【小説】スナック眞緒物語2【日向坂応援】
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宮田愛萌さんのブログや「ひらがな推し」やでネタにされている架空空間「スナック眞緒」を舞台とした小説のスレです。 なお、「ひらがな推し」や宮田ブログでの「スナック真緒」での井口真緒さんと宮田愛萌さんはひらがなメンバーとは別人格という設定ですが、 ここではひらがなメンバーであるのかないのかというのは曖昧にします。 タイトルと冒頭と末尾の文は、宮田愛萌さんがブログで書いているのをテンプレとして使いました。 原案や参照にしたものがある場合には、その小説が完了したとき必ず明記します。 前スレ 【小説】スナック眞緒物語【けやき坂応援】 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/keyakizaka46/1548508699/ 新作はageて、リライトしたものはsageて書くことを基本とします。 前スレのメンバー別のリンクをスレ維持のため貼っていきます。 ゴン物語(その1) 普通、妄想を他人に打ち明けるということはまずやらない。 睡眠中の夢ならわりと人は積極的に話したがるが、妄想は胸に秘めたままで他人には隠しておこうとする。 夢は無意識であるが、妄想はみずから呼び起こし、都合のいいように手を加えているのをハズいと思うからだろう。 河田陽菜は妄想するのが好きで、ゴンというキャラをつくりあげた。 しかも、何ら恥ずかしがることなく人前でそのキャラのことを話したり、デザインしたそのキャラの画を見せるたり、 そのキャラになり切って演じたりする。 「俺はゴンだゴン。好きなものはみたらし団子だゴン。 一人が好きだからあまり話しかけないでゴン。写真も苦手だゴン。 僕はカメラを向けられると怒るゴン」 さらに、その好きが高じて、自らデザインした画を着ぐるみ制作専門に持っていき、ゴンの着ぐるみを完全オーダーメイドで注文した。 その注文品を受け取り、その後に仕事に向かったが、早く来すぎて楽屋には誰もいない。 暇だったので、着ぐるみの包装を解き、椅子の上に座らせた。 当たり前だが、着ぐるみはじっとして動かない。 暇に耐え切れず、陽菜はいったん楽屋を出て、部屋の外をうろついた。(続く) ゴン物語(その2) 楽屋に戻ってきて、テーブルを挟んでゴンの対面となる椅子に陽菜は座った。 「ああ、退屈だな。ねえ、ゴン、何かしゃべって」と陽菜は独り言を言う。 「僕の名前、ゴンというの?」と着ぐるみが突然話しかけてきた。 陽菜は驚いて、目を大きく見開き、座ったままで椅子とともに後ずさりする。 「お願いだから、そんなに驚かないでゴン」 「えぇぇぇぇ・・・・、驚くなと言われても・・・・」 「頼みがあるのゴン」 「なに?」と陽菜はおそるおそる答える。 「歩きたいけど、歩けないの。でも、陽菜ちゃんが『歩いて』と言ってくれたら、僕は歩けるようになるのゴン」 素直な陽菜は「歩いて!」と言う。 ゴンは椅子から立ち上がり、歩き出す。 陽菜が呆然としていると、ゴンが話しかける。 「ありがとう、陽菜ちゃん。今度は僕がお返しするゴン。 陽菜ちゃんには何か望みとかないのゴン?」 「語彙力がなくて、みんなによく馬鹿にされるの。だから語彙力を付けたいの。 できれば、英語とかその他の外国語も喋れるようになりたいし、いろんな知識も身に付けたい」 「ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴン。語彙力や知識が陽菜ちゃんに身に付くようになるゴン!」(続く) ゴン物語(その3) 楽屋に富田鈴花が入ってくる。 「ねえ、鈴花、オーダーメイドしていた着ぐるみを今日受け取ったんだけど、話したり歩いたりして変なのよ。本当に着ぐるみかな?」 鈴花は回り込んで着ぐるみを凝視する。 「オーダーメイドなの?Made in Lebanonっていうタグがあるよ。でも、ただの着ぐるみだよ。 陽菜が見ていないときに誰かが中に入ったんだよ。たぶん、美玖あたりじゃない」 楽屋のドアをちょうど開けた金村美玖が「呼んだ?」と言う。 「ほら、美玖じゃないよ」と陽菜が言う。 「じゃあ、他にそんなことをして陽菜をからかいそうなのは史帆姐さんかあやちぇり姐さんあたりかな?」 そのとき、メンバーが一斉に入って来て、その中に加藤史帆も高本彩佳もいる。 「あれ?全員いる?」とは鈴花は驚く。 「どうしたの?」と美穂が尋ねる。 「この着ぐるみの中に誰か入っているようなんだけど、でもメンバーは全員いるんだよね」 「え!?だったら不法侵入者じゃない。誰か早く警察に通報して!」(続く) ゴン物語(その4) 「待って!待って!中に入っているのが関係者ということもあるから、無暗に荒立てるのはよくない」と佐々木久美が収めようとする。 「じゃあ、どうしたら?」と鈴花は戸惑う。 「とりあえず中に誰が入っているかを確かめましょう。 鈴花と美玖で片手を押さえつけておいて。私が頭部を引っ剥がすから」 二人は言われた通りにする。 「あれ?おかしいな。引っこ抜けない。それにこの着ぐるみ何かちょっと変なのよね」 久美は力いっぱい引っ張る。 「痛いゴン。痛いゴン」と着ぐるみは泣き叫ぶ。 「ちょっと待って!この着ぐるみ、目から涙を流している。 陽菜、オーダーするとき、そういうオプションは付けた?」と鈴花が訊く。 「いえ、まったくそんなことは頼んでないよ」 気持ち悪がって、着ぐるみからメンバー全員が遠ざかる。 「イジメの次はシカトなの?僕が醜い怪物だから?人間に復讐してやるゴン」 そう言いながら着ぐるみは部屋から逃亡した。(続く) ゴン物語(その5) ゴンがいなくなってから、数か月経過し、ゴンのことはすっかり忘れていた陽菜だが、久しぶりにその姿を見た。 N自動車会社の最高執行責任者に就任している様子がテレビで放映されていた。 危機的状況にあったN社を大胆な改革でV字回復させたという。 ゴンの活躍はめまぐるしいもので、さらにその数か月後には会長に就任し、名誉も地位も金も手に入れた。 「アメリカ国外にいる10人の最強の事業家の一人」とゴンをフォーチュン誌は讃えた。 「立派になったね、ゴン」と陽菜は感涙にむせいだ。 ところが、失脚し、落ちぶれるのも急であった。 ゴンは東京地検特捜部によって4回逮捕され、金融商品取引法違反で起訴された。 しかも、あろうことかその保釈中に15億円の保釈金を捨ててまでレバノンのベイルートに逃亡した。 そこで記者会見を開くということを聞き、生みの親である陽菜は責任を果たそうと思い、そこに向かった。(続く) ゴン物語(その6) ゴンは最初の30分はフリーで喋り、日本の刑事司法制度に対して、その問題点を荒ぶって指摘した。 基本的人権が守られていない。99.4%の有罪率で、最初から有罪が決まっている。 信じられないくらい過酷で非道な長期の拘留をされ、そのあげく自白をすれば返してやると言われた。 「その様子は録音されているので、その部分はぜひ見てほしいゴン。 正義から逃げたのではないゴン。不正義から逃げたゴン。だから、逃亡は正当なことだゴン」 日本のメディアは検察の手先であるという言い分で記者会見には日本のメディアをゴンは入れなかった。 ただし、陽菜を含めた二人の日本人だけが例外として入ることができた。 ゴンは英語の他にフランス語とアラビア語を駆使して会見を行った。 どの言語も満足にヒアリングはできないはずの陽菜だったが、不思議なことに全てを聞き取ることができた。 さらに、日本の検察の人質司法の問題点もなぜか陽菜は理解しているのだった。(続く) ゴン物語(その7) フリーで喋った後は質疑応答に入った。 密出国の疑いを何人もの記者からゴンは質された。 秘匿性が高く、ラウンジからすぐに搭乗口へ向かうことができるプライベートジェット専用施設を使ったのではないのか? 大きな箱は音響機器が入っているという嘘の申告をして、税関職員を欺いたのではないのか? だが、「どうやって日本から出国したのかは話せないゴン」とゴンは繰り返すだけで堂々巡りとなった。 陽菜以外のもう一人の日本人が質問した。 あれ?この人、どこかで見たことがあると陽菜は思った。 「ハイ〜ッ!密出国のとき、あなたが入った箱というのはとても大きかったそうじゃないですか。 ああ情けない、私なら、その十分の一のサイズでも入ることができますよ」 ああ、思い出した。この人、エスパー伊東さんだ!と陽菜は膝を打った。(続く) ゴン物語(その8) 負けず嫌いのゴンはムキになって言い返した。 「僕は、あなたが言う十分の一のサイズの箱のさらに十分の一のサイズの箱にだって入ることができるゴン。 なにせ、僕は元々は着ぐるみだったからだゴン」 「ハイ〜ッ!じゃあ、なぜ、あなたはそんな大きな箱を使ったんですか?」 ゴンは密出国の様子を自慢げに語りだした。 「まず、監視体制がゆるくなりがちな年の瀬の間隙を狙ったゴン。さらにどの空港が検査が甘いかを調べたゴン。 そしたら、関西国際空港が非常に甘いということが分かったゴン」 「ハイ〜ッ!関空の検査が甘いということとあなたが大きな箱を使ったということは関係ないんじゃないですか?」 「最後まで話は聞くゴン。関西空港には特に注目すべき欠点があったゴン。 関西空港の検査の機械には大きな荷物は入らないゴン。だから、あえて大きな箱を用いたというわけだゴン」 「ハイ〜ッ!引っ掛かりましたね。結局、あなたは不法に密出国したことを自白しましたね」 その場にいた記者全員から拍手が起こった。(続く) ゴン物語(その9) 陽菜も質問した。 「プライベートジェットは薬物や金塊を運ぶという社会悪の温床になっているのよ。 ノーブレス・オブリージという言葉があるでしょ。あなたも社会の成功者として尊敬を集めたいのなら、 正義に反する人たちと同じようなことをしたのをどう思っているの?」 あれ?なんで、そんな難しいことを私は知っているの?と陽菜は自分自身を疑う。 「正義に反しているのは日本の検察だゴン」 「人質司法と呼ばれる日本の司法が問題だらけなのはたしかよ。 自白をすれば早く身柄が解放され、しなければ拘束が解かれないというあり様は100年も遅れている。 でもね、だからと言って、保釈条件を破って密出国という犯罪をおかして海外に行ったことは正当化できるものではないのよ!」 あれ?私の口から私の知らない言葉が勝手に出ているのはなぜ?と陽菜は再び訝しがる。 「えぇぇぇぇぇん、陽菜ちゃんだけは味方だと思っていたのに、なぜ僕を追いつめるゴン」(続く) ゴン物語(その10) 「わたしがあなたをつくったから、わたしがあなたの生みの親だから厳しいことを言うの」 「じゃあ、起訴されたら99.4%有罪とされるのは人権侵害だと陽菜ちゃんは思わないの?」 「それはね、少しでも冤罪の恐れがある場合には、不起訴にしているからよ。 むしろ慎重に起訴している日本の検察権の運用のほうが人権に配慮しているとも言える」 「僕は英雄だゴン。フォーチュン誌も僕を褒めたたえているゴン」 「N社のV字回復の手腕を賞賛する声もあるけど、2万千人もの末端の社員を切り捨てることで達成できただけじゃないの。 新自由主義的な筋からだけの一面的な賞賛にそれはすぎないの。 もし、日本人が最高責任者としてそういう手腕をふるっていたら、世間の批判を浴びるので、到底できなかった。 あなたがそういうことをできたのは、あなたが日本にとって異端者だからなのよ。 あなたは優秀でも何でもなく、単に異物としてN社の上層部から利用されただけなの」 大好きな陽菜からきつい言葉を言われて、傷心のままゴンは記者会見を終えた。(続く) ゴン物語(その11) ゴンはレバノン政府から出国禁止にされ、ベイルートに留まらざるを得なかった。 その間、ゴンは手記を出版した。 いろんな国の言語で出版される予定だったが、英語版がいち早く出版された。 その本が陽菜にも献本された。 レバノンから届いた郵送物を陽菜は開けた。 その本のタイトルは「Gon is gone」だった。 えーっと、goのような発着往来の動詞で現在完了を表す場合には、haveの代わりにbe動詞を使ってもよかったんだった。 だから、hasの代わりにisをつかっているのね。 タイトル名の意味は、「ゴンは去ってしまった」か。 古語風にすると、「去る」の連用形は「去り」だから、完了の助動詞「ぬ」を後に付けて、「ゴンは去りぬ」となるわ。 日本から去ってしまったということなの?それとも、私の元から去ってしまったということなの? そういうことを思いながら、400ページもある英語の本を30分くらいで陽菜は一気に読み終えた。(続く) ゴン物語(その12) レバノン出身であるゴンはレバノンに多額の寄付をしたり、学校をつくったり、インフラを整備したりしていた。 そういうこともあって、レバノンの市民全員が歓迎するものとゴンは高をくくっていた。 ところが、政府の汚職体質や経済低迷に市民が反発し、レバノンでは反政府デモが続いていた。 「金と権力を使い特権階級だからゴンは戻って来られた」 「ゴンは成功者だが英雄ではない」 ゴンに対する反発も起こり、居住区の8割が危険地帯であるというベイルートで、ゴンの住まいが襲われたのは当然の成り行きだった。 暴徒がゴンに襲い掛かろうとしたとき、中身は消え、着ぐるみだけが残されていた。 ゴンが消え去った後には、陽菜は語彙力も知識も失っていた。 献本された本のタイトルを見ても、なぜgoが受動態になっているの?という間抜けな勘違いをする元の陽菜に戻っていた。 もちろん本の内容もすべて忘れていた。 ときどきゴンのことを思い出しては、あれはいったい何だったんだろうと陽菜は不思議に思うだけだった。(了) 参照にしたのは2019.5.28と2019.9.3に放送された「HINABINGO!」。 前者は、ゴンのキャラを河田が発表した回。 後者は、ぬいぐるみが喋るというドッキリを金村が河田に仕掛けた回。 スナック眞緒物語♯9(その1) いつも賑わっているスナック眞緒だが、今日は客がいない。 「ママ、あの編集者さん、来る予定ないかな?教えてほしいことがあるのだけど」 「正月の休み明けで今は忙しいみたいだから、当面は来ないんじゃないかしら。教えてほしいいことって何?」 「本を読んでいて今は幸せなんだけど、本を読み続けることでその先に何が見えてくるのかが分からなくて。それをお伺いしたいの」 「そういうことだったら、源さんがいるじゃないの」 「誰ですか、その人?」 「芥川賞の候補にもなった人よ。愛萌もよく会っているじゃない」 「えっ!そんな人いたんだ!でも、私、会ったことないですよ」 「ほら、酔っぱらって愛萌によく絡んでくる人よ」 「そういう人は何人か心当たりはあるけど、でもやっぱり私は会ったことはないですよ」 「会ったことあるって。イケオヤさんと同じアパートに住んでいて、いまアルコール依存症で入院している人よ」 「えっ?あの人のことですか?あんな人が芥川賞の候補になったなんて嘘でしょう」(続く) スナック眞緒物語♯9(その2) 「本当よ!それに、あの人、自分の知り合いを連れてきてくれて、このお店におおいに貢献してくれているのよ」と眞緒ママは言う。 「へ〜、たとえば誰ですか?」と愛萌は尋ねる。 「あの美大生の人とか」 ああ、分かる、分かる、類友というやつね。 「もちろんイケオヤさんも」 余計なことを! 「それに天文学者の先生だって」 ん?つながりが見えない。 「天文学者の先生とはどういう関係なんですか?」 「ほら、源さんって、東大の仏文科卒でしょう。そこで知り合ったらしいわよ」 え!?あの人が東大卒?本当なら世も末だ。 「でも、ママ、先生は理系でしょ。文系の仏文科の人がどうやって知り合うんですか?」 「東大って前期課程では、文理を越境した科目の履修が必要だし、文理を横断するような講義もあるらしいから」 「けど、先生のほうがだいぶお若いんじゃないですか?」 「源さんも30代の半ば過ぎくらいよ」 「えっ!その年齢であんな老けてうらぶれているんだ。放蕩と不摂生の限りを尽くせばああなるの?」 「こら、こら、愛萌、お客さんが一人もいなくてもお店でそんなこと口にするのはダメでしょ」(続く) スナック眞緒物語♯9(その3) 店のドアのベルが鳴り、源が入ってくる。 「噂をすれば何とやらだわ。源さん、ちょうどあなたのことを話していたの」 「よう、ママ、久しぶりだな。愛萌、オメーもいたのか。 ブラジルに男と二人で旅行に行って、揉まれてオッパイがデカくなったんだってな。どれ、俺にも揉ませろ」 愛萌はシカトする。 やっぱりこんな人が東大卒で芥川賞候補なんて信じらんない。それにしても、あの美大生、適当なことばかり言って! 「あれ、でも、源さん、アルコール依存症で入院中じゃなかったの?」とママが尋ねる。 「家族の同意による強制入院だと外出は禁止だが、俺の場合は自分の意思による任意入院だから自由だ。 まあ、家でおとなしくしておこうと思ったんだが、イケオヤの奴が・・・」 「何かあったんですか?」と眞緒ママが訊く。 「ほら、俺らが住んでいるボロアパートの6室の電源供給は共通で、しかも30アンペアしかないんだ」 「6部屋に住人がいて、たったの30アンペア!いまどきそんなアパートなんてあるんですか?」と眞緒ママは驚く。(続く) スナック眞緒物語♯9(その4) 「で、な、俺らのアパートの前がゴミ捨て場で、イケオヤの奴、そこから電子レンジを拾ってきたんだ」 それって占有離脱物横領じゃないの?と愛萌ま思う。 「まあ、それはどうでもいいんだけどな。 電子レンジのように大量の電力を瞬間的に消費する電荷製品を使う場合は、 必ず窓を開けて、『今から使う』と大声で叫んで他の住人に知らせるのが決まりになっている。 イケオヤの奴、まともな電荷製品を持っていなかったから、有頂天になって、叫ばずに使って、ブレーカーが落ちたというわけだ。 すぐに誰かがブレーカーを戻して、電気は復旧したわけだが、興ざめしたから外出したんだ。 ああ、そんなことより、酒、酒。ウィスキーをダブルでくれ」 「いいんですか?」とママは心配する。 「ああ、医者の許可は下りてる」 愛萌が運んできたものを一気に飲むと、源は七転八倒しながら苦しみ出す。 「どうしたんですか?」と愛萌は蒼ざめる。 「愛萌、救急車を呼んで!」というママの叫びに、「救急車はダメだ。痛みが引いたら説明するから、ちょっと待ってな」と源は止める。 眞緒ママが源のそばに寄ろうとしたとき、「こんにちは」の声ともに店に業者が入ってきた。 「愛萌、お店の看板をリニューアルすることにしたから、業者さんに付き添うため外に出なくちゃいけない。 私の代わりに源さんの様子見しておいてね。何かあったら急いで知らせてちょうだい。 ご無事に回復なさったなら、聞きたかったことを源さんから教えてもらったらいいわ」(続く) スナック眞緒物語♯9(その5) しばらくして落ち着きを取り戻した源が言う。 「シアナマイドを服用したせいだ」 「何ですか、それ?まさか危ないクスリでもやっているんですか?」と愛萌は訊く。 「馬鹿言え、アル中用のただの薬だ。 肥料工場の労働者が酒に弱くなることから発見され、石灰窒素に含まれるカルシウムであるシアナミドからつくられる。 アセトアルデヒド脱水酵素の働きをブロックするため、酒を飲んだ後にそれを飲むと死ぬほどの苦しみを受けるらしい」 「らしい・・・って、今、ご自分で体験されたんでしょ。 それにお酒を飲んでもいいというお医者様の許可が下りていたなんて嘘なんでしょ。 苦しむというのが分かっていながら、どうして?」 「ああ、何事も自分で直に経験しなければ、分からないからな。そうじゃないと読み手の感情は揺り動かせない」 へ〜、頭の中は下卑た冗談だけで埋まっていると思っていたけど、作家らしく物事に真摯に向き合うこともするんだ。(続く) スナック眞緒物語♯9(その6) 源のヤジを契機にして編集者と会話したときのことを思い出し、源を試すかのような質問を愛萌は投げかける。 「出元は同じではないけれど、偶然に似たようなお話になるというものってあるんですかね?」 「なんだ、オメー、唐突に。そんなもんいくらでもあんだろ」 「たとえば?」 「めんどくせー奴だな。なんでそんなこと知りたがる?まあ、いい、教えてやる。 井原西鶴の『好色一代男』の中には聖書のアポクリファの『スザンナの水浴』という話に似たものがある」 この人の口から『聖書』という言葉が飛び出すとは・・・。 「その聖書の外典のお話とはどういうものですか?」 「スザンナという絶世の美女が水浴びしていると、覗き見した老人から『ヤラせないと、男と密会していたことをチクるぞ』と脅されるんだ」 うわ〜、この人にかかれば、聖書の話でもここまで下品な話になるんだ。(続く) スナック眞緒物語♯9(その7) 話を聞くのも嫌になっているが、自分から話を振った手前、「それに似た西鶴のお話はどういうものですか?」と愛萌は儀礼的に尋ねる。 「『好色一代男』の中の話だけどな。 女中が水浴びしていると、覗き見していた7歳の世之介から『ヤラせないと秘密をチクるぞ』と脅されるんだ」 「その女中さんに秘密は何かあったんですか?」と愛萌は無造作に質問してしまう。 「育ちのいい俺はあからさまに言いたくなくてぼかしたんだけどな」と源は意味ありげな薄ら笑いを浮かべる。 嫌な予感がした愛萌は質問したことを後悔し、黙り込んでしまう。 「オメーがよくやっていることだ」 「そんなこと言われても何のことか分かりませんが」 「水浴びしているときオナってたんだ」 「私、そんなことしたことは一度もありません!」と愛萌は顔を真っ赤にする。 「うひゃ、うひゃ、うひゃ、うひゃ、嘘つきめ」 相手にしていられないと思って、その場を離れようと思うが、 眞緒ママから源の様子見を頼まれたのを思い出し、愛萌は留まるしかない。(続く) スナック眞緒物語♯9(その8) 愛萌は話題を変えようとする。 「以前に仰っていたことで、『約束のネバーランド』は『私を話さないで』のパクリだいう見解でしたよね。 偶然に似たのではなく意図して真似たと思われるものは他にもあるんですか?」 「そんなもんもいくらでもあんだろ。たとえば、モーホー折口が書いた『死者の書』なんかは意図的にパクっているな」 「私の大学の偉大な先達に対し、そういう言い方をしないでください」 「だったら、『死者の書』はもちろん読破くらいしているんだな」 愛萌は黙り込んでしまう。 「なんだ、読んでないのか」 「どういうお話なんですか?」 「謀反の罪を疑われた男が、刑死場で自分に同情した女を見て、その女への思いに囚われる。 この世に何の後も残していないという執着から、死人になっても、その女の血筋の女に呼びかけるというストーリーだ」 「なんか切ない物語ですね。でも登場人物には名前がないんですか?」 「バッキャーロー、読んでいないオメーに負担にならないようにわざと言わなかったんだ。 男の名前は滋賀津彦で、同情した女の名前は耳面刀自で、耳面刀自の血筋の女は藤原南家の郎女だ」(続く) スナック眞緒物語♯9(その9) 源の勘に触る物言いに愛萌はムっとするが、興味惹かれる話だとも思う。 「折口先生が『死者の書』を書くにあたって、参照にされたのは何なんですか?」 「エジプトの古代書の同名の『死者の書』だな。 エジプト古代書でバラバラに切断された神オシリスが妻であり妹である女神イシスによって冥界の神として復活するというのを、 滋賀津彦が郎女によって再生されるという具合にパクっている」 「そう聞いただけでは、意図的に真似たとは思えませんね」 「『死者の書』の副題に『エジプトもどき』と付けたことからも分かるように、折口自身も表明しているんだ。 それに随所にエジプト古代書の影響が見られる。 たとえば、折口の『死者の書』の第2章の中にエジプトの古代書の89章に影響を受けた箇所がある。 前者の『こう。こう。お出でなされ。藤原南家郎女の御魂。こんな奥山に、迷うて居るものではない。早く、もとの身に戻れ。こう。こう』は、 後者の『おお連れてこられる者よ、飛び回る者よ。神の社にまします者よ。どこにいようとわが魂が私の元に連れてこられますように』に影響を受けている」(続く) スナック眞緒物語♯9(その10) 「折口先生が意図的に真似されたというのは分かりました。 そのように判断されれば、やはり評価は下がるものなのですか?」 「そんなことはねえ。個人の才能というのは文学の伝統の中で花開くべきだと主張した大家もいた。 先学を尊敬するあまり真似た箇所も必然的に出てくるというわけだ。ただし、上っ面だけの猿真似はいかんけどな」 「その折口先生の『死者の書』はどういう評価をされているんですか?」 「明治期以降の日本に近現代文学で最高峰と評価する者も多い。 さらに、近年になってもその研究論文は増える一方だ。 そして、古代エジプトの話を古代日本の話に換骨奪胎したことでその死生観の普遍性を見事に表現し、 模倣の域を超えた独創的な芸術作品という評価がなされている」 「そんなすごい本なら、いずれ読んでみたいと思います。それにしても、ディテールまでよく空で言えますね」 「まあな、俺も滋賀津彦と同様にこの世にまだ跡を残していないという思いがあるからからな」(続く) スナック眞緒物語♯9(その11) 「それは候補にはなったけれど、芥川賞を取れなかったということですか?」 「バッキャーロー、芥川賞なんて相手にもしてねえ。あんな盆暗な選考委員どもじゃ俺の小説の真価が分かりゃあしねえんだ」 「じゃあ、なぜ跡を残していないって言ったんですか?」 「滋賀津彦は自分の子も殺され、この世に子種を残していないことにも悔いを残していた。 『子を産んでくれ。俺の子を』と郎女に懇願する。子供がいない俺もそういう思いだ」 子供がいないという前に、相手にしてくれる女性もいないのでは?と愛萌は思うが、さすがにそのまんま口にはしない。 「そういう女性はいるんですか?」 「おうよ。俺が思っているのは愛萌、オメーだ。 俺が死んだ後、オメーの枕元に現れて、『俺の子を産んでくれ』と化けて出てやるからな」 うわ〜勘弁して。生きていても気持ち悪いのに、この人が死んだ後に私に執着するなんて耐えられない。 「お願いですから、そんな冗談、やめてください」と愛萌は顔をしかめる。(続く) スナック眞緒物語♯9(その12) 「何言ってんだ、子供をつくって、人類を繁栄させるというのは女の大切な仕事だろ。 トルストイの『クロイツェル・ソナタ』の後書きにこんなんがある。 『純潔が尻軽に優るということは、誰ひとり非難することはない。だが、その純潔が完全に実行されれば、人類は滅亡しなければならない』 オメーも人類存続に貢献すべきだ。俺と子づくりをしろ」 冗談で言っているんだろうけど、万が一本気だったら怖い。ここははっきりと意思表示しなければ! 「そりゃあ私だっていずれは好きな人の子供を産みたいとは思っていますよ。でも、それはあなたではありません! だいいち私とあなたじゃ一回り以上も離れているから、そんな対象にはならないでしょ」と愛萌は毅然とはねつける。 「俺は気にしてないぞ、そんなの」 「ちょっと待ってくださいよ。年齢差を気にするかどうかというのは若い方の私にあるということを言ってるんですよ」 「俺のほうが年下かもそれんぞ」 「また訳の分からないことを」 「実は、なあ、俺はプロジェリアなんだ」 「なんですか、そのプロジェリアって?」 「早老症というやつだ。ソウロウといっても、オメーの嫌いな早く漏らすという早漏ではなく、早く老けるという早老だぞ」(続く) スナック眞緒物語♯9(その13) 愛萌は絶句する。 「うひゃ、うひゃ、うひゃ、うひゃ、早漏の意味が分かるのか。 まあ、正しいことだ。純潔だけじゃ大人にはなれねえつぅもんだ」 「あなたのように傍若無人に下品なことを放言するのが大人ならば、私は大人にはなりたくもありませんよ」 「話を聞いてねえ奴だな、早老症だとさっき言っただろ。俺は、実は、まだ5歳なんだ」 そんな無理な設定なんかしなくても、そのままでも実年齢より見た目はずっと老けているんですけど。 そう口を滑らせようとするが、寸でのところで言葉を呑み込み、愛萌は黙っている。 「だから、『愛萌お姉ちゃん、僕にオッパイ飲まちて』と俺が言っても、5歳児を相手にしているんだから、怒るんじゃねえぞ」 「卑猥なことをそんなにもよく知っている5歳児なんていませんよ。 それにそういう病気で苦しんでいる人もいらっしゃるというのに、ギャグにすべきことじゃないですよ。 ともかく死んだ後に私にストーカーすると言うのは、冗談にしても止めてください」(続く) スナック眞緒物語♯9(その14) 「でも、オメーはすでに死者にストーカーされているかもしんねえぞ」 「唐突になんですか?また訳の分からないことを」 「唐突ついでに訊くが『イケオヤ』というのは何の省略語が知っているか?」 「知りませんし、知りたいとも思いません」 「そう言わずにクイズだと思って、考えてみろ」 愛萌は沈思黙考する振りをするが、どうでもいいと思っている。 「出てこねえか?かなりの難問だったみたいだな。 実は、『イケオヤ』というのは『イケメンオヤジ』を省略してんだ」 「はあ?イケメン?推測できる訳がないですよ。『食パン』の語源が『主食用パン』であると推し量るより難しいですよ」 「うひゃ、うひゃ、うひゃ、うひゃ、うひゃ、面白いな、オメー」 「そんなことで褒められても嬉しくありません。で、それは何の前振りなのですか?」 「『死者の書』の第18章には『滋賀津彦は極みなく美しいお人でおざりましたがよ』とある。 だが、死後、塚の中で朽ち果てその肉体は醜くなった」 また、何を言い出すのかしら?まさか・・・と愛萌は嫌な予感がする。(続く) スナック眞緒物語♯9(その15) 「また、『死者の書』の第4章には、『その耳面刀自と申すは、郎女の祖父君南家太政大臣には、叔母君にお当りになってでおざりまする』とある。 つまり郎女から三代遡った直系の祖先の女兄弟が耳面刀自で、その耳面刀自が滋賀津彦に同情したつぅうわけだ」 「もう後はだいたい予想がつくので、その話の続きは聞かなくてもいいですよ」 「そう言うなって。最後まで話しさせろ。 イケオヤは無実の罪で死刑となり、その処刑を見て同情したのがオメーの三代遡った直系の祖先の女兄弟だったつぅうわけだ。 イケオヤがオメーに執着する理由もこれで分かっただろ。 そして生きているときにはイケメンだったが、この世への未練から、朽ち果てた肉体のままで甦ったから今はブサメンなんだ」 「私の家系図で勝手に遊ばないでくださいよ。 だいいち三代遡ってもせいぜい百年前くらいでしょ。明治の終わりか、大正の始まりくらいですよ。 公開処刑なんてその頃にまだあったんですか? その上、その設定だと、私はイケオヤ氏の姪ということにはならないじゃないですか。なにもかも無理すぎます」(続く) スナック眞緒物語♯9(その16) 「なぬ!オメー、本当にイケオヤの姪っ子だったかのか!」 「違います。違います。違いますよ。あの人が私に対してしている間違った思い込みが姪であるということです」 「なんだ、そういうことか。あんまりびっくりさせんな」 「驚いたのはこっちですよ。どうやったらそんな曲解するんですか」 「でも、オメー、イケオヤが姪っ子だと思い込んでいることに安堵してねえか?」 「冗談じゃないですよ!姪っ子と思われるだけで屈辱ものですよ!」 「でもよ、彗星がやってきたら、イケオヤの気持ちも変わるかもしれんぞ」 また、何言いだすんだろう?心臓に悪い。 「はあ?スイセイですか?水の星のほうですか?ほうき星のほうのですか?」 「ほうき星のほうだ。その彗星は英語で何というか知ってるか?」 「cometですよね」 「正解だが、オメーのおっぱいがCカップからDカップへと大きくなったのを記念して、頭文字CではなくDから始まる英語で彗星を答えてみろ」 はあ・・・、あの美大生とこの人は陰で私のことを面白おかしくあることないことネタにしているんだろうな。 そう思うと愛萌は憂鬱な気分となり、強張った表情をほぐすためにため息を深くついた後で、「分かりません」とだけ言う。(続く) スナック眞緒物語♯9(その17) 「disasterだ。disとasterに分ければ、disは否定の接頭語で、asterは星を意味している。asteriskなら星型を意味するのは知ってるよな。 だから、disasterは『悪い星』を意味している。 その昔、突然現れる彗星は予測不可能だったので、天の秩序を乱す忌まわしいものだと信じられてたんだ。 そこから、彗星のことをdisasterと呼んだんだな」 「disasterって大惨事という意味があるのは知っていたのですが、彗星という意味もあったんですね」 「おそらく彗星のほうが先で大惨事というのは後から付け加わったと思うが、今ではそちらがメインとなってるな」 「日本でも、たしか『太平記』でしたかね、彗星を妖霊星と呼んで、不吉な予兆であるというのがありましたね」 「『天下まさに乱れんとするとき、妖霊星という悪星下って災ひを成す』のとこだな。 アリストテレスの時代から20世紀初頭くらいまでのヨーロッパのほうが、彗星=悪い星という固定観念はずっと強固だったんだがな。 そういう迷信に背いて、彗星を希望の象徴のようかにあつかったトルストイの小説があるが、その作品名は分かるか?」 「読んだことないですけど、トルストイの小説で最も有名な『戦争と平和』ですか?」 「当たりだ」 「今の私たちの感受性から見れば、そちらのほうが腑に落ちますね」 「ああ、美しく輝く彗星が不吉なものであるわけがないと一流の文学者の直観は見抜いたんだな」 え!?この人にも美しいと感じる心はあったの?(続く) スナック眞緒物語♯9(その18) 「『戦争と平和』の中では、突然現れた彗星によって登場人物の男の心が変わる。 それまでナターシャを妹のように思っていたピエールは、窮地に陥って涙を流しているのを見て、いじらしく感じ愛するようになる。 突然、現れた彗星によって変化した夜空とナターシャに対する自分の心の変化をオーバーラップさせるんだ」 「ロマンティックなお話ですね」 「それまで自分の本当の気持ちに気づかなかった男が、彗星を見たことで急にオメーを愛するようになったとしたらどうだ?」 「とても素敵です」 「うひゃ、うひゃ、うひゃ、うひゃ、うひゃ」 悪い予感・・・・。あっ!しまった! 「それまでオメーを姪っ子のように思っていたイケオヤが、彗星を見てオメーを女として愛するようになってもか?」 「お願いですから、やめてください。そんな話、聞いただけで、私は悪夢にうなされそうです」 「うひゃ、うひゃ、うひゃ、うひゃ、正直な奴め。 まあ、彗星というのは一種の表象だな。他のささいな出来事でも人の心は変わるかもしんねえ。 たとえばブレーカーが落ちたその瞬間に、オメーがブラジルまで行ったことを思い出し、 そこまでして姪っ子であることを拒否するのは女として意識してほしいからだと勘違いして、その“愛”に応えようとしているかもしんねえぞ」 「お願いですから、そんな話、本当にやめてください」と愛萌は叫ぶ。 暖房が効いている店内なのに、愛萌は体全身が鳥肌になる。(続く) スナック眞緒物語♯9(その19) いくつかの視線が自分に注がれているのを愛萌は感じ恥ずかしくなる。いつの間にか客が入っていて、先ほどの叫び声に注目が集まったようだ。 眞緒ママも少しびっくりして奥で愛萌を見ている。 「油を売っていちゃダメですね」と言って、次から次に変な話を聞かされて疲弊している愛萌はこれ幸いに場を離れようとする。 「ちょっと待て、オメーが俺に聞きたかったというのは偶然に似た作品とか意図して真似た作品とかいうことじゃなく、別のことだろ」 「ええ。でも、他にお客様がいらっしゃっているようですから」 二人のやり取りを聞いていた眞緒ママが近くにきて言う。 「愛萌、今いらっしゃるお客様がご注文なさった品はすべて配膳したから大丈夫よ」 「でも・・・」 「これからは愛萌に頼りっきりになるかもしれないから、今日くらいは自分の疑問を解消させることを優先させなさい」 眞緒ママにそこまで言われては、愛萌も従わざるを得なく、愛萌はしぶしぶ源に尋ねる。 「本を読み続けることでその先に何が見えてくるのかが分からないんです」(続く) スナック眞緒物語♯9(その20) 「なんだそういうことか。でも 、オメー自身もある程度は思うところがあんだろ。それを先に述べてみろ」 「まず、一点目は、本を読むことで語彙力とか知識とかは身に着きますが、それが目標じゃないような気がするということです。 次に、二点目は、趣味や娯楽の延長線上で本を読むことが最も効率よく感化されやすいと思っているんですが、それが正しいのかどうか。 最後に、三点目は、もしそうだとすれば、その先にあるものは、本というのは人の趣味にだけ影響するということになります。 それが正しいかどうかということです」 「一点目は正しい。博学多識となることだけを目標として本を読む奴はクソだ。 二点目も正しい。ただし、自分の好みの本だけを読むというのはいずれ成長の限界がやってくる。 もっとも、オメーの場合は現代日本文学だけでなく、古典も読んでいるようだから問題はないだろう。 三点目は間違っている。本というのは趣味趣向だけでなく、人の全人格に影響する。以上だ!」 「えっ!それだけですか?もっと具体的に教えてもらえないんですか?」 先ほどまでこの場から離れたかったのに、自分でも意外な言葉が飛び出したことに愛萌は驚く。 「ほう、オメーが心底聞きたいという目で俺に質問するのは初めてだな。だが、長くてつまらん話になるから聞くのはやめとけ」 「ぜひお願いします」(続く) スナック眞緒物語♯9(その21) 「そこまで言うのなら、参考になるかどうかは保証できないが、俺なりに応えてやる。 ただし、本と言っても範囲が広すぎるから、文学に限定して言うことにする。オメーが想定しているのもそんなところだろ。 で、だ。文学的感受性をいくばくか備えた奴の思春期の読書を考えてみたらいい。特定の作家に魂を奪われたひとときを思い出すだろ」 愛萌はうなずく。 「誰でもいいんだけど、死後70年も経っても読まれている作家として太宰治がいるな。その太宰にいかれた奴がいるとする。 寝ても覚めても、太宰、太宰、太宰と言って、じめじめした下手な太宰の文章まで真似てしまう」 「太宰治って、東大仏文科卒で、先輩じゃないんですか?」 「バッキャーロー、太宰の頃の東大仏文は無試験だ。そのときには金があれば誰でも入れた。東北のボンボンだったから太宰は入れた」 「はい、はい、分かりました。続きをどうぞ」 「酒をあおりアル中になったり、女にちょっかいをかけたりするようなことまで真似してしまう」 「その『奴』という人がアルコール依存症になったというのは分かる気もしますが、 女性にちょっかいをかけるというのはどんなことしたんですか?」(続く) スナック眞緒物語♯9(その22) 「たとえば、桜桃忌に三鷹くんだりまで行って、太宰ファンの女に『一緒に死んでくれません』と言ってナンパするとかだな」 「うわ〜、そんな突飛なことしていたんですか?で、その『奴』という人の成果はどうだったんですか?」 「すべて空振りだったな、不思議なことに」 そりゃそうでしょ、はなから失敗するようにしか思えないけど、と愛萌は心の中で冷笑する。 「ともかく、その『奴』という人は狐に取り憑かれたように太宰治に傾倒したということですね」 「誰かに傾倒したことがない人間というのは、一生、学問や芸術とは無縁の人間だな」 「でも、『文学もいいけどね、それを読むと自分が壊れそうで怖い』とか言う人にも出会ったことがありますよ」 「そりゃー馬鹿の言い草だ。何がおかしいかが分かるか? ないものが壊れたり、失われたりすることはない。そんな人間には確固とした自分なんてものはない。 せいぜいその場その場で移り変わる感覚的な反応をしているか、 もしくは批評家の意見を借りてきて、それを自分の意見のような顔をして言っているだけだ。 己というのは誰かに傾倒するところから始まる。徹底的に模倣することから始めるしかねえんだ。 あらゆる独創は模倣から始まる。それは如何ともしがたいっつうことだ」 あれ?いつもと違って真面目に話している。(続く) スナック眞緒物語♯9(その23) 「少し整理させてください。独創的になるためには誰かを模倣しなければならない。 誰かを模倣するためには誰かに傾倒しなければならない。 そして誰かに傾倒するためには、半ば嫌々の修養のための読書ではなく、趣味や娯楽で本を読むことが最も効率がいいということですね」 「まあ、そんなところだ」 「そういう一時的な傾倒というのは思春期に特徴的なものですよね。 やはり思春期には感受性が鋭敏だからですか?」 「それも確かにあるが、もっと大きな原因がある。 今では若者はポケモンgoに見向きはしないのに、やっている老人は多い。なぜかを考えたことがあるか?」 「お年を召された方というのは時間があり余っているからじゃないんですか?」 「もっと大きな要因がある。それは一種の侵略だ」 「侵略?」 「年寄りたちは今までにああいうeゲームを体験していなかった。 だから、未知の感情に驚いて、心が侵略されているんだ。 思春期における読書というのも同じようなもんだ。若造の未発達な個性により強力な作家の個性が侵略しているつぅわけだ。 だから、あまり本を読んだことのない奴はもっと歳を取ってから、そういうことが起こることもある。 何も知らない無垢な処女が抵抗できず犯されているのと同じようなもんだな」 そんな下卑た譬えはいらないのに、やっぱりそこに行くか。言わずに済ませるということはできないものなのかなあ。(続く) スナック眞緒物語♯9(その24) 「話を元に戻しましょ。その『奴』という人が太宰治に傾倒したというお話でしたよね」 「太宰に傾倒したその奴は全然自分というものを持っていなかったが、太宰を通してものを見るようにできるようになる。 太宰のように見、太宰のように感じ、太宰のように判断する一つの視点を自分の中に導入することで、 太宰の人生観を己の内部に移植することで、今まで何に対しても自分の判断を持っていなかったが、 何についてもある程度の判断やある程度の見方ができるようになったつぅわけだ。そうなると太宰一人じゃ済まなくなる」 「そういうものなんですか?」 「だって、オメーよ、太宰に傾倒し真似をし始めたら、太宰に影響を与えた人間が気になるだろ」 「そうですかね?」 「オメー、好きな男ができたら、その男の親や兄弟や友人が気にならんか?」 