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北京大清華戦国秦秋月康秀浬据陽拓及安東大便利 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/06/04(日) 23:58:43.32ID:2jBsf+TQ
当晚国家邮政局就此表态称已与当事双方高层进行沟通强调要讲政治
顾大局寻求解决问题的最大公约数重要削除切实维护市场秩序和消费者合法权益
决不能因企业间的纠纷产生严重社会影响和负面效应元人環境保全关于物流数据的争夺
让顺丰与菜鸟的决裂从台下搬到台面互联网时代大数据的搜集存储和利用和现代社会的
仓储物流行业紧密相连遼東京大无明论是顺丰的主业物流还是阿里巴巴的主业网购尽管
目前用户信息的产生延京都大会只是额外收获但大数据的发掘和利用存在着巨大想象空间
还有超乎物流网购行业本身的潜在商业价值这也是这么一场重量级的掰手腕会上演的根本原因
对整个行业来说神仙打架或是内耗但对数据源头的用户而言却是体验变得更不方便
——因为无论是菜鸟先飞还是顺丰称王对公众并无本质差别可公众最不想看到的
是自身利益成为商战的牺牲品菜鸟顺丰之争自有其逻辑但公众未必看得懂这些
他们最关心的还是更贴近自身权益的问题比如自己网购后的物流选择权和物流信息的可查询
0101名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:32:00.64ID:XHellqth
 丹三郎はもう走りだしていた。
 御成門《おなりもん》を出ると馬場があり、そのさきは武家屋敷がつづいている。真向か
ら吹きつける風のなかを、丹三郎はけんめいに走った。けれども駕籠は見えなかった。その
道はまっすぐ東へ通じているので、ゆく駕籠があれば見える筈である。切通しかもしれない
、と丹三郎は思った。それとも芝の通りか、彼は立停った。すると、うしろで叫ぶ声がした
。こちらです、と叫んでいた。
「塩沢さまこちらです」
 振返って見ると、弥吉が切通しのほうを指さしていた。丹三郎は駆け戻った。
「いま愛宕下《あたごした》のほうへ曲るのをみました」と弥吉が云った。
「付いている人数は」
「二人いたようです」
 丹三郎はけんめいに走った。
 まばらに往来する人たちが、走ってゆく丹三郎を見ると、慌てて脇へよけたり、不安そう
な眼で見送ったりした。突風の来るたびに、道の上で埃《ほこり》がまいあがった。――青
松寺の前を少しいったところで、丹三郎は駕籠に追いついた。駕籠のうしろに、黒い羽折で
、頭巾をかぶった侍が一人、前のほうに、まだ少年らしい侍が一人付いていた。
 左は寺、すぐ向うに愛宕山が見える。右側は武家屋敷で、仲間《ちゅうげん》たちが門前
を掃いているのが見えた。丹三郎は駕籠を追いぬいて、絶叫しながら前へ立ちふさがった。

「駕籠を停めろ」
 そして「あっ」と眼をみはった。相手もあっといった。駕籠は停った。
「宮本ではないか」と丹三郎が云った。
 新八はさっと蒼くなった、大きく眼をみはり口をあいたが、声は出なかった。
 丹三郎は向うを見た。駕籠のうしろにいた侍が、こっちへ進んで来た。それは柿崎六郎兵
衛であった。
 丹三郎は新八に云った、「どうしたんだ、宇乃さんをどうするんだ、これはどういうわけ
だ」
「そこもとはなんだ」と云いながら、六郎兵衛が近よった。
 丹三郎は相手の眼を見て危険を感じた。頭巾のあいだにあるその眼は、ぶきみな、殺気に
似た光をおびていた。
「宇乃さん」と丹三郎は叫んだ、駕籠の中で、はいと答える声がした、「貴女は騙された、
駕籠から出て下さい」
「駕籠をやれ」と六郎兵衛が云った、「小僧、邪魔をすると危ないぞ」
「宮本、この人は誰だ」
「おれは畑姉弟を救うのだ」と六郎兵衛が云った、「この姉弟の身が覘《ねら》われている
から、安全な場所へ匿まってやるんだ」
「貴方は誰です」
「なのる必要はない」と六郎兵衛は云った、「早く駕籠をやれ」
「そうはさせぬぞ」
 丹三郎はとびさがって刀を抜いた。新八はがたがたとふるえていた。
 風がさっと埃を吹きつけた。丹三郎は片側が武家屋敷で、門前に仲間《ちゅうげん》のい
るのを見た。門前を掃いていた二人の仲間は、なに事かというように、こちらを眺めていた
。弥吉も五六間はなれた処に立っていた。六郎兵衛は刀の柄へ手をかけ、「新八、駕籠をや
らぬか」と叫びながら、丹三郎のほうへ近よって来た。
 丹三郎は刀を青眼《せいがん》に構えたまま、喉《のど》いっぱいの声で絶叫した、「お
願いです、助勢して下さい、お願いします」
 まばらな往来の人たちが立停り、向うで見ていた二人の仲間のうち、一人が屋敷の門の中
へとびこんでいった。眼の隅でそれを認めながら、丹三郎はなお叫びつづけた。
「私は伊達陸奥守の家来です、どうか助勢して下さい、これはかどわかしです」
「黙れ小僧」六郎兵衛が詰めよった。
0102名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:32:31.92ID:XHellqth
 丹三郎は脇へまわりながら叫びつづけた。向うで弥吉も同じことを喚きたてた。
 駕籠は走りだした。丹三郎は六郎兵衛を避けながら、絶叫しつつ駕籠の先へ先へとぬけて
いった。だが、六郎兵衛はすぐに丹三郎を追いつめた。そこは愛宕山の下で、左に男坂の高
い石段が見える。丹三郎は溝《みぞ》に架かった一間ばかりの石橋をとび、境内にはいりな
がら、「弥吉どの」と叫んだ。
「こっちは大丈夫だ、駕籠を追ってくれ」
 弥吉の返辞が聞え、六郎兵衛が踏みこんで来た。
 丹三郎は頭がかっとなった。踏み込んで来る六郎兵衛の体が、おそろしく巨《おお》きく
、しかも圧倒的にみえた。斬られる、と丹三郎は思った。
 六郎兵衛は彼を睨《にら》んだまま、ぐい、ぐいと近よりつつ、間合《まあ》い二間ほど
になると、刀の柄に手をかけた。丹三郎は動けなかった。おれは斬られる、ともういちど思
った。
 だが、そのとき、五人の侍が、こっちへ駆けつけて来た。さっきの仲間が知らせて、そこ
の武家屋敷から、助勢に来てくれたのであろう。
「伊達家の方はどちらだ」とかれらの一人が呼びかけた。
「私です」と丹三郎が云った、「大事な預け人《びと》をかどわかされたのです。向うへゆ
く駕籠がそれです、どうか御助勢を願います」
「心得た」と云って、五人のうち二人は駕籠のあとを追い、三人はこっちへ来た。かれらは
叫んだ。
「われわれは松平|隠岐守《おきのかみ》の家臣だ、助勢するぞ」
 六郎兵衛は向き直っていた。彼は刀の柄へかけた手を放し、冷やかに三人を見た。その冷
たい眼光と、おちついた隙のない身構えを見て、松平家の三人は、さっと左右にひらいた。

 六郎兵衛は事が失敗したのを認めた。
 彼は松平家の三人を、一人ずつ順に眺め、それから丹三郎を見た。
「小僧――」と六郎兵衛は云った、「うまくやったな」
 丹三郎はまだ刀を青眼につけていた。
 六郎兵衛は頭巾のぐあいを直し、両手をふところに入れて、ゆっくりと通りの方へ歩きだ
した。ゆっくりと、一歩、一歩、ためすような足どりで、ふところ手をしたまま。丹三郎も
松平家の人たちも、じっと息をつめて、それを見送るばかりだった。
 六郎兵衛が通りへ出たとき、松平家の他の二人と、弥吉とで、宇乃と虎之助を伴れ戻して
来た。弥吉が虎之助を抱いていた。六郎兵衛はそれには眼もくれずに、薬師小路へと曲って
いった。
 丹三郎は刀をおさめ、松平家の人たちに礼を述べると、宇乃のほうへ走っていった。
「宇乃さん、けがはないか」
「はい」と宇乃は彼を見あげた、「弟を風に当てたのが心配です、まだ発疹しきらないもの
ですから」
「いそいで帰りましょう」
「宮本さまは、わたくしをどうしようとなすったのでしょうか」
「わかりません、しかしやがてわかるでしょう」
 丹三郎はもういちど、松平家の人たちに礼を述べた。そして四人は、風のなかを、良源院
へと帰った。

[#3字下げ]断章(四)[#「断章(四)」は中見出し]

 ――仙台の奥山[#1段階小さな文字](大学)[#小さな文字終わり]どのから、また
密訴の書面がまいりました。
「二度めだな、なんといって来た」
 ――茂庭[#1段階小さな文字](周防)[#小さな文字終わり]どのの弾劾です。
「なんと申しておる」
 ――綱宗さまの不行跡は茂庭どのがすすめたものである、小石川の堀普請がはかどらず、
多額の失費を重ねて藩の財政を窮迫せしめ、なお臣下一統を加役金にて苦しめながら、いつ
普請を終るとみえぬのも、総奉行としての茂庭どのの責任である。
「初めて具体的なことを挙げて来たな」
0103名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:33:00.83ID:XHellqth
 ――ほかにも三カ条ありますが、重要ではございません。
「要求はなんだ」
 ――辞職を求めております。
「辞職だと」
 ――茂庭どののような、悪心ある人とともに、御用を勤めることはできない、茂庭どのを
罰し、国の仕置をぜんぶ自分に任せてくれるならいいが、さもなければ辞職するほかはない
、と書いてあります。
「岩沼[#1段階小さな文字](田村右京)[#小さな文字終わり]へも出したようか」
 ――同文の訴状をさしあげたとあります。
「では相談に来るだろう」
 ――岩沼さまがですか。
「気が弱いからな、とうてい握りつぶしにはできまい、きっと相談に来るだろう」
 ――どうあそばします。
「隼人ならどうする」
 ――茂庭どのをしりぞけるには、もっけの機会と存じます。
「浅慮だな、周防は堀普請の総奉行だぞ、幕府の公用を勤めている者を、そうやすやす動か
せると思うか」
 ――これはあやまりました。
「たとえ動かすことができるにしても、このままでは動かしがいがない、もっと大学を怒ら
せるのだ」
 ――はあ。
「この密訴も握りつぶす、岩沼がまいったらきめつけてくれよう、後見の任にある身で、公
私のけじめもつかぬか、大学の訴状など一顧の要もないとな」
 ――奥山どのは辞職なさらぬでしょうか。
「するものか、彼は周防を逐って国老首席になろうと、のぼせあがっている、辞職したいと
申すのが本心なら、こんな密訴をよこすまえに辞職している筈だ」
 ――すれば、怒ること必定でございますな。
「他の三カ条とはなんだ」
 ――殿の御好意を願っております。
「泣きごとか」
 ――万治元年、殿に御加増の案が起こったおり、茂庭どのは三千石と申したが、自分は七
千石御加増を主張し、同じ十二月の御加増には自分の主張どおり決定した、ひとえに頼む御
方と信じたからであって、このたびの件については、格別の御好意を得たいと思う、こうい
う意味のことをしたためてございます。
「もうよい、ばかなことを申すやつだ」
 ――他の二カ条も申上げましょうか。
「もうよい、その訴状はしまっておけ」
 ――かしこまりました。
「周防から知らせはないか」
 ――なにもございません。
「将軍家へ、亀千代どの家督の礼として、献上品の相談がある筈だ」
 ――茂庭どのからはまだなんの知らせもございません。
「それだけか」
 ――比野仲右衛門がまいっております。
「会おう」
 ――お召しによって伺候つかまつりました、私、比野仲右衛門でございます。
「隼人はさがっておれ」
 ――はあ。
「人ばらいだぞ」
 ――かしこまりました。
「仲右衛門、寄れ」
 ――御免。
0104名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/01/07(火) 08:33:30.84ID:XHellqth
「そのほうさきごろ、亀千代どの抱守《だきもり》の役を命ぜられたであろう」
 ――御意のとおり、大松沢甚左衛門、橋本善右衛門、両名とともに仰せつけられました。

「大役《たいやく》ということを知っておるか」
 ――存じております。
「いや知ってはおるまい、知っておる筈はないぞ」
 ――はあ。
「橋本と大松沢のなかに、抱守としてそのほうを加えたのはおれだ、それは、そのほうのつ
らだましいを見込んだからだ」
 ――私は能のない人間でございます。
「おれが欲しいのは、不退転の忠志だ」
 ――うけたまわりましょう。
「亀千代どののために死ぬことができるか」
 ――御念には及びません。
「よく聞け、亀千代どのは安泰ではない、いつどんな事が亀千代どのの身に起こるか、わか
らないのだ」
 ――思いもよらぬことをうかがいます。
「そのほうは知る筈がないと云った」
 ――仔細《しさい》をお聞かせ下さい。
「品川の下屋敷には、大町備前が家老として詰めておる、おれは後見役であって、下屋敷の
ことにも責任があるが、備前からの報告によると、綱宗どのは隠居が不服で、いまいちど陸
奥守として世に出たい、と望んでおられるとのことだ」
 ――御本心からですか。
「いつか船岡[#1段階小さな文字](原田甲斐)[#小さな文字終わり]が伺候したとき
などは、いかにもしていまいちど世に出る、自分を隠居させたのは陰謀だと、佩刀を抜いて
暴れたそうだ」
 ――御乱酔のことはうかがっています。
「綱宗どのに同情し、心をよせる者も少なくない、誤った同情から、どんなことを企む者が
あるかも計りがたい、事実、すでに不審なことが二三あったのだ」
 ――私には信じかねます。
「信じろとは云わぬ、信ずる必要もない、そのほうは一身を棄てる覚悟で、抱守の役をはた
してくれればよいのだ」
 ――その覚悟はできています。
「それでよい、呼んだのはその覚悟を聞くためだった、おれの眼に狂いはなかった、さがる
がいい」
 ――ひと言うかがいます。
「なんだ」
 ――綱宗さまに心をよせる者があり、綱宗さまを世に返そうと計っているのは、事実でご
ざいますか。
「おまえは信じなくともよい」
 ――では、亀千代ぎみの御身辺に、なにごとかすでにあった、と仰せられるのも、事実な
のでございますか。
「おれは信じろとは云わぬ、おれがそのほうに頼むのは、そのほうにとって抱守が大役であ
り、他の二人の同役とはべつに、幼君守護の責任をもつということだ」
 ――よくわかりました。
「おれが頼みにしていることを忘れるな」
0105名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/01/07(火) 08:34:56.56ID:XHellqth
 ――御期待にはそむかぬつもりです。
「さがってよい、また会おう」
「隼人か、なんだ」
 ――いまかの者がまいり、宮本新八が江戸にいると申しました。
「新八とは、うん、わかった」
 ――昨日早朝、良源院にあらわれ、お預けの畑姉弟を誘拐しようとしたと申します。
「新八は柿崎の手で匿まわれている筈だ」
 ――さようでございますか。
「柿崎がそう申しておった、新八がおれを敵《かたき》と覘っている、それで自分が押えて
あると申した」
 ――では誘拐を命じたのは、六郎兵衛でございますな。
「成功したか」
 ――いや、塩沢と申す者が来あわせ、いま一歩というところで、奪い返されたと申すこと
です。
「新八はどうした」
 ――そのまま逃亡したそうでございます。
「柿崎め、みそ[#「みそ」に傍点]をつけたな」
 ――畑姉弟を手に入れるつもりだったのでしょうか。
「彼は挫《くじ》けないやつだ、また隙をみてやるに相違ない、そして畑の姉弟もおれの首
を覘っているということだろう」
 ――六郎兵衛を呼びつけましょうか。
「好きなようにさせておけ、いまに彼には申しつける役がある、彼に支払っただけのものは
、必ずおれは取上げてみせる」
 ――九時でございます、厩橋《うまやばし》[#1段階小さな文字](酒井忠清)[#小
さな文字終わり]さまへお越しあそばしますか。
「周防から知らせはないか」
 ――まだまいりません。
「では厩橋へまいろう、周防から来たら、おれに構わず相談をしろと云え」
 ――承知つかまつりました。

[#3字下げ]貝合せ[#「貝合せ」は中見出し]

 その日、――原田家の朝粥《あさがゆ》の会には、いつになく珍らしい客があった。
 国もとから出府して来た、柴田|外記《げき》と古内志摩[#1段階小さな文字](義如
《よしゆき》)[#小さな文字終わり]、そして片倉小十郎である。柴田外記はさきごろ国
老に就任したものであり、古内志摩は、国老の主膳重安の子で、年は三十、評定役を勤めて
いたが、父の主膳が、亡君忠宗の法要のため高野山に使いし、役をはたして国もとへ帰った
ので、いれ替りに出府したものであった。
 片倉小十郎[#1段階小さな文字](景長)[#小さな文字終わり]は、刈田《かった》
郡白石城、一万七千石あまりの館主《たてぬし》で、家格は「一家」に属し、小石川堀普請
の奉行を勤めている。そのほかに老女の鳥羽《とば》、里見十左衛門、伊東七十郎という顔
ぶれであった。
 老女の鳥羽は、浪人|榊田《さかきだ》六郎左衛門の女《むすめ》で、十七歳のとき故忠
宗の夫人の侍女にあがり、いまはこの本邸で、亀千代の守をしている。年は四十になるし、
縹緻《きりょう》もよくはないが、表情の多い眼つきや、やわらかな身ごなしなどで、ふと
濃艶《のうえん》な嬌《なま》めかしさをあらわす若さと、賢さをもっていた。伊東七十郎
は二三日うちに帰国する筈で、話題はそのことから始まったが、七十郎はいつもの饒舌《じ
ょうぜつ》を忘れたかのように、黙って酒ばかり飲んでいた。
 十左衛門はそれが気になるようすで、しきりに七十郎のほうへ眼をやっていた。
 ――すぐ口論を始めるくせに。
 と甲斐はおかしく思った。
0106名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/01/07(火) 08:35:37.43ID:XHellqth
 上座では志摩と小十郎が話していた。陸前にある金山《きんざん》の件である。あらたに
兵部宗勝に加えられた領分の中に、伊達家の金山が含まれている。その鉱山から産する金は
、兵部に属するか伊達本藩に属するか、という話であった。
「それはむずかしい問題だ」と片倉小十郎が云った。
「むずかしい問題です」と志摩が頷いた。
 これは早く帰属をきめておかぬと、やがて諍《あらそ》いのもとになると思う、と志摩が
云った。柴田外記は黙っていた。志摩と小十郎の話がとぎれたとき、十左が辛抱をきらした
ようすで、七十郎に呼びかけた。
「伊東どの、どうかしたか」
「うん」と七十郎が振向いた。
「ひどくふさいでおるようではないか」と十左が云った。「なにか気懸りなことでもできた
のか」
「七十郎は角《つの》を折ったらしい」と甲斐が云った、「このまえ涌谷さまの別宴のとき
にな、そうではないか七十郎」
「別宴のとき、――なんですかそれは」
「云わぬほうがよかろう」と甲斐は微笑した。
 柴田外記はにがい顔をした。金山の帰属をどうすべきかについて、いま片倉と志摩とが重
要な話しをしているのに、甲斐は益もないことを云い始め、どうやら話題をそらそうとする
らしい。たしかに、その話しを避けようとするようすなので、外記はあからさまに、ふきげ
んな顔をした。また、当の七十郎も十左も、甲斐の口ぶりで、甲斐が話しを変えたがってい
る、ということを察した。
「云ってもらいましょう」と七十郎は甲斐を見た、「私が茂庭家でどうしました」
「七十郎が、涌谷さまに会うのだ、と云いはりましてね」と甲斐は鳥羽に云った、「彼は招
かれてはいないんです、松山[#1段階小さな文字](茂庭周防)[#小さな文字終わり]
は御承知のとおりの気性だし、涌谷さまは規矩《きく》を紊《みだ》さない方ですからね」

「それはいつの事ですの」と鳥羽が訊いた。
 そう訊きながら、彼女は情をこめた眼つきで、甲斐をじっと見た。
「涌谷さまが帰国されるので、松山の家で別宴が設けられたときです」
「それでどうなりまして」
「私はとめたのですがね、七十郎はしゃれたことを云いました、じいさん、というのは涌谷
さまのことですが、じいさんは格式や儀礼にはやかましいが、懐柔するぶんにはたやすい人
です、というわけです」
「伊東さまらしいこと」
 鳥羽は微笑し、片手で頬を押えながら、またじっと、甲斐の眼をみつめた。
「たぶんなにか懐柔する策があったんでしょう、大いに自負していたようですが、茂庭家で
はむろん奥へとおしはしません、こちらで、と控えの間へいれられたまま、ついにめどおり
かなわずです」
「原田さまもお人の悪い、どうしておとりなしをしてあげなかったのですか」
「そんなことをすれば、七十郎は怒りますよ」
「お怒りになるんですって」
「怒りますとも」と甲斐は云った、「彼は立派に自負していたんですからね、私がよけいな
口をきいたりすれば、彼の誇りを傷つけることになるでしょう」
「伊東さまもむずかしいことね」
「私はわる酔いをして泊ってしまったので、彼がいつ帰ったか知りませんでしたが、まさし
く彼はその角を折ったと思いますね、そうではないか、七十郎」
「私は自分に角があったとは思いません、したがって、ない角を折ることもできないと思う
んですがね」
0107名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/01/07(火) 08:36:17.61ID:XHellqth
「里見どのの感想はどうですか」と甲斐が云った。
 十左は当惑して、なにかぶつぶつと口ごもった。
「話しの途中だが」と柴田外記が云った。
 つとめて感情を抑えているらしいが、五十二歳の彼の眼や、その声の調子には、隠しよう
もなく怒りがあらわれていた。一座はしんとなった。
「船岡どのは、いまの金山を、どう思われるか」
 甲斐は当惑したように「さて」と云った。
「新たに一ノ関へ加えられた領内に、金の鉱山《やま》がある、それから産する金は、本藩
のものか、一ノ関のものか、船岡どのはどちらが至当と思われるか」
「失礼ですが」と甲斐は穏やかに云った、「この朝粥の会では、政治むきの話しはいっさい
禁物、ということにしてあります」
「わしは聞きたいのだ」と外記は云った、「そのほかにも不審なことがある、一ノ関では藩
の御用船を気仙沼《けせんぬま》にまわし、御蔵米《おくらまい》と称して自分年貢の米を
江戸へ回漕《かいそう》している、これはたしかな事実だが、これらについても、江戸の重
職の意見が聞いておきたいと思う」
「私はまだ評定役にすぎませんので」
「いやそうではあるまい」と外記がするどく云った、「船岡は着座《ちゃくざ》の家柄であ
り、一ノ関のあと押しで、近く国老に任ぜられるそうではないか」
「これは、これは」と甲斐は苦笑した、「どこからそんな噂《うわさ》が出たか知りません
が、私はいまうかがうのが初めて、それは意外でございますな」
「わしは意外とは思わぬ」と外記は云った、「わしだけではない、涌谷でも意外とは思って
おられぬようだ、しかしいまそのことは措こう、わしの問いに答えてもらいたい」
「では申しましょう」と甲斐は頷いて云った、「私は詳しいことは知りませんが、御領内の
金山は、政宗公が豊家から拝領したとき、いかほど金を産するとも、自分に処理して、公儀
に召しあげられることなし、という証判が付いておりました」
「わしはそんなことを訊いてはいない」
「以来、――御領内には」と甲斐はつづけた、「金山本判持という者が置かれ、これが鉱山
を経営して、毎年それぞれ役金を藩におさめております」
「だからどうだというのか」
「もし仮に、本藩で公儀へ、産金のいくばくかを献納するとすれば、その金山は本藩に属す
るでしょう、そうでないとすれば、鉱山は土地に付いたものですから、その土地を領する人
に属するのが当然ではないでしょうか」
「それが、そこもとの、意見なのだな」
 外記は辛うじて喚くのを抑えた。外記が喚くのをがまんしたことは、その顔が赤く怒張し
、唇が見えるほどふるえるのでわかった。
「なるほど」と外記は云った、「それで船岡どのに、一ノ関さまの御贔屓《ごひいき》のか
かっている理由がわかった」
「これはどうも」と甲斐は目礼して云った、「たって意見を述べろとのことで、思いつくま
まを申し述べたのですが、米谷《まいや》どのにはお気にいらぬとみえますな」
「わしは頑固な田舎者だ」と外記が云った、「融通のきく頭も持たぬし、人のきげんをとる
ことも知らぬ、だが、義不義、正邪黒白の判断ぐらいはできる、そのくらいの眼は持ってい
る、ということを覚えていてもらいましょう」
「これは困りました」と甲斐は片倉小十郎に云った、「すっかり米谷どののきげんを損じた
ようです、白石どの、おとりなし下さらぬか」
「わしは帰る」と外記は座を立った。
 小十郎や鳥羽がなだめたが、古内志摩も立ちあがり、「では私もごいっしょに」と帰り支
度をした。甲斐は辛抱づよく詫《わ》びを云い、堀内惣左衛門に二人を送らせた。
 座はすっかりしらけてしまい、それからは話しもはずまず、やがて小十郎が盃を伏せ、給
仕の成瀬久馬に、「食事を」と云うと、老女の鳥羽も、里見十左衛門も食事を求めた。する
と初めて、伊東七十郎が顔をあげ、十左に向かって云った。
「まだ飯は早い、里見さんはまだだめだ」
0108名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/01/07(火) 08:37:01.20ID:XHellqth
「いや、飯をいただこう」
「まあいい、一つまいろう」七十郎は盃をさした、「今日は気がふさいでしょうがなかった
が、船岡の館主がきめつけられるのを見て、きれいに溜飲《りゅういん》がさがった」
「伊東さま」と鳥羽が向うから睨《にら》んだ。
「なんですか」
「少し口をお慎しみあそばせ」
「貴女《あなた》にはその眼を慎しんでもらいたいですね、貴女のそのにらみかたは不謹慎
だ、柴田老は気がつかなかったらしいが、さっきから私はひやひやしていたんですぜ」
「あら、なんでひやひやなすったんですか」
「そらその眼だ」と七十郎は云った、「その眼でね、貴女は休みなしに、誰かの顔を眺めて
いたんだ」
「まあ、伊東さまったら」
「恍惚《うっとり》と、溶けるような眼つきでね、そうでしょう原田さん」
 鳥羽は平然と箸《はし》を取った。十左がさも不快そうに云った、「ばかなことを云う男
だ」
 七十郎は笑った、「里見老などにはばかなことだろうさ、しかし米谷の館主が気づいたら
、面白かったんだがな」
「教えてやればよかった」と甲斐が云った、「そうすれば誰がきめつけられたか、わかった
だろうにな」
「まあいいですよ」
 七十郎はにやりとし、十左に向かって「盃を返してくれ」とうながした。そして、塩沢丹
三郎に酌をさせながら、十左に云った。
「とにかく、これで原田さんも万全ではなくなったわけさ、なにしろ温和で謙遜《けんそん
》で、情誼《じょうぎ》に篤《あつ》くて、かつていちども人に憎まれたり貶《そし》られ
たりしたこともなし、そういう隙をみせたこともない人だったからな」
 七十郎は自分で「うん」と頷き、ぐっと盃を呷《あお》ってつづけた。
「ところでここに敵があらわれた、しかも面と向かって、真正面から挑戦の矢を射かけた、
発止とね、万全の座が崩れた、これで原田さんも人間だったということがわかったわけさ、
面白くなるぞ」
「船岡どのは」と十左が、七十郎には構わず甲斐に向かって云った、「さきほど米谷どのに
御意見を述べられましたが、あれは御本心でございますか」
「そら、二ノ矢だ」と七十郎が云った。
「そこもとは黙ってくれ」と十左が云った。
「その話しはよそう」と甲斐が云った、「朝粥の会に政治の話しは困る、米谷どのにぜひと
云われて、やむを得ず当座の思案を述べてしまったが、私はその職でもないし、むずかしい
ことはわからない」
「しかし金山の帰属ということが問題になれば、御評定役としてその衝に当らなければなり
ますまい」
「それは御一門、御一家の意見による」
「御評定役の係りではないと仰しゃるのですか」
「もういちど云うが」と甲斐が穏やかに云った、「そういう重い問題については、御一門、
御一家の意見がさきで、国老がその判定をするか、評定役の当番になるかは、その意見によ
ってきまるのでしょう」
「では御評定役がその衝に当るとして、お考えのほどをうかがいましょう」
「その話しはよそう」
「うかがえませんか」
「云えないでしょうね」と甲斐は微笑した、「まだ問題が起こってもいないのに、起こった
らどうするかと云われても返辞のしようはない、この話しはよしましょう」
 小十郎は黙って、食事をつづけていた。十左は顔を硬ばらせ、不満そうな、そして訝《い
ぶか》るような眼で、甲斐の横顔をみつめた。原田どのはこんな人ではなかった、と十左は
思ったようであった。
0109名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:37:45.17ID:XHellqth
 七十郎はそらとぼけた眼つきで、甲斐と十左を眺め、また、そ知らぬ態で食事をたしてい
る小十郎や、箸をはこびながら、気遣わしそうに、ちらちらと、甲斐のようすをうかがって
いる鳥羽の表情を、ひそかにぬすみ見ていた。
「惜しいところで幕か」と七十郎は呟《つぶや》いた、「もうひと揉《も》み揉んでもらい
たいんだがな、丹三郎、酒だ、原田家の朝粥は、なまぬるいふやけたような会だったが、こ
うなると捨てたものではない、原田さん、ひとつこれからは政治ばなしの禁制を解こうじゃ
ありませんか」
「私も食事にしていただきましょう」と十左が云った。
 それに対して、七十郎がまたなにか云おうとしたが、堀内惣左衛門が来て、甲斐に「鳩古
堂がまいっております」と告げた。甲斐は頷き、待たせておけと云って、盃を伏せた。それ
はこの会の終ったことを示すように、客たちにはみえた。
「どうかお構いなく」と七十郎は云った、「私はまだこれからですから、皆さんはどうかお
構いなくやって下さい、丹三郎、酒をもっと云いつけておいてくれ」
 甲斐は茶を命じた。
 七十郎は腰を据えて飲みだしたが、まもなく片倉小十郎が立ち、鳥羽が立ち、里見十左衛
門も立った。三人が去ってから、甲斐も座を立つと、七十郎がにっと笑いながら云った。
「みごとでしたよ、原田さん」
 甲斐は振向いて、静かな眼で七十郎を見た。七十郎はもういちど笑った。
「私は貴方が好きだ」
「あれだけ私をへこませてか」と甲斐が云った。
 七十郎は肩をすくめた、「冗談でしょう、貴方をへこませるかどうか、貴方の詩《うた》
をひきたてるために、私がへたな琴を弾いたことはわかっている筈です」
「わからないね、いっこうにわからない」
「私を舐めてはいけません」と七十郎は云った、「私は少なくとも耳が聞えるし眼も見える
し、わりに正確な勘も持っていますからね」
「それは知らなかったな」甲斐がゆっくりと云った、「覚えておこう」
「いつも云うが、貴方にはかなわないところがある、原田さんには負けます、しかし私だっ
て伊東七十郎ですからね、ほかのつんぼやめくら共と同じに考えないで下さい」
 甲斐は「覚えておこう」と云った。
 甲斐が居間へはいると惣左衛門が鳩古堂の箱を持って来て渡した。
「米谷さまのお言葉にはおどろきました」と惣左衛門が云った。甲斐は「うん」と頷きなが
ら、箱をあけて、斑入《ふい》りの軸に、虎毛の穂の付いた筆を取った。
「あの噂は私なども初耳ですが、どこから出たものでしょうか」
「噂とは、――」
「一ノ関さまに推されて、国老になられるということです」
 甲斐は筆の軸を静かに抜き、その軸の中から、小さく巻いた薄葉《うすよう》紙を取出す
と、注意ぶかく机の上でひろげながら、当然のことのように云った。
「むろん、涌谷さまだ」
 惣左衛門は腑《ふ》におちない顔をした。甲斐は密書を読み、それをすぐ、火桶《ひおけ
》の火にくべながら、ふと太息《といき》をついた。
「米谷どのは上府するまえに、涌谷へ寄られたのだろう、そのとき涌谷さまが話されたのだ
と思う」
「そう致しますと」
「種子《たね》を蒔《ま》かれたらしいな」と甲斐は云った。
 惣左衛門はようやくわかったとみえ、いたましそうに主人のうしろ姿を見た。甲斐は机に
肱《ひじ》で凭《もた》れた。
「いよいよ、御苦労が始まるのですか」と惣左衛門が云った。
「なに、さしたることはない、さしたることはないだろう、あまり気を病まぬがいい」
「私は、お側に仕えるのが、辛うございます」と惣左衛門が云った、「隼人をお召しになっ
て、私にお国もと勤めを願えませんでしょうか」
「おまえはそうはしないだろう」
0110名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:38:35.14ID:XHellqth
「私はお側にいるのが耐えられそうもございません」
「おまえにはそうはできない」と甲斐が云った、「たとえおれがそう云っても、おまえは国
もとへは帰らないだろう。また国もとには国もとで、やがて辛いことが起こる、隼人にも苦
労をかけなければならない、惣左衛門は江戸で勤めてくれ、惣左は江戸では欠くことのでき
ない人間だ」
「私は、ただ、――」と惣左衛門は云いかけて、あとは云わずに頭を垂れた。
「湯島へゆく」と甲斐が云った、「供は喜兵衛に舎人、それから久馬だ」
「成瀬でございますか」
「うん、久馬だ」と甲斐が云った、「たぶん泊ることになるだろう、届けておいてくれ」
 惣左衛門は消えるように「は」と答えた。

