ)という煩悩があれば、生臭は浄化されない。
苦行や無意味な儀礼・儀式が戒禁取。
疑は、生臭の原因を理解してないこと、拡大して理解すれば因果法則を理解せず、それに対す疑いを持っていること。
250
通路(六つの機官)とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つ感覚器官。
そこから外部からの刺激が心に入ってくる。
快い刺激が入ると欲が生まれ。不快な刺激が入ると、嫌だという怒りが生まれてくる。
快でも不快でもない刺激が入ると無関心あるいは無知が生まれる。
欲や怒りや無知は心の汚れ。
心が汚れないようにすること、生臭にならないようにするためには、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つ感覚器官に入ってくる外部刺激に気づき、心が欲や怒りや無知にならないように守ることが大切。
心に入る外部刺激に気づかないと自動的に心は欲怒り無知に汚れますが、この感覚器官に入ってくる外部刺激に気づくことができると、感覚の流れをストップできる。
そうすれば心は汚れず、浄化されていく。
この感覚の流れから、自分がいるという想い(妄想)も生まれる。
この想い(妄想)が自我です。心の流れから心を守ることによって自我がなくなってくる。
私がいるという誤解=有身見。
戒禁取、疑、有身見という三つの煩悩がなくなった方を、預流果という。
「理法のうちに安立し」は預流果。この法とは四聖諦。
「まっすぐで柔和なことを楽しみ」は一来果。一来果は心を硬直した状態にする貪り・憎しみが極めて薄い。
「執著を去り」は不還果。不還果は貪り・憎しみの執着を超えている。
「あらゆる苦しみを捨てた」は阿羅漢。すべての苦しみを捨てた方はすべての煩悩を捨て、最高の清浄を得ている。
251
経典結集の編集者によって述べられたもの。
生臭とは肉食をすることではなく、生きものを殺すような慈悲の心ないことを言うのである。また、生臭とは貪り、憎しみ、無知などの煩悩があることであると「ヴェーダの呪文に通じた人(バラモン)」に、彼が解るまで繰り返し説明した
「ヴェーダの呪文に通じた人(バラモン)」とは、始めにブッダに「生臭とはなにか?」と質問した苦行者ティッサです。
252
謙虚なこころで、無知の自覚がなければ、無知は克服できない。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、肉を食べることではなく、悪しき行いこそ避けるべきなのじゃ。
行ないによってのみ人は悪しき者となり、善き者ともなるのじゃ。
そうでありますね。行いがすべてでありますね。
全ての生類の幸福を願う行いをすればよいのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ ブッダのことば(スッタニパータ)
第2 小なる章、3,恥
253 恥じることを忘れ、また嫌って、「われは(汝の)友である」と言いながら、しかも為し得る仕事を引き受けない人、──かれを「この人は(わが)友に非ず」と知るべきである。
254 諸々の友人に対して、実行がともなわないのに、ことばだけ気に入ることを言う人は、「言うだけで実行しない人」であると、賢者たちは知りぬいている。
255 つねに注意して友誼の破れることを懸念して(甘いことを言い)、ただ友の欠点のみ見る人は、友ではない。子が母の胸にたよるように、その人によっても、他人のためにその間を裂かれることのない人こそ、友である。
256 成果を望む人は、人間に相応した重荷を背負い、喜びを生じる境地と賞讃を博する楽しみを修める。
257 遠ざかり離れる味と平安となる味とを味わって、法の喜びの味を味わっている人は、苦悩わ離れ、悪を離れている。
第2 小なる章、4、こよなき幸せ
わたたしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者>の園におられた。そのとき一人の容色麗しい神が、夜半を過ぎたころジェータ林を隈なく照らして、師のもとに近づいた。
そうして師に礼して傍らに立った。そうしてその神は、師に詩を以て呼びかけた。
258 「多くの神々と人間とは、幸福を望み、幸せを思っています。最上の幸福を説いて下さい。」
259 諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、──これがこよなき幸せである。
260 適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願を起こしていること、──これがこよなき幸せである。
261 深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること、──これがこよなき幸せである。
262 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、──これがこよなき幸せである。
263 施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、──これがこよなき幸せである。
264 悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、──これがこよなき幸せである。
265 尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと、──これがこよなき幸せである。
266 耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の(道の人)に会うこと、適当な時に理法について聞くこと──これがこよなき幸せである。
267 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、──これがこよなき幸せである。
268 世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、──これがこよなき幸せである。
269 これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する。──これがこよなき幸せである。
(´・(ェ)・`)つ >>852
256
今回の偈の主語は、成果を望む人。
(本来修行の成果を期待しながら、修行することは間違いであるが、初心の人にはそれは理解できないことなので、ブッダはそのように期待している人に分かるように教えている。)
先ず、「喜びを作る基を修習する」ことを教えている。
基とは、精進。精進こそが法に伴う喜悦をもたらす。
そのために七覚支でも、精進覚支の次に喜覚支が来る。
次は「賞讃をもたらす安楽を修習する」ことを教えてる。
賞讃をもたらす安楽とは、始めは天界の神々の楽や人間の楽であるが、最後は涅槃の楽を成就することを指導。
これも精進。
これを「人間としての重荷を運びながら」重荷を背負って生活しながら正しい精進努力をしなさいと教えている。
257
「遠ざかり離れる味」遠離とは、外からみた場合の意味は、人々から離れて一人でいるということ。
本当の意味は内面的なもので、あれこれと心の外のことに関わりを持たないこと。
そのため、あれこれの束縛がない。
回りの事柄に依存してなく、自由であるということ。
本質的には煩悩から離れているということ。
一人でいなくとも、人々の中に居ても遠離ということはあり得る。
「遠離の味」とは束縛のない、自由な、煩悩から離れることから生じる喜び。
「平安となる味」とは、煩悩をなくすことで生じた涅槃の境地。涅槃の味。甘露などとも呼ばれる聖なる法から離れない最高の喜びだと言われる。
(´・(ェ)・`)つ 友達といいながら実はためにならない敵のような友達はよくいるものじゃ。
そのような者からは離れたほうがよいのじゃ。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第2 小なる章、5、スーチローマ
わたしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)はガヤー(村)のタンキク石床におけるスーチローマという神霊(夜叉)の住居におられた。
そのときカラという神霊とスーチローマという神霊に言った、「かれは<道の人>である」と。(スーチローマという神霊は言った)、
かれは真の<道の人>であるか、或いは似而非の<道の人>であるかを、わたしが知らないうちは、かれは真の<道の人>ではなくて、似而非の<道の人>である。」
そこでスーチローマという神霊は、師のもとに至り、そうして身を師に近づけた。ところが師は身を退けた。そこでスーチローマという神霊は師にいった、「<道の人>よ。汝はわたしを恐れるのか。」
(師いわく)、「友よ。わたしは汝を恐れているのではない。しかし汝に触れることは悪いのだ。」
(スーチローマという神霊はいった)、「<道の人>よ。わたしは汝に質問しよう。もしも汝がわたしに解答しないならば、汝の心を乱し、汝の心臓を裂き、汝の両足をとらえてガンジス河の向こう岸に投げつけよう。」
(師は答えた)、「友よ。神々・悪魔・梵天を含む世界において、道の人・バラモン・神々・人間を含む生けるものどものうちで、わが心を乱し、わが心臓を裂き、わが両足をとらえてガンジス河の向こう岸に投げつけ得るような人を、実にわたしは見ない。
友よる汝が聞きたいと欲することを、何でも聞け。」
そこでスーチローマという神霊は、次の詩を以て、師に呼びかけた。──
270 貪欲と嫌悪とはいかなる原因から生じるのであるか。好きと嫌いと身の毛もよだつこと(戦慄)とはどこから生ずるのであるか。諸々の妄想はどこから起こって、心を投げうつのであるか?──あたかもこどもらが鳥ほ投げて棄てるように。
271 貪欲と嫌悪とは自身から生ずる。好きと嫌いと身の毛もよだつこととは、自身から生ずる。諸々の妄想は、自身から生じて心を投げうつ、──あたかもこどもらが鳥ほ投げて棄てるように。
272 それらは愛執から起こり、自身から現われる。あたかもバニヤンの新しい若木が枝から生ずるようなものである。それらが、ひろく諸々の執著していることは、譬えば、つる草が林の中にはびこっているようなものである。
273 神霊よ、聞け。それらの煩悩がいかなる原因にもとずいて起こるかを知る人々は、煩悩を除きさる。かれらは、渡りがたく、未だかって渡った人のいないこの激流を渡り、もはや再び生存をうけることがない。
(´・(ェ)・`)つ 271
仏教では、欲望が苦しみの原因であると言っている。苦しみをなくすためには、原因をなくさなければならない。
だから、欲望はどこから生じるかを考えるのは重要。
同様に、怒りはどこから生じるかを考えることは重要。
怒りは毒。毒は生命にとって危険なもの。その危険を取り除くためには、怒りが何処から生じるかを知らなければならない。
嫌いと好きも感覚から生じる。感覚が不快なとき嫌いが現れ、快の時好きが現れる。
欲と怒りも感覚から生じる。不快な時、心に怒りが現れ、快の時、欲が現れる。
感覚はどこから現れるのか?
恐怖はどこから現れるのか?
無知から。生命は弱く、危険なものに取り囲まれている。
生命は知っている者に対しては安心できるが、知らないものに対しては安心できない。
安心できないと怖い。つまり恐怖は無知から生じる。
無知はどこから現れるのか?
快でも不快でもないという、無関心という感覚から。
欲や怒りも無知の現れだから、欲や怒りからも恐怖が生じる。
例えば、不必要なものでも、大切に思っているものがなくなるのは怖いのです。
「妄想はどこから生じて、心を混乱させるのか?」
思考、妄想はは感覚から生じる。感覚から生じた妄想が、心を投げ捨てるが直訳。
それは心を混乱させること。
心が混乱すれば生命は幸せではない。
これらすべては感覚から生じる。
感覚はどこから現れるのか?
「自身から生じる」言葉で表すと「これ」としか言いようのないものら。(本来は「自身」というものはないので、自身とは言えない)
272
欲や怒りや好き嫌いや恐怖など(煩悩)は、ここから生じる。
それだけでは理解できないので、「ここ」を説明。
「ここ」とは愛執=渇愛。「ここ」とは自分。自分はないのだが、説明するためにはやむを得ない。
諸々の煩悩が自分の中の愛執(渇愛)から生じる。
それはつる草のようにいろいろな欲望にからみついている。
つる草は欲や怒りや好き嫌いや恐怖など(煩悩)。それは自分の愛執(渇愛)が伸びて諸々の欲望にからみついたもの。
273
欲と怒りはどこから生じるのか?
好きと嫌いと恐怖はどこから生じるのか?
妄想はどこから生じて、心を混乱させるのか?
欲や怒り、好き嫌い恐怖、いろいろな妄想で心が混乱していた。その問題を解決するためには原因を知る必要があると思っていた。
凡夫にとっては、問題の解決のための原因は自分の外に求める。問題が自分の中にあるという発想がない。問題の原因が自分自身にあること、自分の中の愛執(渇愛)にあることを教えてもらった。
原因が分かれば、その原因をとり除くことにより、問題が解決することを教えてもらった。
具体的には愛執(渇愛)を取り除けばよい。
そうすれば、激流のような煩悩を乗り越え、輪廻を繰り返す原因である煩悩のない生命は輪廻を終了する。
(´・(ェ)・`)つ 自分があるという無明から欲も執着も起こるのじゃ。
自分があるということが妄想と気付けばそれらもなくなるのじゃ。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第2 小なる章、6、理法にかなった行い
274 理法にかなった行い、清らかな行い、これが最上の宝であると言う。たとい在家から出て家なきに入り、出家の身となったとしても、
275 もしもかれが荒々しいことばを語り、他人を苦しめ悩ますことを好み、獣(のごとく)であるならば、その人の生活はさらに悪いものとなり、自分の塵汚れを増す。
276 争論を楽しみ、迷妄の性質に蔽われている修行僧は、目ざめた人(ブッダ)の説きたもうた理法を、説明されても理解しない。
277 かれは無明に誘われて、修養をつんだ他の人を苦しめ悩まし、煩悩が地獄に赴く道であることを知らない。
278 実にこのような修行僧は、苦難の場所に陥り、母胎から他の母胎へと生まれかわり、暗黒から暗黒へと赴く。死後には苦しみを受ける。
279 あたかも糞坑が年をへると糞に充満したようなものであろう。不潔な人は、実に清めることがむずかしい。
280 修行僧らよ。このような出家修行僧を、実は、<家にたよっている人、邪まな欲望あり、邪まな思いあり、邪まな行いをなし、悪いところにいる人>であると知れ。
281 汝らはすべて一致協力して、かれを斥けよ。籾殻を吹き払え。屑を取り除け。
282 次いで、実は<道の人>であると思いなしている籾殻どもを除き去れ。──悪を欲し、悪い行いをなし、悪いところにいるかれらを吹き払って。
283 みずからは清き者となり、互いに思いやりをもって、清らかな人々と共に住むようにせよ。そこで、聡明な者どもが、ともに仲よくして、苦悩を終滅せしめるであろう
(´・(ェ)・`)つ
くまは、今まで読んだ経の中で、これが一番好みであります。 そうじゃ、愚かな者と道連れになってはいかんのじゃ。
賢い者を道連れにして励むのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 >>859
愚かなくまであることを自覚しつつ、精進するであります。
(´・(ェ)・`)つ ブッダのことば(スッタニパータ)
第2 小なる章、7、バラモンにふさわしいこと
わたしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者>の園におられた。そのときコーサラ国に住む、多くの、大富豪であるバラモンたち
──かれらは老いて、年長け、老いぼれて、年を重ね、老齢に達していたが──は師のおられるところに近づいた。そうして師と会釈した。喜ばしい思い出に関する挨拶のことばを交わしたのち、かれらは傍らに坐した。