「そう言われればそうですかね」 (続く) スナック眞緒物語♯9(その25) 「そうすると井伏鱒二が気になってくる。井伏は大切な太宰の先生だった。特に、初期においては、井伏の影響が大きい。 そして、太宰が対称的な人間として、憎み、そして尊敬し、非常に複雑な感情を持っていた志賀直哉が気になってくる。 また、太宰と聞いただけでむかむかとして髪の毛が逆立つ変な男がいる。 そして、太宰のような人間にはなるまいとして、その文体だけでなく、肉体まで変えてしまい、最後は腹を掻っ捌いて死んだ変な男がいる」 「あ、それ、三島由紀夫ですね。でも太宰アンチの人も気になるんですか?」 「そのくらい太宰に関心があるんだから、興味を持つのは当然だろ。 また、太宰の青春期に決定的だった日本浪漫派時代に巡り合った太宰の親友に亀井勝一郎というのがいて、そいつも気になってくる。 そういう日本浪漫派運動を生み出した国文学者の折口信夫が気になってくる。 さらに、その師匠である柳田国男も気になってくる。 そして、そういう古典に対する強い傾斜を強要してくる同じ大学者の下で、違った道を歩み出した小林秀雄が気になってくる」 うわ〜、大学入試のため現代文の文学史で覚えた名前が次々に出てくる。(続く) スナック眞緒物語♯9(その26) 「そういうことをしている間に太宰治がころっと落ち、代わりに小林秀雄が憑りつく。 小林のように見、小林のように感じ、小林のように判断することで、第二の視点を奴は自分の中に持とうとするんだ。 第二の人生観が、太宰とは違う第二の人生観が、奴の内部に共存しようとするつぅわけだ。 まあ、こいつに引っかかったら大変だな。 アルチュール・ランボーが気になってくる。アル中で乱暴者じゃねえぞ」 うわっ!イタいダジャレ。 「そのくらい知ってますよ」 「オメー、読んだことあんのか?原語でだぞ」 「はい、はい、続きをどうぞ」 「『酔いどれ船』や『地獄の季節』や『飾画』を原文から読もうとして、大学では仏文を奴は専攻する。 ポール・ヴァレリーが気になってくる。逆説を多用したレトリックや精緻な論理展開を徹底して模倣するようになる。 そして、ついにドストエフスキーに手を出してしまう。 そしてヴァレリーが憑りつき、さらに、ドストエフスキーも憑りつく。 こうして、一人、二人、三人、四人と奴の内部に一流の個性が、一流の人生観が共存し始める。 まあ、初心だった処女が慣れてくると次から次に男を取り換えていくのと同じだな」 ああ、またか・・・・。そんな下劣な譬えはホントいらないんですけど。(続く) スナック眞緒物語♯9(その27) 「そうなることで、奴は初めて比較することを悟ってくる。 たとえば、太宰のこの繊細な感性は小林にはないんだな。小林のこの潔癖な一貫性は太宰にはないんだな。違うんだなということが分かってくる。 比較する力がようやく生み出されるようになったつぅわけだ。 そうして比較対照する力が身につくと、次に等級づける力も身についてくる。 たとえば、太宰のこの感性と小林のこの知性とをゆうゆうと合わせ持っているドストエフスキーは大きいんだな。 もっと広くて豊かで大きいんだな、一格上だなと、太宰と小林の上にドストエフスキーを置く。 そこから批評が始まり、それぞれの作家がいろんな能力や才能があることが分かってくる。 男を取っ換え引っ換えするようになって女の喜びを知ったかつての処女は、男を比べたりランク付けしたりするようになる。 今の男は前の男よりもテクニックはあるがサイズは小さいと思ったり、 テクニックとサイズの両方合わせ持った男が欲しいと思ったりするようになるのと同じだつぅわけだ」 うぅぅぅ・・・。その譬えがなんとなくは理解できる私自身が情けなくなるなあ。(続く) スナック眞緒物語♯9(その28) 「こうして、一人、二人、三人、四人と相異なる一流の人生観が影響し合うことで、価値体系ができてくる。 これは太宰の系譜でもちょっと変態ぽいものだとして、太宰の下に位置づける。 これはしょせん小林の亜流だとして、小林の下に位置づける。 これはヴァレリーのレトリックを真似ているが、虚仮威しにすぎない。 これはドストエフスキーの形而上学を真似ているが、迫真性がなく図式的なものでしかない。 そういうふうに自分の中にできあがった価値体系にいろんな作家を配置していく。 この比較する力、等級づける力、位置づける力が独創性つぅことだ。 独創性をようやく奴は、持ち始めたつぅわけだ。 そのとき、何を読んでも前のように、カーっとのぼせ上らない自分にいつの間にか気づく。 広い読書というものが価値があるのは、知識をため込むことじゃねぇし、博覧強記であると他人から讃称されることでもねえ。 次から次にいろんな作家の影響を受けることで、どんなに優れている作家であっても、 その一人の作家に過度に支配されることがなくなり、自ずと独創性が現れてくるから価値があるんだ。 それが、本というのが趣味趣向だけでなく、全人格に影響するつぅことだ。 男を多数経験した女は、俺のように床上手で馬並みの男でさえも極度にはのめり込まなくなるのと同じようなもんだ」 うわっ!その最後の一言で今まで聞いていたことがすべて吹っ飛んでしまった。(続く) スナック眞緒物語♯9(その29) 「まあ、オメーの場合はこれから数をこなしていくんだろうけどな」 「私、こう見えてもそこそこにはこなしていますよ」 「なぬ!オメー、いままで何人の男とヤッてきたんだ?」 「違います!!本の数のほうです!」 「なんだ。あんまりびっくりさせんな」 ん?デジャブのような?そうか、絶対にわざと間違えているな。 「こなしているとは言ってもまだまだ本を読む楽しみは残されてんだろ。俺にはもう期待することはあまりない。 なに読んでも予想がつき、途中でだいたいわかってしまう。もう人生が半ば終わったような感じだ」 「これからの希望とかはないんですか?」 「希望・・・か。今年、初詣に行ったとき、三つほど願ってきた」 「へ〜、どんなお願いしたんですか?」 「聞きたいか?」と源はほくそ笑む。 しまった!ろくでもないことを言いだす前触れだ。地雷を踏んでしまった。聞くんじゃなかった! 「あっ、でも、人の願掛けとかを聞くのはよくないことですね。聞かなくても大丈夫ですよ」(続く) スナック眞緒物語♯9(その30) 愛萌の制止を無視して、源はしゃべり始める。 「一つ目は、この世界から憎しみが消えて戦争がなくなりますように」 あれ?予想と違う。 「二つ目は、この世界から貧困が消えて飢えや病気で亡くなる子供たちがいなくなりますように」 えええええ?そこまで慈愛にあふれたお願いをしたの? 「三つ目は、愛萌のオッパイを揉むことができますように」 ちょっとでも感心した私が馬鹿だった。 「愛萌のオッパイに触りたい。愛萌のオッパイに触りたい。愛萌のオッパイに触りたい。愛萌のオッパイに触りたい。愛萌のオッパイに触りたい。 愛萌のオッパイを下から上に持ち上げて重さを知りたい。愛萌のオッパイを下から上に持ち上げて重さを知りたい。愛萌のオッパイを下から上に持ち上げて重さを知りたい。 そして愛萌から虫けらでも見るような目で『最低!』と蔑まれたい。そして愛萌から虫けらでも見るような目で『最低!』と蔑まれたい」 誰に対しても直接に怒りの感情をぶつけたことが、育ちの良さから、なかった愛萌だが、さすがに堪忍袋の緒が切れる。 両手で思いっきりテーブルを叩きながら立ち上がり、何も言わずその場から離れる。(続く) スナック眞緒物語♯9(その31) 気づけば店の中は多くの客であふれかえっている。 カウンターの中でグラスを拭いている眞緒ママと愛萌は目が合い、歩み寄る。 どうせ却下されるだろうけど、言うだけ言ってみようと愛萌が意を決して口を開こうとすると、眞緒ママのほうが先に話しかける。 「源さんを出禁にしたいの?愛萌の方針でいいと思うよ」 予期さぬ言葉に愛萌が戸惑っていると、「リニューアルした看板を見てきて」という眞緒ママの言葉に従い、愛萌は外に出る。 血相を変えて戻って来た愛萌は「どういうことですか!」と眞緒ママに詰め寄る。 「私ね、スナックの現場からは引退しようと思っているの。そこでここのママを愛萌に引き継いでほしいの」 「でもいくら何でも急すぎます。それに私に断りもなしに看板を『スナック愛萌』とするなんて!」 「お願い、愛萌、引き受けて」 「眞緒ママの代わりなんて私には無理ですよ」 「いいえ、あなたは賢いし、聞き上手だし、話し上手でもある。あなたに足りないのは経験くらい。 それに皆にはあなたのヘルプを日替わりでするようにお願いしているの」 「私が拒否したらこのお店はどうなりますか?」 「売り払って、入ったお金で海外移住しようと思っているわ。 でも、愛萌が引き受けてくれるなら、いずれはお店も丸ごと移譲しようと思うけど、当面はオーナーとして愛萌と連絡を取るよ」 「私がママだなんて不安しかないけど、でも、眞緒ママと縁が切れるのはもっと嫌です。だから引き受けます」 「ありがとう」と言いながら、眞緒ママは愛萌に抱き着く。 最後のスナック眞緒も大繁盛♪(了) 書く動機となったのは、次の宮田愛萌のブログ。 2019年7月17日「すかすかのかばん」 >読書はするべき!って色々言われているけれど >私はメリットのための読書は、あんまりおすすめしないなって思ってます。 >だって興味ない本読んだって何にも身にならないし〜って思っちゃうんです。 >面白そうだな、読んでみたいなって思った時に本を読むようになって、 >そして気がついたら身につくのが語彙力や教養だったりするわけで、 >娯楽の副産物だと思うんです!!! (その21)以後で、参照にしたのが、岩波文庫のT.S.エリオット「文芸批評論」(第15刷改版)の中に収められている「宗教と文学」。 主にP113とP114の箇所だが、それ以外の箇所も参照している。 ただし、日本の作家のことをエリオットはむろん論じてはいない。 また、(その21)以後で挙げた作家の全てに傾倒したわけではないので、熟知していない。 特に、志賀直哉と三島由紀夫に関しては一冊も読んでいない。 実は、エリオット「宗教と文学」のその箇所に対応する英語のテキストのコピーとその解説を録音したMDが高校生のときに出回っていた。 そこにはどんな作家から始まりどんな作家に一人の読者が行き着くのかという一例が具体的に語られており、それをパクった。 アル中に関する箇所は吾妻ひでお「失踪日記」を参照とした。 具体的には、強制入院と任意入院とに対する外出許可の違いやシアナマイドに関するところである。 触れないわけにはいかないと思うから、井口の卒業について思うところを書いておこう。 京子のブログからはオーディションで友好を深めた様子が、潮のブログからは井口が親身になって励ましてくれた様子が、 そして多くのメンバーのブログからはグループに迷惑をかけないように必死でダンスの練習をしていた様子がうかがえる。 それらのピースを組み合わせてできる井口像は、殆どの人直観する井口の印象と一致する。 つまり、共感力や思いやりやが強いというものである。 おそらく井口は人の感情に敏感すぎるため極度に臆病である。 その反動として突如狂気じみたこともやる。 井口の閉塞感を吹き飛ばすようなあの面白さはそこから来ているように思う。 そして反射神経は鈍いが、人の感情には敏感であるため、共感力や思いやりは人一倍強い。 人に迷惑をかけてはいけないということにも臆病になり、ダンスが上達することに惜しみなく努力した。 井口の卒業発表前に、(その4)でスナック眞緒の看板をリニューアルするということを書いていたので、 すでに卒業を決めつけていたと取られたかもしれないが、最後をどうするかはそのときには流動的だった。 つまり、井口が卒業しないときには、それを反映させて、「スナック眞緒物語」を継続するという方針だった。 ただ、井口の卒業発表された二日前にはおそらくもう戻っないんじゃないかという予感はあった。 それは「日向坂で会いましょう」の中で「ソンアコトナイヨ」のパフォーマンスを観たときだった。 あれだけ手数が多くスピーディーなダンスにもかかわらず、全員のダンスが見事にそろっている。 そしてそれが初披露ときている。 つまり、これからますます進化していくことになる。 ダンスど下手の上に、ブランクがある井口が戻っても、付いていけず、いたずらに苦しむ様子が想像できた。 そこで、(その19)では、「これからは愛萌に頼りっきりになるかもしれない」と「スナック眞緒物語」を終了させる結末を暗示させた。 歌ど下手、ダンスど下手のだめだめアイドルで、破壊力のある笑いをもたらす変なアイドルだったが、その人柄はメンバーの誰からも好かれていた。 井口の場合は、アイドルに見切りをつけて、一般人として生活するほうが幸せになれる気がする。 そういう意味では、卒業というのも、それはそれでよかったのかもしれない、 (その18)で書いたトルストイ「戦争と平和」の中のシーン、 突然現れた彗星によって、それまで妹のように思っていたナターシャをピエールが愛するようになるというシーンは、 新潮文庫だと第二巻の22章のP726〜728にある。 (その17)で、妖霊星=彗星というのを定説のように書いたが、実はそれは疑わしいようだ。 本「天空文学史 太陽・月・星」では、妖霊星は「レトリック上で創作された架空の星だった」としている。 囃子の文句に「ようれぼし」「ヤヨロボシ」というのがあり、それは「弱法師(よわぼし)」と同根であり、 そこから太平記の中の「妖霊星」は案出されたという見解をしている。 なお、「弱法師」とは乞食のことである。 生活困窮者は悪という差別がおそらく昔にはまかり通っていたというのが伺える。 ただし、空想上の産物であっても、いくつかの星のイメージが投影されている可能性を探っている。 螢その3つの星とは惑星(火星)、妖星(彗星)、隕石であり、それらのイメージが投影されたキメラのようなものだったのかもしれないと分析している。 以上のことを踏まえて、彗星についての話をもうちょっと広げようかとも思ったが、冗長になりそうだったので避けた。 ネット検索は疎んでいるのだが、「妖霊星」は検索してみた。 検索ページの最初のものは殆ど妖霊星=彗星と断定していたので、その決めつけに乗っかってみた。 でも、本「天空文学史 太陽・月・星」に書かれているほうが正しいんじゃないかと個人的には思っている。 妖霊星=悪星=disaster=彗星といういかにも俗事に入りやすい図式が近代になって定着したのではないかと疑っている。 >>80 の訂正 ×螢その3つの星とは惑星(火星)、妖星(彗星)、隕石であり、それらのイメージが投影されたキメラのようなものだったのかもしれないと分析している。 ○その3つの星とは螢惑星(火星)、妖星(彗星)、隕石であり、それらのイメージが投影されたキメラのようなものだったのかもしれないと分析している。 >>82 の訂正 ×俗事に入りやすい ○俗耳に入りやすい 小説「死者の書」について 版権が切れているので、こちら↓の青空文庫で読める。 https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/4398_14220.html 平城京の頃の言葉使いを真似てはいると思うが、書かれたのが近代なので、文章は決して難しくはない。 ただし、その頃の情景や習俗が想い描きにくいので、読破するのはかなり集中力がいると思う。 こういう本を読むときに必要なのは、「自分を殺す」ということかな。 つまり、自分を抑えて虚心坦懐で物語の中に入っていくことが必要となる。 現代の価値観や社会常識にとらわれながら読むと、結局、自分自身との対話になってしまい、何も得られない。 マンガになっているということを聞いて、半年ほど前に近藤ようこ版「死者の書」を手に入れて読んだ。 これがなかなか素晴らしい。 小説の章立てとはなっておらず、また話を分かりやすくするため順番を入れ替えた箇所もある。 そこは原作通りにしてほしかったが、最初にそのマンガから入る人には親切かもしれない。 また、平城京の時代に造詣が深くなくても、絵解きされているので、情景を想い描く労を取り払ってくれる。 また、折口「死者の書」では簡単に記されている神話に筆を加えて詳細にしているところなんかは読解に役立つと思う。 何といっても画がいい。 単純な線ながらも、奥深い心理描写を人物の表情だけで見事に描き切っている。 個人的には小説から入ったが、マンガを読んだ後に、それをガイドブックとして小説を読むのもおそらくいい方法だと思う。 さらに、その後でこのマンガを読めばその良さが分かると思う。 一粒の米(その1) 私の住む集落は埼玉県の中にあります。 集落の北には利根川があり、川が氾濫したときに洪水から集落を守るため、川の南側には長い堤が設けてあります。 集落の中心に築山のような小さな丘があり、その上に金村家の屋敷はございます。 その築山全体が金村家の敷地なので、塀や垣などはありません。 丘の周りの中腹には屋敷林が繁っており、それが金村の家と外界との境界となっています。 屋敷林には季節の花がいつも咲いております。 屋敷から見て真北には川の水を引く水門があり、ちょっとした小川くらいの大きさです。 用水路は真南に延び、丘の麓まで来ると、そこをなぞるように東側に彎曲し、丘が東側にもっとも膨らんだところで、また真南に延びています。 大正八年の春、私は十六歳になり、高等女学校五年に上がりました。 薄紅色の桜と薄緑色の若葉が麗らかな春の陽光に照らされ、ゆったりとした時間が流れているのを感じると、 無事に一年を過ごしたことに感謝の気持ちが自然と湧き上がってきます。(続く) 一粒の米(その2) 丘の上に建つ金村家の屋敷は伝統的な日本家屋でございますが、その北側にある別館は洋館風となっております。 屋敷の南の正門の前には二つの石灯籠があり、その間から石畳の小径が、屋敷林を貫き、麓まで延びています。 別館を東西に挟むようにしてもう二つほど丘の上には建物があります。 一つは寺子屋です。 明治五年に新学制が施行され、各地に尋常小学校が設立されましたが、最も近いものでもこの集落からは少し遠く、 また授業料の徴収を子弟の親御さんが敬遠したため、集落の子供たちのために建てられました。 私の屋敷に居候されている書生さんたちが、子供たちに勉学を教えております。 もう一つは剣術の道場で、道場の師範をなさっているのは丹生先生です。 江戸時代に秩父郡で振興した甲源一刀流の使い手で剣の達人です。 丘の麓にある家から通われております。 丹生先生のご子女には私より二つ年長の明里姉様がおります。 むろん本当の姉様ではないのですが、幼い頃からいつも一緒にいて、本当の姉様のように慕っております。(続く) 一粒の米(その3) どれほど謙遜しても嫌味に聞こえることもございますので、単刀直入に申し上げれば、金村家は古くからの名家でございます。 金村の名前は集落の名前にもなっており、埼玉県では一目置かれております。 金村家には二つの家訓があります。 一つは、「財を残すは下、名を残すは中、人を残すは上」というものであります。 沢山の財産を残すことより優れた人材を残すことに重きを置くというその家訓が旗印となり、寺子屋と剣術の道場は建てられました。 もう一つは、「一粒の米、もし死なずば、ただ一粒なり。死ねばこそあまた実を結ぶべし」というものであります。 元々は耶蘇教の天主様のお言葉で、「米」は「麦」というのが本来のもののようですが、 金村の集落が米所ということもあり、そのようにすり替わったのだと思います。 その家訓が教えるように、集落の人々のためになることなら、自己犠牲を惜しむなということがお父様の教えでもあります。(続く) 一粒の米(その4) 人とは違った才が私にはあるようです。それは先のこと予見する才であります。 天啓を受けたかのように、ときどき降りてくるのでございます。 何でもかんでもというわけにはいきませんし、何時かというのがもはっきりしているわけでもありません。 明日なのか、一年後なのか、十年後なのかは分からないのです。 でも、その才がこの集落にとって役に立ったことが何度かあります。 大正六年の年明けに、私は暴動が起こるということを幻視しました。 そして、ぼんやりとではありますが、その原因がお米の価格の急騰によるものだということを直観しました。 私はそのことをお父様に告げましたら、新田の開発が命じられ、できうる限りお米の作付けが行われました。 そして、第一次世界大戦の特需で商品輸出が急増し、日本国内での物価が騰貴したことが引き金となり、 昨年の大正七年には、お米が急騰して米騒動が起こりました。 1升が24銭だったお米が50銭に達し,各地で米の買い占めを行っている業者が襲撃されました。 私の幻視はそのときのものだったようです。(続く) 一粒の米(その5) また、大正八年の今年、これも年明けのことでした。 集落の北にある利根川が異常な増水をするという幻影を見ました。 明日なのか、一年後なのか、十年後なのか分かりませんでしたが、お父様には話しました。 米騒動を予見した私の才をお父様は信じなさって、その翌日から土木が始まりました。 混凝土なる材料で水の侵入を完全に防ぐという工事が東京市では行われているようですが、 埼玉の片田舎ではそんなものは手に入りませんので、江戸時代から続いている工法に頼るしかありません。 松の生木を川底に沈めて敷き木とし、筏に大石を載せて沈めて基礎とし、さらにその上に大石を積むという工事が行われました。 川の水に面する側には粘性のよい赤土を塗り固めることで水の漏れるのを防ぎます。 米騒動のときにお米不足が深刻となっていた近隣の集落に暴利を貪らずお譲りしたのですが、 それでもかなりの資産が蓄えられたようです。 また、適正価格でお譲りしたことで、この集落は尊敬を受けました。 そのときの資金で多くの人夫を雇い、また金村の集落だけでなく近隣の集落の人たちも積極的に手伝ってくださったこともあり、 堤防は思ったよりも早く完成しました。(続く) 一粒の米(その6) 今年の啓蟄に堤防は完成しました。 そのすぐ後に、季節外れの大きな暴風雨がやって来て、川が増水しました。 埼玉県の至るところでは川の氾濫のため田畑が甚大な被害を受けたり、多くの人の命が奪われたりしましたが、 金村の集落やその近隣では堤防で守られ無事でした。 堤防の上に登って、川の様子を見に行ったのですが、安堵すると同時に自然の恐ろしさを見せらつけられました。 水はかろうじて堤を超えてはいなかったのですが、これでもかというくらいに増水して、轟音を立てて川は流れておりました。 そのとき、「千丈の堤も蟻の一穴から」という支那の諺を思い出したのです。 蟻が堤防に作ったほんの小さな穴であっても、放置してしまうと大きくなり、ついには頑丈な堤をも壊滅させてしまうことに譬えて、 ほんのわずかな不注意や油断から、大きな失敗や損害に至ることを訓戒したものであります。 あくまで譬えで言ったことであり、蟻の穴くらいで堤が決壊するようなことはないでしょうが、 その諺に何とも得体のしれない不安を覚えました。 とまれ堤防は完成し、集落を守ってくれています。(続く) 一粒の米(その7) 春休みになり、女学校のお勉強に余裕ができた私はちょっと前に聞き齧ったことを師範学校に通われている書生さんに尋ねます。 「なんでも海の向こうの独逸では、とても頭脳明晰な学者様がおられまして、 物体が縮んだり、時間が延びたりすることを発見なさったそうですね。 そのようなことが真に起こるのですか?」 「ええ、そういうふうに私も伺っております。その学者様というのはアインシュタインという人ですね。相対性理論と言うそうです」 「真なのですね!興味がそそられます。美玖でも理解できますか?」 「何でも特殊相対性理論と一般相対性理論というものがあって、易しい方の特殊のほうですら理解している人は世界で十人もいないと言われております。 日本人ではおそらく皆無でしょう。もちろん私も理解しておりません」 「それじゃあ美玖なんかじゃとてもとても手の届かないものなのですね」(続く) 一粒の米(その8) 「現状では厳しいかと・・・。 でも、江戸時代には偉い学者様でも魔境のごと難解だった数学や物理学や天文学などが文明開化した今では理解しやすくなっております。 基本から積み重ねて体系立てるという教育の方法が確立したためだと思います。 美玖様ほどの聡明なお方なら、相対性理論ももう少し経てばお理解できるようになるかもしれませぬ」 「もう少しというのはどのくらいなのでしょうか?」 「五十年後、いや百年後くらいですかね」 「まあ、だったら頑張って、美玖も後百年生きなければなりませんね。 でも、できれば今すぐ理解しとうございます」 「金村様に学費を支援され師範学校にまで通わせていただいて勉学に勤しんでいる私が言うのも何ですし、 美玖様の学問への強い熱意は分かりますが、あまり根を詰めすぎるのもよくないかと。 支那の哲人の言葉に『吾が生や涯てありて、知や涯てなし』というものがあります。 人の一生に限りがあるが、知にはその限りがない。限りのあるものの中で限りないものを追いかけてもただ疲れるだけだという意味でございます」 「それは支那のどなたのお言葉なのでありましょうか?」 「支那の春秋戦国時代の荘子のものでございます」 「どのようなお人なのですか?」(続く) 一粒の米(その9) 「『胡蝶の夢』がよく知られているといえば、お分かりになりますか?」 「美玖は無知なのか、そのお話もよく知りません。よかったら、お聞かせできませぬか?」 「夢の中で胡蝶となり、ひらひらと心ゆくまで舞っていたけど、ふと目が覚めたら人間だったというお話です」 「不思議なお話ですね。どう解釈していいのやら」 「常識的には現実は現実で。夢は夢であります。 ですが、胡蝶であった夢が現実であり、現実の人間の今が夢かもしれぬということを示唆しているのだと思います」 「それは何かの寓意なのですか?」 「夢と現実との区別がつかぬ痴れ者を嘲笑うとか人生の儚さを嘆くとかと俗には言われることがあります。 ですが、生と死、是と非という具合にはっきりと区別をつける西洋的な二元論に対し、 相反するものでも同時発生しているというのが荘子の認識ですので、決してそういうものではないと思います」 「そういう認識には何か為になるものがあるのでしょうか?」 「私の勝手な解釈を付け加えてお話しすることをお許してください。 己に与えられた現実をたくましく生きよ、だが、現実で叶わぬことがあれば、夢を見てもよい。 そこに真に自由な人間の生があるというのを諒としております」 「なるほど、そういう読み方は腑に落ちますね。今日は面白いお話を聞かせてくださり、ありがとうござました」(続く) 一粒の米(その10) 春休みは明け、女学校が始まりました。 芽吹いた畑の作物は日の光を浴びて輝いており、春らしい陽気に包まれて幸せな気分に浸っている帰り道です。 隼に襲われて、全身血塗れになった小鳥が逃げているところに出くわしました。 用水路の畔でよく見かける愛くるしい小鳥です。 野生の隼を間近に見て、その鋭い嘴と爪に身震いしましたが、小鳥を哀れに思い、隼を追い払おうとします。 私が一歩を踏み出すと、拍子抜けするほどあっさりと隼は逃げていき、小鳥もすぐに別方向に飛び立ちます。 私を心配して農作業を中断して駆け寄って来た人が言います。 「美玖様、ご無事ですか?」 「ええ、なんともありません」 「営巣しているところに近づかなければ、人に危害を加えることはまずありやせんが、危険な奴です」 「あれは何なのですか?隼のように思いましたが、前に鷹狩のときに見た隼は灰色で烏くらいの大きさでした。 でも、あれは茶褐色で鳩くらいの大きさしかありません。あれは隼の子供なのですか?」(続く) 一粒の米(その11) 「いえ、あれは隼の子供ではなく、糞隼ですじゃ。 美玖お嬢様に対してそんな汚い言葉を使って申し訳ございやせんが、わしらはそう呼んどりやす。 隼なら飼って訓練させれば兎のようなありがたい獲物を捕まえてきますが、 あいつの場合は体が小さくて鼠くらいしか捕まえることはできやしません。 役に立たたない隼ということで糞隼と呼んでおりやす」 「それでも危険なのですか?」 「ええ、体が小さいといっても、やはり隼の眷属なのですから。 烏二羽から追われて逃げていましたが、急降下しながら上下に円をくるっと描いて、 烏の後に迅速に回り込むと、鋭い爪を立てて二羽を一気に蹴散らしたのを見たことがありやす。 実は、幼いころ近所のがき大将にいじめられ、反抗したのですが、体格の差はいかんともしがたく、あっさりねじ伏せられました。 その後すぐに、自分よりも体の大きい烏をあいつが追っ払ったのを見て元気づけられました。本当は大好きな鳥でありやす。 ああ、それと、畑の作物を食い荒らす鼠や畑に穴をあける土竜を捕まえてくれるので、役には立っておりやすね」 そのお話はとても興味深いのですが、それ以上に襲われていた小鳥をどこかで見た記憶があるような妙な気がします。(続く) 一粒の米(その12) 着物に帯という形振りでは、帯や裾が乱れやすいため、男性の袴を着用するというのが女学校の習わしです。 女学校は嫁候補を見つける場でもあります。 在学中に縁談がまとまり中退して結婚するのが望ましいとされ、 卒業まで残った女学生は卒業面と呼ばれ、売れ残りと哀れな目で見られることとなります。 ましてや女子大学校や女子師範学校などに進学すれば、哀れさを通り越して呆れられます。 若いうちから子供を産み育て、夫に尽くすという良妻賢母が女の理想像とされ、 女に教育は有害無益であると考えられている風潮がまかり通っております。 明治時代には近代化の機運もあり、女子教育にもむしろ積極的だったようですが、 尋常小学校の上に高等小学校とか中等学校とかの高等教育機関が充実してくると、各家庭に自費の負担がかかるようになり、 「勉強なんて家を継ぐ男だけがやればいい」というように歪められ、女子高等教育は衰退していったそうです。(続く) 一粒の米(その13) でも、明里姉様は女学校を卒業なされた後には、目白にある日本女子大学校に進学されました。 老嬢を養成するだけだと言われて、「目白の姥捨て山」と揶揄されておりますが、明里姉様は気にすることなく進学されました。 これからの時代は女も学問が必要だという丹生先生の方針が後押ししたようです。 明里姉様は求められなかったというわけではありません。 否、事実はまったくその逆です。 女学校の通学途中などで、多くの殿方から懸想文を明里姉様は手渡されました。 また、ご子息のお嫁さんを探すために、名士様の授業参観が女学校では認められていました。 姉様のとても可愛らしい容姿と健やかに育った精神は評判となり、 例年よりは数倍の名士様が各地からやって来られ、明里姉様には山ほど縁談が持ち込まれました。 姉様から断られた方が女学校の別の生徒と縁談をまとめたため、結婚の数はすごいものとなったのも、姉様の恩恵であります。 女には教育は不要だという風潮に秘かに反感を持っていましたので、明里姉様の決断は私の琴線に触れました。 なお、これも謙遜せずに率直に申し上げれば、 明里姉様に引けを取らぬほどの懸想文を私も手渡されてきましたし、縁談も持ち込まれておりますが、 姉様を真似て全てお断り申し上げております。(続く) 一粒の米(その14) 季節は移り変わり、夏になりました。 女学校の帰り道に田圃の畦道を歩いていると、蝉たちが一斉に鳴いています。 夏の暑さと相俟って、蝉時雨を疎ましいと思う人も多いようですが、私は大好きです。 蝉の大きな鳴き声が体の中に浸透していくような気がして、元気がもらえます。 でも、地上で成虫となった後には、わずかな時しか生きられず、連れ合いを求めるため、 命を使い果たすまで大声で鳴くことを思うと切なくもあります。 畦道からは少し離れた地面のほうから蝉の鳴き声がします。 そこに行きますと、背を下にして、起き上がれず、もがいている蝉がいます。 蝉は背中側の外骨格が頑丈で重いため、自力では戻れず、そのままの状態だと死ぬこともあると聞きました。 蝉を脅かせないようにそっと近づき、体を引っ繰り返してあげると、元気に飛び立ちました。 「素敵な連れ合いをきっと見つけるのだよ」と言いながら、私は見送ります。 私にも素敵な連れ合いは見つかるのでしょうか?(続く) 一粒の米(その15) 傍にある大きな木の幹を見ますと、樹上へ登っていく途中で羽化した蝉の抜け殻があります。 西日を浴び透き通っていて綺麗です。 「空蝉」という言葉があります。 蝉の抜け殻のことで、蝉の抜け殻のようにこの世は仮の儚いものという意味でも使われます。 「空蝉」は「現し臣」という言葉が転化したものだと教わりました。 「現し」は現世に映したことを意味していて、「臣」というのは人のことです。 「現し臣」というのは、天主様の姿をこの現世に映し出したものが人であるということです。 現世を生きる人というものは蝉の抜け殻のように儚い存在でもあり、天主様の姿を映した尊い存在でもあるということなのでしょう。 胡蝶は瞑目するとき、長い夢から覚めて、人だったということに気づくのでしょうか? 人も瞑目するとき、何かに生まれ変わるものなのでしょうか? そんなことをあれこれ考えながら、蝉の抜け殻にもう一度目をやると、命の厳かさを感じます。(続く) 一粒の米(その16) 九月の初頭のこの日、私はそわそわしております。 というのも大好きな明里姉様がご帰省されるという報告を受けたからであります。 日本女子大学校に入学されて以来、こちらには戻ってこられなかったのです。 もう一年半にもなります。 もちろん女子大学校にも休みはあるのですが、そのとき限って運悪くいろんな用事が重なり、ご帰省の頃合を逸されたそうです。 今回も当初は八月の予定だったのですが、ご都合で九月にまで遅れてしまったようです。 さらに間が悪いことに、今日の未明に台風が直撃しまして、昼頃だった到着の予定が夜遅くになるようです。 早くお会いしたいとやきもきしていると、北にある利根川が異常な増水をするという幻影がまた襲ってきました。 私は気が気でありません。 明里姉様はお昼にはどうせ参られないのなら、利根川の様子を見に行こうと思い立ちます。(続く) 一粒の米(その17) 台風一過ということで、雲ひとつない晴天となっているのですが、土は泥濘んでとても歩きにくいです。 到着すると、思ったほど増水しておらず、川の水位は堤防よりずっと下です。 異常な増水が少なくとも今日や明日のことではないことがはっきりしたので一安心です。 お屋敷に戻ってきても、夜まではまだ時間があり、矢も楯もたまらずという気持ちです。 夜も更けてくると、ご家族との積もる話もあるだろうから、私との再会は明日に回されるだろうとさすがに諦めました。 ところが、金村家へ夜半に尋ねてきてくださいました。 金村家へのお土産を女中さんにお頼みされている姉様の声が玄関ほうから聞こえてきたのを私は逃しません。 急いで顔を見に行きます。 「明里姉様!どうぞお上がりくださいませ」 「美玖様、お久しゅうございます。とてもお会いしとうございました。でも、こんな夜分に失礼なので、また明日にします」 「そんなこと仰らないでください。今日のこの日を楽しみに待っておりました。ちょっとでいいですから話しとうございます」(続く) >>93 >物体が縮んだり、時間が延びたりする 影山先生「正確にいえば、物体が縮んだり、時間が延びたりするわけではない」 京子 「えっ、じゃあ何が起きてるんですか?」 影山先生「実は時刻は人によって異なる つまりある人にとって同時におきていることが 別の人にとっては異なる時刻でおきている」 京子 「マジ?なんでそんなことになるんですか?」 影山先生「実は光速度が誰にとっても同じだから ニュートンは誰にとっても時刻は同じとして理論を組み立てたけど マイケルソン・モーリーの実験は理論に反する結果が出た ローレンツやポアンカレは電磁気学での出来事として マクスウェル方程式を不変とする変換(ローレンツ変換) を導入して人によって異なる時刻を「局所時間」としたけど アインシュタインはさらに踏み込んで、光速不変の原理を 立てて、力学も同様であると主張した それが相対性理論」 京子 「全然ついてけないんですが」 影山先生「残念ね ねるちゃんは理解したんだけど」 京子 「あの味覚音痴が・・・」 >>94 >聡明なお方なら、相対性理論ももう少し経てば >お理解できるようになるかもしれませぬ 京子 「ところで相対性理論って大学何年で教えるんですか?」 影山先生「特殊相対論なら大学1年ね」 京子 「ゲッ、そんなに早いんですか?」 影山先生「基本的には線形代数だから」 京子 「一般相対論なら何年ですか?」 影山先生「3年か4年かしら さすがに微分幾何は難しいから」 京子 「ま、でも関係ないか、わたし文系だし」 影山先生「京子さんの破滅的な日本語でも合格できる大学ってあるのかしら」 京子 「何か言いました?」 影山先生「いえ何も」 >>94 >魔境のごとく難解だった数学や物理学や天文学 影山先生「ところで京子さんは銀河系の中心に何があるかご存知?」 京子 「いえ・・・まさか銀河帝国の要塞?」 影山先生「ハリウッド映画の見過ぎね 実は・・・巨大ブラックホール」 京子 「ブラックホールって・・・穴?」 影山先生「(史帆さんが”京子はほんと常識ないんですよ~”って いってたけど本当だったのね) ブラックホールといっても穴ではなくてきわめて高密度の天体 銀河系の天体が中心に対して周回運動をしていることから 中心に巨大な質量が存在している筈だと予想されていたけど 近年になってその正体が巨大なブラックホールであるという 証拠がいろいろ得られたわけ 銀河系の中心にあるブラックホールはいて座A*と呼ばれていて その質量は太陽360万個分といわれている」 京子 「マジ銀河帝国スゲェ」 影山先生「結局そこに戻るのね」 >>104 >物体が縮んだり、時間が延びたりするわけではない >実は時刻は人によって異なる >つまりある人にとって同時におきていることが >別の人にとっては異なる時刻でおきている 下三行はいわゆる同時刻の相対性のことで、それには全く異論はない。 だが、上一行をどう解釈するかというのは難しいところだな。 つまり、下三行の効果を考慮しても、物体が縮んだり、時間が延びたりすると見なさなければならないんじゃないか? よく示される電車の例で、物体の縮みに関してだけを見ていく。 地上から見た電車の長さをbとし、その電車の真ん中で電車の両端に向けて光を発射させたときの地上から見た時刻差は、 b/2(1−v)−b/2(1+v)=bv/(1−v^2) (ただし、表記が煩雑になるので、光速度を1としたときの単位系での電車の速度をvとしている。) 電車から見て同時刻となるとき、刻印機を作動させて、地上に刻印させ、地上から見たその刻印間の長さをaとすれば、 b=a−v×bv/(1−v^2) ∴b=a(1−v^2)・・・(1) 電車から見た電車の長さをb´、電車から見た刻印間の長さをa´とすれば、電車から見れば、その長さは等しいので。 a´=b´・・・(2) ここで、動いている物体の長さが変化しないとすれば、a´=a、b´=bとなり、(1)、(2)から矛盾が起きる。 よって、動いている物体の長さはk倍に縮むとする。 (このkは相対論係数の逆数となっている。) 地面から見れば、電車の方が動いているので、b=kb´・・・(3) 電車から見れば、地面の方が動いているので、a´=ka・・・(4) (1)、(2)、(3)、(4)から、k=√(1−v^2) (普通の単位系で表した電車の速度をVとすれば、v=V/cなので、 k=√{1−(V/c )^2}となる。) 上の議論から分かるように、(1)は同時刻の相対性によるものだが、 (3)、(4)はその矛盾を解消するために、空間が縮んだと解釈すべきと思っているんだが。 >>107 間際らしくて申し訳ないが3人目の東京都です 信じてもらえるかどうかはわかんないけどID:rFnVG4E50とは別人だ 3点ほど質問あるんだけど、いいかな? 1 光速度を1とするときの単位系を用いるのはいいんだけど そのときの長さの単位はどうなるの? 2 (1)と(3)と(4)の式の論理の流れはよくわかるけど(2)がいまいちわかんない 簡単な式なんだけどね 3 相対性原理は、(3)と(4)でKの値を同じにしたことでつかっていることはわかるんだけど 光速度一定の原理はつかってないの? なんか場違いなカキコかもしんないけど疑問に思った 疑問への答に納得できたら二度と出てきませんので よろしくお願いしますm(._.)m >>108 >1 これは説明不足だったかな。 時間の単位を年とすれば、年⇔光年で対応させて、a、a´、b、b´の単位は光年を使う。 ただ、時間の単位は秒とするのが普通なので、秒⇔光秒で対応させれば、a、a´、b、b´の単位は光秒を使う。 光秒というのは1秒間に光が進む距離である。 そうすると、光速度を1とすることができる。 >3 いや、光速度一定の原理は使っている。 (1)を導くとき、電車から見ても地面から見ても光速度は1としている。 だから、電車から見て電車の両端に光が到着する時刻は等しくなり、地面から見て電車の両端に光が到着する時刻は異なってくる。 もし、地面から見て、電車の速度の慣性を受けて、光速度が変化するとすれば、 地面から見て、右、左に進む光の速度は1+v、1−vということになる。 そうすると、地上から見た時刻差は、 b/2{(1+v)−v}−b/2{(1−v)+v}=0 となり、時刻の相対性は生じない。 つまり、光速度一定の原理を使ったからこそ同時刻の相対性が生じている。 >2 たとえば、あなたが自分の部屋の中にいるとして、左右の壁間の距離を3mとする。 その3mというのは、今すぐ測っても、昨日に測っても、変わりようがない。 ここで、普通は考えないちょっと変なこと考えてみる。 右の壁は現在の位置で、左の壁は昨日の位置で壁間の距離を測ってみる。 あなたから見たときの左右の壁の長さはどうなるか? あなたから見て、左右の壁は動いていないのだから、やっぱり3mと答えるべきだよね。 ところで、地球は自転しているし、太陽の周りを公転もしている。 さらに、>>106 に書かれている巨大ブラックホールの周りを太陽系全体が時速200km以上の速さで公転している。 さらに、天の川銀河から遠く離れた銀河から見れば、宇宙膨張の速度も考慮しなければならない。 