[#3字下げ]あやめもわかず[#「あやめもわかず」は中見出し]

 湯島の家へゆくと、甲斐は寝間の支度をさせて横になった。
「灯を入れる頃に起きる」と甲斐はおくみ[#「くみ」に傍点]に云った、「雁屋《かりや
》と、いつもの芸人たちをよんでおいてくれ」
「お話しがあります」とおくみ[#「くみ」に傍点]は云った。
 甲斐は「あとだ」と云って眼をつむった。おくみ[#「くみ」に傍点]は枕もとに坐り、
低い声で囁《ささや》いた。
「御老中の酒井さまがいらっしゃいました」
 甲斐は眼をあいた、「――酒井さまが来たって、ここへか」
 おくみ[#「くみ」に傍点]は頷いた。いつだ、と甲斐が訊いた。昨日です、とおくみ[
#「くみ」に傍点]が云った。甲斐は眼をつむった。
「話してくれ」
「家の前でお駕籠《かご》を停め、気分が悪くなったから休ませてもらいたい、と仰しゃい
ました」
「酒井侯となのってか」
「あとでお供の方が、内密だが、といって知らせて下さいました」
「座敷へあげたのか」
 おくみ[#「くみ」に傍点]は「はい」と答えた。
 甲斐の眉間《みけん》に皺《しわ》がよった。彼は掛けた夜具を、胸から下のほうへと、
静かにずらし、それからまた「話してくれ」と云った。
 おくみ[#「くみ」に傍点]は話した。雅楽頭《うたのかみ》は五人の供をつれていた。
寛永寺へ参詣《さんけい》の戻りだそうで、座敷へとおると白湯《さゆ》を求め、懐中薬を
のんだ。気分が悪いというふうにはみえなかったし、しばらくすると酒が欲しいと云いだし
た。
 おくみ[#「くみ」に傍点]はむっとした。――無礼なことを云う人だ、いかにも身分の
高い人らしいが、そんなことを云うのは、こちらを町家の人間とみくびったのであろう。お
くみ[#「くみ」に傍点]は断わりを云った。
 ――自分には浪人ではあるが武家の主人がいる。いまその主人が留守だから、酒の接待は
できない。
 すると相手は笑って、その浪人の名はなんというぞ、と訊いた。
 ――八十島主計《やそしまかずえ》と申します。
 ――たしかにそうか。
 ――わたくしはそう聞いております。
 ――まあいい、酒を飲もう。
0111名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:39:30.26ID:XHellqth
 相手はまた笑った。そのとき、供の一人がおくみ[#「くみ」に傍点]を脇へ呼び、その
人が老中の酒井侯であり、自分は用人の松平内記であること、御主人のためにも悪くは計ら
わないから、酒の支度をしてくれるようにと云って、金を包んでさし出した。
 おくみ[#「くみ」に傍点]は金を返して、酒肴《しゅこう》の膳《ぜん》をととのえた
。雅楽頭は半|刻《とき》ほどきげんよく飲んだ。
 ――その八十島という男は、よほど果報な生れつきとみえるな。
 雅楽頭はおくみ[#「くみ」に傍点]をそんなふうにからかった。おくみ[#「くみ」に
傍点]は相手にならなかったが、雅楽頭はなおつづけた。
「待て」と甲斐が云った、「そこをどう云ったか、もっと詳しく話してくれ」
「あたしの口からは云いにくうございますわ」
「云いにくいところは略してもいい」
 おくみ[#「くみ」に傍点]は考えて、よく思いだすというふうにつづけた。
 云いにくいというのは、自分が褒められたことらしい。こんなきれいな女と、こんな静か
な隠宅を持っているとは、よほど果報めでたい男であろう。自分もあやかりたいものだ、ぜ
ひ近いうちにその八十島と会いたい、屋敷へ遊びに来るように伝えろ。そちらで屋敷へ来な
ければ、自分の方でまたこの家へ来る。必ずそう申し伝えろ、と云ったそうである。
 甲斐はややしばらく黙っていたが、やがて頷《うなず》いて、「わかった」と云った。
「あなたが伊達家の原田さまと知って、いらっしたのでしょうか」
「どうだかな」
「あたしにはそう思えました」とおくみ[#「くみ」に傍点]は云った、「あなたを原田さ
まと知っていて、なにかわけがあっていらしった、というふうに思えましたわ」
「どうだかな」と甲斐は云った。
「なにか思い当るようなことはないんですか」
「私は酒井侯とはなんのかかわりもない」と甲斐は云った。そのとき、彼の眉間にまた皺が
よった、「むろん、ここへ訪ねて来られるような覚えもないし、おくみ[#「くみ」に傍点
]が心配することは少しもないよ」
「そうでしょうか」
「少し眠らせてくれ」
「でも、こんどいらしったらどうしましょう」
 甲斐は答えなかった。
 おくみ[#「くみ」に傍点]は彼の寝顔を見まもっていたが、やがて、そっと立って出て
いった。
 ――なんの謎《なぞ》だ。
 甲斐は眼をつむったまま思った。
 ――どんな罠《わな》。
 おくみ[#「くみ」に傍点]の直感は当っている。その口ぶりから察すれば、雅楽頭がこ
の家を訪れたのは、原田甲斐の隠宅と知ったうえでのことである。そして、「屋敷へ遊びに
来い」と云い、「来なければ自分がまた来る」と云ったという。
 ――どうするつもりなのか。
 老中でも、めきめき威勢を高めている雅楽頭忠清が、自分のような陪臣に、なぜそんな興
味をもつのか。兵部少輔宗勝と、雅楽頭との関係はわかっている。伊達家において兵部がい
まなにを計画しているかということも、その背後に雅楽頭の支持があることもわかっている
。だが、雅楽頭その人が、どうして甲斐に手を伸ばすのか、という点になると、彼には理解
しがたいのであった。
 甲斐が起こされたとき、もう日は昏《く》れて、部屋には灯がはいっていた。彼は知らぬ
まに眠った。その眠りが彼の気力を恢復《かいふく》させたようである。雅楽頭がこの家へ
あらわれたことも、いまではさして軍荷とは感じられないし、数日来の心労も軽くなったよ
うであった。風呂にはいり、髭《ひげ》を剃《そ》り、着替えをして出てゆくと、その座敷
には燭台《しょくだい》が並び、雁屋信助《かりやしんすけ》も、芸人たちもすでにそろっ
て、酒肴の膳を前に坐っていた。甲斐が盃《さかずき》を取ると、信助が話しだした。
 船岡では気候に変調があり、五月ころのような陽気がつづいたため、麹屋《こうじや》で
はくるみ[#「くるみ」に傍点]味噌を十幾|樽《たる》かだめにしたそうである。だめに
したとは腐らせたのか、と甲斐が訊《き》いた。いや、味噌のことですから腐りはしないで
しょうが、くるみ[#「くるみ」に傍点]が混っているために味が変って、売り物にならな
くなったということです。十幾樽とは大樽だな。もちろんそうでございましょう。それは損
害だな、と甲斐は苦笑した。
「では麹屋はもう作るまい」
0112名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:40:18.80ID:XHellqth
「そうでしょうか」
「彼は初めから気がすすまなかった」
 甲斐は苦笑しながら云った。
 彼がくるみ[#「くるみ」に傍点]味噌を作らせたのは、土地の名産の一つにしたかった
からである。そして麹屋又左衛門に相談した。麹屋は古くから船岡で醸造を営んでいたし、
原田家の金御用をも勤めていた。相談をうけた又左衛門は、くるみ[#「くるみ」に傍点]
を味噌に搗《つ》き混ぜることは、保存がむつかしいし、風味の点で一般的とはいえない。
売れてもさしたる利益はないだろう、と難色をみせた。甲斐は大きな利益を期待したのでは
なくそれを名産として、うまく販路をひろげることができればたとえ利率は少なくとも、将
来一定の年収に加えられるかもしれない、と思ったのであった。
 ――損をしたら原田家が償う、利益があったらこれこれの割で分配しよう。
 甲斐はそういう約束で、ようやく又左衛門を承知させたのであった。それから約一年、雁
屋信助に販売をさせる一方、甲斐も知友にその味をこころみさせてきた。そして、それは嗜
好品《しこうひん》としてはかなり珍重されるが、大量に売れるものではないということが
、しだいにはっきりして来たのであった。
「年貢だけに頼っていては、武家の経済はやってゆけなくなる。なにか他に年収のみちを計
らなければならない、そう考えた手始めにやってみたのだが」甲斐は自嘲《じちょう》する
ように云った、「やはり素人の商法はうまくゆかぬらしいな」
「どうでございますかな」
「――なにを笑う」
「失礼いたしました」雁屋信助は低頭して云った、「あまりまじめに仰しゃるので、つい可
笑《おか》しくなったのです」
「まじめにとは」
「お叱りをうけるかもしれませんが」と信助は云った。「くるみ[#「くるみ」に傍点]味
噌が御経済のために、考案されたかどうか、ほかの者は知らず、この信助だけはよく存じて
おります」
「くるみ[#「くるみ」に傍点]味噌か」と甲斐は苦笑しながら、眼をそむけた、「その話
しはやめにしよう」
 信助は黙って低頭した。
 しょうばいはどうだと、甲斐が訊いた。まずまずというところです。幾らか好転したのか
。もう少し待ってみないとわかりません。じつは唐船《からふね》が相変らず停ったも同様
なので、自分で船を二|艘《そう》もってみました。株を買ったのか。いや、と信助は口を
にごした。
 甲斐は信助を見た。信助はその眼を避けるように、芸人たちに向かって「始めろ」と合図
をした。鳴物《なりもの》が賑《にぎ》やかに始まり、若い男と女太夫の二人が立って、猿
若を踊りだした。甲斐はおくみ[#「くみ」に傍点]に酌をさせながら、なんの屈託もなさ
そうに、ゆっくりと飲んでいた。
 成瀬久馬は甲斐のうしろに坐っていたが、ときどき眼の隅で右のほうを見た。そちらの襖
《ふすま》ぎわに、二人の小間使が控えている。一人はおうら[#「うら」に傍点]、一人
はみやぢ[#「みやぢ」に傍点]という。どちらも十七歳であるが、久馬の視線が動くたび
に、おうら[#「うら」に傍点]の表情にも敏感な変化があらわれた。二人の小間使は、膳
の上の酒肴を、さげたり運んで来たりするため、そこでじっとしているわけではないが、坐
っているときには、久馬とおうら[#「うら」に傍点]とのあいだに、その眼つきや僅かな
表情で、なにかを(互いに)通じあっているようであった。
0113名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:40:59.46ID:XHellqth
 半|刻《とき》ばかりすると、甲斐は盃を置き、そこへ横になって「久馬、足をさすれ」
と云った。だが久馬は答えなかった。鳴物の音もあるし、甲斐の声も低かったが、久馬はお
うら[#「うら」に傍点]に気をとられていて、まったく耳に入らなかったのであった。
 甲斐は振向いて彼を見、もういちど「足をさすれ」と云った。久馬ははっとし、自分をみ
つめている甲斐の眼に気づくと、殴られでもしたように、うしろへしさって手をついた。
「なにをうろたえている」甲斐は静かに云った、「おれの云うことが聞えなかったのか」
 久馬は「は」と平伏した。
 久馬のようすが唯ならぬので、芸人たちは鳴物をやめ、踊り手も踊りをやめた。甲斐はそ
ちらへ手を振り、「なんでもない、続けろ」と云い、穏やかな眼で、久馬をじっと眺めた。
芸人たちはまた芸を始めた。
「久馬」と甲斐が静かに云った、「いつも粗忽《そこつ》なくやって来たのに、今日はどう
した、そんなことでは大事な勤めがはたせまいぞ」
 久馬は平伏したまま息をのんでいた。甲斐の言葉には二重の意味がある、久馬はそう感じ
たようであった。
 おくみ[#「くみ」に傍点]がそばから云った、「もう堪忍してあげて下さいまし、きっ
と疲れておいでなんでしょ、あたしがお揉《も》みしますわ」
「いや大丈夫です」と久馬は顔をあげた、「私は疲れてはおりません、うっかりしていてつ
いお申しつけを聞きはぐったのです、お腰を揉むのですか」
「よし、もういい」と甲斐はもの憂げに云った、「そうむきになるほどのことではない、さ
がって休め」
「私は疲れてはいません」
「さがって休め」と甲斐が云った。
 久馬は甲斐を見た。甲斐は肱《ひじ》を立て、手で頭を支えながら、うっとりと眼をつむ
っていた。
 ――久馬は座をしさりそれから立って出ていった。甲斐はそのままうとうとしているよう
であった。いつものことなので、芸人たちは代る代る芸を演じたり、信助にすすめられて酒
を飲んだりした。
 そして八時ごろになると、甲斐はさりげなく立って、ちょっと信助の顔を見てから、そこ
を去って寝間へはいった。寝間にはさっきのまま夜具がのべてあった。甲斐のあとから来た
おくみ[#「くみ」に傍点]が、「おでかけでございますか」と訊いた。
 甲斐は首を振った、「松山が来るんだ」
「茂庭さまがですか」
「うん、木戸をあけておいてくれ」
 おくみ[#「くみ」に傍点]は出てゆこうとして、どこへ客をとおすのか、と訊いた。
 おまえの寝間がいい、と甲斐が云った。
 おくみ[#「くみ」に傍点]が出てゆくと、甲斐はそのまま夜具の中へ横になった。座敷
では、鳴物や唄の声が、高くなり低くなり、賑やかに続いていたし、ときには信助のうたう
、鄙《ひな》びたお国ぶりも聞えて来た。
 周防《すおう》の来たのは十時すぎであった。おくみ[#「くみ」に傍点]の狭い寝間に
屏風《びょうぶ》をまわし、灯をくらくして、火桶《ひおけ》を中に二人は坐った。
「風邪をひいてしまった」周防は頭巾をとりながら、こう云って袖で口を押えて咳《せき》
をした。周防は顔色が悪く、灯がくらいためか、頬がひどくこけたようにみえた。
「どうしてもこの咳が止まらない、夜もよく眠れないのでまいっている」
「私のほうからいってもよかったのに」
「場所がない」と周防が云った、「小石川の小屋場からはなれられないし、小屋場では会う
場所がなくなった。どんな隅にも眼と耳が配られているようだ」
 甲斐は頷いて云った、「話しを聞こう」
「吉岡[#1段階小さな文字](奥山大学)[#小さな文字終わり]から両後見に密訴があ
った」と周防が云った。
 甲斐はうんと頷いた、「そうらしいな」
「知っているのか」
0114名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:41:42.28ID:XHellqth
「つい先日、耳にはいった」
「内容も知っているのか」
「まず聞こう」
「私の弾劾だ」と周防が云った、「いろいろと無根の罪状を並べたうえ、一日も早く処罰す
るよう、そして国の仕置を自分一人に任せてくれるように、さもなければ辞職すると書いて
あったそうだ」
「二度か、三度目だ」と甲斐が云った。
 周防は充血した眼で、訝《いぶか》しげに甲斐を見た。甲斐はまた云った。
「これまでに幾たびか、そういう訴状を一ノ関の手へ送っているらしい」
「同じ意味のものか」
「そういうことだ」
「私はこんどが初耳だ」と周防は云った、「船岡が聞いていたのなら、どうしてひと言そう
いってくれなかったのだ」
「知らせてどうする」と甲斐は穏やかに云った、「堀普請が故障つづきで、吉岡でもこの点
をつよく追求しているらしいが、工事を完成させるために松山は精根をつくしている、その
うえ密訴のことなど、どうして私に知らせることができるか」
「堀普請とそれとはべつだ、吉岡が私を弾劾しているとすれば、私もそれに対抗する手段を
講じなければならぬではないか」
「なんのために」
「なんのためだって」
 周防の落ち窪《くぼ》んだ頬が、ぴくっとひきつった。彼は袖で口を掩《おお》って咳を
し、息をととのえてから、低い声でするどく云った。
「奥山大学と一ノ関とは特別な関係がある、かつて一ノ関に加増の議が起こったとき、吉岡
ひとり我《が》を張って、加増の高を増した、一ノ関はそれを徳としているし、吉岡はそれ
を手掛りに一ノ関と組もうと計っている、自分一人に国の仕置を任せよというのは、そうす
れば一ノ関の思うままの政治をしようという意味なのだ」
 甲斐の額に皺がよった。横に三筋、くっきりと深く皺をよらせ、片手で静かに、火桶のふ
ちを撫《な》でた。
「一ノ関はまた訴えを利用するだろう」と周防はつづけた、「無根の条目を牽強付会《けん
きょうふかい》して、私の罪状をつくりあげ、私を国老の席から放逐するに相違ない、これ
でも対抗策をたてる必要がないと思うか」
「松山は疲れている」
「私は首席国老に坐っていなければならない、藩家を犯そうとする勢いをくい止めるために
、第一の堤防として、この席を動くことはできないのだ」
「松山は疲れている」と甲斐はまた云った。
 周防は昂奮《こうふん》をしずめるように、袖で口を押えて咳をした。甲斐は静かに眼を
あげた。
「吉岡が一ノ関と組もうとしていることは、あるいは事実かも知れない、しかし、それが本
心でないことは、一ノ関がよく知っている」
「本心でないとは」
「吉岡の本心は、むしろ一ノ関を押えることだと思う」
 周防はまた訝しそうな眼をした。甲斐はゆっくりと云った。
「七月の評定役会議で、遠山|勘解由《かげゆ》がひとり異をとなえ、渡辺金兵衛ら三名を
訊問《じんもん》にかけた」
「それは聞いている」
「遠山勘解由は吉岡の弟で、彼を評定役に推したのは一ノ関だ、それにもかかわらず、勘解
由は一ノ関に盾をついた」
「盾をついたとは」
「渡辺金兵衛らには一ノ関の息がかかっている、あの七月十九日夜の暗殺事件は、一ノ関が
糸をひいたものだ」
0115名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:42:23.76ID:XHellqth
 周防は頷いた。甲斐は静かに続けた。
「勘解由が三人の訊問を主張したのは、むろん吉岡の指図によるものだし、吉岡がなぜそん
なことをしたかといえば自分の存在を一ノ関に知らせるためだと思う」
「反対者としてか」
「向背両面の意味でだ」
「というと」
「吉岡はまじめなんだ」と甲斐は云った、「奥山大学という人物は、まじめに藩家のおため
をおもっている、自分こそ藩家の柱石となる人間だと信じている」
「それは船岡の見かただ」
「まあ聞いてくれ」甲斐は火桶のふちを撫《な》でながら、いかにも穏やかな調子でつづけ
た、「こんどの事では、一ノ関をべつにして、すべての人がまじめに、藩家のおためをおも
っている、渡辺金兵衛ら三人の暗殺者も、一ノ関に糸をひかれているとは気がつかず、心か
ら藩家のおためと信じて暗殺を決行した、吉岡もそのとおり、自分ひとりで国の仕置をする
ことができれば、必ず藩家を安泰にしてみせる、そのほかに万全なみちはない、と確信して
いるんだ」
「私にはそうは思えない」
「彼が一ノ関と手を握りたがっているのは、自分の権勢欲のためではなく、首席国老になる
ための方便なのだ」
「それは船岡の思いすごしだ」
「もう少し聞いてくれ」と甲斐は云った、「大学という人はそういう人物なのだ、そして、
一ノ関はそれをよく知っている、一ノ関がそれを知っているところに、むずかしい点がある
んだ」
 周防はじっと甲斐を見た。
「つづめて云えば」と周防が訊いた。「暗殺の件についての評定のときに、私は気がついた
」と甲斐は云った、「一ノ関は家中《かちゅう》に紛争を起こさせようとしている、知って
のとおり、仙台|人《びと》は我執《がしゅう》が強く、排他的で、藩家のおためという点
でさえ自分の意を立てようとする、綱宗さま隠居のとき、御継嗣|入札《いれふだ》のとき
、老臣誓詞のとき、いちどとして意見の一致したことがなかった」
 周防は頷いた。
「現にこんど亀千代さま御家督の礼として、将軍家へ献上する金品についても、老職の意見
がまちまちで、いまだに決定しない」と甲斐はつづけた、「それも妨害するつもりではなく
、それぞれが伊達家のためをおもい、しんじつ忠義のためと信じている、そして、もし自分
の意見がとおらなければ、すぐにも切腹しかねないようなことを云う、奥山大学などは、そ
の典型的な一人といっていいだろう」
「すると、密訴のことはどうなると思う」
「わからない」と甲斐は首を振った、「ただ推察されることは、一ノ関が吉岡を怒らせて、
松山とのあいだに紛争を起こさせるだろう、ということだ」
「率直な意見を云ってくれ」と周防が云った、「私はどうしたらいい、歪曲《わいきょく》
された無根の罪状を、黙って甘受すべきなのか」
「いかに歪曲し牽強付会しても、無根の事実で人間を罰するわけにはいかない、たって係争
すれば黒白は明白になる、しかし、それは一ノ関の思うつぼだ、国老間に紛争が起これば、
一ノ関は後見として、幕府老中の裁決を乞うだろう、そうは思わないか」
 周防は眼を伏せた。
「いつか松山の家で、涌谷さまと三人で話した」と甲斐はつづけた、「一ノ関には、伊達六
十万石を分割し、その半ばを取ろうという野心がある、うしろ盾は酒井雅楽頭、――家中紛
争をもちだせば、雅楽頭の手で必ず老中にとりあげられる、それだけはまちがいなしだ」
「そうだ、おそらく、それはたしかだろう」
「松山は辞職すべきだ」と甲斐は云った、「堀普請が終りしだい辞職するがいい」
「すれば吉岡が代るぞ」
「火は燃えきれば消える」
0116名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:43:17.65ID:XHellqth
 周防は暫く考えていて、やがて頷き、「但し条件がある」と云った。
「私が辞職する代りに、船岡が国老になってくれるか」
「もうその噂《うわさ》が出ている」と甲斐は苦笑した。
「噂が出ているって」
「米谷《まいや》から今日そのことを云われて、殆んど面目を失ったかたちだった」
「どういう意味だ」
 周防はまた袖で押えながら咳をした。それがしずまるのを待って甲斐は云った。
「一ノ関のしり押しで、近いうち国老になるそうではないか、と云われた」
 周防は「ほう」といった。
「私は初めて聞くし、思いもよらぬことだと云った、すると米谷が、自分は意外とは思わぬ
し、涌谷さまも意外とは思っておられぬようだ、と云った」
 甲斐は静かな眼で周防を見た。周防はそっと頷いた。
「――涌谷さまか」
「ほかにはあるまい」と甲斐も頷いた、「米谷は口のかたい篤実な人だ、世間の噂やかげぐ
ちなどに乗せられる人ではない、しかし、涌谷さまから聞かされたとすれば信ずるだろう」

 周防は「うん」といった。
「涌谷さまはみごとに人を選んだ、柴田どのはまったく信じていたようだ」
「そうか」と周防が低い声で云った、「では船岡にも、敵ができたわけだな」
「七十郎は一ノ矢だと云った」
「彼もいたのか」
「朝粥《あさがゆ》の会に招いたのだ」と甲斐は微笑した、「古内志摩と白石[#1段階小
さな文字](片倉小十郎)[#小さな文字終わり]、それに老女の鳥羽どの、里見十左、七
十郎という顔ぶれだった」
「それは、それは」
「効果はてきめんだった、米谷と古内が立ったあとで、里見十左がさっそく詰問し、七十郎
はそれを二ノ矢だと喝采《かっさい》した」
「すると、一ノ関の耳にも、すぐ伝わるな」
「もう伝わっているだろう」と甲斐は云った、「眼と耳に不足はないからな」
 周防はしみいるような眼で甲斐を見た。それは自分も斬りむすびながら、傷つき倒れよう
とする友を見やる、戦士の眼にも似ていた。
「それでは」と周防が云った、「いずれにしても国老のはなしが出るだろうが、船岡はもち
ろん受けてくれるだろうな」
「いちおう辞退したうえでだ」
「辛いことだ――」と周防は云った、「たのみあう友を、敵の陣へ承知でおくるのは、辛い
ことだ」
「私は役に立たぬかもしれない、幾たびも云うとおり、私はこういう事には向かない人間だ
、私にできるのはほんの僅かなことだけだと思う」
 周防は「わかった」と首を振った。
「私は船岡をよく知っている」と周防は云った、「できるなら、こんな事に船岡をまきこみ
たくなかった、しかしやむを得なかったということもわかってくれ」
「ぐちにしてしまった、話しを変えよう」甲斐は懐紙を出しながら云った、「昨日ここへ厩
橋侯[#1段階小さな文字](酒井忠清)[#小さな文字終わり]が来たそうだ」
「雅楽頭が」と周防は訊き返した。
「不快だから休みたいという口実で、座敷へとおって酒を命じたということだ」
「雅楽頭が」と周防は眼をみはった、「それは、どういうことだ」
「わからない」
「ここを船岡の隠宅と知ってのことか」
「そう思う」と甲斐は頷いた、「おくみ[#「くみ」に傍点]は教えてあるとおり、八十島
主計といったが、侯は笑っておられた、そして、おれに屋敷へ遊びに来いと云ったそうだ」
0117名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:43:57.73ID:XHellqth
「罠《わな》だな」
「屋敷へ来なければ、自分のほうでまたここへ来る、とも云ったそうだ」
「それは罠に相違ない」
「おれにはわからない」甲斐は懐紙で顔を拭いた、「侯が一ノ関のうしろ盾だということは
明白だが、この原田などに眼をつける理由がわからない」
「それはたぶん一ノ関の」と云いかけて、周防は急に口をつぐんだ。
 襖の外は廊下になっている。このおくみ[#「くみ」に傍点]の寝間は、甲斐の寝所とひ
と間へだてた、中廊下のつき当りにあるのだが、その廊下でとつぜんおくみ[#「くみ」に
傍点]の声がし、同時にあらあらしい足音が聞えた。
 なにをなさる、とおくみ[#「くみ」に傍点]が叫び、「立ち聞きをしていたのだ」と久
馬の声が云った。このひとがそこで立ち聞きをしていたから捉《つか》まえたんです。いい
え嘘です、と若い娘の声が叫んだ。あたし立ち聞きなんかしません、跼《かが》んだのは足
袋の紐《ひも》をむすんでいたんです。静かになさい、静かに、とおくみ[#「くみ」に傍
点]の云うのが聞えた。それらの声は低くなり、廊下の向うへ去っていった。
「――やるな」と甲斐が云った。
 周防は甲斐を見た。甲斐はまるめた紙を、塵籠《ちりかご》へ入れて云った、「うまく仕
組んだ、おれたちを此処《ここ》からさそい出すつもりだったろう、この部屋の客が誰だか
わからなかったのだ」
「するといまのは」
「小間使のうら[#「うら」に傍点]と久馬、馴れあいだ」
 周防は低く息をついた。
 二人はそれまでの話しをもういちどたしかめあい、やがて周防は立ちあがった。甲斐は周
防の支度を眺めて、「それでは寒かろう、待ってくれ」と云った。
「いまくび巻を出させよう」
 甲斐はおくみ[#「くみ」に傍点]を呼んで、羅紗《らしゃ》のくび巻を持って来させた
。周防は頭巾をした上からそれを巻き、合羽《かっぱ》をはおりながら訊いた。
「船岡へはいつ立たれる」
「米谷が出て来たからいつでも立てるが、酒井侯のことがあるので、もうしばらくいようと
思う」
「年を越すことになるか」
 甲斐は「さて」といった。
 おくみ[#「くみ」に傍点]は、なにか甲斐に問いかけたいような、そぶりをみせた。久
馬とおうら[#「うら」に傍点]のことだろう、甲斐は気づかないような顔をしていた。
「帰国したら涌谷さまと会うだろう」
「どうなるだろう」と甲斐は首を振った、「涌谷さまが米谷を通じて云われたことは、私が
もう一ノ関に組しているという宣告とみなければなるまい、そうとすれば、おそらく涌谷さ
まのほうで私には会わないだろうと思うが」
「しかし訪ねてゆかないわけにもいかぬだろう」
「どうなるか」と甲斐は云った、「そこもとが帰国したら松山の館《たて》を訪ねよう、松
山からなら涌谷へも近いし、なにかの機会があるかもしれない」
「それがいいかもしれぬ」周防は頷いて云った、「私は堀普請が終ったら国老を辞任する、
それからは松山の館にこもるから、どんな役にも立てるだろう」
「その必要があればな」と甲斐は云った。
 周防は甲斐を見た。甲斐はおくみ[#「くみ」に傍点]に手を振った。おくみ[#「くみ
」に傍点]は襖をあけて、廊下を見、誰もいないことをたしかめて、頷いた。
 二人は妻戸《つまど》口から裏へ出た。
 暗闇の中に、茂庭家の従者二人と、村山喜兵衛がいた。風はないが、ひじょうな寒さで、
もう地面が凍っているとみえ、従者たちが歩くと、足の下でみしみしと、凍《し》みた土の
鳴る音がした。
0118名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:44:32.41ID:XHellqth
「ではここで」と甲斐が云った。
 周防の従者が、合羽で包んで提灯《ちょうちん》を持っていた。その、合羽からもれる仄
明《ほのあか》るい光のなかで、周防がじっと甲斐を見た。甲斐はその眼を避けながら云っ
た。
「風邪をこじらせないように」
「うん、ではこれで」
「暗いな」と甲斐が云った。
 周防が低く云った、「まるでいまわれわれの置かれた立場のように暗い、あすの日なにが
起こるか、どこにどんな落し穴があるかわからない、この闇には灯が一つあればいいけれど
も、われわれにはその一つの灯さえないのだ」
「松山は疲れている」と甲斐が云った、「別れよう、大事にしてくれ」

[#3字下げ]雪[#「雪」は中見出し]

