競馬、闘牛、闘犬は動物虐待なので廃止すべき [転載禁止]©2ch.net
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>>184
おーいwww
1は「日本での」競馬、闘牛、闘犬、は動物虐待なので廃止すべき
ってなってるか?www
何でお前は妄想ばっかりすんの?www
普通に考えてもこの問題は「日本のみ」の話ではなく「人道的」視点からの「動物虐待基準」が適用されるんじゃねーかな?www
論点はそこであり、それが廃止すべき理由になるかならないか?
てことだろ? >>184
てか俺の166への反論ないのかな?www
競馬で論破されたから闘牛へシフトチェンジ?www 人道的にw
オマエの主観からみた考えだろw馬にムチ打つのが虐待w
遊牧民は馬に乗ってムチを10回以上打つがな虐待とは聞いた事がないなバカベジ
レースのルールとしてムチの回数決められているだけだろ
でオマエに肯定するのが誰もいないんだけどな 闘牛はスペインの文化だから、その文化を守るか変えるかはスペイン人の判断でオマエがどうのこうのいう筋合いはない >>193
>その答えはあくまでも推測を事実としてもいいという曖昧さを含んだものになる(一義的に定まらないを定めてもいい(曖昧さ))。
科学的に考えるというのはそういうこと。
ただし、
> これでは結局その反論(曖昧さへの)を呼び、論点がどんどんずれていく。
こうはならない。
なぜなら、帰納論法は反証主義を取るため、反証が無い限りでは仮定を「科学的事実」であるとしなければならないから。
> 演繹論法を使えば俺の主張は「論理的論法」とは言えなくなるだろうから根本的な部分(議論ができない)という答えを導くことができる。
いや、演繹論法を取るならそれはそれで論理的論法であるとは言えるんだよ。ただし「一元的・普遍的な根本原理」を立証できなければ独り善がりな世界観の中での独り善がりな理屈に過ぎない、という話。
> 俺の主張ははじめから言っているように「提案」だ。
> 提案とは間違いを含んでいても何ら問題はない。
だから間違いを指摘している。
>何回も言うようにお前の「問題ないともあるともはいえない」 はその答えが論理的であったにしろ何にしろ、
こちらの主張は「あるか無いかが一様に定まらない」だよ。「判断する主体により、あるか無いかが異なる」だ。
一様に定まらないはずのものを一様に定めようというのは科学的には無茶苦茶だ。そう指摘している。
にもかかわらず、一様に定まるための前提を、それを担保する立証が無いのに無理矢理一人決めして論理的に辻褄を合わせようとしてるだけなら、それは論点先取の独善論法だってこと。こんなものは議論にならなくて当然。
> 議論の進行の妨げにもなる。
進行もなにも、
○帰納的(科学的)な議論をしたいならそもそも前提不立により進行以前に立論し得ない主張だし、
○演繹的な議論をしたいなら普遍的な根本原理を立証しない限り、あらかじめ結論を一人決めした論点先取であってあなたの公理系(あなたの世界観)の中の独善ルールの外には通用しない立論だから、
その外側の他者とは議論もヘッタクレも有りはしない。
> そのような「お前の答え」はその手の議論には必要ないと言える。
これでは結局、非科学的で独り善がりな自分の決めたルールを発表しただけであって、だったら>>21>>46>>92などで指摘したようにエゴイズムな自文化普遍主義以外の何物でもないってことになるな。
そして、>>86とか>>106で言ったように、こちらはあなたが独善主義・自文化普遍主義を取るのかどうか確認しただけで、あなたがそういう立場であってはならないという否定をしているのではない。
ただその場合、>>188で書いたように
>あなたの定めた公理系の外にいる他者にとって、こんなものが議論になるわけがない。その意味では、議論にならないというあなたの発言は正しいことになる。
という話。
あなたの公理系(価値観)の外にいる相手に対して議論になり得るような立論なのかそうでないのか、それを私は確認していたと言ってもいいかもしれない。
そしてそれは既に予想していた通り、独善主義・自文化普遍主義でその価値観の外にいる他者にとっては議論になるような代物じゃなかったってことだね。
事ここに至ってやっとハッキリした。
こういう理解で間違いないね? >>196
ゆwwwうwwwぼwwwくwwwみwwwんwww
またまた新たなキーワードが増えましたーwww
何でそんなに妄想がとまんねーんだ?www
ここは遊牧民の生活事情を考えるスレでしたっけか?www
「家畜」のことをここへぶちこみたいのか?www
またまた新たな妄想が暴走してしまうけど?いいのか?www
最近ネズミがーネズミがーっていわないよな?何で?www
で早く競馬の話しろよwww
てかお前は何がしたいわけ?www
妄想がしたいだけなら書き込むなよ。
てかそれが主張なの?www
ならただの本物のバカだぞwww
てかちゃんと自分の考えを主張するのが怖いのかな?
できないのかな?
ネズミバカ肉かまってちゃんwww >>197
スペイン人の文化?www
スペイン人の文化に限定した話してんのここ?www
てか俺「スペイン文化反対ー!」といつ言ってましたけ?www
とりあえず妄想止めたら?www
どっかの誰かも文化文化って言ってたが、www
あくまで「動物虐待になるかならないか」の話だろが?
文化だから言える言えないてwww
お前も言えねーよwww
ブーメランまた刺さったぞwww またバカベジ発狂かよ
競馬、闘牛、闘犬は虐待じゃないで結論がでたろ >>198
俺の主張ははじめから言っているように「提案」だ。
提案とは間違いを含んでいても何ら問題はない。
「減らしても問題ない」という提案(主張)に対して「減らさすこと」「それに対して問題があるかないか」を議論し互いの答えの中から一つの答えを導く。これも立派に論理的である。
これでいいんだよ。提案から答えを導く議論は。
おまえの理屈をはめれば「提案の議論の全てはほぼ全て論点の先取り」だよ。
ここはな「真理」を求める議論じゃねーんだよ。
100%の万人の解釈の一致を求める場所でもない。
現にそうしなくても、みだりに奪う命の削減、代替可能な命の代替は一様に認められているものになっている事実もある。
そういう「答え」を求める場所がここだ。
とりあえずお前とは話せば話すほど論点がずれる。
そんな議論に意味はないのでここらでやめるわ。
今までの話の中
俺の提案(主張)「減らしていいものは減らしても問題はない」
と
お前の主張「減らしてもいいものは減らしても問題ないとは言えない。問題はあるともいえない。」
を第三者にどちらが客観的に整合するかを決めてもらえばいい。
それも論理的議論の進め方だろう。 >>201
おまえさっきの競馬の話覚えてないの?www
覚えられないの?