ちょっと余計なこと言い過ぎたけど、要はあなたの家が動いているという系を考えることができる。 簡単な数値を用いることにして、右向きに一定速度で一日に50cmだけ動くとする。 このとき、その系から見たとき、左の壁は昨日の位置で、右の壁は現在の位置で測ったとき、左右の壁の長さはどうなるか? 3m50cmになるのは疑いようがない。 つまり、あなたの家の中から見れば、時刻が変わっても、左右間の壁の長さは変わらないけど、 あなたの家が動いている系からみれば、その長さは変わる。 a´、b´というのは電車の中から見た前端と後端の間の長さなので等しい。 (電車の中から見て、a´は同時刻で、b´は時間差が生じている、) これに対して、a、bというのは電車が動いているのを見ている系(地面系)での長さなので、違っている。 (地面から見て、aは時間差が生じていて、bは同時刻である、) 2に関して、あなたが意図していたのかどうかは分からんけど、一言付け加えておく。 実は、光速度一定の原理を用いなくても、相対性原理だけで特殊相対性理論を導き出すことはできることが証明されているようだ。 >>104 が、アインシュタイン以前に特殊相対性理論の発見に貢献した物理学者を書いてくれている。 ローレンツやポアンカレはマイケルソン・モーリーの実験の解釈を力学の中だけでやっていて、 電磁気学まで踏み込んだのがアインシュタインと認識しているので、その箇所には意見の相違があるが、 マクスウェル方程式を慣性系で不変としたことで特殊相対性理論が完成したというのには異論はない。 マクスウェル方程式の中には光速度一定の原理が秘められていて、電気的な定数である誘電率と透磁率から光速度が計算できる。 したがって、電磁気学で相対性原理が成立するなら、それによって光速度一定の原理も必然的に成立する。 力学でも同じことが言えるのなら、光速度一定の原理を用いないで、相対性原理だけを指導原理として、特殊相対性理論は導けるはずである。 そして、空間の対称性は用いるけど、相対性原理だけで特殊相対性理論が導けることが明らかにされているようだ。 そのことは習っていないし、ざっとNET検索してみたが、見つからなかったので、どういうようなロジックなのかは分からない。 おそらく一線級の物理学者にしか理解できない相当に難解なものだと思う。 だけど、一線級の物理学者が特殊相対性理論を今さら研究するわけがない。 ラテン語で書かれた「週刊プレイボーイ」というものがあったとしても誰も読まない。 知識人は馬鹿にして読まない。 一般の人間には読めない。 それと同じように、一線級の物理学者は研究しない。 一線級未満の物理学者では歯が立たない。 だから、いまだに特殊相対性理論が相対性原理だけで導き出せることがあまり知られていないんだと思う。 一粒の米(その18) 「土砂降りの道悪のため、足下がひどく汚れております。金村様のお屋敷を汚すわけにもいきませんので」 「嬉しゅうございます。お着換えされる間もなく金村家へのお土産を持ってきてくださったんですね。 そうだ、別館のほうに行きましょう。あそこなら土足ですし、お気になさる必要はないですわ」 間髪を入れず姉様の腕を掴んで、そのままで女中さんに履物を用意させ、姉様を別館にお連れします。 別館の真っ暗な大広間に入ると、姉様は仰います。 「この音とにおい。懐かしゅうございます」 私が燭台に火を灯すと闇が明るさに包まれます。 洋卓と椅子を広間の中に運び、落ち着いてから私は語りかけます。 「子供のころには、美玖より背の高いこの柱時計が傍若無人に鳴らす大きな音と仮漆のにおいに当時は威嚇されましたね。 でも、もう慣れたのか、今ではまったく気にならなくなりました」 「明里もそうでしたが、久しぶりのためか耳と鼻に入ってきます。でも、決して嫌なものではなく、旧知の友に会えた気分です」(続く) 訂正 >>109 の「>3」から7行目。 ×地面から見て、【右、左】に進む光の速度は1+v、1−vということになる。 ○地面から見て、【前方、後方】に進む光の速度は1+v、1−vということになる。 >>109 の「>2」から7行目。 ×太陽系全体が【時速】200km以上の速さで公転している。 ○太陽系全体が【秒速】200km以上の速さで公転している。 >>110 の1行目。 ×2に関して、 ○3に関して、 一粒の米(その19) 女中さんが入ってきて、姉様がここに少し暇するということを丹生家に言伝したことを報告してくれます。 そして、姉様がお土産に持ってきてくれたお菓子を出してくれて、お紅茶の用意もしてくれています。 「じゃあ、私はこれで」という女中さんに、「貴女もどうぞ」と言うと、「滅相もない」と遠慮するので、 私は二つほど手に取り、女中さんの手に握らせてから帰します。 その様子を見て、微笑んでいた姉様が仰います。 「風月堂の真珠麿です。美玖様、お懐かしいでしょう」 「懐かしい?美玖はこのような西洋のお菓子を食べたことも見たこともありませんが」 「そうか、明里が五歳のときだったから、美玖様は三歳のときでしたね。覚えでおいでにならなくても無理はありませんね。 この別館が完成したとき、進物された真珠麿を美玖様は召し上がられたのですよ。明里も頂きましたが。 そうそう、その年に明治屋が日本で初めて販売した外国産のお紅茶も進物されて、そのときも真珠麿と一緒に出されていましたね」 自分の頭の中を私は探し回りますが、そういう記憶は出てきません。(続く) >>110 >実は、光速度一定の原理を用いなくても、 >相対性原理だけで特殊相対性理論を導き出すことは >できることが証明されているようだ。 大嘘 >>110 >力学でも同じことが言えるのなら、光速度一定の原理を用いないで、 >相対性原理だけを指導原理として、特殊相対性理論は導けるはずである。 大嘘 >>114-115 どこがどういうように大嘘なのかを具体的に書いてくれないか? まあ、>>114 に関しては、習っていないし、NET検索で見つからなかったので、その証明のロジックを分からないと書いている。 だから、それはこちらの勘違いかもしれない。 ただ、英語論文まで含めて調べつくして、「大嘘」と言っているのかな? だが、>>115 に関しては、仮言命題というのは分かっているのかな? >>110 に書いたように、マクスウェル方程式の中に光速度一定が必然的に含まれていることは認めるよね? だったら、電磁気学で相対性原理が成立するなら、特殊相対性理論は必然的に成立するというのも認めるよね? その上で、「力学でも同じことが言えるのなら」と仮定して、 「光速度一定の原理を用いないで、相対性原理だけを指導原理として、特殊相対性理論は導けるはずである」と書いている。 「電磁気学なら相対性原理だけで特殊相対性理論は導ける」は真である。 だから、「力学でも電磁気学と同じことが言えるのなら」と仮定すれば、 「力学でも相対性原理だけで特殊相対性理論は導ける」と結論するのは論理学上で妥当となる。 その仮定が真か偽なのかは関係なく、あくまでそう仮定した上でなら、その命題は妥当となる。 一粒の米(その20) 握りしめていた手を弛めたら、女中さんに手渡したときに手についてしまった真珠麿の欠片が零れ、お紅茶の中に入りました。 零したことをはしたないと思って、急いでそれごと飲もうとします。 口蓋にそれが触れた瞬間に、その味と匂いが何かを主張します。 雑然と掻き混ぜられて渦をなして溶け込んでいたあまりにも遠い思い出がゆっくりとよじ登って来ます。 そして、その渦の一つが明確な形をつくると、一気に全ての輪郭がつくられ、鮮明な記憶が甦ってきました。 私が喉に詰まらせないようにお母様が千切って渡してくださった真珠麿をお紅茶に付けて食べたことが。 私の隣で明里姉様も真珠麿を召し上がっていたことが。 そして、そのときの記憶はこの別館の昔の様子にまで広がっていきます。 あの柱時計は二代目で、初代のものはもう少し小さかったことが。 広間の奥の階段は最初はなく、別館に二階が増築されたときにつくられたことが。 さらに、記憶は別館の外にも広がっていきます。 改築される前の剣術の道場の様子が。 寺子屋ができる前の更地の様子が。 別館と本館をつなぐ渡り廊下が最初はなかったことが。(続く) 一粒の米(その21) 目で覚えていたものは消えるか眠り込むかして意識に到達する力を失っていたのに、 匂いと味は執拗に残ってわずかな刺激で甦るのです。不思議です。 水を満たした瀬戸物のお茶碗に小さな紙片を浸すとたちまち伸び広がって色がつき、 花や家や人の形などが鮮やかに復元される水中花のように、過去の別館の内の様子も外の様子も一杯のお茶から飛び出してきました。 この一瞬での夥しい思い出の喚起は、人生が儚いというのは錯覚であるかもしれないという愉悦をもたらしてくれます。 心が高ぶっている私を見て、「美玖様、どうなされたのですか?」と姉様は仰います。 「思い出しました、喉に詰まらせないようにお母様が千切ってくださった真珠麿をお紅茶に付けて食べたことを。 そして、そのときのこの別館の中の様子も外の様子も何もかも。 美玖は十三年前の昔をしばし旅してきました。 姉様のおかげです。明里姉様がやることなすことの全てが美玖に幸せを運んできます」(続く) 一粒の米(その22) 姉様は改まって仰います。 「美玖様、丹生家は金村様に仕えております。道場も金村様のものでございます。 私たちは幼いころからいつも一緒でしたので、美玖様が私に『明里姉様』とお呼びになることが見過ごされてきました。 ですが、私ももう女子大学校に通っている身なので、このままでは他の使用人の方たちにけじめがつきませぬ。 どうか『明里』と呼び捨てにしてくださいませ」 「いいえ、敬愛する明里姉様になら美玖は何でも従いますが、そればかりはできません。 美玖がそう呼ぶのは明里姉様を心の底から尊敬しているからでございます」 「弱りましたね」と姉様は困った顔をされます。 話題を変えようと思い、着物の内側に入れていたものを出しながら、私は言います。 「突然のご帰省だったので、美玖のほうから姉様への贈り物を準備できませんでしたので、こんなものしか差し上げられません」 「まあ、素敵!」 「今日、堤まで足を延ばしたときに、白詰草が咲いていました。姉様のことを思いながら花冠を編んでみました」(続く) 一粒の米(その23) 「なによりです。実は明里のほうからも美玖様にだけは別のお土産があります」 姉様はそう仰りながら、洋卓の上に金色の箔押しがある八角形の陶器を置かれます。 「何ですか?それは」 「資生堂が一昨年に発売した七色粉白粉でございます。 本当は全部で七色あるのですが、二つ買うのが精一杯でした。 勝手ながら黄色と緑色を選びました」 「今すぐ試してみてもいいですか」と喜び勇んで、私は燭台を手に取り、姿見のある大広間の隅に行き、顔に塗ります。 「白粉というと白色しかないものと思っていました。これは、色彩が豊かで、様々なお洒落が楽しめますね」 「喜んでいただけましたか?」と姿見に映っている姉様が仰ります。 「ええ、とても嬉しゅうございます。姉様はどれだけ美玖を喜ばせになられたらお気が済むのですか?」 「文明開化のおかげでこういう派手で華やかなものがこれからもどんどん増えていくのでしょね」 お凸に緑色を、両頬に黄色を塗った自分の顔を見て、緑色の屋根瓦と黄色の壁のお洒落なお家をなぜか私は想像します。(続く) 一粒の米(その24) 久々に姉様に会えた興奮でいつまでもお話は途切れることはありません。 姉様のほうも眠気はまったくないようで、元気に口を開かれます。 「ところで、行田電灯の電灯家数が一万戸に増えたとお聞きしました」 「この丘の上からならその明かりが灯っている様子が遠くに見えますよ」 埼玉は田舎と都会の境界であり、この大正という時代は伝統と発展の端境期です。 その二つが綱引きをして生じる軋みの中に私はいるんだなと考えながら、姉様と外に出ます。 長く話し込んでいたのですが、夜明けまではまだちょっと時間があるようで外はまだ真っ暗です。 もう季節は秋で、夜風が冷たく感じます。 北西の方向で光っているところを指さし、「あれです」と私は言います。 「綺麗、まるで地上の星ですね」と明里姉様はうっとりされます。 「東京市のほうはもっと明るいのではないのですか?」 「ええ、でも、あそこからどんどん電灯の光が埼玉県に広がっていき、 この集落にも電灯設備がいずれできると思うと美しゅう感じます」(続く) 一粒の米(その25) 「地上の星も綺麗ですが、やはり本物の星のほうがいっそう美しいとは思いませんか?」 「ええ。ここはいいですね。全方位に星を見ることができます」と仰りながら、南に向き直り、座されます。私もその横に座ります。 南東の地平線のすぐ上の空を指さして、姉様は暗唱されます。 「かれにもしるき參宿の もなかにひかりかゞやきて かたどる影は眞善美 三の星こそ並ぶなれ」 「土井晩翠の新体詩『天地有情』ですね。『参宿』とは支那での鼓星の呼び名でしたね。 四つの星で象られた鼓星の四角の中のあの三つの星が真善美であるとするのは、天上の世界に憧れた晩翠ならではの感性ですね」 姉様は頷きながら、また暗唱されます。 「かくてなほ あくがれますか 眞善美 わが手の花は くれなゐよ君」 「与謝野晶子の歌集『みだれ髪』の中のものですね。 敬愛していた晩翠の詩を踏襲しつつも、天上の崇高な世界に憧れるより地上の世界での人間の愛のほうが価値があると詠んだのですね。 天上の世界は想像を絶した彼方にあり、愛は理性では到達できない心の深奥にあり、美玖にはどちらも神秘です」 姉様は私に振り向きながら、仰います。 「美玖様、才媛にさらに磨きがかかりましたね。星空を見て思い浮かぶ和歌とか詩とかはありますか?」(続く) 一粒の米(その26) 姉様から促されて、正岡子規の和歌が浮かびます。 「真砂なす 数なき星の その中に 我に向かいて 光る星あり」 「まあ、美玖様、そういう歌を唱えられるとは、誰か思われている殿方がいらっしゃるのですね。 美玖様に向かって光るその果報者は誰なんでしょうか?」 驚いた口調で明里姉様が仰ります。 私はその言葉にびくっとしました。 ぱっと頭に浮かんで詠んだ和歌だったのですが、たしかに姉様のご指摘に心当たりがあるのです。 でも、その人が誰なのかさえも見当ついておりません。 大好きな姉様と久しぶりに会えて浮足立っていることと暗闇の中で羞恥心が弱くなったことの二つの魔術によって、 たとえ相手が明里姉様であっても絶対に打ち明けることのないと思っていたことを話したいという衝動にかられます。 私が躊躇していると、「誰にも口外しませんから」と姉様は優しく語りかけられます。 「絶対にですよ」と私は念を押します。(続く) 一粒の米(その28) 「ちょっと前に書生さんから『胡蝶の夢』というお話を伺いました。姉様はご存知ですか?」 「ええ、夢が現実のようであり、現実が夢のようであるというお話ですね」 「そうです!まさに現実であるかのような夢を見るのです。しかも何度も」 「まあ、どのような夢なのですか?」 「それが・・・。ぼんやりとした夢なのです。 真っ暗な中で戸張が徐々に上がって、光が差し込んで、人影が浮かび上がってきます。 お屋敷の中かと思ったら、青々とした草地で、その人影が美玖なのです。 そして、使者に頼んで、誰かが来るのを美玖は待っているのです」 「その使者というのは金村様のところの女中さんなのですか?」 「それが・・・・。どうも人ではないようなのです。何か小さくて可愛らしいもののようなのです」 そのとき、私はあの小鳥のことをなぜか思い浮かべます。 「話の腰を折ってすみません。どうぞ続けてください」(続く) 一粒の米(その28) 「待っていた人がそこにやってきます。全く知らない殿方ですが、とても愛しくもあるのです。 でも、何度も見ている同じ夢だというのに、その後は具体的に何が起こったのかということは覚えていないのです。 天にも昇るほどの歓喜に満ち溢れた夢であったという感触だけは現実のようにあるというのに」 打ち明けたことで頭が刺激されたためなのか、覚えていなかった夢のその後がぼんやりと浮かんできます。 その愛しい殿方とはやむにやまれず別れなければならなくなり、・・・・・。 「明里姉様、深謝いたします」と自分でも意図していなかった言葉を藪から棒に私は口にします。 「どうなさったのですか?その唐突なお言葉は?」 「力がおよばなかった美玖の代わりに、その殿方の魂を救済してくださるのが明里姉様なのだということがなぜか今浮かんできたのです」 「うっふっふっふ」 「姉様!何が可笑しいのですか?」 「実際には殿方と手をお繋ぎしたことさえないのに、そういう夢をご覧になるとは。そういうのを耳年増というのですよ。 美玖様、何なら、私が恋の有り様を教えましょうか?」(続く) 一粒の米(その29) 「姉様は私の手本です。敬愛する姉様が歩んだ後をついていけば、決して道を踏み外さないとも思っています。 でも、一つだけ例外がございますのよ。それは恋の道です。 あれほど多くの殿方から懸想文を手渡されたのに、全て断りなさる。また、山ほど舞い込んだ縁談も次々に断りなさる。 殿方よりも剣術の腕は立っても、殿方を異性として見たときには急に臆病になられる。 姉様の恋の道の後を歩んでいったら、美玖は行かず後家となってしまいますものね」 怒っている素振りを見せながら、私は憎まれ口をたたきます。 でも、本当は怒っているのではなく、拗ねることで姉様に甘えたいのです。 「まあ、美玖様ったら、ひどいお言葉。 でも恋の経験はなくても、恋の手ほどきはお教えできますのよ」 「ぜひお聞かせ願えませんか?」 「初恋というのがなぜかくも人の心をとらえるのかというと、それは未知の感情に心が驚いているからなのですよ。 しかも、それが初心な心に強い力を与え、一歩一歩立ち止まってその魅力を味わおうとして、 他の全てを忘れさせてくれるほど夢中にさせてくれるからなのですよ」(続く) 一粒の米(その30) 「なるほど。でも、それは女性だけのことですね?男らしい殿方ならば、そんなに感傷的にはなりませんよね」 「いえ、いえ、むしろ殿方のほうが女性よりも繊細なのですよ。 ご自分の肉欲を満たすことだけが目的の殿方なら、女の気持ちを無視して、どんどん攻めてきます。 そして、それを男らしいと世間では称します。 だけど、純粋で誠実な殿方ならば、好きな女性からの最高の贈り物はその肉体ではなく、愛されているという証なのです。 だから、愛しているという気持ちが強ければ強いほど気弱になるものなのです。 美玖様のことを心底慕ってらっしゃる殿方がいて、美玖様も身を任せてもよいと思われているのに、なかなか手を出してくださらない。 そういうときには思い切って自分のほうから行動を起こしていくのですよ。 でも、露骨に『抱いてください』などと言ってはいけません。 『私たちはもっと心が絡みあってもいいんじゃないでしょうか』というように遠回しに言うのですよ」(続く) 一粒の米(その31) 先ほど笑われた仕返しに、「うっふっふ」と私は笑います。 「なにが可笑しいことを私は言いましたか?」 「いえ、いえ、たいそう為になります。 だけど、いま仰ったことは自分の体験ではなく、女子大学校で聞き齧ったことですよね? なのに、断定した言い方をなさる。 『講釈師、見てきたような嘘をつき』とは姉様のことですわ」 「まあ、美玖様ったら」と姉様はそっぽを向いて黙ってしまわれます。 その可愛らしい様子を見て、私はさらに笑みがこぼれます。 でも、姉様のその教えを聞いたとき、私はそれを実行したことがあったのではという妙な気がしています。 恋のいろはも知らないこの奥手な私が大胆なことを言ってしまって、 心臓の鼓動が聞こえるくらいどきどきしているという記憶でございます。 そんな経験は絶対にないのに、そういう記憶があるのです。 はっきりと過去に起こったことであったと今では断言できる真珠麿の記憶とは異質なものです。 ぼんやりとした夢の中の記憶なのでしょうか?(続く) 一粒の米(その32) 黙ったままで鼓星を眺めていらっしゃった姉様がぽつりと呟かれます。 「あの平家星はひときわ明るく輝いていますが、平家が滅亡したことを思うと、何か物悲しいですね」 それを聞いて、またも妙な気がしてきます。 平家星はすでに滅亡しているかもしれないということを聞いた記憶があるのです。 でも、頭の中が黒い戸張に包まれた感じがして、それ以上は思い出すことはできません。 しばし、私も姉様も鼓星のほうを見て黙り込んでいると、本館の屋敷の玄関のあたりから物音と人の声がかすかに聞こえます。 何かの気配を察せられたのか、姉様は立ち上がって、剣術の道場の窓が傍にあったこともあり、 そこを開けて入って、木刀を掴んで素早く戻られ、道場の東側の側面に身を隠しながら、顔だけを出して様子を窺われます。 私も続いて覗くと、石灯篭の炎に照らされて、二人の男の邪悪な顔が浮かんでいます。二人とも刃物を持っています。 「豪華な屋敷だ。米騒動のときにも儲けたみてえだから。金はしこたま溜めているぞ」 「屋敷の中の部屋と廊下の様子は探っておくから、お前は下にいる他の奴らを早く呼んで来い」 「おうよ。それとここには美人で評判の娘がいるから、それも逃がすんじゃねえぞ」(続く) 一粒の米(その33) 賊のようです。 私が今までに見たことのないような険しい顔を明里姉様はされています。 「美玖様、ここでじっとして隠れていてください。万一、こちらの方向に賊が向かって来たら、屋敷林の中に逃げ込んでください。 この薄明りの中なら見つかることはないでしょう」 姉様はこの状況にも動ぜず凛とされています。 そして、賊のほうに忍び足で向かわれます。 姉様が心配です、じっとしていることはできません。 でも、体がついていかず、ここから見守るのが精一杯です。 「金村様のお屋敷に忍び込もうとする不届きな輩め」と姉様が東雲の空気を割くように鋭い声で叫ぶと、 賊どもは一瞬固まってしまい、その隙を逃さず、あっという間に姉様は二人の脳天を打ち抜き失神させてしまいます。 その騒ぎを聞きつけて、屋敷の中から人が出てきます。 丘の下からはいち早く丹生先生がやってこられます。 「明里、よくやった。しかし、たった二人で金村様のお屋敷に強盗に入るとも思えん」 「お父様、こやつら斥候のようです。本隊は下にいるようです」 「わかった一人残らず成敗してやろう」(続く) 一粒の米(その34) 「では、明里も参戦します」 「お前は来なくてよい。これ以上、勇ましい姿を知られたら、嫁の貰い手がなくなるわ。 それにやるべきことがあるだろ。後で震えていらっしゃる美玖様のお世話と護持をしろ」 明里姉様はこちらに振り返ると、叫ばれます。 「美玖様!隠れていてと言ったでしょう。万一のことがあったらどうするのですか」 激しくも温かみのある声です。 「すみません」と涙が溢れ出て咽喉が詰まっている私は、なんとか言葉を発します。 「でも、隠れなかったことを後悔しているのではなく、姉様のご助力ができなかったことを悔やんでいます」 姉様は私を抱きしめながら仰ります。 「美玖様、ありがとうございます。明里の身を案じていてくださったのですね。兎に角、ご無事でなりよりです」 私たちは賊の掃討の様子を見守ります。(続く) 一粒の米(その35) 後からやってきた道場生たちと丹生先生とで大捕り物が始まりまして、 賊たちは一人残らず捕らえられ、連絡を受けてやってきた警察の人たちに渡されました。 お父様とお母様は私の無事を確認すると、どういう経緯でこの屋敷が狙われたのかを知るため、警察に同行されます。 姉様はたいそうお疲れのようです。 無理もありません。夜を徹した後に、命の危険を顧みず、賊の尖兵を退治なさったのですから。 「姉様、もう心配することはありません。どうか、お帰りになって、お休みになってください。美玖も休みますので」 そう言って、別れます。 賊のほうはもう心配ありませんが、別のことが気になっています。 川が異常な増水するという幻視は昨日の確認でいったんは安心したのですが、何か胸騒ぎがしています。 誰かに相談しようかとも思ったのですが、賊騒ぎで皆さんお疲れのようなので、一人で堤を確認しに行くことに決めます。(続く) 一粒の米(その36) 堤の上に登ると、対岸の小山が目に入ります。 土砂崩れを起こして保水力を失った斜面から濁流が川に入り込んでいます。 凄まじい光景ですが、それ以上に驚いたのが足元の光景です。堤の上部付近まで川が増水しています。 なぜ・・・・? 川沿いに台風が進み、川の全域に篠突く雨が降り注ぎ、上流からの水が時間差をおいて今やってきたとしか考えられません。 頑丈な堤が持ちこたえていて、ひと安心です。 下に降りて歩いて、何事もありませんようにと祈りながら確認します。 少し歩くと、目の高さ当たりで堤から水が漏れているのを見つけて、息を呑みます。 なぜ?まさか蟻が掘った穴から本当に水が漏れているというのでしょうか? 顔面蒼白となっている私をよそに、その穴から水に押され数匹の蟹が出てきました。 どうやら穴の下手人はこの蟹たちのようです。 川の水はその穴にどんどん浸み込んでいき、信じられないくらいの速さで穴は大きくなっていきます。(続く) 一粒の米(その37) 土嚢の代わりになるものがないかを私は探します。 台風で吹き飛ばされた木の枝が散乱しており、穴に差し込むために急いで数本を拾い上げます。 ところが、穴はすでに丸太の大きさくらいまで大きくなっています。 私は大声を上げて、助けを呼びますが、堤付近には人家も田畑もないので、それは届きません。 たいへんです! このままにしていたら、浸み込んだ水が堤を決壊させ、大量の水が一気に襲い、収穫を迎えるこの集落の田畑が全滅します。 否、それだけではすみません。多くの人たちの命が奪われます。 そのとき、土嚢となるものがここにあることに気づき、私は覚悟を決めます。 堤の穴までよじ登り、私の体を差し込むと、ぴったり嵌まり、水の侵入を止め、穴が広がるのを防ぐことができました。 仰向けになった顔だけが堤の土の外に出ている状態です。 見えるのはどんよりとした曇り空です。 誰かが来てくれることを信じて、私は待ちます。(続く) 一粒の米(その38) でも誰もやって来ません。 水に濡れた体が冷たくなり痙攣してきました。 体を動かすことはもうできないようです。 でも、これでいいのです。 自分の意思では体を抜くことはできないのだから、自分が助かりたい一心で、 集落の多くの人の命を犠牲にしてもかまわないという邪な気持ちが起らないからです。 私は覚悟を決めることができました。 その限りにおいては明鏡止水の心境であります。 私はもうすぐ死ぬでしょう。 誰にも届かないことはわかっていますが、今生の暇乞いをしておきましょう。 お父様、お母様、先立つ不孝をお許しください。 でもどうか悲しまないでください。 金村の集落を救ったことは喜んでくださいませ。 よくやったとお褒めくださいませ。 美玖は立派なことを成し遂げたと誇りに思ってくださいませ。 明里姉様、久しぶりにお会いできたことは幸せでした。 どうか美玖の分まで長生きしてくださいませ。 私はこの堤の土となり、この集落をいつもここから見守ることにいたします。(続く) 一粒の米(その39) ああ、鉛色の重苦しい雲しか見えません。 せめて末期には輝く光を見とうございます。 おお!雲の裂け目からお天道様の光が! まるであれが世界の裂け目で、そこから異世界の光が漏れているかのよう。 誰もいるはずはないのに何かの眼差しを感じます。 誰ですか、この私を見ている者は? 覗き見されているというのではなく、大きな視界の中に私がいるかのような。 慈愛の気配でもなく、邪悪の気配でもなく、ただ冷静透徹に私を見つめているかのようです。 天主様がご照覧してくださっているのですか? もしそうなら美玖の願いを聞いていただけませぬか? お父様やお母様や明里姉様や集落の人々の愛情いっぱいに美玖は生きてまいりました。 その限りにおいては、人よりも何倍も何十倍も美玖は幸せでございました。 ですが、天主様、心残りが二つほど美玖にはあるのです。 一つは、人類の叡智の結晶である学問というものをもう少し知りとうございます。 我儘ついでにお願いすれば、今ではなく百年後の学問を知りとうございます。(続く) 一粒の米(その40) もう一つは、お父様やお母様や明里姉様を愛することは知悉していますが、殿方を愛するということはついに分からずじまいです。 誰一人、今まで美玖の心をわずかでも捉えてくださった御仁はお会いできませんでした。 美玖の理想とするお方と会わせてくれませぬか? もうすぐ死にいく身ですから、現実の中でとは申しません。 白日夢の中でかまいませぬ。 「チッチッチ」と聞こえるあの鳴き声はなんぞ? おお!私の目の前に現れたのは、小さな隼に襲われていたあのときの小鳥! 襲われ怪我をして全身が血で真っ赤に染まっていたと思っていたのですが、その赤い色がもともとの御前の色なのですね。 「くれなゐ」の情熱の色をした小鳥よ、天主様が私のお願いを叶えてくださったときには、 まだ見ぬ愛しい人を私のところに御前が導いてくれませぬか? ああ、今、私は百年後の世界にいます。 谷間にある緑色の屋根瓦と黄色の壁のお洒落なお家に一人で住んでいます。 赤い小鳥に導かれてあの人がやって来ます。 明里姉様の教えを実行します。 夜明け前の空に平家星をあの人と一緒に見ます。 天主様、ありがとうございます。 数か月にもおよぶことを一瞬の間で体験させてくださったのですね。 しかも、それは永遠のようです。 私の願望がすべて叶えられ、現実のように生き生きとしていました。 もう思い残すことはありません。 今の私が百年後の私を夢見ているのか、百年後の私が今の私を夢見ているのかを混乱していますが、・・・・・・・・・・(了) 幻想的な雰囲気を醸し出すため、「ハーツ」では設定をあえて曖昧にしていたので、 それに関連させた物語を作ることができるのではないかと思い立ったのが「一粒の米」を書く切っ掛けである。 アインシュタインが一般相対性理論を発表したのは1916年であることは覚えていて、「ハーツ」ではそれに触れていたので、 100年前に時間をずらすことから始めたが、1919年が含まれる大正時代には全く興味を持っていない。 そこで、普段は殆どやらないNET検索を今回は多用した。 「堤防」「女学校」「女子大学校」「剣術」「真珠麿」「化粧品」などの物語の中に描いていたものと「大正時代」との複数単語で検索した。 物語と歴史的な背景とに矛盾がでないようにあらかじめ年表をつくった。 1892年(明治25年) 風月堂が真珠麿を発売 1899年(明治32年) 土井晩翠が詩集『天地有情』を発表 1901年(明治34年) 与謝野晶子が処女歌集『みだれ髪』を発表 1901年(明治34年) 日本初の女子高等教育機関である日本女子大学校が開校 1905年(明治38年) アインシュタインが特殊相対性理論を発表 1906年(明治39年) 明治屋が外国産のブランド紅茶を初めて販売 1916年(大正5年) アインシュタインが一般相対性理論を発表 1917年(大正6年) 資生堂が七色粉白粉を発売 1918年(大正7年) 米騒動 1918年(大正7年) 現在の行田市区域(北埼玉郡忍町・長野村・持田村・下忍村)を営業区域としている行田電灯の電灯家数が大幅に増え1万灯(戸)となる 1919年(大正8年) この物語の舞台となる年で、主人公の金村美玖は16歳 ※正岡子規の「真砂なす・・・」の歌がいつつくられたのかは分からなかった。 子規が亡くなったのは明治時代だから、この物語の中に取り入れても矛盾は起こらないとは思う。 大正時代にカタカナ表記が使われなかったとも思わないが、古い雰囲気を出すためできるだけ避けた、 また、「チョウゲンボウ」「オリオン座」「ベテルギウス」と表記しないことで「ハーツ」との関連を中盤までは想起させないようにした。 以下に記したように辞書で調べるまで知らなかったものもある。 耶蘇教 キリスト教 これは割とよく知られていると思う。 混凝土 コンクリート 辞書で調べた。 懸想文 ラブレター 前にも挙げた「死者の書」で覚えていた。「恋文」では安っぽく、「艶書」だと官能的な響きがあるので避けた。 独逸 ドイツ これは知らない人はいないと思うが、一応挙げておく。 糞隼 チョウゲンボウ 以前に見た鳥類図鑑で覚えていた。NETでは「馬糞鷹」という別名があることは書かれている。 (「長元坊」と漢字でも書けるが、上の理由で避けた。) 洋卓 テーブル 「食卓」はむろん知っていたが、ちょっと違うなと思って、辞書で調べた。 仮漆 ニス 辞書で調べた。 真珠麿 マシュマロ 「東大王」で知った。読みなら簡単に類推できるが、漢字での書き取りは知らないと難しい。 鼓星 オリオン座 中国での名称は「産宿」。 平家星 ベテルギウス 源氏星はリゲルのことである。 星の日本での古名も中国の二十八宿もほぼ知っていると思っていたが、ちょっと前までシリウスの日本での古名を「天狼星」だと勘違いしていた。 実は、「エル・エステ」で、投稿する前まで「天狼星」と書いていた。 念のため、直前でNET検索したら、「天狼星」は中国での呼び名であることを知った。 検索すると、シリウスの日本での古名はいくつかあったが、一番メジャーそうな「青星」を用いた。 「ハーツ」に関連させるように書いたので、全体的には自家製だが、部分的には参照としたものがいくつかある。 (その20)の「口蓋にそれが触れた瞬間・・・」から(その21)の「・・・愉悦をもたらしてくれます」までは、 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」を参照とした。 読んだことがなくても知っている人も多いだろうが、あまりにも有名なマドレーヌのところだ。 用いたテキストは集英社の鈴木道彦・編訳の「失われた時を求めて」の上巻のP48からP54の箇所である。 状況設定などはこの物語に合わせて改変したが、参照というよりは露骨にパクったと言ったほうがいいかもしれない。 甦った記憶が広がっていく様子を水中花に譬えたところも剽窃しているが、 プルーストは「水中花」という言葉は使っておらず、「日本人の遊び」と記している。 NET検索して、プルーストが意図しているものが水中花という名称であることを知った。 そう聴いたなら、「水中花」とは水の中に入れた造花のことだぞ!と多くの人が突っ込みを入れると思う。 だが、「水中花」というのは最初はプルーストが意図していたようなものであって、 水中の造花を指すようになったのは後年のことであるようだ。 (その20)を書く少し前、「失われた時を求めて」が近くの古本屋で上下巻合わせて200円で売っていて、 買って読んだら、最初の方でマドレーヌの話が出ていたので、早速取り入れてみた。 発行年を見ると30年弱前のものだが、定価が1冊3200円だから紙質もよくて、あまり古びていない。 安い買い物だった。 全編ではなく、1/5を抜粋してあるようだが、それでも上下巻で1100ページもある。 おまけにかなり読みにくく、完読するにはそうとう骨が折れそうだ。 新型コロナ肺炎でSEXの回数が確実に増えました。 1日1回だったのが4回とかになったw ほとんど毎朝昼夕晩に。 やっぱり家にいると体力が余ってるし、外出して発散も出来ないからみたい。 真夜中にヤッても通勤がなくなった分朝ゆっくりだから体力的にも余裕。 色々潤って調子良い。 (その29)の「初恋というのがなぜかくも人の心を・・・」から(その30)の「・・・愛しているという気持ちが強ければ強いほど気弱になるものなのです」までは、 ラクロ「危険な関係」を参照した。 その本は15年以上前に読んだきりで、記憶の中で改変され、この物語に当てはめるためにも改変しているが、 コアな部分は変わらないと思うので、読んだ人ならすぐに気づくと思う。 ラクロ「危険な関係」について簡単に紹介しておくと、男一人と女一人の二人を中心として物語は回る。 その二人以外にも主要となる人物は多いが、登場人物の手紙の中だけですべて物語は進行する。 手紙は巧みに組み合わされ、秩序だって物語は構成される。 これを読んだとき、作者は生粋の文学者ではないなと思った。 もちろん生粋の文学者でも論理的な人はいくらでもいるが、「危険な関係」は数学的な論理に裏打ちされていると直観した。 ぴったりと当てはまるものが思いつかないが、高校生が履修する「群数列」というものに譬えてみる。 ある項は一つの群の中で位置づけられ、軍は数列全体の中で位置づけられる。 それと同じように、出来事は一つの手紙の中の構成要素となっており、各手紙は物語全体の中の構成要素となっている。 ラクロは数学者でもあったということを読後に知って、直観は間違っていなかったことが分かった。 ただし、物語の内容は図式的でありきたりなものではなく、豊かな感受性と鋭い心理描写が随所に現れてかなり読みごたえがある。 恋愛小説および心理小説の金字塔として知られる「赤と黒」の作者スタンダールが「危険な関係」を最高に評価していることは知られている。 「危険な関係」があれほど論理的でなくても、その優れた心理描写だけでも「赤と黒」を上回っていると個人的には思う。 二人の主人公の男のほうはヴァルモンで、女のほうはメルトイユである。 どちらも邪悪な人間であるが、より悪質なのはメルトイユの方である。 ヴァルモンのほうは人間的な部分がまだ残っていて、たとえば物語の中にこういうエピソードがある。 自分を善良な人間に見せるため、恵まれない人間に施しをするが、 そのときの憐れみと情けの感情が自分の内部で意図せず顕現し、それによって心から涙を流したと手紙の中でメルトイユに吐露する場面がある。 これに対しメルトイユは人間的なものが完全に焼き尽くされていて、冷酷なまでに頭脳明晰なメルトイユにヴァルモンも操られる。 その二人の人格のずれが物語に奥行きと陰影を与えている。 メルトイユは自分を袖にした男の婚約の相手であるセシル(たしか16歳だったと思う)を陥れようとする。 ダンスニーとセシルを二人きりにさせることで、セシルが手を付けられて傷物にされるように工作する。 ところが、メルトイユの意に反し、若くて誠実な騎士ダンスニーは何もしない。 メルトイユは憤慨しながらヴァルモンに伝え、ヴァルモンが返した返事が、ここで引用した箇所である。 「危険な関係」の中で終始イニシアティブをとっているのはメルトイユだが、 そのときにだけはわずかにだが人間性が残っているバルモンが優位に立つ。 思春期のときに誰もが感じる瑞々しい見事な心理描写とともに、 メルトイユとバルモンの性格の違いも表現され、物語全体の中での二人の役割が暗示される。 免疫つけないと!と思い最近はニンニク料理が多くなりました。 それに比例するように回数も増えてきてしまって、今日もニンニク料理頼むっていう言葉が合図になりました。 でも凄いですよ、にんにく。 (その25)の「天上の世界は想像を絶した彼方にあり、愛は理性では到達できない心の深奥にあり、美玖にはどちらも神秘です」という部分は、 ヴァレリー全集8巻 作家論に収められている「『パンセ』の一句を主題とする変奏曲」を参照とした。 かなり縮めた上で改変しているので、レファレンスした全文を挙げておく。 われわれが天空に見るものとわれわれが自らの奥深くに見出すものとは、ともにわれわれの行為の対象にはなりえない。 前者は感覚を絶した彼方にきらめき、後者は人間の表現力の及ばぬところに生きている。 その限りにおいて、われわれが最も遥かなものに向ける注意ともっとも内奥なものに向ける注意とのあいだには一種の関係が成立する。 両者はわれわれの期待の両極端のような者であって、互いに呼応する。 そして天空のうちにせよ、内心においてにせよ、何らかの決定的な新しいものを待ち望む点で共通している。 ポール・ヴァレリーというと賢人というイメージを持っている人も多いと思う。 つまり、単に頭脳明晰というだけでなく、その頭の良さに人格も伴っているというように。 だが、この「『パンセ』の一句を主題とする変奏曲」の中ではエキセントリックにパスカルをディスりまくっている。 ヴァレリー全集8巻 作家論の中に同じく収められている「女性フェードルについて」では、 今の時代なら、人権派団体から徹底的に糾弾されそうなことも書いている。 どこか狂気じみたところを秘めていないと面白いものは書けないという気がしないでもない。 (その25)で挙げた土井晩翠というと知らないという人も多いと思うが、6年ほど前には名前すら俺も知らなかった。 以前にも取り上げた「天空の文学史 太陽・月・星」を読んで知った。 その本の中で、与謝野晶子の短歌とともに土井晩翠の「天地有情」が取り上げられている。 「天地有情」は青空文庫でも読める↓ https://www.aozora.gr.jp/cards/001081/files/42233_38066.html 原文には以下の三行目には括弧が付いている。 >かれにもしるき參宿の >もなかにひかりかゞやきて >(かたどる影は眞善美) >三の星こそ並ぶなれ。 NET上で今は何でも検索できるが、さすがにここまでマイナーな詩だと訳を書いてくれているものは見当たらない。 そんなに難しくはないと思うが、簡単に説明しておこう。 「しるき」というのは「しるす」の連体形で、「しるす(著す)」とは際立っているということ。 「もなか」とは最中のことで、つまり真ん中を表している。 「影」は解釈が分かれるところだ。 物体が光を遮ってできる黒い姿だけでなく、光そのもののことも古語では影と言う。 ここではその後者の方という気もしないが、その前に「ひかりかゞやき」というのがあるので、「姿」くらいにしておくのがいいかもしれない。 「こそ・・・・なれ」は係り結びで、このとき動詞は已然形で確定条件を表しているのは知っての通りだ。 以上を踏まえて、訳してみる。 天空の彼方でも鮮烈なオリオン座。 その中央で輝いているのだ。 その姿(光)は真善美を象徴しているかのようだ。 そこで並んでいるのは三つの星である。 「もなか」で思い出すのは志田愛佳の「もなか まなか まんなか」というキャッチフレーズだな。 もなか(最中)、まなか(真中)、まんなか(真ん中)はすべて同じ意味である。 志田は意図していたかどうかは分からんが、受け取りようによってはセンターへの意欲を表明しているとも聞こえる。 そのことでキチガイクレーマーがイチャモンつけてくるのではないかと危惧した。 