>>258
>住人は犯人を特定せよとは言っていません。住人からしたら事件が起きなければ防止策は何でもよいと考えられます。

「生徒全員が容疑者であるときの防止策」として住人は「苦情」を行っています。
何でもいいなら学校に対応を迫る必要もない。
自分で解決してもいい。
警察でもいいのです。
学校側はその「苦情」に対し対応を迫られ、その結果は住人の満足の行くものでなければならないでしょう。

> 学校側が結論を出す(捨象していい)とはそういうことです。
>この一文の意味がよく分かりませんが、「全員ではない可能性」を捨象したのは住人ではなく学校側だということには合意できますか?

学校側が結論を出す主導権があるのならば、
例えば、「1人以上〜生徒全員の可能性があるもの」に対し学校側の対応が1人に対しての対応でもいいということになりますが?
学校側が捨象できるとはそういうことですよ?
住人はそれで「防止策」になると解釈しますかね?
やはり解決の決定権が住人にある以上、「それに見合う対応」しかできないのが学校側です。
つまり学校側の「全校生徒の可能性に対しての対応」が住人側が納得いかないのものであるならば対応のやり直しが発生します。

> (一度の対応で終わらせることができる可能性がある)
これは学校側の判断ですよね?ですから

一度で解決する対応とは、学校側が住人側が求めている対応に答えている対応です。
でなければ何度も対応のやり直しが発生します。
つまり> この苦情に対する「結論の行方(学校側の対応)」は住人が決めているのです。
ということになります。

> つまり学校側にだけ対応させることは社会的には「非常識」になります。
> 住人には「生徒全員を容疑者」にした責任は生まれます。
これは元の文に還元すれば
「非科学的なものを科学的と偽ったり、非論理的なものを論理的と偽ったり、普遍的といえない価値観を普遍的であると偽ったり、といった詐欺的手法による欺瞞」に注意するのは自己責任だ、ということであって、
今の議論とは別の話だと思います。

ではなく「防止策」「防犯」というものは「犯された者にもある一定の責任がかかる」ということは常識です。
自転車を盗まれても鍵を設置していなければ警察は被害者に対し「防犯を怠っている」として注意をします。
責任とはそういうものです。
「ベジタリアン全員が容疑者」と提示した者にはその責任は発生するということです。
後の話ではありません。
提示したから発生するのです。
提示しなければ何も起きないのですから。