 十二月二十五日、――伊達家では亀千代の家督の礼として、基近《もとちか》の太刀、棉
五百|把《ぱ》、銀五百枚を将軍家に献上した。
 この使者は原田甲斐であった。甲斐を使者に選んだのは後見役の伊達兵部と田村右京であ
り、二人は正使の甲斐とともに千代田城の白書院に出、老中の酒井|雅楽頭《うたのかみ》
に目録を披露した。
 役目をはたして帰邸すると、一門、一族、老臣らの祝宴があったが、甲斐は中座して、い
ちど帰宅したうえ、夕方ちかくに湯島の家へいった。柴田|外記《げき》が上府したので、
彼の江戸番の任期はすでに終り、定日出仕《じょうびしゅっし》の勤めも解かれたのである

 原田では家政が詰まっていた。江戸番は一年交代であるがこんどは任期が延び、二年ちか
くにもなるため、ひどく出費が嵩《かさ》んで、これ以上の滞在は困難になっていた。
 使者に選ばれたときも、家老の堀内惣左衛門は、辞退するように、と云った。それは両後
見へ謝礼をしなければならないからで、そんな費用は出しようがない、というのである。甲
斐は笑って、その必要はないと云い、この役は借銀をしても勤めると云った。
 惣左衛門は黙った。それは甲斐が、兵部との関係をしぜんに接近させようとしているのだ
、ということがわかったからである。――惣左衛門はまた、江戸で正月をされては困る。一
日も早く帰国されるように、とも云った。甲斐も「そうしたいものだ」と云った。なるべく
そうしたいと思う。それはどういう意味ですか、と惣左衛門が訊いた。そこで甲斐は初めて
、湯島へ雅楽頭のあらわれたことを話した。惣左衛門は頭を垂れた。主人の甲斐が、しだい
に黒い禍《まが》まがしいものに包まれてゆくのを見るおもいがして、眼をあげることもで
きない、というようすであった。
 その日、湯島へは矢崎|舎人《とねり》と中黒達弥、それに塩沢丹三郎が供をした。
「お客さまはどなたですか」甲斐を見るとすぐに、おくみ[#「くみ」に傍点]が訊いた。
甲斐は微笑しながら「客はない」と云った。
「まあ、うれしい」とおくみ[#「くみ」に傍点]は眼をかがやかせた、「では久しぶりで
ゆっくりとお話しができますわね、ずいぶん久しぶりだわ、お客なしでいらっしゃるなんて

「まだよろこぶのは早いよ」と甲斐が云った。
 おくみ[#「くみ」に傍点]は眼をそばめた、「あら、どうしてですか」
「客は来るかもしれない」と甲斐が云った。
「かもしれないって」
「いつか留守に来た客さ、酒井侯だよ」
 おくみ[#「くみ」に傍点]は「まあ」といった。
0119名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:45:16.91ID:XHellqth
 その夜は珍らしく、他人の混らない夕餉《ゆうげ》をとった。舎人、達弥、丹三郎らにも
膳を並べさせ、おくみ[#「くみ」に傍点]は甲斐の脇に坐った。甲斐はきげんよく酒を飲
み、船岡へ帰ったら鹿を狩るのだ、と楽しそうに云った。
 おととし甚次郎[#1段階小さな文字](山の名)[#小さな文字終わり]で射損じた鹿
がある、くびじろ[#「くびじろ」に傍点]というやつで、もう何年も追っているのだが、
そのときも五昼夜追ったあげく、江尻で逃がしてしまった、と甲斐は云った。与五兵衛は付
いていなかったのですか、と矢崎舎人が訊いた。与五は決して鹿を殺さない、と中黒達弥が
云った、ほかのけものはとる、熊をとらせたら名人だが、決して鹿はとらないと云った。
 去年は鹿を見なかったか達弥、と甲斐が訊いた。私は知りません。話しも聞かなかったか
。私は聞きませんでしたと達弥は答えた。
「鹿は阿武隈川の向うから、小坂の瀬を渡って来る」と甲斐は云った、「このまえ、明暦二
年だったか、二十二貫もあるのを射とめたが、あれも小坂の瀬を渡って、正覚寺[#1段階
小さな文字](山)[#小さな文字終わり]へはいるところでやったのだ」
「あの角《つの》はみごとでございました」
「みごとだった」
「あんなみごとな角は珍らしゅうございます」と舎人が云った。
 丹三郎は黙って聞いていて、ふと「私もそんな狩のお供がしてみとうございます」と云っ
た。だめだ、と舎人が云った。狩はいつもお一人でなさる、供のできるのは与五兵衛だけだ
、と云った。しかし私はまだ船岡を知りません、せめてお国へお供だけでもしとうございま
す、と丹三郎が云った、「いつか伴《つ》れてゆこう」と甲斐は頷いた。
「今年お供ができないでしょうか」
「今年はだめだ、おまえは良源院にいる姉弟をみてやらなければならぬ」
 丹三郎は眼を伏せた。それで思いだしたように、甲斐は虎之助のようすを訊いた。丹三郎
は、まだはっきりしないようだ、と答えた。寝ているのか。いや、寝たっきりではありませ
んが、まだ床上げを致しません。麻疹《はしか》は済んだのだろう。はい。では余病でも出
たのか。よくわかりませんが、腸をこわしたようで、下痢が止まらないということですと丹
三郎は云った。
 甲斐の眉間に皺がよった、「いつかみまってやろう」と甲斐は低く呟いた。
 その夜半、おくみ[#「くみ」に傍点]が甲斐の寝間へ来た。白い寝衣に、派手な色のし
ごきを緊め、髪を解き化粧をしていた。おくみ[#「くみ」に傍点]は甲斐の夜具の中へは
いった。
「おとなしく寝るんだぞ」と甲斐が云った。
 おくみ[#「くみ」に傍点]は甲斐により添い、躯《からだ》を固くしてわなわなとふる
えた。甲斐はおくみ[#「くみ」に傍点]の肩へ腕をまわした。おくみ[#「くみ」に傍点
]はその腕を枕にし、もっとぴったりと、甲斐のふところへすり寄った。おくみ[#「くみ
」に傍点]の躯は燃えるように熱く、ふるえはなかなか止まらなかった。ものを云おうとす
ると、歯がかちかちと鳴った。
「さあ、眠るんだ」と甲斐が云った。
 そして、まわしている手で、そっとおくみ[#「くみ」に傍点]の肩を叩いた。彼女はそ
うされるうちに、やがて、声を忍ばせて泣きはじめた。甲斐は叩くのをやめた。
「私を憎むがいい」甲斐はおくみ[#「くみ」に傍点]に囁いた、「私はこんな人間だ、八
年まえに、私と会ったのがおくみ[#「くみ」に傍点]の不運だったのだ」
 おくみ[#「くみ」に傍点]は泣きながら、激しく頭を振った。甲斐はおくみ[#「くみ
」に傍点]の肩を静かに撫でた。
「あなたが悪いのじゃありません、悪いのはあたしです」とおくみ[#「くみ」に傍点]は
云った、「あなたはなんとも思っていらっしゃらないのに、あたしが勝手に、好かれている
と思ったんです」
「私はおくみ[#「くみ」に傍点]が好きだ」
「あたしばかりじゃなく、兄もそう思いこんでいました」
「私はおくみ[#「くみ」に傍点]が好きだよ」
 おくみ[#「くみ」に傍点]はううと泣いた。
0120名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:46:00.89ID:XHellqth
 八年まえ、――雁屋が原田家の回米を受持つことになり、信助は日本橋石町の家へ、甲斐
を招待した。そのとき給仕に出たおくみ[#「くみ」に傍点]は、ひと眼で甲斐にひきつけ
られ、信助はまた、妹が甲斐に気にいられたと思いこんだ。
 ――保養のために控え家を持ってはどうか。
 信助は甲斐にそうすすめ、自分の費用で、湯島の家を手にいれた。そして、「お側の用を
させて下さるよう」と云って、おくみ[#「くみ」に傍点]を付けたのであった。
「好きだけれども、私はこのままでいたい、このままでいなければならないのだ」と甲斐は
云った、「これ以上にすすむと、おくみ[#「くみ」に傍点]をもっと不幸にし、悲しい思
いをさせるからだ」
「あたしどんな不幸だって、いといはしませんわ」
「おまえは知らないからだ」
「なにをですの」
 甲斐はちょっと黙った。それから、はぐらかすように、男心というものをさ、と云った。

「本当のことを仰しゃって下さい」とおくみ[#「くみ」に傍点]は泣きじゃくりながら云
った、「あたしがもっと不幸になるようなことがなにかあるんですか」
「もういい、ねるとしよう」
「お願いですから仰しゃって」
「もう眠ろう」と甲斐はおくみ[#「くみ」に傍点]の肩を撫でた、「うるさくすると追い
だすぞ」
 甲斐は湯島に二日いた。
 二十九日には船岡へ立つことにきめ、惣左衛門に支度を命ずる使いを出した。すると二十
八日の朝、――まだ九時ころのことであるが、酒井忠清が五人の供をつれて、騎馬で乗りつ
けて来た。
 その日、甲斐は本邸へ帰るつもりで、食事も早く済ませ着替えも終ったところだったが、
知らせを聞くとすぐに雅楽頭《うたのかみ》だろうと察し、羽折をぬいで、自分で出迎えに
出た。町住居だから式台はない、甲斐はおくみ[#「くみ」に傍点]と共に、玄関の四帖に
坐ってかれらを迎えた。雅楽頭はそのとき三十七歳であった。背丈はさして高くないが、や
や肥えた逞《たくま》しい躯つきで、下ひろがりの角張った顔は肉づきがよく、書いたよう
にはっきりと濃い眉と、ひきむすんだ唇のあたりに、自意識のつよい、きかぬ気性があらわ
れていた。
 二人はそれまでに二度、顔をあわせていた。いちどは綱宗に逼塞《ひっそく》の沙汰の出
たとき、一度はつい三日まえ、亀千代の家督の礼で、献上品の披露に登城したとき。これは
甲斐が正使として、城中の白書院でじかに言葉を交わした。
 玄関へ入って来た雅楽頭は、笠と鞭《むち》を供の少年に渡しながら、その大きな眼でま
っすぐに甲斐を見た。甲斐は膝《ひざ》に手を置いて、静かに低頭し、やはりまっすぐに、
だが極めて穏やかな眼つきで、雅楽頭を見あげた。
「あるじか」と雅楽頭が云った、「八十島主計《やそしまかずえ》と申すそうだな」
 甲斐は黙って目礼した。
「先日は留守にまいって馳走になった、今日はひと馬せめに出た途中で、ふと思いついてた
ち寄ったのだが」
「ようこそ」と甲斐は会釈した。
 そして、どうぞとおるようにと云い、雅楽頭は頷いた。扈従《こじゅう》の少年がゆいつ
け草履をぬがせると、雅楽頭はあがって、さっさと奥へとおった。座敷には敷物と火鉢が出
ていた。雅楽頭は腰から刀を脱《はず》しながら、敷物の上にあぐらをかいて坐った。
 他の従者は玄関に残ったが、少年はすぐ来て、雅楽頭のうしろに、その刀を捧《ささ》げ
て坐った。甲斐はずっとさがって、敬礼をした。雅楽頭はもっと寄れと云った。甲斐は動か
ずに、身分が違うからこれで勘弁していただきたい、と辞退した。
「おれを知っているのか」と雅楽頭が云った。
 甲斐は穏やかに、女どもから聞いていたし、厩橋侯であることは、江戸の市民なら誰でも
知っているであろう、と答えた。
0121名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:46:45.95ID:XHellqth
 雅楽頭は唇で笑った、「おれもそのほうを見たように思う」と雅楽頭は云い、するどい眼
で、じっと甲斐の眼をみつめた、「たしかに、どこかで会ったように思う」
 雅楽頭は明らかに、その一瞬をたのしんでいた。その一瞬をたのしむために来た、といっ
てもいいほど、彼の眼には期待の色がみえた。
 甲斐の左の頬にふかい竪皺《たてじわ》がよった。甲斐はかすかに唇で笑い、ごくさりげ
なく、それは光栄であると云った。老中のなかでも、いま御威勢高き厩橋侯にそういわれる
ことは、一代の面目であると云った。
 そこへ酒肴の膳がはこばれた。
 雅楽頭だけの膳である。おくみ[#「くみ」に傍点]が自分で雅楽頭の前に据え、給仕を
するために坐った。雅楽頭は盃を取って飲み、「遣《つか》わそう」と甲斐にさしだした。
おくみ[#「くみ」に傍点]が取次ごうとすると、寄って取れ、と雅楽頭が云った。甲斐は
おくみ[#「くみ」に傍点]に「頂戴してくれ」と云い、やはりそこを動かなかった。
「ゆるす、寄って取れ」と雅楽頭が云った。
 甲斐は黙っていた。
「どうした」と雅楽頭が云った、「足でも萎《な》えたか」
 甲斐は「おくみ[#「くみ」に傍点]」と云った。
「おまえの接待がお気にめさぬようだ、御機嫌の直るように、よくお詫《わ》びを申すがい
い」
「寄れというのだ、寄れ」と雅楽頭が叫んだ。
 甲斐は額をあげて相手を見た。そして、殆んど微笑するような、静かな表情で、ゆっくり
と云った。
「失礼ですがここは私の住居でございます。たとえ貴方《あなた》が従四位下の少将で、十
余万石の御城主かは存じませんが、扶持《ふち》をいただいておらぬ限りは対と対、私は自
分の住居では自分の好ましいように致します」
「ではおれの盃は受けぬというのだな」
「お直《じき》ではおそれ多いと申上げるのです」
「どうしてもか」と雅楽頭が云った。
 甲斐は目礼し、微笑した。雅楽頭の顔が赤くなった。そのときおくみ[#「くみ」に傍点
]が、その盃を自分がいただきたい、と云って両手を出した。雅楽頭は盃をおくみ[#「く
み」に傍点]に与えた。
 おくみ[#「くみ」に傍点]は盃を額まであげ、唇をつけて、懐紙にくるんだ。それから
、雅楽頭が次の盃を取ると、銚子《ちょうし》を持って給仕した。
「どうやらおれは、よろこばれぬ客のようだな」と雅楽頭が云った。
 甲斐は一揖《いちゆう》した、「それこそおぼしめし違い、浪人のことでお歴々にふさわ
しいもてなしはできませんが、おたち寄り下さればこの上もなき名誉、よろこんで御接待を
つかまつります」
「覚えておくぞ」と雅楽頭は云った。そして盃を置いて立ちあがった、「また会おう、ぞう
さであった」
 そして雅楽頭はさっさと出ていった。扈従の少年が刀を捧げてつづき、甲斐とおくみ[#
「くみ」に傍点]も送っていった。
 酒井忠清を送りだすと、甲斐もすぐに帰り支度をした。
「どうしてあんなに、強情をお張りなさいましたの」とおくみ[#「くみ」に傍点]が不審
そうに訊いた。
「強情だって」
「お盃《さかずき》ですわ」とおくみ[#「くみ」に傍点]が云った、「どんなときにもこ
だわるようなことはないのに、どうしてあのお盃をお受けにならなかったんですの」
「べつに仔細《しさい》はない」と甲斐は云った、「前へ出るのが面倒だっただけだ」
「それだけで酒井さまを怒らせておしまいなすったんですか」
「侯は怒りはしない」
「お怒りになりましたわ、お顔がぱっと赤くなって、あたしあの盃をお投げになるかと思い
ました」
0122名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:47:30.94ID:XHellqth
「えらいな」と甲斐は微笑した、「侯は怒りはしなかった、しかしあの盃は投げたかもしれ
ない、おれも投げるかなと思った」
「ですからあたし、いそいで頂戴したんですわ」
「いい呼吸だった」
 甲斐は頷いて、おかげで侯は命びろいをしたよ、と云った。
「命びろいをしたですって」
「駕籠《かご》はまだか」と甲斐が高い声で云った。すると次の間ですぐに、「まいってお
ります」と丹三郎の声がした。
「どういうわけですの、どうして酒井さまが命びろいをなすったのですか」
「舎人《とねり》と丹三郎がいるのを忘れたのか」と甲斐が云った。「私が辱《はずかし》
められれば二人は黙ってはいない、必ず侯に斬ってかかる、もっとも、私がそれを待っては
いないがね」
「恐ろしいことを」とおくみ[#「くみ」に傍点]は身ぶるいをした、「そんな恐ろしいこ
とを、本当に考えていらしったんですか」
「私の命と引換えで済むならな」と甲斐は声をたてずに笑った。
 おくみ[#「くみ」に傍点]はもういちど身ぶるいをし、では自分が盃をもらってよかっ
た、と太息《といき》をつきながら云った。
 甲斐は頭巾をかぶりながら立ちあがった。おくみ[#「くみ」に傍点]はにわかに別れが
惜しくなったようすで、甲斐の羽折の袖や袴《はかま》の裾などを直しながら、涙ぐんだ声
で旅中の無事を祈り、留守の辛さをくどき、また会うことの約束をせがんだ。甲斐は辛抱づ
よく受け答えながら、丹三郎に声をかけ、玄関へと出ていった。刀を袖で抱えて、うしろか
らついて出たおくみ[#「くみ」に傍点]は、玄関で刀を甲斐に渡すと、ふいに、両手で顔
を掩《おお》って泣きだした。
 玄関には支度をした舎人が控えていた。
「矢崎さま」とおくみ[#「くみ」に傍点]は泣きながら云った、「どうぞ御前《ごぜん》
をおたのみ申します」
 舎人は黙って低頭した。
 甲斐は右手に刀を持ったまま、玄関を出て駕籠に乗った。おくみ[#「くみ」に傍点]は
おろおろと涙を拭き、その眼でひき止めようとでもするように、甲斐のうしろ姿をじっと見
まもっていた。
 丹三郎が脇について、駕籠があがった。
「良源院へ寄ろう」と甲斐が云った。
 乗ってゆくあいだずっと、甲斐は腕組みをし、眼をつむっていた。ときどき眉をしかめた
り、額に皺をよせながら唇を噛《か》んだりした。雅楽頭との対面が、彼の気分を重くるし
くしていた。
 ――理由はなんだ。
 なんの必要があって、二度も自分を訪ねて来たのか。対談ちゅうにさぐり当てようとした
が、終りまで、いとぐちもつかめなかった。一ノ関と相談のうえか。わからない。兵部にそ
んな必要があろうと思えないし、そのために湯島などを訪ねるような、雅楽頭とも思えなか
った。
 盃のことは笑止であった、あの盃をじかに受けたら、「主従のかためだぞ」ぐらいのこと
は云ったであろう。こちらは浪人の八十島主計でとおしたし、雅楽頭のほうでは、原田甲斐
と云わせたかったようだ。もちろんいやがらせにすぎないが、盃を受けたら、「主従のかた
めだ」などと云いそうであった。
「そうだ、いけなかった」と甲斐は口の中で呟いた、「あの盃は受けたほうがよかった、雅
楽頭がもしそう云ったとしたら、そこから、訪ねて来た意図がさぐりだせたかもしれない」

 甲斐の額に深く皺がよった。だが、そうせくことはない、と甲斐は思った。雅楽頭は怒っ
た、たしかに、いくらかは怒ったようにみえた。おそらくこのままでは済まないだろう、わ
がままで癇癖《かんぺき》の強い性質のようだ。必ずまたなにか仕掛けて来るにちがいない
、必ず。甲斐は眼をつむったまま、微笑した。
0123名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:48:17.88ID:XHellqth
「お気の毒ながら厩橋侯」と彼はまた口の中で云った、「貴方には従四位下の少将と、幕府
閣老という枷《かせ》がある。この甲斐をしめるにはその枷が邪魔になるでしょう」
 そして彼は微笑した。
 良源院へ着くと、玄関で柴田|外記《げき》と出あった。伊達式部[#1段階小さな文字
](宗倫《むねとも》)[#小さな文字終わり]といっしょで、二人とも麻上下だった。い
ま帰るところらしく、住職や僧たちが出ていたし、従者たちが式台の下に控えていた。外記
は目礼をしたまま去っていったが、式部が呼びかけたので、甲斐は謙遜に久濶《きゅうかつ
》を述べた。
 式部宗倫は、故忠宗の五男で、綱宗には腹ちがいの兄に当り、年は同じ二十一歳。登米郡
寺池で一万二千石を領していた。綱宗とは違って、躯も痩《や》せているし、顔つきも尖《
とが》って、神経質な、おちつきのない眼と、女性的な、ねばるような話しぶりに特徴があ
った。
「近いうち国老になるそうですね」と式部が云った。
 甲斐は微笑しながら、さて、いかがなものですか、と答えた。式部はとりいるような調子
で、愛宕下[#1段階小さな文字](中屋敷)[#小さな文字終わり]ではもっぱらの評判
です、いつごろ就任ですか、と訊いた。
「今日はなにごとのおはこびですか」と甲斐は話しをそらした。
 式部はそれには答えずに、国老就任は機密らしいですね、と云い、白い歯をみせた。甲斐
は穏やかに微笑して云った。
「そんなことはありません、私はまだなにも知らないのです」
「知らないんですって」
 式部は皮肉な眼つきをし「ははあ」と頷いた。しかしそこで急に思いついたように、帰国
されるそうだが、それはいつか、と訊いた。たぶん明日帰れると思う、と甲斐は答えた。帰
ったら涌谷と会われるでしょう。さていかがなものでしょうか。涌谷と会われたら伝言して
もらいたいことがあるのです、と式部が云いだした。
「谷地《やち》の境について、紛らわしいことを云って来るんです。寺池領の者が、地境を
無視して涌谷領へ鍬《くわ》をいれる、というんですが」と式部は云った、「しらべさせた
ところではそんな事実はないし、むしろ涌谷領のほうで、地境を越しているらしいんです、
それで、どうかそんなことのないように、御自分領の者によく申しつけられたい、とそう伝
言して下さい」
「もしおめにかかったら、そう申し伝えましょう」と甲斐は答えた。
 式部を見送ってから、いちど住職と方丈へゆき、そこでしばらく話した。品川の下屋敷か
ら、綱宗夫人の使いがあり、伝来の香木《こうぼく》で持仏を彫らせてくれ、という注文が
あった。その香木はことによると、政宗公が豊太閤からもらったものではないだろうか。も
しそうだとしたら、仏像などに彫ってしまうのはいかがかと思うが。などと住職は話した。

 甲斐は聞くだけ聞いて、なにも意見は述べなかった。そして自分は帰国するから、畑姉弟
を頼むと云い、方丈を辞して、自分の宿坊へいった。
 丹三郎がさきに知らせたからだろう、宇乃《うの》も虎之助も、着替えをして待っていた
。虎之助は夜具の上に坐り、小さな膝をきちんとそろえて、姉といっしょに挨拶をした。
「どうした坊、まだよくないか」
 甲斐はそう云いながら坐った。
「のぞ[#「のぞ」に傍点]が痛い」虎之助は顎《あご》をあげて、自分の喉《のど》を指
さしながら云った。声はひどくしゃがれていたし、あげた顎は痩せて、尖ってみえた。
 甲斐は眼で微笑しながら、頷いた。その表情には、微笑しているにもかかわらず、するど
い苦痛の色がうかび、しかしすぐに消えた。
「そうか、喉が痛いか、私も喉が痛い」と甲斐は云った、「坊は喉が痛いと、泣くか」
「――泣かない」
0124名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:56:56.15ID:UMnWC6GU
 虎之助は横眼で姉を見た。甲斐は微笑した。唇のあいだから、白いきれいな歯が見え、左
の頬に竪皺がよった。
「それはえらいな、おじさんも泣かないが、あんまり痛いと、泣きたいと思うことがある、
それでも、男は泣いてはおかしいから、がまんして泣かない、坊もそうか」
 虎之助はまた横眼で姉を見た。そして、膝の上で両手の指を動かしながら、ごくっと頷い
た。母親がいたら、あまえて泣く年だ。と甲斐は思った。麻疹の予後が悪く、ながびいて、
躯のちからも弱っている、苦しいとき、泣かずにがまんすることは、辛いだろう。
 甲斐は「さあ横におなり」と云った。
「起きていてはよくない、寝ていて話しをしよう」
「では失礼してやすみましょうね」と宇乃が云った。
 虎之助は横になり、眼をあげて甲斐を見ながら「おじさま帰るのか」と訊いた。いや帰り
はしない、もう少し話しをしよう、と甲斐は云った。坊は熊を知っているか。知っているか
、と虎之助は姉を見た。
「知っているでしょう」と宇乃が云った、「いつか御伽草子《おとぎぞうし》で見たことが
あるわ」
「うん、見た、島渡りだ」
「そうかしら」
「島渡りだ、坊、知ってるよ」虎之助はいきごんで云った。
 それでは鹿はどうだ、と甲斐が訊いた。鹿も知っている、草子の絵には鹿もいた、熊も鹿
もいたし、兎もいたか、と虎之助は姉を見て云った。宇乃は微笑しながら頷き、弟の掛け夜
具の端を直した。
「おじさんのお国には、そういうけものがみんないる」と甲斐は云った、「熊も大きいのが
いるし、仔熊《こぐま》も、みごとな角《つの》のある鹿も、兎もいる」
「熊の仔もか」
「熊の仔もだ」と甲斐は頷いた。
 お母さんといっしょに歩いて来る、そう云おうとして甲斐は口をつぐみ、それから「坊も
いつかいってみよう」と云った。おじさんのお国には、山もあるし川もある。山にはけもの
がいるし、川には魚がいる、川では魚をとることもできる、と云った。
 甲斐は鹿の話しをした。鹿が阿武隈川を渡ることや、岩だけの山の急斜面でも、風のよう
にすばやく、登ったりおりたりすることや、敵に向かうときは頭をさげて、そのするどい角
で突っかけ、敵をはねとばしたり、角で突刺したりすることや、ひじょうに用心ぶかくて、
針を落したくらいの音でも、すぐにはねあがって逃げてしまう、などということを話した。

 虎之助はすぐに疲れるようであった。
 鹿の話しのあとで、甲斐は山と川のことを話した。蔵王山の雪、青根の温泉《いでゆ》、
青根の宿から見える野や、川や、海や島の景観。川は二つあって、一つは白石川、片方は阿
武隈川という。どちらも魚がたくさんいる、秋ふかくなると鮭《さけ》ののぼって来ること
もある。
「坊も大きくなったらいってみよう」と甲斐は話した、「山へも登ろう、川で魚をとろう、
熊や鹿や兎を見るんだ、坊は熊の仔が欲しいか」
「雪が降ってるね」
「冬になると、蔵王のお山から雪になる」
「雪が降ってるよ」と虎之助が云った。
 聞き疲れてうっとりとなった彼の眼が、庭のほうを見ていた。その眼はすぐに、力なく閉
じたが、宇乃はそっと立っていって、障子を一枚あけた。
「まあ、雪でございますわ」と宇乃が云った。
 甲斐はそちらへ振向いた。曇り日の、ひっそりと暗い庭に、こまかな雪が舞っていた。甲
斐は虎之助を見た。彼は眠っていた。
「坊が寒いからお閉め」と甲斐が云った。
0125名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:57:52.21ID:UMnWC6GU
 宇乃は「はい」といって、廊下へ出て、あとを閉めた。甲斐は虎之助の寝顔を、じっと眺
めていた。おまえは仏門にはいるんだ、お坊さんになるんだよ、と甲斐は心のなかで云った
。そんな幼ない年で、いちどに両親に死なれるという、悲しみを経験した、私にはその悲し
みがわかるんだ坊、私はおまえより小さいとき、五つの年に父に死なれた、私には母があっ
たし、所領もあり、家従もおおぜいいた、けれども、父のない淋しさがどんなものか、いま
でもよく覚えている。
 私は父に死なれただけだが、おまえと宇乃は両親に死なれた。家もなく、たよる親族もな
い。幼ないおまえにも、どんなにこころぼそく、どんなに悲しいかは私にわかる、と甲斐は
心のなかで云った。――けれどもそれで終るのではない、世の中に生きてゆけば、もっと大
きな苦しみや、もっと辛い、深い悲しみや、絶望を味わわなければならない。生きることに
は、よろこびもある。好ましい住居、好ましく着るよろこび、喰べたり飲んだりするよろこ
び、人に愛されたり、尊敬されたりするよろこび。――また、自分に才能を認め、自分の為
《な》したことについてのよろこび、と甲斐はなおつづけた。生きることには、たしかに多
くのよろこびがある。けれども、あらゆる「よろこび」は短い、それはすぐに消え去ってし
まう。それはつかのま、われわれを満足させるが、驚くほど早く消え去り、そして、必ずあ
とに苦しみと、悔恨をのこす。
 人は「つかのまの」そして頼みがたいよろこびの代りに、絶えまのない努力や、苦しみや
悲しみを背負い、それらに耐えながら、やがて、すべてが「空しい」ということに気がつく
のだ。
 ――出家《しゅっけ》をするがいい、坊。
 と甲斐は心のなかで云った。生活や人間関係の煩らわしさをすてて、信仰にうちこむがい
い、仏門にも平安だけがあるとは思えないが、信仰にうちこむことができれば、おそらく、
たぶん。
 甲斐の心の呟《つぶや》きはそこで止まった。仏門にはいり信仰にうちこむことができれ
ば救いがある、彼はそう云うつもりであった。眠っている幼児を、心のなかで慰めようとし
たのだ。誰に聞かれるわけでもないのだが、やはりそう云いきることはできなかった。彼は
眉をしかめ、顔をそむけながら立ちあがった。
 甲斐は障子をあけて、廊下へ出た。するとそこに宇乃が佇《たたず》んでいた。ずっとそ
こにそうしていたらしい、両袖を胸に重ねて、身動きもせずに、雪の舞いしきる庭の、ひと
ところを見まもっていた。
「なにを見ている」と甲斐が訊いた。
「あの樅ノ木に、雪がつもっています」と宇乃が云った。宇乃はこちらを見ずに云った。甲
斐も黙って頷《うなず》いた。
 樅ノ木は雪をかぶっていた。雪はこまかく、かなりな密度で、鼠色の空から殆んどまっす
ぐに降っていた。しはらく乾いていたために、地面はもう白く掩われ、庭の樹木や石|燈籠
《どうろう》なども白くなり、境の土塀の陰も、雪の反映で、暗いままに寒ざむと青ずんで
みえた。
「私は明日、船岡へ帰る」と甲斐がいった。
 すると宇乃が、彼のほうへくるっと向き直り、大きくみひらいた眼で、まっすぐに彼を見
あげた。その眼は、みひらいたままで、たちまち涙でいっぱいになった。
「おじさま」
 宇乃はそう云って、衝動的に、両手で甲斐に抱きついた。甲斐は少女の肩へ手をおいた。
宇乃の手に力がこもり、柔軟な躯をぴったりと彼にすり寄せた。甲斐は、宇乃の躯の柔らか
さを、自分の膚で感じた。宇乃の胸や、腹部や、太腿《ふともも》が、二人の着物をとおし
て、直接、ぴったりと触れあった。甲斐はほんの一瞬、たじろいだ。
 その接触はほんの一瞬のことであった。そして、宇乃自身まったく無意識ではあったろう
が、甲斐の腿を大胆に、あるいは無心に、圧迫したその部分の、あたたかい、弾力のあるま
るみは、四十二歳になる甲斐をたじろがせるのに充分であった。その一瞬の接触は、甲斐を
深く動揺させた。それは彼の心の中心にしみとおり、全身にひろがって、しっかと彼をとら
えた。そのとき彼は、自分と宇乃とが眼に見えない絆《きずな》で、固く、しっかりとむす
びつけられたように感じた。
0126名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:58:44.27ID:UMnWC6GU
「おじさま、死んではいや」と宇乃は云った。それは十三歳の少女ではなく、成熟した娘の
声のようであった、「生きていらしって、おじさま、死んではいや」
 宇乃は甲斐に頬をつよく押しつけた。
 甲斐はさりげなく、その接触から身をひき、宇乃の背を静かに撫でた。宇乃は息をつめた
。泣きそうになるのを耐えたようである。甲斐は頷いて云った。
「うん、生きているよ」
 宇乃はじっとしていた。甲斐の体温とその声のなかへ、自分を浸しきってしまおうとする
かのように。それからやがて、そっと顔をあげた。
「来年はいつごろ出ていらっしゃいますの」
 宇乃はそう云いながら、ようやく甲斐から身をはなした。
「よくわからない」と甲斐は答えた、「今年は春に帰る筈だったのが、いろいろなことでい
ままで延びてしまった、だから本当なら来年の春に出府する順序だけれども」
「では再来年になりますの」
「たぶんそうなるだろう、しかし来年また出て来なければならなくなるかもしれない、どう
なるか」と甲斐は太息をついた、「どういうことになるか、いまここではなんとも云えない