センターを目指していることへの非難はさすがに無理すぎると思ったのか、 それとも「もなか まなか まんなか」の意味が分からなかったのか、 いずれにせよイチャモンつけてくる奴はいなかったようで胸をなでおろした。 できるだけメンバーのメディアでの発言やブログでの記述を織り込むように心掛けしているが、今回はそれができなかった。 強いてあげれば、(その14)および(その15)での蝉に対する愛着を差し入れたのは。 金村美玖の次の2つのブログタイトルを下敷きにしている。 ・2019年8月8日「蝉の声が聞こえるね」 ・2019年8月28日「蝉時雨って言葉がすき」 ただし、蝉を取り上げているのはブログタイトルの中だけで、ブログ本文ではいっさい触れられていない。 金村アンチでは絶対に書けないという自負はあるにせよ、また、物語の中でのこととはいえ、 「ハーツ」に引き続き2回連続で殺してしまったのは申し訳なく思っている。 現実の金村美玖は運動能力も高く、生命力に溢れているし、コミュ力もあり、家も金持ちのようだし、何よりあれだけ綺麗なので、 死ぬというのは想像もつかないし、不幸からは最も縁遠い人間である。 ただし、儚い雰囲気や不幸な気配が何故か常に発散されている。 それはそれで強力な武器となりえるので、「日本で一番、不幸顔が似合うアイドル」として売り出してほしいとも思っている。 蝉は儚いものの典型のように思われている。 「八日目の蝉」という有名な小説もある。 蝉は七日間しか生きられないというアレゴリーをタイトル名としているようだ。 だが、最近、その真偽を調べた高校生がいて、1か月以上は生きると発表した。 成虫で1か月の寿命があるというのは、虫一般の平均値よりもむしろ長いらしい。 ましてや、幼虫で数年過ごすことを考えれば、虫の中ではかなりの長命だといえる。 たとえばアブラゼミなら幼虫期は7年もあるという。 ただ、事実がどうであれ、蝉が儚いというイメージは共有されているので、この物語の中でもそういう象徴とした。 最盛期には蝉は一日中鳴いている。 屋外照明によって深夜でも交尾ができるためだ。 生命の興隆を感じさせてくれるその声は快適で、真夜中でものべつ幕無しで鳴くのは特にいい。 寝るときでも喧しく感じることはなく、むしろ心地よい。 深夜でも蝉が鳴くことに対して、蝉にとってはいいことなのか?ということで相反する二つの分析がある。 一つは、一日中鳴くことでストレスを強いられ、いずれは何らかの歪みをもたらすというものである。 もう一つは、人間のつくった環境をうまく利用して、不夜城の都会は蝉にとってはパラダイスになっているというものだ。 どちらが正しいかは判断がつかないが、いずれ悪い影響が出てきたとしても、 今のところは種を繁栄させる機会を拡大させることに成功しているというのは間違いない。 「ハーツ」を書いた2019年から100年前ということで、1919年(大正8年)という時代背景にしたのだが、 今と100年前とで奇妙に符合することがある。 正確には2020年とそれから102年前の1918年であるが。 (1) 感染症が大流行した。 1918年にはスペイン風邪で、2020年には新型コロナである。 (2) 買占めが起こった。 1918年には米で、2020年にはトイレットペーパーやマスクである。 (3) 高校野球大会が中止となった。 1918年には春の大会だけで、2020年には春・夏の両大会である。 書いているときには全く意図していなかったが、今にして思えば、なんとなく引き寄せられたのかもしれない。 『一粒の米』読ませて頂きました。 都市からかけ離れた大正の雰囲気が素敵です。 特に洋館の存在が明治維新前とは一線を画していて好きです。 舞台が埼玉、そしてテーマのお米と名前をかけて、どこかで渡邉美穂の登場を予想していたんですが外れました笑 一応埼玉3人組はみんな袴も似合いそうですから実写版では是非見てみたいところです。 それにしても美玖ちゃんはどうしてこうも儚さが似合ってしまうのか不思議です。 (その24)の明里姉様のセリフで思い浮かぶのは、何と言っても中島みゆき『地上の星』です。 2番に「水底のシリウス」という歌詞があるのですが、シリウスは太陽を除けば地球から見えるなかでは一番明るい恒星であり、水に身を投げてまで人々を救った美玖様に相応しい言葉だななんて思います。 我々ファンとしては小鳥やツバメのようにその輝きを見つけてあげられる存在でありたいですね。 >>166 どうも大阪府さん、お久しぶりです。 今回の物語に渡邊美穂を登場させることはまったく考えていませんでしたが、 仰る通り、袴が似合いそうだし、埼玉県が舞台ということでも登場させてもよかったかもしれませんね。 金村美玖の趣味の一つに洋館巡りがあるということで、洋館を取り入れてみたのですが、当初、実は構想していたこともありました。 擬洋風建築というのがあります。 西洋建築を見様見まねして日本の伝統技術で建てた建築です。 つくられたのはわずか期間だけなので、東京都あきる野市のカフェなど残っているものはきわめて希少です。 時代の一瞬のエアポケットのように出現し、跡形もなく消え去ろうとする。 そういうものに強く惹かれます。 ただ、擬洋風建築の知識がないので、ディテールをうまく描写できないと思って諦めました。 >それにしても美玖ちゃんはどうしてこうも儚さが似合ってしまうのか不思議です。 みんな感じるところは同じですね。 狙ってもああいう特質は出せるものじゃないから、とてもユニークな存在ですね。 中島みゆきはもちろんよく知っていますが、「水底のシリウス」は聞いたことはありません。 機会があれば、聞いてみようと思います。 >>167 こちらこそお久しぶりでございます。 最近の私は欅坂から日向坂へ漸く乗り換えたところです。 欅は辞める人が辞めて雰囲気こそよくなってきましたが、それによって面白味が完全に消えてしまいました。 平手、鈴本、織田、米谷あたりのダークな色味を出せるメンバーが卒業したなか、これからのヴィジョンが全く見えません。 まあそもそもこのご時世、46&48G含めアイドルのあり方そのものを見直さないといけない時期にあるのかもしれませんが。 東京都さんのお考えもお聞かせ願いたいところです。 そう言えば、この歌じわじわ来ますね。 「真砂なす 数なき星の その中に 吾に向かひて 光る星あり」 一番光っているのではなくて、吾に向かって光っているのがいいです。 >>168 コロナ禍がこのまま収まるとは思えませんので、握手会はおそらくもうできないでしょう。 乃木坂はこれまでにメディアに顔を売っていたこともあり、CD売り上げが1/5になっても、他に活路は見いだせるでしょう。 日向坂は基礎能力が高いメンバーが多く、ライブパフォーマンスグループに変身することで生き残れると信じています。 でも、すったもんだから立て直そうとしている最中にコロナ禍に見舞われた欅坂は見通しが全くつかないですね。 嫌気がさして離れていったヲタも多いでしょう。 一期生に関しては、紅白も東京ドームも経験したし、このまま欅坂自体がフェードアウトしても、悔いはあまり残らないかもしれませんね。 でも、二期生は不憫でなりません。 田村保乃なんかは乃木坂でも日向坂でも間違いなくトップ人気のうちの一人になれる逸材なのに、 もし欅坂とともにこのまま日の目を見ないということになれば、もったいないですね。 欅坂板にも小説スレがなくなって復活する様子もないようですね。 このスレを利用してもらってもよかったのですが、一人でかなり書いてしまったので、新規参入しにくいと思って、つくってみました↓ http://fate.5ch.net/test/read.cgi/hinatazaka46/1593173589/l50 欅坂板でもよかったのですが、この板なら2週間ほど放置してもdat落ちないようなので、日向坂板でつくりました。 ドメインを全坂道メンバーに広げることで、よりオープンとしました。 >>169 やっぱ象徴失ったグループは厳しいですよね。 >>170 落ちないのはいいですね。 久しぶりに書いてみたのでよろしければ。 また作家さんたちが戻って来てくれることを願いましょう。 テレビつけてみたら、どこかで見たような顔が映っていた。 たしかに見たことがあるはずなのにすぐには思い出せなかった。 毛量が多く重たい感じだった黒髪は、外ハネのちょっとだけ明るい感じですっきりした髪となっていた。 そうか復帰したのか! ・・・・ということで、長濱ねる復帰記念ということで、新作を書くならしっかり準備したものを書きたいので、 とりあえず明日からは長濱を主人公として以前書いたものをリライトして投稿する。 ブレーンワールド(その1) ねると最初に出会ったのは2017年の春だった。 大学4年生になって、希望していた研究室への配属が決まった。 新学期が始まる前に、配属された研究室の教授の手伝いをすることとなった。 新刊の発売記念に際し、池袋の本屋Jで教授がトークイベントをするということで、その司会をするように直々に仰せつかった。 目的地に向かう途中で女の二人組から声をかけられた。 「さーせん、Jって本屋はこの辺にあるかなあ?」 そのなれなれしい口調にイラっとした。 「この道をこのまま進めば長蛇の列が並んでいるラーメン屋がある。道路を挟んだその向かいに見えるよ」 尋ねた女は礼も言わずそそくさに立ち去ろうとしたが、連れの女性は深々と頭を下げた。 頭を上げたその顔を見た瞬時に、大都会の喧騒が消え、時間が止まった。 びっくりするくらいの美少女だったからだ。 それが長濱ねるだった。(続く) ブレーンワールド(その2) その驚きで立ち尽くしていると、まだ幼さが残る少女が近くまで駆け寄ってきた。 デコ出しハーフツィンで、ゴスロリ風の黒い服に身を包んでいて、これまたとても可愛らしい。 「さっきの女の人とはお知り合いなんですか?」 「さっきの女の人って、今さっきの二人組の?」 「ええ、そうです」 「いや、たまたま道を訊かれただけ」 「そうですか・・・」 「何か用があったの?」 「別に・・・」 ふわふわしたあどけない表情から絡みつく眼つきになったかと思えば、急に無表情となる。 気持ちがめまぐるしく豹変するこの手の少女は苦手だ。 その青臭さが魅力なのは認めるものの、関わったら面倒くさい。 だが、気持ちとは裏腹に、その愛くるしい顔から眼が離せなかった。 少女はそっぽを向き、そのまま立ち去っていった。(続く) ブレーンワールド(その3) トークイベントはJの5階にあるカフェの中で行われた。 OHPに映す資料の順番を間違うということもなく、司会も無難にこなし、後は質問タイムが残すだけとなった。 「は〜〜い、は〜〜い、は〜〜い」と騒がしく手を挙げる者がいる。与えられた仕事をこなすことで手一杯で聴講者のほうは全く見ていなかったので、 その声の方に視線を向けてはじめて先程の二人組であることに気づいた。 この本屋の中で出会うことはあるかもしれないと期待はしていたが、このトークイベントに参加しているとは嬉しい誤算だ。 ただ、残念なことに、手を上げているのは、美少女の方ではなく、礼儀知らずのウザい女のほうだ。 目が合うと、美少女は軽く会釈をした。 「では、そちらの方どうぞ」と目を合わせたままで、俺は言った。 「いえ、私じゃなくて・・・」という美少女の言葉を遮り、「ちょっと、手を挙げたのは私よ!」とウザ女が声高に言う。 「失礼しました、では、どうぞ」 「ねえ、パラレルワールドってあるんですかあああ?」といっそうバカっぽい声でウザ女は質問した。(続く) ブレーンワールド(その4) 教授のほうに目を向けたら、普段は隙を見せるようなことは全くないのに、こういう場でこんなときに何か考え事をしている。 何か重大なことを教授が隠しているとはこのときには思わなかった。 うまくバトンタッチできるように俺は場をつないだ。 「えー、最先端の物理学でパラレルワールドと呼ばれるものに関わるもので、すぐに思いつくのは3つありますね。 1つは、エヴェレットによる不確定性原理の多世界解釈。 もう1つは宇宙創成時のインフレーションが起こることによって生まれるマルチバース。 最後の1つが超弦理論の予言する余剰次元の解釈の一つののブレーンワールドです。 今日のイベントのテーマは超弦理論についてなので、最後のことについて先生にお話してもらいましょうか」 超弦理論における紐は小さいとは限らない、たとえば空間に引き込まれた紐が宇宙膨張に巻き込まれて延びる可能性があること。 それと同様に次元そのものも延ばされている可能性があること。 それから並行宇宙の考えにつながること。 そして、その並行宇宙が10の500乗以上も存在していることが計算によって導かれること。 そういったことなどを教授は話した。(続く) ブレーンワールド(その5) イベントに締めとしてサイン会が行われた。 カフェの外にある本屋の中の通路に細長いテーブルが置かれ、 教授がサインした新刊にペンのインクがにじまないように和紙を挟んでから渡すのが俺の役割だった。 もう二度と会うことはないかもしれないなと秘かに名残惜しんでいたら、豈図らんや、最後の客があの美少女だった。 当然のようにウザ女もついてきているが、こちらは本は購入していないようだ。 本を渡そうとしたとき、突然、両手で左右の耳を押さえ悶えながらしゃがみこんだ。 「大丈夫ですか!」 「心配させてすみません。ちょっと耳鳴りがしただけです」 「後のことはいいから、その人の面倒を見てあげなさい」と教授は告げた。 テーブルの配置も元に戻され、通常営業となったカフェで座らせ様子を見ることにした。 なにごともなく無事なようだ。 ウザ女も安心したのか、次から次に脈絡のない話を一方的に話し続けた。 美少女はその様子を隣で微笑みながら聞いていた。 さすがに話し疲れたのかようやくウザ女が口を閉じた。(続く) ブレーンワールド(その6) 見計らったように美少女はゆっくりと口を開いた。 「そういえば自己紹介がまだでしたね。私は長濱ねるといいます。長崎県出身です。この人は高校のときの同級生です。 私は、今年からお茶の水大学の理学部に通うことになります」 しばし休んだウザ女の口がまた復活した。 「ねえねえ、鳥居坂46って知ってるでしょ!このコはその最終オーディションまで進んだんだよ」 鳥居坂46というのは、2016年にデビューし、1周年ほどしか経っていないのに、日本中を席巻しているアイドルグループである。 アイドルには疎い俺にもその情報が否応なく入ってくるほど勢いがあった。 「俺が審査員なら、最終でも落とさなかったな」 「違うよ。このコ、いろいろあって最終審査は受けてないんだよ」 なぜ?と訊こうとしたが、ねるが目を伏せて暗い表情となったので尋ねられなかった。 「すみません、付き添ってもらって。もう、大丈夫です」 「大丈夫そうでなにより。よかったら、駅まで見送らせて」(続く) ブレーンワールド(その7) エスカレーターで下ろうとしたとき、窓の外を見て、ウザ女が声を張り上げた。 「ねえ、ねえ、ちょっと、ちょっと見て!さっきよりもさあ、さっきよりも列、短くなってんじゃない!」 列?ああ、ラーメン屋のことか。いちいちそんなことで騒ぐなよ。ホント、こいつはウザいな。 「ちょっとお腹すいたし、お食事いっしょにどうですか?」とねるが言う。 「池袋にはたまには来るけど、あそこが土日にこんなに人少ないのは珍しい。一度は入ってみたかった」と俺は同意した。 言ったことは本心だったが、もうしばらくはねると一緒にいられるというのがそれ以上に嬉しかった。 列に並んでいるとき、ねるに話しかけた。 「東京に出てきたばかりだというのに、こんなマイナーなトークイベントをどこで知ったの?」 「この人が誘ってくれたんです」とウザ女の方に目をやりながら、ねるは言う。 えっ?こいつが?そういうことに興味を持っているとも思えないが。(続く) ブレーンワールド(その8) 「もちろん、私自身も興味があったんですよ。子供の頃、物質の最小単位は原子だと教えられました。 中学生のときに、それは、実は、原子核と電子から構成されていて、原子核はさらに陽子や中性子などから構成されると教わりました。 そして、高校生の頃には、それらはさらにクォークから構成され、それが究極の素粒子だと聞かされました。 でも、超弦理論はそれにも内部構造があるという主張なんですよね。それで興味がわいて」 「埒が明かないとうんざりすることもなく、むしろ積極的に興味を持ったというわけか」 「ええ、それが何事をも象徴しているかのように思えて」 「象徴している?」 「何かを終えても、新しいものがその次に待ち受けている。世の中の仕組みはすべてそうなっていると思えたんです」 「ああ、なるほど、そういう意味か。鷗外も『青年』で、書いていたね。 学校に入ったら、一生懸命に学校時代を駆け抜けようとするが、その先はまだ続きがある。 学校を卒業して、職業にあり附くと、その職業を為し遂げてしまおうとするが、その先もまだ続きがあるといったようなことを。 結局、終着駅なんてものは存在しないかもしれないなあ」(続く) ブレーンワールド(その9) 「質問いいですか。余剰次元のお話はちんぷんかんぷんでした。 なぜこの世界の3次元空間よりも多くの次元が必要となるんでしょうか?」 「物理学の理念の一つに、理論体系が美しいというのがあり、対称性はキープされるというのが望ましいという信念があるんだ。 そのためには弦が振動する方向は3次元空間だけだと対称性が崩れるので、空間9次元と時間1次元の計10次元が必要になる。 我々が住んでいる空間3次元と時間1次元と比べて、空間6次元が余剰次元となるというわけ」 「トークイベントの予習のため、関連する本を分からないなりにも読んでみたのですが、そこには計11次元と書かれていたんですが」 「実は、計10次元とする理論には5つのバージョンがある。 さらに1次元増やして、計11次元とすれば、その5つを統合できるるんだ。 そのほうがすっきりするということで、今は計11次元という言い方のほうが主流かな」 「なるほど、そういうことですか。でもその余剰次元って本当にあるんですか?」 「まあ、超弦理論自体が仮説だからね。しかも、検証は非常に厳しいと思う。 だから、仮にあったとしても、その実在を知ることはできないんじゃないかなあ」(続く) ブレーンワールド(その10) 「そうなんですね。もう一つ、質問いいですか。 余剰次元は小さいとは限らず、ずっと大きい可能性があるということでしたが、小さい、大きいで、なにか際立った違いは出てくるものなのですか?」 「たとえば、細い糸を渡っている蟻がいるとするね。蟻にとっては、その糸の上に乗れる程度には横幅があるし、上下の厚みもある。 蟻自身には、糸は線ではなく、円柱、つまり、3次元となっている。 でも、人間が遠目で見れば、その糸は長さだけの1次元でしかない。幅と厚みの2つの次元が折りたたまれているように見える。 それと同じように、余剰次元は、電子顕微鏡でも到底見えないほど小さく折りたたみ込まれていると従来の理論ではされてきた。 ところが、もし余剰次元が大きいのなら、そういった関係が逆転する」 「どういうように逆転が起るのですか?」 「我々の3次元空間の外に余剰次元があり、3次元空間はその中に浮かんでいるといったように捉えるこてができるんだ。 それをブレーンワールドという」 「ブレーンというのは頭脳の意味なんですか?」。 「いや、そうではなく、ブレーンというのはエムブレーンを略した言葉で、膜という意味」 (続く) ブレーンワールド(その11) 「えーっと、膜というのは2次元ですよね。私たちが住んでいるのは3次元空間だから、言葉がずれているように思えますが?」 「我々は4次元以上の空間を認識することはできないので、次元をあえて少なくして比喩的に見ているんだ」 「ああ、そういうことですか。3次元空間に浮かぶ2次元の膜なら私たちは簡単にイメージできますね。 だから、9次元空間に浮かぶ3次元平面もそのようなものだとしてその関係性から帰納的に推し量るわけですね! そうすると、上下に離れた二次元平面がお互いにパラレルワールドになるように、 余剰次元の方向に離れた三次元空間がパラレルワールドになるという理解でよろしいのですか?」 「うん、そういうことでいいと思う。付け加えて言えば、その二次元平面上に二次元人が住んでいるとする。 その平面上の場所なら100億光年先でも望遠鏡とかを使えば、二次元人は見ることができる。 ところが、2つの平面間の上下の距離が1ミリメートルでも、行き来することはおろかその存在さえわからない。 なぜなら、上下方向は見えないので、その認識もできないから」 「それと同じように、第4、第5、・・・、の空間次元方向にたった1ミリメートルでも離れていたら、 三次元空間に住む私たちは別の三次元空間を認識できないというわけですね。不思議〜」(続く) ブレーンワールド(その12) 店内には細長い通路があり、それと平行に窓側と厨房側にカウンター席があり、窓側の席を店員が案内してくれた。 三人の真ん中にはねるが座った。 俺が食べ終わるのを見計らって、ねるがまた質問してきた。 「余剰次元の感覚が私たちに備わっていないとしても、 隣接しているかもしれないブレーンワールドを見ることができないのはなぜですか? よくよく考えたら、3次元どうしならお互いを見ることはできるような気がします」 「実は、重力以外の3つの力を介在する粒子はブレーンから離れることはできないと理論は予測している。 そのうちの1つの電磁力を介在する光子も離れられないので、光が届かなければ見ることはできないということのようだね」 そのとき、突然、ねるがまた両耳を押さえ、苦しそうにうなだれながら、「やっぱり、あのコがいる!」とつぶやいた。 心配して、半身になってねるのほうを向いた俺とウザ女は店内を見渡した。 見渡すとき、ウザ女は店の奥のほうに、俺は店の入り口のほうにまずは視線を送ることになる。 大学生と思われる女性がこちらを振り向いて凝視していた。目鼻立ちがはっきりしていてとても綺麗なコだ。 ウザ女が入り口のほうを見る前にその美人は姿勢を前に正した。 「ねえ、先にねるを外に連れ出してくれない。確かめることが済んだらたらあたしもすぐに続くから」 外に出ても、立つのがやっとなくらいねるはぶるぶる震えている。(続く) ブレーンワールド(その13) 店内に目をやると、呆れたことにウザ女が客の顔をそれとはっきりわかるように覗き込んでいる。 ただし全員ではなく、どうもターゲットは若い女性だけに絞っているようだ。 いまにも引っ繰り返りそうなねるを支えるため背中に左手を当てた。 むだ肉はついていないけど、女性らしい柔らかな感触だ。 薄い服の上からのブラ紐が感じ取れ。その手触りは刺激的だ。 超弦理論は超紐理論とも言うが、こういう紐なら大歓迎だなと、ねるが苦しんでいるというのに、邪なことを思った。 ねると比較して、いままで付き合ってきた女のことを振り返った。 同じ大学の女たちは勉強ばかりやってきたせいか、肉体的には男と交流は持てても、不感症ばかりだった。 サークル内で知り合った他大学の女は本能に生き、つねにセックスに飢えていて、しかもそれを隠そうともしないのばかりだった。 ねるのように豊かな感情もちゃんとした教養もある女なら、慎みと恥じらいによって本能を頑なに抑制ししつも、 感じやすいところを探しあて、そこを攻めれば、官能の衝動が漏れ出るという楽しみを与えてくれるのではないか。 そういう思いに耽っていると、左手に鋭い痛みが走った。 よからぬことを考えていた天罰か? 「なれなれしすぎ」 外に出てきたウザ女が、俺の手をパチーンと叩いたのだった。 くそ、偶然とはいえ、こんな奴から罰を受けるとは! 一方でウザ女はねるには心配そうに優しく言った。 「アイツ、いなかったよ」(続く) ヒロインのねるちゃん、小説スレ最盛期、などなど思い出しながら懐かしい気持ちで読んでおります。 が、結末を忘れてしまっているので続きが楽しみでもあります。 ブレーンワールド(その14) 駅までの地下通路を歩きながら、ウザ女に尋ねた。 「なあ、『あのコ』とか『アイツ』とかって誰のことなんだ?」 「ねる、話していい?」 ねるは首を縦に振った。 「こないだねると一緒にサッカー観戦に行ったの。 ハーフタイムのとき、ねるにさっきと同じような症状が起こった。 辺りを見回したら、中学生か高校生かくらいの女の子が遠くからジーッとこちらを見てたの、可愛らしく聡明そうなコだった。 そしたら意を決したようにこちらに歩み寄ってきた。 傍まで近づいて来たら、『やめて、それ以上、近寄らないで!』とねるが叫んだの。そしたら驚いて逃げてった。 怒りがこみ上げてあたし追いかけたけど、家族連れで来ていてその中に入ってしまったのでそれ以上何もできなかった」 「怒り?そのコは見つめる以外にはなにもしなかったんだろ?追いかけて捕まえて何をする気だったんだ?」 「人の顔をジロジロ見るなんて失礼だよ!それにねるがそうなったのもソイツのせいだし!」(続く) ブレーンワールド(その15) コイツは思い込みも激しいんだな、ねるが苦しんでいたこととそのコが見つめていたことに何か因果関係があるようには思えない。 ん?待てよ。たしか、あのときもあのときも・・・・・。 「そういえば、今日、長濱さんが苦しんでいたとき、2回とも長濱さんを凝視していた女性がいたな」 「アンタ、何でそんな大事なことなぜ黙ってたの!役立たず!」 「お前さ、もうちょっと口の利き方に気を付けろ。だいいち事情を全く知らないのに、何が大事は分からんだろ」 「黙っていたことは勘弁してあげる、で、どんな人だったの?早く言いなさいよ!」 「ラーメン屋のほうは入り口近くにいて、ピンクベージュの裾刺繍サロペットを着た女子大生風のコだった。 それとラーメン本がカウンターテーブルの下から覗いていた」 「ああ、あの人ね。で、サイン会のときのほうは?」 「やはり女子大生のような感じで、人懐っこそうな感じだった。 それと、あの本屋専用の買い物かごにインドネシア語の教本を入れていたのは覚えている」(続く) ブレーンワールド(その16) 「二人は同一人物?」 「二人ともとても美人さんだったが、明らかに別人」 「ラーメン屋さんのほうはまだいるわね。事情を訊きにあたし行かなきゃ」 「事情?はっきりした証拠があるならそれもいいが、猪突猛進しても恥かくだけだぞ。 そのサッカー場のコはともかく、今日の二人は後ろから凝視していただけで長濱さんとは目が合っていないんだから・・・」 言い終わる前にウザ女は駆け出した。 やっぱり話しておいたほうがいいなと思って、ねるに言った。 「そういえば、今日、あなたたち二人から、道を訊かれたその直後に、あなたたちのことを尋ねたコもいたな」 「どんな人ですか?」 「ゴスロリ服を着ていて、とても可愛らしいけど、勝気そうな感じのコだった。 中学生か高校生かくらいということでは、サッカー場でのその女の子と同い年になるかな。同じなのか?別人なのか?」 ねるは当惑して黙り込んだ。 しばらくしてウザ女は戻ってきた。 「いなかった・・・」 不安一杯そうだったねるはほっとした表情となった。(続く) ブレーンワールド(その17) 外では激しく雨が降っている。風もやや強い。 落ち着かない俺の気持ちを表しているかのようだ。 あの日、メール交換してから二人とは池袋の駅で別れた。 がっついていると思われたくないので、1週間はあえてこちらから連絡しないという戦略をとった。 自分で課した縛りなのに、気になって眠れない。スマホを手に取る。 暗闇で眩しく光るスマホがだんだんアップになって近づいてくる気がする。 電話帳で「長濱ねる」の名前を表示させる。 連絡したいという気持ちをかろうじて押さえつけ、スマホから手を離した。 その直後に、スマホが鳴った。「長濱ねる」の表示だ、 喜んで勇んで出ると、ねるではなくウザ女が名乗りもせずいきなり喋った。 「ねるがストーカーに狙われてんの。あんたさ、明日、暇だったらうちらが住んでいるとこ来てくれない?」 もちろん、ねるのことだけをずっと考えていた俺は、ねると再会できるという喜びでいっぱいになり、二つ返事をした。 「ただ一つだけ問題あんのよね。うちらが住んでいるのは女子寮で男子禁制なんだ」 「お前、ふざけてんのか?入れるわけないだろ!」 「大丈夫!目付のおばさんはいるけど、関係者であると名乗って、寮の中の本人がOKすればフリーパスだから。 アンタ、ねるのお兄ちゃんの演技をしてね」(続く) ブレーンワールド(その18) 最寄駅を降り、教えられた道順を歩いた。 雨は上がっていたが、大きな公園を通り抜けるとき、雨と草木と土の混じり合った香りがした。好きな匂いだ。 しかし、女子寮か・・・・。 ねるに会える喜びで頭が一杯になっていたので、今の今まで気にも留めなかったが、ちょっとドキドキする。 蝶番が軋む音をさせながら、金属製の重たい分厚い扉をゆっくりと開ける。 そこには見たことも想像したこともない秘密の花園が広がっている。 あちゃっ、女の生態は知悉しているというのに、なぜそんな妄想するんだ? これじゃ、女子高生は檸檬の香りがすると信じている阿呆と一緒だな。 公園を通り抜けると、それらしい建物が見えてきた。 女子寮のエントランスは何の変哲もない]ガラス製の自動ドアだ。そりゃそうだろうな。 オートロック解除のため、操作盤のテンキーに部屋番号を入力し、呼び出しを押したら、「はい」と声が聞こえる。 ねるの声だ。一気に緊張が高まる。 ドアが開いて、中に入ると、受け付けには寮の管理人のおばさんが鎮座している。 「長濱ねるさんのお兄さんですか?本人から報告は受けています」と興味なさそうに事務的に言われる。 (続く) ブレーンワールド(その19) ひやひやして落ち着かず周りを見渡した。 後ろを振り返ったとき、門の外にはサラリーマン風の男がこちらを怪訝そうに見ていた。 女子寮の中に若い男が入っていく現場に遭遇して不審に思っているのか? ねるが受付にやって来た。それだけで四方が、壁も天井も床も朝日を浴びたように光輝く。 「私の後を歩いてください。前には出ないでください」 階段を上っているとき、寮住まいらしい女性が降りてきた。 軽く会釈したので、こちらも会釈をする。 そうか、前を歩くなというのは、こういうように鉢合わせしたときに不正侵入者かどうかをソッコー見分けるためか。 3階の東南の角部屋に入った。 閉め切ったカーテンの隙間からウザ女が外を見ていた。 俺の姿を見ると、挨拶もなしにいきなり言った。 「いまストーカーがいたのよ、アンタ、見なかった?」 「いや、今日はこの間の池袋のそれらしき女性は見ていない」 「はは〜ん、アンタ、あの時の女性たちに会えると踏んでやって来たというわけね。でも、違う。残念」 こいつ、いちいち忌々しいな。(続く) ブレーンワールド(その20) 「ストーカーというのは若い女性じゃなく、中年の男だよ」とウザ女は続ける。 「あっ!もしかしたら会ったかもしれない。受付でねるさんを待っているとき、振り返ったら、中年の男と目が合った。 だけど、ストーカーのようには見えなかったな」 「どういう感じの人でした?」とねるが訊く。 あれ?さっき会ったばかりというのに、男の顔を頭の中で描こうとしもできない。 「どこでも見かけるような平凡なスーツ姿で特徴のないような顔をしていたかな」 ウザ女が口を開く。 「ソイツよ、間違いない。さっきこの部屋を監視していた奴よ。 最初、聞いたときにはねるの勘違いだろうと思った。 でも、今やっていたようにカーテンの隙間から見張っていたら、ストーカーというのが分かんのよ。 怪しい男がこの部屋の方向に目をやっているのを何度も確認した。 ごく自然に歩きながら一瞬だけ目をやる。 そして、外出先でも遠くからねるを見張っているみたい。 普通だったら絶対に気づかないと思う。ねるはおっとりしているけど、そういう感覚は優れてんのよね」(続く) ブレーンワールド(その21) 「ねるちゃん、ピザ屋さんが来たわよ。置いていってもらったから取りに来なさい」と部屋内のインターホンからおばさんの声が聞こえる。 安全を担保するために、配送員とは直接には顔を合わさないシステムとなっているのか。 「お昼にして、その話は後でまたしませんか」 ねるはそう言った後、ピザを持って戻ってきた。 食事時にストーカーの話は避けたかったのか、この前のトークイベントの話題をねるは振った。 「並行宇宙が10の500乗以上もあるかもしれないということでしたね。目がくらむような数ですね」 「500なんて、たいした数じゃないよ」とウザ女が口を挟む。 「500じゃないぞ。10の500乗だぞ」と俺は呆れる。 「何が違うん?」 そんなことも区別できないのか? 「1の後に0が500個続く数字を思い浮かべてみろ」 「ふ〜ん。よく分からないわよ」 「たとえば、この宇宙には銀河が千億個あり、一つの銀河には平均して千億個の恒星があるという。 目のくらむような数だろ。 それでもこの宇宙にある恒星の数は10の11乗かける10の11乗で、10の22乗だ。 10の500乗というのは想像も絶するとんでもない大きな数字だ」 「ああ、面倒くさい。そういえば、あのセンセイってさ、私が質問したとき、ちょっと変じゃなかった?」(続く) ブレーンワールド(その22) 「それは俺も不審に思ったので、大学の研究室の先輩に訊いてみた。 シカゴのフェルミ研究所で先生が講演したとき、『パラレルワールド』と発したら、聴衆からブーイングが起ったそうだ。 だから、そのトラウマがあるんじゃないのかなと言っていたな。まあ、全く別の理由かもしれんが」 「パラレルワールドというのは科学ではタブーなのですか?」とねるが尋ねる。 「先生がフェルミラボで講演したのは20世紀の終わりごろで、その頃は禁句のような雰囲気があったみたいだね。 だけど、今は好むと好まざるとにかかわらず受け入れるしかない。 不確定性原理の解釈でも、20世紀終わり頃は多世界解釈を採用する研究者は少数派だったけど、今では圧倒的多数派となっている。 また、単純なビッグバン理論では解決できない宇宙の諸問題をインフレーション理論は解決しているけど、並行宇宙はそれと切り離せない。 だから、並行宇宙が気に入らなければ、インフレーション理論以外に整合性のある理論を自ら編み出さないといけない。 だけど、未だにインフレーション理論以外で完璧な理論は編み出されていない」 「ご自身は信じられています?」 「俺がってこと?いくら物理理論が示唆しているといっても、個人的には信じていないかな。 あったほうが面白いだろうし、地下室民の尊厳のためにはそのほうがいいんだろうけど」(続く) ブレーンワールド(その23) 「チカシツミンってなに?」とウザ女が訊く。 「この間、ねるさんがアイドルオーディションを受けたと知ってちょっと興味が出て、5ちゃんのアイドルのスレッドを覗いてみた。 そしたら、あるアイドルのスレッドにすごい罵詈雑言が書かれていて、その原因となる行動の動画もそこに貼られていた。 何かよっぽどのことをやらかしたんだろうと思って見てみたが、アイドルどうしが戯れているだけ。 たしかに『もう歳だよ』と軽口を叩いたり、相手が言ったことを受け流したりとかもあったけど、 むしろ遠慮の入らない間柄で、仲睦まじいようにしか見えなかった。 ところが、地下室民は狂ったように糾弾を繰り返している」 「だからチカシツミンって、何なのよ!」 「ドストエフスキーの『地下室の手記』の主人公と同じように、恨み言や繰り言を重ねる連中のことだ。 ある評論家がそう名付けたんだけどな」 「何も悪いことしていないアイドルさんがなぜそんな酷い目に遭わないといけないでしょうね?」とねるの目に悲しみの色が浮かんだ。(続く) ブレーンワールド(その24) 「もちろん被害を受けたアイドルのほうには何の責任もなく、クレームを浴びせる地下室民の生態に起因すると思う。 書き込んだことでそれに固執したり、承認されることで図に乗ったり、屑どうしで連帯するなど。 おそらくたまたま悪口を書き込んで、その自分自身の言葉を見て、その考えに凝り固まってしまう。 そいつと同レベルの追随者が現れると自分が承認されたかのような恍惚感が生まれる。 そういうのが何人か続くと、増幅され、共鳴する。 いわゆるエコーチェンバーという奴だね。 同じ意見だけが飛び交う閉鎖的な空間が出来上がることで、その中の情報だけが真実であると錯覚する。 集団同一視ということが起こり、圧力や帰属感によって中傷がエスカレートしてくる。 集まって団結力が出ると、絶対に許さないと苦情ユニオンをつくり、謝罪しろなどという要求をする。 実際には、そういう屑の数は多くないが、何度もしつこく書き込みを繰り返すので、屑だけが目立ってしまう」(続く) ブレーンワールド(その25) 「かわいそうに」とねるはいっそう悲観した。 「ああいうキチガイクレーマー集団に狙われたアイドルはホントかわいそうだよね」 「そのアイドルさんもですが、苦情を言う人たちが哀れでなりません」 「えっ?ああいう屑連中に憐憫の情を持つの?でも、万一関わるようなことがあれば、憎しみの感情がわいてくると思うよ」 「もし私が狙われるようなことがあったとしたなら、その人たちの魂を救済するため喜んで謝罪します」 「ねるさん、・・・。あえて言うけどそれは間違っていると思う。 理不尽な苦情に屈すれば、苦情を持ち込むことが趣味のクレーマー集団に達成感を与え、 その恨みがましい心に膿が分泌され、また新しいターゲット叩きが始まる。 身代金を奪い取ったテロリストと同じで、ますます調子づかせることになる」 しばらく考え込んでから、ねるは口を開く。 「そうですね、その通りだと思います。私が間違っていました。 でも、パラレルワールドの存在がそういう人たちに尊厳を与えるというのはどういうことですか?」 「ねるさん、こういうこと考えたことない?あの時の人生の分岐点で別の選択肢を取っていたらといったような。 さまざまな選択の繰り返しで、いつの間に思っていた方向と大きく食い違っている所に来てしまったというようなことを考えたことは?」 ねるの唇がピクっとかすかに痙攣したが、話を続けた。(続く) ブレーンワールド(その26) 「もしパラレルワールドが存在し、たとえ行き来できなくても、その様子が見られるとする。 この世界では惨めである自分だが、その分身が別世界では成功していた。 また、逆に、この世界ではエスタブリッシュメントとなっている者が別世界では零落していた。 そうすれば自分と成功者の差異なんてただの偶然にすぎないというように尊厳を保つことができる。 特に、今の日本なんて運がいいというだけで大金持ちになったのが多いからねえ」 「でもさ、いくら分身が成功していても、現実はビンボー人の生活苦だよね、そんなんで本当に尊厳なんて保てる?」 ウザ女にしては鋭いな。 「今の日本で餓死することのほうが難しいと思う。 それに連中にとっちゃ、訳の分からない高級料理とカップ麺やコンビニおにぎりの味の区別はつかないさ。 豪華客船の世界一周よりも部屋に閉じこもってプレステでもやるほうを好むだろうし。 生活面の充足感は問題ないんだから、あとはパラレルワールドを見て、成功していたかもしれない自分を夢見て満足していればいい」 ねるは目を伏せている。 調子に乗りすぎ過ぎたようだ。ああいう連中に対してはどうしても攻撃的になってしまう。冷静な判断力を失っていた。 相手がどんなに悪質な人間であったとしても、激しく論難を浴びせるような男をねるが好むわけがない。 少なくともねるの前では寛容な態度を取ることを心掛けなければいけないな。(続く) ブレーンワールド(その27) 雰囲気を変えようとしたのか、ねるはテレビを点けた。画面には鳥居坂46が映し出された。 あわててねるからリモコンを取り上げて、ウザ女がチャンネルを変えようとするが、ねるは止める。 「もう大丈夫。あのときの私を今は俯瞰で見ることができる。あのときの私はもう別人」 ねるにどう答えたら正解なのかが分からないのか、ウザ女は俺に話を振る。 「このセンターのコ、そんなに可愛いって思う」 ねるのほうをちらっと見た。動じている様子はないな。その話題に乗っても大丈夫だろう。 「センターに不適格だとは思わない、でも、これだけの美人集団の中で何が決め手となって抜擢されたのかな?」 「このセンターの原田まゆってコ、なんでもアツツの鶴の一声でセンターに決定したんだって」 「アツツ?」 「知らない?鳥居坂をはじめとしていくつものアイドルグループで総合プロデューサーをしている安本敦。 親しんでいるのか、軽んじているのか、ヲタからはアツツって呼ばれている」(続く) ブレーンワールド(その28) 「ああ、それなら知っている。『握手御殿』と揶揄されている総額10億以上にもなる豪邸を建てたとかいうのを聞いたことがある」 「そういえば、アツツが関係するアイドルグループは毎週のように週刊誌にスキャンダルが載っていたのに、最近は全くないんだよね。不思議なことにちょうど鳥居坂がデビューした前後でそうなったんだよ」 「そうなのか?」と興味のない俺は生返事をした。 「そうそう思い出した、当初、中学二年生の女の子が鳥居坂のセンターに決定していたという噂もあった」 「そのコの今のポジションは?」 「辞めちゃった。なんでも不動のセンターという確約をそのコにもその親にもして、逃げないように囲い込みしていたそうなんだけど、 確約したほうが約束破れば、そりゃー怒って辞めるよ。逸材だったらしいけど」 「なぜ、そんな逸材を辞めさせるような事態を招いてまで、その原田まゆをセンターにしたんだ?」 「知らないの?有名な話だよ」 黙ってやり取りを聞いていたねるだったが、グラスを手から滑らせ、その破片とコーラが床にまき散らかされた。 あわてて掃除することになり、話は中断した。(続く) ブレーンワールド(その29) 「ああ、明日、日曜だった。朝食のための食材を買ってくる」と言って、ウザ女は出ていった。 おっ!ねると二人きりになれた!ウザ女のくせに気が利くじゃないか。できるだけ時間かけて買い物してこいよ。 ねるの顔を見る。やはり綺麗な顔だな。 目、鼻、唇の配置のバランスがとてもいい。鼻と唇はぱっと見は目立たないが、とても形がいい。 大きな目はきらびやかに際立っているが、ちょっとだけ垂れていることでその際立ちが嫌味にならず、柔らかい表情をつくりあげている。 改めて眺めてみると、ねるが現実のものでないような気がしてくる。 追っても追っても捕まえることのできない美しい幻のようなものに思えてくる。 