Wikipedia稲作

イネ(水稲および陸稲)の日本本土への伝来に関しては、『朝鮮半島経由説』、『江南説(直接ルート)』『南方経由説』の3説がある[8][9]。

池橋宏は、長江流域に起源がある水稲稲作は、紀元前5,6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとしており、
20世紀中ごろから南島経由説、長江下流域から九州方面への直接渡来説、朝鮮半島経由説の3ルートの説が存在していたが、
21世紀になり、考古学上の膨大な成果が積み重ねと朝鮮半島の考古学的進歩により、
「日本への稲作渡来民が朝鮮半島南部から来たことはほとんど議論の余地がないほど明らかになっている」と述べている。

これについて広瀬和雄は、「中国大陸から戦乱に巻き込まれた人達が渡来した」
というような説は水田稲作が紀元前8世紀には渡来したのであれば「もう成立しない」としている一方で、

藤尾慎一郎は、これまでの前4,5世紀頃伝来説が、新年代説(前10世紀頃)になったとしても、
朝鮮半島から水田稲作が来たことには変わりないとしている。

また山崎純男は、朝鮮半島から最初に水田稲作を伴って渡来したのは支石墓を伴った全羅南道の小さな集団であり、遅れて支石墓を持たない慶尚道の人が組織的に来て「かなり大規模な工事を伴っている」としている。

佐藤洋一郎によると風張遺跡(八戸)から発見された2,800年前の米粒は「熱帯ジャポニカ(陸稲)」であり、
「温帯ジャポニカ(水稲)は、弥生時代頃に水田耕作技術を持った人々が朝鮮半島から日本列島に持ってきた」と言う。
ただし、佐藤洋一郎は埴原和郎が『日本人2重構造説』で唱えた稲作が大きな人類集団の渡来を伴ったという説には否定的であり、稲の小さな集団が渡来したと考えている。

日本の温帯ジャポニカは中国や朝鮮半島に比べて遺伝的多様性が失われているが、これは渡来時の稲が極少数だったことによるボトルネック効果と推測している。

佐原真は弥生稲作が日本に伝わった道について、「南方説、直接説、間接説、北方説があった」が
「しかし現在では・・・朝鮮半島南部から北部九州に到来したという解釈は、日本の全ての弥生研究者・韓国考古学研究者に共有のものである」としており、
佐藤洋一郎らが最近唱えた解釈に対しては、安思敏らの石包丁直接渡来説を含めて「少数意見である」としている。
趙法鐘は、弥生早期の稲作は松菊里文化に由来し「水稲農耕、灌漑農耕技術、農耕道具、米の粒形、作物組成および文化要素全般において」韓半島南部から伝来したとしており、
「日本の稲作は韓半島から伝来したという見解は韓日両国に共通した見解である」と書いている。