ところで、デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という言葉で何を言いたかったのでしょう?
これを理解するには、デカルトの「方法的懐疑」を知っておく必要があります。

「方法的懐疑」とは、少しでも疑いうるものはすべて偽りとみなしたうえで,まったく疑いえない絶対に確実なものが残らないかどうかを探る態度です。
デカルトは、五感に訴えるあらゆる事物、自然現象、自分を含めた人間の心も肉体も、
全ては偽物で、この世界に真の実在などはないとした上で、最後に何が残るかを考えました。
そのとき、ハタと気づいたのは、「万物を疑っている自分と何か?」ということでした。

「疑っている自分」までもが偽物であるとするならば、そもそも「疑い」自体が否定されることになってしまいます。
そこでデカルトが行き着いた結論が、「あらゆるものを疑ってかかった自分(自我)というものは確実に存在している」ということでした。

これが、「我思う(考える)、ゆえに我あり」の意味するところです。