俺の考えていることを知るわけもなく、ねるが口を開く。 「実は、お訊きしたかったんですが・・・・」 えっ?二人だけのこの状況で俺に訊きたいこと? 「並行宇宙が10の500乗以上もあるならば、人間原理が肯定されると書かれている本も否定されると書かれている本もあり、 いったいどっちなのかがよく分からないんですが」 なんだそんな話か。ウザ女が話の輪に入れないことを気遣って、いなくなってから質問しようとしたのか。(続く) ブレーンワールド(その30) 「『人間原理』は混乱して使われているので、まず、それを整理しておこう。 人間にとって宇宙がかくも都合よくできているのは、人間が神によってつくられた特別な存在であるというのが『強い人間原理』で、 たとえ都合よくできているとしても確率論から当たり前というのが『弱い人間原理』。 単に『人間原理』と言うとき、昔は『強い人間原理』の意味で使われていたけど、今は『弱い人間原理』で使わることが多いようだね。 ねるさんが言ったのは、並行宇宙が10の500乗以上あれば、『強い人間原理』が否定され、『弱い人間原理』が肯定されるということ」 「もう少し詳しく教えてもらえませんか?」 「いろんな物理定数が人間の存在に都合のいい値を取っている。 一番よく取り上げられるのは、宇宙定数に関係するダークエネルギー密度かな。観測値が理論値の10の120乗分の1倍となっている。 観測値が一桁大きければ宇宙は広がりすぎて星が生成されることはなかった。逆に一桁小さければ宇圧縮され宙はつぶれていた。 つまり、星ができるためには10の120乗分の1のあり得ない精度で微調整されていなければならない。 普通に考えればそれは奇跡としか言いようがない」(続く) ブレーンワールド(その31) 「具体的にはどういう値になるんでしょうか?」 「紙とペンを貸してもらってもいい?それと電卓も。後、万有引力定数とディラック定数とハッブル定数の値をスマホで調べてくれる」 ノートの上に万年筆を置いて両手でねるが手渡したとき、両手の指先でねるの両手に触れてみた。 嫌がっている様子はないな。 電卓も同じように両手で渡してきた。 今度は触れていることがはっきりそれとわかるようにして受け取った。 全く気にしていないようだ。 俺を好意的に受け入れているというよりは。男の下心に無頓着と考えるのが妥当か? ねるの体温が俺の手の平に残っている。当たり前だが、幻ではなくねるは実在している。 よし!ねるに有能なところを見せてやろう! この上なく集中して必要な式をすばやく導き出し、電卓で数値計算をした。 「よく分からないところもありますが、おおよその感触はつかめました。 でも、ダークエネルギー密度の値が微調整されているとしても、確率論から『弱い人間原理』は当たり前というのはどういうことなんでしょうか?」(続く) ダークエネルギー密度の理論値と測定値を導き出すのをこの物語の中に取り入れようかとも思ったが、 ストーリー進行の邪魔になると思ってあきらめた。 ここでは、補足のためそれをざっと導き出してみる。 理工書でも啓蒙書でもネット上でもその計算のやり方を取り上げているものはないので、ここでやるのもそれなりに意義があるとは思う。 万有引力定数とディラック定数とハッブル定数の3つの値以外はいっさい何も見ないで書く。 根本的なことのいくつかが天下り的に与えられているのを前提とすれば、そんなに難しくはないが、数式アレルギーの人は無視してくれ。 (A)ダークエネルギー密度の理論値について (1)量子論であつかうエネルギー密度はとてつもなく大きい。 量子論のようなミクロの世界では長さや時間はとてつもなく小さいが、逆にエネルギーはとてつもなく大きくなるのを押さえておこう。 前者は当たり前だと思うので、後者についてざっくりと触れておく。 ミクロの世界を観測するためには、セルンにあるような大型加速器(山手線の8割くらいの大きさ)で莫大なエネルギーを与えてやる。 それは人間が目の当たりにできる最大のエネルギーである。 ただし、最大エネルギーといっても、たとえば太陽が1秒間程度で地球に降り注ぐエネルギーと比べたら、ゴミみたいに小さい。 また、原爆はおろか通常爆弾のエネルギーと比べてもはるかに小さいと思う。 では最大というのはどういうことか? 2個の陽子にだけエネルギーを与えて衝突させているので、エネルギーがきわめて小さな範囲に集約している。 つまり、最大というのはエネルギー密度である。 宇宙誕生のときのインフレーションのときにも匹敵するエネルギー密度がセルンの大型加速器では実現されている。 そのくらい大きいエネルギー密度を量子論ではあつかっている。 (2) ダークエネルギー密度の最大値は量子論のエネルギーである。 ダークエネルギー密度の正体は真空のエネルギーであると考えられていて、それは量子論であつかうエネルギーである。 したがって、ダークエネルギー密度の最大値は量子論のエネルギーとなる。 (3) プランク密度 万有引力定数G、ディラック定数h、光速cの3つの物理定数によって量子論のエネルギーは決定する。 ディラック定数は、プランク定数を2πで割ったもので、換算プランク定数とも呼ばれる。 本当は「h」の上を横棒で貫いて表すのだが、ここではそういう記述はできないので、プランク定数と同じhで表すことにする。 次元解析によって、上の3つの量G、h、cで量子論のエネルギーは表してやることができ、それをプランク密度(以下ρで表す)という。 G、h、c、ρの単位は[kg^-1・m^3・s^-2]、[kg^1・m^2・s^-1]、[m^1・s^-1]、[kg^1・m^-3]である。 (E=mc^2を考慮すれば、単位の上ではエネルギー密度の単位は単に密度の単位としてもよい。) G^x ・h^y ・c^z=ρとすると、 −x+y=1、3x+2y+z=−3、−2x−y−z=0から、x=−2、y=−1、z=5と求まる。 よって、ρ=G^-2 ・h^-1 ・c^5となる。 G=6.67×10^-11、h=1.06×10^-34、c=3.00×10^8を代入して(hはプランク定数ではなく、ディラック定数であることに注意)、 ρ=5.15×10^96[kg^1・m^-3]と求まる。 これがダークエネルギー密度の最大値で、これにマイナスを付けた−5.15×10^96[kg^1・m^-3]が最小値である。 (A)ダークエネルギー密度の観測値について。 実は、こちらのほうがより厄介である。 観測された数値データを見るだけではないのか?と思うかもしれない。 それはその通りなのだが、専門書でも、啓蒙書でも、ネット上でも、ダークエネルギー密度は割合(パーセンテージ)でしか示されていないので、 そこから、具体的な値に換算する方法を理解しておかなければならない。 (1) フリードマン方程式は天下り的に与えられているとする。 全てを説明するのは無理なので、次のフリードマン方程式は天下り的に与えられているとして、そこから説明しよう。 (b/a)^2=8πGρ/3−Kc^2/a^2+Λc^2/3 ただし、b=da/dtである。 (時間微分は上にドット・を付けて表すのが普通だが、ここではその表記はできない。) また、Λは宇宙項で、宇宙を広げようとする力の源泉となっていて、その正体がダークエネルギーである。 ρは先ほどはプランク密度としたが、ここでは通常物質とダークマターの合計の密度である。 その他の文字は慣用的な文字を使っているので、専門書やネットで確認すれば判断できると思う。 文字が何を表しているかの説明の必要が生じたら、その都度、行う。 (2)フリードマン方程式の式変形 通常物質とダークマターの密度をρ_b、ρ_dとすれば、ρ=ρ_b+ρ_dである。(_の右の文字は下付きの添え字である。) また、ハッブル係数Hの意味を考えれば、H=b/aとなるのは当たり前だとは思う。 (b/aの分子・分母に宇宙半径の現在値を乗すれば、v/rとなるので、それがHに等しくなると判断してもよい。) 以上の2式をフリードマン方程式に代入して、無次元にするためH^2で両辺を割れば、 1+Kc^2/a^2 H^2=8πGρ_b /3 H^2+8πGρ_d/3 H^2+Λc^2/3 H^2 右辺の第1項(もしくは第2項)と第3項の次元が等しいことを考慮し、ダークエネルギー密度をρ_Eとすれば、 8πGρ_E/3 H^2=Λc^2/3 H^2が成立するので、 1+Kc^2/a^2 H^2=8πGρ_b /3 H^2+8πGρ_d/3 H^2+8πGρ_E/3 H^2 と書き変えることができる。 ここで、見やすいように1以外の左辺と右辺の4つの項を、左から順に、Ω_k、Ω_b、Ω_d、Ω_Eと置けば、 1+Ω_k=Ω_b+Ω_d+Ω_E (3) 空間の曲率が0なら通常物質、ダークマター、ダークエネルギーの合計は100%となる。 空間の曲率Kの値はほぼ0であることが知られているので、Ω_k=0となり、 1=Ω_b+Ω_d+Ω_E 通常物質、ダークマター、ダークエネルギーの割合が、たとえば5%(0.05)、25%(0.25)、70%(0.70)であるというのを聞いたことはある思うが、 空間の曲率がほぼ0となっているために合計が100%(1.00)となる。 (4)後は数値計算。 Ω_E=8πGρ_E/3 H^2から、ρ_E=3 H^2Ω_E/8πG ハッブル定数の最新値で、ネット上に上がっているものは、H=74.3km/s・Mpc Mは10^6で、pc(パーセク)とly(光年)の関係は、1 pc=3.26lyなので、単位を変換すれば、 H=74.3[km/s・Mpc]=74.3×10^3÷(10^6×3.26×3×10^8×60×60×24×365.25=2.40×10^-18[1/s] Ω_Eの値は理工書「一般相対性理論入門 改訂版」(須藤靖)のP133では0.685、 啓蒙書「数学的な宇宙」(テグマーク)のP105では0.68、Wikiでは0.683となっている。 ここでは0.685を用いることにする。 ρ_E=3 H^2Ω_E/8πG=3×(2.40×10^-18)^2×0.685÷(8×3.14×6.67×10^-11)=7.06×10^-27[kg ・m^-3] (C)理論値と測定値との比較 確認すると、ダークエネルギー密度は、−5.15×10^96[kg^1・m^-3]から5.15×10^96[kg^1・m^-3]の範囲で任意の値を取るが、 我々が住んでいるこの宇宙のダークエネルギー密度は、7.06×10^-27[kg ・m^-3]となっている。 (7.06×10^-27)÷(5.15×10^96)≒10^-123なので、−1から1までの範囲で自由にスライドさせることのできるつまみがあるとして、 ど真ん中の0から右に10の123乗分の1の位置となる信じられない精度で調整されているということである。 それが10の122乗分の1の位置でも、10の124乗分の1の位置でも、この宇宙は星がつくられる環境ではなかったかもしれない。 存在するのが我々の宇宙だけだったなら奇跡であるが。超弦理論によれば物理定数が異なる宇宙だけでも最低で10の500乗の宇宙があるということなので、 微調整を実現できる宇宙が存在する可能性は十分にあり、我々の宇宙はその一つであると考えれば、「強い人間原理」は否定される。 ブレーンワールド(その32) 「外の様子がいっさい分からない独房の中に男がいたとする。 その独房には毒ガスが9/10の確率で噴霧される機械が備えられていて、それが実行されたのに男は生きている。奇跡だと思う?」 「1/10の確率で助かるわけですから、運がよかっただけで、奇跡というほどではありませんね」 「実は、噴霧の回数は1回だけなく、連続して起こっていたとしたら?」 「1/100の確率ですから、まだ奇跡と言えるかどうか・・・・」 「その回数が5回でも助かっているとしたら?」 「10万分の1の確率ですから、何の作為もなければ奇跡的だと思います」 「たしかにその男にとっては奇跡だ。ところが室内のその様子をモニターで外から見ている人間にとっては奇跡でも何でもないとする。 作為はいっさいないのに奇跡ではないとすればどういうカラクリが考えられる?」 「・・・・・・」 「ヒントはその男の独房の中だけではなく、外の状況も想像してみる」 ねるはしばし考え込んでから、すっきりした顔で言う。 「なるほど、そういうことですか、そのカラクリが分かりました!」(続く) ブレーンワールド(その33) ねるは軽やかにしゃべる。 「その外にも10万個の独房があり、同じようなシステムになっているとすれば、確率論的に言って助かる人は1人いることになります。 100万個あれば、10人は助かる可能性はある。そういうことですね!」 「その通り。ダークエネルギー密度がきわめて精密に微調整されているとしても、奇跡ではないという意味はもう分かるよね」 「はい。超弦理論が予言する並行宇宙の数が10の500乗個ならば、 10の120乗分の1の値にピンポイントでアジャストする宇宙もあるということですね。 そして、いま私たちが住んでいるこの宇宙はそんな宇宙の一つだったというわけですね! でも、10の500乗個の宇宙があるかもしれないということに思い至らなければ、私たちが奇跡と感じるのも当然ですね」 「うん。独房の例で言えば、死んでしまった人間は考えることさえできない。 生きている人間だけがなぜ10万分の1の確率で助かったのか?と不思議がる。 並行宇宙で言えば、星が存在できない宇宙なら、生命も存在できず、そういうことを考えることができる高等生物も当然存在していない。 物理定数がちょうどいい値を取る宇宙にいて、人間のような高等生物に進化した者だけが、 なぜこんなに都合よく宇宙はできているのかと悩む。 でも、莫大な数の並行宇宙があれば不思議でも何でもない」(続く) ブレーンワールド(その34) 「疑問が氷解しました!でも、そういうふうに理解できても、やはり奇跡を感じずにはいられないのはなぜなのでしょう?」 「それは、人間の思考の根源的なところに『強い人間原理』がまとわりついているためだと思う」 「詳しくお伺いしたいです」 「独房の例で言えば、10万分の1の確率で助かった男は、外から見れば確率論的に当たり前だけど、当人にとっては奇跡だよね。 自分は特別ではなく、取るに足らない存在ということを徹底的に思い知らされているとしても、 『この私』にとっては、ありとあらゆることは『この私』に認識されることで生じる。 つまり、『この私』が世界の中で存在しているのではなく、世界は『この私』によって認識されることで存在する。 『この私』は他に取り換えることのできないかけがえのないものである。 そうすると生きていること自体が奇跡。物理定数が精密に微調整されているこの宇宙で生まれたこと自体が奇跡ということになる」 ねるは目を輝かせてうんうんとうなずく。 チャンスだ!ここが勝負どころだ! 「そして、いま、この宇宙の片隅で、ねるさんと出会えたこと自体が、き、き、奇跡だと思っているぅ」 しまった!肝心なところで噛んでしまった。 「ふふふ」とねるから笑われてしまった。(続く) ブレーンワールド(その35) ウザ女が戻ったら、自然とストーカーの件の話に戻った。 「本当にあの男の人には身に覚えがないんです」と心配そうにねるは語る。 「手がかりはなしか。池袋での三人の女性やサッカー場で見た女性とその男は関係しているのかな?」 「見当もつきませんが、池袋の三人もサッカー場の女の子も身に覚えがないというのは一緒ですが、関係ないような気がします」 その後、「ただ・・・」と言って、黙り込んでしまった。 「ただ?」 「ある意味、彼女たちがあの男の人よりも怖いんです。 サッカー場の女の子も、話を聞く限りはその三人も、私に対して悪意があるようには思えません。でも、だからこそかえって怖いんです。 得体のしれない何かが有無を言わせず私の運命に介入してくるような気がして」 「耳を押さえていたけど、何か聞こえたの?」 「なにか人の声のような気がするんですが、うなるような感じで、はっきりとした音声にはなっていませんでした。 鼓膜を通して聞こえるというよりは、直接、頭の中で響くといった感じで・・・」(続く) ブレーンワールド(その36) 「なんの手がかりもなしか。もう一つ教えて。あなたが鳥居坂の最終オーディションを受けなかったのはなぜ?」 「そんなこと関係ないでしょ!」とウザ女は怒鳴る。 関係ないだろうなとは俺も思った。ねるが秘密を打ち明けてくれれば、俺との距離が縮まるだろうという打算からだった。 「聞いてみないと関係あるかないかはわからない」と強弁する。 沈痛な表情でねるは話し始める。 「あの日、お母さんから電話がかかってきました。羽田空港にいるから急いで来るようにと。 お父さんもお母さんも私は大好きですし、尊敬もしています。だから、お母さんが言うことには何の疑いも持たず従順に従ってきました。 どういう要件かは想像がついたので、空港に着くまでは針のむしろを歩くようでした。 逆らえないな、命令通りに長崎に帰ることになるんだろうなと諦めていました。 対面したら、優しくもきつい口調でオーディションを受けるのをやはり禁じられました」 (続く) ブレーンワールド(その37) 俺は黙ってねるの話を聞いていた。 「ところが、私自身にも意外だったことに、激しく抵抗してしまいました。 『お母さん、今まで一度も逆らったことはないじゃない。今後もそうします。だけど、今回だけは一生に一度のわがままを聞いてください』と泣き叫びました。 アイドルになりたいという強い夢があったのは自覚していたけど、そう思っていた以上に強い強い気持ちだと悟りました。 そんな私の態度に驚いて、お、お、お母さんは・・・」とねるは嗚咽した。 「ねるのお母さんはそれ以来、ときどき目覚めるけど昏睡状態が続いて・・・」とウザ女がささやいた。 「じゃあ、アイドルになるという夢は?」と無造作に俺は言ってしまった。 「持てるわけないでしょ!」とねるは叫んだ。 外の曇り空から差し込む鈍い光の中で、座っている椅子とテーブルごと床にずしりと沈みこんでいるような気持ちになった。 ウザ女は顎をしゃくり上げをその顎をドアに向け、出ていくように促した。俺は従った。(続く) ブレーンワールド(その38) 落ち込みながら、朝に来た道を引き返し、公園までやって来ると、「えぇぇぇぇ、私、一人で探すのぉぉ?」という素っ頓狂な声が聞こえた。 俺のほうに背を向けてベンチに座っている女性二人が何か言い争いしている。 「だって、いまから電車に乗らないと、長野に返れなくなっちゃうし。眞緒は私より6歳も年上だし、一人でできるでしょ」 「いつも私のこと馬鹿にしてるくせに、こんなときだけ大人あつかいして!でも、本当にこの辺にいるの?」 「私のアンテナの感度を疑うの? この前だって、電車から新宿のフォームに降りた直後に、その存在を感知したから、その方向に移動したら、池袋で見つかったし。 その後に皆にメールで知らせたら、何人かが捜しにきて、なっちょだってきょんこだってそれらしい人を見たっていうし」 「でも、芽実ちゃん、見つけたときに、なぜ話しかけなかったの?」 「・・・・・」 「どうしたの?なぜ答えないの?」 「だから、言ったでしょ。変な男に絡まれて見失ったって。じゃあ、私は帰るから、眞緒、後はお願い」 「芽実ちゃん、行かないで!」 連れの女性の言葉を無視して立ち上がり、ベンチに置いていたバッグを取るためこちらのほうに顔を向けた。(続く) ブレーンワールド(その39) あのコは確か池袋でねるのことを訊いてきたコだじゃなかったか・・・? ん・・・?池袋・・・?変な男・・・?絡まれた・・・? まさか変な男というのは俺のことか?だいいち絡んできたのはそっちのほうじゃないか。 目が合うと、「あっ!」と言って、また絡みつくような目でしばし俺を見つめた後に、ぷいっと素早く顔を背け、踵を返しながら体も背ける。 かすかに膨らんだ胸の上で首にかけたラリエットが跳ね、顔の後を追うように動く。 背を向けたときには、ポニーテールに結わえた黒髪が白いワンピースを背景として左右に揺れる。 その光景がスローモーションのように流れる。 間違いない、髪型と服装は違うが、池袋で出会った美少女だ。この場所に来たというのは偶然ではないな。 やっぱりねるに関して何らかの情報を持っているはずだ。 うまくそれを引き出せば、ねるを安心させてやることができる。今日の失態を取り返すことができる! 「あの!」と大声で呼び止めるが、少女は振り返らず、早足となる。 おい、クソガキ、シカトすんなよ! 一段と大きい声で「あの!」と再び叫ぶが、またもや無視される。 ベンチに座っている女性がこちらに振り向いて驚いた顔をしている。 薄顔だが、端正な顔立ちをしている。このコもねるに用があるのかか? なぜかくも美人がそろいもそろってねるを捜しているのか?(続く) ブレーンワールド(その40) そのとき、スマホのバイブレーション機能が作動した。 ねるからのメールだ。 「先ほどは取り乱してすみませんでした。 悪気がなかったというのは十分に分かっていましたのに、あんな態度をとって、本当にごめんなさい。 水に流していただけませんか? それと、その前の二人だけのときに私が笑ったのをもしかしたら誤解なさってませんか? ああいう歯の浮くようなセリフを言い慣れている人じゃないというのが分かり、好ましく思って、笑みがこぼれたのです。 噛んだことを嘲笑したのではけっしてありません。 でも、はっきりと意思表示すべきでした。 そのことも本当にごめんなさい。 またいろんなことを私にご教示してくだされば幸いです」 天にも昇るような気分となり、公共の場にいることも忘れて俺は大声で高笑いをしてしまった。 「芽実ちゃん、待って、怖いよ〜、私を置いていかないで」と叫びながら、クソガキ美少女の後を追う薄顔美女の後ろ姿が見えたが、 二人からねるの情報を引き出すということはどうでもよくなっていた。 公園の中で通り過ぎていく数人から怪訝そうな顔で見られ、 おまけにそのうちの一人が連れていたミニチュアピンシャーから吠えられた。 我に返って、恥ずかしくなった。(続く) ブレーンワールド(その41) ねるとの仲は自然と深まっていった。 この日、一緒に映画を観るということとなっていた。 銀座のシネコンの前の待ち合わせ場所にねるはすでに到着していた。愛おしむような表情で上空をねるは見上げている。 その視線の先を見ると、三角形の尾羽の鳥が上昇気流を捕まえて空高く輪を描いている。 トンビだな。こんな東京の繁華街のど真ん中でトンビとは珍しい。 「赤と黒」の中で、主人公のジュリアン・ソレルは大空を舞う鷲を権力の象徴に見立てるという場面があるが、 トンビを見て、ねるは何を思っているのだろうか? ねるの表情にしばし見とれて、声をかけるのを忘れていた。 俺の姿を見つけると、「もうチケットは買われました?」とねるは訊いてきた。 「いや、まだだけど」 「じゃあ、映画はこの次にして、今日は海を見に行きません?」とはずんだ口調で言う。 俺に異存はなかった。ねると一緒にいられるのなら何でもよかったから。(続く) 物理に関して無知なので>>206 からの補足はどうあがいても理解できそうにないのですが、人間原理の「強い」「弱い」というのは決して正反対の考え方ではないですよね? ただ延長線上にあるかと問われればそれも違うような気もします。 「ブレーンワールド」で取り扱われているパラレルワールドは、強い人間原理を基にした理論であり、弱い人間原理の上には成り立たない、みたいな感じなのでしょうか 中々難しいです。 >>227 >人間原理の「強い」「弱い」というのは決して正反対の考え方ではないですよね? ざっくり言えば、強い人間原理は「人間は特別なものである」ということで、弱い人間原理は「人間は特別なものでない」ということなので、 正反対と言っても差し障りはないと思っています。 ただ、より正確には、論理学で言うAと¬Aの関係といったほうがいいかもしれませんね。(¬は否定を表す記号です。) Aを「長濱ねるが好きである」とすれば、Aの反対は「長濱ねるが嫌いである」なります。 ¬Aは「長濱ねるが好きではない」ということになります。 ¬Aの中には「長濱ねるが嫌いである」も入りますが、「長濱ねるが好きでも嫌いでもない」も入ることとなります。 >パラレルワールドは、強い人間原理を基にした理論であり、弱い人間原理の上には成り立たない、みたいな感じなのでしょうか 逆ですね。 弱い人間原理が成り立ち、強い人間原理が成り立たないということになります。 ただし、正確には「パラレルワールドは」ではなく、「無数のパラレルワールドは」としなければなりません。 ダークエネルギー密度(宇宙定数)を例にしたので、分かりにくかったかもしれませんね。 たとえば、電子の質量も9.1 × 10^-31kgという特定な値を取りますが、「なぜ?」と突き詰めても答えは出ないんですよね。 それは人間の知性が未熟であるというよりは、この宇宙ではそういう値を取るようになっているというしか答えようがないんですよね。 で、そういう値(電子の質量など)はランダムであるはずなんですが、ランダムの組み合わせだと星1個さえつくられる可能性は殆どないんです。 ところが、この宇宙では無数の銀河があり、その中には無数の恒星があり、その周りに惑星があり、さらに知的生命体にまで進化する惑星まである。 この宇宙が一つしかないとすれば、ランダムであるべき値が人間生存のため精緻に調整されていることとなります。 「人間は特別なものである」ということになり、強い人間原理が肯定されることとなります。 ただ、そういう見方というのはあまりにも宗教臭くて都合がよすぎるんじゃないかという反発が当然のように科学者から出てくるわけですね。 そして、宇宙は一つではなく、無限に近い数なら、物理定数がランダムでも、多くの宇宙は生命を生み出さない捨て駒になるにせよ、 いくつかの宇宙では生命を生み出す環境にあるという帰結がもたらされ、弱い人間原理が肯定されることとなります。 超弦理論が予言する10^500(10の500乗)個の宇宙というのは無限と言ってもいいくらいの大きな数なので、弱い人間原理を担保することとなります。 ブレーンワールド(その42) お台場の人口砂浜に俺とねるは腰を下ろした。 目の前には太陽の光で輝く海があり、潮の香がすーっと鼻に入ってくる。 太陽に灼けた砂を手で触るとちょっとだけ熱い。 「あっ!飲み物を買ってくればよかった」とねるは言う。 「じゃあ、自販機を見つけて、俺が買ってくるよ」 「私もいっしょに行きます」 「いいよ、いいよ、ひとっ走りしてくる」 「じゃあ、炭酸系の冷たいものなら何でもいいので、お願いします」 ほんのわずかな時間だけど、ねると離れ離れになるのは辛いなと思いながら全力疾走する。 自販機を見つけたが、女性二人の先客がいる。 一人が千円札を入れて、ボタンを押し、しゃがんで釣銭を取ろうとする。 「えーーーっ、信じらんない!」 「アヤ、どうしたの?」 「お釣りのうち300円近くが十円玉で出てきている。私のお財布に入りきれないよ。 メイメイ、この自販機に電話番号書かれてるでしょ、そこに電話して」 「どうするの?」 「ここまで来てもらって、百円玉に取り換えてもらう」(続く) ブレーンワールド(その43) はあ?そんなことでいちいち電話するつもりか!こちとら急いでいるんだ! 戻るのが遅れて、ねるが変な男に絡まれていたらどうしてくれるなだ! 財布に入りきれないなら、バッグの中にでも入れてろ! だいたい釣銭を取り換えるためだけに業者に来てもらうというバカな発想はどこから出てくるんだ! わざとらしく咳払いをすると、二人は振り返る。 アヤのほうは小顔でスタイルがよく、メイメイは濃い顔立ちだが素直そうな感じだ。二人ともとても可愛らしい。 「二百円分の十円玉を俺の百円玉2枚と取り変えましょう。その十円玉を使って俺がジュースを買うことにしますので」 「ええ、そうしましょう」とアヤは喜ぶ。 受け取った大量の十円玉を投入口に一枚一枚投入するが、かなり面倒くさい。 苛立たしく投入していると、「私、まだ、買ってないよ」という声が後ろから聞こえる。 なんだ?文句言っているのか? 振り返らず、投入しながら言う。 「後ろに人が待っているというのに二人のグダグダなやり取りで無駄な時間をこっちは浪費した。迷惑かけたとは思っていないの? 釣銭も思い通りになるようにしてあげたんだから、先を譲ってくれてもいいんじゃないの?」(続く) ブレーンワールド(その44) 目的のジュースを2本買って、振り返ったら、メイメイのほうが大粒の涙を流している。 うわっ!これじゃ俺が割り込んだために泣かせことになるじゃないか。 「気にしないでください。このコ、ちょっとしたことで泣いてしまうんです」とアヤが言う。 「アヤがこの場を離れようとしたから、そう言ったんです。順番を後回しにされたのを咎めたんじゃないんです。泣き虫ですみません」とメイメイは言う。 「ごめん、ちょっと急いでいたので、苛立ってしまった。あなたが言ったことを曲解して悪かったね」 「アヤ、キョッカイってなに?」とメイメイは呟く。 「とても重い刑罰のことよ、ほんとメイメイは言葉を知らないんだから」とアヤが得意げに答える。 こら、こら、それは極刑だろ。音を聞き間違えるのはともかく、今の会話の流れで極刑なんていう言葉をなぜ思いつく? 「アヤ、物知りだね」 おい、おい、マジで感心してんのか? 「メイメイも語彙力を増やす努力をすれば、私みたいになれるよ」 勘違いもそこまで徹底すれば痛快だ。憎めないおバカだな。 「急がれているようなので、お気を付けて。百円玉に取り換えていただいてありがとうございました」とアヤが頭を下げ、 「ありがとうございました」とメイメイも続く。 二人とも頭は悪そうだけど、性格はよさげで。礼儀作法もちゃんとしてんだな。 「先を譲ってくれて、こちらこそありがとう。じゃあ、これで」(続く) ブレーンワールド(その45) 時間がかかった顛末を説明すると、ねるは笑い過ぎて涙まで流す。 「あっはっはっは、千円札を自販機で使うときには私も気を付けなきゃ」 ゲラが収まってから、ねるに尋ねる。 「海を見たいと急に言い出したのは、トンビが関係しているのかな?」 「トンビは私にとって異界からの使者なんです。あの甲高くピーッヒョローと鳴く声も好き!」 「異界からの使者?」 小首をかしげた俺を見て、「うふふふ」とねるは嬉しそうに笑う。 「私は長崎県の五島列島の小さな島で生まれました。 それについては言えば、生まれたいと思う場所で私は生まれたという単純な感想があるだけです」 灼けた砂をどかし、湿った砂をキャンバスにして、ねるは指で描いた。 そこには、上下に二つの島があり、通常の地図通り、上が北で、下が南となっていた。 「私の生家はこの南の島の北端にあり、流れの速い海流を挟んで北側の島が私の家からいつも見えていました」 二つの島の間に深い線をねるは入れた。速い海流を表しているのだろう。 「その情景が目に浮かぶようだね」(続く) ブレーンワールド(その46) 「二つの島の間は100メートルもないのに簡単には行けないんですよ。 南側の島の船着き場は南端に、北側の島の船着き場は北端にありました。 しかも二つの船着き場からの直接便はなく、いったん九州本土に渡って乗り換えてからしか行けないんですよ。 それに北の島には不定期便しかなかったので、一度も行ったことはありませんでした。だから、北の島は私にとって異界でした」 「トンビはそこを自由に行き来することができた。だから、異界からの使者というわけか」 「はい、それとカモメなんかとは違って、天高く舞っていることもよくあり、その姿が何か特別なものに思えました」 そうか、銀座でもトンビは高く舞っていたな。 「島にあった天主堂で神父様から天使のお話をよく伺ったものです」 天主堂というのはいい響きだな。キリスト教と日本の伝統文化が融合したという深遠なものを感じる。 「私の想像の中では天使の羽は白ではなく、トンビの茶色い羽になっていました。神父様にもそのことをお話したことがあります」 かなり奇抜な想像だ。しかもそれを口にするとは、けっこう大胆なところもあるんだな。 「叱られなかった?」 「いえ、そんなことはありませんでした。 『あなたの流儀で神様や天使を想い描き、その想像を自由に遊ばせていいんだよ』と優しく言われました」(続く) ブレーンワールド(その47) 自分で描いた地図を見ながら、深い記憶に浸るようにねるは話を続けた。 「で、その北の島にはその風景には似つかわしくない派手な紫色の壁の家があり、子供どうしでそれについてよく話したものです。 北の島には誰も行ったことがなかったので、誰もが好き勝手なことを言いました。 実は、あの家は張りぼてになっているとか、あの中に入れば長崎市内でも東京でも海外でも一瞬でワープすることができるとか。 でも、真実を大人たちに求めても、そっけない言葉しか返ってきませんでした。 『そういや北の島に紫色の家はあるな、ばってんそれがどがんかしたとか?』というように。 ある日、きっと何かを知っていると思った島で一番ご高寿の100歳近くだというお爺さんに、尋ねる機会を得ることができました。 そしたら、『ああ、あの家か。あれは希望の光たい』と仰いました。 希望の光!ああ、なんてゆかしい言葉!と思い、私は興奮しながら話の続きをせがみました。 『今まで他人には話したことはなかったが、特別に話してやるたい」 ねるはその老人の口真似をしながら話しだした。(続く) ブレーンワールド(その48) 「おいが15んなったときたい、見習いとして初めて兄貴ん船に乗った。 まん丸かお月さんが煌々と輝いて、波一つなか日やった。初めて漁に出るおいに気使ってそぎゃん日を選んでくれたんやろもん。 そん日は魚がじぇんじぇん釣れず、なんもやることもなく、おいは海に映ったお月さんば眺めとったたい。 そしたら、急にや、そんお月さんが二つに割れたと思ったら、船が横倒しになり、おいも兄貴も海に投げ出されとった。 バスケットボールくらいの大きさの浮きをおいの方に投げて、『そいば服ん中に入れて、絶対、離すんやなかぞ』って兄貴は叫んだ。 兄貴は浮きは持っとらんやった。15ん身で死んでしもうたら無下らしかと思うたんやろ、おいに浮きば譲ってくれたと。 服ん中に浮きば入れたそん後たい、海面が小山んごと大きゅうなっった。 宙に跳ね上げられた後、海面にたたきつけられたと思うたら、今度は海ん水がおいの体ば海底近くまで叩きつけた。 そがんことが何回も繰り返されて身も心もへとへとうなとった。(続く) ブレーンワールド(その49) ようやく海が治まったと。それもものすごく静かんなった。先まであぎゃん荒れ狂っとた海がぞ、信じられっか? 兄貴ば探そうと思って、辺りば見回したけど、なんも見えん。 波の飛沫が細こう飛び散って、霧ん中にいるんごたった。一寸先はなんも見えん。 海は静かやったけど、そぎゃん様子やったから、どこに向かって泳げばいいんかが分からんかった。おいは死ぬのを覚悟しとったたい。 そしたら、どぎゃんしたことか、お月さんの光が当たって霧が銀幕んごとなって、そん中にそん紫か家が現れた。 急に力が沸いて、そん方向に泳げば助かるような気になっとうた。 そしたら、そん紫か家は逃げていくったい。砂漠で迷うた人には逃げ水ちゅうもんが見えると聞いたことがあったけど、そんごたった。 とにかく必死で紫か家が見える方向に泳いだったい。 そしたら無人島が見えて、そこに上がってほっとした。 ようやく兄貴んこと考える余裕ができた。浮きば海ん中に投げて、「神さん、兄貴ば助けてやらんね。そん浮きば兄貴んとこへ運んでくれんね」と叫んだと。(続く) ブレーンワールド(その50) 次ん日、通りがかりの漁船に助けてもろうて、おいはこん島に戻ってきたとう。そしたら、兄貴はもうすでに帰っとった。 兄貴が無事んとこ見て、おいは泣ぎだして、兄貴に抱き着こうとした。 そしたら、おいの頬ば平手で殴って、兄貴が言うた。 「こん馬鹿があんほど浮きば離すなと言うたのに。おいは生きとっても、わいが死んだら何にもならんやなかか」 なんのことかわからず、昨日んこと話したら、兄貴は驚いた顔しとった。 兄貴にも海面の霧の上にあん紫か家が現れて、そっちに泳いだら、 おいが投げたそん浮きが兄貴んとこに流れ着いて、そんため助かったと言うとった。 希望の光っていうのはそういう意味たい」 ねるの長い話の余韻に浸りながら、ねるの長崎弁を真似して、海を見ながら言う。 「感動的な話ばってん、ちょっと話ができすぎたい」 「やっぱり嘘だと思われますか?」 「天使の存在を心から楽しんで、何人かで共有すれば、天使はフィクションでありながら、しかもフィクションという実在となる。 その話は心から楽しめた。俺とねるちゃんの間では本当のことでいいと思う」 俺の右手の上に自分の左手をねるはゆっくりと重ねた。 体の芯で湧き上がった歓喜が髪の毛から足の爪先まで伝播した。 手に触れられただけでこんなにも仕合わせな気分となるものなのか? この仕合わせが永遠に続くものだと思った。(続く) ブレーンワールド(その51) その直後だった。両耳を押さえ、悶絶の表情となり、ねるはうなだれた。 ねるの前に回って、「どうした、気分が悪いのか!」とねるの両肩を掴む。体が痙攣している。 しばらくその状態が続いたので、スマホを取り出し、救急車を呼ぼうとしたら、ねるは顔を上げた。 「大丈夫?」 「はい、もう大丈夫です」 ねるは覚醒したような表情となっていた。なにか特殊な通過儀礼を一瞬のうちに飛び越えたかのような気配を漂わせていた。 そのただならぬ雰囲気に不安を感じた。 「人の音声のようなものがうなるように頭の中で直接響くと前に言っていたよね。 もしかして、さっき、それが明確に聞こえたの?」 「いえ」とねるは無表情で答えたが、左眉が少し跳ね上がるのを俺は見逃さなかった。 俺の不安は収まらなかったが、ともあれねるが平常の状態に戻り、もうなんともなさそうなことには安堵した。 「負ぶっていこう。道に出たらタクシーを捕まえよう」 「いいえ、本当に大丈夫です。それよりあの人たちを引き留めておいてくれませんか?気持ちが落ち着いたら、私も後で行きます」 「あの人たち?」と言いながら、周りを見渡した。 手をひさしにして、目を細めて逆光となる方向を見たら、砂浜に座っている女性の集団がいた。 強い視線が一斉にこちらのほうへ向けられている。 「分かった。引き留めておくから、絶対に無理はしないように」 彼女たちのほうへ向かった。(続く) ブレーンワールド(その52) 近寄ってみて、俺は驚いた 11人いたが、その全員が美女ばかりだったからである。 もっともその過半数はすでに知っている顔だった。 俺が話しかけようとする前に、そのうちの一人が立ち上がって喋り出した。 「あなたのことは、すでに出会った者たちから聞いてみんな知っています。 初めましてのコはおそらく5人ですね。まず、その5人から自己紹介させていただきます。私は佐々木久美です」 次々に一人ずつ立ち上がって、名乗りを上げた。 「加藤史帆です」 「高瀬愛奈です」 「佐々木美玲です」 「影山優佳です」 ねるがサッカー場で出会ったというのはおそらくこのコだな。 「池袋の本屋さんでお会いましたよね。私は潮紗理奈です」 「同じく池袋のラーメン屋さんでお会いましたよね。齊藤京子です」 こんな低い声をしているのか。見てくれからは想像もつかないな。 「先ほど会ったばかりですよね。私は高本彩花です」 「東村芽衣です」 なんとなくそんな気はしていたが、やはり彼女たち二人もねるを捜していたのか。 立ち上がらない二人を佐々木久美は目で催促する。 公園での二人だな。俺がエキセントリックな高笑いをしたから怖がっているのか? 「公園で出会ったときに二人の会話が聞こえたので、名前は知っている。眞緒さんと芽実さんだったね」 「そうです。井口眞緒と柿崎芽実です」と代わりに佐々木久美は言う。(続く) ブレーンワールド(その53) 名乗りを上げ、ねるとの関係を告げてから、俺は訊いた。 「どういう理由かは知らないが、あなたたちが捜しているのはあいつだね」とねるの方向を振り返る。 ねるの気配が急変した不安をかき消し、ねるは俺のものだと自分に言い聞かせるように「あいつ」と言った。 「あいつもあなたたちと会いたがっているけど、いま動悸が激しいようなので、しばらく待ってほしい」 そう言ったら、全員がそわそわしだした。 「あなたたちがなぜあいつを捜しているのかをよかったら俺にも教えてくれないかな?」 堰を切ったように全員が一斉に喋り出した。 2017年の4月に行われた鳥居坂46の二期生募集のオーディションで自分たちは知り合った。 年齢も出身地もバラバラなのに自然と仲良くなった。 最終オーディションの前日に11人で集まったとき、一人が切り出した。 たしかに自分はアイドルとなることを渇望しているが、でもこのまま鳥居坂46に入るのは違うような気がする。 そしたら、「私も、私も」となって、同じような違和感を全員が共有していることが分かった。 このまま一緒に話していたら、お互いに干渉しあって、重大な進路の決定に影響しかねないと思って、すぐに解散し、 最終を受けるかどうかは個人個人の判断に委ねることにした。 蓋を開けてみたら、結局は誰一人も受けなく、全員が当日に断りのメールや電話を入れた。 そういったことを話してくれた。(続く) ブレーンワールド(その54) 「全員で当欠したのなら、運営側は相当に不審がったんじゃないの?」と俺は訊いた。 佐々木久美は苦笑しながら答えた。 「ええ、私たちを他のプロダクションの偵察部隊か嫌がらせ要員かと思われたんでしょうね。 文面の言葉使いは丁寧ながらも、この世界ではアイドルには絶対になれないといった内容のお怒りのメールが全員に届きました」 「そういう事情はわかったけど、なんであいつのことがそんなに気になるの?話がつながらないんだけど」 「先が見えず、自分の存在意義に不安を覚えるんです。最終オーディションを当欠したのもそのためです」と加藤史帆が切り出し、 「そうなんです。そして、ここにいるみんながそういう不安を持っているんです」と佐々木美玲が続いた。 だが、その後、二人とも黙ってしまった。 「どういうように存在意義に不安を覚えるのかをもっと具体的に話してくれないかな?」 「うまく説明できないんです」と加藤史帆は言う。 高瀬愛奈が代わりに答える。 