日本は鞭入れを動物虐待の行為とるというルールを受け入れてんだよwww
おれは言ってねーぞwww
おれがやれっても言ってねーぞwww
日本国が俺に黙って勝手に人の顔色みながらそうしたんだぞwww
俺は元から動物虐待は(無くならないから)仕方がないと認めてるんだがなwww
だけど減らしてもいいんじゃねってるだけだけどな。www
おまえみたいに「動物虐待じゃない」とか「文化だから動物痛めてかまわない」との主張こそ「孤立」するぞwww >>201
あとどうして「動物虐待じゃない」という結論が出たか教えろよwww
「廃止になってないから」は詭弁だぞwww 提案w
提案したが賛同者なしw
虐待の証明しろと書いたら、虐待じゃない証明しろとw
ないものを証明しろと、詭弁ガイドラインの悪魔の証明だなw
馬を走らすのにムチうつの当たり前だろw
バカベジ基準で虐待なだけw 提案オーケーよ!署名などで賛同してる人は沢山いるよ
動物虐待を擁護する肉ばか粘着ニートみたいのはあまりいない
また市民に対策案や科学的証明を求めるのは筋違い
それは国や企業がやる仕事
動物虐待の情報ともう一歩踏み出した生活提案(SNS やデモンストレーションなどで)は大切ね
壁は厚いが国や生産者側への意見も頑張りたいね
少しずつでも続けていこう >>207
俺の主張(提案)を理解していただいて有難いです。 >>206
悪魔の証明wwwふぁーーwww
動物虐待に関わる判断その対策としての「鞭入れの規制」を国がルール化してるって言ってるだろwww
お前が崇めてるお国が動物虐待になる行為を定めてんだよwww
しかもお伺いたてながらなwww
どんどん規制は厳しいなるわwww何せ受け入れちゃってるんだからなwww
最近もあったぞwゲートに入らない馬に対して鞭で叩きまくってたら全国から避難殺到だってよwww動物虐待だーつってwww肉食ってるやつでもかわいそうつってたわwwwJRA大慌てwww
競馬は動物虐待だよねーwwwwww
で?お前の主張は? >>206
>馬を走らすのにムチうつの当たり前だろ
あーあマジのバカ発言出たよ。
バカネズミ肉バカ発言が。
お前のその発言で完全に競馬が動物虐待でしかない証明になった。 >>203
こちらからの質問には回答無しかよwww
>>198の理解で間違いないね?に対する回答は?イエス?ノー?
これはハッキリどちらかに定まる質問だぞ?相互背反集合網羅だから。
前半についてはないかな>>198の後半で回答済み。
>おまえの理屈をはめれば「提案の議論の全てはほぼ全て論点の先取り」だよ。
演繹論法ならそうだし帰納論法(科学的論法)ならそうではない。
>ここはな「真理」を求める議論じゃねーんだよ。
真理など求めていないよwww
真理の話などしていない。真偽の判断についてこちらは言っている。むしろ勝手に真理を問題にしているのはあなたの方だ。仮定ではなく公理を一人決めしているんだからね。
>現にそうしなくても、みだりに奪う命の削減、代替可能な命の代替は一様に認められているものになっている事実もある。
ん?事実がどうであるかってことが焦点なのか?なら話は早い。事実として競馬は存在している。
> お前の主張「減らしてもいいものは減らしても問題ないとは言えない。問題はあるともいえない。」
「減らして問題あるか無いかが万人に対して一様には定まらない」だな。
個別の主体にとっては定まり得るが、各主体の価値観の多元性を認めるなら一様には定まらない、とならざるを得ない。そう言っている。 何が虐待で何が虐待でないかは実は明確じゃないんだよな。
時代や社会により文化的なコンセンサスは違うんだよね。
現時点では日本の社会では、競馬そのものが虐待であるというコンセンサスは無い。
ただし、「過度の(どの程度が過度にあたるかという規準も社会的なコンセンサスによる=現在過度と思われる程度の)鞭入れについては虐待に当たる」というコンセンサスは、運営団体が規制を取り入れる程度にはあるようだ。
事実はこれだけ。
競馬そのものが虐待であるというコンセンサスは無い。
で、そういうコンセンサスが無い現実に対して、「競馬そのものが虐待である」という主張を社会のコンセンサスにしたいから、いかに世論に競馬が虐待であると思わせるか、ということをしたいんだよね?
違う? バカベジがムチ打ちが虐待だって騒いでいるだけで虐待の根拠にならないからな
明確な根拠となるソースすら出せないからな >>203
>第三者にどちらが客観的に整合するかを決めてもらえばいい。
> それも論理的議論の進め方だろう。
これは違うな。
第三者が必ず論理的に判断するということが担保されてなければそうは言えない。 >>213
お前の言う
「馬を走らすのにムチうつの当たり前だろ」
これが動物虐待に定義される「不当な暴力をふるったり、その習性・性質を無視して扱う」を当てはまるかどうかだな。
鞭打ち→不当な暴力
競争馬対しての扱い→馬の習性、性質の無視
に当てはめることができる
これがいわゆる「競馬は動物虐待」だと言える根拠にはなる。
そしてJRAは絶対に 「馬を走らすのにムチうつの当たり前」とは口にできない。
したら終わりだ。
口にできないとはそういうことであるということだな。 バカ愛護団体の圧力によりイギリスでムチ打ちは7回までって決められただけ
バカ愛護の主張によれば競馬に関係しては7回ムチ打ちは虐待じゃない判断だろ
国際競馬団体だけの規定で駱駝レースや草競馬には無頓着なバカ愛護らしい バカ愛護団体は7回ムチ打ちは問題ないので競馬虐待じゃないという判断 >>217
マジのバカwww
動物愛護団体は競馬自体を動物虐待とカテゴライズしてるわwww
団体の観点からは廃止だよwww
それに対し、回数制限でお伺いたてながら動物愛護にすりよってるのは「お前ら」だよwww なあ、ID:s15A6tkVさんよ、あなたの議論のスタンスは>>198に示したような理解で間違いないかと聞いているんだが?
あなたが提示した主張に関わる質問なんだからきちんと回答してくれないか?それともここに来て逃げるつもりか? >>217
しかも俺の主張「減らしてもいいものは減らしても問題ない」
JRAは鞭使用回数を「減らした」ということはそれを当てはめても問題ない事実にもなるなこれwww
そしてアメリカでは競争馬のトサツを禁止している。
この場合は「禁止(0にする)」だが、
「減らしてもいい犠牲は減らしても問題ない」が法律化にさえ適用可能な提案であるってことでもあるかもなwww
バカベジのただのマイルールっつってたやつ涙目www アメリカのルールw
カナダやフランスやイタリアや日本は違うが
で競馬は禁止にならないだろw
バカ愛護は負けているわけだ
バカ愛護の基準は競馬の禁止 >>219
今度は煽りかよwww
お前とはもう議論しなくていいよ。
その話でもすでに論点がずれた議論にしかなってない。
俺の「減らしてもいいものは減らしても問題ない」とお前の「減らしてもまいいものは減らしても問題ないとも問題あるともならない」
を第三者の意見を交えながら客観的にどちらに整合性がある決めればいいと言ってるわな。
それも論理的な議論の進め方だ。
それともそれは論理的な議論の進め方ではないというのかな?