 宇乃はまた樅ノ木のほうを見て、それからおちついた声で訊いた。
「なにか宇乃でお役に立つことはございませんの」
「ないだろうね」と甲斐は微笑した、「そんなことのないようにしたいものだ」
「宇乃はまだそんなに子供でしょうか」
「そういう意味ではない、宇乃には弟がいる、虎之助をしっかりみてやるのが宇乃の役だ、
それも決して楽な役ではないだろう、このあいだのような事もあるしね」
 宇乃は頷いた。
「さあ、寒いから中へおはいり、私はもうゆかなくてはならない」
 宇乃は甲斐を見あげた、「わたくし、今日のお話しをよく覚えておきますわ、蔵王のお山
や、青根の湯泉や、白石川や阿武隈川のことを、――宇乃はいつかそれをみんな見ることが
できますのね」
「そうだ」と甲斐は頷いた、「宇乃はそれを見ることができる、もう少し経ったらね」
「虎之助が、八つになれば、ですわね」
「そうだ、虎之助が八つになればね」
 そして甲斐は「丹三郎」と呼んだ。すぐに返辞が聞え、次の間から塩沢丹三郎が出て来て
、廊下へ膝をついた。甲斐は「乗物」と云った。丹三郎は玄関のほうへ去った。
「もういちど坊をみよう」
 甲斐は障子をあけた。宇乃は彼のあとから部屋へはいり障子をしめた。甲斐は虎之助の枕
元に坐った。虎之助の頬は赤く、呼吸は短く、不規則であった。眠りが浅いのか、頬や瞼《
まぶた》が絶えず痙攣《けいれん》し、なにかものでも云おうとするように、ときどき唇も
動いた。
「下痢は止まったのか」と甲斐が低い声で云った。
 宇乃は「いいえ」と答えた。
「医者を変えるように云おう」
「玄庵さまはよくして下さいますわ」
「医者を変えてみよう」と甲斐は云った、「惣左衛門にそう云っておく、丹三郎もこれまで
どおり此処へよこすが、用があったら待っていないで、すぐに屋敷へ使いをやるがいい」
 宇乃は「はい」と頷いた。甲斐は振向いて宇乃を見た。
「宇乃は大丈夫だな」
「はい、大丈夫でございます」
 甲斐はそっと立ちあがり、もういちど虎之助の寝顔を見てから「送るには及ばない、そこ
においで」といって廊下へ出た。
「どうぞお大事に」と宇乃が云った。
 甲斐は振返らずに出ていった。
0127名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:59:31.68ID:UMnWC6GU
 良源院を出た甲斐は、そこからすぐに、後見の伊達兵部邸を訪ね、さらに田村右京から、
茂庭周防の留守宅、片倉小十郎、柴田外記とまわって、それぞれに帰国の挨拶をした。桜田
邸の自宅へ帰ったのは午後おそくで、家の中はまだ混雑していた。
 その夜、うちわだけで別宴が催され、下男|下婢《かひ》たちにも酒肴が出された。伊東
七十郎は甲斐とは逆に上方《かみがた》へゆくそうで、さかんに飲んで毒舌をふるった。上
方へゆく目的は、熊沢|蕃山《ばんざん》の門を敲《たた》くためだという。蕃山といって
も経学をきくためではない、笛をまなびたいのだ、などと気焔《きえん》をあげた。甲斐は
頭を振って「七十郎にこれ以上も吹かれては堪らない」と云い、みんな声をあげて笑った。

 明くる朝、――御殿へあがって、幼君に帰国のいとまを乞い、それから戻って江戸に残る
家従たちと簡単に別れの盃を交わしてから、船岡へと出発した。
 雪はまだ降りつづいていた。
0128名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:02:04.36ID:UMnWC6GU
 新八の顔は血のけを失って蒼白《あおじろ》く、汗止めをした額からこめかみへかけて膏汗《あぶら
あせ》がながれていた。躯も汗みずくで、稽古着はしぼるほどだったが、それでも顔は蒼白く、歯をく
いしばっている唇まで白くなっていた。
 躰力《たいりょく》も気力も消耗しつくしたらしい。眼の前にいる柿崎六郎兵衛の姿もぼんやりとし
か見えず、ただ六郎兵衛の木剣だけが、ぞっとするほど大きく、重おもしく、はっきりと見えた。
「打ちこめ、来い」と六郎兵衛が云った。
 新八は夢中で打ちこんだ。相手の姿はそこになかった。新八は踏み止《とどま》り、向き直って、絶
叫しながら面へ胴へと、打ちこんだ。六郎兵衛は軽く躱《かわ》すだけであった。新八の木剣は、どう
打ちこんでも、六郎兵衛の躯へ一尺以上近くはとどかなかった。
 道場の一隅で、野中、石川、藤沢の三人が見ていた。
「ひどいな」と石川兵庫介が呟いた。
「いつものことだ」と藤沢|内蔵助《くらのすけ》が囁《ささや》いた。
「このごろずっとあんなふうだ、あれは稽古じゃあない、拷問《ごうもん》だ」
「なにかわけがあるな」
「もちろんだね」と内蔵助が囁いた、「われわれにはわからない、なにもかも秘密だ、あの少年は野中
といっしょに住んでいるんだろう、野中は監視役らしい、どうやら逃げださないように監視を命じられ
ているらしいが、だがどんな事情で、なんのために捉《つか》まえておくのかまるでわからない」
「わからないことはほかにもずいぶんある」と兵庫介が囁いた、「われわれの毎日の生活も、これから
どうなるのか、あすの日どんなことが起こるか、なにもかもわからない、おれたちはまるで、柿崎に飼
われている労馬のようなものだ」
「みんなで相談をし直そう」
「おれは幾たびもそう云った」と兵庫介は唇を曲げた、「この道場と、牝犬のように淫奔なあの三人の
女と、柿崎の贅《ぜい》をつくした生活を支えるために、これ以上汗をかくのはおれはごめんだ、もう
おれたちも考え直すときだと思う」
「みんなで相談をしよう、今夜にでもみんな集まるとしよう」
「だが、問題は食うことだ」
「むろん眼目はそのことだ」
「みんな食いつめたあげくのなかまだ、食えないことの辛さは、みんな骨身にこたえているからな」
「おれはあの人に会った」と藤沢内蔵助が囁いた。
 兵庫介は訝しそうに彼を見た。
 内蔵助は一種のめくばせをし、すばやく囁いた、「いつか西福寺へ来た人だ、しかしそれはあとで話
そう」
 新八は自分の袴の裾を踏みつけて、前のめりに転倒した。躯じゅうの力がなくなっていたから、朽木
《くちき》の折れるような倒れかたで、床板を叩く額の音が大きく聞え、彼はそのままのびて、いまに
も死にそうに、絶え絶えに喘《あえ》いだ。
「立て、新八、まだ稽古は終らないぞ」
 六郎兵衛は冷やかに云った。彼は稽古着ではなく、常着《つねぎ》に袴という姿で、それがかなり颯
爽《さっそう》として見えたし、また、一面にはひどく冷酷な感じでもあった。
「起きろ」と云って六郎兵衛は、革足袋をはいた足で、新八の肩を押しやった。
「それはひどい」と石川兵庫介が云った、「いくらなんでも足にかけるのはひどい、それはあんまりだ

「では代ってやるか」と六郎兵衛がそっちへ振返った、「石川自慢の双突《もろづ》きも久しくみない
、一本どうだ」
 兵庫介は顔色を変えた。六郎兵衛の唇に冷笑がうかんだ。彼はあざけるように云った。
「蔭でこそこそ耳こすりをするほうが、木剣を使うより身についたらしいな」
「なんですって」
「もういちど云おうか」
 兵庫介は立った。野中が「待て」と云ったが、彼は木剣架けへとんでゆき、自分のを取って、道場の
まん中に立った。
「いさましいな」と六郎兵衛が云った。
0129名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:03:00.91ID:UMnWC6GU
 そして「野中」と木刀を振りながら、「新八を伴れていってくれ」といった。
 野中又五郎はなにか云おうとした、六郎兵衛の前までいったが、なにも云わずに、新八を抱き起こし
、肩に担いで出ていった。
「柿崎さん」と藤沢内蔵助が云った、「石川の躯は酒で弱っています、どうか加減してやって下さい」

「いいか」と六郎兵衛が云った。
 兵庫介は木剣を構えた。顔色も悪いし、足もきまっていない。ただ眼だけが憎悪の光を放っていた。
灼《や》くような憎悪だけが、彼を支えているようにみえた。
「いいのか」と六郎兵衛がまた云った。
 兵庫介は怒号して打ちこんだ。六郎兵衛は右へひきながら、木剣を振った。烈しい音がして兵庫介の
木剣が飛び、彼は三間ばかりのめったが、危うく踏止《ふみとどま》った。
「拾え」と六郎兵衛が云った。
 兵庫介は木剣を拾った。藤沢が「石川」と叫んだ。
「とめるな」と六郎兵衛がどなった。
 内蔵助は立って、二人のあいだへ割って入ろうとした。しかしそれより早く、兵庫介が打ちこんだ。
打ちこんで来た兵庫介を、体当りになるほどひきつけておいて、六郎兵衛はさっと左にひらきながら木
剣を振った。
 青竹の節を抜くような、ぶきみな音がし、兵庫介は苦痛の叫びをあげて転倒した。木剣を持った手が
肱《ひじ》のすぐ上のところから捻《ねじ》れて、躯にそって投げだされていた。
「柿崎、やったな」
 兵庫介はそう叫んで、起きようとして、また苦痛のためにするどい呻《うめ》き声をあげた。
 藤沢内蔵助は木剣架けへ走ってゆき、自分の木剣をつかみ取った。そのとき野中又五郎が戻って来た
。彼は倒れている石川を見るなり、藤沢がなにをしようとしているかを察した。又五郎はとびかかって
藤沢を抱き止めた。
「放せ、放してくれ」と内蔵助は叫んだ、「石川は腕を折られた、彼が酒で弱っているのを知っていな
がらやったのだ、あまりにむごすぎる、放してくれ」
「放してやれ、野中」と六郎兵衛が云った、「そいつも片輪になりたいんだろう、どうせなかまを裏切
るやつだ、片輪にしてやるから放してやれ」
「私がなかまを裏切るって」
「おれは眼も耳もある、知っているぞ」と六郎兵衛は云った、「おれが奔走してここまでこぎつけ、み
んなの生活の基礎ができかかっているのを、その二人はぶち壊そうと企んでいるのだ」
「これがなかまの生活か」と藤沢が叫んだ、「われわれには粥《かゆ》を啜《すす》るほどの手当しか
呉れず、道場や出稽古の謝礼はみんなとりあげたうえ、自分だけはいかがわしい女を三人も抱えて贅沢
三昧《ぜいたくざんまい》に暮している、これでもなかまの生活といえるか」
「よせ、藤沢、やめてくれ」
 又五郎は彼を制止し、羽交いじめにしたまま、控え所のほうへ強引に伴れ去った。そのあいだ内蔵助
は「恥を知れ」とか、「いまに思い知らせてやるぞ」などと喚いた。
 藤沢をなだめておいて、兵庫介を伴れに戻ると、六郎兵衛は吐き捨てるように、二人ともすぐに放逐
しろと云い、自分の木剣を片づけて奥へ去った。
 兵庫介は泣いていた、「ばかなことをした、おれはばか者だ、ゆるしてくれ野中」
「歩けるか」
 又五郎は彼を支えながら立たせた。すると、まだ木剣を持ったままの腕がぐらっと垂れ、兵庫介は「
あっ」と悲鳴をあげた。又五郎はその腕をそろそろと持ちあげ、木剣を放させてから、ゆっくりと控え
所へ伴れていった。
「いま医者を呼んで来る」
「いや、おれは此処を出る」と兵庫介は云った。
 藤沢もそうすると云い、すぐに支度を始めた。
「待ってくれ、それはいけない、そうしてはいけない」と又五郎は二人に云った、「せっかくここまで
やって来た、ようやくひと息ついて、これからというところへ来ているのに、こんなことでなかま割れ
をしてどうするんだ」
0130名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:03:50.71ID:UMnWC6GU
「野中はおれの云ったことを事実とは思わないか」
「それを云うな」と又五郎は遮《さえぎ》った。
「いやおれは云う」
「まあ聞いてくれ」と又五郎は片手をあげた、「藤沢の云うことはわかる、それが事実だということも
認める、しかし、お互いが自分のいいぶんを固執するとしたら、柿崎さんには柿崎さんの云いぶんがあ
るだろう」
「柿崎に云いぶんがあるって」
「そうだ、しかしいまは石川の腕の手当をしなければならない」
「石川はおれが伴れてゆく」と内蔵助は云った。
「そう云わずに頼む」
「止めるな」と内蔵助は声をひそめ、じっと又五郎をみつめながら云った、「野中は誠実な人間だから
云うが、おれはいつか西福寺へ来た人にまた会った、そしてすべてを聞いた」
「西福寺へ来た人――」
「おれたちに柿崎とはなれて扶持を取らぬかと、さそいに来た人があったろう」と内蔵助が云った、「
おれはあの人に会った、あの人は新妻隼人《にいづまはやと》といって、伊達家の一門、兵部少輔《ひ
ょうぶしょうゆう》宗勝侯の用人だ」
「すべてとはどんな事だ」と兵庫介が訊《き》いた。
「あとで話そう」と内蔵助は云った、「おれは島田にも、砂山、尾田にも話す、おれたちは今夜、西福
寺に集まって相談する、野中もよかったら来てくれ」
「わからない」と又五郎は苦しそうに答えた、「私はこんなふうに別れ別れになることは反対だ、だが
、みんなが集まるなら、はっきり約束はできないが、ゆくかもしれない」
「待っている」と内蔵助は又五郎の眼をみつめ、「おれは野中を信じるぞ」と云った。
 又五郎は頷いた。
 藤沢内蔵助は部屋へゆき、自分と兵庫介の荷物をまとめて戻ると、兵庫介をたすけながら出ていった
。又五郎は「待て」と呼び止め、二人の木剣を持っていって渡した。
「では今夜、西福寺で――」と内蔵助が云った。
 二人を送りだしてから、又五郎は新八の部屋を覗《のぞ》き、声をかけておいて、奥へいった。
 六郎兵衛は酒を飲んでいた。六郎兵衛の左右に二人の女がい、他の一人が行燈に火をいれていた。
 又五郎がはいってゆくと、六郎兵衛は「出ていったか」と訊いた。又五郎は頷いて、そこへ坐りなが
ら、話したいことがある、といった。六郎兵衛は彼に盃をさし出した。
「私は飲みません」
「今日はつきあってくれ」
「私が飲まないことは知っておいででしょう」と又五郎はいった、「それより二人だけで話したいので
すが」
「話す必要があるのか」
 又五郎は黙った。
 六郎兵衛は彼を見て、女たちに手を振った。女たちが出てゆくと、六郎兵衛は簡単にたのむといった
。又五郎は藤沢内蔵助らのことを話した。今夜かれらが西福寺に集まること、その結果は、おそらく五
人とも道場から去るだろうこと、などを話した。
 野中はさそわれなかったのか、と六郎兵衛が訊いた。さそわれました、と又五郎はいった。藤沢は私
を信ずるといって、みんなで集まろうとさそったのです。それをおれに密告したわけか。私はかれらを
去らせたくないのです、と又五郎はいった。おれは去る者は追わないぞ。しかし、五人に去られては道
場はやってゆけなくなります。なに、かれらぐらいの人間なら五人や七人すぐに集まる。そうかもしれ
ません、しかし苦労をともに凌《しの》いで来た「なかま」とは違います、と又五郎はいった。
「それはおれの云いたいことだぞ、野中」と六郎兵衛がいった、「なるほどおれは贅沢をしているかも
しれない、しかしこれはおれ自身どうにもならないことだし、おれにはこのくらいの贅沢はゆるされて
もいい筈だ」
「それはみんな承知しています」
0131名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:04:39.27ID:UMnWC6GU
「いやわかってはいない」六郎兵衛は椀の蓋へ酒をついで呷《あお》った、「あの苦しい貧乏時代、た
とえ僅かずつでも金をくめんしたのは誰だ、この道場を買い、出稽古で扶持を取るようにしたのは誰だ
、おれは自慢しようとは思わない、しかし、ここまでもって来るにはいろいろ苦心した、辛いおもいも
苦しいおもいも、いや、口にはだせないような恥ずかしいおもいもした、おれはな、野中、――たった
一人の妹を、二年ばかり他人のかこいものにしたこともあるんだぞ」
「柿崎さん」
「本当だ、おれは妹を妾《めかけ》に出した、みんなは妹が身を売った金で、飢を凌いだことがあるん
だ」
 六郎兵衛はまた酒を呷った、それが伊達兵部をつかむ機縁になった、妹のみや[#「みや」に傍点]
から、伊達家に内紛のあるのを聞き、その主人の渡辺九郎左衛門が暗殺されて、妹が逃げ帰ったとき、
彼は「ここに運がある」と思った。たしかに運があった。
 伊達家の内紛には、兵部宗勝の野心が強く作用している。それらの事情は渡辺九郎左衛門の口から、
妹が聞きだしていたし、九郎左衛門が暗殺されたことで、兵部の野心がいかに大きく、根強いものであ
るかが推察された。そこへ宮本新八という者が、手にはいった。新八の云うことは、彼の推察がまちが
いでないことを証明した。
 そして彼は兵部をつかんだ。六郎兵衛は兵部に月づきの扶持を約束させ、その金でここに道場をひら
いた。当時は江戸市中にも町道場などは極めて少なかったが、彼は高額の謝礼を取り、初心者を入門さ
せず、主として諸侯の家へ出稽古をする、という方法をとった。
 これが相当うまくいった。町道場というものが稀《まれ》だったからであろう。また剣法家を抱えて
いない諸侯も多いので、出稽古という法も当ったのだろう、少なくともいまのところ、柿崎道場は予想
よりもうまくいっている。これはみな六郎兵衛の努力によるものだ。もちろん「なかま」の協力がなけ
れば成り立たなかったかもしれない。だが、その資金や才覚は六郎兵衛のものだ。もしも六郎兵衛がい
なかったとすれば、――そうだ、と彼はこみあげる怒りのために声をふるわせた。
「かれらは現在のおれを非難する、ここへもって来るまでにどんなことがあったかも知らず、おれがど
んなおもいをしたかも知らない、ただこの道場がうまくいっていることだけみて、おれ一人が贅沢をし
ていると非難し、おれを裏切ろうとするんだ」
「私もそこまでは知りませんでした」又五郎は頭を垂れた、「みや[#「みや」に傍点]どのにそんな
事情があるとも知らず、御厚意にあまえていたのは相済まぬと思います」
「それを云わないでくれ」と六郎兵衛は眼をそむけた。
「野中だけは信じているからうちあけたのだ、それも、正直にいえば誇張がある、妹を妾に出したのは
、おれ自身、うまいものを喰べ、酒を飲みたかったからだ」
 六郎兵衛はそこで居直るように云った、「みんなにも分けたが、腹を割って云えば自分が飲み自分が
楽に暮したいためだった、おれは、そのために苦しいおもいをした、このおもいは口では云えない、お
れは寝ても起きても、いやよそう、おれは代価を払った、まだ野中にも話さないことがいろいろある、
ずいぶんある」
 六郎兵衛は顔を歪《ゆが》め、それからぎらぎらと眼を光らせた。「やつらを去らせよう」と彼は云
った、「道場などは、もしうまくゆかぬようなら、道場などはやめてしまってもいい、おれはもっと大
きな蔓《つる》をつかんでいる、野中、おれはこの蔓を必ずものにしてみせるぞ」
 六郎兵衛は明らかに混乱していた。しかし又五郎は感動した。六郎兵衛がそんなようすをみせたこと
は、これまでに一度としてなかった。
 彼はいつも冷やかに、きりっととりすましていた。自分のまわりに眼にみえない垣をめぐらして、そ
こから中へは誰も近よせないし、自分もそこから出ようとはしなかった。その彼がいま自分をさらけだ
してみせた。全部ではないし、まだどこかにごまかしがあるようだ、けれども彼は、初めて自分の弱さ
を告白した。
 ――妹をかこいものにしても、楽な生活や充分な酒食を欠かすことができない。
 そのために苦しいおもいをし、自分で自分を責めながら、しかも、やはり妹に身を売らせていたとい
う。おれは代価を払った。という六郎兵衛の気持は、又五郎にはおよそ理解できるように思えた。
「二人でやろう、野中」と六郎兵衛は云った、「おれは必ず世に出てみせる、野中にもむろん、槍を立
てて歩ける身分を約束しよう、おれが無根拠にこんな約束をする人間でないことは、野中はわかってく
れるだろう」
0132名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:05:19.15ID:UMnWC6GU
「私はまずこの道場を守ってゆきたい」と又五郎が云った、「これをつくるまでに払われた努力や犠牲
を考えると、ここで投げるなどということは絶対にできない、なにを措いても道場の持続を計るべきだ
と思います」
「しかしかれらは戻っては来ないぞ」
「私が話します」
「おれの恥をさらしてか」
「みや[#「みや」に傍点]どののことは口外しません、但し、貴方はどうか譲歩して下さい」
「謝罪しろというんだな」
「貴方の暮しぶりを改めてもらいたいのです」
「たとえば」
「あの女たちを道場から出して下さい、よそへ囲って置かれることは自由ですが、この道場からは出し
て下さい」
「おれは石川の腕を打ち折っているぞ」
「そのことは私が話します」
「その問題がさきだ」と六郎兵衛は云った、「かれらと話して、かれらが詫《わ》びをいれるなら考え
てみよう、但し、女はここから出すとしても、おれの生活はおれのものだ、今後はいかなるさしで口も
しない、という誓約をしてもらおう」
「とにかく話してみます」
「おれの条件を忘れないでくれ」
 又五郎は頷いた。
 新八もどうやら元気を恢復《かいふく》していたので、又五郎は彼を伴れて材木町の家に帰り、夕食
を済ませるとすぐに、西福寺へでかけていった。

[#3字下げ]梅の茶屋[#「梅の茶屋」は中見出し]

 年があけて、万治四年[#1段階小さな文字](この年四月に「寛文」と改元)[#小さな文字終わ
り]の正月二十日に、浅草材木町の家へ、おみや[#「みや」に傍点]が帰って来た。五日まえ、――
新八は元服していたが、おみや[#「みや」に傍点]は、初めて見る彼の男になった姿に、まあと眼を
ほそめて、しばらくうっとりと見まもっていた。
 又五郎は道場へでかけたあとであった。
 新八は妻女のさわ[#「さわ」に傍点]と娘のお市をひきあわせた。さわ[#「さわ」に傍点]は寝
ていたが、自分たち一家が世話になっている人の妹だと聞いて、いそいで起きて接待しようとした。娘
のお市はそれをとめ、「もう自分も十歳になったのだから」などと云いながら、手まめに茶を淹《い》
れたりした。襖《ふすま》ひとえだから、このようすは筒ぬけにわかった。おみや[#「みや」に傍点
]は新八の耳に「利巧そうなお子ね」と囁いたが、そわそわして少しもおちつかなかった。
「早く外へ出ましょう」
 茶をひとくち啜《すす》ると、すぐにおみや[#「みや」に傍点]が囁いた。新八は頭を振った。
「外出は禁止なんです」
「あたしが断わってよ」
「野中さんに気の毒なんです、柿崎さんは怒るにきまっていますから」
「ではあんた、ずっと家にいるっきりなの」
「一日おきに道場へゆきます」
 新八は暗い顔をした。おみや[#「みや」に傍点]はそれを見て、およそ事情がわかったようであっ
た。
「ちょっと出ましょう」とおみや[#「みや」に傍点]は云った、「あたしがあとで兄に云うからいい
わ、いま断わって来るから支度をしてらっしゃい」
 新八はためらったが、おみや[#「みや」に傍点]は立って隣りの部屋へゆき、寝ているさわ[#「
さわ」に傍点]に断わりを云った。
 さわ[#「さわ」に傍点]はしぶった。良人《おっと》の又五郎からよほどきびしく云われているら
しい、お市までがそばから「父の承諾がなければ」などと、心配そうに口をそえた。おみや[#「みや
」に傍点]は殆んど相手にならず、兄には自分がそう云うから、と云って、こちらへ立って来てしまっ
た。
0133名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:06:32.76ID:UMnWC6GU
「あら、支度をしないの」おみや[#「みや」に傍点]は坐ったままの新八を見て云った、「お屋敷で
は宿下《やどさが》りは年に二度っきりないのよ、それも日の昏《く》れるまでには帰らなければなら
ないし、兄のところへも寄らなければならないのよ、さあ、早く立ってちょうだい」
 おみや[#「みや」に傍点]は自分で新八の着替えを出し、せきたてて支度をさせた。彼女がなんの
ために伴れ出そうとしているか、いっしょに出るとどんなことになるか、新八にはよくわかっていた。

 ――きさまは自分に誓った筈ではないか。
 彼は自分に嫌悪を感じた。新八は自分に誓った。もうおみや[#「みや」に傍点]の誘惑には負けま
い、どんなに誘惑されても必ず拒絶しよう。それは、良源院から宇乃を伴れ出そうとして、宇乃の前に
立ったとき、宇乃の清らかな眼で、まっすぐにみつめられたときのことであった。おれは汚れている、
と新八はそのとき思った。彼は柿崎六郎兵衛の云うことを信じ、宇乃と虎之助を保護するために、伴れ
出しにいったのであるが、宇乃の美しく澄んだ眼で、まっすぐにみつめられたとき、すぐには舌が動か
なかった。
 そのとき彼は、自分が汚れていること、姉弟を伴れ出すのも欺瞞《ぎまん》であることに気づき、す
るどい悔恨と苦痛におそわれた。そして、愛宕《あたご》山の下で塩沢丹三郎に追いつかれ、彼と相対
して立ったとき、その悔恨と苦痛は頂点に達した。
 おれは立直ろう、と新八は自分に誓った。立直る第一はおみや[#「みや」に傍点]の誘惑を拒絶す
ることだ。幸いおみや[#「みや」に傍点]は屋敷奉公に出ていたし、野中の家族と暮し始めて、日常
もかなり変化した。一日おきに駿河台下の道場へかよい、六郎兵衛に稽古もつけられる。その激しい稽
古ぶりは容赦のないもので、たぶん、畑姉弟の誘拐に失敗したことを責める意味もあったろうが、しか
し彼は、すすんでその「責め」を受けいれた。それはむしろ、自分を鍛え直すのによい機会だと思った

 そうしていま、おみや[#「みや」に傍点]が宿下りで帰って来、彼をさそい出そうとするいま、新
八には拒絶できないことがわかった。彼は自分を罵《ののし》り、卑しめながら、自分の内部からつき
あげてくる欲望が、おみや[#「みや」に傍点]の誘惑に抵抗できないことをはっきりと認めた。
 ――まだそうきまったわけではない。
 新八は心のなかで云った。どこかで食事でもするつもりかもしれないし、いざとなったときはっきり
態度をきめればいい。そう自分に云い含めながら、彼は野中の家族の顔を見ることができなかった。
「いってらっしゃいませ」お市は送りだしながら云った、「なるべく早くお帰り下さいましね」
 新八は黙って頷いた。
 二人が路地へ出ると、隣家のお久米が格子越しに声をかけた。おみや[#「みや」に傍点]はそっけ
なく挨拶をし、新八をせきたてて通りへ出た。
「逢いたかったわ」おみや[#「みや」に傍点]はすばやく囁き、袂《たもと》を直すふりをして、ち
ょっと新八の手を握った。
「駕籠《かご》がいいわね」
「どこへゆくんですか」
「向島よ」とおみや[#「みや」に傍点]が云った、「このあいだ、お屋敷のお中※[#「藹」の「言
」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《ちゅうろう》のお供でいった、いいところがあるの、長命寺と
いうお寺のそばよ」
 おみや[#「みや」に傍点]はうきうきしたようすで、ながしめに新八を見た。新八は赤くなって、
眼をそらした。おみや[#「みや」に傍点]は辻《つじ》駕籠を二|梃《ちょう》よび、「真崎の渡し
まで」と命じた。
 そのとき両国橋は、それまでの位置より少し川下へよったところに、新らしく架け直す工事をしてい
た。おみや[#「みや」に傍点]と新八は真崎まで駕籠でゆき、そこから舟で向島へ渡った。土堤《ど
て》へ登ると、向うはいちめんの刈田で、ところどころに松林や、森があり、おみや[#「みや」に傍
点]がそれを指さしながら、「あれが三囲稲荷《みめぐりいなり》」だとか、「こちらが牛の御前で、
そのうしろが長命寺」だなどと新八に教えた。
0134名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:10:03.32ID:UMnWC6GU
 おみや[#「みや」に傍点]が案内したのは、牛の御前の社から長命寺へゆく途中で、藁葺《わらぶ
》き屋根の、古い農家ふうの家であった。暗くて広い土間へはいると、縁台が三つ並んでい、戸口の隅
には釜戸《かまど》があって、大きな湯釜から白く湯気がふいていた。その釜戸の前に老婆が一人。ま
た、障子のあいているとっつきの部屋に娘が一人。これは行燈の掃除をしていたが、――二人がはいっ
てゆくと、その娘は老婆に声をかけて、すぐに障子をしめてしまった。
 釜戸の前から立って来た老婆は、二人を見ると心得たようすで、あいそを云いながら「どうぞこちら
へ」と土間を裏へぬけていった。槇《まき》の生垣のある路地をゆくと、梅林のある庭へ出たが、その
庭に面して、やはり藁葺きの、隠居所ふうの建物が三棟あり、老婆はその端にある一と棟へかれらを案
内した。
 おみや[#「みや」に傍点]は新八を座敷へあげてから、紙に包んだものを老婆に渡し、なにか囁い
た。老婆は承知して去った。
「あら、来てごらんなさい」おみや[#「みや」に傍点]は濡縁に立ったままで云った。
「ちょっと来てごらんなさい、梅が咲いていることよ」
 新八は坐ったままそっちを覗いた。梅の木はみな古く、撓《たわ》めた幹や枝ぶりが、午《ひる》ち
かい日光のなかで、いかにも清閑に眺められたが、新八のところからは花は見えなかった。
「この辺は暖かいのね」
 おみや[#「みや」に傍点]はそう云いながら、こちらへはいって障子をしめ、とびつくように、坐
っている新八に抱きついた。新八はぶきように拒んだ。
「逢いたかったわ」おみや[#「みや」に傍点]は躯を放して云った、「あなたはなんでもなかったの
ね、新さん、そうでしょ、あたしがいないからせいせいしてたんでしょ、ねえそうでしょ」
 新八は赤くなり、なにか云おうとしたが、言葉が出なかった。そのとき、濡縁のところへ人の来る足
音がし、「ここへ火を置きます」と云う娘の声がした。おみや[#「みや」に傍点]が立ってゆくと、
濡縁に火桶《ひおけ》が置いてあり、娘の姿はもう見えなかったが、おみや[#「みや」に傍点]が火
桶を持って戻ると、すぐにまた茶の道具をはこんで来た。
 おみや[#「みや」に傍点]は茶を淹れながら、はっきり仰しゃいな、と云った。本当はあたしのこ
となんか忘れてたんでしょ、ことによると隣りのお久米さんとでもできたんじゃなくって、そうでしょ
新さん。ばかなことを云わないで下さい、と新八が云った。あら、あんた赤くなったわね、ちょっとあ
たしの眼を見てごらんなさい。あたしの眼をまっすぐに見るのよ。よして下さい、そんな冗談はたくさ
んです、と新八は顔をそむけた。
「私はそれどころじゃあなかったんです」と彼は云った、「一日おきに道場へかよって、柿崎さんに稽
古をつけられているんです」
「まあ、兄から、じかに」とおみや[#「みや」に傍点]は眼をみはり、新八に茶をすすめながら、「
それでわかったわ」と眉をひそめて云った。
「なんだか痩《や》せたようだし、顔色もよくないと思ったけれど、兄の稽古がきびしいのね」
 新八は眼を伏せた。おみや[#「みや」に傍点]は敏感に彼の表情を読んだ、「なにかあったのね、
新さん」
 それは、と新八は口ごもった。おみや[#「みや」に傍点]はいきごんで問いつめた。話してちょう
だい、いったいなにがあったの、聞かないうちはおちつかないじゃないの、としんけんに云った。
 新八はためらった、「このあいだ、柿崎さんが」と彼は吃《ども》りながら云った。
「石川さんの腕を折ったんです」
「石川さんて誰なの」
「道場にいた石川兵庫介という人です」
 おみや[#「みや」に傍点]は頷いて、「ああ、兄の厄介者ね」と云った。そのとき庭で小鳥の声が
した。鶯《うぐいす》らしいが、まだ幼ない鳴きぶりで、梅林の枝を渡っているのだろう。その声は遠
くなり近くなり、ややしばらく聞えていた。
 二人は気がつかなかった。
0135名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:10:43.65ID:UMnWC6GU
 おみや[#「みや」に傍点]が兄の「厄介者」と云うのを聞いて、新八は、びっくりしたように彼女
を見た。その、むぞうさな調子にこもっている、侮蔑《ぶべつ》のひびきに驚いたのである。石川さん
は厄介者ではない、藤沢さんも野中さんも、ほかの人たちもちゃんと働いている。道場でも門人たちに
稽古をつけるし、出稽古もして働いている。
 ――なにもしないのは柿崎さん一人だ。
 と新八は思った。へんな女を三人も置いて、なにもしないで贅沢ばかりしているじゃないか、それが
喧嘩《けんか》のもとになったのだ、と新八は思った。――そういえばこのひとにも似たところがある
。たしかに似たような性分だ、と思った。
 おみや[#「みや」に傍点]が、「なにをそんなにじろじろ見るの」と云った。その人の腕をどうし
て兄が折ったのか、なにが原因でそんなことになったのかと、おみや[#「みや」に傍点]は訊いた。