「生きているという実感が薄いといったようなものです。 何かが欠落しているため、本来、私たちが取るべき道ではなく、外れた道を歩んでいるような気がするんです。 だから、先が見えない日々が続いているんです」 その欠落とやらにねるが関係しているのか?(続く) ブレーンワールド(その55) 気を抜いたら手が下がり、持っていた缶から飲み残しのジュースが砂の上にこぼれ落ちた。 灼けた砂に耐え切れなくなったのか、小さなカニが俺の靴の上を横切っている。 影山優佳が次に口を開く。 「ある日、家族でサッカー観戦に来ていたときです。その日は気持ちが落ち着かずずっとそわそわしていました。 鳥居坂のオーディションの第一次審査をその日に終えて、この10人とは出会ったのですが、何か欠落しているなとは私も思っていました。 そして、その不安の原因がグラウンドを挟んだ反対側の客席にあるような気がしたんです。 ハーフタイムのときにそちらに行ったら、全身に電流が走りました。そこにいたのがあの人なのです。 ジグソーパズルの最後の1ピース、いや最初の1ピースを見つけた思いでした」 「その話の続きはあいつから聞いている」 潮紗理奈が続く。 「あの日、芽実から連絡を受けて、池袋に行ったら、引き寄せられるように本屋さんに入り、あの人を見て同じように私も感じました。 私という存在はあの人を中軸にして組み立て直されるべきだという気がしたのです」 「私もです。あの人を見たとき、日の光も時の流れも正常なものに変わっていくようが気がしたのです」と齊藤京子も話す。 「で、何が言いたいの?」と俺は尋ねる。 「私たちはあの人に従属しているだけの存在にすぎないんじゃないか。 あの人の気まぐれによって私たちの運命は左右されるんじゃないかということです」と潮紗理奈は言う。(続く) ブレーンワールド(その56) 彼女たちの話を聞いて薄気味悪くなって、言葉に詰まった。 そのとき、「そんなことないよ」という声が後から聞こえた。 ねるがやって来ていた。ねるの周りに一斉に人だかりができる。 「私がいなくても、自らの運命を切り開くことがあなたたちにはできる」 一人ひとりの名前を口にしながら、ねるは一人ずつ強く抱きしめた。 その輪の中に入らない者がいる。公園でのあの二人だ。 ねるのほうから座ったままの井口眞緒に近づいていき、その前に跪いた。 「眞緒ちゃん、どうしたの?」 「今日、あなたと出会ったことで私たちの未来はなんとなく予想がつくの。 でも、私は歌もダンスも下手でみんなのお荷物にならないかが心配。私だけ抜けたほうがいい気もする」 眞緒の涙が流れる左頬を右手でゆっくり拭って、眞緒の目を除き込みながら、ねるは言う。 「大丈夫、みんなが教えてくれる。それに眞緒ちゃんには誰からも愛されるという才能があるから。 何もしなくてもいるだけであなたはみんなのためになっている」 俺の高笑いを気味悪がっていたのではなく、そういう不安があったから座り込んでいたのか。少しほっとした。(続く) ブレーンワールド(その57) 最後の一人にねるは向かう。 柿崎芽実は立ち上がって、いまにもねるの胸に飛び込んでいきたそうな表情をしながらも、後ずさりする。 ねるを切望する一方で、恐れているようにも見える。 もしかして池袋でもねるに直接に話しかけなかったのはその恐れのためか?だから俺にねるのことを尋ねたのか? 「芽実、どうしたの?今日だって、あなたが私を感じて、皆を集めてくれたんでしょ。なぜ逃げるの?」とねるは近づく。 柿崎芽実の動きが鈍ったとき、捕まえてねるは抱きしめ、顔を寄せ、頬ずりをする。 「だって、あなたがいると私はモブになっちゃう」 「芽実、そんな心配することはないよ。あなたは私なんかよりずっと大きな可能性を秘めている。 それにこの世界では、私はあなたたちとは一緒に活動できない」 この世界では?なぜそんなことをわざわざ言う必要がある? 他の10人もねるの周りに集まってくる。 「ごめんね、みんな、やむを得なかったことだけど、私の選択した道がみんなの運命を狂わせたみたいで。 残念ながら、ここではみんなと一緒に活動はできないと思う」 ここでは?また、なぜそんな変なことを言う? 「でも、これ以上、あなたたちが運命に翻弄されことはもうないよ」 ねるがそう言い終えると、彼女たち全員の顔が和らいだ。(続く) ブレーンワールド(その58) 彼女たちが去った後に、ねるに尋ねた。 「なあ、ねる、なぜあのコたちの名前を知ってたんだ? あのコたちが俺に自己紹介するときには向こうで座っていたんじゃなかったのか?」 ねるのほうから手を重ねてくれたという昂揚感の直後に、ねるの心が俺から遠ざかっていくような気配に変わった。 仕合わせの絶頂からの得体のしれない不安に突き落とされたことに混乱しあせっていたのかもしれない。 その混乱とあせりから、お前は俺のものだと宣言するように「ねる」と呼び捨てにしてしまった。 「風下だったから、聞こえていました」とそっけなくねるは答える。 ねるは俺を見つめた後、当惑した表情となり、目を伏せた。 その当惑にはどんな感情が隠されているんだ?なぜ前のように微笑んでくれないんだ? 「離れたところから見聞きして、11人全員の顔が名前と一致できるまで即興で覚えたのか? それに初対面の相手に対して、チャン付けや呼び捨てにするのはちょっとおかしい気もするんだけど」 気がかりなことがあると何でも口にせずにはいられない男だと思われたかもしれないと後悔して、言ったそばから撤回した。 「勘ぐるようなこと言って悪かった。今のは無しにしてくれ」 「急用を思い出したので私も帰ります。その缶、一緒に捨てておきます」と俺の手から缶を抜き取って、向きを変えて、ねるは歩き出した。(続く) ブレーンワールド(その59) ねるを呼び止めようとするが、言葉が出てこない。 先ほどのあのコたちの話にも俺は混乱していた。 現実的な局面において、自分に強い影響を与える人物が現れ、自分の運命はその人に従属していると思うことはあるだろう。 そういうことならよくわかる。 しかし、自分の運命がまだ見ぬ誰かに従属していると考えるということなどあり得るのか? この世界は自分によって認識されるから、この世界の中では自分自身が主体であり、すべての決定権は自分自身にある。 たとえ自分の運命を誰かに託すとしても、その託すという決定権は自分自身にある。 しかし、自分の運命を託す誰かがアプリオリに存在していて、託すという決定権自体が自分の意思を超越していることなどありえるのか? 離れていくねるに目を向けると、ねるは一度もこちらを振り返ることはなかった。 物理的に距離が遠ざかっていくその様子は精神的にもねるが俺から離れていくように感じられた。 「ねる」と唐突に呼び捨てにしたことを怒ってんだな。でもすぐに仲直りはできるはずだ。 不安をかき消すためそう自分に言い聞かせていた。(続く) ブレーンワールド(その60) 砂浜での出来事以来、ねるに電話をしても留守電になって出ないし、ねるからかかってくることもない。 メールもスルーされるようになった。 池袋で最初に見たときには綺麗だと目が釘付けになったにせよ、それ以上ではなかった。 深く関わり合ううちにねるの容姿の美さは心の美しさによって裏打ちされていると気づいた。 明るく社交的ながらも、謙虚で気遣いができる。 金持ちのお嬢様ではなくても、天性の優雅さを持っている。 おそらく歳をとってもねるは美しいことだろう。 歳を重ねて容色が衰えたとしても心の美しさから出てくる豊かな表情と天性の優雅さはいつまで経ってもきっと消えることはない。 美しいものはすべて朽ち果てるというが、ねるの永遠の夏は色あせたりはしない。 俺の世界は真っ二つに分けられてしまった。 一つはねるのいる世界で、そこにはすべての幸福、希望、光がある。 もう一つはねるのいない世界で、そこはすべてが憂い、絶望、闇である。 ねるがいない世界なんて考えられない。なのに、そのねるが俺とは会いたがらない。 ねる・・・、ねる・・・、ねる・・・、会いたい・・・。(続く) ブレーンワールド(その61) 本当に観たいと思う番組のときにしか今まではテレビは点けなかったが、画面を見ていないときでも点けることが多くなった。 俺の心の中で残響するねるへの思いをテレビの雑音でかき消すためである。 この日、テレビを点けていたら、交通安全運動のキャンペーンの番組にゲストとして鳥居坂46が出演していた。 テレビの中のレポーターが言う。 「敬愛する人を交通事故で亡くされた原田まゆさんとしては、他人ごとではないですよね」 鳥居坂46のセンターの原田まゆが答える。 「特に子供さんというのは予測のつかない動きをするものです。だから、ドライバーのみなさんには細心の注意をお願いしたいですね」 原田まゆが喋り終わると、「交通事故を防止するためには人と人との絆が大切です」とメンバーの誰かが言う。 絆?その言葉はその場では不自然で唐突である気がした。 その後も鳥居坂46が出演しているテレビ番組を何度か観たが、鳥居坂46のメンバーは「絆」と相変わらず口にしている。 俺の感覚が少しおかしくなっていたのだろうか、表面的には美しく響く「絆」という言葉に何か胡散臭さを感じた。(続く) ブレーンワールド(その62) 「愛国心」と同じような違和感が彼女たちの「絆」には感じられた。 政治家や官僚が汚職などをしたとき、私利私欲に走るのは国を愛する心がないからとして、 「愛国心」というキーワードで連中を糾弾するのはいい。 ただし、その一方で、日本に住んでいるマイノリティを排除するフレーズとしても「愛国心」は使われている。 ギャグでもパロディでもなく、「愛国心」という言葉を本気で使って、ネトウヨが差別発言をしていることからもそれはわかる。 心を一つにして固い結束を誓うために「絆」を使うのはいい。 だが、彼女たちの「絆」には何かを排外するような邪悪さが感じられる。 苦労の末にやっと売れた先輩グループの知名度のおかげで、鳥居坂46は何の苦労もなく売れた。 紅白にも出場でき、CDもミリオンに迫る勢いである。 身銭はそれなりに入るだろうし、近くの家族からも遠くの祖父母・親戚からも同級生たちからも絶大な賛辞を受けているだろう。 全員選抜なので、全メンバーがその恩恵を当然のように受けている。 その権益に対する執着心はおそらくきわめて肥大化している。 もし研修を終えた二期生が合流すれば、鳥居坂46にも選抜・アンダー制が敷かれることとなる。 アンダーに落とされたということになれば、死刑宣告を受けるのにも匹敵するような恐怖かもしれない。 自分たちの権益を蝕もうとするものへの防御壁として、彼女たちは「20人の絆」と口にしているんじゃないのか? くだらない妄想をしているなあと自嘲した。 ねるに会えない心理的な抑圧で心が歪んでいるのだな。(続く) ブレーンワールド(その63) ダイヤモンドアンビルが搬入されるということで、日曜日に研究室に一人で番をすることになった。 ダイヤモンドアンビルとは超高圧・超高温の状態を再現して、地球内部の状態などを調べるための実験機器で、 レーザーを照射して加熱しながら、試料を加圧するために、 それを挟む接触点に地球上でもっとも固いダイヤモンドが使われているというものである。 業者が来て搬入している最中に、隣の研究室の同級生があの機器は何だと尋ねたので答えた。 「はあ?地球物理学なら分かるが、理論物理やってるお前らの研究室に何でそんなものが必要なんだ?しかも相当にバカ高い代物だ」 「さあ、俺もよくわからんが、何でも、高温高圧下での岩石の結晶構造の相転移の変化の様子を調べることで、 宇宙の始まりであるインフレーション時における相転移のイメージのインスピレーションを得るために使うらしい」 「インスピレーションを得る?なんじゃ、そりゃ?そんなことがまかり通るのなら何でもありじゃねえか! 」 「俺にイチャモン付けても何にもならないぞ。先生がいるときにでも文句は言ってくれ」(続く) ブレーンワールド(その64) 「言えるわけないだろ。しかし、お前んとこの研究室の先生はいけすかんな。ノーベル賞候補かなんかは知らんが、評判悪いぜ。 平等に分けられるべき研究費を強引に分捕ってるっていう噂じゃないか。」 「まあ、話はいろいろ聞いてはいるがな」 「それに教え子の女子学生に手付けてるって話だぜ」 「まさか・・・」 「俺んとこの研究室のドクターが学部生だったころに聞いた話だそうだが、 当時お手付きしていた女子学生の生年月日と名前をパソコンのログインのパスツールに使ってたらしい」 搬入が終わり、書類にハンコを押して、研究室の中で一人となった。 教授のパソコンを立ち上げ、研究室で該当しそうな女子学生の生年月日と名前を打ち込んだら、あっさりログインできた。 普段の俺ならそんなことは絶対にやらなかっただろうし、万一やったとしてもすぐにログアウトしただろう。 しかし、ねるに会えない空虚感からそのパソコンの中を探り始めた。(続く) ブレーンワールド(その65) パソコン内のメーラーを探っていると、驚くべきことに総理大臣からの送信メールが見つかった。 しかし、それ以上に驚愕したのはその内容だった。 「親愛なる先生。以前に文科省の事務次官が申し上げた長濱ねるの件についてなにか判明したことがあれば、ご一報をください」 一体何なんだ?送信人が文科省となっているメールを探した。 国内外の大学や研究機関からの大量のメールが送信されているのでスクロールするだけでも手間がかかる。 文科省からのもので一番古そうなのが2017年の1月27日のものだった。 「日本の重力波検出器が2016年末に異常な強さの重力波をとらえました。 しかも、さらに驚くべきことに、スパコンで解析したところ重力波特有の波形でありながらも、なにか意図したかのような規則性があるようです。 しかも日本語の文字列に対応しているかもしれないという報告もあります。 今回の謎の重力波を再び受信する可能性もあります。 ご存知の通り、莫大な予算をかけたKAGRAの完成が間近です。そのテスト運用も間もなく始まるでしょう。 アメリカやヨーロッパに先駆けて、この謎をKAGRAで解き明かすことができれば、その成果を国民に示すことができます。 宇宙物理学の権威でいらっしゃいます先生にご協力をお願いします」(続く) ブレーンワールド(その66) 日本の重力波検出器が重力波をとらえた? この最後のほうの文面から、KAGRAが秘密裏のうちにすでに稼働されているというわけでもなさそうだな。 だったら、その日本の重力波検出器というのは何だ?まさか三鷹にあるあのプロトタイプの重力波検出器か? あんなもんでは遠方の銀河からの重力波は捕らえられない。 近場で重力波を放出するようなイベントが起ったというのは聞いたことがない。 重力波を捕らえたということ自体が大ニュースだが、近場での重力波を捕らえたならさらだ。 本当ならなぜ発表しない? 重力波の波形が意図したかのような規則性を示している? しかも日本語の文字列のようだと? これが本当なら、もっと大ニュースだ。 最先端の検出器でも重力波を感知できるものといえば、ブラックホールや中性子星の合体か超新星爆発かのイベントが起きたときくらいだ。 そんな手に負えそうもないようなものをコントロールして規則性があるように送信する高度な文明があるというのか? 仮にそんな高度な文明を持つ異星人がいたとしても、地球人なんかを相手にするわけがない。 人間がミジンコを本気で相手にするようなものだぞ。(続く)」 ブレーンワールド(その67) 次に古い2017年の2月11日のメールを見てさらに驚愕した。 「スパコンでさらに解析を進めたところやはり日本語の文字列が対応しているとのことです。 どうやらひらがな表記が対応しているということです。 『ながはまねる×××ざか』という文字列となっているとのことです。 ×印の部分は観測時のノイズがひどくて判明できなかったようです」 何なんだ、これはいったい?息を呑みながら次の2017年の2月14日のメールを見た。 「この間のメールで重要なことが判明いたしました。 『ながはまねる』という名前の者が日本国内でただ一人だけ確認できており、長崎県の高校生のようです。戸籍の表記は『長濱ねる』であります」 スクロールさせる手を震わせながら、次の2017年の2月15日のメールを見つけた。 「以前に文科省で事務次官をやられていた方の孫娘さんが長濱ねるの高校の同級生だという事実が出てきました。 その孫娘さんを使って探りを入れようと思います」 まさかあのウザ女が官僚の元事務次官の孫娘なのか?(続く) ブレーンワールド(その68) 2017年の3月28日のメールを開いた。 「例の孫娘さんを使って、先生が今度行われる池袋の書店でのトークイベントに長濱ねるを参加させることに成功したようです。 何か手がかりが見つかれば、ご一報ください。 なお、長濱ねるには公安警察で常時、監視を行うことにしました。総理の許可もいただいております」 ウザ女が意図的にねるから情報を引き出していたとは思えない。知らず知らずのうちに操られていたと考えるのが妥当だろう。 それにしてもあのストーカー男は公安だったのか! 悪質な巨大宗教団体はたしかにあるが、日本を転覆しようと企てるほどのカルト宗教は今は存在していない。 デモや組合活動で国に反旗を翻す左翼は多いが、テロ行為でクーデタを起こそうとするほどの暴力極左は今はいない。 だから、公安は用済みになりかけているというのはよく聞く。 そこで、自分たちの組織の延命を謀るために、どうでもいいような人間を人権無視までして監視して仕事をしている振りをするという噂もある。 そのターゲットとしてねるを監視していたのか。 吐き気にも似た不快感が喉元に上がってきて、次いで激しい怒りが沸きあがった。(続く) ブレーンワールド(その69) ウザ女は言葉巧みに仕向けられ、無自覚のままにねるのことを報告させられていただけだろうが、 何らかの情報を引き出せると思い、電話をかけた。 「ここんとこ、ねるは何かを思いつめていたり、心ここにあらずといたりという感じで少し変なの。 あんたさあ、最近ねると全く会っていないそうじゃない。元気づけてあげなよ」 こちらが要件を言おうとする前に、いつものように一方的にまくしたててきた。 俺は当初の目的も忘れて、「いや、会おうにも、俺は拒否られてんだよ」と情けなく返すのが精一杯だった。 「へー、そうだったの?ちょっと前まではあんたのことを嬉しそうにねるは話していたのに」 やはりあの砂浜での出来事以前にはねるは俺に少しは好意を持っていてくれたんだな。 ねるが心変わりした原因を突き止めることができれば、まだ望みはあるかもしれない。 でも、それを探るためにはねるに直接に会わなければ始まらない・・・・。 「よし、じゃあ、私が取り計らってあげるよ」 渡りに船だった。 自分でも意識していなかったが、ウザ女に連絡した俺の狙いは最初からそこにあったかもしれない。 ねるとの連絡をウザ女が取り持ってくれることを無意識に期待していたのかもしれない。(続く) ブレーンワールド(その70) ウザ女に言われるままに、ねるの住む女子寮を再び訪れた。 初めて行ったときよりも気後れしている。 寮の前まで来たとき、突風が吹き、街路樹がザワザワと揺れる。 それ以上、近づくなと言われている気がした。 前と同じように、テンキーを操作して呼び出し、オートロックを開けてもらい、管理人のオバサンの監視を突破し、部屋まで行った。 呼び出しに応えたのも迎えに来たのも前はねるだったが、今回はウザ女だった。 俺を部屋に通した後に、「じゃあ、あたし、出かけてくるから、二人で十分に話し合ってね」と言って、ウザ女は出て行った。 テーブルで何か書きものをしていたたねるはその手を止め、あのときのように当惑した表情を見せ、俯いて言葉を発しようとはしなかった。 俺は座ることもできず。漫然と立ったままだった。 窓から入ってきた風がテーブルの上の紙を床に落とした。 それを拾うとき、冒頭の文が目に入った。手紙の下書きのようだ。 「突然のお手紙をお許しください。鳥居坂46の二期生募集の最終オーディションを当欠した11人についてのお話があります。 どうか彼女たちにもう一度チャンスを与えていただけないでしょうか? 信じがたいと話だときっと思われることでしょうが、彼女たちがなぜ当欠したのかの理由をお話したいと思います。・・・・・・」(続く) ブレーンワールド(その71) 「勝手に見ないでください」とねるは怒りながら口を開く。 あわてて文面を下にしてその下書きをテーブルの上に置いた。 しかし、そのあとはまた沈黙が続く。 ねるがいるというのに空間は色彩が失われ、よどんだ空気が重くのしかかっている。 やはりねるは俺を完全に拒絶しているのか。現実を再び思い知らされる。 実現のない恋に対して曖昧な態度を取ることは相手を惑わすことにしかならない。 こういう冷淡な態度をとるのもねるの思いやりなんだろう。 だが、理屈では分かっていても、感情の上では割り切れない。 ここまで俺はねるを好きなのに、ねるは俺を拒絶しているという不条理が我慢ならない。 ねるが目の前にいるというのに今や幸福も希望も光もない。 ともかく今は沈黙の状態をどうにかすることを考えよう。 何でもいいから話し合うための突破口となるものはないか? あのストーカー男が公安警察だったということを話せば会話の切っ掛けになるんじゃないか? いや、やめておこう。こういう状況でそんな話をすれば、ますます嫌悪されるだけだ。 それにねるにさらなる不安を加えることにもなる。 俺に打つ手はないのか?(続く) ブレーンワールド(その72) 呼吸を整えて、見切り発車で話し始める。 「ねるちゃん、これまで俺は人並みかそれ以上には女性とは付き合ってきた。 高校のときに付き合っていた女とは東京に出てきたときには当然のように別れた。 大学入ってからも、出会いと別れを繰り返したが、未練を抱く女は一人もいなかった。 俺の人生において、女というのは取り換え可能で、二次的なものにすぎなかった。でも、ねるちゃんだけは違う!」 ねるは顔を上げずに黙って聞いていた。 「いつか、漁師のお爺さんが初めて漁に出たときに、激しく荒れ狂った海で溺れそうになったという話を聞かせてくれたよね。 生活に支障がでるほど色恋至上主義となっている男をそんなイメージでとらえていた。 荒れ狂う恋の波風が吹き付けている海に子船で出航し、恋の波に翻弄されている男を俺は憐れんできた。 嵐の海の中の様子を安全な岸から眺めて、いつもせせら笑っていた。 それがねるちゃんと出会ってからは同じように煩悩の虜になって、この俺が俺のものとも思われないでいる」(続く) ブレーンワールド(その73) 顔を上げ、ねるは無表情で言う。 「それがどうかしたのですか?」 「このままねるちゃんに拒絶され続けたら、もう生きているのさえバカバカしくなる・・・」 冷めた眼つきで睨んでから、重たい空気を裂くようにしてねるは言う。 「そういうことを言うのはやめてください。もしあなたに生きる希望を与えるというのなら、どうぞ私をご自由にしてください。 でも、私の心まで差し上げることは決してできません。それはお分かりですよね」 卑怯すぎる俺の言動に責任を感じたことから発せられた言葉というのは分かっている。 でも、これは好機だ。体が結ばれれば、いずれその心もものにできる。 近寄って、ねるの背中と太腿に左右の手を回し、体を半回転させてねるを床に下した。 ねるの背中は石膏のように硬直して、俺を拒絶している。 池袋で触ったときの柔らかい感触はどこにもなかった。 それでも唇を重ねるが、ねるの唇は開こうとはしない。 ねるの下唇を甘噛みし、ねるの口の中に舌を挿入させながら上半身を倒そうとした。 だが、ねるの上下の歯は固く閉じ、それ以上の侵入を許さなかった。 俺は諦めて、立ち上がり、部屋から出ていくしかなかった。 自分でも信じられないほど冷静になっていた。 ドアを閉めるとき、ねるの背中が見えたが、微動だにしていない。 なのに、目に見えずとも、ねるの中で何かが動き出しているように思えた。(続く) ブレーンワールド(その74) ねるへの思いを断ち切るため、なるべく大学の図書室に閉じこもり、専門書を読み漁った。 夏の間も帰省しなかった。 夜には蝉の鳴き声が聞こえなくなったと思ったら、9月になり新学期が始まっていたことに気づいた。 9月3日は日曜日だったが、朝方、研究室に全員集合せよという連絡が急遽入った。 駅から大学に向かう途中でメールが入った。その着信表示を見ると、ねるからである。 「今日、どうしてもお話しておきたいことがあります。ただ、その前に二人でできるだけ長く過ごしたいと思っています。 もしお受けしてくださるなら返信をお願いします」 どういう気まぐれなのだろうか?俺にはねるが分からない。 ねるへの未練がぶり返すが、もうこれ以上は翻弄されたくないという冷静な判断をする自分もいた。 その二つがせめぎ合った。 行くべきかどうかを迷い、すぐには返信しなかった。 そのくせ、来た道を足は引き返していた。 迷いながら歩いていると、研究室の先輩の院生に出くわした。 「ねえ、知ってるかい?異常な事態が起こっているようだけど」 「え?何かあったんですか?」(続く) ブレーンワールド(その75) 「異常に強い重力波をTAMA300が検出したらしい。正式には発表されてないけど」 まさかあの教授のメールに記されていたことを言っているのか? 「TAMA300というと三鷹の国立天文台の地下にある重力波検出器ですよね。 その名の通り、基線の長さは300メートルしかない。 そんなしょぼい機器で捕らえられる重力波なんて、せいぜいが近隣の銀河くらいからのものでしょ」 「それがね、近隣の銀河どころかどうやら天の川銀河内で起きたイベントの重力波を捕らえたらしいんだ」 「はあ?そんな重大なニュースが耳に入らないわけがない。ガセでしょ。本当ならなぜニュースにならないんですか?」 「いや、本当のことらしいんだよ」 「ただのノイズでしょ。滅多に通らない超大型車とかがたまたまその近くを通過したときのノイズを拾ったとかが原因でしょ」 「TAMA300だけでなく、アメリカの2台のライゴやイタリアのヴァーゴも同じような重力波を検出したらしいんだよ」 「ヴァーゴ?あれはイタリア語読みというかラテン語読みでヴィルゴと発音すべきでしょ」 「つまんないとこに突っ掛ってくるね。嫌なことでもあったのかい?アメリカ人はヴァーゴと言っているから、それでいいんだよ」 「はい、はい、そうですか。でも、それが本当なら、日本に加えてアメリカやヨーロッパでもそんな重大なことをなぜ秘匿したんですか?」 「異常な事態が起こっているとさっき言ったよね。そのため発表できなかったらしいんだ」(続く) ブレーンワールド(その76) 「異常な事態というのを詳しく説明をしてくれませんか?」 「重力波の検出時間が50秒を超えたらしいんだ。それがどういう意味かは分かるよね?」 「ブラックホールの合体による重力波の検出時間は長くても2秒程でしたよね。だったら、それは中性子星の合体によるものですかね」 「そういうことだね。中性子星の重力波が検出されたら、その後に何が行われるかはわかるよね?」 「ブラックホールの場合と違って、中性子星の合体は重力波だけでなく、大量の電磁波や物質を放出しますよね。 天の川銀河の中で起きたのなら、そういったものを観測するのは容易だから、その証拠を見つけようとしますよね」 「そう。ところが、その証拠はいっさい見つらかっていない」 「だったらそれはフェイクニュースでしょ。もう一度、繰り返します。 日本、アメリカ、ヨーロッパでそろいもそろってそんな重大なことをなぜ秘匿したんですか? 中性子星の合体によると思われる重力波を検出したのに、その証拠はいっさい見つからない。 宇宙の未知の現象として大騒ぎするのが普通でしょ」 「もしかすれば全世界を驚天動地させるかもしれないからなんだよ。 その中性子星の合体による重力波はこの世界ではない別のブレーンからのものらしいんだ」(続く) ブレーンワールド(その77) 「はあ?天の川銀河の中で起こったイベントによる重力波なのに、別のブレーンからのものというのはどういうことですか? それに、重力子、つまり、グラビトンと重力波とを混同していませんか? グラビトンは一つのブレーンに固定されずに別のブレーンにも伝わるというのがブレーンワールド・シナリオの主張ですが、 重力波が別のブレーンにも伝わるというのは聞いたことがないですね」 「あのさ、重力子と重力波の違いくらいは分かっているよ。バカにされたようで気分悪いな。 この世界と別の世界のブレーンの間に次元の裂け目のようなものが現れたらしいんだ。ゲートと呼ばれている。 そのゲートが天の川銀河の中に出現して、そこから重力波は漏れてきたようなんだ」 「そのゲートとやらの大きさはどのくらいなんですか?」 「はっきりとは分からないらしいけど、大きくてもせいぜいが数十メートル四方とのことらしい」 「はあ?だったら、その重力波が地球に届くためにはかなり都合のいいことが起こっていないといけませんね。 電球の光と同じように逆二乗の法則で拡散しながら重力波は伝わりますから、ガウスの法則をイメージするように、 遠くの地球まで重力波が伝わってきたときには、地球を完全に覆うような大きな領域であっても、 元々の中性子合体が起った位置ではわずかな領域だったということにはなります。 だから、そのゲートとやらが向こうのブレーンワールドの重力波源の近くにあって、 地球に向かう重力波の領域とゲートの領域が重なれば、重力波は地球まで届くでしょう。 でも、その確率はきわめて小さいはずです。何者かが意図したかのようなそんな都合のいいことがそうそう起こるわけがない。 だいたいそのゲートとやらを本気で信じているんですか?」(続く) ブレーンワールド(その78) 「正しい反論だし、受け入れられない気持ちもわかるよ。でもね、それ以外にもゲートの証拠は見つかっているんだよ」 「具体的に聞かせてください」 「光学望遠鏡でも偶然に捕らえたらしいんだよ」 「はあ?数十メートル四方の大きさと言っていませんでした?太陽系の中にでもなければ、光学望遠鏡で捕らえるなんてできないでしょ」 「それが、どんどん地球に近づいていて、今は火星軌道の内側にまで来ているらしいんだ。はっきりとした軌道は分からないようだけど。 ピントを合わせようとすればするほど、錯視図形のように逆にぼやけてくるそうなんだ」 「その光学望遠鏡による観測って、素人によるものでしょ? シンチレーションによるシーイングの影響じゃないですか? 口径の大きい望遠鏡なら、その影響をモロに受けますから」 「たしかに口径は大きい望遠鏡だよ。なんせ、すばる望遠鏡だから。 だから、当然、素人ではなく、百戦錬磨のプロによる観測だよ。 レーザーガイド星で大気のゆらぎの補正はしているから、シーイングによるものかどうかの判別くらいついているはずだよ。 それにハッブル望遠鏡でも同じような報告がなされているらしい。 宇宙空間にあるハッブルにシンチレーションが関係ないだろ。 だから、ゲートの存在は確実なんだ」 次から次に噴き出す汗でシャツが背中にべっとりと張り付いている。暑い! もう勘弁してくれ。この炎天下でそんなバカバカしいことを熱弁されたら、こちらまで頭がおかしくなりそうだ。(続く) 天文宇宙用語の解説 重力波 質量のある物体は重力をおよぼすことで周りの時空間を歪める。 その物体が不規則な運動をすると、その歪みが伝播していき、波となる。 それが重力波である。 ただし、その波はとても弱いので、観測できるのは超巨大質量を持つものだけである。 ブラックホールの合体や中性子の合体や超新星爆発がその代表例である。 重力子(グラビトン) 重力を介在する粒子である。 自然界にある全ての力は4つの力に帰結できる。 強い力、弱い力、電磁気力、重力である。 強い力はグルーオンが、弱い力はウィーキボソンが、電磁気力は光子、が、重力は重力子が介在して働く。 (ただし、重力子だけはまだ未発見である。) ブレーンワールド・シナリオでは、他の3つの力を介在する粒子は一つのブレーン世界の中だけにとどまるのに対し、 重力子だけは別世界のブレーンにも移動できるとされる。 光学望遠鏡 可視光領域の電磁波を捕らえるための望遠鏡。 電波望遠鏡との違いを強調するときにそう呼ぶ。 すばる望遠鏡 ハワイのマウナケアの頂上にある日本の光学望遠鏡。 次世代の光学望遠鏡はすばるよりもはるかに口径の大きい望遠鏡が予定されているが、現在の時点ではすばるの口径は最大級である。 シンチレーション 場所や時間によって大気は屈折率が変わるため、光が平行でなくなる。 光が集まったり広がったりするため、明るくなったり暗くなったりする。 星がきらめくのはシンチレーションによる。 シーイング シンチレーションによって平行光でなくなった光が、レンズを通ったとき、焦点上の一点に集まらずにひろがり、ピンボケすること。 レーザーガイド星 明るい星がある場合はそれをガイドとして大気の揺らぎを計測して、シンチレーションの影響を少なくする。 しかし、それがない場合には。レーザーを用いてその代用をする人工的な星をつくる。 それをレーザーガイド星という。 ハッブル望遠鏡 正式名称はハッブル宇宙望遠鏡。 その名の通り、地球の周回軌道上の宇宙空間の中にある。 したがって、シンチレーションの影響は受けない。 ブレーンワールド(その79) 「ソースはあるんですか?ソースを教えてもらわないと信じられないですね」 「詳しくは教えられないけど、発信元はマックスプランクやカルテクらしいんだ」 「今日の招集と今の話とは関係あるんですか?」 「それが関係あるんだよ」 「ということは先生も今の話の内容は知っているということになりますよね」 「当然知っているよ」 「先輩は先生から教えてもらったからすでに知っていたというわけですか?」 「あ、いや、あの、・・・・・・」 どうした?なぜ狼狽えている? そういえば、教授のメーラーを探っていたとき、不正ログインした罪悪感に苛まれていたし、 ねるに関連するメールを探すのに頭が一杯だったので、あのときには気に留める余裕もなかったが、 件名に「gravity wave by neutron star」や「the appearance of the strange gate」というのがあったな。 また、マックスプランク研究所やカルフォルニア工科大学から送信されたメールもあった。 そうか、コイツ、俺と同じように教授のパソコンを不正に覗いたんだな。(続く) ブレーンワールド(その80) 「とにかく面白いことが起こってる。さあ、行こう」と俺の腕を引っ張って研究室へ院生は向かおうとする。 「ちょっと待ってください。いましがた知り合いから連絡が来て、研究室に行くかどうかを迷っているんです」 「君はうちの研究室に大学院でも残るつもりなんだろ。だったら、それ以上に重要なことなのか?」 「・・・・・・・・・・・」 「そういえば、君はよその大学の女子大生と付き合っているんだってね。とても美人さんだと評判になっている。 まさかとは思うけど、そのデートを優先させようとしているのか?」 「・・・・・・・・・・・」 「図星だったか。恋愛というのはコストもかかるし、トラブルも多い。プロセスも帰結も予測できない。 学業よりも恋愛を優先させるようなのは終わっている人間だよ」 たしかに俺も前まではそう考えていた。でも、恋愛は損得勘定ではないことをねると出会ってから知った。 「ほかにも同様に楽しいことはいくらでもあるだろう?気晴らしはそちらでやればいい。 リスク回避という観点から見れば、計算不可能な恋愛に踏み込むのは賢くない。」 たしかに、いま俺もねるに翻弄されている。 でも、計算不可能だから価値がある。悲劇もあるから濃密な体験もある。(続く) ブレーンワールド(その81) 「やれることがいろいろある中でそんなものにコミットする人は賢くないよ。ひと言で言えばアホだよ」 でも、そのアホにしか福音はやってこない。リスク回避戦略の合理性だけが支配するアンタのような賢い馬鹿にはなりたくない。 俺は掴まれた腕をほどいてから、言う。 「迷いは吹っ切れました。デートを優先します」 「君、正気かい?あの先生の陰険な性格は知っているだろ。干されて学士論文すら通してもらえないよ」 「そのときはそのときです」 「そうかい?でも、僕としては君が研究室に来なかった理由を先生に告げなければならないね」 厄介なヤツだな。ひとつカマをかけてみるか。 「先輩、ギブアンドテイクといきませんか。俺が具合が悪くなったと先輩から先生には報告してもらう」 「君から僕へのギブは何だい?」 「先輩が先生のメールを勝手に盗み見したのを黙ってあげるということです」 「な、な、何を証拠にそんなことを!」 分かりやすいヤツだ、やっぱり思った通りか。 「先輩、あまりにも熱を込めて喋っていたので、ご自分ではお気づきにならなかったのですか? 何度も『先生へのメールによれば』と言っていましたよ」 「えっー?僕、そんなこと言ってた?」 「ええ、仰ってましたよ。指導教官のパソコンを不正に覗くなんて人の道に悖る行為だと思いませんか?」 まあ、俺も人のことは責められないんだけどな。 「分かった、分かったよ。君のことは先生にはうまく話しておくから、その代わり絶対に黙っていてね」と逃げるように去って行った。 その直後、俺はねるへ連絡した。(続く) ブレーンワールド(その82) ねるのほうが近くまで来てくれるということになり、駅の近くで待ち合わせした。 俺と目が合うと、あの日には何事もなかったかのようにねるは微笑んだ。 ねるのこの笑顔は久しぶりだ。でも、やはりねるが分からない。 俺もねるも朝食を取っていなかったので、以前に何度か利用したことのあるスパゲッティ屋を案内した。 無化調とオーガニックが売りの気取った店で、化学調味料に慣れた俺の舌では美味いとは以前には思えなかった。 値段も高いので、あまり利用しない店だったが、最近、画一的な味を敬遠するようになって、その良さが分かるようになった。 日曜だったが、11時の開店直後ということもあり、他にはおひとり様の客が二人しかいない。 店内は冷房が効きすぎて寒いくらいだ。 俺はイカと明太子のスパゲッティを、ねるはミートソースを頼んだ。 ねるはスプーンを使わず、フォークだけで器用に口に運びながら、他愛のないことを次々に喋る。 「ナポリタンってイタリアではなく横浜で発明されたんですよね」 「ブラックホールに入ったら麺のように長く引き延ばされて、それをスパゲッティ効果というんでしたよね」 聞いていないわけではないが、突然に連絡した意図が気になって受け流してしまう。 「どうしても話しておきたいことって、何?」と俺は訊いた。(続く) ブレーンワールド(その83) ねるはナプキンに手を伸ばし、ソースの付いた下唇を丁寧に拭く。 あの日、ねるの下唇を甘噛みしたことがフラッシュバックする。 もう気にしていないのか? 「話すのはもう少し待ってもらえませんか?」と少し間を開けてからゆっくりとねるは話す。 ねるの視線がほんの一瞬だけ宙を泳ぐ。 目が大きすぎると、その心中を簡単に察せられるな。俺にとってはやはりいい話ではなさそうだ。 店内のBGMにはリストの「愛の夢」が静かに流れていて、遠くの席からフォークが皿に触れる音だけが響く。 静寂を埋めるかのようにねるは他愛のない話をまた続ける。 デザートにタルトが運ばれてきたとき、スマホが鳴った。 「君が死にそうなほど苦しんでいて、今日は来れないと先生には言っておいた。だから、君も例のことは絶対に話しちゃダメだよ」 「了解しまして」と言った後、すぐに切った。 ヘタレめ、そんなことでいちいち電話してくんな。そんなにビビるのなら最初から人のパソコンを不正に覗くなよ。 口元に運んだコーヒーカップから沸き立つ湯気越しにねるがきょとんとした顔で見ている。 よっぽど俺は渋い顔をしていたのか? 「実は、今日は研究室に向かう途中で、先輩に会って、具合が悪いから休みたいと相談したら、 研究室の教授に口添えしてあげるからゆっくり休んできなよと優しい先輩は言ってくれたんだ。 その連絡がいま来て、尊敬する先輩に嘘をつかせたことで自分自身を責めてしかめっ面になったんだ」 食べ終わり、店を出た。(続く) ブレーンワールド(その84) どこか行きたいところはあるかと尋ねたら、どこでもいいと言うので、すぐ近くの博物館に行くこととなった。 「深海」の特別展示をしていた。 休日ということもあって、展示物によっては身動きができないほど人が多いが、ねるは気にする様子もない。 ダイオウイカの標本やマッコウクジラの模型を見ては「うわ〜大き〜い」、発光生物のビデオを見ては「うわ〜きれ〜い」、 奇妙奇天烈な深海生物を見ては「うわ〜キモ〜イ」とねるははしゃぐ。 なにか無理をしているようにも思える。 「実際の映像がまだ撮影されていないけど、見てみたいものとかってありますか?」 「マッコウクジラがダイオウイカを捕食するシーンは見てみたいな」 「でも、そんな深いところで人が水中カメラを持ったまま潜り続けてずっと待っていることなんてできないでしょ」 「今はバイオロギングの技術があるから。ダウンサイジングした水中カメラをマッコウクジラに取りつければいい。 マッコウクジラを傷つけずに体に吸着させる素材なんかも開発されているみたいだし」 「私も見てみたい!あんな大きな生き物どうしのバトルって迫力あるでしょうね」 「お茶の間のテレビでもいずれ見られるようになるとは思う」(続く) ブレーンワールド(その85) 特別展示を一通り見終えて、常設展示のほうにも足を運んだ。 こちらはそれほどは人は多くない。 「全て見てみたい」というねるは言う。 ここには何度も来ているが、ワンフロアーが広い上に、地上から地下まで何層にもなっているので、 一日で全てを回ろうというのは思ったことさえなかった。 ねるの要望に応え、あわただしく回り続けていると、さすがに疲れてきたが、ねるは元気だ。 ささいな疑問でも尋ねてきたり、ちょっとでも興味関心が動いたことには感想を述べたりで、延々と喋っている。 6時間近くは過ぎただろうか?あっという間だ。 出口近くのショップには深海生物関連のグッズが置かれている。 「推し深海生物は何ですか?」と妙な質問をねるはしてきた。 「チューブワームとスケーリーフットかな」 「チューブワームは展示されていましたよね。硫化水素を取り込み栄養に変えるという生物でしたね」 「うん、生物にとって害となる硫化水素を利用するというところに生物の大いなる可能性が感じられる」 「スケーリーフットというのは展示されていませんでしたね。