そこで大富豪であるバラモンたちは師に言った、「ゴータマ(ブッダ)さま。そもそも今のバラモンは昔のバラモンたちの守っていたバラモンの定めにしたがっているでしょうか?」
[師は答えた]、「バラモンたちよ。今のバラモンたちは昔のバラモンたちの守ったバラモンの法に従ってはいない。」「では、ゴータマさそは、昔のバラモンたちの守ったバラモンの法をわれらに話してください。──もしもゴータマさまにお差支えがなければ。」
「では、バラモンたちよ、お聞きなさい、よく注意なさい。わたしは話してあげましょう。」「どうぞ」と、大富豪であるバラモンたちは、師に答えた。
師は次のことを告げた。──
284 昔の仙人たちは自己をつつしむ苦行者であった。かれは五種の欲望の対象をすてて、自己の(真実の)理想を行った。
285 バラモンたちには家畜もなかったし、黄金もなかったし、穀物もなかった。しかしかれらはヴェーダ読誦を財産ともなし、穀物ともなし、ブラフマンを倉として守っていた。
286 かれらのために調理せられ家の戸口に置かれた食物、すなわち信仰心をこめて調理せられた食物、を求める(バラモンたち)に与えようと、かれら(信徒)は考えていた。
287 豊かに栄えていた地方や国々の人々は、種々に美しく染めた衣服や臥床や住居をささげて、バラモンたちに敬礼した。
288 バラモンたちは法によって守られていたので、かれらを殺してはならず、うち勝ってもならなかった。かれらがかれらが家々の戸口に立つのを、なんびとも決して妨げなかった。
289 かれら昔のバラモンたちは四十八年間、童貞の清浄行を行った。知と行とを求めていたのであった。
290 バラモンたちは他の(カーストの)女を娶らなかった。かれらはまたその妻を買うこともなかった。ただ相愛して同棲し、相和合して楽しんでいたのであった。
291 (同棲して楽しんだのではあるけども)、バラモンたちは、(妻に近づき得る)時を除いて月経のために遠ざかったときは、その間は決して婬欲の交わりを行わなかった。
292 かれらは、不婬の行と戒律と正直と温順と苦行と柔和と不傷害と耐え忍びとをほめたたえた。
293 かれらのうちで勇猛堅固であった最上のバラモンは、実に婬欲の交わりを夢に見ることさえもなかった。
294 この世における聡明な性の或る人々は、かれの行いにならいつつ、不婬と戒律と耐え忍びとをほめたたえた。
295 米と玩具と衣服とバターと油とを乞い、法に従って集め、それによって祭祀をととのえ行った。かれらは、祭祀を行うときにも、決して牛を殺さなかった。
296 母や父や兄弟や、また他の親族のように、牛はわれらの最上の友である。牛からは薬が生ずる。
297 それから(牛から生じた薬)は食料となり、気力を与え、皮膚に光沢を与え、また楽しませてくれる。(牛に)このような利益のあることを知って、かれらは決して牛を殺さなかった。
298 バラモンたちは、手足が優美で、身体が大きく、容色端麗で、名声あり、自分のつとめに従って、為すべきことを為し、為してはならぬことは為さないということに熱心に努力した。かれらが世の中にいた間は、この世の人々は栄えて幸福であった。
↑
ここまで、昔の立派なバラモン。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、愛があれば結婚もOKなのじゃ。
そして実践に励むのじゃ。 鬼和尚さま 世の人はなぜに人の噂話が好きなんでしょうか? もう人が信用できない うんざり。 >>863
いや、その鬼和尚自体が悟りだの僧侶だの騙る紛い物なんだがwww >>863 他人を見て自分が失敗しないようにしようと思うからなのじゃ。
しかし他人を見ても自分は自分で失敗したりするのじゃ。
自分のしたこととしなかったことだけをみて進むのじゃ。
そうすれば失敗はしないのじゃ。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第2 小なる章、7、バラモンにふさわしいこと
299 しかるにかれらに誤つた見解が起こった。次第に王者の栄華と化粧盛装した女人を見るにしたがって、
300 また駿馬に牽かせた立派な車、美しく彩られた縫物、種々に区画され部分ごとにほど良くつくられた邸宅や住居を見て、
301 バラモンたちは、牛の群が栄え、美女の群を擁するすばらしい人間の享楽を得たいと熱望した。
302 そこでかれはヴェーダの呪文を編纂して、かの甘蔗王のもとに赴いていった、「あなたは財宝も穀物も豊かである。祭祀を行いなさい。あなたの富は多い。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い。」
303 そこで戦車兵の主である王は、バラモンたちに勧められて、──馬の祀り、人間の祀り、擲棒の祀り、ヴァージャペッヤの祀り、誰にでも供養する祀り、──これらの祀りを行なって、バラモンたちに財を与えた。
304 牛、臥具、衣服、盛装化粧した女人、またよく造られた駿馬に牽かせる車、美しく彩られた縫物──、
305 部分ごとによく区画されている美事な邸宅に種々の穀物をみたして、(これらの)財をバラモンたちに与えた。
306 そこでかれらは財を得たのであるが、さらにそれを蓄積することを願った。かれらは欲に溺れて、さらに欲念が増長した。そこでかれらはヴェーダの呪文を編纂して、再び甘蔗王に近づいた。
307 「水と地と黄金と財と穀物とが生命あるひとびとの用具であるように、牛は人々の用具である。祭祀を行いなさい。あなたの富は多い。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い。」
308 そこで戦車兵の主である王は、バラモンたちに勧められて、幾百千の多くの牛を犠牲のために屠らせた。
309 牛は、脚を以ても、何によっても決して(他のものを)害うことがなくて、羊に等しく柔和で、瓶をみたすほど乳を搾らせてくれる。しかるに王は、角をとらえて、刃を以てこれを屠らせた。
310 刃が牛におちるや、そのとき神々と祖霊と帝釈天と阿修羅と羅刹たちは、「不法なことだ!」と叫んだ。
311 昔は、欲と飢えと老いという三つの病いがあっただけであった。ところが諸々の家畜を祀りのために殺したので、九十八種の病いが起った。
312 このように(殺害の)武器を不法に下すということは、昔から行われて、今に伝わったという。何ら害のない(牛が)殺される。祭祀わ行う人は理法に背いているのである。
313 このように昔からのこのつまらぬ風俗は、識者の非難するものである。人はこのようなことを見るごとに、祭祀実行者を非難する。
314 このように法が廃れたときに、隷民(シュードラ)と庶民(ヴァイシヤ)との両者が分裂し、また諸々の王族がひろく分裂して仲たがいし、妻はその夫を蔑むようになった。
315 王族も、梵天の親族(バラモン)も、並びに種姓(の制度)によって守られている他の人々も、生れる誇る論議を捨てて、欲望に支配される至った、と。
このように説かれたときに、大富豪であるバラモンたちは、師にいった、「すばらしいことです! ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです!
ゴータマさま。あたかも倒れた者を起こすように、覆われているものを開くように、方向に迷った者を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで理法を明らかにされた。
ここで、われらはゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまは、われわれを在俗信者として、受け入れてください。今日から命の続く限り帰依いたします。」
↑315までが、偽者のバラモンの話しのようであります。
気付きさえすれば、道は開けるのでありましょう。気付けることは、ありがたいことであります。
(´・(ェ)・`)つ ブッダのことば(スッタニパータ)
第2 小なる章、8、船
316 ひとがもしも他人から習って理解を知るならば、あたかも神々がインドラ神(帝釈天)を敬うがごとくになすべきである。学識の深いその(師)は、尊敬されれば、その人に対して心からよろこんで、真理を顕示する。
317 思慮ある人は、そのことを理解し傾聴して、理法にしたがった教えを順次に実践し、このような人に親しんで怠ることがないならば、識者・弁え知る者・聡明なる者となる。
318 未だことがらを理解せず、嫉妬心のある、くだらぬ人・愚者に親しみつかえるならば、ここで真理(理法)を弁え知ることなく、疑いを超えないで、死に至る。
319 あたかも人が水かさが多く流れの疾い河に入ったならば、かれは流れにはこばれ、流れに沿って過ぎ去るようなものである。かれはどうして他人を渡すことができるであろうか。
320 それと同じく、真理(理法)を弁え知らず、学識の深い人にことがらの意義を聞かないならば、みずから知らず、疑いを超えていない人が、どうして他人の心を動かすことができるであろうか。
321 堅牢な船に乗って、橈と舵とを具えているならば、操縦法を知った巧みな経験者は、他の多くの人々をそれに乗せて渡すように、
322 それと同じく、ヴェーダ(真理の知識)に通じ、自己を修養し、多く学び、動揺しない(師)は、実に(みずから)知っているで、傾聴し侍坐しようという気持をお越した他の人々の心を動かす。
323 それ故に、実に聡明にして学識の深い立派な人に親しめ。ものごとを知って実践しつつ、真理を理解した人は、安楽を得るであろう。
(´・(ェ)・`)つ
322
(心が)動揺しないとは、八つの世間法(@ 利、A 不利、B 名誉、C 不名誉、D 非難、E 称賛、F 楽、G 苦。)に対して、心が舞い上がったり、落ち込んだりしないこと。 そうじゃ、自ら学び、実践しようとする者を仏陀は助けるじゃろう。
真摯に学び実践あるのみなのじゃ。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第2 小なる章、9、いかなる戒めを
324 いかなる戒めをまもり、いかなる行いをなし、いかなる行為を増大せしめるならば、人は正しく安立し、また最上の目的を達し得るのであろうか。
325 長上を敬い、嫉むな。諸々の師に見えるのに適当な時を知り、法に関する話しを聞くのに正しい時機を知れ。みごとに説かれたことを謹んで聞け。
326 強情をなくし謙虚な態度で、時に応じて師のもとに行け。ものごとと真理と自制と清らかな行いとを心に憶い、かつ実行せよ。
327 真理を楽しみ、真理を喜び、真理に安住し、真理の定めを知り、真理をそこなうことばを口にするな。みごとに説かれた真実にもとずいて暮らせ。
328 笑い、だじゃれ、悲泣、嫌悪、いつわり、詐欺、貪欲、高慢、激昂、粗暴なことば、汚濁、耽溺をすてて、驕りを除去し、しっかりとした態度で行え。
329 みごとに説かれたことばは、聞いてそれを理解すれば、精となる。聞きかつ知ったことは、精神の安定を修すると、精になる。人が性急であってふらついているならば、かれには知慧も学識も増大することがない。
330 聖者の説きたもうた真理を喜んでいる人々は、ことばでも、こころでも、行いでも、最上である。かれらは平安と柔和と瞑想とのうちに安立し、学識と智慧との真髄に達したのである。
ブッダのことば(スッタニパータ)
第2 小なる章、10、精励
331 起てよ、座れ。眠って汝らに何の益があろう。矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもは、どうして眠られようか。
333 神々も人間も、ものを欲しがり、執著にとらわれている。この執著を超えよ。わずかの時を空しく過ごすことなかれ。時を空しく過ごしたひとは地獄に堕ちて悲しむからである。
334 怠りは塵垢である。怠りによって塵垢がつもる。つとめはげむことによって、また明知によって、自分にささった矢を抜け。
ブッダのことば(スッタニパータ)
第2 小なる章、11、ラーフラ
335 [師(ブッダ)がいった]、ラーフラよ。しばしばともに住むのに慣れて、お前は賢者を軽蔑するのではないか? 諸人のために炬火をかざす人を、汝は尊敬しているか?」
336 (ラーフラは答えた)、「しばしばともに住むのに慣れて賢者を軽蔑するようなことを、わたくしは致しません。諸人のために炬火をかざす人を、わたくしは常に尊敬しています。」
以上、序の詩
337 「愛すべく喜ばしい五欲の対象をすてて、信仰心によって家から出て、苦しみを終滅せしめる者であれ。
338 善い友だちと交われ。人里はなれ奥まった騒音の少ないところに坐臥せよ。飲食に量を知る者であれ。
339 衣服と、施された食物と、(病人のための)物品と坐臥の所、──これらのものに対して欲を起こしてはならない。再び世にもどってくるな。
340 戒律の規定を奉じて、五つの五官を制し、そなたの身体を観ぜよ(身体について心を専注せよ)。切に世を厭い嫌う者となれ。
341 愛欲があれば(汚いものでも)清らかに見える。その(美麗な)外形を避けよ。(身は)不浄であると心に観じて、心をしずかに統一せよ。
342 無相のおもいを修せよ。心にひそむ傲慢をすてよ。そうすれば汝は傲慢をほろぼして、心静まったものとして日を送るであろう。」
実に尊き師(ブッダ)はこのようにラーフラさんにこれらの詩を以て繰返し教えられた。
(´・(ェ)・`)つ >>871
324
「最高の目的」(阿羅漢の境地)に達するためには、何が戒めであると考えればよいか。
325
1)「年長者を敬い、嫉妬しないように
326
2)強情な心を捨てて、素直な気持ちで謙虚でいること
327
3)「真理を楽しみ、真理を喜び」
真理はいつでもどこでも貫徹されている。真理は今にある。
「真理」という言葉の代わりに「今」という言葉に変えてみる。
今を楽しみ、今を喜び、
今に安住し、今の定めを知り、
今をそこなうことばを口にするな。
みごとに説かれた今にもとづいて暮らせ。
今がどんなに逆境であろうとも、その今に不平不満を持たずに、その今をそのまま受け止めれば、今が教えてくれる。
真理は今にあるから、この今を受け入れ楽しんで、今為すべきことを今為すべきだと考えればわかりやすい。
328
「だじゃれ」=「つぶやき」
4)小さい煩悩でも、小さくない煩悩も、自己の意志を強くして、注意深くなくしていく。
329
精となる。=真髄とします。
5)説かれた言葉をよく理解して、それを実践して禅定に入るべきであるということ。
八正道でも正定が最後に置かれ実践の目標という意味がある。七覚支の六番目は定覚支であり、仏道修行における禅定は最終目標に対する中間目標という意味がある
330
「何が戒か経」のまとめ。戒めに関す五つのる答え。それらの戒めを実行すれば、このようになるというのが今回の偈。
ブッダの説いた真理を実行すれば、その人の言葉も、心も、行いも最高のものになる。これらは十善行と言われる。
三種の身の善行@生きものを殺さないこと、A盗まないこと、B邪な行為を行わないこと。
四種の言葉の善行@嘘をつかないこと、A仲間を仲たがいさせることを言わないこと、B乱暴な言葉を使わないこと、C無駄話をしないこと。
三種の意(心)の善行@欲のない心、A怒りのない心、B間違った見解を持たないこと。
十善行を実践すると、心は落ち着いて、柔和になり、瞑想をすれば簡単に禅定に入れる。その結果、仏道に関する学識の真髄を究め、智慧が現れ、すべて煩悩を捨てることが出来るようになる。このような修行者は涅槃の境地に達する。
(´・(ェ)・`)つ
つづく >>871
10、「精励」=「奮起経」ブッタの元気が出る説法であります。
。この説法をされた500人の出家修行者たちは、この説法のみを思念し、瞑想に励み、阿羅漢の境地に達したそうであります。
欲が苦しみの原因であり、それに執着すれば、苦しみは消えることはない。
だから、「執着を超えよ!」
「一瞬もむなしく過ごすな」奮起させよ!
