>>90
> 文法上のいわゆる反論は「その解釈以外(主語を変える)もできるでしょ?」という種の例を上げています。

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主語を変えることで文意を変え、それに対して反論してるわけですよね。
相手の主張を歪曲して、それに対して反論するのは藁人形論法という詭弁です。

> こちらは文法上論理的不備ではなく「文言解釈の多様の合理」を求めた議論です。

いいですか?向こうのスレの私の主張について「文の論理的解釈は私の提示した解釈に収束する」と私は主張し、あなたはそれに異論を唱えた。それは事実で、そこに論点が生じました。
「文の論理的解釈がどうであるか」という論点です。
生じた論点ですから決着させましょうよ、異論を提示した論者としての責任ですよ?
「文の論理的解釈が私の提示した解釈に収束するか、しないか」、しないというなら反論をする。あるいは異論を取り下げる。
取り下げるなら「私の提示した解釈に収束する」に異論が無いわけですから、これが通ります。
どちらかです。議論における論者として、どちらかを選択してくださいね。

> 貴方の合理不合理はどうでもいいといっています。
> 貴方が合理であるならそれでいいともう一度言っています。

それは論点を決着させる回答ではありませんね。「貴方の合理不合理」とか「貴方が合理であるなら」といった話ではありませんwww
「議論をしている我々にとって『論理的解釈が私の提示した解釈に収束する』という合意を許さない反論があるか無いか」です。
この決着を避けるのは、生じた論点からの逃亡です。

> しかし認めるということではありません。

認めないなら反論を。それが議論です。

> だから議論を進めるには「ムキ」のような多様価値観解釈の合理を認めることからしか進まないと言っています。

「文の論理的解釈が私の提示した解釈に収束する(しない)」は論理的な問題ですから、客観的に真偽を帰属させられる文です。
「ムキになっている(いない)」は主観の問題ですから、客観的には真偽を帰属させられない文です。
前者は立場や価値観の主観性によらず真偽が定まる客観的命題ですが、後者は多様な価値観の主観性によるものなので、性質が違います。

>「一般的、社会的解釈ではそうなるとは限りません」ですね失礼。

了解です。

> 1の主旨もわからないまま1の文言は普遍命題にならなければいけないとしたんですか?

命題の内容ではなく構造形式について言っているので、内容の真偽は論点外です。