「私に稽古をつけるのが乱暴すぎる、と石川さんが云ったんです、それで柿崎さんが怒って、二人で試
合をしたんですが、石川さんはずっと酒を飲みつづけて、躯が弱っていたそうですし」
「兄は強いのよ」とおみや[#「みや」に傍点]が遮って云った、「いつか話したでしょ、五人か六人
の侍が刀を抜いてかかったのに、兄は素手に扇子を持っただけでみんなをやっつけてしまったわ、その
人が躯が弱っていなくっても、兄には勝てやしないことよ」
「たぶん、そうでしょう」と新八が云った、「しかしそれなら、なにも腕を打ち折らなくともいいでし
ょう、それほど強いのなら、あたりまえに勝つだけでいいと思います、侍の右の腕ですからね、もう石
川さんは一生刀が使えませんよ」
「でも侍同士の勝負なら、打ちどころが悪くて死んだっても文句はない筈でしょ」
「けれどもなかまですからね」と新八は云った、「私はくたくたになって、野中さんに部屋へ伴《つ》
れてゆかれたので、そこにはいなかったんですが、見ていた藤沢さんが怒りだして、石川さんといっし
ょに道場から出ていってしまったんです」
「いいじゃないの、出てゆかれて困るような人たちでもないんでしょ」
「私はよく知りません」と新八は云った。
 しかし二人だけではなく、他の三人も出てゆくようすで、みんなが西福寺へ集まった、と新八は云っ
た。五人ともですって。そうです。それでどうなったの、とおみや[#「みや」に傍点]が訊いた。野
中さんがなだめにゆきました。と新八が云った。帰ったのはずいぶんおそかったから、なだめるのに骨
がおれたのでしょう、でもみんなは「柿崎さんが謝罪するなら」という条件で、思い止ったということ
です。
 そのとき庭さきで、老婆の声がした。
「ちょっと待って」とおみや[#「みや」に傍点]は新八に云って立っていった。
 老婆が娘と二人で、そこへ膳の支度をして来ていた。おみや[#「みや」に傍点]はそれらをはこび
こんだ。三品ばかりの皿と鉢に、酒が付いていた。もちろん料理茶屋などはないじぶんのことで、その
肴《さかな》も、めぼりで捕った泥鰌《どじょう》と、煮びたしの野菜に卵を煎《い》ったもの、それ
に漬物と梅びしおなどであった。
 おみや[#「みや」に傍点]は膳拵《ぜんごしら》えをし、燗鍋《かんなべ》に酒を注いで火桶にか
けながら、「それからどうして」とあとを訊いた。
「私は詳しいことは知りませんが、とにかくみんな道場へ戻ることになりました」
「それはその筈よ」とおみや[#「みや」に傍点]が云った、「あの人たち兄からはなれたら、その日
から食うにも困るんだわ、これまでずっと兄の世話になってたんだし、出てゆけるわけがないことよ」
0136名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:11:23.72ID:UMnWC6GU
「それが、そうではないらしいんです」と新八が云った、「これも詳しいことは知りませんが、道場を
出れば扶持を呉れる人がある、というんです」
「あらそうかしら」
「まえにもいちど話しがあって、月に幾らとか、相当な扶持を遣《や》ろうと云われたのを、柿崎さん
と別れるわけにはいかない、といってきっぱり断わったのだそうです」
「それで、こんどはこっちから泣きついたってわけね」
「いいえ、藤沢内蔵助さんが偶然その人に会って、また話しをもちかけられたのだそうで、しかもそれ
は、柿崎さんの世話をしているのと同じ人だということです」
「兄の世話をしているんですって」
 新八は「そうです」と眼を伏せながら云った、「それは一ノ関さまの御用人だということでした」
 おみや[#「みや」に傍点]は眼をみはった、「一ノ関といえば、伊達兵部さまのことじゃないの」

「そうです」
「だって兄が兵部さまの世話になるわけはないでしょ、兄はあたしの主人やあなたたちの親の仇《あだ
》として、いつか兵部さまを討たせてやると云った筈よ」
「そう云われました」
「それで一ノ関の世話になってるなんておかしいじゃないの」
「でもそれが事実らしいんです」と云って新八は言葉を切った。
 おみや[#「みや」に傍点]は燗鍋の酒を銚子《ちょうし》に移して、新八に盃《さかずき》を持た
せようとした。新八は拒んだが、おみや[#「みや」に傍点]に「一つだけ」と云われると、拒みきれ
ずに盃を取った。おみや[#「みや」に傍点]は彼に酌をし、自分も盃を取って、新八に酌をさせた。

「わけがあるのよ」とおみや[#「みや」に傍点]は盃に口を当てながら、なにか考えるような眼つき
で云った、「そうよ、なにかわけがあるんだわ、兄はびっくりするほど知恵のまわるところがあるんだ
から」
 新八は黙って酒を啜り、咽《む》せて咳《せき》こんだ。おみや[#「みや」に傍点]は盃をすっと
あけて云った。
「それで、その人たちみんな道場へ帰ったのね」
「石川さんは帰りません」
「腕を折られた人ね」
「そうです、いつかこの恨みは必ずはらしてみせると云って、一人だけ西福寺からどこかへいってしま
ったそうです」
「よせばいいのに、ばかな人だわね」
「なにがばかですか」と新八が訊いた。
 その調子が強かったので、おみや[#「みや」に傍点]は訝《いぶか》しそうに新八を見た。この女
は愚かだ、と新八は思った。
「だって恨みをはらすなんて」とおみや[#「みや」に傍点]が云った、「五躰《ごたい》が満足でい
てさえかなわないのに、片輪になってから、それも右の腕を折られてしまってからなにができるの」
「そうですね」
「へたなことをすれば、こんどは命までなくしてしまうわ、みんな兄の強いことを知らないのよ」
「そうですね」と新八は云った。
 そう云いながら、彼はふと、石川さんはきっとやるぞ、と思った。片腕になったからこそ、石川さん
はきっとやるに相違ない、と新八は思った。
「もうそんな話しはやめ」おみや[#「みや」に傍点]は膝《ひざ》をずらせた、「ねえもっとこっち
へお寄りなさいよ」
「これで充分です」
「じゃああたしのほうからいくことよ」
「私は帰ります」新八は盃を置いた。
「なんですって」
「私は帰ると云ったんです」
「なぜそんな意地悪なことを云うの」
「私は」と新八は唇をふるわせた、「私は、自分が厄介者だ、ということに、今日はじめて気がつきま
した」
「なにを云うの新さん」
「私はなにもせずに、柿崎さんや貴女《あなた》に食わせてもらっている、この着物も貴女に買っても
らったものだし、小遣いまで」
「よして、よしてちょうだい」
0137名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:12:03.34ID:UMnWC6GU
 おみや[#「みや」に傍点]は立って、新八にとびつき、避けようとする彼を両手で抱いた。
「なにを急にへんなことを云いだすの、なにが気に障ったの、あなたが厄介者だなんて誰が云って」
「放して下さい」彼は身をもがいた。
「いや、新さんたら」
 新八は女の手をふり放した。おみや[#「みや」に傍点]は「新さん」と叫び、立って逃げようとす
る新八に、うしろからしがみついた。いまだ、と新八は心のなかで叫んだ。この女と別れるのはいまだ
、いまこそきっぱり片をつけられる、逃げろ、たったいまここから逃げだしてしまえ。
 新八は女の腕を放そうとした。おみや[#「みや」に傍点]はひっしにしがみつき、意味のないこと
を叫びながら、彼をひき戻そうとした。新八はよろめいた。その手を思いきってひと振りすればいいの
だ、しかしその力は出て来ず、却《かえ》って、よろめく女を支えるかたちになった。おみや[#「み
や」に傍点]は両腕を新八の頸《くび》に巻きつけた。
 新八は自分が崩れおちるのを感じた。おみや[#「みや」に傍点]の両腕が頸に絡みつき、袖が捲《
まく》れて裸になっているその腕が、自分の膚へじかに触れ、彼女の唇が、自分の唇をぴったりとふさ
いだとき、それまで辛うじて支えていた自制力が、溶けるように崩れてゆくのを感じた。
「放して下さい」
 新八は顔をそむけ、彼女の腕をつかんで力まかせにもぎ放した。おみや[#「みや」に傍点]が「痛
い」といった。新八は女を突きとばし、障子をあけて濡縁へ出た。おみや[#「みや」に傍点]は膳の
上へ転んだらしい、皿や鉢の割れる音とともに「新さん」という叫び声が聞えた。
「待ってちょうだい」
 新八は草履をはいた。するとおみや[#「みや」に傍点]が濡縁へ出て来て、哀願するように云った

「あたしを置いてゆかないで、新さん、お願いよ、戻って来てちょうだい」
 新八は梅林のところで立停った。
「戻って来て」とおみや[#「みや」に傍点]が云った。
「そのままゆけやしないわ、あなた刀を忘れていてよ」
 新八は反射的に腰へ左手をやった。両刀とも座敷へ置いたままである。彼は唇を噛《か》んだ。戻っ
たらおしまいだ、戻ればもうおみや[#「みや」に傍点]の手から逃がれることはできない、それは自
分でよく知っていた。逃げるのはいまだ。
 新八は走りだした。
「新さん、待って、新さん」
 おみや[#「みや」に傍点]の泣くような声が追って来た。
 新八は梅林をぬけていった。花の咲いている枝があり、花の香がつよく匂った。梅林の端に竹の四目
垣がまわしてある、新八はそれを跨《また》ぎ越して、刈田のあいだの畦道《あぜみち》へはいり、そ
れを南へ歩いていった。
 風のない、晴れた日であったが、刈田の溜《たま》り水は凍ったまま溶けず、霜でゆるんだ畦道は、
うっかりすると滑った。
「やったぞ、おれは逃げたぞ」新八は歪《ゆが》んだ笑いをうかべた、「やろうと思えばやれるんだ、
きさま男だぞ新八、みろ、きさまみごとに逃げられたじゃないか」
 彼は土堤へあがった。
 いっそこのまま出奔しようか、新八は歩きながら考えた。刀を差していないので、腰がなんとなく不
安定に軽い。そうだ、おれはもう元服もしたことだ、土方人足になっても、自分ひとりぐらい食ってゆ
けるだろう。そうだ、このまま出奔しよう、と彼は考えた。
 材木町の家へ帰れば、またおみや[#「みや」に傍点]につきまとわれるだろう。そして、柿崎六郎
兵衛もたのみにはならない、と彼は思った。たのみになるどころか、彼は逆に、おれを利用してさえい
るようだ。――新八は歩きつづけた。
0138名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/01/07(火) 09:13:37.94ID:UMnWC6GU
 そうだ、柿崎はおれをなにかに利用している。妹に妾奉公をさせていた彼が、いまでは道場のあるじ
になり、女を三人も使って贅沢な生活をしている。いったいどこからそんな金が出たのか、そうだ、い
ったいどこからそんな金が出たのか。寺へかよいだいこく[#「だいこく」に傍点]にいっていた妹も
、いまではどこかの武家屋敷へ奉公にいっている。もう妹に稼《かせ》がせる必要もなくなったのだ。
つまりそれだけの金が、どこからはいって来るのであろう、どこからだ。
「一ノ関」新八は唇を噛んだ。
 藤沢内蔵助らの話しが、いまべつの意味で思いだされた。一ノ関の用人が扶持しようという、同じ人
の手から柿崎にも扶持が来ている。とすれば、そのたね[#「たね」に傍点]はおれだ、と新八は思っ
た。
「柿崎は畑姉弟をも、そうだ、畑姉弟をも手に入れようとした、姉弟を保護するためではない、おれと
同じように自分の手に入れて、一ノ関から金をひきだすたね[#「たね」に傍点]にしようとしたのだ

 おれはめくらでばかだった、と新八は思った。藤沢たちの話しを聞いたとき、すぐ気がつかなければ
ならない筈だった。
「そうだ、おれはばかだ」彼は立停った。
「逃げだそう、このまま逃げてしまおう」
 彼はそう呟《つぶや》きながら、ぼんやりと向うを眺めた。
 そこは両国橋の上であった。少し川下によったところで、架橋工事をしていた。それは、両国橋を新
らしく架け変えているのであるが、水に浸り泥まみれになって、杭打《くいうち》をしている人足たち
の姿を、新八はぼんやりと眺めていた。ある者は腰まで、ある者は胸まで水に浸り、頭から泥まみれに
なって、杭を打っている人足たち。正月二十日の水の冷たさが、見ている新八にも伝わって来るように
思えた。
 彼は顔を歪め身ぶるいをした。あれがやれるか。自分にあの仕事ができるだろうか、と新八は考えた
。そのとき、彼の背にそっと手が当り、「新さん」と囁く声がした。
 新八はゆっくり振返った。おみや[#「みや」に傍点]が立っていて、にっと彼に頬笑みかけた。新
八はまた顔を歪めた。
「ひどい人、どうしたの」
 おみや[#「みや」に傍点]は睨《にら》みながら風呂敷に包んで抱えていた刀を、彼の手に渡した
。新八は虚脱したような身ぶりで、それを左に抱えながら歩きだした。

[#3字下げ]断章(五)[#「断章(五)」は中見出し]

 ――拝謁の式が終りました。
「もようを聞こう」
 ――召されましたのは十九人、城中千帖敷の廊下の間にて、老中がた列座のうえ謁をたまい、次のよ
うな拝領物がございました。
[#ここから1字下げ]
総奉行 茂庭|周防《すおう》 白銀百枚、時服《じふく》十。
奉 行 片倉小十郎 同百枚、同十。
同   後藤孫兵衛 同三十枚、同五。
同   真山|刑部《ぎょうぶ》 同三十枚、同五。
その他目付役以下十五人。
里見十左衛門。但木《たじき》三郎右衛門。秋保刑部《あきうぎょうぶ》。大山三太左衛門。郡山《こ
おりやま》七左衛門。荒井九兵衛。里見庄兵衛。境野弥五右衛門。志茂十右衛門。大条次郎兵衛。北見
彦右衛門。横田善兵衛。剣持八太夫。上野三郎左衛門。小島加右衛門。
[#ここで字下げ終わり]
 右の者たちには、それぞれ白銀二十枚、時服四ずつを賜わりました。
「お声はなかったのか」
 ――松山[#1段階小さな文字](茂庭)[#小さな文字終わり]どの白石[#1段階小さな文字]
(片倉)[#小さな文字終わり]どのに、ながながの普請ほねおりであった、と上さまよりお言葉がご
ざいました。
「これで小石川普請も終ったわけだな」
 ――総工費の積りが出ました。
「わかっている」
0139名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/01/07(火) 09:14:14.53ID:UMnWC6GU
 ――一分判にて十六万三千八百十六切、小判で四万九千五百両ということですが。
「それはわかっている」
 ――次に、松山どのが厩橋[#1段階小さな文字](酒井忠清)[#小さな文字終わり]さまに辞任
の意をもらされました。
「辞任の意だと」
 ――御用疲れもあり、近来とかく病気がちなので、国老の役を辞したいと思う、と申しておられまし
た。
「松山が辞職、あの周防がか」
 ――いずれ両後見より改めて願い出ると、松山どのは申され、厩橋さまは聞きおくと答えられました

「それは意外だ、おれには信じられない」
 ――はあ。
「松山は奥山大学の密訴の件を知っている筈だ、たしかに彼の耳にはいっている筈だし、なにか対抗手
段を謀《はか》っていると思った、松山の気性からすれば、あの密訴を黙ってみのがす筈はない」
 ――しかし辞意は固いようでございます。
「信じられない、ここで辞任することは、大学に対して旗を巻くことになる、松山の気性でそんなこと
ができるとは思えない」
 ――なにか仔細があるのかもしれません。
「辞意がたしかなら仔細がある、そうだ、松山の辞任にはなにか理由があるぞ」
 ――申上げます。
「内膳か、なんだ」
 ――ただいま一ノ関から書状が届きました。
「使者は誰だ」
 ――相原助左衛門でございます。
「隼人《はやと》、読んでみろ」
 ――大槻《おおつき》[#1段階小さな文字](斎宮《いつき》)[#小さな文字終わり]どのから
の書状でございます。
「なんと書いてある」
 ――船岡[#1段階小さな文字](原田甲斐)[#小さな文字終わり]どのには、やはりなにも変っ
た行動はみえない、とあります。
「涌谷との往来はどうだ」
 ――まったくないといいます。
「仙台でもか」
 ――原田どのは船岡にこもったきりらしゅうございます。
「仙台へは出ないのか」
 ――国目付衆が下向すれば、仙台へ出なければならぬでしょうが、まだ帰国して以来ずっと船岡にこ
もったままのようです。
「今年の国目付は」
 ――使番の荒木十左衛門どの、桑山伊兵衛どので、五月一日に出発されます。
「そのとき注意するようによく申してやれ」
 ――承知いたしました。
「国目付が到着すれば、涌谷も仙台へ出ずばなるまい、そのとき眼を掠《かす》められないようにしろ
と云え」
 ――申し遣わします。
「甲斐は船岡でなにをしておる」
 ――例によって山小屋にひきこもり、樹を伐《き》ったり猟をしたりしているそうです。
「変った男だ」
 ――昔からでございます。
「そうだ、昔からあんなふうだ、館《たて》にいるときは柔和で穏健で、殆んど君子といったふうだ、
江戸番のときはなおさら、人づきあいもよく誰にも好かれ、怒るとか荒い声をだすような例はかつてな
い、隠宅を持つなどということは外聞を憚《はばか》るものだし、周囲でも見て見ぬふりをするものだ
、しかし彼は湯島に隠宅のあることを隠そうともしないし、またそれを非難する者もない、相当なねじ
け者までが湯島を訪ねて、馳走になったり泊ったりすることさえある」
 ――原田どのの人徳でございますな。
「たしかに一種の人徳だ、それが山小屋にこもると、まるで人間が変ってしまう、おれは出府する途中
たち寄って、この眼で二度そのようすを見た」
 ――いちどは私がお供をいたしました。
「そうだ、隼人もそれをいちど見ている」
 ――あれは十一月でございましたな。
0140名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:14:45.40ID:UMnWC6GU
「猪《しし》の腹を裂いていたが」
 ――二十貫もある大きな猪でございました、原田どのは双肌《もろはだ》ぬぎになって、山刀でみご
とに腹を裂き、皮を剥《は》ぎ、肩や腿肉《ももにく》を切り取って、半|刻《とき》と経たぬまに、
きれいに拵えてしまわれました。
「隼人は吐きそうな顔をしておったぞ」
 ――私は半分も見てはいられませんでした。
「おれはよく覚えておる、粉雪まじりの風のなかで、双肌ぬぎになった彼の、筋肉のこりこりした逞《
たくま》しい上半身、日にやけた、髭《ひげ》だらけの顔、それから、炉端で炙《あぶ》り焼にした猪
の肉を、歯でかじり取って喰《た》べていた姿を、おれはいまでも、ありありと思いうかべることがで
きる」
 ――私はあの肉は喰べませんでした。
「あれは正真正銘の山男だ、裸馬に乗って駆けまわり、けものを狩り、けものの肉を食い、藁《わら》
の中で、熊の毛皮をかぶって寝る、あれが山小屋にこもっているときは相貌《そうぼう》まで変る、あ
れは生れながらの山男だ、どんな山男よりも生っ粋の山男だ、おれはこの眼で二度もそれを見ている」

 ――私にはわかりません。
「なにがわからぬ」
 ――ふだんの原田どのと、山小屋にこもっている原田どのと、どちらが本当の原田どのか、というこ
とがです。
「どちらも本当の甲斐だ、彼のなかには二人の甲斐がいる、人間には誰しもあることだが、彼のばあい
は極端なだけだ」
 ――書状にはもう一つございます。
「なんだ」
 ――原田どのの内室が松山へゆき、そのまま六十日あまり滞在しているとのことです。
「なにかあったのか」
 ――松山で佐月[#1段階小さな文字](茂庭周防の父)[#小さな文字終わり]どのが病気をされ
、その看護にゆくというので、わかりしだい申上げるとございます。
「わかった」
 ――書状はそれだけです。
「柿崎のほうはどうだ」
 ――なにも変ったことはございません。
「出奔した男はどうした」
 ――石川兵庫介という者ですが、まだゆくえが知れぬもようでございます。
「あれは十二月のことだな」
 ――ただいまが四月ですから、もうあしかけ五つ月になります。
「柿崎の扶持は」
 ――減らしました、六人の組が欠けたのを理由に、正月から五十金にいたしましたが、これは申上げ
たと存じます。
「彼は不服を云わぬか」
 ――私はもっと減らすつもりでいます。
「いそぐな、彼は使いみちがあるのだ」
 ――それはたびたびうかがいました。
「では彼を怒らせるな」
 ――そういたします。
「忘れていた、まもなく改元になるぞ」
 ――はあ。
「年号が変るのだ、数日うちか、少なくともこの四月ちゅうには変るだろう」
 ――なんと変りますか。
「寛文というそうだ、たぶん寛文ときまるだろうと聞いた」
 ――すると万治は三年で終るわけですな。
0141名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:15:20.05ID:UMnWC6GU
「そうだ」
 ――ふしぎな気がいたします。
「なにが」
 ――綱宗さまは万治元年に御相続あそばされ、去年の秋には御逼塞《ごひっそく》の沙汰が出ました
、そうしていま年号が変る、万治という年は、綱宗さまを世に出し、また御隠居させるためにあったよ
うに思われます。
「うん、そして、寛文という年代こそ、隼人、この年代こそだぞ」

[#3字下げ]胡桃の花[#「胡桃の花」は中見出し]

 五月十七日に、甲斐は、山の小屋から船岡の館《たて》へおりて来た。
 彼は正月十一日に江戸から帰ると、すぐに山へあがって以来、ずっと小屋にこもったままで、七日に
一度、家老の片倉隼人が用務のために訪ねるほか、一人の家従も近づくことを許さず、山番の与五兵衛
と二人だけで暮していた。
 二月に江戸で、本邸の移転があったことも、甲斐は山の小屋で聞いた。桜田の上屋敷が、甲府綱重の
本邸になるため、新たに麻布白金台に替地が与えられ、伊達家では愛宕《あたご》下の中屋敷を本邸に
直した。
 三月二十九日に、将軍家綱が、小石川の堀普請を上覧されたことも、四月二日に、普請奉行以下十五
人が江戸城へ召され、将軍から慰労のことばと拝領物があったことも、やはり甲斐は山の小屋で聞いた

 また、江戸で茂庭周防が、首席国老を辞任したことを、五月二日に聞いたが、そのとき甲斐は、いち
ど館へ帰った。それは長男の宗誠《むねもと》が、十五歳になって元服するのと、端午の節句とが重な
るからであった。
 妻の律《りつ》は志田郡松山にいた。松山の館では、茂庭佐月が病臥《びょうが》ちゅうなので、看
護のためにゆかせたのである。それは甲斐が帰国するとすぐのことで、律はそのまま松山にとめられて
いた。律はしきりに手紙をよこして、帰りたいから迎えに来てもらいたい、とせがんだが、甲斐はみな
にぎりつぶして、一通の返事もださなかった。
 宗誠は元服して帯刀《たてわき》となのらせた。そして端午の節句を済ませると、甲斐は甚次郎[#
1段階小さな文字](山)[#小さな文字終わり]の小屋へ去った。
 このとき、年号が「寛文」と改元されたことや、幕府の国目付が、五月二十五日ころ仙台に着く予定
だということを聞いたので、そのまえに仙台へ出るため、十七日に山をおりたのであった。
 館へ着くと、甲斐は風呂にはいり、髪を洗い、髭を剃《そ》った。彼はすっかり日にやけていた。躯
《からだ》も贅肉《ぜいにく》がおちてひき緊り、肩や腕や腰のあたり、筋肉がこりこりして、膚は青
年のように、つやつやと張りきってみえた。
 甲斐は好きな藍染《あいぞめ》の木綿の単衣《ひとえ》に、白|葛布《くずふ》の袴《はかま》をは
き、短刀だけ差して、邸内の隠居所にいる母のところへ、挨拶にいった。母の津多女は茂庭家の出で、
故、石見延元の女《むすめ》であり、良人《おっと》の原田|宗資《むねすけ》が元和九年に病死して
以来、――そのとき甲斐宗輔は五歳であったが、彼女は船岡領四千百八十石のきりもりと、わが子の養
育にうちこんで来た。年はもう六十三歳になるが、寒暑にかかわらず、未明に庭へ出て、一刻たっぷり
薙刀《なぎなた》を振るのと、日に二回の水浴とを、いまでも欠かしたことがないほど、健康であり、
芯《しん》の強い性分であった。
0142名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:15:57.05ID:UMnWC6GU
 津多女は甲斐を育てるのに厳格であった。学問や武芸のことは云うまでもないが、七歳の年から、毎
年、厳寒の季節になると、山番の与五兵衛に預け、甚次郎の山中にある彼の小屋で生活させた。十一月
から二月半ばまで。正月の三日だけ館に帰ることを許されるが、約百日ほどは山小屋に寝起きをし、与
五兵衛と同じものを喰べ、山まわりや猟もいっしょにした。
 山番の小屋は他に二つあり、そこには三人ずつの番人とその家族たちもいっしょに住んでいるが、甚
次郎の小屋は与五兵衛ただ一人であった。与五兵衛はそのとき三十歳を越していたが、妻を娶《めと》
ったことはないし、七十歳にちかい現在まで独身をとおして来た。ひどく口かずの少ないたちで、必要
がなければ二日でも三日でも黙っているし、幼ない甲斐が、用もないのに話しかけたりすると、男はむ
やみにしゃべるものではないと叱るのであった。
 雪にうもれた山の小屋で、そういう与五兵衛とただ二人、粟《あわ》や稗《ひえ》のまじった粥《か
ゆ》や飯を喰べ、そして山まわりや猟をするという生活は、幼ない甲斐にとって、ずいぶん辛いことで
あったが、母親にとっても、それがどんなに辛かったかということを、のちになって甲斐は知った。
 吹雪《ふぶき》の夜半、厨《くりや》で物の凍る朝、津多女はわが子をおもって泣いた。ことに、正
月三日だけ帰って、また山へ戻らせるときは、子供が可哀そうで、見送ることができなかったというこ
とである。だが、津多女はわが子に、決してそういうところを見せなかった。いつも凛《りん》として
、おちついて、そして非情にみえた。
「宗輔でございます――」隠居所の玄関で、甲斐はそう声をかけた。
 津多女はいま一人でそこに住んでいた。甲斐の声に答えて、彼女は玄関まで出て来、彼を奥へ導いた