「放逸はごみだ!」
眼耳鼻舌身に外界からの刺激があると、心に欲、怒り、無知などの煩悩が現れる。この煩悩がごみ。
不放逸であれば、このごみがたまるのを防げる。
気づきと明智(智慧)によって、煩悩をなくすことができる。それを「自分にささった矢を抜け!」と述べている。
五本の矢がある。眼耳鼻舌身に現れる五欲と考えてもよい、五蓋(貪欲、瞋恚、沈睡眠、掉挙悪作、疑)とも言われている。
これらの矢(煩悩)を取り除くと、禅定に入り、解脱の道が切り開かれます。
(´・(ェ)・`)つ
つづく >>871
11.ラーフラ=お釈迦さんの一人息子
337
息子ラーフラに述べた最初の訓戒
五つの欲の対象を捨てなさい。
五つの欲の対象とは色・声・香・味・触。
色は色や形、声は音、香とは香りや匂い、味とは甘さ、辛さなどです。触とは、身体が何かに触れた時感じるもの。
これらのものに生きものは喜びや楽しみを感じる。
これらのものを捨てなさいと述べている。
生きることは苦しみであると発見。
その原因は渇愛(欲望)にあると覚られた。
この五つの欲望の対象が欲望が現れる縁(刺激)になるから。
338
1)「善友と親しめ」ということ。
2)人里離れた静かな場所で生活し修行しなさい。人里離れた静かな場所で生活し修行する意味は、修行環境はよいということ以上に重要なことは周りの人々に依存しないといことです。
仏道の修行は、他に依存しない、独立した自由な人格を作る必要がある。
3)「飲食の量を知る者であれ」必要以上に食べたいのは欲。欲をなくすことは、苦しみの原因を断つこと。
食事を自分の意志でコントロールすることは大きな意味がある。
339
最低限の必需品以上ものをの望むことは、それらのものに渇愛の思いを起こす。
渇愛が生じることは、生きたいという思い。この思いに引っ張られてこの世に再生するという輪廻を繰り返すことになる。
これらの生活必需品に対して渇愛の心が起こらないようにすれば、再びこの世に戻ってくるという輪廻から抜け出すことが出来る。これが解脱。涅槃に到るということ。
食に関しては、一座において食事をする(一度立ち上がったら、再び座りなおして食べない)。一鉢のみの食事。食後に食事をしないなどの決まりがある。
臥座所に関しては、森林、露地、樹下に住む。随処に住む(同じ所に住まない)。塚間に住む。常坐不臥者(横になって寝ない)などの決まりがあった。
これらは、いわゆる身体を苦しめる苦行ではなく、渇愛を克服して、解脱でするため心から欲をなくす修行。
340
四つの注意事項が述べられている。戒律を守ること、五感を守ること、身体に注意を向けること、世間を厭い嫌うこと。
戒律を守ることについて。
法(真理、道理)を体得してない凡夫でも、戒律に従って生活し、生きれば、法から大きく離れずに生きることが出来る。その意味では戒律はありがたいもの。
五感を守るこのについて。
五感とは見る、聞く、臭う、味う、触れる、五つの感覚の総称。
感覚器官の反応には、苦(不快)、楽(快)、不苦不楽(不快でも快でもない)の三つがある。
この感覚は生きている限り感じる。止めることはできない。
生命はこの反応が起きたとたんにその反応に伴って感情が発生する。
これは感覚に対する執着から現れる。
感覚を守るとはこの執着を起こさないようにして、感情が現れなくすること。
慈悲の感情もあるが、感情はほとんど貪瞋痴等の煩悩。これが苦しみの原因であり、輪廻の原因になる。
だから五感を守る必要があるのです。
身体に注意を向けることについて。
「身(身体)・受(感覚)・心・法(真理)」を観察する瞑想法の基礎になる経典は大念処経あるいは四念処経。その経典には身についての観察(身随観)について、次の事項が書かれている。
出息・入息の観察、行為の観察、身体の部分(髪・毛・爪・歯・皮・肉・筋・骨・骨髄・腎臓・心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺・胃・腸・胃物・大便・胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪・涙・脂肪油・唾・鼻液・関節液・小便など)の観察、
要素(地水火風)の観察、死体の変化の観察などです。
世間を厭い嫌うことについて。
感覚を守る、身体に注意を向けて観察すると真実が分かってくる。そうすると世間は喜び楽しめるものではなく、むしろ汚れた苦しみの世界であることが理解できる。そうすると、世間に執着せずに、世間を厭い嫌い、涅槃を目指す心が養成される。
(´・(ェ)・`)つ 鬼和尚さん、女の子に挨拶しただけでキモいって言われるんですが、どうしたら良いかな?
出会い系と風俗だけでしか女の子を抱いた事ないし、女の子苦手です。
イジメられて来たので、女性不信、人間不信あり、自信なし。
目を合わせたりが違和感あり。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第2 小なる章、12、ヴァンギーサ
わたしがこのように聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はア−ラヴィーにおけるアッガーラウァ霊樹のもとにおられた。そのとき、ヴァンギーサさんの師でニグローダ・カッパという名の長老が、アッガーラウァ霊樹のもとで亡くなってから、間がなかった。
そのときヴァンギーサさんは、ひとり閉じこもって沈思していたが、このような思念が心に起こった、──「わが師は実際に亡くなったんだろうか、あるいはまだ亡くなっていないのだろうか?」と。
そこでヴァンギーサさんは、夕方に沈思から起き出て、師のいますところに赴いた。そこで師に挨拶して、傍らに坐った。
傍らに坐ったヴァンギーサさんは師にいった、「尊いお方さま。わたくしがひとり閉じこもって沈思していたとき、このような思念が心に起こりました。
──<わが師は実際に亡くなったのだろうか、或いはまだ亡くなっていないのだろうか?>」と。
そこでヴァンギーサさんは座から立ち上がって、衣を左の肩にかけて右肩をあらわし、師に向かって合掌し、師にこの詩を以て呼びかけた。
343 「現世において、もろもろの疑惑を断たれた無上の智慧ある師におたずね致します。──世に知られ、名声あり、心が安らぎに帰した[ひとりの]修行者が、アッガーラウァ[霊樹のもと]で亡くなりました。
344 先生! あなたは、そのバラモンに『ニグローダ・カッパ』という名をつけられました。ひたすらに真理を見られた方よ。かれは、あなたを礼拝し、解脱をもとめ、つとめ励んでおりました。
345 サッカ(釈迦族の人、釈尊)よ、あまねく見る人よ。われらはみな、(あなたの)かの弟子のことを知ろうと望んでいます。われわれの耳は、聞こうと待ちかまえています。あなたはわれらの師です。あなたは、この上ない方です。
346 われらの疑惑を断ってください。これをわたくしに説いてください。智慧ゆたかな方よ。かれらが亡くなったのかどうかを知って、われらの間で説いてください。──千の眼ある帝釈天が神々の間で説くように。あまねく見る方よ。
347 この世で、およそ束縛なるものは、迷妄の道であり、無智を棚とし、疑いによって存するが、全き人(如来)にあうと、それらはすべてなくなくなってしまう。この(全き人)は人間のための最上の眼であります。
348 風が密雲を払いのけるように、[この人](ブッダ)が煩悩の汚れを払うのでなければ、全世界は覆われて、暗黒となるでありましょう。光輝ある人々も輝かないでありましょう。
(´・(ェ)・`)つ ブッダのことば(スッタニパータ)
第2 小なる章、12、ヴァンギーサ
349 聡明な人々は世を照らします。聡明な方よ。わたしは、あなたをそのような人だと思います。
われらはあなたを<如実に見る人>であると知って、みもとに近づきました。集会の中で、われらのために(ニグローダ)カッパのことを明かにしてください。
350 すみやかに、いとも妙なる声を発してください。白鳥がその頸をもたげて徐ろに鳴くように、よくととのった円やかな声を徐に発してください。われらはすべて、すなおに聞きましょう。
351 生死を残りなく捨て、悪を払い除いた(ブッダ)に請うて、真理を説いていただきましょう。諸々の凡夫は、[知ろうと欲し言おうと]欲することをなしとげることができないが、諸々の全き人(如来)たちは、慎重に思慮してなされるからです。
352 この完全な確定的な説明が、正しい智者であるあなたによって、よく持たれているのです。わたくしは、さらにこの合掌をささげます。(みずからは)知りながら(語らないで、われらを)迷わしたもうな。智慧すぐれた方よ。
353 あれこれの尊い理法を知っておられるのですから、(みずからは)知りながら[語らないで、われらを]迷わしたりなさいますな。励むことにすぐれた方よ。
夏に暑熱に苦しめられた人が水をもとめるように、わたしは(あなたの)ことばを望むのです。聞く者に[ことばの雨を]降らしてください。
354 カッパ師が清らかな行いを行って達成しようとした目的は、かれにとって空しかったのでしょうか? かれは、消え滅びたのでしょうか? それとも生存の根源を残して安らぎに帰したのでしょうか?
かれはどのように解脱したのでしょうか、──わたくしたちはそれを聞きたいのです。」
355 師は答えた、「かれはこの世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。長いあいだ陥っていた黒魔の流れを断ち切ったのである」五人の修行者の最上者であった尊き師はそのように語られた。
356 [ヴァンギーサいわく、──]「第七の仙人(ブッダ)さま。あなたのおことばを聞いて、わたしは喜びます。
わたしの問いは、決してむだではありませんでした。バラモンであるあなたは、わたくしをだましません。
357 目ざめた人(ブッダ)の弟子(ニグローダ・カッパ)は、ことばで語ったとおりに実行した人でした。ひとを欺く死魔のひろげた堅固な網を破りました。
358 先生! カッパ師は執著の根元を見たのです。ああ、カッパ師は、いとも渡りがたい死魔の領域を超えたのです。」
(´・(ェ)・`)つ >>876
「わが師は実際に亡くなったんだろうか、あるいはまだ亡くなっていないのだろうか?」=自分の師匠が亡くなられましたが、その死が般涅槃であったかどうか知りたいと思った
完全なる涅槃=般涅槃(はつねはん)。
すべての煩悩をなくし、解脱し、涅槃に到達した阿羅漢も、生きている限り、生きるための業の残りかすがある。
そのような阿羅漢の状態を有余依涅槃と言う。
それに対して、そのような阿羅漢が肉体の死を迎え、生きるための業の残りもすべて捨て去った時は、無余依涅槃。
無余依涅槃は般涅槃であり、完全なる涅槃。
346
智慧があるということと普く見ることとは、どちらも、ありのまま見る能力。ありのまま見ることで智慧が出て、普く見ることができる。
この「ありのままに見ること」が出来ないから修行する。この修行方法は八正道の実践であり、ヴィパッサナー瞑想。
(´・(ェ)・`)つ >>875 おぬしがしたいと思うことをするのじゃ。
おぬしは何がしたいのじゃろうか?
イケメンになりたければファッションとか整形とか出来ることを全て行えば善いのじゃ。
そして自信をつけて女子と付き合えばよいのじゃ。
自分はモテモテになっていくとか唱えれば自信もわいてくるのじゃ。
そのままでいたければそのまま何もしなければよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 >>879
モテに関係ないしたい事もOKかな?
どうしてもトラウマ的に内向して相手もそれに呼応してるのかも ブッダのことば(スッタニパータ)
第2 小なる章、13、正しい遍歴
359 「智慧ゆたかに、流れを渡り、彼岸に達し、安全な安らぎを得て、こころ安住した聖者におたずね致します。家から出て諸々の欲望を除いた修行者が、正しく世の中を遍歴するには、どのようにしたらよいのでしょうか。」
360 師はいわれた、「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう。
361 修行者が、迷いの生活を超越し、理法をさとって、人間及び天界の諸々の享楽に対する貪欲を慎しむならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
362 修行者がかげぐちをやめ、怒りと物惜しみとを捨てて、順逆の念を離れるならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
363 好ましいものも、好ましくないものも、ともに捨てて、何ものにも執著せず、こだわらず、諸々の束縛から離脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
364 かれが、生存を構成する要素のうちに堅固に実体を見出さず、諸々の執著されるものに対する貪欲を慎しみ、こだわることなく、他人に誘かれないならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
365 ことばによっても、こころによっても、行為によっても、逆らうことなく、正しく理法を知って、ニルヴァーナの境地をもとめるならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
366 修行者が、『かれはわれを拝む』と思って高ぶることなく、罵られても心にふくむことなく、他人から食物を与えられたからとて驕ることがないならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
367 修行者が、貪りと迷いの生存(煩悩の)矢を抜いたのであれば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
368 修行者が、自分に適当なことを知り、世の中で何ものをも害うことなく、如実に理法を知っているのであるならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
369 かれにとっては、いかなる潜在的妄執も存せず、悪の根が根こそぎにされ、ねがうこともなく、求めることがないならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
370 煩悩の汚れはすでに尽き、高慢を断ち、あらゆる貪りの路を超え、みずから制し、安らぎに帰し、こころが安立しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
371 信念あり、学識ある賢者が、究極の境地に至る定まった道を見、諸々の仲間の間にありながら仲間に盲従せず、貪欲と嫌悪と憤怒とを慎しむならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
372 清らかな行いによって煩悩にうち克った勝者であり、覆いを除き、諸々の事物を支配し、彼岸に達し、妄執の動きがなくなって、生存を構成する諸要素を滅ぼす認識を立派に完成するならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
373 過去及び未来のものに関して(妄りなる)はからいを超え、極めて清らかな智慧あり、あらゆる変化的生存の領域から解脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
374 究極の境地を知り、理法をさとり、煩悩の汚れを断ずることを明らかに見て、あらゆる<生存を構成する要素>を滅しつくすが故に、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。」
375 「尊いお方(ブッダ)<さま。まことにこれはそのとおりです。このように生活し、みずから制する修行者は、あらゆる束縛を超えているのです。かれは正しく世の中を遍歴するでしょう。」
(´・(ェ)・`)つ >>881
374 究極の境地を知り、
<生存を構成する要素>を滅しつくす
注釈書では「境地」の訳語を「句」と解釈している。
句とは「真理の四句」(四聖諦)。
四聖諦の四句を知り、四聖諦の真理を理解して、煩悩の捨てることをはっきり経験して、
生存の要素(五蘊)に依存することのなくなった阿羅漢はこの世を正しく遍歴遊行する。
(´・(ェ)・`)つ >>880 何でもしたいことをしてよいのじゃ。
自由なのじゃ。
善い事をするとよいのじゃ。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第2 小なる章、14、ダンミカ
わたくしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者の園>におられた。
そのときダンミカという在俗信者が五百人の在俗信者とともに師のおられるところに近づいた。そして師に挨拶し、かたわらに坐った。そこで在俗信者ダンミカは師に向かって詩を以て呼びかけた。
376 「智慧ゆたかなゴータマ(ブッダ)さま。わたしはあなたにお尋ねしますが、教えを聞く人は、家から出て出家する人であろうと、また在家の信者であろうと、どのように行うのが善いのですか?