どんな生物ですか?」 「深海の貝で、貝殻だけでなく、貝本体の体表にも硫化鉄でできた鱗を持っているんだ」 「あっはっはっは、変なの!」と笑うねるは躁状態にも思えた。 あれほど頑なに俺を拒否していたねるの豹変ぷりをみて不安はますます強くなったが、とにかくねるが一緒にいて楽しそうにしてくれている、 先のことは考えずに今はこの幸福な時間を噛みしめていればいいんだ。そうやって不安をかき消した。(続く) ブレーンワールド(その86) ショップの隅には深海生物のフィギュアのガチャガチャが置いてあった。 ガチャガチャマシンに貼ってある画像と名称を見て、ねるははずんだ声で言う。 「あっ!スケーリーフットもある!私が当ててプレゼントしてあげますね」 「1回300円だし、6種類もあるから当たるかどうかも分からないから、金がもったいない」 「でも、6回やれば、確率論的に1つは当たる可能性があるってことでしょ」 「母数が多ければ確率1/6通りに行くけど、引く回数が少ないから10回やっても当たらないかもしれない」 「でも、1回で当たることもあるわけですよね」と言いながら、ねるはガチャガチャを回し始めた。 カプセルが落ちてくる音が響く。 カプセルを開け、取り出した説明書を見ながら、「スケーリーフット、ゲット!」とねるは叫ぶ。 俺に渡そうとしたとき、「あれ?このスケーリーフットって白いですね」 「ああ、それは硫化鉄を含まない白い亜種もいて、それもフィギュアに入れたんだと思う」と言いながら受け取る。 「じゃあ、もう1回やって黒いのも当ててみます」 「いいよ、いいよ。この白いのはたぶんシークレットで、フィギュア的にはこちらがレアなんだから」 俺の言うことも聞かず、ねるはまた回す。 「やったー、黒いスケーリーフット、ゲット」 手渡しながら、ねるは言う。 「その二つ、私だと思って、大切にしてくださいね」(続く) ブレーンワールド(その87) そのときだった。「ねる!」と声をかけてきた者がいた。柿崎芽実だ。 「今日、発つんでしょ」と芽実が言うと、ねるは黙ってうなずいた。 俺のほうをちらっと見て、「もう話したの?」とねるに訊く。 「これから」とねるが答えると、「現場までみんなでお見送りしようかとも思ったけど、二人きりのほうがいいよね」 芽実がそう言うと、ねるは首を縦に振った。 「私たちが最終オーディションをなぜ当欠したのかを説明した手紙が事務所に届いて、 その理由がとても信じられないような荒唐無稽なものだったから、変なイタズラかと思って、運営さんは無視していたんだけど、 それを見た安本先生が『面白そうじゃないか』と仰って、私たちのデビューが決定した。その手紙の送り主ってねるなんでしょ」 ねるは肯定も否定もせずに、「よかった」と安堵した表情となった。 その後で、同情するような目で見ながら芽実は俺に言う。 「ねるの気持ちを分かってあげてね」 そうか、ねるは海外留学でもするのか。話しておきたいことというのはそのことか。一、二年、待っていればいいだけのことか。 芽実と二人だけで話したいこともあるだろうと思って、少し離れたところに行って、ベンチに座った。(続く) ブレーンワールド(その88) しばしねると話した後に芽実はこちらに来た。 花柄のオフショルのカットソーに薄茶のキュロットを合わせている。 「靴紐、ほどけている。結んであげるよ」と言いながら、俺の目の前にしゃがんだ。 その途中で芽実の頭が俺の顔の前の近くまで来て、芽実の頭の匂いが運ばれてきた。 甘い香りだ。トリートメントの匂いでも香水の匂いでもない。どこかで嗅いだことはある。でも、思い出せない。 重力に逆らうように上に伸びた耳が、ショートカットにした髪の間から覗いている。 いわゆるエルフ耳だが、ここまで形のいいものは見たことがない。 その愛くるしい顔立ちと相俟ってリアルな妖精のようだ。 鳥居坂46の番組を観るようになって、アイドル事情に少しは詳しくなった。 ジャンクフードに麻痺した舌が画一的な味で満足するように、アイドルヲタの一定数は量産型の美少女を好む傾向にあるようだ。 芽実はいままで見てきたどの美少女にもあてはまらないレアな顔立ちをしている。 アイドルのプロダクションの運営がその貴重さに気づかないわけがないだろうが、その真価を見抜けるヲタはどれだけいるだろうか? 重要なポジションに抜擢されても、人気が伴わなければ、そこから外されるかもしれない。 我がかなり強そうだから、そうなったとき芽実は我慢できるだろうか?(続く) ブレーンワールド(その89) 世界は「この私」に認識されることで生じる。 自我が芽生え始めた子供にとっては、その世界は自分の思い通りのものだとまずは考える。 社会性が身に付いてくるのはその後である。 親をはじめとする周りの大人たちからやってはいけないことを教わる。 「この私」の世界であるにもかかわらず、自分の思い通りにならないこともあるということを知り、世界の中で徐々にバランスを身に付けていく。 ところが、大人になってもそのバランスが崩れることがある。 恋愛において、その相手がかけがえのないものと思い込むのは美徳かもしれないが、 それと紙一重で、その恋愛対象の気持ちすら考慮できなくなり、盲進してしまうこともある。 そういう連中を俺はせせら笑ってきたが、ねると出会って、そのしっぺ返しを受けた。 ねるの本意がそうでないことが分かっていたのに、自分の思い通りに事を運ぼうとした。 バランスよく築き上げてきたと思っていた「この私」の世界はいとも簡単に崩れえるということを思い知った。 芽実にも俺と同じ危うさを感じている。 ただし、芽実の場合は色恋ではなく、自分が常に中心にいて当たり前だという自尊心によって、バランスを崩すかもしれないという危うさがあるように思える。(続く) ブレーンワールド(その90) 芽実の頭から発せられた匂いが何なのかを思い出した。 あれは赤ん坊の頭から発せられる甘い匂いだ。 芽実は赤ちゃんなのだ。 赤ちゃんの純粋さと赤ちゃんのエゴイズムの両方を芽実の匂いは象徴しているかのようだ。 「ねえ、ねえってば、聞いてる?何をぼーっとしているの?」という芽実の言葉で我に返る。 「あ、悪い、ちょっと考え事していて。ようやく結び終えたか。かなり時間がかかったな。あまり慣れてないのかな?」 「何言ってんの?5秒もかかってないよ」 「え?たったの5秒しか経ってないのか?」 「ねえ、もし、ねるに振られたときには、私が付き合ってあげようか?」 予期せぬ角度からの言葉に面食らって、早口となった。 「えっ?あっ、いや、でも、これからアイドルとしてのデビューが決まったんだろ?」 「うわ〜、あたふたしている。まさか本気にされるとは思わなかった。ダサいの。 でも、これからアイドルになりたいというコのためには身を引こうとする心掛けはよしとするわ」 「まあ、あたふたしたのは確かだ。まさかこんなションベン臭いガキにそんなこと言われるとは思ってもいないからな。 オシメが取れたときにでも、もう一度、告ってくれ。そのときには考えてやるよ」 険しい顔で芽実は睨みつける。(続く) ブレーンワールド(その91) 「なあ、お前さんはとても可愛らしい。そして美的感受性に優れているほど、そのビジュアルの価値が分かると思う。 だけど、アイドルヲタクって鈍感そうなのが多いし、人の尻馬に乗って自分の判断ができないのも多いから、お前さんの価値は気づかれないかもしれない。 それにいろんな大人の事情が絡んできて。もしかすれば自分の思い通りにはいかないことも出てくるかもしれない」 「なに、それ?これからデビューに向けて希望を持っているコに言う言葉? 言っていることの意味は分かるよ。けど、なぜそんなことをここで私に言わなければならないのかという意味が分かんない」 芽実が分からないのも無理はない。俺自身にもよく分からない。だが、続けた。 「その自尊心の強さはお前さんの魅力でもあるけど、早まった決断を誘発する危険はそれと表裏一体だから気を付けておけよ。 ときには自分を押さえつけることも必要だし、判断を急がないようにしておけよ。 万一、心ならずもアイドルであることと決別するような事態となっても泣くなよ。 アイドルであってもなくてもお前さんは可愛い、圧倒的に可愛い。 その一つをとっても祝福されているんだから、悲観することはないぞ」 芽実の頭の匂いの魔力がそうさせたのか、自分でも予期していなかった言葉が口から飛び出した。でも不思議と後悔はなかった。 「やれやれ、辞めたときの心配までされちゃったよ。あなたって、さあ、やっぱり変な人だね。 こんな変な男と付き合えるのもねるの懐の深さなのかな」 先ほどの怒りはしぼんでしまったようが、呆れかえった顔をして芽実は立ち上がって、ねるのほうへ向かった。 「それじゃ、ねる、外でみんなで待っているから、私たちとはそこでお別れね」と言って、芽実は去った。(続く) ブレーンワールド(その92) 博物館の出口へ向かうとき、辛抱できずに、ねるに尋ねる。 「話したいことというのは、海外留学するということなのか?そうなら留学先を今すぐ教えてくれないかな?」 そのとき、「ねる!」という大勢の声が聞こえ、あの11人が出口で待っていた。 その声があまりにもよく徹るためか、屋内と屋外の境目が溶けて均一な空間となっているような錯覚を覚えた。 ねるは小走りで、先に屋外に出ると、一人ひとりと抱き合う。いろんな声が多重的に聞こえてくる。 「ねる、元気でね」 「私たちのこと、忘れないでね」 足を止め、傍観し、その微笑ましい光景に心が和んだが、そのずっと向こうに見覚えのある顔の男がいた。 存在感を殺し、背景に溶け込み、視線をこちらに向けることもない。もしあの顔を前に見たことがなければ、見張られていることには気づかないだろう。おそらく公安だ。 あのフェイクニュースを本気で信じているのか? 犯罪には関係のないというよりは犯罪を起こすような人間とは対極にいるねるを本気で調査のターゲットにしているのか?(続く) ブレーンワールド(その93) ねるを取り囲む輪の中に入って、ねるに言った。 「例のストーカー男が見張っている。ほら、寮の付近でうろついていた能面のような顔をしたあの男」 「え?なぜこんなところまで?」 「アイツはどうやら公安調査庁の人間らしい」 「公安調査庁って何なんですか?」 「公共の安全の確保を図るという名目で設置された法務省の外局だけど、今の日本には調査対象がほとんどいなくなり、 人件費ばっかり食う不要官庁ということで、ずっと前から行政改革で廃止すべき対象だと議論されている。 犯罪とは縁遠い人間の監視までして生き延びようとして、ありとあらゆる情報画策をしているらしい。 詳しいことは後で話すけど、あるフェイクニュースが天文学者の間で流布し、それに関連してねるちゃんの名前がなぜか挙がっている。 おそらく公安の連中もそれを本気で信じていないだろうけど、でっち上げる調査対象はいくらでもあったほうがいいんだろうね、 仕事があるように見せかけて、組織の延命を謀ることができるから」 「なんか怖いです。なぜこの居場所がなぜ分かったんですか? パスタ屋さんでも博物館でも尾行や監視されているようには思えませんでした」とねるは不安がる。(続く) ブレーンワールド(その94) 「スマホの電源を入れておくだけで、1分間に1回、あるいはそれ以上、位置記録を絶えず近くの交換局とやり取りされるらしい。 中継基地に発着信のログが磁気テープに残り、絶えず3つの局と交信しているので、 三角測量の原理でピンポイントで位置が分かってしまうというのは聞いたことがある。 おそらくそういう手法で、半年以上もの間、ねるちゃんの居場所は常に把握されていたのだと思う」 「でも、通信傍受法では、通信傍受した場合には傍受された人間に対して傍受したという事実を法務省に伝えて、 適正だったかどうかを証明しなければならないんでしたよね。 半年もそんなことしていたら、通信傍受するのはもう却下されているんじゃないですか」と影山優佳が言う。 「高校生なのにそんなことまでよく知っているね。 たしかにその通りだけど、それはあくまで通信傍受のときだけで、スマホの位置情報を調べるときには、届け出の義務は必要ない」 ねるは小刻みに震えている。 しまった!ますますねるを不安がらせるようなことを言ってしまった。(続く) ブレーンワールド(その95) 「潔白だということを示すため、あえて行動を監視させるというのも一つの手かもしれない」 ねるを安心させるため心ならずのことを言ったが、俺の本意を見透かすように芽実が言う。 「駄目だよ、そんなの。法律に違反してなくても、道徳に反してなくても、人には知られたくないことが人にはいっぱいあるよ。 別の環境におかれれば、人って変わるものでしょ。 学校にいるとき、家庭にいるとき、仲のいい友達だけでいるときなど、違った人格が現れる。 作為的に使い分けているわけでも、仮面を被っているわけでもない。その関りで自然とそうなる。 あなただって、ねると私とでは全然態度が違うよね。ねるには優しく語りかけるのに、私にはぞんざいに口をきく。 犯罪をしていないのに、人のプライベートを監視するなんておかしいよ。あなただって、本当はそう思っているんでしょ」 その話を聞いていて、前に原子についてねるが語っていたことを唐突に思い出した。 それ以上分割できないと意味のatomに「原子」という訳語が与えられたが、原子は分割できる。 同じように、それ以上分けられないものという意味のindividualに「個人」という訳語が与えられたが、芽実の言うとおり、個人も環境で分化する。 「そうね、これから私たちもアイドルデビューするんだし、プライバシーの侵害というのは他人事じゃないわ」と井口眞緒が憤る。 「あなたたちの言うことはすべて正論だ。意図していない自分の姿を他人に見られるというのは明らかな人権侵害だ。 ただ、そういうようにアイツに諭したところで、素知らぬふりをするだろう。 また、おそらく車などの尾行の手段も万全の体制にしている。目を眩ますのはムズい」(続く) ブレーンワールド(その96) 「よし、私が何とかする」と加藤史帆が言う。 こちら側の様子になにか感づいたのか、公安の男の周りにもう3人集まった。おそらく同じ公安の手のものだ。 史帆はすばやく近くまで行き、その4人の間に飛び込んで、わざと転んで、「きゃあ、痴漢!」と叫ぶ。 驚いた通行人たちが一斉にそちらを見る。 「この男の人たち、私を拉致して、集団でレイプするつもりなんです!」と周りに訴える。 「私も見てました」と駆け寄ってきた他のコたちも叫ぶ。 通行人たちが次々にやってきて取り押さえようとする。 「ありがとう、史帆ちゃん。私、先に行ってタクシー捕まえてきます」とねるは車道へ向かう。 一発殴らないと気が済まないと思って、ごった返ししている中に入ろうとするが、 「あなたはもう行って。後は私たちに任せて」と芽実から止められ、ねるの後を追う。 後ろを振り返ると、人だかりの山は大きくなっている。 公安のボケどもが、ざまあみろ、大ポカだな。これだけ大勢の人に見られたら、あの4人は尾行の実行部隊としてはもう使えないな。 でも、あのコたちは面倒なことになりそうだな。まあ、あの11人なら大丈夫な気もする。 タクシーを捕まえていたねるは「早く」と道路際で催促する。 タクシーに入ると、「後で役に立つかもしれない」と言いながら、俺の胸のポケットに何かをなるは入れる。 運転手は後ろを振り返りながら言う。 「今の道路の混雑状況だと、いったん南に下がってから北に上がったほうが速く着きそうなんですが」 「じゃあ、それでお願いします」とねるは答える。 ねるは行き先をすでに指示しているようだ。(続く) ブレーンワールド(その97) 先ほどの騒動の興奮が収まらず、車内ではしばらく言葉を失っていた。 タクシーは滞りなく走っていたが、赤いテールランプが詰まってきたなと思ったら、急に動かなくなった。 渋滞に巻き込まれたようだ。 「ああ、しまった、今日だったか!」と運転手は嘆いた。 前方を見ると、アイドルの制服らしき服を着た女の子がいた。 献花をして、祈りを捧げたら、カメラのフラッシュが一斉に焚かれ、近くに雷が落ちたかのように眩しく光る。 「あれは何をしているんですか?」と俺は運転手に尋ねた。 「知らないんですか?ほら、いま飛ぶ鳥を落とす勢いの鳥居坂46のセンターの原田まゆですよ。 この鳥居坂の場所で交通事故で死亡した中学のときの恩師を弔ってるんですよ」 鳥居坂46が交通安全キャンペーンでテレビに出ていたときに言っていたのはこれか。 運転手は話を続ける。 「いろんな事情で鳥居坂というグループ名も変える予定だったそうですが、 グループ名と場所の名が一致するという強烈な出来事があれば利用しない手はないですよね、たとえ不幸な事故であっても」 ああ、以前にウザ女が話そうとしていたのはそのことだったのか。 原田まゆのセンターにこだわり、当初のセンター予定の逸材が辞める事態まで招いたと言っていたな。 「亡くなったということには同情を禁じえないけど、肉親ではなく中学のときの恩師というのではインパクトは弱くないですか?」 「でも、小さい女の子を助けたというのは美談でしょ」 「美談?」 「その恩師は道路に飛び出した女の子を救おうとして成功したんですけど、自分は亡くなったんですよ」(続く) ブレーンワールド(その98) ワイドショーや夕方のニュースでそういう証言をする子供がいたことを思い出した。 自分の体験したことなのに無理に暗記していることを空んじるような話し方が奇異だった。 「でもねえ、実はいろいろとウラがあるという話なんですよ。原田まゆとその教師とは付き合っていたといった。 それも、二人でいるところをパパラッチに見つかり、逃げる最中に無理に道路に飛び出し、 教師だけが引かれて死亡したのが真相じゃないんかという噂もあるんですよ。 それをかき消すために月命日にはほらこうやって必ず祈りを捧げに来るんですよ」 「でも、実際に助けられた女の子はいるんでしょ?」 「それが、ねえ、その子が現れたのは事故があってから一週間後、このネット時代におかしいとは思いません? よし、とっておきの情報をお教えしましょうや! 実は、教師を事故に追い込んだパパラッチが働いている出版社の会長とその助けられたという女の子のお爺さんが旧知の間柄だという話なんですよ」(続く) ブレーンワールド(その99) 「つまり、結果的に教師を死亡事故に追い込んだ責任逃れするために、存在もしない女の子をつくりあげ、美談に仕立て上げた。 そういうことですか?」 「まあ、解禁前の中吊り広告の情報を盗まれたということで、そこの出版社と対立している別の出版社の会社員の人が言ってた話ですけどね。 だけどね、その話が本当だとすれば、原田まゆはそれを知らないわけがない。そうすると、アツツには当然報告するでしょう」 「アツツ?ああ、安本敦のことか」 「で、ね、その出版社はアツツが関係するアイドルグループのメンバーのスキャンダルを毎週のように記事にしていたんですよ。 ところが、その事故以来、全くなくなってしまった。なんか妙に符合すると思いません?」 ああ、そういうこともウザ女は言っていたな。 「つまり、事件の真相を知った安本敦がその出版社を脅して、自分のとこのアイドルを狙えないように謀ったというわけですか?」 「へへへへ、それはあっしの想像なんですけどね。でも、もしそうだとしたら快挙でしょ。 あの出版社ときたら、巨大宗教団体の悪質な行為であろうが、超大手の芸能プロダクションの社長のホモレイプであろうが、 一般のマスコミでは絶対に手を出さないことまで記事にする」(続く) ブレーンワールド(その100) 「でも、それって賞賛すべきことじゃないんですか?」 「ああ、それはとてもいいことですね、失礼しました。 でも、若いアイドルのスキャンダルを報じるというのはどうですかね? それだけでタレントとしての生命を絶たれることもあるいうのに、あんな牧歌的な表紙にしているのを見ると腹立ちますよ。 どんな手を使おうが、それを黙らせたアツツをあっしは尊敬しますね。 よく『知る権利』とか言いますけど、政治家の汚職とか巨大宗教団体の悪質行為とかなら、白日の下に晒す必要があると思います。 だけどね、芸能人のプライバシーを暴くことかが公共の利益になるとは思えませんね」 「それは同感ですね」 「でも、あっしの同僚には、アイドルはファンの夢の上に成立しているから、男なんか作っちゃいけないから、 だから、それを暴く週刊誌は正義というのがいるんですよ」 「全てのアイドルが男を作っちゃいけないというなら、それは無理というものですね」 「やっぱり全てのアイドルが清廉潔白というのはフィクションなんですかね」(続く) ブレーンワールド(その101) 「何を以て清廉潔白というのは措くとしても、フィクションを核として宗教なんかも成立していますよ」 「え?そうなんですか?」 「たとえばキリスト教ではイエスの復活とかマリアの処女降誕とかが信仰の核にありますよね。処女降誕はカトリックだけですが。 水槽の中で死んだメダカは生き返らないし、メスだけの水槽では稚魚は生まれないというのは子供でも知っています。 明らかなフィクションですが、でもそれを核としたキリスト教は世界中の数十億の人々の精神的な支柱となっている。 あらゆる宗教はフィクションという実在なんですよ。 悪質行為を集団で繰り返し、人を追い込むあの巨大宗教団体のようなのは論外ですが、 そうじゃない限りフィクションであっても社会の中に組み込まれるべきだと思います」 「なるほど、アイドルというのはまさに偶像崇拝で、宗教と同じように、フィクションという実在になりますね。 いずれにしてもデバガメ週刊誌でプライバシーを暴かれたアイドルは誰からも不信の目が向けられるからかわいそうですね」 「ええ、でも、それにとどまらず、もっと大きな問題があります。アイデンティティの崩壊につながるという危険ですね」 「それはどういうことなんですか?」 芽実が言ったことを敷衍しながら、言う。 「我々は変わらないという幻想を常に懐いています。我々すべての行為は一人の自分に属するものと信じています。 だけど、ある人に対する場合と別なある人に対する場合とでは、我々はそれぞれ人間が違うんですよ。 そのこと一つとっても我々のアイデンティティの統一は非常に危うい状態にあります。 だから、そのために邪魔となるストーリーは徹底的に排除する必要があり、個人の私生活は聖域にされるべきです。 スキャンダルや私生活の暴露というのは誰にとっても危険ですが、 公私では完全な別人格となっているかもしれないアイドルにとってはなおさらでしょう」(続く) ブレーンワールド(その102) 「お客さん、いいこと言いますね。あっしが普段もやもやと思っていることを見事に言語化してくれますね。 ホント、あっちこちに監視カメラはあるわで、プライバシー侵害が起こりやすい世の中ですね。 タクシー試験もつい最近に受けたばかりですが、なんか監視されているようなんですね。 試験監督は試験時間の間だけ単に監視しているだけなんですが、 その後もその感触が尾を引いて気持ち悪いんですよ。考えすぎですかね?」 「う〜ん、もしかしたらズレていることを言うかもしれませんが、 フランスの哲学者のミッシェル・フーコーが近代の試験は観察装置のためにもあると言っています。 たえず見られているという事態、つねに見られている可能性があるという事態をつくり出し、 個人を服従強制の状態に保つようにしている、と。 よく大学入試とかで人間本位が強調される場合には、監視装置としての試験の役割はよりその度合いを強めることになりますね。 政府の機関で学者を推薦あるいは拒否するときなんかにも、似たようなことはありますね。 『総合的に判断した』とか『俯瞰的に判断した』とかいったように。 理由も示さず、そんな訳の分からないことを言うのなら、きわめて悪質な観察装置となりますね」 あれ?普段なら知識をひけらかすようなことには慎重になっているのに、なぜ余計なことまでべらべらと喋る? ねるに博学多識であると認知されたいのか?いや、違う。心の奥の不安がそうさせている。何が不安なんだ? ねるは海外留学するだけで、一時の別れということで安心していたんじゃなかったのか?(続く) ブレーンワールド(その103) 運転手が言ったことを振り返ってみる。 そういう週刊誌でも書かないような原田まゆの不確定な情報を想像も交えて嬉々と話していたとも思える運転手が、 芸能人のプライバシー侵害を嘆くのは矛盾しているようにも思えるが、彼の中では筋道だっているのだろう。 前方の視界には原田まゆ当人も大勢のマスコミもファンもいつの間にかいなくなっていた。 タクシーは発進した。 「話を戻すと、なぜ鳥居坂という名前を変更しようとしたんですか?」と俺は運転手に尋ねた。 「諸説あるようなんですが、ほら、精神障害者の真似をする鳥居ナントカという女芸人がいたでしょ。 同じ名前だとイメージが悪くなるからだというように聞いています。 他にも画数が悪いためだとかいう話もありましたね」 「変えようとしていた名前はなんだったんですか?」 「あれなんだっけかな?えーっと、えーっと、ああ、そうだった!お客さんの行き先と同じ名前じゃないですか!けやき坂でした!」 「えっ?行き先って羽田空港じゃなかったのか?」と俺はねるに向かって言ったら、ねるは俯いた。 「けやきざか」という文字列が頭の中で点滅し、教授のパソコンの中で見た「×××ざか」の記憶を呼び起こし、二つがシンクロした。 まさか・・・・・・。(続く) ブレーンワールド(その104) 「フェイクニュースに関連してねるちゃんの名前が挙がっているということをさっき話したけど、 その名前と一緒に『×××ざか』という文字列もあったんだ」 「そうですか」とねるは他人事のように答える。 「例の発作が起こったとき、なにか音声らしきものが聞こえるというようなことを言っていたけど、 あの砂浜のときに、それは『けやき坂』というのが判明していたんだじゃなかったのか?」 「・・・そうよ・・・」と、前を見ながら、ねるは答えた。 変な考えが浮かんだ。あり得たかもしれない反実仮想の悔恨にねるは苛まれ、その感情は並行世界にまで干渉した。 しかし、相互応答はねる一人の力ではどうにもならず、あの11人がインターフェースの役割を果たした。 ただし、一人あるいは数人ではその送受信はノイズがひどく、ねるを苦しめた。 11人そろったときに初めて明確なメッセージを並行世界からねるは受け取った。 そういう妄想をしていると頭がクラクラし、目がピントボケし、前と左右の車窓が近づいたり遠ざかったりした。 すがるように横を見ると、熱火が顔に輝き、眼差しに燃え、ねるは全身に生気をみなぎらせていた。(続く) ブレーンワールド(その105) タクシーは横断歩道を少し通り過ぎたところで停止した。けやき坂に到着したようだ。 俺が財布を出す前に、ねるは五千円札をすでに取り出して、「お釣りはいいです」と言い、俺には「早く!」と降りるのを促した。 「ありがとうございます!」と喜ぶ運転手の言葉を尻目に俺とねるは外に飛び出した。 焦るねるだったが、「スマホ、わすれていませんか?」と運転手から呼び止められ、取りに行った。 午後7時前だったが、すでに外は暗くなっている。 そうか、残暑が厳しいとはいえ、夏至から2か月半も経っているので、この時間だともう暗くなるのは当たり前か。 急いで戻ってきたねるは、青が点滅する歩行者信号を強引に渡ろうとして、俺の手を引っ張りながら走り出した。 横断歩道の真ん中のセーフティアイランドに来たときに、赤となり、足を止めた。 その直後だった。六本木の街が一斉に暗くなった。 停電なのか・・・・。なぜこのタイミングで?偶然だろうが、ちょっと嫌な感じだ。 目の前の道路には車は1台もなく、信号が機能しなくなったためやって来る車もなかった。 真っ暗な中で街にいる人々の囁くような声が聞こえた。誰もが戸惑って、声を抑制しているのだろうか? 街はゴーストタウンと化していた。(続く) ブレーンワールド(その106) この日は満月に近かったが、東側だけに厚い雲がかかっていた。 さらに登ったばかりで低い位置にあるはずの月には高いビルが立ちふさがっていたので、月光は漏れなかった。 しばらくして目が暗闇に順応してくると、光害がなくなった六本木の街はいつもとは違った光景を見せてくれた。 六本木の高層ビルが大きな影となり、黒い巨人が迫っているように感じた。 その大きな黒い影の背景には満天の星空が広がる様子がよく見えた。真西から少し南にずれた方向にはビルが歯抜けの状態となっていた。 ねるを待つ間に、ビル群のその方向の一角が更地の状態となっていたのを思い出した。 さらに、おそらくその更地の後ろ側には公園かなにかになっているのだろうか、 その方向は奇跡的に低い高度でも星空が見通せ、スピカを目印におとめ座が現れている。 「私、誕生日の前夜の9月3日に、自分の生まれ星座のおとめ座を見るのが夢だったんですけど、生まれ星座を誕生日近くに見ることは難しいですよね。 まさか東京の繁華街の真ん中でその願いがかなうとは信じられないです」 タクシーの中では、重苦しかったねるの緊張が一瞬ほどけ、笑顔を見せた。(続く) ブレーンワールド(その107) ねるの星座はおとめ座だったな。 ギリシャ神話を思い出した。 星座はギリシャ神話の神と結びつけられているが、おとめ座には複数いる。 特に有名なのが。正義の女神アストライア、農耕の女神デメテル、デメテルの娘ペルセフォネーの三神である。 ねるにぴったりなのはペルセフォネーじゃないかと思った。 ペルセフォネーが花摘みをしていると突然大地が割れ、地獄の神ハデスにさらわれる。 ペルセフォネーの母親のデメテルは悲嘆にくれながら探して彷徨い、ペルセフォネーが地獄に連れ去られたということを知る。 農耕を司るデメテルだが、職分を放棄し、大地は荒れ、作物は枯れ果て、飢饉が起きることもかまわず、ペルセフォネーを取り戻しに行く。 ねるの母親は芸能界が地獄のような場所だと思って、必死になってねるを連れ戻そうと思ったんだな。深い愛情を思いやった。 ペルセフォネーは地上に連れ戻されるが、地獄のザクロを口にしていたため、冬の間だけ地獄で過ごすこととなる。 だから、冬には作物は枯れてしまうこととなったという。 ねるから何かよくないことを告げられるのを恐れていた俺は逃避するようにそんなことを考えていた。(続く) ブレーンワールド(その108) ねるは口を開いた。重苦しい調子に戻った。 「黙って去ろうと思っていたのですが、お別れを言います」と一言一言を噛みしめるようにねるは言った。 「別れって?どこに行くつもり?」 「口で説明しても信じてもらえないと思います」 「いつまでも待っている自信はある」 「二度と戻ることはないと思います」 「もしねるちゃんが許してくれるのなら、大学やめて一緒についていってもいい」 「無理です。いえ、生理的に受け付けないといったような意味で言ったのでは決してありません。でも無理なんです」 俺は言葉を発することができなかった。 「海のように深くこんな私を愛してくださって本当にありがとうございました。 二人で一緒に過ごした時間は、本当に、本当に、とても心地がよかったです。 この思い出は私の心の中に大事に仕舞われ、内側からいつも私を照らし続けてくれると思います」 (続く) ブレーンワールド(その109) ねるの行き先がどこかも分からないというのに、ねるの鉄のような決心を翻すのは無理だと感じて、俺は落涙していた。 それでも足掻いた。 「でも、ねるちゃん、俺のことは割り切れるとしても、病床に伏せているあなたのお母さんは・・・」 「母は少し前から快方に向かって、今はもう大丈夫です、私が大学で勉学に勤しんでいると思って安定しています。 私がアイドルになりたいという話を二度と持ち出さない限り、健康でいられると思います」 「お母さんはあなたがいなくなるということを承知しているの? もしそうじゃないなら、あなたがアイドルになることよりも、あなたがいなくなることのほうが遥かに辛く、病状がまたぶり返すかもしれない」 「・・・・・・それも大丈夫です」 「大丈夫って?あなたがいなくなるのに大丈夫って意味が分からない。どう考えたっておかしいよ。 いったい誰があなたの代わりになるというの?」(続く) ブレーンワールド(その110) 正時を示す電子音が腕時計から鳴った瞬間、おとめ座の中の一角が怪しく光った。 天使の梯子のように淡い光が差し込み、その光に包まれて降りてくる者がいた。 あっという間に地上に達した。 その一連の不思議な光景よりもその顔を見てぎょっとなった。 どう答えるかは予想はついたが、「お前は誰だ?」と叫ばずにはいられなかった。 「私は長濱ねる」と侵入者は答えた。 ねるの体も輝きだした。 ねると“ねる”とは軽く会釈だけをして、ただ黙って見合って、お互いの鍵とスマホと財布を交換した。 「ねる、いったい何が起こっているんだ?」と俺は声を震わせた。 「私は何が何でもアイドルになりたいんです」とねるは言う。 そして、 “ねる”も言う。 「私は、自分のプライバシーを持てず、自由に外も歩けないアイドル人生に嫌気がさして、普通のキャンパスライフを夢見ています。 だから、彼女と私の人生を交換するということになりました。 運命の鎖から解き放れたとき、人は最大の自由を手にすることができると私の世界の哲学者は言いましたが、 それをアクロバティックな形で私たちは実現するのです」(続く) ブレーンワールド(その111) ねるの代わりを“ねる”がするのか?ねるがアイドルとなり、かつ、ねるの母親を安心させるという解決法がそれなのか? そんな馬鹿なことを本気で実行しようとしているのか? 並行世界なんて物理学上の仮象ではなかったのか?本当に現実に存在するのか? 驚きのあまりひるんでいると、ねるの体は光に包まれて美しく輝きだした。 天からの光に吸い込まれ、宙に浮きあがる。 あわてて俺はねるの身体を掴もうとするが、寸でのところで届かない。 力の限り俺は声を張り上げる。 「ねる、お前の現実はこっちにある。お前のリアルな世界はこっちにある。 そっちの世界は嘘偽りだ。そちらに行ったら、お前は虚構の世界の中で生きていくことになるぞ! ねる!騙されているかもしれない。そっちの世界は戦争や飢饉に満ちているかもしれない! そっちの世界は地獄だぞ!ねる、行くな!行ってはいけない!」 俺の叫びもむなしく、ねるはあっという間に天高く上がり、判別がつかないほど小さくなった。 天からの光は消え、ねるは次元の裂け目に消えてしまった。(続く) ブレーンワールド(その112) 俺は泣き叫んで、這いつくばり、額をアスファルトに打ち付け、自傷行為に走った。 脳震とうを起こしたのか、地面が割れ、地獄に落下し、業火で燃やされたかのような錯覚に苦しみ悶えた。 ところが、それを和らげるように薔薇色の靄が俺を包んだ。 顔に柔らかい何かがあてがわれ、えもいえぬ香りが漂ってくる。心地いい振動が体に伝わってくる。慰める優しい声も聞こえてくる。 視覚も嗅覚も触覚も聴覚も混然一体となる。 吸い込んだらいいのか?耳を澄ましたらいいのか?啜りながらどっぷり浸ったらいいのか?香りの海に快く身をまかせればいいのか? 苦しみと快楽のせめぎ合いで上下の区別はつかず、方向感覚を失っていた。 快楽が打ち勝ち、俺はエクスタシーに落ちた。 夢とも現実とも分からない中で、エクスタシーに攻められ、夢精した。その後でも恍惚は続いた。 いや、騙されるな!ねるが与えてくれたものじゃない! エクスタシーの妖しい力に俺は激しく抵抗し、全身を震わせ、力の限り「ねる、なる、ねる」と悲痛な声をあげる。 おそらくこれ以上はないというくらいの醜態で泣き叫び続けた。 停電が回復した。地べたに這いつくばっている俺の顔を硬いアスファルトから何か柔らかいものが守ってくれているようだ。 正座している女性の両太腿に俺は顔を押し付け、俺の両手はその臀部をつかんでいた。 いや、でも、これはねるじゃない!偽物だ! 顔を上げると、同情の涙で溢れている“ねる”がいた。(続く) ブレーンワールド(その113) 「高校で習う基本的な波動関数は三角関数なのに、量子力学の波動関数は指数関数となりますよね。 なぜ全く違った形の式で表されるんですか?」と“ねる”は尋ねる。 「eのiθ乗は、cosθ+i sinθに等しいから、量子力学の波動関数も三角関数で表されるということでは同じようなものだけどね」と俺は答える。 「なぜ、わざわざ指数関数で表記するんですか?」 「指数関数で表わしたほうが、計算処理がシンプルになるんだ。 微分しても元の関数に戻り、しかも時間tで偏微分すればエネルギーEが取り出せ、 変位xで偏微分すれば運動量pが取り出すことができるのできわめて楽に計算処理ができる」 「ああ、なるほど。それは納得です。でも、量子力学の波動関数では、実数項cosθだけでなく、虚数項i sinθも出てきますよね。 そもそもなぜ虚数項を付け加えるんですか?」 「ぶっちゃければ、実験結果と矛盾しないから、そう表すとしか言いようがない。 ただ、実数項だけならそれによる確率波の変位が全領域で0となる時刻が必ずあり、一瞬とはいえ波が消滅し、 二重性のもう一面である粒子としての電子も消滅することになり、矛盾が起きてしまう。 ところが、cosθとsinθは位相がずれているので、虚数項があるため、波が完全に消え去るというのを防いでくれるというのは言える。 偽りの数である虚数が量子力学の肝となっているというのは神秘的と思わないかな?」(続く) ブレーンワールド(その114) 「虚数が現れるというのはそれほど神秘的なのですか? (a, b)+(c, d)=(a+c, b+d)、(a, b)×(c, d)=(ac-bd, ad+bc)という具合に、虚数の演算は実数ペアを対応させるだけのことですから」 「そういう指摘は的外れかな。 虚数の演算は実数ペアを対応させることができるといっても、それは存在しない虚数に概念的な計算を対応させただけのこと。 天使というのは白い大きな羽を持って、心清く、天上にいるというように言葉でならその概念を説明できる。 でも、存在しないはずの天使が実際に現れたら、驚きじゃない?それと同じ。 実際には存在しない虚数が量子力学の実在の現象の中に組み込まれていることを神秘的といっているんだ」 「学部生が習う物理で、他に虚数が現れるということはないのですか?」 「いくらでもあるよ。振動や交流の解を求めたりするときとか、 特殊相対性理論で、ミンコフスキー空間での三平方の定理や内積をユークリッド空間と同じ形にすることを考えるときとか。 でも、それらは数学的なテクニックにすぎない。あるいは、あくまで架空である虚数を寓意的に用いているにすぎない。 心の美しい人間の心を存在しないはずの天使の清い心に譬えるのと同じようなことかな。 だから、それらで虚数が出てきても驚きはしない。 だけど、量子力学での虚数は実在のものとして組み込まれている。 あたかも天使が現実に出現したということに等しい」 「なるほどそういうことですか!実数ペア云々という高校数学の知識だけでイキガった自身が恥ずかしいです」と“ねる”は頭を掻く。 あれから2か月経ち、秋が深まった季節となっていた。 俺は“ねる”と同棲して、高校課程までしか履修していない“ねる”に大学で習うことを教えている。(続く) 量子力学の波動関数を知らないと何のことか分からないので、その説明をしておこう。 ただし、最低限、高校物理を履修した人しか対象としない。 (1)高校物理で波動関数の式 高校物理で波動関数は、ある一点での単振動が空間的に伝播していくと説明される。 (ただし、高校物理では、「波動関数」という言い方ではなく、「波の式」と称することが多いようだ。) 単振動の式は、 ψ=Asinωt=Asin2πft (ψは振動の変位、ωは角振動数、fは振動数) 位置xの場所では、x/vだけ遅れた変位が伝わるので、 ψ=Asin2πf(t−x/v) 上の式では、sinという形で表されているが、一般的にはそうならない。 初期位相がπ/2であれば、cosとなるし、他の形にもなりえる。 ここでは、cosで表して、面倒だから、初期位相は0とする。 ψ=Acos2πf(t−x/v)=Acos2π(ft−x/λ) (v=fλの式を用いた。) (2) 量子力学の波動関数の式 量子力学の波動関数の式は、(1)の式に虚数項i Asin2π(ft−x/λ)を加えるだけである。 ψ=Acos2π(ft−x/λ)+i Asin2π(ft−x/λ) オイラーの式e^iθ=cosθ+isinθから、 ψ=Ae^i2π(ft−x/λ) ここで、量子力学らしい表記とするため、高校の原子物理分野でも習うE=hf、p=h/λを用いる。 Eはエネルギー、pは運動量である。 hはプランク定数で、Hをディラック定数(h/2π=Hである)とする。 (以前に、ダークエネルギー密度を求めたときには、hをディラック定数として、Hをハッブル定数としたが、ここでは文字が表す量を変えているので注意してほしい。) したがって、 ψ=Ae^i2π(Et−px)/h=Ae^i(Et−px)/H ただし、標準的な式の形は累乗のところの正負が逆になっている(累乗のところにマイナスが付いている)。 物理や数学では左回りを正とするのが原則だが、虚数が絡んでいる場合には右回りを正とするためである。 最初の単振動の三角関数の中にマイナスを入れれば済む話である。 そうすると、 ψ=Ae^i(px−Et)/H これが、量子力学における波動関数である。 なお、三角関数の形で表記にすれば、 ψ=Acos(px−Et)/H+i Asin(px−Et)/H (3)複素平面上の等速円運動の正射影 (2)の説明だと、i Asin2π(ft−x/λ)を唐突に加えたという感が強いので、その背景を掘り下げてみる。 単振動の変位の式を求める場合は、大学以後ではもちろんだが、高校でもある程度の進学校なら、2回線形微分方程式の解として教わることが多いと思う。 等速円運動の正射影であるというのは幼稚な方法だから無視しろと高校生のときに俺も言われた。 ただし、授業では使わなかったとはいえ、高校の物理の教科書は一応受け取ったので、その内容は知っている。 その幼稚な方法が量子力学における波動関数が何たるかを考えるときには役に立つ。 横軸が実軸 縦軸が虚軸 赤丸が初期位置 青丸が時刻tの位置 緑色の光が実軸へ正射影させている 黄色の光が虚軸へ正射影させている 複素平面上で、半径A、角速度(ω=)2πf、初期位置(A,0)の等速円運動を考える。 