 甲斐は半刻ちかいあいだ母と話した。話しは低い声で、静かに続いていたが、ときどきその声が途絶
えたり、また、津多女の嘆息が聞えたりした。そうしてやがて、話しを終って出て来た甲斐は、玄関で
母のほうは見ずに云った。
「明日、仙台へまいります」
 津多女は頷《うなず》いた。
「国目付が着くまでには、周防《すおう》も帰ると思いますが、そうでなければ、帰るまで仙台で待つ
つもりでいます」
「それがいいでしょう」
 津多女はまた頷いた。表情に変りはないが、泣いたあとのように、その眼がうるんでいた。津多女は
云った。
「佐沼[#1段階小さな文字](津田|玄蕃《げんば》)[#小さな文字終わり]どののほうはどうな
さるか」
「私が自分でまいります」と甲斐は答えた。
 五月十八日、甲斐は船岡を立って仙台へいった。
 彼の屋敷は大町にあり、隣りは北が奥山大学、南に飯坂出雲がいた。そこは広瀬川が大きく曲りこん
で来る断崖《だんがい》の上で、対岸に、川へ突き出た丘陵があり、それを越して向うに、青葉城の曲
輪《くるわ》の一部と、本丸天守閣を眺めることができた。
 彼はまず登城し、それから奥山大学へ挨拶にゆき、在国ちゅうの一門、一家、重臣諸家などへ使いを
出し、「所労」と断わってそのままひきこもった。
 三日目に奥山大学から会いたいといって来た。甲斐が挨拶にいったとき、大学は城中にいたし、甲斐
は玄関だけで帰った。そのときも「所労であるから」と断わっておいたので、招きの使いにも同じこと
を述べて、会いにはゆかなかった。
 二十三日になって、国目付衆は二十七日に到着する、という知らせがあった。同じ日の夕方、なんの
前触れもなしに妻の律が来た。甲斐が風呂をつかっているうちに来たもので、風呂から出ると、律がそ
こに着替えを持って待っていた。甲斐は眉をひそめたが、黙って着物を着、居間へはいっていった。
 仙台では、矢崎忠三郎と松原十内とが、甲斐の身のまわりの世話をする。忠三郎は舎人《とねり》の
弟で十五歳、十内は松原十右衛門の子で十六歳だった。だが律が来たためだろう、二人はさがったまま
で、律が茶をはこんで来た。
「どうぞお怒りなさらないで」と律が囁《ささや》いた。
 甲斐は居間の端に坐って、昏《く》れてゆく庭を眺めていた。ここにも樅ノ木が多いが、片側に大き
な胡桃《くるみ》の木が三本あり、いずれもその枝に花の房を付けているのが見えた。くるみ[#「く
るみ」に傍点]か。甲斐は心のなかで呟き、「くるみ[#「くるみ」に傍点]味噌」を連想して、帰国
以来、まだ麹屋又左衛門に会っていないことを思いだした。
「怒っていらっしゃいますの」
0143名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:16:36.57ID:UMnWC6GU
「許しを得て来たのか」と甲斐が訊いた。律は黙ってうなだれた。
「佐月さまにも無断か」
「願っても許して下さらないのですもの、黙って出て来るよりしかたがございませんでしたわ」
「なぜ許しが出ないか、わかるか」と甲斐が訊いた。
 律はゆっくりと頭を横に振った、「それをうかがいたくて、出てまいったのですわ」
「私からは話せない」と甲斐が云った。
「なぜでございます」
「話せないのだ」
「わたくしうかがわずにはいませんわ」と律は眼をあげた。
 甲斐は顔をそむけた。妻の眼を避けたのでもなく、嫌悪でも怒りでもない。まったく無関心で、なん
の感情もなく、漫然と顔をそむけたのであった。それが律を絶望させた。
「あなたはわたくしを離別なさるおつもりですのね」
 甲斐は答えなかった。
「お返辞がないのはそうなのでしょう、そうなのでしょう、あなた、わたくしを離別なさるおつもりな
のでしょう」
「声が高すぎるぞ」
「仰《おっ》しゃって下さい、なぜなのですか」
「その話しはできない」
「わたくしにはおよそ察しがつきます」と律は声をふるわせた、「あなたは嫉妬していらっしゃるんで
す」
「そうか」
「わたくしのからだのことはたびたび申上げました、十年もまえからよく申上げて、だから淋しがらせ
ないで下さい、とおたのみしてあります」
「それは聞き飽きた」
「聞き飽きるほどよく御存じでしょう、そしてあなたはわたくしの良人です」と律は云った、「わたく
しのからだは自分でもどうにもならない、むりにがまんしていると気が狂いそうになります、ですから
江戸番でお留守のときには、なにかでそれをまぎらわすよりほかにしかたがなかった、決してみだらな
意味でなく、なんとか自分をまぎらわすよりしかたがなかったのです」
「私はそれを禁じはしなかった筈だ」
「そうです、お禁じにはなりません、でもお禁じになるよりずっと残酷でしたわ」
 甲斐は黙った。
「あなたは律を避け、律から遠ざかろうとばかりなさいました、それはわたくしとあの方が」
「それを云うな」と甲斐は遮《さえぎ》った。
「いいえ申します」
「私は聞かぬぞ」
「なぜですの、聞くことができないほど、嫉妬していらっしゃるからですか」
「なんでもいい、その話しだけはよせ」
「あなたは誤解していらっしゃるんです」と律が云った、「中黒達弥が誤解して申上げ、あなたがそれ
を信じていらっしゃるのでしょう、達弥はむきなだけの人間で、眼に見たものをそのままで判断したん
です」
「もういちど云うが、その話しはよせ、私は聞きたくもないし聞いてもいないぞ」
「ではほかに離別するわけがあるんですか」
「私は周防に話す」と甲斐は云った。
「どうしてわたくしには話して下さいませんの、これは律の一生にかかわることでございますわ」
「私は周防に話すよ」
 廊下に足音をさせて、矢崎忠三郎と松原十内の二人が、燭台《しょくだい》と蚊遣《かやり》をはこ
んで来た。
「酒を持って来てくれ」と甲斐が云った。
「わたくしが致します」律が立とうとした。
 甲斐は頭を振った。律は立ちかけた膝を元に直した。二つの燭台に灯を入れ、蚊遣のぐあいをみて、
二人は廊下を去っていった。
「わたくしを信じては下さらないのですか」と律が云った、「達弥は本当のことを知ってはいないんで
す、あなたがわたくしにあれを許して下すったということも、わたくしがみだらなことをしていたので
はないということも」
「達弥は私にはなにも云わなかった」
0144名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:17:09.47ID:UMnWC6GU
「でもわたくしを憎んでいますわ、わたくしが不義をしたと思いこみ、不義をするだろうと疑って、絶
えずわたくしを監視していますわ」
「それももう終るだろう」と甲斐が云った。
 律は泣きだした。両手で顔を掩《おお》って、静かに、弱よわしく、いかにもせつなそうに嗚咽《お
えつ》した。顔を掩っている手の、白くてしなやかに長い、きれいな指が、絶望とかなしみを語るかの
ように、みじめにふるえていた。
「どうしてもだめなのでしょうか」と律が云った。
「泣かないでくれ、二人は別れるほうがいいのだ、別れるほうがいいということは、おまえにもよくわ
かっているはずだ」
「わたくし自分が良い妻だったとは思いませんわ」
「そんなことはべつだ」
「わがままでむら気で、求めることが強くて、あなたの負担にばかりなっていましたわ、でもそれはど
うにもしようのないことだったのです」
「わかっている」
「わたくしいつもあなたが欲しかったんです、あなたのぜんぶを、残らず、いつも自分のものにしてお
きたかったんです」と律が云った、「それなのにあなたは、いつもわたくしから遠いところにいらっし
ゃる、寝屋《ねや》をともにして、からだは手で触れているのに、あなた御自身はそこにいない、から
だがそこにあるだけで、あなたはいつもいないんです、わたくしは本当のあなたという方に、いちども
触れたことがありませんでした」
「二人が夫婦になったことは間違っていたようだ」と甲斐が静かに云った、「おまえが良い妻でなかっ
たと云う以上に、私が良い良人でなかったことはたしかだし、おまえが不仕合せだということも知って
いた、だが、これもおまえの云うように、知っていながら私にはどうしようもなかったのだ」
 律はまた咽《むせ》びあげた。「お願いです、あなた」と律はくり返した、「どうか離別などなさら
ないで、もういちど船岡へ帰らせて下さいまし」
「もうきまったことだ」
「わたくし松山へは帰れませんわ」
「仙台にいるがいい」
「大町の家にですの」と律はすすりあげた。
「ここから呼べば答えられるような、あんな近いところにいろと仰しゃるんですの、ここにあなたがい
らっしゃると知って、おめにかかることもできないのに、――あなたはむごいことを仰しゃるわ」
「なにがむごいかということは、やがてわかるだろう」と甲斐が云った、「たのむから泣かないでくれ
、人が来る」
 忠三郎と十内が膳をはこんで来た。律は立って襖《ふすま》をあけ奥の間のほうへ去った。
「十右衛門に相手をしろと云ってくれ」と甲斐が云った。
 忠三郎が給仕に坐り、十内がその父を呼びに立った。松原十右衛門が来るとまもなく、化粧を直した
律が戻って来、そこへ坐るなり「十右衛門」といって泣きだした。
 十右衛門は頭を垂れた。
「泣くなら奥で泣いてくれ」と甲斐が云った。
 律は指で眼をぬぐいながら、十右衛門と呼びかけた。
「わたくしは船岡へ帰れなくなりました」
「律、ならんぞ」
「母上さまにも宗誠《むねもと》にも逢えません、こなたたちにももう逢えなくなります」
 甲斐が「律」ときびしく云った。
「もうひと言だけ」と律が云った、「十右衛門、船岡へ帰ったら、宗誠に伝えておくれ、母はあなたが
すこやかに成人なさるのを祈っています、母がどこかで、いつもあなたのために祈っているということ
を、忘れないでおくれ」
 このとおり伝えてくれと云い、声をあげて泣きながら、律は乱れた足どりで、奥へ去っていった。
 甲斐はなにごともなかったような、平静な顔つきで、去ってゆく妻の足音を聞いていた。十右衛門に
盃を持たせ、自分も飲みはじめながら、甲斐は律のとりみだしたようすを、船岡の母や宗誠には告げぬ
ようにと十右衛門に云った。十右衛門は「はい」と答えたが、顔をあげなかった。
0145名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/01/07(火) 09:17:47.08ID:UMnWC6GU
 律はその夜のうちに茂庭家へ去った。それは同じ大町にあり、甲斐の屋敷から北へ、奥山、古内、茂
庭と続く、ほんのひと跨《また》ぎの近さにあった。茂庭家から、留守の者がすぐ知らせに来た。甲斐
は「気鬱が亢《こう》じているから注意をするように」と云い、なお、できるだけ早く松山へ知らせて
、迎えの者をよこすようにたのめ、と云った。
 二十五日に、伊達安芸が涌谷の館から出て来た、という知らせがあり、国目付接待のため、重臣の会
合が行われた。
 甲斐は欠席した。
 二十六日に先触れの使者があり、二十七日に到着ということがわかった。そしてその当日には在国の
一門、家老以下、町奉行までが、麻上下で城下の南、河原町まで迎えに出た。――出迎えには甲斐もい
ったが、時刻を計って、国目付の着く直前に、他の人たちといっしょになるようにした。
 到着は午後二時であった。今年の国目付は、幕府使番の荒木十左衛門と桑山伊兵衛で、まず伊達安芸
、伊達式部らの一門、一家が挨拶をし、次に国老の奥山大学、大条兵庫、古内主膳。続いて宿老の原田
甲斐、遠藤又七郎。それから接待役、奉行らの挨拶が済むと、国目付は接待役の案内で、そこからすぐ
に宿所へ向かった。
 甲斐は他の人々より先にその場を去った。挨拶をするあいだ、奥山大学が話しかけようとしているの
に気づいたし、いま大学と話すことは迷惑だったので、伊達安芸にひと言だけ久濶《きゅうかつ》を述
べると、すばやくそこを去って屋敷へ帰った。
 二十九日、城中で両目付の饗応《きょうおう》が行われた。相伴役《しょうばんやく》は伊達安芸で
、甲斐は欠席した。
 甲斐が奥山大学を避けるには理由があった。それは、兵部宗勝が後見になって、二万石加増されたと
き、その領地の中へ衣川を残らず取入れた。それでは水利を独占することになるので、「片瀬片川とす
べし」という論が出ていた。大学はその問題をとりあげ、評定役としての甲斐の同意を求めるに相違な
い。甲斐はそれを嫌って、大学を避けたのであった。
 数日して、江戸の茂庭周防から手紙が届いた。――六月中旬に、亀千代さまの髪置きの儀があるので
、それを済ませてから帰国することになった。というのである、そして品川の下屋敷に綱宗を訪ねたこ
と、それについては会ったときに話すが、まことにいたわしい限りで、涙なしにはいられなかった、な
どということが書いてあった。
 それまでは周防を待ってはいられないので、甲斐は船岡の館へと帰った。

[#3字下げ]蔵王[#「蔵王」は中見出し]

 茂庭周防が帰国したのは、その年十二月のことであった。周防は船岡に宿をとり、原田甲斐の館へ使
いをやった。館からは家老の片倉隼人が来て、甲斐が十一月から山にこもっていること、すぐ知らせに
やるから、館へ来て泊ってくれるように、と云った。
 周防は従者を二人だけ伴れ、あとの者は宿に残して館へいった。山の小屋へやった使いは、昏《く》
れがたに戻って来て、甲斐は鹿を狩りに出て、どこにいるかわからない、と告げた。
 昨日の朝でかけたまま、山のどこかで鹿を追っているらしい、ときによると三日くらい小屋へ帰らな
いこともあるし、どの山にいるのかわからないので、捜すこともできない、ということであった。
 周防はちょっと思案し「では小屋へいって待とう」と云った。しかしもう日が昏れるので、その夜は
館に泊り、明くる朝早く、隼人の案内で山へ登った。
 館から馬で約三十町ゆくと、甚次郎の山ふところに、日観寺という寺がある、そこへ馬を預けて、は
だら雪のがちがちに凍った、急な坂道を登っていった。山といってもさして高くはない、古い杉や樅《
もみ》が片側の谷に森をなしていて、片側はなだらかな雑木林が続いている。坂道はその枯れた雑木林
をぬけてゆき、登りつめたところで、左へ少し下りになる。そこは山の北側の斜面に当り、樅の森に囲
まれた狭い台地へおりると、その小屋の横手へ出るのであった。
0146名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:18:23.20ID:UMnWC6GU
 台地へおりるまえに、周防は坂のおり口に立停って、しばらく展望をたのしんだ。
 起伏する丘陵のかなたに、白石川の流れが見え、はるかに遠く、雪をかぶった蔵王《ざおう》の峰が
、早朝の日光をうつして、青みを帯びた銀色にかがやいていた。――船岡の町の一部は見えるが、原田
家の館は山に隠れて見えない。館に続いている砦山《とりでやま》が、朝靄《あさもや》の中に、その
頭部だけをくっきりと浮き出していた。
 周防はややしばらく、眼をほそめて、遠い蔵王を眺めやった。
「そうだ、青根の湯へ寄ってゆこう」
 蔵王へ登る途中に、青根の温泉《いでゆ》がある。藩侯の宿所「不老閣」には、重臣たちの部屋もあ
るので、周防は二三日躯を休めてゆこうと思った。
 さきに小屋へいった隼人が、引返して来て、まだ甲斐が戻っていないと告げた。周防は台地へおりて
いった。
 小屋は樅と杉材で造った十坪ばかりのもので、土間がひろく、炉のある八帖に、納戸《なんど》だけ
という間取であった。土間に面した炉の一方は、框《かまち》が切込んであり、土足のままはいって、
腰掛けられるようになっていた。小屋の中は、なにかの獣肉を焙《あぶ》る、香ばしい煙があふれてい
、炉端に与五兵衛がかしこまっていた。
 はいって来た周防を見ると、与五兵衛は黙って会釈をし、円座を直した炉端へ、手を振ってみせた。
周防は上へあがった。
 隼人は「館を留守にできない」旨を述べ、与五兵衛に接待を命じて、帰っていった。周防は炉端へ坐
りながら、「久しぶりだな、与五」と云った。
 与五兵衛はなにか噛みでもするように、口をもぐもぐさせてから「七年になるかな」とゆっくり答え
た。
 彼は逞しい躯をしていた。綿入れ布子《ぬのこ》に、熊の皮の胴衣を重ねているが、肩から胸へかけ
ての肉の厚みや、平たく潰《つぶ》れてはいるが、しかも、太く節くれだっている大きな手指は、見る
者に圧迫感を与えるほど、重量と力感をもっていた。髪は灰色だし、顔の半分を掩っている髭も殆んど
灰色である。殆んどというのは、鼻下の一部と、顎《あご》の一部に黒いところが残っていて、それが
、彼の無表情などこか野獣めいた相貌を、いくらかなごやかにみせるようであった。日にやけた栗色の
顔は、固く肥えていて、膏《あぶら》ひかりがし、少しくぼんだ細い眼にも、まだ壮年のような力と光
があった。
 与五兵衛はひどく無口で、必要なこと以外には、なにを訊かれても返辞をしないし、また、甲斐のほ
かには、誰に対しても礼をしなかった。
 かつて兵部宗勝が、二度この小屋を訪ねて来た。小屋へは人を近よせないことになっているのだが、
兵部は分家の威光でむりに山へ登った。そのとき与五兵衛は礼をしなかったばかりでなく、兵部の眼の
前で、さもいまいましそうに唾を吐いたりした。
「そうか、もう七年になるか」と周防が云った、「与五はいつ見ても年をとらない、七年まえと少しも
変ったところがないな」
 与五兵衛は黙っていた。
 彼はなにも聞えなかったように、獣肉を刺して炉の灰に立ててある金串《かなぐし》を取り、脇に置
いてある壺の中のたれ[#「たれ」に傍点]に浸し、それをまた炉の灰に立てるという動作を、つぎつ
ぎと、緩慢な手つきで繰り返した。金串に刺した肉は、炉の火に焙られて、肉汁と脂《あぶら》とたれ
[#「たれ」に傍点]の、入混って焦げる、いかにも美味《うま》そうな匂いをふりまいていた。
「なんの肉だ、猪《しし》か」と周防が訊いた。
 与五兵衛は「んだ」と頷き、喰べるかと訊き返した。
「朝餉《あさげ》を済まして来たばかりだ、あとで馳走になろう」と周防は云った、「誰の獲物だ、与
五か」
 与五兵衛はまた口をもぐもぐさせ、おらの殿さまは鹿のほかに手を出さない、と不満そうに云った。

「おらは殺生《せっしょう》は嫌いだ」と与五兵衛は云った、「熊や猪は悪さをする、作物を荒したり
、人に襲いかかったりする。だから熊や猪を殺すのは罪ではない、作物や人を守るためだから、それは
罪ではないと思う」
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2020/01/07(火) 09:19:01.95ID:UMnWC6GU
 だが、と彼は口を動かし、頭をゆらゆらと横に振り、そして土地の訛《なま》りの強い言葉で云った
、「だが、鹿は可愛いけものだ、少しは悪さもするが、臆病で気の弱いけものだ、ちょっとおどせばす
ぐ逃げてしまう、こっちでかかってゆかない限り、決して人間に襲いかかるようなこともない」
「おらは好かない」とまた与五兵衛は頭を振った、「おらの殿さまは、鹿となるとまるで人が変ったよ
うになる、どうしたもんだか」
 そして彼は黙った。
 猪の肉はやがて焙りあがった。それはみな半分くらいに縮まり、たれ[#「たれ」に傍点]と脂肪と
が表面を包んで、焦茶色に光を帯びていた。与五兵衛はそれらを金串から抜き、戸棚から大きな木の鉢
をとり出して来て、その中へ肉と、なにかの乾した葉とを、交互に詰めた。
「それはなんの葉だ」と周防が訊いた。
 与五兵衛は「肉桂《にっけい》の葉だ」と答えた。
 そのとき二人の男がはいって来た。砦山と、虚空蔵《こくぞう》[#1段階小さな文字](山)[#
小さな文字終わり]にある番小屋の者で、四十四五になる陽気な顔つきの男が文造。顔も体もしなびた
ように小さい、おどおどした眼つきの老人は平助といって、砦山の小屋頭であった。
「はいるな、お客だ」と与五兵衛が云った。
 二人は小屋の戸口で棒立ちになり、頭巾をぬぎながら、互いに眼を見交わした。
「おれなら構わない、入れてやれ」と周防が云った。
 与五兵衛は二人に顎をしゃくってみせた。
 かれらはまた眼を見交わし、ぐずぐずと蓑《みの》をぬいで、はいって来た。二人とも泥だらけの雪
沓《ゆきぐつ》をはいていた。
「なんだ」と与五兵衛がひどい山訛りで訊いた。
「ふじこ[#「ふじこ」に傍点]が来ていないですか」と文造が訊き返した。
 かれらの問答は、そのひどい山訛りよりも、緩慢なところに特徴があった。問いかけるにも答えるに
も、おのおの五拍子ぐらい時間がかかる。相手の問いかけがわからないか、それとも云うべき言葉を忘
れたのかと思われるころ、ようやく、それを極めてゆっくりと、口を切るのであった。
「ふじこ[#「ふじこ」に傍点]がどうした」
「殿さまについていったままです」
「殿さまにだって、またか」
「おとつい出たままです」
「なにか心配になることでもあるのか」
「嫁にやるですよ」
「ふじこ[#「ふじこ」に傍点]は、おらが家の久兵衛の嫁にもらうです」と平助が云った。
 与五兵衛は平助を見、それから文造を見、そして口をもぐもぐさせた。すると、顔半分を掩っている
髭が生き物のように動いた。
「殿さまは此処《ここ》へはまだ戻ってござらぬ」と与五兵衛は云った、「だがなんで心配するだ」
「ふじこ[#「ふじこ」に傍点]は、おらが久兵衛の嫁にもらうですよ」
「心配するな」
「殿さまのことは心配はしねえです」と文造が云った、「けれども久兵衛が血まなことなってるで、久
兵衛はあんな人間だし、よそへ出ていたで殿さまのことをよく知らねえだし、それでもし、まちげえで
もしでかすでねえかと思ったもんですから」
「あのかぼねやみ[#「かぼねやみ」に傍点]が」と与五兵衛が呟いた、それから平助に向かって云っ
た、「久兵衛は小屋か」
 平助はゆっくりと首を振った。
「心配するな」と与五兵衛が云った、「殿さまは大丈夫だ、うっちゃっとけ」
「久兵衛は鉄砲を持って出たですよ」と文造が云った。
 与五兵衛は平助をにらんだ、平助は小さい躯をもっと小さくちぢめ、口の中でなにかぶつぶつと云っ
た。与五兵衛は立ちあがって、「すぐ捜しにゆけ」と云った、「待て、いま鉄砲を出してやる、あのか
ぼねやみ[#「かぼねやみ」に傍点]めが、射ち殺してくれるぞ」
 そして、彼は納戸へはいっていった。平助と文造はもそもそと蓑を着、頭巾をかぶりながら、低い声
でなにか囁きあった。まもなく、与五兵衛が納戸から出て来た。彼は銃を二梃持っており、炉の火を火
繩につけると、それを銃に仕掛けて、一梃を文造に渡してやった。
「弾丸《たま》はこめてある」と与五兵衛は云った、「一発きりだ、これでおどして、きかなかったら
ぶっ放せ」
「久兵衛にですか」と平助が訊いた。
 与五兵衛が「知れたことだ」と云った。
「でも久兵衛はおらの一人っ子ですがな」
0148名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:19:41.79ID:UMnWC6GU
「心配するな、あいつは親のおめえの首さえ絞めかねない人間だ、おめえの世話くらい小屋の者がみて
くれるぞ」と与五兵衛が云った、「おまえらは北郷のほうを捜せ、おらは小坂のほうを捜す、みつかっ
てもみつからねえでも、日が昏れたらこの小屋へ戻って来い、わかったな」
 二人はゆっくりと頷いた。
 与五兵衛は周防に断わりを云い、身支度をして、かれらと共に出ていった。三人が出ていって半|刻
《とき》ほどすると、館から村山喜兵衛が登って来た。
「仙台から使者がありまして」と喜兵衛が云った、「古内主膳さまが亡くなられたということでござい
ます」
「古内が、――それはいつのことだ」
「昨日ということです」
「船岡はまだ戻らない」
「与五兵衛も留守でございましたか」
「いや、与五はいた」
 周防は首を振って、いまの出来事を話した。喜兵衛は苦笑し、「それでは館からも人を出しましょう
」と云った。久兵衛というのは怠け者で、骨惜しみをする者のことをかぼねやみ[#「かぼねやみ」に
傍点]というのだが、――十五歳のときに小屋を出奔し、去年の秋に帰って来た。年は二十八か九にな
るだろう。相変らず怠け者のうえに、酒を飲むことと、酔って乱暴する癖を身につけて来た、と喜兵衛
は語った。
 ふじこ[#「ふじこ」に傍点]というのは文造の娘で十八歳になる。母親が亡くなって、いま三人の
弟妹と、父親の世話をしているが、縹緻《きりょう》もかなりいいし、男まさりのさっぱりした気性で
、父があとをもらうまでは嫁にはゆかない、と云い張っている。久兵衛の嫁になるとは信じられないが
、事実とすれば久兵衛におどされたのかもしれない、と喜兵衛は云った。
「しかし、その娘が船岡についていったというが」と周防は訊いた、「おとつい出ていったまま帰らな
いと云っていたが、それはどういうことだ」
「なんと申したらよろしいか」と喜兵衛は苦笑した、「御前はああいう御性分ですから誰にも好かれま
す、特に女たちがそうで、やまがの娘などもよく御前につきまとっているようです、決して珍らしいこ
とではございません」
「それで、まちがいはないのか」
「まちがい、――ああ、それはいかがですかな」と喜兵衛はまた苦笑した、「山へこもるとまるで野人
のように変ってしまわれますし、私どもはお側にいませんのでよくわかりません、昔からふしぎなくら
い女には潔癖な方ですが、まちがいがないかどうかということは、いかがでございますか」
「わからない男だ」と周防は嘆息して云った、「船岡にはわからないところがある、どこということは
ないが、ふとすると心がつかみにくくなる、あの年でそんな女どもにつきまとわれて、それを伴《つ》
れてまわる、などという気持もまるでわからない」
「私は館へ帰りたいのですが」と喜兵衛が云った。
「おれは船岡に会わなければならない、古内のことはおれから話しておこう」
 喜兵衛は「お願い申します」と云って去った。
 甲斐が戻って来たのは、午後三時すぎたころであった。――そのまえに、周防は小屋を出てゆき、山
の尾根を歩いていた。風のない、暖かな一日で、陽に蒸された枯草が、溶けて土に浸みこむ斑雪《はだ
らゆき》とともに、あまく匂っていた。枯木林から、小鳥の群が、騒がしく鳴きながら、小砂利を投げ
るように落ちていった。すると、遠いどこかで、樹を伐《き》る斧《おの》の音が、こだましながら聞
えた。するとやがて、うしろのほうで、女のたか笑いの声がし、周防は振返った。
 傾いた陽が斜めからさして、透明な碧色《みどりいろ》にぼかされた山なみの上に、蔵王の雪が鴇色
《ときいろ》に輝いていた。朝見たときの青ずんだ銀白の峰は、冷たくきびしい威厳を示すようであっ
たが、いまはもの静かに、やさしく、見る者の心を温めるように思えた。
0149名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:20:35.66ID:UMnWC6GU
 若い女のたか笑いが、こんどはずっと近いところで聞えた。周防はそっちへ眼をやった。日観寺から
登って来る谷のあたりで、けものの咆《ほ》えるような、男の太い叫び声がした。それにつづいて、若
い女たちの黄色い叫びが起こり、谷間の樅や杉の森にこだました。
 やがて、枯れた雑木林をぬけて甲斐の登って来るのが見えた。彼は鹿の革で作った股引《ももひき》
をはき腰っきりの布子に、鹿の毛皮の胴着を重ね、腰に山刀を一本だけ差していた。茅《かや》で編ん
だ雪帽子を背中へはね、日にやけた、髭だらけの顔をむきだしにして、雪沓をはいた足で、大股《おお
また》に地面を踏みしめながら、歩いて来た。彼は手ぶらであった。獲物らしいものは見えず、うしろ
に若い女が二人ついていた。
 ――一人がふじこ[#「ふじこ」に傍点]だな。
 周防はそう思った。
 女の一人は弓を、一人は壺胡※[#「竹かんむり/祿」、第3水準1-89-76]《つぼやなぐい》を抱え
ていた。どちらも色が白く、眼鼻だちもととのっているが、その表情や口のききぶりは、純朴というよ
り、粗野であらあらしく、いかにもやまが育ちという感じであった。
 いまけもののように咆えたのは、甲斐だったのか。周防はそう思いながら、近づいて来る甲斐に会釈
を送った。
 甲斐は大股に、ゆっくりと歩いて来た。周防のいるのを認めると、女たちは口をつくんだ。甲斐は振
返って、女たちから弓と壺胡※[#「竹かんむり/祿」、第3水準1-89-76]を受取り、もう帰れ、と云
った。
「いや、ちょっと待て」と周防が云った。
 甲斐は訝《いぶか》しそうに振向いた。周防は久兵衛のことを話し、いま与五兵衛らが捜しに出てい
ることを話した。
「まあ、鉄砲持ってだと」と女の一人が云った。
 それがふじこ[#「ふじこ」に傍点]であろう、若い牝鹿《めじか》のような、すんなりした躯つき
で、黒眼の勝った大きな眼に、きかぬ気らしい、大胆な色を湛えていた。
「わたし帰ります」とその女は云った、「あのいくじなしになにができるものか、わたし平気だから帰
ります」
「きよき[#「きよき」に傍点]も帰れ」と甲斐が云った、「また会おう」
 二人の女は去っていった。甲斐はもう見ようともせず、先に立って小屋のほうへおりていった。
 周防が炉端に坐っていると、裏で水の音がした。そしてまもなく素足に草履をはいた甲斐が、衿首《
えりくび》を手拭で拭きながらはいって来た。冷たい水で洗ったために、彼の日にやけた顔は活き活き
と赤く、頬も固く緊張して、いつも見馴れた竪皺《たてじわ》が消えていた。
「古内主膳が死んだそうだ」と周防が云った。
 甲斐は横座に坐り、炉へ焚木《たきぎ》をくべようとしていたが、その手を止めて、周防のほうを見
た。
「館からさっき喜兵衛が知らせに来た」
 甲斐は唇をむすんだ。
「昨日のことだそうだ」
 甲斐は焚木をくべ、煙をよけるために顔をそむけた。そしてぽつんと云った。
「彼は五十三だったな」
「帰国してから会ったか」
「五月に会った、国目付を出迎えたとき、河原町でいっしょだった、目礼を交わしただけで、話しはし
なかったが」
「感仙殿[#1段階小さな文字](故忠宗)[#小さな文字終わり]さまの法要で高野山へいったとき
、躯をこわしたのが長びいていると聞いた、もともと病弱ではあったようだ」
 甲斐は箱膳をひきよせ、蓋を盆にして、茶碗を二つ出すと、自在鍵《じざいかぎ》に掛っている茶釜
から、琥珀色《こはくいろ》の茶のようなものを汲《く》んで、一つを周防にすすめた。
「桑茶だ、口に合わないかもしれない」
「桑茶だって」
「桑の若葉と乾した枸杞《くこ》の実がはいっている、与五がおれのために作ってくれるんだ」
「薬用だな」と周防が云った。
「長命をするそうだ」
 周防は口をつけて、ひと口だけで、茶碗を置いた。二人ともしばらく黙った。
「律のことは、父からの手紙で知った」とやがて周防が云った、「去年、涌谷《わくや》さまと三人で
話したとき、船岡はわれわれが離反しなければならぬと云った、一ノ関の眼を、私と船岡からそらすた
めに、単に不和になるだけでなく、かたちのうえでも、離反しなければならぬと云った」
 甲斐は黙っていた。
0150名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:21:30.69ID:UMnWC6GU
「律を離別したのはそのためだと、父は思っているようだが、事実そうなのかどうか聞いておきたい」