377 実にあなたは神々とこの世の人々の帰趣と究極の目的とを知っておられます。奥深いことがらを見る方で、あなたに比ぶ人はいません。世人はあなたを、優れた目ざめた人(ブッダ) だと呼んでいます。
378 あなたはすっかり証りおわって、生けるものどもをあわれんで、智識と理法を説かれます。あまねく見る人よ。あなたは世の覆いを開き、汚れなくして、ひろく全世界に輝きたもう。
379 エーラーヴァナと名づける象王は、あなたが勝利者(ブッダ)であると聞いたので、あなたのもとに来ましたるかれもまたあなたと相談して、(あなたの話を)聞いて、『いいなあ』といって、喜んで去りました。
380毘沙門天王であるクヴェーラも、また教えを請おうとして、あなたに近づいてきました。賢者よ。かれに尋ねられたときにも、あなたは話をなさいました。かれもまた(あなたの話を)聞いて、喜んだ姿を示しました。
381 アージーヴィカ教徒であろうとも、ジャイナ教徒であろうとも、論争を習いとするこれらのいかなる異説の徒でも、すべて、智慧であなたを超えることはできません。立ったままでいる人が急いで走ってゆく人を追い越すことができないよえなものです。
382 論争を習いとするいかなるバラモンでも、老年であろうとも、あるいは(中年、あるしは青年の)バラモンであろうとも、またそのほか『われこそは論客である』と自負している人々でも、すべてあなたから<ためになることがら>を得ようと望んでいるのです。
383 先生! あなたがみごとに説きたもうたこの教えは幽微であり、また楽しいものです。あなたにお尋ねしますが、どうぞわれらにお説きください。最高の<目ざめた方>(ブッダ)よ。
384 これらの出家修行者たち、並びに在俗信者たちは、すべて、(目ざめた人の教えを)聞こうとして、ここに集まってきたのです。けがれなき人(目ざめた人)がさとり、みごとに説いた理法を聞け。──神々がインドラ神のことばを聞くように。」
385 (師は答えた)、「修行者たちよ、われに聞け。煩悩を除き去る修行法を汝らに説いて聞かせよう。汝らすべてはそれを持て。目的をめざす思慮ある人は、出家にふさわしいそのふるまいを習い行え。
386 修行者は時ならぬのに歩き廻るな。定められたときに、托鉢のために村に行け。時ならぬのに出て歩くな、執著に縛られるからである。それ故に諸々の(目ざめた人々)は時ならぬのに出て歩くことはない。
387 諸々の色かたち・音声・味・香り・触れられるものは、ひとびとをすっかり酔わせるものである。これらのものに対する欲望を慎んで、定められたときに、朝食を得るために(村に)入れよ。
388 そうして修行僧は、定められたときに施しの食物を得たならば、ひとり退いて、ひそかに坐れよ。自己を制して、内に顧みて思い、こころを外に放ってはならぬ。
389 もしもかれが、教えを聞く人、或るは他の修行者とともに語る場合があるならば、その人にすぐれた真理を示してやれ。かげぐちや他の誹謗することばを発してはならぬ。
390 実に或る人々は(誹謗の)ことばに反発する。かれらは浅はかな小賢しい人々をわれは称賛しない。(論争の)執著があちこちから生じて、かれらを束縛し、かれらはそこでおのが心を遠くへ放ってしまう。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、自己を制して愚かな論争から遠ざかるのじゃ。
そうすれば悩むことも無いのじゃ。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第2 小なる章、14、ダンミカ
391 智慧のすぐれた人(ブッダ)の弟子は、幸せな人(ブッダ) の説きたもうた法を聞いて、食物と住所と臥具と大衣の塵を洗い去るための水とを、よく気をつけて用いよ。
392 それ故に、食物と住所と臥具と大衣の塵を洗い去るための水、──これらのものに対して、修行者は執著して汚れることがない。──蓮の葉に宿る水滴[が汚されない]ようなものである。
393 次に在家の者の行うつとめを汝らに語ろう。このように実行する人し善い<教えを聞く人>(仏弟子)である。純然たる出家修行者に関する規定は、所有のわずらいある人(在家者)がこれを達成するのは実に容易ではない。
394 生きものを(みずから)殺してはならぬ。また(他人をして)殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ。世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、すべての生きものに対する暴力を抑えて──。
395 次に教えを聞く人は、与えられていないものは、何ものであっても、またどこにあっても、知ってこれを取ることを避けよ。また(他人をして)取らせることなく、(他人が)取りさるのを認めるな。なんでも与えられていないものを取ってはならぬ。
396 ものごとの解った人は婬行を回避せよ。──
燃えさかる炭火の坑を回避するように。
もし不婬を修することができなければ、
(少なくとも)他人の妻を犯してはならぬ。
397 会堂にいても、団体のうちにいても、
何人も他人に向かって偽りを言ってはならぬ。
また他人をして偽りを言わせてもならぬ。
また他人が偽りを語るのを容認してはならぬ。
すべて虚偽を語ることを避けよ。
398 また飲酒を行ってはならぬ。
この(不飲酒の)教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。他人が酒を飲むのを容認してもならぬ。──
これは終に人を狂酔せしめるものであると知って──。
399 けだし諸々の愚者は酔いのために悪事を行い、
また他人の人々をして怠惰ならしめ、(悪事を)なさせる。
この禍いの起るもとを回避せよ。
それは愚人の愛好するところであるが、しかしひちを狂酔せしめ迷わせるものである。
400 (1)生きものを害してはならぬ。(2)与えられないものを取ってはならぬ。(3)嘘をついてはならぬ。(4)酒を飲んではならぬ。(5)婬事たる不浄の行いをやめよ。(6)夜に時ならぬ食事をしてはならぬ。
401 (7)花かざりを着けてはならぬ。芳香を用いてはならぬ。(8)地上に床を敷いて伏すべし。これこそ実に八っの項目より成るウポーサタ(斎戒)であるという。
苦しみを修滅せしめるブッダが宣示したもうたものである。
402 そうしてそれぞれ半月の第八日、第十四日、第十五日にウポーサタを修せよ。八つの項目より成る完全なウポーサタを、きよく澄んだ心で行え。また特別の月においてもまた同じ。
403 ウポーサタを行なった<ものごとの解った人>は次に、きよく澄んだ心で喜びながら、翌朝早く食物とを適宜に修行僧の集いにわかち与えよ。
404 正しい法(に従って得た)財を以て母と父とを養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、(死後に)<みずから光を放つ>という名の神々のもとに赴く。」
<小なる章>第二おわる
この章のまとめの句
宝となまぐちと、恥と、こよなき幸せと、スーチローマと理法にかなった行いと、バラモンにふさわしいことと、船の経と、いかなる戒めを、と、精励と、ラーフラと、ヴァンギーサと正しい遍歴と、さらにダンミカと──
これらの十四の経が「小なる章」し言われる。
(´・(ェ)・`)つ
>>885
鬼和尚、ありがとうであります。
自己を制して精進するであります。 ↑そうじゃ、定めを守って心安らかに進むのじゃ。
善事を積むだけでも天にいけるのじゃ。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、1、出 家
405 眼ある人(釈尊)はいかにして出家したのであるか、かれはどのように考えたのちに、出家を喜んだのであるか、かれの出家をわれは述べよう。
406 「この在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、塵のつもる場所である。ところが出家は、ひろびろとした野外であり、(煩いがない)」と見て、出家されたのである。
407 出家されたのちには、身による悪行をはなれた。ことばによる悪行をもすてて、生活をすっかり清められた。
408 目ざめた人(ブッダ)はマガダ国の(首都)・山に囲まれた王舎城に行った。すぐれた相好にみちた(目ざめた)人は托鉢のためにそこへ赴いたのである。
409 (マガダ王)ビンビサーラは高殿の上に進み出て、かれを見た。すぐれた相好にみちた(目ざめた)人を見て、(侍臣に)このことを語った。
410 「汝ら、この人をみよ。美しく、大きく、清らかで、行いも具わり、眼の前を見るだけである。
411 かれは眼を下に向けて気をつけている。この人は賤しい家の出身ではないようだ。王の使者どもよ、走り追え。この修行者はどこへ行くのだろう。」
412 派遣された王の使者どもは、かれのあとを追って行った。──「この修行者はどこへ行くのだろう。かれはどこに住んでいるのだろう」と。
413 かれは、諸々の感官を制し、よくまもり、正しく自覚し、気をつけながら、家ごとに食を乞うて、その鉢を速やかにみたした。
414 聖者は托鉢を終えて、その都市の外に出て、パンダヴァ山に赴いた。──かれはそこに住んでいるのであろう。
415 [ゴータマ(ブッダ)がみずから]住所に近づいたのを見て、そこで諸々の使者はかれに近づいた。そうして一人の使者は(王城に)もどって、王に報告した、──
416 「大王さま。この修行者はパンダヴァ山の山窟の中に、また獅子のように座しています」と。
417 使者のことばを聞き終るや、そのクシャトリヤ(ビンビサーラ王)は荘厳な車に乗って、急いでパンダヴァ山に赴いた。
418 かのクシャトリヤ(王)は、車に乗って行けるところまで車を駆り、車から下りて、徒歩で赴いて、かれに近づいて坐した。
419 王は坐して、それから挨拶のことばを喜び交わした。挨拶のことばを交わしたあとで、このことを語った。──
420 「あなたは若く青春に富み、人生の初めにある若者です。容姿も端麗で、生れ貴いクシャトリヤ(王族)のようだ。
421 象の群を先頭とする精鋭な軍隊を整えて、わたしはあなたに財を与えよう。それを享受なさい。わたしはあなたの生れを問う。これを告げなさい。」
422 (釈尊がいった)、「王さま。あちらの雪山(ヒマーラヤ)の側に、一つの正直な民族がいます。昔からコーサラ国の住民であり、富と勇気を具えています。
423 姓に関しては<太陽の裔>といい、種族に関しては<シャカ族>(釈迦族)といいます。王さまよ。わたしはその家から出家したのです。欲望をかなえるためではありません。
424 諸々の欲望に憂いがあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめはげむために進みましょう。わたくしの心はこれを楽しんでいるのです。」
(´・(ェ)・`)つ 執着するところには苦もあるものじゃ。
執着を離れてこそ心は安穏になるのじゃ。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、2、つとめはげむこと
425 ネーランジャラー河の畔にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、
426 (悪魔)ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づいてきて、言った、あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。
427 あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をもなすこともできるのだ。
428 あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。
429 つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい」・・・・
430 かの悪魔がこのように語ったときに、尊師(ブッダ)は次のように告げた。
──「怠け者の親族よ、悪しき者よ。汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、
431 わたしはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。
432 わたしには信念があり、努力があり、また知慧がある。このように専心しているわたしくしに、汝はどうして生命をたもつことを尋ねるのか?
433 (はげみから起る)この風は、河水の流れも涸らすであろう。ひたすら専心しているわが身の血がどうして涸渇しないであろうか。
434 (身体の)血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。肉が落ちると、心はますます澄んでくる。わが念いと智慧と統一した心はますます安立するに至る。
435 わたしはこのように安住し、最大の苦痛をうけているのであるから、わが心は諸々の欲望にひかれることがない。見よ、心身の清らかなことを。
436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢餓であり、第四の軍隊は妄執といわれる。
437 汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情と、
438 誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。
439 ナムチよ、これは汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。(勇者は)うち勝って楽しみを得る。
440 このわたくしがムンジャ草を取り去るだろうか? (敵に降参してしまうだろうか?)この場合、命はどうでもよい。わたくしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。
441 或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。
442 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたくしをこの場所から退けることなかれ。
443 神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。──焼いてない生の土鉢を石で砕くように。
444 みずから思いを制し、よく念い(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。──教えを聞く人々をひろく導きながら。
445 かれらは、無欲となったわたくしの教えを実行しつつ、怠ることなく、専心している。そこに行けば憂えることのない境地に、かれは赴くであろう。」
446 (悪魔はいった)、
「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく気をつけている正覚者には、つけこむ隙をみつけることができなかった。
447 烏が脂肪の色をした岩石の周囲をめぐって『ここに柔かいものが見つかるだろうか? 味のよいものがあるだろうか?』といって飛び廻ったようなものである。
448 そこに美味が見つからなかったので、烏はそこから飛び去った。岩石ら近づいたその烏のように、われらは厭いてゴータマ(ブッダ)を捨て去る。」
449 悲しみにうちしおれた悪魔の脇から、琵琶がパタッと落ちた。ついで、かの夜叉は意気しょう沈してそこに消え失せた。
(´・(ェ)・`)つ >>890
426
悪魔は自分の領域(欲の世界)から出たいと望んでいる神や人間を妨害する。解脱を目指す修行者の修行の邪魔をする。
428
ヴェーダ学生としての清らかな行い
聖火に供物をささげる
←悪魔推奨の修行方法
430
悪魔
仏教では仏道を妨げ、悟りを妨害する欲の世界の支配者。経典では世間における常識的考えの代表者という役割を演じている。悪魔、マーラは欲界の神の一員。
悪魔の勧めは、輪廻の世界にいて、よい世界に生まれ変わること。ブッダは、輪廻は苦しみの世界であることを知って、そのようなことは望んでない。ブッダの目標は苦しみの世界からの完全なる解脱。輪廻からの解脱。
ブッダは悪魔に、お前の言葉は良い世界に生まれ変わりたいと望んでいる人々に語るのが相応しいと述べた。
432
信と精進と智慧
434
念いと智慧と統一した心=念と智慧と禅定→五根が具わり、安立した。五根の安立で涅槃への道は定っている。
437
第八の軍隊はみせかけと強情(偽装と強情、偽善と頑固)。少しばかりのすぐれた境地を経験すると、慢心や偽善、強情などが生じる。これらも出家者の修行を妨げる悪魔の軍隊。
438
(第九の軍隊)は「誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉」
(第十の軍隊)は「自己をほめたたえて他人を軽蔑すること」
疑惑、恐怖などを比丘が克服して修行をしていると、優れた境地を得ることになる。→比丘は人々から「利得、名声、尊敬」を得ることになる。→修行を完成してないのに、慢心が起こり、修行を中止してしまう。
これは大きな修行の妨げ。ましてや誤って得た利得、福徳ならば、なおのこと修行の妨げになる。
439
勇者とは身体、生命を顧みないで修行する者。悪魔の甘言に乗って、自分の身体の心配する者は、このような悪魔の軍隊には勝てない。
440
「ムンジャ草」
戦場から退却しない人々は、自分は退却しないものであることを知らせるために、頭や旗や武器にムンジャ草を結びつけた。→悪魔に絶対に降伏しない。
442
四方を象に乗った悪魔とり囲まれても、釈尊はひるむどころか、悪魔以上の闘志と決意で、それに立ち向かい、不敗の結跏趺坐の瞑想で臨むのであります。ドラマチックであります。
443
悪魔の軍隊
欲望、嫌悪、飢餓、妄執、ものうさ、睡眠、恐怖、疑惑、みせかけと強情と、誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉、自己をほめたたえて他人を軽蔑すること。
釈尊は智慧があるから、これらに勝つ方法を知っており、打ち勝つことができると断言した。
「智慧」
智慧のいくつかの特徴
物事の本質を理解して、その目的、構造、機能を理解すること。或は、その成り立ち、しくみ、働きを理解すること。その智慧はもの事をありのままに観察することによって得られる。
「欲望」
欲望は眼耳鼻舌身意に刺激があり、その刺激が好ましいと感じる時現れる。また、その時の感覚に対して、思考し、妄想するとそれが欲望の燃料になり、欲望はますます増大する。
その感覚に対して、妄想という燃料を供給しなければ、欲望は燃料不足によって消えてしまう。
欲望を満足させることが幸福だという誤解をなくし、欲望が苦しみの原因だということを、欲望の観察から理解した人は、欲望を満足させることではなく、欲望をなくすことに努力し、そのために、欲望の燃料、その欲望に関する思考、妄想を止める。
そうすると欲望は燃料不足のために消滅する。
「焼いてない生の土鉢を石で砕くように」焼いてない生の土鉢とは、妄想で増大していない欲望をという意味で、それならば簡単に打砕くことができるということす。
449
悪魔の脇から、琵琶がパタッと落ちた」
この琵琶は、帝釈天(神々の王)が音楽神に与えたものと言われ、一度指で奏でると、四か月間甘美な音を発するというもの。
それほど素晴らしい琵琶を、悪魔は脇から落としてしまったというほど悪魔が意気消沈して、茫然としていたということ。
ブッダは悪魔との戦いで完全な勝利した。ブッダにとっては自分の煩悩との戦いに勝利したことであり、解脱への修行を完成させたということ。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、無欲と成り、智慧を具現した目覚めた者に悪魔は何も出来ないのじゃ。
それは欲に取り付かれて無知無明の者にのみ災いを起こすものであるからのう。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、3、みごとに説かれたこと
わたしが聞いたところによると、──或るとき尊き師ブッダはサーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者の園>におられた。
そのとき師は諸々の<道の人>に呼びかけられた、「修行僧たちよ」と。
「尊き師よ」と、<道の人>たちは師に答えた。師は告げていわれた、「修行僧たちよ。
四つの特徴を具えたことばは、みごとに説かれたのである。悪しく説かれたのではない。諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。
その四つとは何であるか? 道の人たちよ、ここで修行僧が、[T]みごとに説かれたことばのみを語り、悪しく説かれたことばを語らず、[U]理法のみを語って理にかなわぬことを語らず、
[V]好ましいことのみを語って、好ましからぬことを語らず、[W]真理のみを語って、虚妄を語らないならば、
この四つの特徴を具えていることばは、みごとに説かれたのであって、悪しく説かれたのではない。
諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。」尊き師はこのことを告げた。そのあとでまた、<幸せな人>である師は、次のことを説いた。