回転の向きは普通は左回りに取るが、(2)でも書いたように、ここでは右回りにとる。 t秒後において、実軸と虚軸に正射影した式はAcos(−2πft)とiAsin(−2πf t)であり、複素座標はAcos(−2πft)+iAsin(−2πf t)となる。 こういう振動が元となって、量子力学の波動関数はつくられていると見なしてやる。 後は(1)でやったのと同じように、位置xの場所では、x/vだけ遅れた変位が伝わるとすれば、 ψ=Acos(px−Et)/H+i Asin(px−Et)/H が導ける。 古典物理では実数の振動しか考えなかったのに、量子力学では実数の振動に虚数の振動が加わるということとなる。 上のことさえ理解できれば、量子力学の神秘性を必ずや感じることとなる。 (4)虚数項があるため確率波が0となるのを避けられる 電子の検出確率を表す確率波はψの絶対値の2乗で表される。 換言すれば、実部の係数Acos(px−Et)/Hと虚部の係数Asin(px−Et)/Hをそれぞれ2乗した和で表される。 この計算は面倒なのでやらないが、その様子は定常波と同じようなものだと受け止めていい。 定常波は入射波と反射波とが重ね合わされてできる。 その計算結果は、それぞれの因子が変数tと変数xだけで表されることになり、全ての領域で変位が0となる時刻が必ずある。 それと同様に、実数項だけで確率波を考えた場合には必ずある時刻で検出確率がゼロとなる。 つまし、電子が消えてなくなるという矛盾が起きる。 したがって、波動関数の実数項だけでは無矛盾の波動関数は絶対につくれないこととなる。 しかし、量子力学の波動関数には、虚数項も含まれていて。cosとsinの位相がずれているため、 実数項の係数の2乗で時間tを含む因子がゼロとなっても、虚数項のほうのそれは0とはならない。 したがって電子が消滅するという矛盾を回避できる。 (5) シュレディンガー方程式 波動関数の式からシュレディンガー方程式(波動方程式)がどのような式になるかというのを示しておく。 疲れてきたので、簡単にポイントだけ書いておく。 ψ=Ae^i(px−Et)/Hと指数関数の形で表わせば、計算が楽な上に、偏微分しても元の形のままで、エネルギーと運動量を係数として外に出せるのがポイントである。 ・ψをtで偏微分した式とψをxで2回偏微分した式をつくる。 ∂ψ/∂t=−iEψ/H、∂^2ψ/∂x^2=−p^2ψ/ H^2 (Eψ=iH・∂ψ/∂t、p^2ψ=−H^2・∂^2ψ/∂x^2) ・ポテンシャルエネルギーをVとして、エネルギー保存則の式をつくる。 E= p^2 /2m+V ・上の式にψを左から作用させる。 なぜ、素直にψを乗ずると言わないのかというと、ここがまた量子力学の奇妙なところだが、 エネルギーEと運動量 pを演算子と見なさなければならず、一般的に交換法則が成立しないので、上のような言い方となる。 ・以上から、シュレディンガー方程式が導ける。 iH・∂ψ/∂t=−H^2/2m・∂^2ψ/∂x^2+Vψ 実際の計算では上の流れたは逆で、シュレディンガー方程式の解から波動関数を求めることとなる。 そのシュレディンガー方程式にも虚数項があるので、量子力学の波動関数も必ず虚数項を含むこととなる >>315 再度、訂正。 313の図のほうが正しく、314のほうが間違っていた。 【右回りを正】としているので、314のように右回りしている場合には、位相角が2πftとなる。 −2πftとするためには、313のように左回りに回っているとしなければいけない。 ブレーンワールド(その115) あの六本木の夜の出来事から丸一日は泣き続け、食事は喉を通らなかった。 死にそうなほど苦しんでいるという嘘の報告をヘタレ先輩が教授にしていたため、 研究室の同級生が見舞いにきてくれて、俺の様子を教授に報告した。 その衰弱を見て、ずる休みではなく本当に具合が悪かったと教授に訴えてくれた。 かいがいしく俺を世話する一方で、客人に対しても心あるもてなしを“ねる”はした。 “ねる”の深い献身のおかげで立ち直ることができ、“ねる”を受け入れることに時間はかからなかった。 だが、ときどきあの夜のことがフラッシュバックする。 それが心配だからということで“ねる”は寮には一度も行かず、ねるの持ち物をウザ女に運んでもらって、俺と一緒に住んだ。 ねるのスマホやパソコンには、メーラーやスケジュールやファイルやディレクトリーやハイパーリンクが残されていたはずである。 それらをセーブデータとして受け継ぎ、首尾よくコンティニューしたためか、ねると“ねる”との区別が俺はつきにくくなっていた。 というよりも、ねると“ねる”の区別がつくこととねると“ねる”の区別がつかないこととの間の区別がつきにくくなっていた。 あの六本木の夜のことは偽の記憶で、最初から“ねる”と出会っていたというのが本当だったという気もしている。 量子力学では実数と虚数の区別をつける必要がないように、ねると“ねる”との区別をつける必要もない気もしている。 “ねる”は虚数的な存在であるとしても、俺の前にリアルに存在している。(続く) ブレーンワールド(その116) 1Kの狭い部屋が俺の住処だった。 シルエットとなった雑居ビルと電信柱のわずかな隙間から夕方にだけ日が差す安アパートに住んでいた。 “ねる”と同棲するのは住環境が悪すぎるので引っ越すことにした。 家庭教師のアルバイトなどで溜めていた金も十分にあったが、引っ越しや新居の費用に充てるための思わぬ臨時収入があった。 あの11人と公安調査庁の連中との間で裁判沙汰となっていた。 闇で暗躍する公安調査庁の人間が恥も外聞もかなぐり捨てて訴訟したということで、世間の注目が注がれていた。 何の疑惑もないないのに、公安調査庁の人間からつきまとわれて困っている友人を守るために、ああいう行動に出たというのが11人の言い分だった。 しかし、その友人がつきまとわれていたという証拠がないので、11人側は不利な状況だった。 タクシーの中でねるが俺の胸ポケットに入れたのは日付入りのカメラ画像のメモリーカードで、 あの能面のような男がねるの住む寮の前で、何か月間も見張りをしている様子がそこにははっきりと映っていた。 それを11人側に直接に渡してもよかったのだが、もっと効果的な方法をあると思った。 今では安本敦の関連するアイドルを追わなくなった週刊誌の編集者に連絡を取った。 待ち合わせたファミレスで、そのメモリーカードの画像をノートパソコンで見せたら、「10万円までなら出しましょう」と言ってきた。 金を貰うことなどそのときまで全く考えていなかったのだが、どうせなら吹っ掛けてやろうと方針を急転換した。 「安すぎやしませんか?秘密のベールに包まれてきた公安調査庁の人間のスキャンダルな画像ですよ。 正義の行いをしているはずの公安調査庁の人間が何の罪もない一人の女子大生にストーカーしていたという貴重な証拠ですよ。 これを掲載できたら、売り上げを伸ばすだけでなく、会社の社会的ステータスも上がりますよ」 メモリーカードは100万円で売れた。(続く) ブレーンワールド(その117) 週刊誌は売れに売れ、能面男は訴訟を取り下げ、あの11人の正当性が報じられ、そのデビューも注目された。 「けやき坂46」というグループの正式名称も決定した。 敵の敵は味方ということで、安本敦が関係するアイドルのスキャンダルを狙ってきたあの週刊誌も掌を返したようにけやき坂46の応援キャンペーンを始めた。 カラーグラビアで3人ずつを4週連続にわたって取り上げることとなった。 鳥居坂46の最終オーディションを当欠した11人に加え、 鳥居坂46デビュー直前にグループを離脱した平手友梨奈の12人でけやき坂46はデビューすることとなった。 「とりい坂46」と記して「ひらがなとりい坂46」と読ませ、鳥居坂46のアンダーグループというように当初には予定されていたが、 世間を賑わかせたことがいい宣伝となり、しかも完全に勝利したことが好印象となり、独立したグループにするという方針に変わった。 それに合わせて、グループの名称も「けやき坂46」に変更されたという次第である。 俺はまとまった金が手にでき、週刊誌も売れ、けやき坂46の運も上向いた。 三者が得をしたというわけだ。(続く) ブレーンワールド(その118) アイドルには全く興味を示さない“ねる”だったが、けやき坂46には何か思い入れがあるようだ。 平手友梨奈がけやき坂のメンバーとなったことがテレビを報じられているのを驚いた様子で見ていた。 けやき坂46のデビューシングルはダブルセンターの体制で、もう一人は柿崎芽実だった。 芽実の頭の匂いとともに彼女が言ったことを思い出した。 「今日、発つんでしょ」「ねるの気持ちを分かってあげてね」「アイドルになりたいというコのためには身を引こうとする心掛けはよしとするわ」 芽実を始め、あの11人はどこまでねるの事情を知っていたのだろうか? 「一本のけやき」は心地いいメロディで、このグループのデビューシングルの表題曲にふさわしい。 だが、アルファベット表記のカップリング曲「Another Possibility」のほうが俺には興味深かった。 歌詞の冒頭はエリオットの有名な英語詩から引用されている。 What might have been is an abstraction remaining a perpetual possibility only in a world of speculation. What might have been and what has been point to one end, which is always present. そうなっていたかもしれないことは、憶測の世界の中だけであり得続けるという抽象にすぎない。 けど、そうなっていたかもしれないこともそうであったことも結局は同じで、いつもそこにある。 拙訳すればそういう意味である。 人生の岐路に立ったとき、選び取るのはたった一つの道だけだが、選ばなかった人生も実は存在していて、それと出会うこともあるかもしれない。 そういったたような日本語の歌詞が後に続いた。 ねるが差し出し人じゃないかと博物館の中で芽実が指摘した手紙のことを思い出した。 その手紙から安本がインスピレーションを得て作詞したのではあるまいか。(続く) ブレーンワールド(その119) “ねる”の胸には何が去来しているのだろうか? だが、“ねる”とはいっさいそういう話はしなかった。 けやき坂46のことだけでなく、ねるのことも、あの日のことも。 言葉にすれば、“ねる”が消えてしまうような気がするから。 それにしても、ねるが使っていたスマホやパソコンを“ねる”はいま使っているが、機能不足で不服という様子ではない。 また、“ねる”の元の世界は、少なくとも高校生が量子力学を履修しているというレベルには達していない。 そういうことから察するに、あの世界とこの世界の文明レベルはほぼ同じくらいと考えるのが妥当だろう。 そうすると重力波をコントロールして「長濱ねる」や「けやき坂」という文字列を意図して送信したのは誰の仕業なのだろうか? 高次元に棲息する超高度知性生命体と呼ぼうが、神と呼ぼうがかまわないが、そんなものの仕業とすれば、その動機はなんなのか? 同情なのか? 離れた二つの水槽があり、その一つの水槽の中のミジンコともう一つの水槽の中の“ミジンコ”がその住みにくさに喘いでいる。 その二匹を取り換えれば、二匹にとって望ましい環境になるということが分かっていて、それを実行したのか? あるいは単なる遊びなのか? ねるも“ねる”もそして俺もRPGの中のキャラクターのようなもので、神というプレーヤーが与えた役割通りに動いただけなのか?(続く) ブレーンワールド(その120) 彗星ならその位置と速度が分かれば、太陽や近くにある惑星の重力の影響でその運動は決定するので、簡単に軌道計算はできる。 だが、ゲートはどういう仕組みで運動しているのかは分からないので、その軌道は謎のままだった。 あの夜の後、嗚咽し苦しみ続けながらも、やっていたことがあった。 9月3日19時ジャストにおとめ座の中のどの場所が光ったのかは鮮明に覚えていた。 それがゲートに違いないことは確信していた。 おとめ座のα星スピカとδ星ポリマを結ぶ直線上で、スピカからポリマへ満月4個分がゲートの位置だった。 その時刻におけるゲートの赤経αと赤緯δを、α=13h 19m 11.99s、δ=−9°49′27.3″と算出し、 けやき坂にある横断歩道のセーフティアイランドの東経λと北緯Φは、ネット地図から、Φ=35°39′33.2″、λ=139°43′48.7″とあったので、 けやき坂にある横断歩道のセーフティアイランドから見たゲートの出現位置を、 高度は9°32′8.47″で、真南からの方位角は70°31′13.4″と算出した。 そのデータと計算式と計算結果を教授に報告した。 その日の高度による温度勾配のデータを調べて、大気による光の屈折などの補正をして、より正確な出現位置を研究室では計算した。 ゲートの位置を特定する他のデータは曖昧なものばかりで、それらの寄せ集めだけではゲートの軌道を特定するのに決め手を欠いたが、 俺の提出したデータが功を奏して、俺の研究室でははっきりとした軌道が算出された。 それは論文として「ネーチャー」に教授名義で提出された。 なお、教授のパソコンを勝手に覗いたということを正直に告白して、その非礼を詫びた。 教授からは何の返答もなく、眉ひとつ動かさない無反応だったが、ペナルティを受けることは特になかった。(続く) 上に書いたゲートのけやき坂の場所から見たゲートの方向は一応は計算したので、その導出過程を書いておく。 (1)必要なデータ値 スピカの赤経、赤緯は、13h 25m 11.57937s、−11° 9′40.7501″である。 ポリマの赤経、赤緯は、12h 41m 39.64344s、−1° 26′57.7421″である。 2017年の9月3日0時のグリニッジ恒星時Θ_0は、Θ_0=22h41m16.6sである。 けやき坂にある横断歩道のセーフティアイランド(以下、セーフティアイランドと略す)の東経λ、北緯Φは、 Φ=35°39′33.2″、λ=139°43′48.7″とした。 (なお、実際には、けやき坂にはセーフティアイランドどころか歩行者用信号機もないようだ。 ここでは横断歩道のある場所を一つ選んで、東経と北緯の値を調べた。) (2)計算は球面幾何における三角関数の式を使う。 球面幾何の三角関数の式は平面幾何のものよりは複雑で、理解するためには三次元空間の把握能力も必要だが、それ専門の理工書を見れば誰でも理解できると思うので、ここでは割愛する。 ただ、角距離を球面三角形の辺の長さなぜしていいのか?というのはよく尋ねられるので、簡単に説明しておく。 基本的には球面上の球面三角形の辺の長さは、平面の場合と同じように、実際の長さを使わなければならない。 半径1の単位球では、その球面上の2点間の距離は角距離をラジアンで表したものに等しい。 天球の半径は1ではないし、用いる角度もラジアンではなく度を用いるのが普通だ。 だが、半径1の単位球の球面上に球面三角形が描かれていて、その全体を拡大したとき、拡大前後の2つの球面三角関数は相似となるので、球面三角関数の式は全く同じとなる。 また、sinやcosの中身はラジアンでも度でもどっちでもかまわない。 したがって、天球上の角距離を度で表したものを球面三角形の辺の長さとしてもかまわないことになる。 (3) 2017年の9月3日19時のゲートの赤経、赤緯 スピカ、ポリマの位置を、A、Bとし、また北極星の位置をPとする。 PA、PBの角距離は、101° 9′40.7501″、91° 26′57.7421″となる。 大円PAと大円PBのなす角度は、 13h 25m 11.57937s−12h 41m 39.64344s=0 h 43m 31.94s=10° 52′59.1″ AB間の角距離をθとすれば、球面余弦定理から、 cos θ=cos 101° 9′40.7501″cos91° 26′57.7421″+sin101° 9′40.7501″sin91° 26′57.7421″ cos 10° 52′59.1″ =14.52720678°(=14° 31′37.94″) スピカからポリマへのほうに満月4個分がゲートの位置であるとした。 満月の視直径は30′なので、満月4個分の角距離は2°である。 A、Bを通る大円上にあり、AからBに向かって、満月4個分の位置をCとすれば、 AC、CBの角距離は、2°、12.52720678°である。 角距離の比によって、大円は内分されるので、平面幾何における内分の式がそのまま使える。点Cの赤経α、赤緯δは、 α=(13h 25m 11.57937s×12.52720678°+12h 41m 39.64344s×2)÷14.52720678° =13h 19m 11.99s δ=(−11° 9′40.7501″×12.52720678°−1° 26′57.7421″×2)÷14.52720678° =−9° 49′27.3″ (4) 2017年の9月3日0時のセーフティアイランドの地方恒星時Θとセーフティアイランドに対するゲートの時角H 2017年の9月3日0時のグリニッジ恒星時Θ_0は、Θ_0=22h41m16.6sである。 2017年の9月3日0時のセーフティアイランドの地方恒星時Θは、時差9時間を考慮して、 Θ=Θ_0+(19−9)ν+λ/15 (ただし、νは太陽時間に対する恒星時間の比の値で、ν=1.00273791となる。) 値を代入すれば、Θ>24となるので、求まった値から24を引くと、 Θ=18h1m50.41s セーフティアイランドに対するゲートの時角Hは、 H=Θ−α=4h42m38.42s=70°39′36.3″ (5) 2017年の9月3日19時のゲートの角高度hと方位角A セーフティアイランドから見たゲートの角高度をhとすれば、球面余弦定理から cos(90°−h )= cos(90°−φ )cos(90°−δ )+sin(90°−φ )sin(90°−δ )cos H ∴sin h =sin Φ sin δ+cos Φ cos δ cos H 値を代入すると、sin h =0.1656618799 ∴h =9°32′8.47″ セーフティアイランドから見て、ゲートの真南からの方位角をAとすれば、球面正弦定理から、 sin (90°−δ )/ sin(180°−A )= sin (90°−h )/ sin H ∴sin A=cos δ sin H/cos h 値を代入すると、sin A =0.9427602104 ∴A =70°31′13.4″、109°28′41.6″・・・(a) 南の空に見えたのは分かっているので。A =70°31′13.4″と決定してもいいのだが、念のために球面幾何の座標変換で使うもう一つの式を用いると、 sin (90°−h )cos(180°−A )= sin (90°−φ )cos(90°−δ )−cos (90°−φ )sin(90°−δ )cos H ∴cos A =(sinφ cos δ cos H−cosφsinδ)/ cos h 値を代入するとcos A =0.3334714125 A =70°31′13.4″、289°28′46.6″・・・(b) (a)、(b)の両方を満たすのは、A =70°31′13.4″ セーフティアイランドからゲートまでの距離は上の計算では明らかにはならないが、その方向だけは算出できる。 >>327 ×ただ、角距離を球面三角形の辺の長さなぜしていいのか? ○ただ、角距離を球面三角形の辺の長さであるとなぜしていいのか? >>327 の7、8行目を訂正 球面三角形の辺の長さがsinやcosで表されるわけがなかった。 × だが、半径1の単位球の球面上に球面三角形が描かれていて、その全体を拡大したとき、拡大前後の2つの球面三角関数は相似となるので、球面三角関数の式は全く同じとなる。 また、sinやcosの中身はラジアンでも度でもどっちでもかまわない。 ○ だが、半径1の単位球の球面上に球面三角形が描かれていて、その全体を拡大して半径rの球としたとき、拡大前後の2つの球面三角関数は相似となり、 球面三角関数の式の両者の違いは、前者に対し後者の辺の長さが180r/π倍になっているだけにすぎない。 そして、その180r/π倍は球面三角関数の左辺と右辺とで相殺されるだけである。 ブレーンワールド(その121) 「量子力学はとても関心をそそられるんですけど、難しいですね。少し疲れました。ちょっと休憩にしましょう」 “ねる”の言葉に反応し、俺はカーテンを閉め、“ねる”に抱きつく。 “ねる”は長崎弁 で咎める。 「あんたん頭の中はそれしかなかと?しょっちゅうそがんことされたら私の身がもたんたい。こがん朝っぱらからホントいやらしか」 “ねる”は少しS気があり、自分の主張を通すときには長崎弁にスイッチする。 “ねる”は俺の腕からするりと抜け、俺が閉めたカーテンを開け、レースのカーテンまで開ける。 秋の透明な光が部屋いっぱいに差し込んで、ワックスがけしたフローリングの床に反射する。 さらに窓も開けながら、「ああ、いい天気、今日は涼しいというか暖かいですね。お散歩に出ましょう」と“ねる”は言う。 この“ねる”は本心をさらけ出してくれて、気兼ねせずに思った事を言い合える。 いや、もっと親密になっていたら、あのねるとも遠慮の入らない仲となり、同じように心を通わることができていたかもしれないな。 いずれにしても、心のコアの部分では優しさと気品にあふれているというのはこの“ねる”にもあのねるにも共通している。(続く) ブレーンワールド(その122) 丘の上にある近くの公園まで辿り着いたら、広々した芝生は日差しを浴びて眩しく輝いている。 大きな黒揚羽蝶が飛んでいる。 斜面を吹き上がってきた突風が芝生を波打たせ、一本の影が前方から背後へと運ばれていく。 黒揚羽蝶はあっという間に遠くへ去ってしまう。 “ねる”も連れ去られるような不安にとらわれて、あの六本木の夜のことがフラッシュバックする。 悟られまいと平然と装うが、体が小刻みに震える。 “ねる”は俺を掴んでベンチまで引っ張ってきて、膝枕に誘導する。 “ねる”は美しい瞳で俺を見つめる。 “ねる”の体臭と香水と柔軟剤の混じった甘美な匂いが漂う。 俺の顔や腹をなでて、心地いい振動を与えてくれる。 「大丈夫ですよ。あなたの傍にはいつも私がいます」と“ねる”の声が優しく囁く。 不安は霧散し、エクスタシーに包まれ、時が止まったかのようだ。 “ねる”が俺の終着駅であってくれと願う。 「ピーッヒョロー」と甲高く鳴く声が聞こえる。 水彩画で描かれたような鮮やかな青空を見ると、トンビがサーマルを捕まえ、高く高く上昇している。 “ねる”は俺の視線の先を追って、見上げる。 「トンビに何をお願いしたの?」と“ねる”はいたずらっぽく笑った。(続く) 昨日は朝から神経をすり減らすような数式とずっと格闘していて、その式とここで使う式とを混同するという錯乱を起こしてしまった。 >>327 のままでかまわない、>>332 のほうが間違っている。 ブレーンワールド(そのi) ねるは身震いしている。 原爆が投下され焼け野原となった地獄絵図がそこにあった。 きのこ雲と火柱が上がっていて、どこもかしこも死人の山となっている。 生き残った人はさらに悲惨だった。 死んだ赤ちゃんを抱きながら、「起きて、起きて」と叫ぶ母親。 熱線によるやけどの火ぶくれが破れ、ボロキレのように皮膚にぶら下がった人。 血の泡を吹きながらのた打ち回る人。 目の玉が飛び出している人。 肉がちぎれ、内臓が飛び出している人。 長崎市にある原爆資料館にねるは来て、その悲惨な状況の写真を見て身震いしている。 けやき坂46および欅坂46の中心メンバーである長濱ねるは長崎県の大使となった。 その仕事の一つとして、原爆資料館を市のホームページで紹介する役割を請け負った。 大使とか仕事とかからではなく一人の人間として、原爆で亡くなった人々に祈りを捧げる。 原爆という悪魔の兵器がこの地上からなくなることを強く願う。(続く) ブレーンワールド(その2i) その後、浦上天主堂に移動した。 カトリックとプロテスタントの合同500周年記念祭が秋に浦上天主堂で行われる予定で、そのゲストとしての予行のために来た。 ステンドグラスからふりそそぐ七色の光は美しく、まるで神の国が目の前に現れたようだ。 小聖堂の中にある被爆マリア像に案内される。 被爆してケロイドとなった皮膚を晒すという自己犠牲をしてまで戦争の悲惨さを訴える人を被爆マリア像は彷彿とさせる。 ねるは涙を流す。 さらに、その後には、長崎と天草のキリシタン文化が世界文化遺産に推薦されたことを受けて、 ユネスコへアピールするために地元のテレビ局の番組への出演をする。 日本の土俗宗教とカトリックとが融合して独自なものとなったキリシタン文化の中心が長崎であることを誇らしく思う。 それらが終わったら、飛行機でとんぼ返りし、東京での仕事が待っている。 充実しながらも、忙しい日々が続く。(続く) ブレーンワールド(その3i) 今いる世界にねるがやって来で数日経ったが、前の世界と今の世界とでは2か月ほどの時差があり、今日は2017年7月22日である。 富士急ハイランド施設内のコニファーフォレストで欅共和国2017が行われている。 ねるはコンサート会場のバックヤードの中にいる。 けやき坂46のメンバー全員を不思議そうにねるは見つめる。 あの11人がそろったときに天啓を聞いて、それに導かれて私はやって来たんだった。 今どうしているのだろうか?順風満帆であってほしい。 バックヤードにやって来た女性マネージャーからねるは尋ねられる。 「例のこと深慮した?」 激務が続いているため、欅坂46かけやき坂46かのどちらか一方に専念するように運営から促されているが、ねるは決断はしかねている。 メンバーにはまだ秘密にされているが、何とはなしに聞いていた東村芽衣が、「アヤ、シンリョってなに?」と尋ねる。 「お医者様に診てもらうことよ」と高本彩佳は誇らしげに答える。 あちゃー、アヤちゃん、それは診療だよ。 「アヤ、物知りやね」と芽衣は言う。 どひゃー、どの世界にいてもアヤちゃんはアヤちゃんで、メイちゃんはメイちゃんだな。二人のおバカは並行世界を超越している。 あっ!ものすごく失礼なことを思ってしまった。心の中だけでだけでも謝っておこう。ごめんね、アヤちゃん、メイちゃん。(続く) ブレーンワールド(その4i) マネージャーの問いかけへの答をねるは考え込む。 ああ、迷うな。でも、恐れはしない。もっと大きな決断をすでに私はしているのだから。 ひらがなメンバーと離れ離れになるのは絶対にできないけど、一人ひとりのメンバーにスポットが当たるためには私がいないほうがいいような気もするしなあ。 「ねえ、みんな聞いて。ひらがなけやき坂を離脱したり、あるいは芸能界に残らない人が出てきても、私たちはいつまでも仲間だよね。 嬉しいときも悲しいときも、近くにいても遠くにいても、ずっと友達でいましょう」 ねるの唐突な呼びかけに他のメンバー全員は一瞬あっけにとられるが、すぐに誰もが同意し、全員が温かい気持ちになる。 ライブが始まり、欅坂46の歌の後、けやき坂16の「ひらがなけやき」「僕たちは付き合っている」が続いて、 また、欅坂46の歌が続き、ねるのソロ曲「また会ってください」が続く。 ねるには休みがない。 ソロ曲が始まると、サイリウムの色がねる個人のシンボルカラーである紫色に一斉に変わる。 そこにねるは幻影を見る。ああこれが私の希望の光だったんだ。 歌い終えると、万雷の拍手が鳴り響く。 歓喜と熱気がねるの身体を満たしていく。 万感の思いがねるの脳裏に去来する。とめどなく溢れては流れ出ていく。その思いは汲めども汲めども尽きない。 この先、何もまだ決めていないし、何が待ち受けているのかも分からない。でも、今はアイドルであることをとにかく心の底から楽しもう!(了) けっこう加筆することになるだろうと思っていたが、予想よりもかなりその分量が増えて、精も根も尽き果ててしまったので、もう小説文は書きたくない。 ただし、もしかすれば、また書きたくなるかもしれないので、スレは当面は維持しようかと思う。 >>299 の出来事が起こった日を9月3日に選んだのは、欅坂46の4thシングルに収録されている長濱ねるの個人PV↓がその日を取り上げているためである。 https://www.youtube.com/watch?v=6vRn72IjRfE >9月3日の夜空におとめ座は見えますか? 9月4日が長濱の誕生日なので、自分の占星月の星座であるおとめ座がその前日の9月3日に見えるのか?と語りかけている。 占星月とその星座が見えるかどうかは、>>12 の「エル・エステ」の中でも説明しているが、少し補足説明をしておこう。 黄道十二宮の決められたその当時なら、9月3日にはおとめ座は日中にだけ出現するので、太陽の強烈な光で見ることはできない。 ところが、歳差が起きていることによって、現在なら見ることができる。 歳差とは太陽による潮汐力によって地球の自転軸の方向がずれることである。 歳差を定量的に求めるのはかなり難しいが、定性的にどういう具合にずれていくのかというだけなら、比較的簡単である。 力のモーメントの向きを外積の向きに定めるということを知っていれば、高校生でも理解できるので、ざっと説明しておこう、 地球とともに公転する座標系でみれば、太陽からの重力と回転による遠心力とが地球の中心ではつり合っている。 ところが、太陽に近い側では重力のほうが、太陽に遠い側では遠心力のほうが大きくなっているため潮汐力が働く。 公転面に対して地軸が垂直なら、その潮汐力は地球を両側から引っ張る力にしかならないが、地軸が傾いているため、偶力モーメントが働くこととなる。 地球を回転させる力の外積の向き(もちろん、地軸の向きである)とその偶力モーメントの外積の向きとを合成させたものが変化後の地軸の向きとなり、 その微小変化をつなぎ合わせていけば、【時計回り】に小さな円を描いて地軸は回転することとなる。 地軸が回転している状態で考えると混乱しやすいので、地軸が回転していない、つまり、地軸の向きが常に一定の方向を向いているとして考えてやる。 そのとき、相対的に天球が【反時計回り】に回転するということになる。 つまり、地球の公転の向きに黄道十二宮の星座はずれていくこととなり、歳月が後のほうにずれていくこととなる。 天の北極から見たとき、地球の公転や自転の向きは実際の向きである【反時計回り】で、 地軸が回転している(その向きは【時計回り】)効果は、それと逆向きに天球が回転している(その向きは【反時計回り】)としていて、錯綜しているので注意しておきたい。 面倒な定量的な計算から歳差の周期(地軸が1回転する周期)は26000年ほどになることは知られているので、 それが天下り的に与えられているとして、西暦2017年における黄道十二宮の星座のずれの値を求めてやる。 占星月が決められたのが紀元前150年ほどなので、 西暦2017年においては、 (2017+150)÷26000×365日≒30日 ということになり、 そして、それは地球の公転の向きと同じ向きにずれるので、1か月ほど後にずれることになる。 ざっくりといえば、占星術でおとめ座に対応する8月23日から9月22日までの期間は現在ではしし座ということになり、 その期間ではおとめ座はしし座から地球が好転する方向へ30°(1か月間に相当)だけずれているということとなる。 そうすると、夕方の短い時間になら、9月3日におとめ座を観ることはできるというわけである。 左図は紀元前150年のときの黄道十二宮の状態で、右図は現在の黄道十二宮の状態である。 中心の赤いのが太陽である。 下の円が地球で、上半分の白い部分で昼に、下半分の黒い部分で夜となっている。 Vはおとめ座Virgoで、Lはしし座Leoである。 右図で、下半分の黒い部分の欠けたところで夕方となっていて、そのときおとめ座は見える。 >>334 の次の一文は、幾度か考え直した。 >“ねる”の体臭と香水と柔軟剤の混じった甘美な匂いが漂う。 最初は体臭の匂いとしていたのだが、生々しくなると思って、前に投稿したものは柔軟剤に変えた。 味気なく物足りないと思って、今回、さらに上のように変えた。 実は、「欅って、書けない?」で高本彩佳が言ったことを実は参照とした。 字句は不正確だが、高本は次のように語っていた。 「私は柔軟剤の匂いが好きなんです。特に、その人の匂いと香水の匂いと柔軟剤の匂いが混じり合った匂いが好きなんです」 で、そのミックスされた匂いが最高なのが守屋茜で、香水の匂いだけがちょっときついのが加藤志保だと言っていた。 「ブレーンワールド」の中で、高本彩佳と東村芽衣をおバカあつかいにして悪かったが、 あくまで学校のお勉強はできないというだけで、けっして二人とも頭は悪くない。 東村に関してはぱっと思いだせないが、高本に関しては初期のブログは読んでいて面白かった。 頭の中から泡のように浮かんでき考えに向き合って、未消化のままだが誠実に自分の深層心理を表現していた。 整理して書けたらもっとよかったんだが、深層心理を引き出すというのは難しい作業で、訥々と語るように書くというだけでも馬鹿にはけっしてできない。 自分を見つめ直す時間がコロナ禍のおかげでできたといったようなことを最近もブログに書いていたが、うまくまとめなくていいからもう少し掘り下げて書いてほしいとこだったな。 日記のように自分のためだけに書こうとしてもそんなにやる気は起きない。 けど、誰かに見せる、とりわけ不特定多数の者に見せるということであれば、自然と絞り出そうとする。 後で見返したとき、自分がこんなことまで考えていたんだなあと思い出すことができれば、感受性が深まっていく。 人というのは慣れによって感受性が弱くなってしまうが、書いていくことを続ければ、感じる能力が深まっていく。 感じたから書くのだけど、また書くことで感受性が磨かれていく。 絢音の今日のブログで次のような記述があった。 >最近、銀河系には少なくとも36の知的文明が存在するはずだ、という研究報告がありましたが、現在の技術では信号を検知することも不可能とのこと。 >私が生きている間に交信することは出来ないようなので、星が綺麗に見える場所に行きたいな、と思う今日この頃です。 概算で知的文明間の距離を計算してみる。 天の川銀河の半径を5万光年、厚みを千光年とする。 その体積は、 50000^2×3.14×1000=7.85×10^12 36の知的文明が存在するのなら、その平均の占有体積は、 7.85×10^12÷36=2.18×10^11 よって、知的文明が存在する星と星と平均距離は、 (2.18×10^11)^1/3≒6000光年 地球から最短の知的文明の星までの距離もその平均程度だとすれば、往復に要する時間は6000×2=1万2千年となるので、 絢音が生きている間には交信できないというのは正しい。 リライトする前の「ブレーンワールド」が終了したのが2017年の春ごろだったので、2017年の秋のことはいい加減なことが書けた。 だからKAGRAは稼働しているし、欅坂かけやき坂かの長濱ねるの去就もまだ決定していないという設定にできた。 今回リライトするにあたってその修正は苦肉の策だった。 KAGRAの代わりにtama300を重力波検出装置として登場させたり、ねるの世界と“ねる”の世界とに2か月の時差を設けたりした。 なお、先週の「サイエンスZERO」予告にtama300の様子が一瞬だけ映っていたので、明日の放送でおそらく紹介される。 長濱ねるのサイリウムの色は紫×紫であることは2017年当時は誰でも知っていると思ったので前はあえて書かなかったが、今回は>>339 で明記した。 というのも、長濱が欅坂を卒業した後に、サイリウムカラーを紫×紫に丹生が変更していたため、混乱が生じると思ったからだ。 日向坂(けやき坂)で長濱のサイリウムカラーを受け継ぐということは、大袈裟に言えば、オリックスでイチロウの永久欠番の51を受け継ぐのと同じようなものだが、 長濱ほどではないにしても丹生もかなりの人気メンだし、先輩からも同期からも後輩からも好かれるという丹生だから、長濱もきっと喜んでいただろうと思う。 ところが、2020年11月2日の丹生のブログでサイリウムカラーの変更の告知があった。 >以前は紫×紫だったのですが、今年に入ってくらいからずーっと悩んでおりまして、 (中略) >これから丹生のサイリウムカラーはオレンジ×オレンジとなります 長濱ももしかすれば残念がっているかもしれないが、日向坂のライブに長濱が登場する可能性が出てきたようにも思える。 もちろんメンバーとしての復帰はほぼ100%ないと思うが、ゲストとしてステージに上がる可能性はありな気もする。 柿崎や井口も一緒に上がってくれればより嬉しいが、さすがにそれは無理かな? ソロ曲に加え、一期生と共に「ひらがなけやき」を、日向坂メンバー全員と共に「誰よりも高く跳べ」を歌ってくれれば言うことはない。 ソロ曲のとき、会場が紫一色に染まったら、丹生のサイリウムカラーの変更が生きてくることになる。 「丹生ちゃんはサイコパスか?」というスレが最近まであったので、それについて考えてみる。 サイコパスというと悪いイメージだけを持っている人も多いと思う。 6年前だったと思うが、NHK Eテレの「白熱教室」で常識とは少し違った見方をしていた。 サイコパス特性が強い者の率が多い職業の第1位が企業の最高責任者で、第2位が弁護士だった。 全ては覚えていないが、ベストテンの殆どが、聖職者・外科医・救急隊といった社会的にステータスの高い職業だった。 そして、サイコパスの特性は凶悪犯よりも社会的に成功した者のほうにより多くみられるということも言っていた。 また歴史的な偉人の中にもそこそこにはサイコパス特性があるという。 イエス・キリストもサイコパス特性がある人物とされていた。 ただし、その特性があまりにも強すぎると、ヒットラーとかヘンリー8世のような残虐者となってしまうようだ。 【同情心の欠落や自己中心的な傾向】といった邪悪なファクターがサイコパス特性にはある。 暴力や精神的虐待といったトラウマが未成年期に根付くと、それがトリガーとなって、そういう邪悪なファクターが表面に出る。 ただし、その性質は現れるとは限らない。 エピジェネティクスに譬えてそういうことを説明していた。 エピジェネティクスとは、ざっくり言えば、遺伝子のオン・オフを環境が行っているというものである。 たとえば、がん遺伝子の多寡は人によるが、がん遺伝子を多く持っている人でも、 煙草はいっさい吸わない、酒はほどほどにするという具合に節制すれば、がんになるとは限らない。 それと同じようにサイコパス特性が強くても、ちゃんとした育てられ方をされていれば、残虐者にはならない。 否、それどころか社会的に有用な人間となりえる。 というのも、【冷静さや集中力や説得力や大胆さやストレス耐性】といった有益なファクターもサイコパス特性にはあるからだ。 反社会的なことと結びつかなければ、サイコパス特性は社会で成功するためには不可欠なものであるようだ。 社会的に成功するためには、特定の職業に対する能力だけでなくその能力を最大限に活用できる人格が必要であるというのは言うまでもない。 カリスマ性、プレゼン力、コミュ力、戦略好きといった社会で成功するのに必要な人格とサイコパスとの間には強い相関関係があるという。 馬鹿もくせに自信満々という奴を学生時代に誰でもよく目にしていたんじゃないか? 実力は全くないのにコミュ力抜群のシューカツ番長とか、中身ゼロだがプレゼンで聴衆を惹きつける湘南SFC野郎とか。 久しぶりに会ってみると、そこそこには成功している。 たとえ、その職業に必要な能力を持ち合わせていないとしても、サイコパス特性があれば、ゴリ押しとハッタリで成り上がれるからだと思う。 さらに、その職業に高い能力があり、サイコパス特性もあれば、社会的に成功する確率はきわめて大きくなるはずだ。 さて、丹生についてである。 金曜日の夜のラジオはすべて聞いたが、もう数年間はラジオパーソナリティをやっているかのような見事な喋りっぷりだ。 喋ったことを文字起こしして、それを読んだらおそらくつまらないだろうが、音声でなら惹きつけられ、次が待ち遠しかった。 また、一人でのテレビの外仕事も丹生はすべてうまくこなしている。 >>353 に挙げた【冷静さや集中力や説得力や大胆さやストレス耐性】というサイコパス特性があるからだと思う。 そして、金持ちの上品な家で育ったというのとは少し違うだろうが、温かい家庭で大切に育てられたというのは間違いなさそうだ。 そのため、【同情心の欠落や自己中心的な傾向】といった悪いファクターはまったく顕在化していない。 結論を言う。 丹生にはサイコパス特性があると個人的には思っているが、いい面だけが出ている。 うまく使いこなせば、人前に出るアイドルにはサイコパス特性は大きな武器である。 何十年も専門としている研究者くらいしか超紐理論(超弦理論)は理解できないというから、当然その関連の理工書は読んでいない。 知識を仕入れたのはいくつかの啓蒙書からである。 全て図書館で借りて読んだので、手元にはなく、思い出す限り挙げておく。 (1)エレガントな宇宙 ブライアン・グリーン (2)隠れていた宇宙(上・下巻) ブライアン・グリーン (3)奇想、宇宙をゆく マーカス・チャウン (4)数学的な宇宙 テグマーク (5)宇宙は何でできているのか 村山斉 (6)宇宙はどのような時空でできているのか 群和範 (7)不自然な宇宙 須藤靖 マルチバースや並行宇宙に関しては特に(4)が詳しくて面白いが、相応の理解や知識がないと読みこなすのは厳しいと思う。 また、テグマーク独自の科学哲学も理解するのにかなり骨が折れる。 この類の本はだいたい1時間あれば読破できるが、(4)だけは読み終えるのに3時間以上はかかった。 (7)が、(4)の内容をコンパクトにまとめていて読みやすいので、興味ある人には勧めたい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる