>>118
「想定が合っているか」という質問についてまとめておくと、
この質問は「想定」という語について、それが「正しい論理性を備えた想定の意味であるか否か」に場合分けして論じることができる。
なぜならば、「『正しい論理性を備えた想定である』か『否か』」は相互に背反であり、かつ両者で全体の集合を網羅するため、択一的にいずれかに定まるからだ。
従って、正しい論理性を備えた想定、すなわち「論理的な推論による想定」を指す場合と、正しい論理性を備えていない想定、すなわち「論理性を無視した想定」である場合の二通りに分けて考えることができる。

a【あなたの用いた「想定」の語が「論理的な推論による想定」である場合】
a-1・あなたの用いた「想定」の語が「論理的な推論による想定」である場合、「合っているか否か」という質問は「提示された想定の論理性が正しい論理性と合致するか」という質問であると解釈できるが、この質問については既に論理飛躍を指摘済み。
従って、議論上の提示であるなら反論して論理的正当性を立証するか、誤謬を認めて取り下げるかの二択である。
また議論上の提示でなく、議論の論点に無関係な論点を提示したならば論点ずらしであり、これは故意であれば詭弁であり過失であれば誤謬である。
a-2・また、「想定」の語については「論理的な推論による想定」の意味でありながら「合っているか否か」という質問は「想定の過程でなく結果のみについての質問」である、という可能性は考えられるが、
議論が論理に基づくものである以上、過程の論理性が無視された提示は議論において無意味・無価値であるため、この可能性は論理に基づいて捨象できる。
仮にこの意味の質問であった場合、「論理性を無視すること」は故意であれば詭弁であり、過失であれば誤謬である。

b【あなたの用いた「想定」の語が「論理性を無視した想定」である場合】
b-1・あなたの用いた「想定」の語が「論理性を無視した想定」である場合、「合っているか否か」という質問は「想定の過程でなく結果のみについての質問」である可能性はあるが、
議論が論理に基づくものである以上、「過程の論理性を無視して結果のみを問うこと」は議論において無価値であるため、この可能性は論理に基づいて捨象できる。
仮にこの意味の質問であった場合、「論理性を無視して結果のみを問うこと」は故意であれば詭弁であり、過失であれば誤謬である。
b-2・あなたの用いた「想定」の語が「論理性を無視した想定」である場合、「合っているか否か」という質問は[「『論理性を無視した想定』をする自由がある」という説について「その自由があるかないか」]という質問であるという解釈が考えられるが、
この場合、議論が論理に基づくものであることからその「想定」は本来議論に持ち込めないので、この場合である可能性は論理に基づいて捨象できる。
仮に「想定」の語がこの意味である場合、故意に「論理性を無視した想定」を持ち込んだなら詭弁、過失であれば誤謬である。

a-2、b-1、b-2の場合はあなたの詭弁か誤謬であり、a-1の場合はあなたが論理飛躍を埋める論証ができなければ詭弁または過失である。
要するに「論証か、詭弁を認めるか、誤謬を認めるか」いずれかです。


ついでに636についてまとめておくと、
・取り下げる必要が無ければ取り下げない。
・650との間には論旨に差違は無いものの前提に差違がある。
・650との差違は、636で当然のものとして捨象した「議論においてあなたが論理性を無視した可能性」について650では留意し、「その場合はあなたが詭弁を用いたことになる」と指摘していることである。
・あなたが用いた「想定」という語が「論理性を無視した想定」であるか「論理的な推論による想定」であるかによって、636の文と650の文のいずれがより適切であるかが変わる。
・あなたが「想定」の語を「論理性を無視した想定」の意味で用いたならば、前提としてその可能性を捨象している636は不適切なので取り下げとなり、その場合は650が適切となる。
と同時に、650で指摘したように「あなたが詭弁を用いたか誤謬をおかしたか、いずれか」となる。
・あなたが「想定」の語を「論理的な推論による想定」の意味で用いたならば、650でわざわざそうでない可能性(あなたが論理性を無視した可能性)に留意したこと自体に意味が無くなるので、
この場合は無駄な命題を省く意味から650よりも636が適切性を増す。
ということ。
従って636をどう処遇するかは「想定」の語の意味が定まらなければ解決しませんね。