450 立派な人々は説いた──[T]最上の善いことばを語れ。(これが第一である。)[U]正しい理を語れ、理に反することを語るな。これが第二である。
[V]好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。[W]真実を語れ。偽りを語るな。これが第4である。
そのときヴァンギーサ長老は座から起ち上がって、衣を一つの肩にかけ(右肩をあらわして)、師(ブッダ)のおられる方に合掌して、師に告げていった、「ふと思い出すことがあります! 幸せな方よ」と。
「思い出せ、ヴァンギーサよ」と、師は言われた。そこでヴァンギーサ長老は師の面前で、ふさわしい詩を以て師をほめ称えた。
451 自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。これこそ実に善く説かれたことばなのである。
452 好ましいことばのみを語れ。その言葉は人々に歓び迎えられることばである。感じの悪いことばを避けて、他人の気に入ることばのみを語るのである。
453 真実は実に不滅のことばである。これは永遠の理法である。立派な人々は、真実の上えに、ためになることの上に、また理法の上に安立しているといわれる。
454 安らぎに達するために、苦しみを終減させるために、仏の説きたもうおだやかなことばは、実に諸々のことばのうちで最上のものである。
(´・(ェ)・`)つ >>892
鬼和尚ありがとうであります。
無知無明のくまであるとの自覚をもって精進するであります。
次に進むであります。
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、4、スタンダリカ・バーラドヴァージャ
わたしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)はコーサラ国のスンダリカー河の岸に滞在しておらめれた。ちょうどその時に、バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、スンダリカー河の岸辺で聖火をまつり、火の祀りを行なった。
さてバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、聖火をまつり、火の祀りを行なったあとで、座から立ち、あまねく四方を眺めていった、──「この供物のおさがりを誰にたべさせようか。」
バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、遠からぬところで尊き師(ブッダ)が或る樹の根もとで頭まで衣をまとって坐っているのを見た。見おわってから、左手で供物のおさがりをもち、右手で水瓶をもって師のおられるところに近づいた。
そこで師はかれの足音を聞いて、頭の覆いをとり去った。そのときバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは「この方は頭を剃っておられる。
この剃髪者である」といって、そこから戻ろうとした。そうしてかれはこのように思った、「この世では、或るバラモンたとは、頭を剃っているということもある。さあ、わたしはかれに近づいてその生れ(素姓)を聞いてみよう」と。
そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは師のおられるところに近づいた。それから師にいった、「あなたの生まれは何ですか?」と
そこで師は、バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャに詩を以て呼びかれた。
455 「わたしはバラモンではないし、王族の者でもない。わたしはヴァイシヤ族(庶民)の者でもないし、また他の何ものでもない。
456 わたしは家なく、重衣を着け、髭髪(ひげかみ)を剃り、こころを安らかならしめて、この世で人々に汚されることなく、歩んでいる。
バラモンよ。あなたがわたしに姓をたずねるのは適当でない。」
457 「バラモンはバラモンと出会ったときは、『あなたはバラモンではあられませんか?』とたずねるものです。」
「もしもあなたがみずからバラモンであるというならば、バラモンでないわたしに答えなさい。わたしは、あなたに三句二十四字より成るかのサーヴィトリー讃歌のことをたずねます。」
458 「この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」
(師が答えた)、「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。」
459 バラモンがいった、「わたくしはヴェーダの達人であるこのような立派な方にお目にかかったのですから、実にその方に対する(わたくしの)献供はきっと効果があるでしょう。
(以前には)あなたのような方にお目にかからなかったので、他の人が献供の菓子(のおさがり)を食べていたのです。」
460 (師が答えた)、「それ故に、バラモンよ、あなたは求めるところあってきたのであるから、こちらに近づいて問え。恐らくここに、平安で、(怒りの)煙の消えた、苦しみなく、欲求のない聡明な人を見出すであろう。」
461 (バラモンがいった)、「ゴータマ(ブッダ) さま。わたくしは祭祀を楽しんでいるのです。祭祀を行おうと望むのです。しかしわたくしははっきりとは知っていません。あなたはわたくしに教えてください。何にささげた献供が有効であるかを言ってください。」
(師が答えた)、「では、バラモンよ、よく聞きなさい。わたくしはあなたに理法を説きましょう。
462 生れを問うことなかれ。行いを問え。火は実にあらゆる薪から生ずる。賤しい家に生まれた人でも、聖者として道心堅固であり、恥を知って慎むならば高貴のの人となる。
463 真実もてみずから制し、(諸々の感官を)慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らか行いを修めた人、──そのような人にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
464 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずから慎んで、梭のよえに真直ぐな人々、──そのような人々にそこ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
465 貪欲を離れ、諸々の感官を静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われることのない)人々──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
(´・(ェ)・`)つ >>894
457
前半はスンダリカ・バーラドヴァージャ・バラモンの言葉で、後半が釈尊の言葉
サーヴィトリー賛歌
「リグ・ヴェーダ」第三編第六二詩篇の10にある三句二十四字よりなる詩
太陽神サヴィトリに対する賛歌。
バラモン達のあいだでは特に神聖視され、今日に至るまで毎朝この詩が唱えられている。
[仏教徒のサーヴィトリー賛歌(仏に帰依奉る)、(法に帰依奉る)、(僧に帰依奉る)]
458
「究極に達したヴェーダの達人」=輪廻の究極に達した人(解脱した人)、真理を悟った聖者に、供物をささげるならば、その祭祀の儀式は成功する。
それらの聖者に対するの布施の功徳は大きいから。
459
疑問を持つ人にはその答えは、与えられるということ。
「意志ある所に道あり。」
「求めよ。さらば与えられる。」
「修行者が師を必要とした時、師は現れる」
「弟子に聞く耳が出来た時に、師匠は教えられる。」
聞ける態度が出来なければ、何も聞けないのです。
462
供物を捧げるときは、捧げるのにふさわしい(価値のある)人間に捧げれば、効果がある、成功したと言える。価値ある人間は生まれで決まるのではなく、行いで決まる。
火は香木の火も、木屑の火も同じ性質を持っている。
どんな賤しい家柄の出身の者でも、心を浄める修行をして聖者になられた方でも、貴族出身の聖者も同じ聖者だということ。
聖者になる方法として、「恥(慚)を知って慎む」
恥(慚)とは、悪事をすることを内心に恥じること。良心の呵責によって悪いことをしないこと。
(もう一つ悪事を止めるための力になるのが「怖れ」。仏教用語では愧。
愧とは、悪事をすることを外部に怖れることです。こんなことをすれば、他の人に非難されるだろうと怖れて悪いことをしない。両者を合わせて、慚愧(ザンキ)。
これらは道徳を守る力。慚愧の力で、道徳を守り心を清らかにして、心の堅固な聖者になる。)
463
「真実もてみずから制し」=四聖諦を理解して、実践し、自己を完成してという意味。
464
「よくみずから慎んで」(自己が善く自制され)いる人、これは煩悩の起こる基である感覚器官をよく守って、煩悩が現れないようにしている人。
梭(ヒ)=機織りの梭(シャトル)
真直ぐな人の喩え
465
月がラーフの捕われから脱した
月蝕や日蝕のことを言う。
ラーフはインド神話の鬼神の名前。このラーフが月や太陽を呑み込むので月蝕や日蝕が起こると言われている。煩悩を脱した人をラーフの捕捉から脱した人と言う。
煩悩を捨てるためには、貪欲から離れることが必要であり、感覚器官を守る必要がある。煩悩は感覚の乱れによって現れる。
好ましいものを見ると欲が現れ、嫌なものを見ると怒りが現れる。音と耳、香りと鼻、味と舌、感触と身体、想いと心の関係についても同様。
見たり、聞いたりすることは避けらない。見ても、聞いても煩悩が現れないように訓練をする必要がある。
見た時は見ただけにする。聞いた時は聞いただけにする。
見たことをしっかり見たと意識すること、見たと自覚すること。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、生れを問わず行いを問うのじゃ。
正しい修業に励む者が真の修行者なのじゃ。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、4、スタンダリカ・バーラドヴァージャ
466 執著することなくして、常に心をとどめ、わがものと執したものを(すべて)捨て去って、世の中を歩き廻る人々、──そのよえな人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
467 諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような<全き人>(如来)は、お供えの菓子わ受けるにふさわしい。
468 全き人(如来)は、平等なるもの(過去の目ざめた人々、諸仏)と等しくして、平等ならざる者どもから遙かに遠ざかっている。かれは無限の智慧あり、この世でもかの世でも汚れに染まることがない。<全き人>(如来)はお供えの菓子を受けるにふさわしい。
469 偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執著することなく、欲望をもたず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去ったバラモンである<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
470 こころの執著をすでに断って、何らとらわれるところがなく、この世についてもかの世についてもとらわれることがない<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
471 こころをひとしく静かにして激流をわたり、最上の知見によって理法を知り、煩悩の汚れを滅しつくして、最後の身体をたもっている<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
472 かれは、生存の汚れも、荒々しいことばも、除き去られ滅びてしまって、存在しない。かれはヴェーダに通じた人であり、あらゆることがらに関して解脱している<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
473 執著を超えていて、執著をもたず、慢心にとらわれている者どものうちにあって慢心にとらわれることなく、畑及び地所(苦しみの起る因縁)とともに苦しみを知りつくしている<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
474 欲望にもとづくことなく、遠ざかり離れることを見、他人の教える異なった見解を超越して、何らこだわってとらわれることのない<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
475 あれこれ一切の事物をさとって、それらが除き去られ滅びてしまって存在しないで、へいう平安に帰し、執著を滅ぼしつくして解脱している<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
476 煩悩の束縛と迷いの生存への生れかわりとが滅び去った究極の境地を見、愛欲の道を断って余すところなく、清らかにして、過ちなく、汚れなく、透明である<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
477 自己によって自己を観じ(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、動揺することなく、疑惑のない(全き人)(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。
478 迷妄にもとづいて起る障りは何ら存在せず、あらゆることがらについて智見あり、最後の身体をたもち、めでたい無上のさとりを得、──これだけでも人の霊(タマシイ)は清らかとなる。──(全き人)(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。」
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、自己によって自己を観るのじゃ。
そしてそれに囚われずにいるのじゃ。 >>897
466
@「執着がない人」
十二支縁起の執着と同じ。
執着をなくした人はすべての苦をなくし、解脱した人。
A「常に気づきのある人」
不放逸。
ブッダの最後の言葉。「では君たちに告げます。すべての事柄は消え去るものです。不放逸を励みなさい」
常に気づくこと(不放逸)によって、悪をなさず、善に至り、智慧が開発される。
B我がものという思いのない人、
467
四聖諦。
人生は苦しい。その原因は渇愛(欲望)にある。その苦しみは欲望を捨てることで克服できること。また苦しみを克服する八正道という方法を示した。
八正道を実践した人は、すべての煩悩が消え、燃える火に喩えられる煩悩が消えると熱がなくなり、常に冷たい湖水のような清涼な状態になる。この境地を涅槃とも言う。
如来には無限の智慧がある。
無限を凡夫は有限の延長としか考えられない。
無限とは有限とは次元の異り、理解できない。
469
(偽り、欺瞞、幻影)がない。
凡夫には我があるという実感がある。しかし、如来には我あるというような幻影はないと正しく実感できている。幻影にだまされることはない。
(慢心)がない。
自分と他人と比較するという心。
自分と他人を比較して自分が上だと思う心は増上慢(高慢)。自分と他人と同じだと思う心を同等慢、自分は他人より下だと思う心は卑下慢と言う。
如来には慢心がないら、慢心から生まれる悩みや苦しみはない。
如来には貪欲がない。
自我がないから、自己に執着する我執はない。日々淡々と必要なことを行うだけ。
もちろん怒りはない。怒りを抑えているのではなく、怒りの心がないので、怒れない。
憂い苦しみの原因は渇愛と無明。渇愛と無明のない如来には憂い苦しみはない。
470
心にこだわりがなければ、どんなことにも抵抗がなく、すべてが受け入れられる。怒りや嫉妬などは生まれない。悩みも生まれない。
自分の外部にこだわりの対象、執着の対象が何にもない。
そのような体験のある人はこの世にもそれ以上望むことがなく、死後は良い所に生まれ変わりたい等という思いはない。
そのような人には、心に汚れのない。
471
心を統一するとは、瞑想して禅定に入ること。
激流とは煩悩を意味する。
禅定に入って、煩悩を克服するということ。
禅定に入るためには、五蓋(欲貪、瞋恚、昏沈・睡眠、掉挙・悪作、疑)いう煩悩の機能を停止する必要がある。
五蓋の機能が停止すると、自然に五支禅(尋、伺、喜、楽、一境性)が現れ、第一禅定に入る。
そうすると一時的に煩悩がない状態を経験する。しかし、禅定により煩悩がなくなったわけではないのて、禅定から出ると煩悩は現れる。
心を統一して禅定に入っただけでは、激流と言われる煩悩を克服することはできないん。
最高の見解によって真理を了解することが必要。
これは智慧を得ること。
禅定に入ることによって、ありのままの現象をありのままに観察することができるようになる。
智慧が開発され、その智慧の力にとってすべての煩悩が克服さる。
煩悩の親玉である無明も克服される。
すべての煩悩を智慧の力に克服することを解脱と言う。阿羅漢は生命を輪廻の苦しみに結びつけるすべての煩悩ないので、もう輪廻することはない。
そのような方を最後身の保持者と言う。
(´・(ェ)・`)つ
つづく >>897
472
欲界への欲は普通の生命が持っている「生きていきたい、死にたくないという欲」という煩悩。
色界への欲は色界の禅定(第一禅定から第四禅定)の状態を求め、それを失いたくないという欲。
無色界への欲は無色界の禅定(空無辺処禅定、識無辺処禅定、無所有処禅定、非想非非想禅定)の状態を求め、それを失いたくないという欲です。
この二つは阿羅漢になるまでにはなくならない煩悩。この生存の煩悩を除き去ったということは阿羅漢になったということ。
「生存の汚れ」
すべての煩悩を捨て去った阿羅漢は、普通は乱暴な言葉、粗野な言葉は使わない。
如来は聖なる智慧に通じており、「あらゆる所で解脱している」
のあらゆる所とは、五蘊(身体、感覚、概念、意思、認識)あるいは十二処(眼、耳、鼻、舌、身、意、色、声、香、味、触、法)において執着がなく解放されているということ。
473
執着するのは心。
執着がないとは心が執着しないこと。
心が執着しなければ、心は完全に自由。凡夫の心は自分の心がする執着によって自由が奪われている。完全に自由な心は解脱していると言われる。執着がないとは煩悩がないこと。煩悩がないとは涅槃。執着がないとは涅槃。
慢心は他と比べる心。心は他と比べることによって、評価する。評価はその人の価値観を基準にする。人は自分の価値観に執着している。自分の価値観への執着から悩み苦しみが生まれる。慢心から悩み苦しみが生まれまる。
田畑は業と煩悩の象徴。
474
遠ざかり離れることを見、
@身の遠離A心の遠離は八禅定(色界と無色界の禅定)B生存素因の遠離、すなわちそれは涅槃。
「他者の教える見解」とは、「六十二見」。長部経典の『梵網経』ブッダがまとめた誤った六十二の見解
「何らこだわってとらわれることのない」「諸々の〔欲望や執着の〕対象(所縁)が存在しない」望むものがない、欲しいものがない、期待するものがないということ。如何なる欲望もないと言うこと。
475
一切の事物
五蘊(色受想行識)、十二処(眼耳鼻舌身意、色声香味触法)
一切の物事は無常
一切の物事はある時、ある条件のもとでのみ存在している。
条件を構成する要素もそれぞれ無常
その条件も一定ではない。
ある瞬間にのみ存在していると言えるので、次の瞬間は存在出来ない。それはすべて事柄について言えるので、何かに執着することはない。
476
煩悩の束縛
結縛、仏教用語では「結」生命を輪廻の世界に結び着ける煩悩。
これが私たちの心にあるから輪廻転生を繰り返す。煩悩は次の10種類。(十結)
1.有身見:「私」という概念が実体のあるものだと思い、肉体と心が自分のものだと誤解していること。
2.疑:仏法僧、因果法則、四正諦、八正道などを疑うこと。
3.戒禁取:無意味な苦行やあらゆる宗教儀式・儀礼。
4.愛欲:五欲に対する渇愛。
5.激怒:異常な怒り。
6.色貪:色界禅定に対する渇愛。
7.無色貪:無色界禅定に対する渇愛。
8.慢:自分を基準にして他者と比べる働き。驕り高ぶり。卑下。
9.掉挙(じょうこ):心が浮つき落ち着きがない。禅定を妨げるもの。
10.無明:すべての煩悩の大本。煩悩の親玉。
1から5までは五下分結、6から10までは五上分結
悟りの段階と十結の関係。
預流果:1、2,3、の煩悩がなくなる。一来果:4から10の煩悩は残っているが、預流果より薄まっている。不還果:1から5の煩悩がなくなる。6から10の煩悩は残っている。阿羅漢果:すべての煩悩がなくなる。
これらの十結を残りなく除き去れば、輪廻再生させる要素はなくなり、二度と生は現れない。それを生存の滅尽の極限を見と表現されている。
またこれらの10の煩悩が心から残りなくなれば、心は清らかになる。愛欲の過ちも激怒の過ちも無明による過ちもなくなる。その時心は透明で明るい。
477
自己(自我)はないので、自己を観察しても、五蘊(色受想行識)は感じるが、その実体たる自己(自我)はないことが解る。
478
諸々の煩悩、すべての煩悩がない。
最後の身体を保持する人とは、輪廻を繰り返さない人、阿羅漢。
「これだけでも人の霊(タマシイ)は清らかとなる」
スンダリカ・バーラドヴァージャ・バラモンはこの時点で、「魂の清浄」に価値をおいているので、彼に理解しやすいように、このように述べたのではないか?