「その話しは断わる」と甲斐はにべもなく云った。
「断わるって、なぜ」
「済んだことだ」と甲斐は云った。
 周防は口をつぐみ、さぐるような眼で、ややしばらく甲斐をみつめた。甲斐は長い金火箸《かなひば
し》を取って、燃えている炉の火を直した。彼の額に深く、三筋の皺がよった。
「松山の留守の者からの知らせによると、世間では律が不義をして戻された、と云っているそうだ、そ
の相手は中黒達弥ともう一人だと、相手の名まで出ているそうだが」
「私は世間の評《うわさ》に責任をもつわけにはいかない」
「中黒達弥は船岡にいるか」
「出奔した」と甲斐が云った。
 周防の顔がひき緊り、甲斐を見る眼がするどく光った、周防は「いつのことだ」と訊いた。七月、正
式に律と離別した直後だ、と甲斐が答えた。
「では麹屋の友次郎は」と周防が訊いた。
「仙台にいるということだ」と甲斐が答えた。
 もういちど云うが、この話しはやめにしよう。それよりも重要なことがある筈だ、と甲斐は云った。
しかし不義があったかなかったかだけは聞いておきたい、と周防はねばった。家風に合わぬという理由
のほかに、なにも云うことはない、この話しはもう断わる、と甲斐ははねつけた。
 周防はまだ不満そうに、甲斐の横顔をにらんでいた。甲斐は立って納戸へゆき、また土間へおりて、
水を入れた半※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《はんぞう》と、
砥石《といし》と台とを揃《そろ》え、やがて剃刀《かみそり》を研ぎはじめた。
「松山と会って話すのも、たぶんこれが最後になるだろう」と甲斐は云った、「律の離別で、一ノ関の
思案も変ったようだ、はっきり変ったとは云えないが、国老になれとすすめて来る手紙の内容が、まえ
とはかなり違っている」
「断わっているようだな」
「国老はまだ早い」
「そうだろうか」と周防が反問した。
 自分が辞任したあと、首席国老になった奥山大学は、しきりに一ノ関と張合っている、と周防が云っ
た。衣川の境界の件、金山《きんざん》の件。また一ノ関はいま、隣接している本藩領の一部を、自分
領に取り入れようとしているが、この件でも大学は真向から反対している。これではまるで、事を起こ
すために国老になったようなものだ、と周防は云った。
「衣川の件はまだ解決しないのか」
「一ノ関は承知しないのだ」と周防はつづけた、「しかもつい最近、私が江戸を立つときに、大学は留
物境目《とめものさかいめ》について、一ノ関と右京さまに強硬な抗議を申し入れていた」
「それは初耳だな」と甲斐が云った。
 砥石の上で、彼が静かに剃刀を返すと、なめらかな石の肌で、剃刀の刃が冷たい音をたてた。
 周防は語った。――伊達兵部と田村右京は、亀千代の後見になったとき、両者とも幕府|直参《じき
さん》となり二万石ずつ加増された。だがその加増された二万石は幕府からではなく、伊達領から分け
たものであり、本藩は旧禄のままだから、幕府直参とはいえ、伊達本家の臣として、諸事その掟《おき
て》にしたがうのが当然である。だが、兵部と右京は、その知行地の中で、本藩とは別個に制札《せい
さつ》を立てたり、夫伝馬《ぶてんま》、宿送りも他領のようにし、また幕府へ献上する初雁《はつか
り》、初鮭《はつざけ》なども本藩の済まないうちに、先に献上したりした。
「私は米谷《まいや》[#1段階小さな文字](柴田外記)[#小さな文字終わり]どのから事情を聞
いたのだが、年が明けると一ノ関が帰国する、そのとき大学は、一ノ関に膝《ひざ》詰めで六カ条の申
しいれをするといきまいているそうだ」
「六カ条とは」甲斐が眼をあげた。
「ここに書いて来たが」
0151名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:28:57.69ID:UMnWC6GU
 周防は紙入の中から一通の封書と、一枚の覚書をとり出し、覚書のほうを披《ひら》いて、甲斐の前
に置いた。甲斐は手に取らず、躯を傾けて読んだ。
[#ここから2字下げ]
一、相定め候制札の事、[#1段階小さな文字](切支丹制札は格別の事)[#小さな文字終わり]
一、夫伝馬並に宿送りの事
一、大鷹の事
一、初鳥、初肴、公方《くぼう》様へさしあげ候事
一、他国へ人返しの事
一、境目通判の事
[#ここで字下げ終わり]
 右のようなものであった。
「一ノ関が帰国のときというと、まだ申しいれてはいないのか」
「一度は申しいれたようだ」と周防が云った、「しかし一ノ関は、自分は幕府直参であるから、本藩の
掟にしたがう必要は認めない、と答えたということだ」
「それは膝詰めでやっても同じことだろう」
「そのときは江戸へ出て、幕府老中に訴えるつもりでいるらしい」
 甲斐は剃刀の刃へ、拇指《おやゆび》の腹をそっと触れてみた。それから手を拭き、剃刀をしまって
、砥石や半※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]を片づけた。
「それも威《おど》しではなく、立花侯[#1段階小さな文字](飛騨守《ひだのかみ》忠茂)[#小
さな文字終わり]の内意をきいてくれるようにと、米谷どのに依頼して来ていた」と周防は甲斐を見た
、「かねて船岡も云ったとおり、訴えて老中がとりあげたばあいはもちろん、とりあげなくとも藩家の
不利になることは確実だ、訴えるまえになんとか手を打たなければならないと思う」
「どういう手がある」
「まず船岡が国老に就任することだ」
「それはまだ早い」と甲斐が云った、「まだ私が国老になる時期ではない」
「どうしてだ」
「まだ時期ではない、と云うよりほかに理由はない」
「では吉岡[#1段階小さな文字](奥山大学)[#小さな文字終わり]には好きにさせるつもりか」

「いや、なんのつもりもない」と甲斐は云った、「吉岡が一ノ関にくみさず、対抗者になってくれたの
は有難いことだ、ここは吉岡を抑えるよりも、やるところまでやらせてはっきり一ノ関と対立するよう
にはこぶべきだ」
「しかし老中がとりあげて、家中内紛の責を問われたらどうする」
「この問題はべつだ」
「どうして」
「この問題では幕府は内紛の責を問うわけにはいかない、訴えをとりあげるとすれば、一ノ関と岩沼[
#1段階小さな文字](田村右京)[#小さな文字終わり]に、六カ条を承知させるよりしかたがない
だろう」
「理由はなんだ」
「直参大名の名目さ」と甲斐が云った、「幕府直参となれば、知行は幕府から出るのが当然だ、それを
名目だけ与えて、知行は伊達本藩から分けている、六カ条の問題はそこから起こっているので、表て沙
汰にすれば、両家の知行は改めて幕府から出さなければならないことになる、そうではないか」
 周防は「うん」と頷き、考えてみて、たしかに、とまた頷いた。
 そのとき銃声が聞えた。谷に反響するので、たしかな方角はわからないが、あまり遠くではないらし
い。一発だけするどい射撃音が起こり、それが暢《のん》びりとこだまして、消えた。
「鉄砲だな」と周防が甲斐を見た。
 甲斐はそれには答えないで「品川のことをうかがおう」と云った。周防は、さっき紙入から出して置
いた封書をとりあげ、「殿からだ」と云って、甲斐に渡した。
 甲斐は披いて見た。それは下屋敷の綱宗から、周防に宛てたもので、左のような意味のことが書いて
あった。
[#ここから2字下げ]
0152名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:29:23.86ID:UMnWC6GU
先日はここもとへまいり候て対面つかまつり満足のことに候。然れば内ない兵部どの右京どのへ申し入
れたき儀ござ候。これによって書状などにては片ことのように候えば、其方と相談いたし尤もに存じ候
えば其方をもって申し入れべく存じ候、……
[#ここで字下げ終わり]
 甲斐は眼をあげて戸口を見た。与五兵衛が、片手に鉄砲をさげて、はいって来た。彼は主人を見ると
、ゆっくりと頷き、そのまま裏へゆこうとした。それで甲斐が云った。
「いま鉄砲の音がしたぞ」
 与五兵衛は立停った。おまえ鉄砲の音を聞かなかったのか、と甲斐が訊《き》いた。与五兵衛は「日
観寺の向うの谷地らしい」と答えた。
「みにいかないのか」
「飯を炊きます」と与五兵衛は云った。
 銃声は一発きりだし、久兵衛が射ったにしても、一人は自分の父だし、他の一人は嫁にもらう娘の親
である。間違いを起こすようなことはないだろう、と口をもぐもぐさせながら云い、鉄砲を八帖の隅へ
置いて、裏手へ出ていった。甲斐は手紙へ眼を戻した。
[#ここから2字下げ]
……右の段候あいだ、其許ひましだい二三日ちゅう機嫌伺いのようにここもとへまいるべく候。
 そのおりふしつぶさに申すべく候。この書状わきへもれ候えばあしく候条、亀千代乳母がところまで
遣わし、いかようにも其方しゅびしだい届け候えと申し遣わし候。返事をも右の段につかまつり候て給
わるべく候。謹言。
 尚、必ず必ず他へもれ申さざるように相心得申すべく候。尤も二三日ちゅうにここもとへまかり出で
候とも、かようわれら書状を遣わし候によってまかり出で候などと備前[#1段階小さな文字](品川
屋敷家老、大町定頼)[#小さな文字終わり]へ申されまじく候。以上。
[#地から2字上げ]綱宗(書判)
 周防どの
[#ここで字下げ終わり]
 甲斐は尚なお書きのところを、ややしばらく見まもっていた。周防は声をひそめ、「その文字をよく
読んでくれ」と云って、眼をつむり、囁くように暗誦《あんしょう》した。
「――二三日ちゅうに、ここもとへまかり出で候とも、かよう、われら書状を遣わし候により、まかり
出で候など、備前へ申されまじく候、……大町などにさえ、こんな気兼をしていらっしゃる、伊達陸奥
守六十万石の大守たる御身で」
 甲斐は手紙を巻きおさめ、周防のほうへ押しやりながら、「両後見へ申しいれたいと仰しゃるのは、
どういうことなんだ」と云った。
「第一は、御自分が無実であることを、幕府へ訴えたいと仰しゃる」
 甲斐は眼を伏せた。
 第二は、自分は現在でも「逼塞」というかたちで、亀千代に会うことはもとより、家臣たちと思うま
まに会うこともできず、保養のため外出する自由もない。これは不当である。亀千代が家督すると同時
に、自分は「隠居」になった筈であるから、それだけの自由を与えてもらいたい。第三は、三沢初を正
室として披露したい、右の三カ条だった、と周防は云った。
「乱暴はなさらなかったか」と甲斐が訊いた。
「乱暴はなさらなかったが」と周防は声をひそめた、「気が弱っていらっしゃるのだろう、しきりに接
待の貧しいことを弁解されたり、涙をこぼされたりした、また、いつぞや船岡が来てくれたとき」
「わかった」と甲斐は顔をそむけた、「その話しはよしてくれ」
「いや、伝言なのだ、せっかく来てくれたのに乱暴をしてしまった、酔って自分がわからなくなったの
だが、済まなかったと、甲斐に伝えてくれとの仰せだった」
 甲斐はあるかなきかに頷いた。
 二人はそのまま沈黙した。互いになにか思い耽《ふけ》っているようだったが、やがて、甲斐は炉の
火に焚木《たきぎ》をくべながら「夜になると道が難渋だから、いまのうち館《たて》まで帰ってはど
うか」と云った。しかし船岡も帰るのだろう。いや私はまだ帰らない。では古内主膳のほうはどうする
、弔問にゆくのだろう、と周防が訊いた。甲斐は静かに首を振った。
「松山は知っている筈だ」と彼は云った、「私は人の弔問や法要にはゆかない、人と人のつきあいは生
きているあいだのことだ、死んでしまってからいったところで、――」
 こう云って、甲斐は焚木の一本を折った。周防は不満そうに、「では葬儀にも出ないのか」と訊いた
。隼人《はやと》をやるつもりだ、と甲斐は答えた。これからも打合せをしなければならぬ事があると
思うが、そのときどうやって連絡したらいいか。それはそのときに応じてこちらから連絡しよう、おそ
らくその必要はないだろうが、と甲斐は云った。そこへ、戸口から村山喜兵衛がはいって来た。
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2020/01/07(火) 09:29:53.37ID:UMnWC6GU
「お迎えにまいりました」と喜兵衛は云った。
 彼のはいって来た戸口の、外は明るく、小屋の内部はひどく暗くみえた。
「寺に馬が預けてある」と周防が云った。
「そこで待っていてくれ」
「隼人に云え」と甲斐が喜兵衛に云った。
「古内へは隼人がゆくように、葬儀の済むまで仙台にいるように、と云ってくれ」
「御帰館ではないのですか」
「うん、まだ此処《ここ》にいる」
 喜兵衛は礼をし、「では日観寺でお待ちしております」と周防に云って、たち去った。
 周防は支度をして、土間へおりると、そこへまた、戸口から二人の男がはいって来た。文造と平助で
ある。平助のほうが先にはいって来たが、そこに甲斐がいるのを見ると、さも安堵《あんど》したよう
に微笑した。それは僅かに歯が見えただけであったが、頭巾をぬぎながら、ひどくゆっくりと文造に振
返り、それから云った。
「ござったよ」
 甲斐が二人に訊いた、「久兵衛はいたか」
 すると、文造は平助を見た。平助はぬいだ頭巾を指でまさぐり、咳《せき》をし、文造に振返ってか
ら、またゆっくりと、甲斐のほうへ向いて、云った。
「虚空蔵《こくぞう》[#1段階小さな文字](山)[#小さな文字終わり]からおりて来たです」
「鉄砲を射ったのは誰だ」
「おらが射ったです」
「なぜ射ったのだ」
 平助は文造を見た。べつに意味はない、言葉が口へ出るまでに暇がかかるので、漫然とあちらを見た
りこちらを見たりするだけで、かれらがしばしばお互いを見るのは、ほかを見るより気が楽だからであ
った。
「小屋へ帰らねえと云うだで」と平助は答えた。
 裏口から与五兵衛がはいって来た。彼は濡れた桶《おけ》を持っていたが、それを釜戸《かまど》の
脇へ置いて、二人のほうへ近より、強い山訛りで、きめつけるように訊いた。
「小屋へ帰らないでどうするというだ」
 平助は肩をちぢめた。殿さまをつけ覘《ねら》うらしい、と文造がとりなすように答えた。与五兵衛
は眼を怒らせた。殿さまをつけ覘うって。そう云っただ、殿さまの腹へ鉛だまをぶち込むだ、それまで
は小屋へは帰らねえって、そ云ってたですよ、と文造は告げた。それで射ったのか。へえ。久兵衛はど
うした。また虚空蔵へ登ってっちまったですよ、と平助が答えた。
「よし、飯を喰べてゆけ」
 甲斐はそう云いながら、周防を送るために土間へおりた。
「おらたちは帰るです」
「飯を喰べてから帰れ」と甲斐は云った。
 周防と甲斐は小屋を出た。山の尾根へ登ると、空は鼠色の厚い層雲に掩《おお》われ、西のほうに一
とところ、低く、朱と金色に縁取られた雲の切れ目があって、それが、丘陵のうち重なる広い山なみを
、その稜線《りょうせん》だけ錆《さ》びたはがね色に、染めていた。
 周防が立停り、甲斐もその脇に立停った。二人は蔵王を眺めやった。蔵王は西側が金色に輝き、その
半面が黒ずんだ紫色に昏《く》れていた。紫色の部分はすでに眠りかけているようにみえ、金色に輝い
ている半面は、一日のなごりを惜んでいるように思われた。
「律のことを聞かせてもらえないか」と周防が云った。
 それは、蔵王の峰からでも呼びかけるように遠く、静かに低い声であった。
「済んだことだ」と甲斐も同じように答えた。
 周防は山を見たまま云った、「ではもう、しばらく会えないな」
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2020/01/07(火) 09:30:59.85ID:UMnWC6GU
 甲斐は額に皺をよせただけであった。
 周防は口の中で「どうか一日も早く」と祈るように云った。
「此処から二人で、また蔵王を見ることができるように」

[#3字下げ]くびじろ[#「くびじろ」は中見出し]

 年が明けて[#1段階小さな文字](寛文二年)[#小さな文字終わり]正月中旬になった或る日、
――甚次郎[#1段階小さな文字](山)[#小さな文字終わり]の東側の谷あいにある猟小屋で、甲
斐は弓のつくろいをしていた。外は粉雪が舞い、もう昏れかかっていた。
 猟小屋は山の小屋よりも狭い。それは杉の丸太で組み、戸口のほかに、東に面して小窓が一つある。
中は二坪ばかりの、炉のある土間を囲んで、三方に腰掛が造りつけてある。北側だけは六尺幅、他の二
方は三尺幅で、どちらにも藁《わら》と蓆《むしろ》が敷いてあり、そこでごろ寝をすることができた
。東に面した小窓をあけると、阿武隈川の流れと、対岸の山や田野が眺められる。阿武隈川はそこでゆ
るく「く」の字なりに曲っており、河原が広く、浅瀬になっていて、よく鹿が渡った。いまは雪で見え
ないが、その小窓に倚《よ》っていれば、鹿の渡るのが見えるのであった。
 甲斐は弓の千段を巻いていた。籐《とう》を斜め十字なりに巻き、それを緊めて、また十字なりに巻
く。巧みな手つきで、ゆっくりと、楽しそうにそれを続けた。
 小屋の中は暗くなり、炉で燃えている火が、彼の顔を赤く、精悍《せいかん》に照らしだしている。
籐を緊めるとき、唇の端に皺がより、額には汗がにじんでいた。炉の火が強いうえに、かけてある茶釜
から湯気が立つので、小屋の中はむれるほど暑くなっていた。甲斐はふと、手を止めて、顔をあげた。
うしろの山道で、木の枝から雪の落ちる音がし、人のおりてくる足音が聞えた。甲斐は、そこに置いて
ある山刀を見、じっと外のけはいに耳をすませた。
 綿にでも包まれたような、はっきりしない足音、というよりもそのけはいが、山道をおりて来て、戸
口の外に停った。甲斐は弓を逆に構えた。足音は停ったが、そのまましんとなった。
「誰だ」と甲斐が云った。
 戸口の外で人の動くけはいがし、くすくすと忍び笑いをするのが聞えた。若い娘の声である、甲斐は
弓を持ち替え、また千段を巻き始めた。――殿さまはいらっしゃるだ。はいれ、おめえがさきだ。ふじ
こ[#「ふじこ」に傍点]がさきだ。はいれっていうによ。おらいやだ。そんな問答が聞え、やがて、
「はいってもいいか」とふじこ[#「ふじこ」に傍点]の云うのが聞えた。
「だめだ、与五に怒られるぞ」と甲斐が云った。
 するとまた忍び笑いが聞え、戸口をあけて、粉雪といっしょに三人の娘がはいって来た。ふじこ[#
「ふじこ」に傍点]、きよき[#「きよき」に傍点]、そしてもう一人は初めて見る顔だった。
「与五が怒るぞ」と甲斐が云った。
 三人はまだくすくすと笑いながら、戸口を閉め、雪帽子や蓑《みの》をぬいで、板壁の釘《くぎ》に
掛け、それから、三人かたまって挨拶をした。
「殿さまにこれ持って来ただ」とふじこ[#「ふじこ」に傍点]が云い、三人はそれぞれ、手籠や角樽
《つのだる》や、重箱の包みをそこへ並べた。
「もうすぐ与五が来るぞ」と甲斐が云った。
「きたっていいですよ」ときよき[#「きよき」に傍点]が云った、「怒りだすまえにかじりついてや
るだ」
「かじりつくって」
「あの爺さまは女に捉《つか》まると萎《な》えてしまって、怒る精もなくなっちまうだ」
「声も出せなくなるだ」とふじこ[#「ふじこ」に傍点]が云った、「女に捉まると手足をわんざらく
っさらさして、ばかがおこったみたようになるだ」
「そしていきすじひっぱって逃げだすだ」
 娘たちは声をあげて笑った。
 甲斐はつくろい終った弓を取って、きっきっと三度ばかり撓《たわ》めてみ、それをうしろの板壁に
立てかけた。娘たちは互いにわけもなくはしゃぎながら、甲斐の前に古びた毛氈《もうせん》をひろげ
、重詰を並べたり、手籠から燗鍋《かんなべ》や盃《さかずき》や箸《はし》などを取出して、手まめ
に酒の支度をした。
0155名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:31:34.67ID:UMnWC6GU
「ふじこ[#「ふじこ」に傍点]は虚空蔵から来たのか」と甲斐が訊いた。
「おら小坂にいるです」とふじこ[#「ふじこ」に傍点]が答えた、「小坂の源十のとこに、五日まえ
から泊っているです、殿さまはまだ御存じないでしょう、これが源十の娘のなをこ[#「なをこ」に傍
点]です」
 なをこ[#「なをこ」に傍点]と呼ばれた娘は、赤くなって頭をさげた。甲斐はふじこ[#「ふじこ
」に傍点]に云った。
「ふじこ[#「ふじこ」に傍点]はなぜ小坂などへ来ているんだ」
「久兵衛が暴れてしようがねえです」
「おれをつけまわしているんではないのか」
「ときどき小屋へ来るです」とふじこ[#「ふじこ」に傍点]が云った。
「殿さまを覘っても館《たて》の衆の眼がきびしいだで、思うように動きがとれねえ、それで小屋へ来
ては暴れるです」
「なぜ館へ云って来ないのだ」
「おらあなんでもねえです、あんなかぼねやみ[#「かぼねやみ」に傍点]の一人や二人、なんとも思
やしねえし、父さまも館へ申上げるほどのことはねえ、ちっとのま小屋をあけて、久兵衛の気をぬけば
いいって、それで小坂へ来ているです」
「おまえ嫁にゆくのだろう」
「おらがですか」
「久兵衛の嫁になる筈ではないのか」
 ふじこ[#「ふじこ」に傍点]は赤くなり「んでがす」と云った。
「それなら早く祝言をしたらどうだ、そうすれば久兵衛も暴れるようなことはなくなるだろう」
「それがそうでねえのです」
 ふじこ[#「ふじこ」に傍点]はそう云って、もっと赤くなり、首の折れるほど俯向《うつむ》いて
しまった。きよき[#「きよき」に傍点]となをこ[#「なをこ」に傍点]はくっくっと喉《のど》で
笑い、温まった燗鍋と盃を、甲斐の前に置いた。
 甲斐は盃を取りながらふじこ[#「ふじこ」に傍点]を見た。
「なぜそういかないんだ」と甲斐が訊いた。
 ふじこ[#「ふじこ」に傍点]は答えなかった。きよき[#「きよき」に傍点]が側から袖を引き「
云っちめえな」と囁《ささや》いた。ふじこ[#「ふじこ」に傍点]は首を振り、それから急に顔をあ
げて、ああ辛気《しんき》くせえ、と急に投げやりな調子になって云った、「こんな話しはもうやめた

 甲斐は酒を飲みながらふじこ[#「ふじこ」に傍点]を見た。ふじこ[#「ふじこ」に傍点]は伴れ
の二人と眼を見交わし、いたずらそうに肩を竦《すく》めて、「それより殿さまに知らせることがある
」と云った。
「久兵衛となぜ祝言しないんだ」と甲斐が訊いた。
「そんな話しはもうやめて下さい、おら、ごちゃくちゃしたことは嫌いです」とふじこ[#「ふじこ」
に傍点]は云った。
 そして隅にあった燭台《しょくだい》をひきよせ、炉の火を移して甲斐の脇に置いた。きよき[#「
きよき」に傍点]は炉へ焚木をくべ、なをこ[#「なをこ」に傍点]は重詰から、自分たちの肴《さか
な》をべつに取り分けた。彼女たちは雪沓《ゆきぐつ》をぬいで、腰掛の上に坐り、甲斐に給仕しなが
ら、自分たちも飲みはじめた。彼女たちが飲むのは、酒を好むからではなく、話しのすべりをよくする
ためのようであった。酒を飲むときは渋い顔をし、一杯を三度にも五度にも舐《な》める。肴はみな巧
みに指で摘み、そして休みなしに饒舌《しゃべ》った。
「世の中に男と女があるってことはふしぎなもんだ、そうじゃねえか」ときよき[#「きよき」に傍点
]が云った。
0156名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:32:17.94ID:UMnWC6GU
 男と女があって、男と女でない者がないというのはふしぎではないか。だって鳥だってけものだって
同じことだ、男と女のほかになにかあったらふしぎではないのか、となをこ[#「なをこ」に傍点]が
反問した。よせ、そんなことはふしぎでもなんでもない、ふしぎなのはどうして男が男に生れ、女が女
に生れて来るかということだ、とふじこ[#「ふじこ」に傍点]が云った。それは男の血気が強いと女
が生れ、反対のばあいに男が生れるのだそうだ、ときよき[#「きよき」に傍点]が云った。嘘っぱち
だ、とふじこ[#「ふじこ」に傍点]がきめつけた。なにが嘘っぱちだ。平四を見な、平四はあんな腑
《ふ》ぬけみたようで、年じゅうひょろひょろしているのに、生れるのは女の子ばかりではないか。そ
れは見かけの話しだ、ときよき[#「きよき」に傍点]が云った。精が強いか弱いかは見かけではわか
らない、平四は青んぶくれて腑ぬけのように見えるが、あのことにかけては精が強いのだ。おうれ、き
よき[#「きよき」に傍点]はよく知っているだな、とふじこ[#「ふじこ」に傍点]が云った。あの
ことってなんのことだ。なんのことかふじこ[#「ふじこ」に傍点]は知らないのか。うん知らねえ、
知らねえから訊くだ。「あれ、いいふりこきが知らねえってよ」ときよき[#「きよき」に傍点]が云
った。それを知らないで久兵衛と祝言する気か。よしてくれ、久兵衛のことを云うな、とふじこ[#「
ふじこ」に傍点]がふくれた。「つまらねえ、そんな話しよすべえ」となをこ[#「なをこ」に傍点]
が云った、「もっとほかの話しをすべえ、殿さまに笑われるだ」
「ほかのなにを話すのだ」とふじこ[#「ふじこ」に傍点]が云った、「なをこ[#「なをこ」に傍点
]はなにを話してえだ」
 なにを話したくもないが、そんな話しは恥ずかしいからいやだ、となをこ[#「なをこ」に傍点]が
云った。なにが恥ずかしいものか、これは人間の苦《く》のたねではないか、とふじこ[#「ふじこ」
に傍点]が云った。へええ、ときよき[#「きよき」に傍点]が云った。なにが苦のたねだ、嬉しくっ
てわくわくするくせに。きよき[#「きよき」に傍点]はわくわくするかもしれない、だがよく世間を
見てみろ、とふじこ[#「ふじこ」に傍点]が云い返した。嫁にいって亭主や舅《しゅうと》や姑《し
ゅうとめ》のきげんきづまをとって、汗みずたらして働いて子を産んで、休むひまもなく年をとって老
いぼれて、そして死んでしまうのではないか。男は外で勝手なまねもできるが、女は生涯「家」と「亭
主」と「子供」に縛られたっきりで、一生に一度、仙台の城下を見ることもできずに終ってしまう者が
多い、それでもわくわくするか、とふじこ[#「ふじこ」に傍点]が云った。
 そんなことは誰でも云うことだ、ときよき[#「きよき」に傍点]が云った。昔から云い古されて耳
にたこがいってるくらいだ、そのくせ一生独り身でいる者はない、いやだのおうだの苦のたねだのと云
いながら、やっぱり年ごろになれば男が欲しくなり嫁にゆきたくなる。それはそれだけいいことがある
からだ、どんな苦しい辛いおもいもいとわないほど、いいことがあるからだ、ときよき[#「きよき」
に傍点]は云った。そんないいことってなんだ、きよき[#「きよき」に傍点]は知っているのか。ふ
じこ[#「ふじこ」に傍点]は知らないのか。またさっきと同じとこへ返ったな、知らないから教えて
くれっていうだ。へ、いいふりこきが、ときよき[#「きよき」に傍点]は云った。いいことってのは
な、躯《からだ》じゅう八万八千の毛穴が一つ一つちぢみあがるような気持だとよ。へええ、それっき
りか。そのうえに、おめえのような性分ならこむらげえりがするって云わあ。どうしておらのような者
はこむらげえりがするだ。それは好き者だからだべさ。おらが好き者か。眼が下三白《かさんぱく》で
手の甲にほくろのある者は好きだっていうだ。そう云う者はぼんのくぼと踵《かかと》で這《は》いま
わるだとよ。ときよき[#「きよき」に傍点]は云った。
「よう、もうやめにすべえよ」となをこ[#「なをこ」に傍点]が云った、「たのむからほかの話しに
すべえ、本当に殿さまに笑われるし、恥ずかしいだからよ」
「なをこ[#「なをこ」に傍点]もいいかげん白ばっくれるだな」ときよき[#「きよき」に傍点]が
云った。
0157名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:32:57.36ID:UMnWC6GU
「おめえ恥ずかしいなんて、もう去年の春に太平から手ほどきされてるでねえか」
 なをこ[#「なをこ」に傍点]は「やめておくれ」と云い、さっと耳まで赤くなった。おうれ、もう
か、とふじこ[#「ふじこ」に傍点]が云った。なをこ[#「なをこ」に傍点]は十五になったばかり
ではないか。早くもおそくもないさ、ときよき[#「きよき」に傍点]が云った。はちざえもんが始ま
れば誰でもそうなるもんだ。なをこ[#「なをこ」に傍点]は十四の春だったから、ちょうどくらいの
ところだろう、ときよき[#「きよき」に傍点]が云った。なをこ[#「なをこ」に傍点]は身もだえ
をし、やめておくれ、と泣き声をあげた。するときよき[#「きよき」に傍点]が彼女を指さし、露骨
な調子で云った。
「おめえ渡し場の舟小屋を思いだしただな」
「舟小屋だって」とふじこ[#「ふじこ」に傍点]が訊いた。
「東の滝沢へ渡る渡し場さ」ときよき[#「きよき」に傍点]が答えた。
 嘘だ、となをこ[#「なをこ」に傍点]がむきになって云った。なにも知らねえくせに、きよき[#
「きよき」に傍点]はでたらめばかり云うだ。おう怒ったか、へえ、そんな顔で太平と舟小屋でなにし
ただか、ときよき[#「きよき」に傍点]が云った。なをこ[#「なをこ」に傍点]は両手で耳を塞《
ふさ》ぎ、おら知らねえなにも聞かねえ、と身もだえした。
 甲斐は盃を持ったまま惘然《ぼうぜん》と炉の火を眺めていた。娘たちの問答は、彼をものかなしい
ような気分に包んだ。
 彼女たちはまだ情欲というものを知ってはいない。やまがに育ったから、あるいはまったくの無垢《
むく》ではないかもしれないが、情欲の本当のあまさやにがさはまだ知ってはいない筈である。それに
もかかわらず、彼女たちは情欲を怖《おそ》れ、嫌悪し、同時にもっと激しくひきつけられる。それは
彼女たちを傷つけ、不幸にするだろう。情欲が女たちを傷つけ、醜くくし、不幸におとしいれる例は、
数えきれないほど見もし聞きもしている。しかも、それがたしかであればあるほど、彼女たちはそれに
ひきつけられ、身を任せたい衝動に駆られる。かなしいものだ、と甲斐は思った。かなしく愚かしいが
、美しく真実だ。少なくともこの娘たちの感じている情欲は真実で美しい、と甲斐は心のなかで呟《つ
ぶや》いた。
「舟小屋には渡し守がいるべえにさ」
「夜の八時限りだ」ときよき[#「きよき」に傍点]がふじこ[#「ふじこ」に傍点]に云った。
 夜の八時限りで渡しは止まる。渡し守も家へ帰ってしまう、あとは戸口へ草の穂をさしておけば誰も
はいってはこない、ときよき[#「きよき」に傍点]が云った。草の穂をさすだって。んだ、中でいい
ことしてる者がいるって印さ。はあそうか、それでわかった、とふじこ[#「ふじこ」に傍点]が頷《
うなず》いた。なにがわかっただ。なにがって、おめえが「くびじろ」をみつけたわけがよ。どんなわ
けだ。おめえは舟小屋へ誰かといって、それで「くびじろ」をみつけただべが、とふじこ[#「ふじこ
」に傍点]が云った。
 甲斐が顔をあげた。「くびじろだって」と彼は娘たちを見た、「誰かくびじろを見たのか」
「おめえは」ときよき[#「きよき」に傍点]が、ふじこ[#「ふじこ」に傍点]に手をあげた。
 あとで云うだって、約束しただにね。おらもそのつもりだっけ、舟小屋なんて云うからつい口がすべ
っただ、とふじこ[#「ふじこ」に傍点]が云った。
「くびじろを見たのか」と甲斐が訊いた。
「おらじゃねえです」
「おら見たです」ときよき[#「きよき」に傍点]が云った。
 そのとき、この小屋の表てで人の声がし、外から引戸があけられた。
 引戸があくと、粉雪が吹きこんで、炉から煙が巻きたち燭台の灯がはためいた。はいって来たのは片
倉|隼人《はやと》で、うしろに与五兵衛がいた。二人は戸口で雪帽子や蓑をぬぎ、それらを板壁に掛
けてから、こちらへ来て挨拶をした。
 甲斐はそれに眼で応じたまま、「くびじろをどこで見たか」と訊いていた。
 娘たちは、はいって来た二人を見てしりごみをし、脇のほうへ躯をずらせた。甲斐はたたみかけて訊
いた。きよき[#「きよき」に傍点]は隼人たちに気をかねるように、もじもじしながら「曲り瀬のと
ころです」と答えた。
「滝沢の瀬か」
 きよき[#「きよき」に傍点]は「そうです」とこっくりをした。
「若い牝鹿がさきに渡り、あとからくびじろが、それを追って渡ったです」
「西からか東からか」
「東からこっちへです」
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2020/01/07(火) 09:33:33.52ID:UMnWC6GU
「いつだ」
「今日の八つさがりです」
 甲斐は「よし」と頷いた。
 この問答を聞いていた与五兵衛は、眼をきらっとさせながら、くびじろだとな、ときよき[#「きよ
き」に傍点]を見、それから甲斐に向かって、静かに、しかしきびしく首を振った。
「殿さま、なりませんぞ」
「用はなんだ」と甲斐は隼人を見た。
 与五兵衛はなお「殿さま、くびじろはなりませんぞ」と云った。
「おれに構うな」と甲斐は云った。
 くびじろはだめです、と与五兵衛は繰り返した。あれは十五歳にもなる豪のもので、これまでに大猪
《おおじし》を二頭殺し、熊を一頭傷つけている。どんなに老練な猟師でも、あれにだけは手を出しま
せん。わかってる、と甲斐は云った。
「だが、おれとくびじろの関係も与五はよく知っている筈だ、もうなにも云うな、――隼人、なんの用
だ」
「一ノ関からお使者がございました」
「帰国されたのか」
「この月下旬まで仙台に滞在されるそうで、相談したいことがあるから仙台へ来られたい、との口上で
ございます」
「所労だと云ったろうな」
「申しました」
「なるべくまいるつもりでいるが、所労がぬけないようだったら、一ノ関の館《たて》へ参上するとい
ってくれ」
「一ノ関へでございますか」
「そう云ってくれ」
 甲斐は立ちあがって、おまえたちも帰れと娘たちに云った。馳走をありがたかった、また来てくれ、
そう云って、支度を直しながら、甲斐はまたきよき[#「きよき」に傍点]に呼びかけた。
「くびじろは谷地《やち》へはいったか」
「谷地を川上のほうへいったようです」
「川上へいった」と甲斐は訊き返した。
 きよき[#「きよき」に傍点]は「はい」といった、「雪の中でよく見えなかったですが、谷地から
山の裾へつき、それをまわって川上のほうへゆくのを見たです」
「よし、気をつけて帰れ」
 娘たちは、ひろげた器物を片づけて、帰り支度をした。甲斐もこのあいだに毛皮の胴着を重ね、鹿革
の股引に革足袋をはいた。そして棚の上から、かもしか[#「かもしか」に傍点]の毛皮を縫い合わせ
て作った寝袋を取りおろして、猪の焙肉《あぶりにく》や、薄焼や、干飯《ほしい》やかち栗、乾した
杏子《あんず》など、それぞれの包みを中に入れて巻き、それを背負えるようにしっかりと括《くく》
った。与五兵衛はふきげんな眼つきで、身動きもせずに、じっと甲斐のすることを見ていた。
「もう一つ申上げることがございます」と隼人が云った。
「急用でなければあとにしてもらおう」
「江戸から宇乃《うの》と申す少女がまいりました」
「江戸から、――」と甲斐は振返った。
 娘たちは支度を終り、蓑や雪帽子を着けて、挨拶もそこそこに出ていった。甲斐はそろえた矢を壺胡
※[#「竹かんむり/祿」、第3水準1-89-76]《つぼやなぐい》に入れかけたまま、不審そうに隼人を
見た。
「宇乃が来たというのか」
「昨日の夕刻、惣左衛門の書面をもって、辻村と塩沢の二人が伴れてまいりました」
 甲斐は「宇乃が」と口のなかで云った。そうか。虎之助が八歳になったのか。
 そう気がつくと、わけもなく心がふさがれ、鬱陶しいような気分になった。
「わかった」と甲斐は隼人に云った、「母上に申上げて、隠居所の世話をさせるように、願っておけ」

「いつ御帰館なされますか」
「なるべく早く帰る」
0159名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:34:11.37ID:UMnWC6GU
 隼人は与五兵衛を見た。与五兵衛の顔は赤く充血し、その眼は怒りのためにするどく光っていた。甲
斐は革足袋の足に雪沓をはき、紐《ひも》を二段にしめた。それから壺胡※[#「竹かんむり/祿」、
第3水準1-89-76]を括りつけ、寝袋を背負い、弦をかけないままで弓を取った。
「片倉を送ってゆけ」と甲斐は与五兵衛に云った、「炉の火を消すぞ」
 与五兵衛は答えなかった。
 隼人は蓑や雪帽子を着けながら「私は一人で戻れます」と云った。いや、与五に案内させるがいい、
と甲斐が云った。この雪では倉沢の道が危ない、隼人は猟小屋へは初めての筈だ。しかし与五はお供を
させて下さい、と隼人が云った。私はまわり道をしてゆきます。ではいいようにしろ、と甲斐は云った
。おれはでかけるぞ。ほかにお申しつけはございませんか。炉の火を消してくれ、おれはでかける、と
甲斐は云った。そして、与五兵衛の眼から逃げるように、引戸をあけて、出ていった。
 夜の明けるまえ、――甲斐は細谷という部落の山の中で、横になっていた。
 そこは西北にひらけた山の中腹で、うしろは枯木林の山につづき、前は段さがりに低くなって、田畑
の向うに北郷《きたさと》村の山の迫っているのが見える。甲斐は藪蔭《やぶかげ》を選んで、斜面の
ほうを頭にし、寝袋の中にすっぽりと躯を入れ、食糧の包みを枕にして、じっと眼をつむっていた。そ
の寝袋は律が考案し、自分で縫いあげた野宿用のもので、寒さも充分ふせげるし、雪ならもちろん、少
しくらいの雨にも、濡れずに寝ることができた。
 うしろの斜面で、木の枝から雪の落ちる音がした。甲斐は頭をあげ、寝袋から顔だけ出して、あたり
のようすに注意をくばった。
 すぐ眼の前に藪がかぶさっていて、雪で撓《しな》った枝葉のあいだから、細い笹の幹がぼんやりと
見え、つい鼻のさきで、新らしい雪が匂った。枝から落ちる雪の音は、遠く近く、断続して聞えるが、
甲斐の予期したもののけはいは、感じられなかった。
「聞きちがいだったな」と彼は呟いた。
 猟小屋をおり、谷地をぬけて来るとき、三度ばかり火繩の匂いを嗅《か》いだ。うしろから粉雪を吹
きつける風のなかにかなりはっきりと匂ったし、火繩の匂いであることもたしかなように思えた。久兵
衛だ、と甲斐は直感した。ふじこ[#「ふじこ」に傍点]が小坂の源十の家へ来たので、久兵衛もあと
を追って来たのだろう。彼女が二人の友達と猟小屋を訪ねたことも、おそらく知っていたに相違ない。
――そうだとすれば、おれのあとを跟《つ》けて来ることも当然だ。
 甲斐はうしろに注意しながら歩いた。ときに林の中へはいって、跟けて来るのをたしかめようとした
が、火繩の匂いが三度しただけで、久兵衛の姿を認めることはできなかった、「おれの勘ちがいか、そ
れともはぐれてしまったのか」
 甲斐はそう呟き、頭をめぐらせて、あたりを眺めまわした。雪はまだ降っていた。まばらな小雪であ
るが、やみそうにも思われない、濃い鼠色にいくらか明るみのさしてきた空には、雪雲が厚く低く、向
うに迫っている丘陵の、すぐ上にまで垂れさがっているようにみえた。
 甲斐は寝袋から出て、大きく伸びをした。
 ――もう動きだすころだ。
 くびじろが移動を始める時刻であった。
 甲斐は雪を両手に取って、ごしごしと顔から衿首をこすった。それを二度繰り返すと、指は凍《こご
》えたが、眼がさっぱりとさめ、顔や衿がこころよくほてってきた。彼はさらに一と握りの雪を口に含
み、手拭で濡れたところを拭きながら、寝袋の脇に腰をおろした。
 溶けた雪を吐きだすと、甲斐は足袋の上からよく足を揉《も》み、雲沓を出してはいた。そうして、
食糧の包みをひらいた。
 薄焼[#1段階小さな文字](小麦粉を練って延ばし、醤油で焼いたもの)[#小さな文字終わり]
をひと口、それから焙った猪の肉を歯で噛《か》み千切って、ゆっくりと噛み、乾した杏子の一片で味
を添えた。猪の肉は時間をかけて焙るから、脂肪とたれ[#「たれ」に傍点]がよく肉にしみこんでい
るし、しこしこした薄焼の甘味と、少量の杏子の酸味とで、噛めば噛むほど、濃厚で複雑な味が、口い
っぱいにひろがるのである。甲斐はそういう食事を好んだ。それが鹿の焙り肉であれば申し分はない。
猪や兎の肉でも悪くはないが、韮《にら》と葱《ねぎ》と人参《にんじん》を刻みこんだたれ[#「た
れ」に傍点]で、味付けしながら気ながに焙った鹿の肉ほど、甲斐にとってうまい物はない。それはい
つも、想像するだけで、口いっぱいになる唾がはしるくらいであった。
 ――おれは間違って生れた。
0160名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:34:58.63ID:UMnWC6GU
 と甲斐は心のなかで呟いた。けものを狩り、樹を伐《き》り、雪にうもれた山の中で、寝袋にもぐっ
て眠り、一人でこういう食事をする。そして欲しくなれば、ふじこ[#「ふじこ」に傍点]やなをこ[
#「なをこ」に傍点]のような娘たちを掠《さら》って、藁堆《こうたい》や馬草《まぐさ》の中で思
うままに寝る。それがおれの望みだ、四千余石の館も要らない。伊達藩宿老の家格も要らない、自分に
は弓と手斧《ておの》と山刀と、寝袋があれば充分だ。
 ――それがいちばんおれに似あっている。
 そのほかのものはすべておれに似あわしくない。甲斐は口の中の物を噛むのも忘れ、ややしばらく、
どこを見るともなく、ぼんやりと前方を見まもっていた。
 彼はやがて首を振り、「ああ」と意味のない声をあげ、そしてまた喰べつづけた。二枚目の薄焼を取
りあげたとき、うしろのほうで、鹿のなき声が聞えた。
 甲斐は屹《きっ》と振返った。あたりはかなり明るくなっていたが、枯木林の奥は暗くて、なにも見
えなかったし、けものの動くような物音は聞えなかった。
 ――だがたしかに鹿の声だ。
 甲斐はまず弓を取って、弦を張り、壺胡※[#「竹かんむり/祿」、第3水準1-89-76]を括り付けた
。それから、音のしないように、手早く食糧を片づけて寝袋に入れ、それをかたく背負いながら、いま
なき声のしたほうをうかがった。やはりなにも見えず、なにも聞えなかった。
「しかし紛れはない」
 甲斐はそう呟いて、雪帽子をかぶり、藪の蔭から、そっと伸びあがって、「くびじろ」の通路に当る
、山つきの低地を見やった。
 くびじろは阿武隈川を渡ると、すぐ正覚寺[#1段階小さな文字](山)[#小さな文字終わり]か
ら甚次郎[#1段階小さな文字](山)[#小さな文字終わり]へぬけるか、谷地をまわって山にはい
り北郷村の丘陵へ向かうか、どちらかの通路をとるのが、いつもの例であった。こんどは谷地を川上の
ほうへいったというので、いま甲斐の見張っている場所なら、決して見うしなう心配はないのであった

 空が明るくなるにつれて、雪の降りかたがまた強くなった。――ぐあいが悪いな、と甲斐は空を見あ
げた。
 眼をそばめ、唇をむすんだまま上へあげ、どこかに雲の切れ目はないかと、ぐるっと眺めまわした。
すると深く皺のよった額に、雪帽子をすべって粉雪が降りかかった。
 甲斐は手をあげて、睫《まつげ》にかかった雪を払おうとしたが、ふと、その動作を止めて息をのん
だ。視野の端に、なにか動くものの姿を認めたからである。彼はそのままの姿勢で、極めて静かにそっ
ちへ眼を向けた。
 二段ばかり先の、枯木林の中から、すっと一頭の鹿が出て来た。粉雪のとばりのかなたに、それはな
んの物音もさせず、幻のようにあらわれ、そこでじっと立停っていた。
 ――くびじろだ。
 とうとう掴《つか》んだ、と甲斐は思った。おちつけ、おちつけ、あせるなよ、と彼は自分に云った
。粉雪に遮《さえぎ》られて、はっきりとは見えないが、その大きさや、からだつきや、林から出てじ
っと立停っている用心ぶかさで、それが「くびじろ」だということは、甲斐にはすぐわかった。
 ――久しぶりだな、くびじろ。
 と甲斐は心のなかで云った。
 ――おれは此処にいるぞ。
 ふしぎななつかしさと、こんどは逃がさないぞ、という闘志とで、胸が熱くなった。こんどは逃がさ
ない。しかしわかるだろうと、甲斐は心のなかで呼びかけた。おれとおまえとは久しいなじみだ、おれ
たちはいつも堂々とたたかって来た。「そうだな」とくびじろが云うように、甲斐には思われた。そう
だな、しかし勝負はいつもわたしのものだった。いつもだって、おれはおまえに一と矢くれているぞ。
たしかにね、あれは甲午[#1段階小さな文字](承応三年)[#小さな文字終わり]の冬だったが、
一と矢といっても腿《もも》の皮を貫いただけさ、いまはもう傷あとも残ってはいないよ。そういばる
な、おれたちは堂々とやって来た。おれはおまえを餌《えさ》でつりよせたこともなし、罠《わな》を
仕掛けたこともない、いつも対等の条件でたたかったつもりだ。
 ――対等だって
0161名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:35:32.80ID:UMnWC6GU
 とくびじろが云った。甲斐には「くびじろ」がそう云ったように思え、はっと息をひそめた。鹿がこ
っちへ動きだしたのである。甲斐は弓を持ち直し、矢をつがえた。背負った寝袋が邪魔になる、しかし
解いているひまはなかった。
 風は北から吹いていた。くびじろは風上からこっちへ来る。用心ぶかく、ときどき鼻を上へあげ、周
囲をうかがいながら、静かにこっちへ近づいて来る。ふしぎだ、と甲斐は末弭《うらはず》を少しあげ
ながら思った。
 くびじろは他のどんな鹿にも似ていない。狡猾《こうかつ》なほど賢いし、物の音や匂いに対して異
常なくらい敏感だった。そのくびじろが、いま風下に向かって歩いて来る。これまでかつてそんな例は
なかった。それが絶対に必要でない限り、風下に向かうなどということは、少なくとも、「くびじろ」
のばあいには見たことがなかった。
 ――ああ、と甲斐は思った。おまえ老いぼれたな。
 鹿はいちど立停った。甲斐は「おちつけ」と自分に云った。鹿はまた歩きだした。粉雪のなかに、い
まはその姿をはっきり見ることができる。みごとな角《つの》、逞《たくま》しいからだ、雪をかぶっ
ているためか、顎《あご》の白い斑毛《まだらげ》が汚れた灰色に見える。動作は重おもしく、肢《あ
し》のはこびも鈍いようだ。
 甲斐は充分にひきよせた。弓を握った手指と、矢をつがえている指を、静かに握りこころみ、呼吸を
ととのえ、それから立ちあがった。
 距離は約三十尺。甲斐が立ちあがったとき、くびじろもぴたりと足を止めた。甲斐は弦をひきしぼっ
た。ほこ[#1段階小さな文字](弓の幹)[#小さな文字終わり]がききと爽やかにきしみ、弦はい
っぱいにしぼられた。その瞬間に、甲斐はまた火繩の焦げる匂いを感じ、くびじろが頭を右に振り、甲
斐は矢を射放した。
 矢はくひじろの肩に当った。たしかではない。くひじろはするどく叫び、頭を振り、躍りあがった。
そして、ぱっと雪けむりが立ったと見ると、枯木林の中へ疾走していった。走り去るときに、くひじろ
の右の肩で、矢が垂れさがったまま、ゆらゆらと揺れているのを、甲斐は認めた。この矢ごろで、と甲
斐は舌打ちをし、二の矢をつがえながら、すばやく身を跼《かが》めて向うをうかがった。
 ――どこにいる。
 いまたしかに火繩の焦げる匂いがした。それが手元を狂わせたのだ。どこに隠れているのか。甲斐は
弓のとりうち[#「とりうち」に傍点]で、笹藪《ささやぶ》の雪を払いながら、向うの林と斜面を注
視し、もの音に耳を澄ませた。だが、木の枝から雪の落ちる音がするだけで、視界のなかには動くもの
はなかった。
 甲斐は弓を構えたまま静かに立ちあがった。立ったまましばらく待ったが、やはり人のけはいもせず
、狙撃するようすもなかった、臆病者、彼はまた舌打ちをした。それから、矢をつがえたままの弓を持
って、藪の蔭から斜面へ出て、北に向かって歩きだした。
 ――さあ射て、射ってこい。
 一歩、一歩、雪沓を踏みしめながら、さすがに全身が緊張し、腋《わき》の下に冷たく、汗のながれ
るのが感じられた。
 突然、足もとから一羽の鳥が飛び立った。
 甲斐は危うく叫びかかった。飛び立ったのは雉《きじ》である。笹の蔭にでもいたらしい、はげしい
羽ばたきの音と共に飛び立つと、一文字なりに枯木林のほうへゆき、枝をかすめて、つぶてのように、
林の奥へと消え去った。
 くびじろは正覚寺[#1段階小さな文字](山)[#小さな文字終わり]と、甚次郎[#1段階小さ
な文字](山)[#小さな文字終わり]とのあいだに戻ったようである。そっちへ戻ったとすれば、甚
次郎から釜ノ川へ出るに違いない。そこから虚空蔵[#1段階小さな文字](山)[#小さな文字終わ
り]の南麓《なんろく》をまわり、白石川を渡って、沼辺村の山へはいるのが例であった。
 雪は午《ひる》まえにいちどやみ、西の空で雲が切れて、青空が見えた。そのとき西北のほうに、青
麻山と、蔵王の雪が鮮やかに眺められた。だが、それはほんの僅かなあいだのことで、まだ青空の出て
いないうちに、ちらちらと粉雪が舞いはじめ、たちまち雲が空を掩《おお》ったとみると、まえよりも
激しい降りになった。
 ――この雪では途中はだめだ。
0162名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:36:14.76ID:UMnWC6GU
 甲斐はそうみこして、虚空蔵[#1段階小さな文字](山)[#小さな文字終わり]の南麓へ向かい
、山つきを迂回《うかい》して、砦山の西から白石川へぬける狭間《はざま》道で、待つことにした。

 目的の場所へ着くまでに、二度ばかり、うしろに遠く人の跟《つ》けて来るのを感じた。甲斐は久兵
衛という若者を知らない、どうかしてひと眼その姿を見たいと思って、立停ってみたり、身を隠して待
ったりしたが、やっぱり相手は姿を見せなかった。
 狭間道へ着いた彼は、山裾の一段高くなった杉林の中へはいり、寝袋をおろして、食糧の包みをひら
いた。――そこは虚空蔵の山裾が切れて、砦山の登りにかかるところで、風は二つの山のあいだを、北
から吹いていた。したがって、くびじろが南からあがって来ても、そこに人間のいることを嗅ぎわける
ことはできない筈であった。
 甲斐は薄焼と焙り肉を出して喰べた。だが、一枚めの薄焼をまだ喰べ終らないうちに、くびじろがあ
らわれた。
 これまでの経験によれば、そんなに早くそこへ来ることはなかったので、濃密な雪の中からその大鹿
があらわれたとき、甲斐はそれがくびじろだとは信じられなかった。
 甲斐がくびじろをみつけると同時に、くびじろも彼のいることをみつけた。間隔はおよそ七間、くび
じろだ、とはっきり認めた甲斐は、呼吸五つばかりのあいだ、身動きもできなかった。くびじろも立停
り、右の前肢《まえあし》を半ばあげたまま、じっとこちらを見ていた。
 吹きつける粉雪が、くびじろの姿を淡くしたり濃くしたりする、老いてやや色の褪《あ》せた斑毛に
、みるみる雪が積もっていった。――これは失敗だな、と甲斐は直感した。弓と矢を取らなければなら
ない、こちらが動けば鹿はすぐ逃げだすだろう。だが、弓は取らなければならなかった。
 甲斐は息を詰めた。眼はまっすぐに、その大鹿をにらんだままで、左の手をそろそろと、弓のほうへ
さし伸ばした。くびじろは、あげていた右の前肢を静かにおろし、強い鼻息の音をさせた。
 ――逃げないのか。
 甲斐は心臓の烈しい鼓動を感じた。手は弓を掴んだ。次は矢だ。甲斐はできるだけ姿勢を崩さないよ
うに、くびじろをにらんだまま、脇へまわっている壺胡※[#「竹かんむり/祿」、第3水準1-89-76]
へ手を伸ばした。
 突然、くびじろの肢もとから、雪けむりが立った。くびじろは頭をさげ、跳躍したとみると、うしろ
に雪しぶきをはねあげながら、こちらへ跳びかかって来た。
 甲斐は左へ、雪をかぶった笹の上へ、さっと身を投げだした。雪けむりに包まれる甲斐の、躯とすれ
すれに、くびじろの大角《おおつの》が掠過《りゃっか》し、鹿に特有の体臭があとに残った。
 甲斐はすぐにはね起き、弓を拾い、矢を壺胡※[#「竹かんむり/祿」、第3水準1-89-76]から抜い
て、弓につがえながら、向うを見た。
 くびじろは逃げなかった。その大鹿は五六間さきで、こちらへ向き直っていた。肩にあった一の矢は
もうなくなっており、大鹿は烈しい鼻息をならしながら、前肢で地面を掻《か》き、首を上下に振った

 ――やる気か。
 おまえもそのつもりか、と甲斐は思い、つよい感動におそわれながら、身構えをした。
 風はいま、右前方から吹いていた。雪帽子をすべって、粉雪がしきりに顔へかかる。だがそれを払っ
ている隙はなかった。甲斐は吹きつける雪に正面して構え、弓をやわらかく、ゆっくりとしぼった。
 くびじろは首を振りやめ、頭部を低くして鼻息をならした。するとその白く凍る鼻息が、くびじろの
怒りと敵意を表白するかのようにみえた。
 ――いまだ、くびじろ、さあ。
 ぱっと大鹿が雪けむりをあげ、つぶてのように走りだした。
 ――おちつけ、おちつけ、甲斐は充分にひきしぼった。
 距離が約四間にちぢまった。呼吸が合った。しかし、まさに矢を射放そうとしたとき、弓弦《ゆみづ
る》が音を立てて切断した。
 弦の切れる「びーん」という音を耳にした次の瞬間、襲いかかって来るくびじろの巨大なからだと、
そのみごとな大角を、甲斐ははっきりと見た。
 くびじろは甲斐に突きかかり、その角で、甲斐の躯をはねとばした。甲斐の躯は大きくはねあがり、
雪をかぶった笹の斜面へ投げだされた。甲斐は自分の肋骨《ろっこつ》の折れる音を聞き、投げだされ
て、二間あまり斜面を転げ落ちると、すぐに腰の山刀を抜いた。
0163名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:36:48.96ID:UMnWC6GU
 くびじろは斜面を駆けおりて来た。甲斐は立とうとしたが、激痛のために呻《うめ》き声をあげ、雪
の中へ横倒しになった。くびじろはそこへ来た。斜面を駆けおりて来る「くひじろ」の、みごとな大角
を見ながら、甲斐は左の肱《ひじ》で半身を支え、右手の山刀の切尖《きっさき》をあげた。
 右の肋骨の五枚めあたりから、血がなま温かく肌を濡らすのが感じられた。くびじろは雪しぶきをあ
げながら、甲斐の脇を駆けおり、斜面の下へいって、向き直った。脇を駆けおりるとき、その蹴《け》
たてる雪しぶきが、甲斐の上へばらばらと飛んで来た。
 甲斐も向き直った。ゆるい斜面の下で、くびじろは激しく鼻息をならし、二度、三度、その大角を振
りたてた。甲斐は山刀の切尖をさげた。
 下から襲われては、勝ちみはない、殆んど勝ちみはない。こんどは小角《こづの》を使うだろう、と
甲斐は思った。大角の前にある小角は鋭利で、その一と刺しは致命的である。だが機会がなくはない、
うまく大角に手が届けば、首へ組みつけるだろう。そうなれば勝負はわからない、投げるな、と甲斐は
思った。
 甲斐は右足を曲げた。くびじろの肢の下で雪けむりがあがった。甲斐は呼吸を詰めた。耳ががんと鳴
り、視界が一瞬ぼうとかすんだ。くびじろは大角をさげ、後肢で雪を蹴たてながらとびかかって来た。
しかし突然、その前肢を折り、なにかで殴られでもしたように、首を振りたて、するどくなき声をあげ
ながら、右へだっと横倒しになった。そして、甲斐は銃声を聞いた。
 雪のために反響がなく、どこかへ吸いこまれてゆくような、短くて鈍い、その銃声を聞きながら、甲
斐は茫然とくびじろを眺めていた。
 くびじろは悲しげになき、首を振りあげ、立とうとして四肢でもがいた。雪しぶきが飛び散って、ず
るずると斜面を滑り、大角がなにかにひっかかって、頭部を上にして停ると、もういちど高く、なき声
をあげ、そして動かなくなった。そのとき甲斐は「対等だって」という声を聞いた。くびじろの最後の
なき声が、そう云ったかのように、感じられたのであった。
 笹を踏みわける足音がし、与五兵衛と、一人の若者がこちらへ近づいて来た。二人とも鉄砲を持って
い、そばへ来ると、若者は雪帽子をぬいだ。痩《や》せた蒼白い顔の、鼻の尖《とが》った、気の弱そ
うな男だった。
「誰が射った」と甲斐が云った。
 与五兵衛は鉄砲を置いて、甲斐の脇へ跼《かが》み、どこをやられたか、と訊いた。甲斐はまた、射
ったのは誰だ、と云った。与五兵衛は若者のほうを見て、それから云った。
「これが久兵衛という者です」
 甲斐は若者を見た。若者はそこへ膝《ひざ》をついて、頭を垂れた。
「おまえが射ったのか」と甲斐が云った。
 久兵衛は「へえ」と云った。
「このばか者」と甲斐は云った、「きさまはおれを覘《ねら》って来たのだろう、なぜおれを射たなか
った」
「殿さま」と与五兵衛が云った。
「なぜおれを射たなかった」と甲斐は叫んだ、「なぜおれを射たずにくびじろを射った、云え、なぜだ

 久兵衛は頭を垂れた。
 甲斐は山刀を持ち直して「寄れ」と叫んだ、久兵衛は顔をあげた。甲斐はもっと寄れと叫び、山刀を
ふりあげた。しかし傷にひびいて激痛が起こり、彼は呻きながら前へのめった。与五兵衛が殿さまとい
って、彼を危うく支えた。
「そいつを追い払え」と甲斐は云った、「二度とこの土地を踏ませるな、顔を見たら成敗するぞ」
 与五兵衛は若者に眼くばせをし、「お館へ知らせろ」と囁いた。久兵衛は雪帽子を持って立ち、道の
ほうへとおりていった。
 与五兵衛は甲斐の傷をしらべ、右の肋骨が二本折れていること、そこに外傷ができて、かなり出血し
ていることをたしかめた。彼は出血を止める手当だけしながら、「なぜ久兵衛を叱ったのか」と訊いた
。久兵衛は殿さまを跟けていた、自分はその久兵衛を跟けていた。
 久兵衛は自分がうしろから跟けているので、殿さまを狙撃することができなかった。しかし狙撃する
つもりでいたことはたしかであるし、あれは絶好の機会だった。万に一つも仕損ずることのない、絶好
の機会だったが、久兵衛は殿さまではなく「くびじろ」を射った。それは主従という関係の強さである
。あの瞬間に、自分の恨みを忘れたのは、褒めてやらなければならない、と与五兵衛は云った。
 甲斐は聞いてはいなかった。
0164名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 09:37:27.62ID:UMnWC6GU
「おれをくびじろのそばへやってくれ」と甲斐は云った。
 どうなさるのです。どうしてもいい、おれを引摺《ひきず》ってゆけ。動いては傷に障ります。いい
から云うとおりにしろ、と甲斐は云った。
 与五兵衛は甲斐を見、それから斃《たお》れている大鹿を見た。そして跼んで、甲斐の左の腕を自分
の首にかけさせ、両手で抱くようにしながら、用心ぶかく、そろそろと斜面を滑らせた。甲斐はするど
く顔を歪《ゆが》めたが、啼き声は出さなかった。
「もっとそばへやれ」
 甲斐はそこへと、手で場所を示した。与五兵衛は云われるとおりにした。大鹿の死躰《したい》のそ
ばへおちつくと、甲斐は「くびじろ」といって、その大鹿の頸《くび》へ手をやった。
「おれの手でやりたかった」と甲斐は云った。
 与五兵衛の髭《ひげ》だらけの顔が急に硬ばった。
「おまえはもう年をとった」と甲斐は云った。
 大鹿の頭や頸から、雪をはらいおとし、その頬や頸を、手でやさしく撫《な》でながら、甲斐はさら
につづけた。
「おまえはとしよりになった、まもなく若い鹿に追いやられるか、どこかのつまらない猟師に殺される
かするだろう、おれはそうさせたくなかった」
 そんなみじめなことにはさせたくなかった、と甲斐は云った。
「おれとおまえはながいなじみだ、おれはおまえをりっぱに、くびじろらしく、死なせてやりたかった
、おれは自分で、自分のこの手で、おまえを死なせてやりたかったのだ」
 甲斐は大鹿の頬を撫でた。与五兵衛は雪帽子をぬぎ、髪の灰色になった頭を垂れて、静かにそこを離
れてゆき、六七間さきへいって佇《たたず》んだ。
 その大鹿は胸を射たれていた。肩にある一の矢の痕《あと》はかたまっていたが、胸の傷口から流れ
だす血が、そのからだを伝って、雪を染めていた。撫でるとまだ躰温が高く感じられるが、みひらいた
ままの眼や、なかばあいている口は、もう虚《うつろ》な死をあからさまに示していた。
「そうだ、対等ではなかった」と甲斐は口の中で云った。「追う者と追われるものに、対等の条件とい
うことはない、今日の勝負はおまえが勝っていた、おまえはみごとにやった、あのばか者がいなければ
、おまえはおれを仕止めたかもしれない、くびじろ、さぞ無念だったろう、勘弁しろ、くびじろ」
 甲斐は眼を拭きながら、躯をずらせて、大鹿の上へうち伏した。そうして、強いけものの躰臭に顔を
包まれたまま、やがて、甲斐は気を失った。
 どのくらい失神していたかわからない。躯を揺り動かされた激痛と、自分を呼ぶ叫び声とで、われに
返ってみると、すぐ眼の前に見覚えのある顔がのしかかっていた。誰だろう。
 甲斐は眼をそばめた。
「おじさま」
 と云う声が聞えた。
 遠くから聞えて来るような、しゃがれた含み声であった。眼の前にある顔が歪み、大きくみひらかれ
た、きれいな両眼から、涙のこぼれ落ちるのを、甲斐は認めた。
「おじさま、死んではいや」
 とその顔が云った。死んではいや、おじさま死んではいや、と叫び、甲斐の手を取って頬ずりをした

「――宇乃」と甲斐は呟いた。
 そうか、宇乃だったのか、甲斐はそう思って、初めて眼がはっきりとした。
 村山喜兵衛が宇乃を抱き起こし、塩沢丹三郎が彼女を引取った。ほかにも五六人来ているようである
。甲斐は手を伸ばして、くびじろの顎を撫で、それから眼をつむって、かれらが自分を運びだすままに
させた。

[#3字下げ]断章(六)[#「断章(六)」は中見出し]

 ――御家老にございます。
「大槻《おおつき》か、会おう」
 ――斎宮《いつき》にございます。
「早かった。済んだか」
 ――申上げることができましたので、佐々木権右衛門を残し、私だけさきに戻りました。
「佐月はなんで死んだ」
 ――胃をながく病んでいたと申します。
「おかしなものだ」
 ――はあ。
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