>>308
> だから「ボクの解釈」ではなく「偏見を持った人間の解釈」ですから。

いやいや、あなたもその解釈をしている一人なんですよね?

> その「偏見を持った人間」はどういう解釈から「偏見」になったかは「その人間」に聞かなくてはわかりません。

どういう解釈であれ、それは「非論理的解釈」には違いないと思いますが、いかがです?

> が、貴方の文言は「その人間を産む可能性を否定できない」のです。

「非論理的解釈」であれば、ある文言からどのような解釈だって産まれ得ると思いますよ?「雨が降っている」という文を「今日の晩御飯はカレーだ」と解釈することも可能です。

> つまり、その人間の存在を無くすには「その原因の排除」が必要。
> 原因を排除すればその人間は現れることを防げます。

「非論理的解釈」の可能性をどう排除するんですかね?教えてください。

> 例えば医者が「貴方はこのままの食生活を続ければガンになる可能性があります。」と提示するとき、

医者をバカにしていますね。
> 医者は「可能性がないを捨象した」からそう提示した訳ではありません。
> あくまでも「可能性がある」ということを考慮し、提示するのです。

医者は可能性があるからデタラメに可能性を述べているのではありません。医者が提示するのは本質的に可能性でなく蓋然性です。
蓋然性は膨大なデータに裏付けられています。私の文が非論理的に読解されることの、可能性でなく蓋然性をあなたが述べようとしているならば、その裏付けとなるデータが必要です。

私は「非論理的解釈」が生じる【可能性】については認めています。
だが、言論が論理に基づくコミュニケーションであることから、文が論理的に解釈されることの【蓋然性】が高いと判断していますし、
実際問題として「非論理的解釈」の生ずる可能性を捨象できない以上、書き手の責任範囲は「論理的解釈」の範囲だとするのが妥当だと考えています。

> 最終的に「どちらかを選ぶこと」になるでしょうが、これは恣意的解釈、非論理的解釈、飛躍的解釈ということでもなく、ごく一般的、社会的な解釈及びその対策、対応でしょう。

医者は膨大なデータを裏付けに、蓋然性を提示します。
それは判断の主観性・恣意性に対して、できるだけその前提に客観性・普遍性を与えたいからです。
その結果として、「可能性」ではなく「蓋然性」を提示するのであって、漠然と「どちらかを選ぶ」んじゃありませんし漠然と「可能性」を述べているのでもありません。

>それと貴方は「論理的」という一つの価値観からしか解釈できていません。

違いますね。
もう何度も何度も何度も何度も述べていますが、「『非論理的解釈』があり得る」ことを否定していません。
しかしそれは書き手の責任の範疇外だ、と言っています。
理由は、これも何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も述べていますが、「『非論理的解釈』の発生の可能性の範囲は限定できない」ゆえに「書き手が『非論理的解釈』に責任を持つことは不可能」だからです。
従って、書き手の責任の範囲は「論理的解釈」の範囲だと考えます。

>「論理的なもの」がこの世の真理であるのならば別ですが、

そんなことは問題にしていません。