(´・(ェ)・`)つ ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、4、スタンダリカ・バーラドヴァージャ
479 「あなたのようなヴェーダの達人にお会いできたのですから、わが供物は真実の供物であれかし。
梵天こそ証人としてみそなわせ。先生! ねがわくはわたくしから受けてください。先生! ねがわくはわがお供えの菓子を召し上がってください。」
480 「詩を唱えて得たものを、わたくしは食うてはならない。バラモンよ、これは正しく見る人々(目ざめた人々、諸仏)のなすきまりではない。
詩を唱えて得たものを目ざめた人々(諸仏)は斥けたもう。バラモンよ。このきまりが存するのであるから、これが(目ざめた人々、諸仏の)行いのしかた(実践法)である。
481 全き者である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪行による悔恨の消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者(福)田であるからである。」
482 「先生! わたくしのような者の施しを受け得る人、祭祀の時に探しもとめて供養すべき人、をわたくしは──あなたの教えを受けて──どうか知りたいのです。」
483 「争いを離れ、心に濁りなく、諸々の欲望を離脱し、ものうさ(無気力)を除き去った人、
484 限界を超えたもの(煩悩)を制し、生死を究め、聖者の特性を身に具えたそのような聖者が祭祀のために来たとき、
485 かれに対して眉をひそめて見下すことをやめ、合掌してかれを礼拝せよ。飲食物をささげて、かれを供養せよ。このような施しは、成就して果報をもたらす。」
486 「目ざめた人(ブッダ)であるあなたさまは、お供えの菓子を受けるにふさわしい。あなたは最上の福田であり、全世界の布施を受ける人であります。あなたにさし上げた物は、果報が大きいです。」
そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、尊き師にいった、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです、ゴータマさま。
あたかも倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方向に迷った者に道を示すように、
あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで理法を明らかにされました。
だから、わたくしはゴータマさまに帰依したてまつる。また法と修行僧のつどい帰依したてまつる。わたくしはゴータマさまのもとで出家し、完全な戒律(具足戒)を受けたいものです。」
そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、師のもとで出家し、完全な戒律を受けた。
それからまもなく、このスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは独りで他から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、無上の清らかな行いの究極
──諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが──
を現世においてみずからさとり、証し、具現して、日を送った。「生まれることは尽きた。
清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そうしてスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは聖者の一人となった。
(´・(ェ)・`)つ >>901
479
みそなわす【見そなはす】「見る」の尊敬語。ごらんになる。
481
仏教を教えられたから、そのお礼をするとか、感謝するとか、尊敬するとか、そのような限定された行為ではなく、
全き人である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪い行いを消滅した人に対して、何も期待しない、ただ奉仕する、供養する、布施をするという限定のない、純粋な行為が仏教のやり方だと教えた。
(´・(ェ)・`)つ すばらしいことじゃ。
教えを聞いて理解して実践すれば誰でも目覚めて阿羅漢になれるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 >>903
くまでもあらかんになれるでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、5、マーガ
わたくしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ) は、王舎城の<鷲の峰>という山におられた。そのときマーガ青年は師のおられるところに赴いた。そこに赴いて師に挨拶した。
喜ばしい、思い出の挨拶のことばを交したのち、かれらは傍らに坐した。そこでマーガ青年は師に言った、──
「ゴータマ(ブッダ)さま。わたくしは実に、与える人、施主であり、寛仁にして、他人からの施しの求めに応じ、正しい法によって財を求めます。
そのあとで、正しい法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、二人にも与え、三人にも与え、四人にも与え、五人にも与え、六人にも与え、七人にも与え、八人にも与え、九人にも与え、十人にも与え、
二十人にも与え、三十人にも与え、四十人にも与え、五十人にも与え、百人にも与え、さらに多くの人にも与えます。
ゴータマさま。わたくしがこのように与え、このようにささげるならば、多くの福徳を生ずるでしょうか。」
「青年よ。実にあなたはそのように与え、そのようにささげるならば、、多くの福徳を生ずる。
誰であろうとも、実に、与える人、施主であり、寛仁にして、施しの求めに応じ、正しい法によって財を求め、そのあとで、法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、さらにつづいては百人にも与え、さらに多くの人にも与える人は、多くの福徳を生ずるのである。」
487 マーガ青年がいった、「袈裟を着け家なくして歩む寛仁なるゴータマさまに、わたくしはお尋ねします。
この世で、施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をめざして供物をささげ、他人に飲食物を与える人が、祀りを実行するときには、何者にささげた供物が清らかとなるのでしょうか。」
488 尊い師は答えた、「マーガよ。施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるならば、まさに施与を受けるにふさわしい人々とともに目的を達成することになるであろう。」
489 マーガ青年はいった、「施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるに当って、
<まさに施与を受けるにふさわしい人々>のことをわたしに説いてください。先生!」
(´・(ェ)・`)つ >>904 そうじゃ、なれるじゃろう。
くまかんじゃな。 >>906
宇宙初のくまかんを目指すであります。
鬼和尚ありがとうであります。
(´・(∀)・`)つ ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、5、マーガ
490 実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した<全き人>がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささけよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
491 一切の結び・縛めを断ち、みずから慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささけよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
492 一切の結び・縛めから解き放たれ、みずから慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
493 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てて、煩悩の汚れを減しつくし、清らかな行いを修めている人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
(´・(ェ)・`)つ >>908
490
執着を四種類に分類。
1.欲に対する執着。
2.見解に対する執着。
3.戒禁に対する執着。
4、我語に対する執着。自分の説に固執すること。(自分がいるという実感に対する執着)
491
492
結(十結)仏教用語。輪廻の原因になる以下の煩悩。
1.有身見(うしんけん):永遠不滅の真我があると言う誤解 (自我があるという誤解)
2.疑:迷って確信がないこと
3.戒禁取(かいごんしゅ):無意味な苦行やあらゆる宗教儀式・儀礼
4.貪欲:五欲に執着すること
5.瞋恚(しんに):いらいらして怒ること
6.色貪(しきどん):色界禅定に執着すること
7.無色貪(むしきどん):無色界禅定に執着すること
8.慢:自分と比較すること。自分を重要と思うこと
9.掉挙(じょうこ):落ち着きのないこと
10.無明:真実を知らないこと
十結には経蔵の分類と論蔵の分類がある。
10の煩悩が生命を束縛する拘束。
491偈では、これらの煩悩を断ち切った人について述べ、
492偈では、これらの煩悩から解放された人について述べている。
これらの煩悩を断ち切って、解放された人は涅槃を体得した阿羅漢。阿羅漢は自己を制御し、解放した(執着から離れた)、苦悩のない、何も望むことのない(何事にも満足した)方。
十結と悟りの関係は、1.2.3.の煩悩がなくなれば預流果の悟り、かつ4.5.の煩悩が少なくなれば一来果の悟り、1.2.3.4.5.の煩悩がなくなれば不還果の悟り、1.から10.までの煩悩すべてがなくなれば阿羅漢果の悟りで修行の完成。
493
始めの二行の述べられた煩悩は
貪りと怒りと迷妄。三毒あるいは貪瞋痴(トンジンチ)
(´・(ェ)・`)つ ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、5、マーガ
494 偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執することなく、欲望をもたぬ人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
495 実に諸々の愛執に耽らず、すでに激流をわたりおわって、わがものという執著なしに歩む人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
(´・(ェ)・`) >>912
494
(欺瞞、偽り)は、自分の悪事を隠すこと。
(慢心)は自分と他人と比べること。増上慢、同等慢、卑下慢。この慢心は阿羅漢になるまでなくならない煩悩であり、根深い。
495
激流とは、煩悩を意味する。渇愛に耽らないのであれば、渇愛はいろいろな煩悩の根本にあるものなので、煩悩の激流を渡ることができる。
渇愛は感覚を縁にして生まれる。
自我が生まれる事情。
自我も感覚を縁にして生まれる。何かを見たり、聞いたりするたびに、私が見た、私が聞いたという私(自我)という主語(妄想)が生まれる。
渇愛と自我は二子の兄弟のようなもの。渇愛が克服される過程は、自我が克服される過程でもある。
煩悩の激流を渡った人は自我の固執すなわち我執はない。
496
渇愛を三つに分類。
1.愛欲 : 色、声、香、味、触、五欲に対する渇愛
2.有愛 : 生存に対する渇愛
3.無有愛 : 虚無への渇愛(破壊したいという思い)
この内の特に2.有愛があるので輪廻する。渇愛のなくなった人は輪廻しない。渇愛のなくなった人は、固執、有、生、老、死、苦蘊が次々に滅し、解脱する。
(´・(ェ)・`)つ なにやらおかしいのじゃ。
渇愛があってもなくても輪廻するのじゃ。
無認識に至るまで輪廻はありつづけるのじゃ。 >>914
鬼和尚、おはようございます。
この解説では、生存に対する執着がなくなれば、輪廻は止み、解脱するとされてますが、
輪廻しなくなること=解脱=悟り、なのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、5、マーガ
496 この世でもかの世でも、いかなる世界についても、移りかわる生存への妄執の存在しない人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
497 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずから制して、梭のように真直ぐな人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
(´・(ェ)・`)つ >>916
497
梭(ヒ)
「織機の付属用具の一。シャトル。」
織物は縦糸に梭によって横糸を「真直ぐに」くぐらせて織る。
梭は「真直ぐ」の象徴。
諸々の欲望を捨てて、家も捨て、公正に真直ぐに行く人々。
(´・(ェ)・`)つ >>914
Wikipedia輪廻、抜粋
『仏教における輪廻とは、・・・認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり、自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。
輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあと、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれる、というものである。
この消滅したエネルギーと、生まれたエネルギーは別物であるが、流れとしては一貫しているので、意識が断絶することはない。
それゆえ、仏教における輪廻とは、心がどのように機能するかを説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない。』
認識あるままに、生存に対する執着を離れることは、そもそもできそうもないでありますね。
悟るとは、生きてるうちに死を受け入れることでありますね。
(´・(ェ)・`)つ >>914
無認識という、包括的な脱落の境地(?)は、まさに、死そのもののようでありますが、
生きてあると確信している自我が幻想であったと知れれば、生も死もその主体がないのでありますから、死は意味をなさず、生はそのことを知る機会という意味においてのみ意味あると言うことでありますかね。
で、その無我の境地を不可逆的なものとするために、最後に無認識の境地へ飛び込む勇気が必要なのでありましょうかね。
(´・(ェ)・`)つ >>915 悟れば輪廻は個我の幻想から生まれると気付くのじゃ。
悟りの成果ではあるがそれが悟りそのものではないのじゃ。
エネルギーとかはないのじゃ。
>>919 そのような理解でよいのじゃ。
そうじゃ、勇気が必要なのじゃ。
>>920
鬼和尚、ありがとうであります。
成果であるだけで、同義ではないのでありますね。
スッキリしたであります。
エネルギーとは、仕事をすることのできる能力の総称だそうでありますが、たとえるのであれば、そのエネルギーの影響を受けている状態にある空間のことであるところの『場』の方が適切かもでありますね。
wikiの解説を、「心とは認識の「場」の連続」と読み替えるとスッキリするような気がするであります。
(´・(ェ)・`)つ ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、5、マーガ
498 欲望を離れ、諸々の感官をよく静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われることのない)人々がいる。
──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
499 安らぎに帰して、貪欲を離れ、怒ることなく、この世で(生存の諸要素を)捨て去ってもはや(迷いの生存)に行く道のない人々がいる。
──
500 生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。
──
501 自己を洲(よりどころ)として世間を歩み、無一物で、あらゆることに関して解脱している人々がいる。
──
502 『これは(わたしの)最後の生存であり、もはや再び生を享けることはない』ということを、この世で如実にしっている人々がいる。
──
503 ヴェーダに通じ、安らいだ心を楽しみ、落ち着いて気を着けていて、全きさとりに達し、多くの人々に帰依されている人々がいる。
──
504 (マーガがいった)、「実にわたくしの質問はむだではありませんでした。尊き師は、まさに施与を受けるにふさわしい人々のことを、わたくしに説いてくださいました。
先生! あなたはこの世ですべてのことがらを如実にしっておられます。あなたはこの理法を知っておられるからです。」
505 マーガ青年が(さらにつづけて)いった、「この世で施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、他人に飲食を与えるに当って、どうしたならば祀りが成功成就するかということをわたくしに説いてください。先生!」
506 尊き師(ブッダ)は答えた、「マーガよ。祀りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清らしめよ。祀り実行者の専心することは祀りである。かれはここに安立して邪悪を捨てる。
507 かれは貪欲を離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起して、日夜つねに怠らず、無量の(慈しみの)心をあらゆる方角にみなぎらせる。」
508 (マーガがいった)、「誰が清らかとなり、解脱するのですか? 誰が縛せられるのですか? 何によってひとはみずから梵天界に至るのですか?
聖者よ、お尋ねしますが、わたくしは知らないのですから、説いてください。尊き師は、わたくしの<あかし>です。わたくしは今梵天をまのあたり見たのです。
真にあなたはわれわれにとっては梵天に等しいかただからです。光輝ある方よ。どうしたならば、梵天界に生まれるのでしょうか?」
509 尊き師は答えた、「マーガよ。三種の条件を具えた完全な祀りを実行するそのような人は、施与を受けるにふさわしい人々を喜ばせる。施しの求めに応ずる人が、このように正しく祀りを行うならば、梵天界に生まれる、と、わたくしは説く。」
このように説かれたときに、マーガ青年は師にいった、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです。
ゴータマさま。あたかも倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさま種々のしかたで真理を明らかにされました。
だから、わたくしはゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつる。ゴータマさまはわたくしを在家信者として受け入れてください。今日から命の続く限り帰依いたします。」
(´・(ェ)・`)つ >>922
498
ラーフの捕捉
月蝕や日蝕のこと。
煩悩を脱した人
465参照
499
生存の諸要素
五蘊(色受想行識)のこと。
「迷いの生存」に行く道のない
輪廻転生して生きるという道がない
=輪廻転生しないということ。
500
生と死を捨てて余すところなく
渇愛による何としてでも生きていきたいという本能的な欲望がなくなっているということ。
生がなければ死もなし。輪廻から解脱していると言うこと。
渇愛がなくなり、生死を超越した人には無明の闇はない。無明がなくなれば、闇の中で光を灯したように明が現れ、あらゆる疑惑が晴れる。
501
自己を拠り所にして生きることにより、何事にも執着しないで生きること、すなわち無一物で生きることができる。
「あらゆることに関して解脱している」
五蘊(身体、感覚、概念、意思、認識)、眼、耳、鼻、舌、身、意、色、声、香、味、触、法などに執着がなく自由であるということ。
502
阿羅漢
503
ヴェーダに通じ
世間の知識ではない、出世間の知識に通じていること。それは心の平安についての知識に通じていることす。
禅定を楽しみ
心は刺激を求めているが、瞑想は刺激を遮断する行為。
五蓋(貪欲、瞋恚、心の沈滞、興奮・後悔、疑惑)がなくなると禅定が訪れる。
禅定には喜びや楽しみがある。
禅定に楽しむ人々に、念(気づき)があるならば、智慧が生まれる。この智慧によって正覚(悟り)が現れる。
その智慧から正覚が得た人々から、人々は幸福になる生き方を学べる。そのため多くの人々から帰依される。
506
供養する前に、供養しつつある時も、供養が終わったあとも喜びの心を持って行えば供養は成功成就するということ。
供養の成功成就は、供養する施主の心を浄められること。そのために供養がその機縁になる。
供養は心を安立する機縁になる。また過ちを(dosa)捨てる機縁になる。
ここでは、dosa、過ち、怒りという狭い意味だけでなく、貪りや迷いなどを含めた煩悩と考えた方がよい。これらを捨てることが心を浄めること。
507
供養の主催者(施主)は財物に対する貪り(愛着心)を離れ、生き物に対する怒り(憎悪心)を制して、まさにそれを捨てるこのとによって
五蓋(貪り・怒り・心の沈滞[おちこみ]と眠気・心の高揚[たかぶり]と悔恨・疑惑の思い)を断じ、近行定(禅定に近い心の状態)、禅定の別のある無量の慈心をすべての生命に満たすように修行する。
更に、その修行を拡大して、夜も昼も常に行住坐臥の姿勢で、怠らずに慈の禅定と呼ばれる無量の慈心をあらゆる方向に広げ満たす。
508
「誰が清らかとなり、解脱するのですか?」とは梵天になった人はどのような人か尋ねている。
「誰が縛せられるのですか?」とは、梵天になれない人はどのような人か尋ねている。
「何によってひとはみずから梵天界に至るのですか?」は、どのようなことをしたら梵天になれるのか尋ねている。
そして、何故このようなことを質問する理由を、自分は光り輝く梵天のような世尊に今日まのあたりにお会いしたからだと述べた。
509
「三種の条件」とは、供養の前、供養する時、供養の後の心の清らかさをいう。この三つの時に喜びがなければいけない。
また三つの条件とは、常にということ。「立っている時も、歩いている時も、坐っている時も、あるいは横になっていて眠っていない限り、慈悲の念をしっかり保っていて下さい」ということ。
また、供養は機縁ということも、供養を契機に慈悲の気持ちを持ち続けて下さいということ。
注釈書では次のように説明。
比丘は慈の修行で三禅、四禅を起こし、それを基礎にして観察修行で阿羅漢になる。その修行者は清まり、解脱して、梵天界には行かない。阿羅漢は輪廻から解脱しているから。
しかし、慈の修行をした人は輪廻につかまっても、禅定は失わず、その禅定によって梵天界に行く。
そのため、「正しく供養することによって人は梵天界に行くことこの偈で述べたのであるとしている。
「注釈書」というのがあるらしいであります。
(´・(ェ)・`)つ これも混乱しているようじゃ。
慈悲等の無量心を制限無く広げることがブラフマンの法なのじゃ。
それもヴェーダに書いてあることなのじゃ。
お釈迦様がヴェーダの正確な知識によってブラフマンの法を説いたのじゃ。 >>924
鬼和尚、ご指摘ありがとうであります。
503 ヴェーダに通じ、安らいだ心を楽しみ (中村元:訳)
↑
『世間の知識ではない、出世間の知識に通じていること。それは心の平安についての知識に通じていること。』
くまが参考にしているサイトにおいては、バラモン教、ヒンズー教用語は強引に避けるようにして、ヴェーダの知識は無視して解説しいるようでありますね。
(´・(ェ)・`)つ ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ
わたしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)は王舎城の竹園林にある栗鼠飼養の所に住んでおられた。
そのとき遍歴の行者サビヤに、昔の血縁者であるが(今は神となっている)一人の神が質問を発した、──
「サビヤよ。<道の人>であろうとも、バラモンであろうとも、汝が質問したときに明確に答えることのできる人がいるならば、汝はその人のもとで清らかな行いを修めなさい」と。
そこで遍歴の行者サビヤは、その神からそれらの質問を受けて、次の[六師]のもとに至って質問を発した。
すなわちプーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバリ、パクダ・カッチャーヤナ、ベッラーッティ族の子であるサンジャヤ、ナータ族の子であるニガタとであるが、
かれは<道の人>あるいはバラモンであり、衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められていた。
[しかるに]かれらは、遍歴の行者サビヤに質問されても、満足に答えることができなかった。そうして、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわしたのみならず、かえって遍歴の行者サビヤに反問した。
そこで遍歴の行者サビヤはこのように考えた、「これらの<道の人>またはバラモンであられる方々は衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。
かれら、すなわちプーラナ・カッサパからさらについにナータ族の子であるニガンタに至るまで人々は、わたしに質問されても、満足に答えることが出来なかった。
満足に答えることができないで、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわにしたのみならず、わたしに反問した。さあ、わたしは低く劣った状態(在俗の状態)に戻って諸々の欲望を享楽することにしょう」と。
そのとき遍歴の行者サビヤはまたこのように考えた、「ここにおられる<道の人>ゴータマもまた衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。
さあ、わたしは<道の人>ゴータマに近づいて、これらの質問を発することにしよう」と。
さらに遍歴の行者であるサビヤは次のように考えた、「ここにおられる<道の人>・バラモンがたは、年老いて、年長け、老いぼれて、年を重ね、老齢に達しているが、
長老であり、経験を積み、出家してからすでに久しく、衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。
すなわちプーラナ・カッサパからさらにナータ族の子ニガンダに至るまでの人々であるが、かれらはねわたくしに質問それても、満足に答えることができなかった。
満足に答えられないで、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわしたのみならず、かえってそこでわたくしに反問した。
<道の人>ゴータマはわたくしの発したこれらの質問に明確に答え得るであろうか。<道の人>ゴータマは生年も若いし、出家したのも新しいことだからである」と。
次いで遍歴の行者サビヤはこのように考えた、「<道の人>は若いからといって侮ってはならない。軽蔑してはならない。
たといかれが若い<道の人>であっても、かれは大神通があり、大威力がある。さあ、わたしは<道の人>ゴータマのもとに赴いて、この質問を発してみよう」と。
そこで遍歴の行者サビヤは王舎城に向かって順次に歩みを進め、王舎城の竹園林にある栗鼠飼養所におられる尊き師(ブッダ)のもとに赴いた。
そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶のことばを交わしたのち、かれは傍らに坐した。それから遍歴の行者サビヤは師に詩を以て呼びかけた。──
(´・(ェ)・`)つ >>925 そのようじゃ。
真に悟りを求めるならばヴェーダも学べばよいのじゃ。
ヴェーダやブラフマンは知りたくないという者は本当は悟りも求めていないのじゃ。 ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ
510 サビヤがいった、「疑いがあり、惑いがあるので、わたくしは質問しょうと願って、ここに来ました。わたくしのためにそれを解決してください。わたくしが質問したならば、順次に、適切に、明確に答えてください。」
511 師は答えた、「サビヤよ。あなたは質問しようと願って、遠くからやって来ましたね。あなたのために、それを解決してあげましょう。あなたが質問したならば、順次に、適切に、明確に答えましょう。
512 サビヤよ。何でも心の中で思っていることを、わたくしに質問なさい。わたくしは一つ一つ質問を解決してあげましょう。」
そのとき遍歴の行者であるサビヤはこのように考えた、「まことにすばらしいことだ。まことに珍しいことだ、
──わたくしが他の<道の人>たち、バラモンたちのところでは機会さえも得られなかったのに、道の人ゴータマがこの機会を与えてくれた」と。かれは、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、師に質問した。
513 サビヤがいった、「<修行僧>とは何ものを得た人のことをいうのですか? 何によって<温和な人>となるのですか? どのようにしたならば、<自己を制した人>と呼ばれるのですか? どうして<目ざめた人>(ブッダ)と呼ばれるのですか?
先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」
514 師は答えた、「サビヤよ。みずから道を修して完全な安らぎに達し、疑いを超え、生存と衰滅とを捨て、(清らかな行いに)安立して、迷いの世の再生を滅ぼしつくした人、──かれが<修行僧>である。
515 あらゆることがらに関して平静であり、こころを落ち着け、全世界のうちで何ものをも害うことなく、流れをわたり、濁りなく、情欲の昂まり増すことのない<道の人>、──かれは<温和な人>である。
516 全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──かれは(自己を制した人)である。
517 あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、──彼を(目ざめた人)(ブッダ)という」
そこで、遍歴の行者であるサビヤは、師の説かれたことをよろこび、随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。
518 サビヤがいった、「何を得た人を<バラモン>と呼ぶのですか? 何によって<道の人>と呼ぶのですか? どうして<沐浴をすませた者>と呼ぶのですか? どうして<竜>と呼ぶのですか?
先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」
519 師が答えた、「サビヤよ。一切の悪を斥け、汚れなく、よく心をしずめ持って、みずから安立し、輪廻を超えて完全な者となり、こだわることのない人、──このような人は<バラモン>と呼ばれる。
520 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、──このような人がきさにその故に<道の人>と呼ばれる。
521 全世界のうちで内面的にも外面的にも一切の罪悪を洗い落とし、時間に支配される神々と人間とのうちにありながら妄想分別におもむかない人、──かれを(沐浴をすませた者)と呼ぶ。
522 世間のうちにあっていかなる罪悪をもつくらず、一切の結び目・束縛を捨て去り、いかなることにもとらわれることなく解脱している人、──このような人はまさにその故に<竜>とよばける。」
そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。
523 サビヤがいった、「諸々の目ざめた人(ブッダ)は誰を<田の勝者>と呼ぶのですか? 何によって巧みなのですか? どうして<賢者>なのですか? どうして<聖者>と呼ばれるのですか?
先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」
524 師が答えた、「サビヤよ。天の田・梵天の田という一切の田を弁別して、一切の田の根本の束縛から離脱した人、──このような人がまさにその故に<田の勝者>と呼ばれるのである。
(´・(ェ)・`)つ >>928
514
何を得た人を出家修行者(比丘)というのですか?」という質問に対するブッダの解答。
あるべき比丘の状態が述べられている。
比丘は阿羅漢であるべきだということになる。
現状に安住せずに精進すべきだということ。
「生存と衰滅とを捨て(虚無(非有:無)も、実体(有:存在)も、〔両者ともに〕捨棄して)」とは、「有・無を超越した」ということ。
有・無の世界は現象の世界。涅槃は現象の世界を超越した世界なのでこのように表現されている。
515
「何によって、『温和な者』と言うのですか?」に対するブッダの答え。
温和なという言葉のパーリ語sorataの訳は「柔和な、同情ある、やさしき、可楽」。しかし、ブッダの説かれるsorataはそれ以上のもの。
「@平静(無関心)」、「A念のある(気づきある)」、「B害さない(殺さない)」、「C(煩悩)を渡った」、「D濁りのない」、「E情欲のたかまりのない(増長がない)」。
@ 冷静で平等であること。無関心のように見えるが、執着がないこと。
A 念があるとは気づきがあること。自分の身口意の行動が自覚的であること。
B 生き物を殺さないこと。生き物に対する慈しみの心があること。
C 激流に例えられる激流を渡ったこと。煩悩を克服したこと。
D 心に煩悩がないので、心には濁りがなく澄み切って透明であること。
E 情欲の高まりがなく、興奮することがないこと。
516
「どのようにしたならば、<自己を制した人>と呼ばれるのですか?」に対するブッダの答え。
自己を制する或は調御するとは、感覚への対応を制御すること。
何故ならば、感覚に対する反応からいろいろな感情が現れるから。
感覚器官で快を感じると欲が生まれ、不快を感じると怒りが現れるから。
また快でも不快でもないと、無関心になり、意識が不明瞭になる。
感覚のこのような感じ方は業によるものであり、不可避。しかし、この感覚は永続しないもの。
この感覚を持続させたり、増大させたりするのは思考(妄想)や習慣など。
感覚から現れる感情を感覚に対する思考を制御することによって、感情を制御できる。感情を制御できれば、自己を制御できる。
「内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し」
内面的とは感覚の楽、苦、不楽不苦。外面的には感覚の対象。
眼耳鼻舌身意において内面にも外面(色声香味触法)にも執着しないこと。
「この世とかの世とを厭(いと)い離れ、
身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人」
感覚を制御した人は、死に対する感情も制御している。逆に死に対する感情も制御できる人が感覚を制御した人というのでしょう。
517
「どうして<目ざめた人>(ブッダ)と呼ばれるのですか?」に対するブッダの解答。
「あらゆる宇宙時期」
「Kappniを完全に考察して」と答えた。
Kappaの意味
@ 時、時間、劫(コウ)、長時、周期的な時間の長さを言う→輪廻の一時期をいうことがある
A 教令、法則
B 分別、妄想、はからい、想念、概念
C カッパ樹、如意樹
ブッダは、Kappaを完全に考察して、特に死と再生の輪廻の意味をすべて考察し尽くして、世間の塵から離れ、汚れなく、清浄な人となり、生の滅尽に至った人を「覚者(悟った人)だと言う」と述べたす。
「生の滅尽に至った人」汚れをなく、清浄な人、すべての煩悩をなくした人。
「どうしても生きたい」という渇愛をなくしているの。それで生存の要因がなくなっているので、生が滅尽している。輪廻はしない解脱した人。
(´・(ェ)・`)つ
つづく >>928
519
「何を得た人を<バラモン>と呼ぶのですか?」のブッダの解答です。
バラモンとは、一切の悪をしりぞけて、自己を確立している人。
一切の悪をしりぞけているので、世間の塵、煩悩の垢から離れている。
煩悩の垢(五蓋)から離れて、心の統一(禅定)によって、智慧を得て、輪廻の原因を越えた人。
渇愛や偏見に執着しないので、とらわれのない人。
そのような人が崇高な人(バラモン)。
520
「何によって<道の人>と呼ぶのですか?」に対するブッダの解答。
「安らぎに帰して(静まった者となり)」samao(沙門)は静まった人ということ。
沙門は出家修行を意味するときがあるが、そうすると比丘と同じような意味になる。しかし、出家修行者の内面に注目すると、心が静まっているということが重要。
ものごとを良い悪いとこだわると心が静まらない。世間の塵とは欲や怒りのこと。これらの煩悩から離れると心は静まる。
善悪を捨てること。
善と判断しても、悪と判断しても単純には決められないということがある。
善悪を言って騒がずに、冷静に必要な対応・対策をするべき。
この世のこと、あの世のことを知って、生死を超越すれば、心は動揺することなく、心は静かな状態。
人間の最大の関心事は生と死。この問題に決着をつけるためには、この世あの世についてよく知る必要がある。心を静まった沙門はこの問題に決着をつけた人。
521
「どうして<沐浴をすませた者>と呼ぶのですか?」に対するブッダの解答
あらゆる悪をなくした人、悪を洗い清めた人を「沐浴者」と呼ぶ。
その際、罪や悪である心の汚れは、感覚や認識の領域(十二処)で生じるので、「全世界のうちで内面的にも外面的にも(内に、さらには、外に、一切の世において)」と表現されている。
眼耳鼻舌身意と色声香味触法において心が汚れる。これらの十二処で汚れたらすぐ汚れをなくす人を沐浴者というと述べた。
仏教では時間というものはないと考えている。あるのは存在の変化だけ。その変化を見て、時間があると妄想分別しているのだと言う。
十二処で心の汚れが生じるとは、そこから時間や妄想分別が現れること。「時間に支配されている」とは妄想分別していること。悪を洗い清めた人とは妄想分別をしない人。その人が「沐浴者」
522
「どうして<竜>と呼ぶのですか?)」に対するブッダの解答。
訳語の竜(竜)のパーリ語はngoですが、その意味は「@象、A龍、Bすぐれた聖者(行者、とくに仏をさす)」。
「何故すぐれた聖者を龍(象)と呼ぶのですか?ということ。
すぐれた聖者は、この世において如何なる罪も作らず、悪も為さない。
世間のしがらみ(束縛)の中にいても、それに決して拘束されることはない。
あらゆることに対して執着することがない。解脱している。それは完全に自由であるということ。
そのような人がすぐれた聖者であり、龍(象)と呼ばれるのにふさわしい人。
523
@ 田(Khetta)の意味は、耕地、田、田畑(身心または業を示すことがあります。
福田(布施や供養を捧げる対象となる仏、僧団など、ここに種をまくと、功徳・福徳という果が得られるというので田に例えられる。)
「田の勝者」とは、「心身に打ち勝った者」と理解して、質問の意味は「ブッダは誰が身心に打ち勝った者というのですか?」ということ。
524
「諸々の目ざめた人(ブッダ)は誰を<田の勝者>と呼ぶのですか?に対するブッダの解答。
身心とは五蘊(色受想行識)。五蘊を考察すれば、それらは無常であり、苦であり、無我であることが知られる。これらを知れば、これらに対する執着がなくなる。執着がなくなれば、これらから解脱する。
更に、人間のみならず神々や梵天の身心も考察して、それらに対する束縛を根本から断ち切って、解脱し、自由になっている人。
(´・(ェ)・`)つ >>927
ブッダのことば(スッタニパータ)
がおわったら、ヴェーダの講読ゼミをやりたいと思ったのでありますが、全文は見つからなかったであります。
(´・(ェ)・`)つ あるものでよいのじゃ。
わしは図書館で読んだのじゃ。
国立国会図書館の公開資料には大蔵経もあるのじゃ。
ときどきみるのじゃ。 >>932
鬼和尚ありがとうであります。
コピペできるガラ携サイトで探してみるであります。
『バガヴァッド=ギーター』とかでも良いのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ
525 天の蔵・人の蔵・梵天の蔵なる一切の蔵を弁別して、一切の蔵の根本の束縛から離脱した人、──このような人がまさにその故に(巧みな人)とよばれるのである。
526 内面的にも外面的にも二つながらの白く浄らかなものを弁別して、清らかな知慧あり、黒と白(善悪業)を超越した人はまさにその故に(賢者)と呼ばれる。
527 全世界のうちで内面的にも外面的にも生邪の道理を知っていて、人間と神々の崇敬を受け、執著の網を超えた人、──かれは<聖者>である。」
そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。
528 サビヤがいった、「何を得た人を<ヴェーダの達人>とよぶのですか? 何によって<知りつくした人>となるのですか? いかにして<勤め励む者>となるのですか? <育ちの良い人>とはそもそも何ですか?
先生! おたずねしますが、どうかわたくしに説明してください。」
529 師が答えた、「サビヤよ、道の人ならびにバラモンどもの有するすべてのヴェーダを弁別して、一切の感受したものに対する貪りを離れ、一切の感受を超えている人、←かれは<ヴェーダの達人>である。
530 内的には差別的<妄想とそれにもとづく名称と形態>とを究め知って、また外的には病いの根源を究め知って、一切の病いの根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に<知りつくした人>と呼ばれるのである。
531 この世で一切の罪悪を離れ、地獄の責苦を超えて努め励む者、精励する賢者、──そのような人が<勤め励む者>と呼ばれるのである。
532 内面的にも外面的にも執著の根源である諸々の束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に<育ちの良い人>と呼ばれるのである。」
そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。
(´・(ェ)・`)つ >>934
525
「何によって巧みなのですか?」という質問に対するブッダの解答。
一切の蔵を考察して。
身心(五蘊)や業を比喩的に蔵とも言う。
一切の蔵を弁別(考察)してとは、一切の五蘊を弁別(考察)してという意味。
更に、神々や梵天の五蘊を弁別(考察)して、一切の蔵(五蘊)の根本の束縛から解脱した人。
526
「どうして<賢者>なのですか?」に対するブッダの解答。
paita(賢者)、paati(行く)と発音が似ている。paita(賢者)は「行く者」のように聞こえる。
またpaitaと発音の似ているpaarni(白いもの)を活用して、白いものとは善なるものを意味する。白いものを考察して、行く者が賢者であるとしている。
更に、黒(悪)と白(善)を「越えて行く者」をpaita(賢者)だと説明す。
白(善)を考察するにあたり、「内と外の白(善)を考察(弁別)して」と説明。
内は内処(眼耳鼻舌身意)であり、外は外処(色声香味触法)を意味している。
これらを考察(弁別)すると、それらはすべて無常、苦、無我であることが知られる。そこでこれらのもの一切に執着すべきものは何もないという智慧が現れる。
それは清らかな智慧。
そのため、賢者は黒(悪)白(善)を越えて行く者と表現される。
527
「どうして<聖者>と呼ばれるのですか?」「どのような人が聖者なのですか?」にするブッダの解答。
内面的(眼耳鼻舌身意)と外面的(色声香味触法)における感覚からいろいろな煩悩が生まれる道理を知って、感情をコントロールして、執着の網を断ち切るということ。そのような人は人間や神々から尊敬され、崇拝され、聖者と呼ばれる。
529
「<ヴェーダの達人>とは何を得た人ですか?」
ヴェーダとは聖智のこと。あらゆる聖智を学び、考察する。具体的には沙門(出家修行者)の聖智やバラモン達の聖智を学び考察すること。
無常などを考察して、聖智に対する欲・貪を捨て、同じ聖智を乗り越え、すべての聖智を越えて行く。
聖智を縁として、あるいはこれとは別に感受が生じる。それら一切の感受に対する貪欲を離れて、すべての聖智を越えて行く。
感受を捨て、聖智を捨て越えて行く人が、聖智の達人である。
(´・(ェ)・`)つ
つづく >>934
530
「<知りつくした人>とは何によって言うのですか?」という質問に対するブッダの解答。
papaca、妄想、いう仏教専門用語。
rogamla(「病いの根源」あるいは「病の根元」とは何か?
「papaca」パパンチャとは、仏教の真理をすべてひと言で表現する単語。「世界はパパンチャであって、解脱・涅槃はニッパパンチャ(nippapaca)である」
現象という意味に達する前にまず、パパンチャ=捏造(ねつぞう)だと、まず覚えておきましょう。捏造の定義は妄想ではない。
妄想なら、なんでも妄想することはできるが、捏造は違う。捏造には、それなりのデータが必要。しかし、データが不十分。自分で自分の仮説を立証するためには、不十分なデータではまずい。
それで、そのデータを捏造する。その場合は、あるデータの一部分だけを抜き出したり、都合の悪いデータを無視したりする。そうしなければ、自分の仮説は成り立たなくなるから。
このようにすべての生命は自分の眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法のデータをありのままに認識しないで捏造して認識する。生命は実際の世界を知らない。
私たちはありのままの世界ではなく、「あって欲しい世界」を捏造する。わざと組み合わせて合成する知識で、「現象」という単語が使える。
それで認識そのものが、捏造した結果になる。認識は知ることですが、正知ではなく、誤知(ごち)になっているのです。仏道とは、この誤知を正知に改良するプロセス。
「病いの根源」は何かという問題
311参照
「欲と飢えと老い」が病いの根源。
531
「<勤め励む者>とは何によって言うのですか?」という質問に対するブッダの解答。
この世において、一切の悪から離れること、これは八聖道の実践により可能。このような人は未来に再生しないで、地獄における苦しみを克服している。
そのような人は精進努力した人す。更にそのよう人は「慧者(智慧ある者)」と言えるのだと「精進のある人」を称賛した。
532
「<育ちの良い人>と何故言うのですか?」という質問のブッダの解答。
一切の束縛がなくなった人を高貴な人と言う。束縛とは心の汚れ。それは生命を輪廻に結びつける結縛。
内的な束縛と外的な束縛、更に束縛の根源をよく知って、断ち切ることによって、一切の束縛をなくすことができる。
内的な束縛とは、眼耳鼻舌身意における束縛。
眼について例をあげれば、見たいという欲求。見たいという欲求がなくなれば、内的な束縛の一つが消える。
外的な束縛とは、色声香味触法における束縛。例えば、良い音を聞きたいという欲求がなくなれば、外的な欲求の一つがなくなる。このように、すべての内外の束縛がなくなれば心がきれいになり、高貴な人間になる。
このことを更に徹底するためには、束縛の根源を知り、束縛の根源を断ち切る必要がある。束縛の根源は無明。すべての束縛は無明から生まれる。無明が心の汚れの根源。束縛の根源である無明を断ち切った人が高貴な人と言われる。
(´・(ェ)・`)つ >>933 それはお釈迦様が涅槃に入った後に作られたものであるから意味は無いのじゃ。
般若経とかでもよいのじゃ。
>>937
なれへそへそのごまであります。
ブッタが読んで勉強したフヴェーダじゃなきゃ意味ないのでありますね。
スッタニパータの講読ゼミは来春くらいまでかかりそうなので、じっくり探してみるであります。
(´・(ェ)・`)つ ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ
533 サビヤがいった、「何を得た人を<学識ある人>と呼ぶのですか? 何によって<すぐれた人>となるのですか?
またいかにして<行いの具わった人>となるのですか? <遍歴行者>とはそもそも何ですか?
先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」
534 師が答えた、「サビヤよ。教えを聞きおわって、世間における欠点あり或いは欠点のないありとあらゆることがらを熟知して、あらゆることがらについて征服者・疑惑のない者・解脱した者、煩悩に悩まされない者を、<学識のある人>と呼ぶ。
535 諸々の汚れと執著のよりどころを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。三種想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、──かれを<すぐれた人>と呼ぶ。
536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは<行いの具わった人>である。
537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、偽りと慢心と貪欲と怒りと<名称と形態>(個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人、──かれを<遍歴の行者>と呼ぶ。」
そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、座から起ち上って、上衣を一方の肩にかけ(右肩をあらわし)、師に向かって合掌して、ふさわしい詩を以て目のあたり師を讃嘆した。
538 「智慧ゆたかな方よ。諸々の<道の人>の論争にとらわれた、名称と文字と表象とにもとづいて起った六十三種の異説を伏して、激流をわたのたもうた。
539 あなたは苦しみを滅ぼし、彼岸に達せられた方です。あなたは真の人(拝まれる人)です。あなたは完全にさとりを開かれた方です。
あなたは煩悩の汚れを滅ぼされた方だと思います。あなたは光輝あり、理解あり、智慧ゆたかな方です。苦しみを滅ぼした方よ。あなたはわたくしを救ってくださいました。
540 あなたはわたくしに疑惑のあるのを知って、わたくしの疑いをはらしてくださいました。わたくしはあなたに敬礼します。聖者の道の奥をきわめた人よ。心に荒みなき、太陽の末裔よ。あなたはやさしい方です。
541 わたくしが昔いだいていた疑問をあなたははっきりと説き明してくださいました。眼ある方よ。聖者よ。まことにあなたは<さとりを開いた人>です。あなたは、妨げの覆いがありません。
542 あなたの悩み悶えは、すべて破られ断たれています。あなたは清涼となり、身を制し、堅固で、誠実に行動する方です。
543 象の中の象王であり偉大な英雄であるあなたが説くときには、すべて神々は、ナーラダ、パッバタの両[神群]とともに随喜します。
544 尊い方よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。神々を含めた全世界のうちで、あなたに比べられる人はおりません。
545 あなたは覚った人です。あなたは師です。あなたは悪魔の征服者です、賢者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから[彼岸に]渡りおわり、またこの人々を渡すのです。
546 あなたは生存の要因を超越し、諸々の煩悩の汚れを滅ぼしておられます、あなたは獅子です。何ものにもとらわれず、恐れおののきを捨てておられます。
547 麗しい百蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません、雄々しき人よ、両足をお伸ばしなさい。サビヤは師を礼拝します。」
(´・(ェ)・`)つ レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。