ま、それもそう思うならそう思ってりゃいい。 >>221
競馬て日本だけじゃねーよwww
日本独自の文化じゃねーしwww
だからおれも「廃止は無理だ」と言ってるしなwww
てかお前もしかして俺の主張「減らしてもいいものは減らしても問題ない」をちょっと受け入れちゃってんじゃねーか?www >>221
てか「競争馬に対し、動物愛護の観点から鞭使用に関する制限等のルール改正等が行われたにしろ競馬は廃止にならない」
とお前は言いたいんだよな?
つまり俺の主張「減らしてもいいものは減らしても問題ない」を完全に受け入れちゃってんじゃねーか?これwww オマエの二重基準に整合性はないけどな
オマエのやっていることは競馬は虐待というオマエの主観の強要
競馬はバカ愛護の主張通りに虐待でない >>219
あー214で言ってたな。
そう思ってりゃいいよ。
そうならお前は今ある問題の議論のほとんどに答えを出さなくていい。 減ってもかまわないよ、勿論増えてもかまわない
ようは、オマエの主張って現実的に意味あるの
ただの愛護オナニーじゃないのか >>225
二重基準てwww
>お前の言う
「馬を走らすのにムチうつの当たり前だろ」
これが動物虐待に定義される「不当な暴力をふるったり、その習性・性質を無視して扱う」を当てはまるかどうかだな。
鞭打ち→不当な暴力
競争馬対しての扱い→馬の習性、性質の無視
に当てはめることができる
これがいわゆる「競馬は動物虐待」だと言える根拠にはなる。
そしてJRAは絶対に 「馬を走らすのにムチうつの当たり前」とは口にできない。
したら終わりだ。
口にできないとはそういうことであるということだな。
JRAがそれを公で言えないのは何でかな?
動物虐待に当てはまるとJRA自身がそう思ってるからだよな?www
その動物虐待の定義もおれが決めてないしルール化もしてないしなwww
お前が「おれが決めたマイルール」っつってるからそうではないことを示しただけのことだwww
おれが主張してるのは「減らしてもいいものは減らしても問題ない」だしな。賛同してくれてありがとwww >>222>>226
煽りってwww
バカだなんだ言ってた人間の口からそれかよ?
あなたの主張のスタンスについての質問なんだから、質問にきちんと回答すべきだと思うが。
質問は「そう思ってりゃいいか悪いか」「議論をしなくていいか否か」「答えを出さなくていいか否か」じゃなく、
「間違いあるか無いか」だよ。これは相互背反集合網羅だから論理的に必ずどちらかに定まる。
説明責任を放棄するなら議論から逃げるってことだ。 >>227
勿論俺は「減らしていいらな減らしても問題ない」ものを「減らせた」のだから意味はある。
現実にここに来てる何人かも「廃止は難しいが、それに向けて少しでも犠牲を減らす」という考えを持ってる。
その「減らすこと」に意味はあると思うけどな。
さっき言った「ゲートインに対し、馬が拒否したとき鞭で何度も叩いてた人間」に対しても「動物虐待だ!」という一般的(ベジタリアンではない人も含め)な意見も沢山でた。
それこそベジタリアンではない人間でさえ、そういう「必要ない行動」は「無くしても(減らしても)いい」と考えてるってことだ。
そういう人間も「無くなれば(減らせれば)」意味があるから声を上げるんだろう。 >鞭打ち→不当な暴力
正当か不当かはどうやって決まる?
犬を首輪で繋ぐのは正当か?猫の不妊去勢は正当か?
>競争馬対しての扱い→馬の習性、性質の無視
に当てはめることができる
野犬というのがあるが犬を飼うのは習性や性質の無視には当たらないのか?
馬に鞭を入れると走るのは習性の無視で、首輪をつけて芸を仕込めば、お手ぐらいするってのは習性の無視に当たらないのか?
私は何が虐待で何が虐待でないか、何が正当で何が不当かはやはり多元的なものだと考えている。
その多元的な価値観の落とし所となるのが社会のコンセンサスであり、強制力または説得力を伴って社会の構成員を拘束する規範となるわけだ。
別に何が虐待で不当かがあらかじめ一元的に決まっているわけじゃないだろう。
現在のところ、犬を首輪で繋ぐのもご褒美をちらつかせてチンケな芸を仕込むのも虐待にあたらない娯楽の範疇というのがコンセンサスだろう。
競馬について言えば、一定以上の過度の鞭入れは不当な虐待に当たるが、競馬そのものは虐待にあたらないというのが社会のコンセンサスで、だからこそ競馬そのものが鞭入れを制限するという落とし所で存続しているといえる。 >>229
おまえあちこちで「逃げるな」とかやってるみたいだなwww
みんな逃げてんじゃねーよwお前が「どちらともいえない」といい続けて話が進まねーから逃げてんじゃなくて、やめてんだよw
一つ言ってもうホントにやめだ
お前の質問に対し「問題あるとも言えるし、問題ないとも言えるし、問題あるとも言えないし、問題ないとも言えない。」 >>231
減らすことの意味は人それぞれだろうし、国が動物愛護の観点からそういう犠牲を減らすことを法律化したのにも、
社会的に意味があるからそうするんだろう。
つまり減らすことにより何らかの「メリット」が生まれるからだろう。
それが意味になるのかもしれない。
別に増やすことにメリットが生まれるならそういう人間が増えてもいいだろうが、「動物の無駄な命を減らすことは問題で、増やすべきだ」と
国を訴える人間も企業も国もないし、法律をそう変えようとしないのは、減らしても問題ないという考え方のほうが理にかなっているんだろう。 まだやってたのかw肉バカ粘着ニート
『議論の汚い手』を参考に見たよ。肉バカみたいに自分の意見は言わず一方的に質問責めにするという汚いヤツに対処する方法は
◯わざと的はずれな事を答え続ける
◯次元が違うと突っねる
(この世に絶対なんてものはない。〜であると言い切れるものなんて何一つないのだ。そこに真理を求めるな。次元が違う。哲学スレいけ。こいつが悪質なのは世の中に絶対〜であると言い切る事が出来るものはないのわかっているくせにわざと言い方を変え
万人に共通か?客観的根拠は?普遍的正当性か?あるいはこの場に必要のない科学的根拠は?などと言い方をその都度変えて同じ質問を永遠と繰り返す)
◯貴方の本心は〜でしょう。そのような人に何を答えても無駄である。と突っぱねる。 >>234
その通り
わかりきったことをわざわざ肉バカニートの為に説明して差し上げることもないと思いますが >>233
ナイス回答!
肉馬鹿ニート対策にはこの一撃で十分 >>233
はははwww逃げるんだな。
相克背反集合網羅だからどちらかに定まるはずと言っただろ?
こちらが「一様には定まらない」と言った理由は「価値観の多元性」だ。
あなたへの質問は「『あなたの理解では』あなたの議論のスタンスはは私が質問したようなもので間違いはないか?」というものであり、
あなた自身のなかで主張に一貫性があるならば一元的に「間違いあるかないか」定まるはずの質問だwww
一様に定まらないならばあなたの主張にはブレがあり一貫していないということになるwww
主張に一貫性が無いならば議論にならないのは当たり前だね。そういうことかい? >>235
なんだオマエ?www
また議論できないクンが出てきたのか?
> (この世に絶対なんてものはない。
だったら「自分に必要ないから他者にも不要」と決め付けるのはただの独善じゃないかwww >>236-237
なんだか腰巾着とかタイコ持ちみたいな野郎だなwww >>238
おまえ皮肉通じないの
彼はもうお前のこと構ってあげないって言ってるんだよ
オレもお前の長文はいつもピントがずれてるから飛ばし読みしかしてないよ
たまには自分の意見かけよ
心配すんなよ。
おまえと違ってみんな不毛な質問攻めとかしないかから
では またいつかオレも去る >>241
論理的な主張ができないことを皮肉とすり替えてご満悦かwww
オマエよりと違って彼にはいくらか議論の素養はあるんだから一緒にしてやるなよwwwとのタイコ持ちしながらどさくさ紛れに罵声浴びせるしかない無能は議論には不要。
去って、どうぞwww 「すべき」なんて言ったらアンチの入れ食いだろうなwww
言ってみようかな…
…すべき
www 動物虐待として証明されたものは廃止すべきだという声が出ても仕方がない 俺達ベジタリアンは「植物を虐待するな」とか言われたら、言い訳しまくるけどな >>246
お前はバカなのか
植物虐待という証明されたものは廃止すべきだという声が出ても仕方がないだろう 絶対に植物虐待だとは認めない
植物を食べることはヤメナイ >>245
証明?証明されたの?
証明されてないならば? >>249>>250
証明されたのであれば廃止すべきという声が出ても仕方がない
動物虐待は愛護法という基準を持ち寄ることはできる
その法律により裁かれればそれを動物虐待とできることになる
その中から廃止すべきという声が出ても仕方がない
勿論植物にしても同じだ
しかし植物虐待の基準になるものがあるか私は知らない
愛護法のような社会で成り立つ基準を持ち寄りその基準とし植物虐待を確定させることはできる
そうなればその中から廃止すべきという声が出ても仕方がない
基準があれば教えてくれ >>251
> 証明されたのであれば廃止すべきという声が出ても仕方がない
証明されていないならばどうかと聞いているのだが。
> 動物虐待は愛護法という基準を持ち寄ることはできる
仮に法を基準にするならばそれは司法が判断すべきことで、司法以外の誰かが「あれは愛護法違反だ」というのは恣意的な発言に過ぎない。
司法がそう判断して初めて余人の発言に正当性ある根拠が付与される。
従って司法の判断に先んじて勝手にそのようにいうことは不当である、ということになる。
> その法律により裁かれればそれを動物虐待とできることになる
> その中から廃止すべきという声が出ても仕方がない
司法に裁かれていないものを動物虐待とは不当であり、動物虐待を論拠に廃止すべきということも不当となる。
こういうことになるね。 >>252
根本的にお前は人の主張を理解できないのか
そして言ってないことを付け足したがるな
まず
私は「証明されたのであれば」という場合のことしか主張していない
証明されてないことなどどうでもいい
>仮に法を基準にするならばそれは司法が判断すべきことで、司法以外の誰かが「あれは愛護法違反だ」というのは恣意的な発言に過ぎない。
>司法がそう判断して初めて余人の発言に正当性ある根拠が付与される。
>従って司法の判断に先んじて勝手にそのようにいうことは不当である、ということになる。
勿論法律を基準にするのであれば司法の判断によるものを基準とする
だが全てが裁判が終わるまでその基準を持ち寄ることはできないということではない
判例を持ち寄りそれを判断材料とすることはできる
> 司法に裁かれていないものを動物虐待とは不当であり、動物虐待を論拠に廃止すべきということも不当となる。
つまりまだ裁かれていないものでも判例を持ち寄ればそれを動物虐待と判断することはできることもある
その場合廃止すべきという声があがっても仕方ない
判例を持ち寄るとは
例えば
誰かが「今から殺人してくる」と言っている場合
殺人とは司法でなくとも判例という基準により判断できる
その場合は「やめろ」という声が出ても仕方ない
こういった場合でも廃止すべきという声が出ても仕方ないと言えるだろう >>253
> 根本的にお前は人の主張を理解できないのか
誤っている部分があるなら指摘を。
> そして言ってないことを付け足したがるな
あなたの主張から合理的に導出できる内容であれば、それはあなたの主張にその内容が含まれているということ。
> 私は「証明されたのであれば」という場合のことしか主張していない
> 証明されてないことなどどうでもいい
「証明された場合」と「証明されていない場合」ど結果に差違がないならば、「証明されたかどうか」に還元することに意味が生じないのだから、主張として無意味だ。
つまり「証明されていない場合」がどうであるかというのは、あなたの主張が意味のあるものかどうかという、いわばあなたの主張のレゾンデートルの問題なのだから「どうでもいい」というわけにはいかないだろう。
それはあなたの主張そのものが「どうでもいい」ということだ。
> 勿論法律を基準にするのであれば司法の判断によるものを基準とする
> 判例を持ち寄りそれを判断材料とすることはできる
> つまりまだ裁かれていないものでも判例を持ち寄ればそれを動物虐待と判断することはできることもある
> その場合廃止すべきという声があがっても仕方ない
つまり動物虐待として既にある判例に基づいて、廃止すべきという声が上がるならば、これは正当性があるということだね。
で、それに従うならば、判例を示さずに廃止すべきという声を上げることには正当性があるとはいえない、ということでいいのかな?
> 誰かが「今から殺人してくる」と言っている場合
これについて「やめろ」というのは、必ず法を基準にしているのだろうか。そうである場合は例になるが、そうでない場合は例にならない。
あなたの論旨に準えると、この場合判例などの法的基準に従って「やめろ」というのは仕方ないが、そうでなければ仕方ないとはいえない、ということでいいのかな? >>255
レゾンデートル問題?
であるなら「どうでもいい」と言っていることが成り立つはずだがな
つまり私は「私の主張は証明された場合の整合性だけを問題とする」ことを提示するだけで何ら問題はない
証明されてない場合を検証することは論外
これもそうだがお前は勝手な解釈(捏造)ばかりだな
判例を元にし「やめろ(廃止しろ)」という声が出ても仕方ない
こう私は言っている
だがだからといって判例を元にしない「やめろ」という声は仕方なくない
とは言っていない
それはそう言い切れないからだ
判例を元にしなくとも声が出ても仕方ないことがあるかもしれない
それを検証することは全くの論外となる >>257
いや、あなたが「証明された場合は、仕方ない」と主張している。
で、私は「証明されたかされていないかが、仕方ないかどうかに関係あるのか」を問うている。
もしこれで「証明されていない場合も、仕方ない」であるならば、「どうであれ、仕方ない」ということになるので「証明されたかどうか」に還元しても主張として意味がないということ。
つまりあなたの主張が主張として意味を持つためには「証明されていない場合は、仕方ないと言えない」でなければならない。
> つまり私は「私の主張は証明された場合の整合性だけを問題とする」ことを提示するだけで何ら問題はない
www
場合分けの片方において整合する、というだけでは場合分けする意味があるのか、と問うている。
場合分けしてそれぞれの場合に結果に差違がなければその場合分けをすることに何の意味がありますか、という話だ。
「のび太は勉強しなければ0点をとる、のび太は勉強しても0点をとる」である場合に「のび太が0点をとるのは勉強するかどうかの問題ではない」ということ。
> 判例を元にし「やめろ(廃止しろ)」という声が出ても仕方ない
私は「証明された場合に、声が上がるのは仕方ない」という命題の真偽については留保している。それ以前に「証明されたかどうか」を前件として場合分けすることに意味があるかどうかを確認している。
> だがだからといって判例を元にしない「やめろ」という声は仕方なくない
> とは言っていない
こちらも「証明されていない場合は、仕方なくない」などと言っていない。これはあなたの捏造だ。
私は「証明された場合は、仕方ない」に主張として意味があるなら当然、
「証明されていない場合は、仕方ないと言えない」としか言っていない。
「仕方ないと言えない」は「仕方なくない」ではない。
「『仕方ない』と断言できない」つまり「必ずしも仕方ないと言えない」と言っている。
これに注意してもう一度よく考えて回答してもらいたいが、
あなたの主張は、動物虐待として既にある判例に基づいて、廃止すべきという声が上がるならば、これは正当性を認めざるを得ないということだね。
で、それに従うならば、判例を示さずに廃止すべきという声を上げることには正当性が認めざるを得ないとはいえない、ということでいいのかな? >>258
私が言いたいことをのび太の例えに当てたとき
私の主張は
「のび太が0点を取る理由は?」という問いに対し「勉強したとき」と答えている
という事だ
これが成り立てばそれでいい
勿論私は「これだけしか答えはない」とは言っていない
ただ「これは正解の一つだ。間違っているか?」という話だ
つまり
証明されること=仕方ない
が正解の一つであれば私の主張は成り立つ
これ以外は論外だ >>259
www
「のび太が0点を取った」、これについて「のび太が勉強をした」かどうかを論じる意味があるのか、と聞いている。
場合分けに意味が無ければ「のび太が0点を取った」と言えば済む話。「のび太が勉強したかどうか」を論じるのは無意味だと言っている。
オッカムの剃刀を知っているか?
「のび太が正月に凧揚げをしなかったとき、のび太は0点を取った」これが真実だとしても「凧揚げをしたかどうか」が0点を取ったという結果に作用したと言えないならばこの主張には意味がない。
こういった無駄な命題は幾らでも立てることができる。だが馬鹿馬鹿しいくらいに論じることの意味がない。 >>259
それともうひとつ。
>私の主張は
>「のび太が0点を取る理由は?」という問いに対し「勉強したとき」と答えている
> という事だ
この問答が、理由を聞かれて理由にならないものを答えている形式だというのは分かりますか? >>260
オッカムのカミソリとは
全て同じ結果になる理由であるなら単純化していいだけであり「勉強したこと」を否定することにはならないハズだが?
つまり表示することは省けるといったもの
そしてもし「勉強したこと」を省くのであればあらかじめ「勉強したこと」が0点をとる理由の一つであることを導いておく必要があるわけだ
そしてこの理由を省くのは勝手だか省くからといって間違いではなく、省かないから正解ということでもない
お前がやっているのはただ私の理由が気に食わないから省きたいだけってことだ >>262
> オッカムのカミソリとは
> 全て同じ結果になる理由であるなら単純化していいだけであり「勉強したこと」を否定することにはならないハズだが?
だから「のび太が0点を取る」という結果をもたらすのに「勉強したかどうかが関係ない」ならば「勉強したかどうかを論じる必要がない」んだよ。それは無駄な議論で省いて構わないということだ。
> そしてもし「勉強したこと」を省くのであればあらかじめ「勉強したこと」が0点をとる理由の一つであることを導いておく必要があるわけだ
これは違う。オッカムの剃刀が理解できていない。
勉強したかどうかが0点を取るかどうかの結果を左右するなら省けないから、その場合は結果に対する関係性を導けるなら議論に持ち込めばいい。(ジャイアン「いや、あいつこないだ勉強したら15点も取りやがったからな」、という場合)
結果に関係すると言えない論点は無駄だから省くんだよ。
「勉強しても0点、しなくても0点」だから省く。この場合「勉強したかどうかは関係ない」つまりどうでもいい論点だからだ。
決して「勉強したことが0点を取る理由だと導いたから省く」のではないよ。
ジャイアン「のび太、今日の試験の勉強したか?」
のび太「してないよ」
ジャイアン「本当か?俺よりいい点とったらぶん殴るぞ!」
スネ夫「勉強してもしなくてものび太は0点だから本当でも嘘でもいいよ」
ジャイアン「それもそうだな」
これがオッカムの剃刀だ。
> そしてこの理由を省くのは勝手だか省くからといって間違いではなく、省かないから正解ということでもない
私は「どっちにしろ0点なら、『のび太が勉強した』の真偽を論ずる意味がない」と言っているだけで「『のび太が勉強した』が偽である」と主張してはいない。
「それを論ずる意味がない」と言っている。
>お前がやっているのはただ私の理由が気に食わないから省きたいだけってことだ
気に食うか食わないか、という話ではない。
有用な議論か無用な議論かを確認している。無用な論点などいくらでもこじつけられるからね。
「『証明されたかされていないか』で『仕方ない』かどうかが変わらないなら、あなたの持ち出した論点は無駄で無意味で削ぎ落として構わないもののはずだが、
わざわざ論ずるならば『証明されていない場合は、仕方ないと言えない』ということでいいか?」と確認している。
要するにあなたの論点は必要ですか?無用ですか?意味ありますか?無意味ですか?という確認だ。だからあなたの質問自体のレゾンデートルだ、と言った。
もしこの論点を論ずる意味がないなら例えば
【屠殺が動物虐待と証明されたなら非難されても仕方ない】という命題はオッカムの剃刀で【屠殺は非難されても仕方ない】と単純化して論ずることができる。
この単純化ができないとしたら「動物虐待と証明されたなら」という条件が真偽を左右するということだから、「動物虐待が証明された場合」と「されない場合」で結果に差違が生じなければならない。
であるならば、片方が「証明された場合、仕方ない」であるのだから他方は「証明されない場合、仕方ないと言えない」となるのは道理だろう? >>263
お前は論点を先取りしている
例えば私の主張が
「のび太は勉強したとき0点をとる」
だとし、
お前の主張である「のび太は0点をとる」と原因(理由)「勉強したとき」をカミソリにより省く時、
これは原因が全て結果「のび太は0点をとる」になる場合だけだ
つまり原因が100通りあるなら100通りが全て一つの結果になる必要がある
お前は全ての原因が一つの結果になることを知っていることで初めて「のび太は0点をとる」と言い切れることができることになる
なぜお前は全てが一つの結果になることを知っている?
まずは一つ一つそうなることを調べるなり、経験するなりしなければ知れる訳はない
知らなければ省けるはずがない
つまり
お前は私の主張「勉強したとき」を議論する必要がないと言っているのは、
私の主張を認めた先の議論だ
私は私の主張が成り立っているのであればその先の論点を議論する必要はない >>264
ああ、完全にオッカムの剃刀を間違えてるな。
オッカムの剃刀とは「ある大命題を論ずるとき、その大命題の論点に関係する(結果を左右する、結果に対する原因として還元できる)小命題であるならば省いてはならない。論点に関係する小命題であるといえなければ省く。」という原則だ。
> お前は論点を先取りしている
これも的はずれ。
> 例えば私の主張が
> 「のび太は勉強したとき0点をとる」
> だとし、
というときに、「のび太が勉強したかどうかを論じる意味がありますか?」と聞いている。論点先取ではなく、論点とすべき問題ですか?と小命題を持ち込もうとしたあなたに問うている。
あなたが「論じる必要性」を立証できれば、この命題を論じる意味はありオッカムの剃刀で省くことのできない命題ということになるが、
そうでないなら、すなわち「のび太が勉強したかどうかで0点かどうかが変わる」と言えないなら・・・P
>>263で述べたように
スネ夫「勉強してもしなくてものび太は0点だから本当でも嘘でもいいよ」
となるわけだ。
私が言っているのは「あくまでPであるなら省くことができるはずだから、この小命題を意味あるものとして提示するならば論ずる必要性を提示せよ」ということだ。
これも>>263で書いたが
「『証明されたかされていないか』で『仕方ない』かどうかが変わらないなら、あなたの持ち出した論点は無駄で無意味で削ぎ落として構わないもののはずだが、
わざわざ論ずるならば『証明されていない場合は、仕方ないと言えない』ということでいいか?」と確認している。
例えば、
しずか「のび太さんはやればできるもの、10点くらいなら取ったことあるんだから」
というならスネ夫の剃刀では省けなくなる。
しかしそうでなければ、
ジャイアン「それもそうだな」
となるわけだ。
このしずかちゃんのセリフのように「論じる価値がある命題ですよ」と言えないなら、無駄な議論は省く。それがオッカムの剃刀だ。
だからあなたに「論じる価値があるか?『証明された場合とされていない場合で結果が変わるのか』『証明されていない場合は、仕方ないと言えないということでいいか?』」と聞いているわけだ。
そうでなければ論じるだけ無駄だぞ、という意味でね。
> お前は私の主張「勉強したとき」を議論する必要がないと言っているのは、
> 私の主張を認めた先の議論だ
> 私は私の主張が成り立っているのであればその先の論点を議論する必要はない
残念ながら、オッカムの剃刀で省かれる小命題は真偽を定めなくていいんだよ。というより真偽を定める価値がない論点だから、無駄を省くために削ぎ落とすんだ。
要するに「大命題の結果に関係ないから論じる必要がない」と言っているだけで、「あなたの言う小命題が真だから省いていい」ということではないwww
大命題を論ずるときに、あなたの持ち込んだ小命題は真偽を論じる価値がない無駄な論点だから捨ててしまえ、ということだ。 >>264
>お前は論点を先取りしている
これが的はずれだということは説明したが、他の部分についても解説してあげた方がいいかもしれないな。
>例えば私の主張が
>「のび太は勉強したとき0点をとる」
>だとし、
>お前の主張である「のび太は0点をとる」と原因(理由)「勉強したとき」をカミソリにより省く時、
>これは原因が全て結果「のび太は0点をとる」になる場合だけだ
>つまり原因が100通りあるなら100通りが全て一つの結果になる必要がある
これはあまりにもオッカムの剃刀と違うことを言っているので、最初何を言ってるのか分からなかったのだが、
要するに「勉強したとき」という場合の他に考えられる「場合」が無数にあり、勉強の代わりに「昼寝をしていた場合」はどうか、「おやつを食べていた場合」はどうか、「マンガを読んでいた場合」は、「あや取りをしていた場合」は、
という具合に
「無数に考えられる場合についてくまなく全て検証し、結果『あらゆる場合に0点を取る』と検証されたならば、0点の原因を『勉強したとき』に還元できないと判る、それならばオッカムの剃刀で省くことができる」という意味だろう?
だから、
>お前は全ての原因が一つの結果になることを知っていることで初めて「のび太は0点をとる」と言い切れることができることになる
と言い出した。こういうことだろ?
しかし、これはオッカムの剃刀とは全然違う。
「勉強したとき」以外というのは勉強の代わりに「昼寝」をしようが「あや取り」をしようが全て「勉強した『ではない』とき」に集約される。これは場合分けのもっとも簡単な形態だ。
従って、「勉強したとき」が「0点を取る」という結果をもたらす原因になるかどうかについては、検討する必要があるのは「勉強したか、していないか」の二通りに集約する。
そして、「勉強したか、していないか」という場合分けのいずれにおいても結果「0点を取る」が同じならば、「勉強したか、していないか」は結果に対するその原因とは言えない、つまり大命題とは関係ない、
こういう、大命題の真偽に影響しない小命題ならばそれを論じる意味がないから省く、というのがオッカムの剃刀だ。
従って、
>なぜお前は全てが一つの結果になることを知っている?
>まずは一つ一つそうなることを調べるなり、経験するなりしなければ知れる訳はない
>知らなければ省けるはずがない
こんな無茶苦茶なことにはならない。
だいたいオッカムの剃刀がなぜ「思考節約」と呼ばれているか考えてみたらいい。
「まずは一つ一つそうなることを調べるなり、経験するなりしなければ知れる訳はない 知らなければ省けるはずがない」なんてことしていたのであれば思考の節約になるはずがないだろう。 >>266
なんにせよ「勉強したとき」をお前がただ単に省きたいだけのことであり、
「勉強したとき」が意味がないこととそれとは別の論点だ
私はこの仮説「のび太が勉強したとき0点をとる」が成り立てばいいことであり、
私のレゾンデートル上、「勉強したとき」を省かないこと
「のび太は勉強したとき0点をとる」を主張としといればいい >>266
それとお前は論点をすり替えている
お前の大命題(理由)とは「のび太」となる
つまり「のび太という原因が0点をとる」と言ったものだ
私の主張は違う
あくまでものび太が「何かをしたとき」0点をとるという「何かをしたとき」が重要だとしている
それが「勉強したとき」であり、元の主張である「証明された」ということだ >>267
> なんにせよ「勉強したとき」をお前がただ単に省きたいだけのことであり、
私だけでなくオッカムも、だな。ただ単に、ではなく論ずる価値がないから、だな。
> 「勉強したとき」が意味がないこととそれとは別の論点だ
> 私はこの仮説「のび太が勉強したとき0点をとる」が成り立てばいいことであり、
> 私のレゾンデートル上、「勉強したとき」を省かないこと
> 「のび太は勉強したとき0点をとる」を主張としといればいい
ははは
場合分けに意味がなくてもいい、意味がなくても真であればいい、というわけだ。
その場合分けがオッカムの剃刀で削ぎ落とされる無駄な論点であっても構わない、削ぎ落とされた小命題が真であればそれで満足だ、というわけだ。
あなたの主張は>>251
>証明されたのであれば廃止すべきという声が出ても仕方がない
>
>動物虐待は愛護法という基準を持ち寄ることはできる
>その法律により裁かれればそれを動物虐待とできることになる
>その中から廃止すべきという声が出ても仕方がない
だったはずだ。
【ある事柄について、それが愛護法という基準で動物虐待と裁かれたならば、廃止すべきという声が上がっても仕方ない】
要するにこれがあなたの主張だ。
今「愛護法という基準で動物虐待と裁かれたならば」という場合分けに意味がないとすれば、オッカムの剃刀により命題は【ある事柄について、廃止すべきという声が上がっても仕方ない】というものになる。
これが真であるなら、【ある事柄について、廃止すべきという声が上がっても仕方ない、基準も理由も何も要らない】ということになる。(基準も理由も何もなしに命題が成立するのだから)
まあ、確かにどんな事に対しても「廃止すべき」と言うのが人の勝手である以上、理由や根拠が無くてもこのような声が上がるということは仕方ないかもしれない。
だとすると例えば「理由も何もなしに『畜産は廃止すべき』という声が上がっても仕方ない」ということになる。
同様に「理由も何もなしに『菜食主義は廃止すべき』という声が上がっても仕方ない」し「理由も何もなしに『動物愛護は廃止すべき』という声が上がっても仕方ない」となる。
これでは結局あなたの主張は「人の口に戸は立てられぬ」というだけのことになるわけだが、それで満足だ、ということだね。 >>268
> お前の大命題(理由)とは「のび太」となる
> つまり「のび太という原因が0点をとる」と言ったものだ
違う違うwww
大命題を提示したのはあなたで、私はそれを考察しているだけだ。
【のび太は勉強するならば、0点を取る】これがあなたの命題。
私は前件が後件(結果:0点を取る)の原因となるといえるかどうか、と問うている。
前件次第で後件の真偽が変わりますか?変わらないなら場合分けする意味ないですよね?と聞いている。
【のび太が勉強しないならば、やはり0点を取る】であるならば、【のび太は勉強しようがしまいが、0点を取る】であり、
後件「0点を取る」ことに前件「勉強するかしないか」がどうであるか関係しない。
関係しないなら「のび太が0点を取ることについて、前件『のび太が勉強する』かどうか真偽は論じる必要がない」となる。
従って、これは省くことができる。
するとあなたの大命題は【のび太は0点を取る】ということになる。「勉強するかしないかの場合分けに意味がない」ならば、【のび太は0点を取る】が恒真であるとあなたは主張していた、ということになる。
繰り返すが、これはあなたが提示した命題から無駄なものを省くとこうなる、ということだ。
> 私の主張は違う
> あくまでものび太が「何かをしたとき」0点をとるという「何かをしたとき」が重要だとしている
> それが「勉強したとき」であり、元の主張である「証明された」ということだ
いや、あなたの大命題は【のび太が何かしたとき、0点を取る】ではない。【のび太が勉強したとき、0点を取る】だ。
例えば【のび太が朝寝坊したとき、0点を取る】とか【のび太が宿題を忘れたとき、0点を取る】とかはあなたの命題に挙げられていなかったはずだ。
あくまで「勉強したとき」で場合分けした命題についての考察だ。
元の主張では
あなたの主張は【ある事柄について、愛護法に準拠して動物虐待にあたると裁かれたならば、廃止すべきという声が上がっても仕方ない】であって、
【ある事柄について、何かの理由で、廃止すべきという声が上がっても仕方ない】ではないし、
【ある事柄について、一部のベジタリアンが虐待だと騒いだならば、廃止すべきという声が上がっても仕方ない】でもなく【ある事柄について、のび太が虐待だと言ったなら、廃止すべきという声が上がっても仕方ない】ではなかった。
あくまで「愛護法に準拠して動物虐待にあたると裁かれたならば」と場合分けした命題の考察だ。
あくまで「勉強するとき/裁かれたとき」という条件に限定した主張で、「勉強しないとき/裁かれなかったとき」に結果が同じならば「勉強したかどうか/裁かれたかどうか」には論じる意味がないから、この場合分けはオッカムの剃刀で省くことができるはずだ。
もしこれを省くことができないならば、逆に「勉強したとき/裁かれたとき」と「勉強しないとき/裁かれなかったとき」の間には差違が無ければならない。
そしてもしも、オッカムの剃刀で正しく省かれた後に残る命題「のび太は0点を取る/廃止すべきという声が上がっても仕方ない」が恒真でないならば、そもそもの大命題が偽であったということだ。 >>268
>>270の訂正。
×そしてもしも、オッカムの剃刀で正しく省かれた後に残る命題「のび太は0点を取る/廃止すべきという声が上がっても仕方ない」が恒真でないならば、そもそもの大命題が偽であったということだ。
↓
○そしてもしも、オッカムの剃刀で正しく省かれた後に残る命題「のび太は0点を取る/ある事柄について廃止すべきという声が上がっても仕方ない」が恒真でないならば、そもそもの大命題が偽であったということだ。 >>269>>270
お前はまず勘違いをしている
私が言いたいことをのび太の例えに当てたとき
私の主張は
「のび太が0点を取る理由は?」という問いに対し「勉強したとき」と答えている
という事だ
これが成り立てばそれでいい
勿論私は「これだけしか答えはない」とは言っていない
ただ「これは正解の一つだ。間違っているか?」という話だ
理由(原因)を重要とする
のび太が「何かをしたとき(原因)」0点をとる
だ
その答えの一つを私は「勉強したとき」だと言っている
原因は100パターンあるかもしれない、1000パターンかもしれない
その中で私は「勉強したとき」を選択しているわけだ
これが原因とし成り立つのであれば私の主張は整合性を持つ
そして私の主張にオッカムのカミソリを使用するのであれば1000パターンあるかもしれない0点をとる原因の999パターンを省き「勉強したとき」を残しているということだ
お前が行っている「省き」はその原因を全て省き「のび太は0点をとる」としている
これは原因全てが必ず結果0点をとるになることが前提だ
それは論点の先取りとなる
まずはそうなることを調べる必要がある
元の主張に戻るが
私の主張の原因(理由)とは「証明されたのであれば」としている
これをお前は「当たり前に整合性を持つから省くことができ、議論する必要もない」と言っていることは分かった
ただ私はこれにより>>1の命題はある種の整合性を持つことを言いたい >>271
>ある事柄について廃止すべきという声が上がっても仕方ない
お前がオッカムのカミソリを使い省くのはお前の勝手だ
だから「原因」を全てあげ好きなものを省けばいい
好きなものを残せばいい
ただそれは私の仕事ではない
私はその原因の一つであろう「司法で証明されたのであれば」というものを提示しているだけだ
それが整合性を持つことが重要なだけだ >>271
>ある事柄について廃止すべきという声が上がっても仕方ない
それと「ある事柄」としたのは何か意味があるのか?
正しく「動物虐待は廃止すべきという声が上がっても仕方がない」
とオッカムのカミソリにより提示できるとしてくれないか?
そしてこれはお前の主張によるものだと
私の主張は「動物虐待は廃止すべきという声が上がっても仕方がない」だけではなく原因(理由)である「司法による判断、判例に基づき証明されたのであれば」の提示も必要だということ >>272
> 私の主張は
> 「のび太が0点を取る理由は?」という問いに対し「勉強したとき」と答えている
> という事だ
>>261で指摘したが、これは問答が成立していない。
「理由」を聞かれて「理由と言えないもの」を答えている。
「勉強したとき」というのは理由かどうか分からない単なる「状況」だ。「勉強したからだ」ならば理由になるが、そのためには「勉強しなかった場合」との間に差違が生じなければならない。
そうでなければ結果に対する原因と言えない。「勉強しても0点、しなくても0点」ならば「勉強以外に0点の原因がある」し「勉強が0点の原因である、とは言えない」となる
> 勿論私は「これだけしか答えはない」とは言っていない
これだけしかもなにも「勉強が原因だ、と言えない」と言っている。
> ただ「これは正解の一つだ。間違っているか?」という話だ
間違っている。正解の一つであると言えない。結果に対して原因として影響を及ぼす事象だと言えていないから。
> これが原因とし成り立つのであれば私の主張は整合性を持つ
これが原因として成り立つためには「勉強した場合と、しなかった場合に生じる差違」を説明しなければならない。
> そして私の主張にオッカムのカミソリを使用するのであれば1000パターンあるかもしれない0点をとる原因の999パターンを省き「勉強したとき」を残しているということだ
これはオッカムの剃刀と何も関係ない。知ったかぶりで誤用しているのでは?意味の分からない言葉なら使わない方がいい。
> お前が行っている「省き」はその原因を全て省き「のび太は0点をとる」としている
> これは原因全てが必ず結果0点をとるになることが前提だ
> それは論点の先取りとなる
違うな。
私は【「のび太は勉強したとき0点を取る」について≪「勉強してもしなくても、0点を取る」であるならば、「勉強したかどうか」は「のび太は0点を取る」の原因と言えない、≫しかし、
≪「勉強したときとしないときで差違がある」ならば「勉強したかどうか」は「のび太は0点を取る」の原因と言える≫】と言っている。
これは場合分けであって論点先取ではない。
論点先取というのは【「のび太は勉強してもしなくても0点」だから「のび太は勉強したとき0点を取る」】というような形式をいう。で、これは前件に後件が完全に含まれるので前件が真のときに後件を言うことに何の意味もない。
この場合、「勉強したとき」というのは不要な場合分け、不要な条件付けだ、ということだ。
私は【あなたは「のび太は勉強したとき0点を取る」というが「勉強したかどうかで場合分けする意味がありますか?意味がある場合分けなら勉強しないときは0点と言えないってことになりますが」】と質問している。
これは特に論点を先取していない。
論点先取という言葉の意味もよく分かっていないのでは?
> 元の主張に戻るが
> 私の主張の原因(理由)とは「証明されたのであれば」としている
> これをお前は「当たり前に整合性を持つから省くことができ、議論する必要もない」と言っていることは分かった
え?
「当たり前に整合性を持つから省くことができる」と言っているんじゃないが?
「場合分けの両者『裁かれたとき/裁かれなかったとき』のそれぞれに差違がないなら場合分けして論じる意味がない、意味がないから省くことができる」と言っている。
「当たり前に整合するから」ではなく、「意 味 が な い か ら 」省くことができる、だ。
整合しようがしまいが、意味がない。
整合するかどうかそもそも論じる意味もない。 >>273
> >ある事柄について廃止すべきという声が上がっても仕方ない
> 私はその原因の一つであろう「司法で証明されたのであれば」というものを提示しているだけだ
だから【「勉強する場合/証明された場合」と「勉強しない場合/証明されない場合」で結果「0点を取る/仕方ない」に差違が生じなければ、「勉強する・しない/証明される・されない」を結果に対する原因として還元できるといえない】と言っている。
理由とも言えないものを理由にでっち上げているだけだ。
ある結果について、その結果に影響を与えたといえない(その事象の有無が結果に差違を生じない)事象であれば、そこにあったとしてもそれを結果に対する原因と還元することはできない、ということの例を挙げよう。
例えば「民主党政権のとき311地震が起きた、ならば地震の原因は民主党だ」とか「俺が昼寝をしているときに原発が爆発した、ならば爆発したのは俺が昼寝をしたからだ」という文について考える。
これらは正しい論理といえるだろうか?
「民主党でなければ地震が起きなかった」とか「俺が昼寝をしなければ爆発しなかった」と言えないならば、民主党や昼寝は地震や爆発の原因とはいえないだろう。そうでなければこれらは結果に対する原因に還元できない。
であるならば、地震と民主党政権、爆発と昼寝はただの並立事象に過ぎない。
「勉強したかどうか」で0点かどうかに差違がないなら、そんなものは単なる背景でしかない。 >>274
> >ある事柄について廃止すべきという声が上がっても仕方ない
>
> それと「ある事柄」としたのは何か意味があるのか?
もちろん意味がある。
>>245は「動物虐待として証明されたものは廃止すべきだという声が出ても仕方がない」となっている。
これを、命題文の形【前件、ならば、後件】に直すと【動物虐待として証明されたものである、ならば、廃止すべきだという声が出ても仕方がない】となる。
この前件について、このままでは主語が不足しているからそれを補うために「ある事柄」を形式主語に充てたという意味がある。構文上の要請によるもので「it」と同様。
それで文意が変わるものではないと思うが、問題あるだろうか?
なるべくあなたの用いた語に忠実に命題文の形式に直すと
【"もの"が動物虐待として証明されたである、ならば、廃止すべきだという声が出ても仕方がない】と、日本語として不自然になるからね。 >>274
> 正しく「動物虐待は廃止すべきという声が上がっても仕方がない」
> とオッカムのカミソリにより提示できるとしてくれないか?
> そしてこれはお前の主張によるものだと
【"もの"が動物虐待として証明されたである、ならば、廃止すべきだという声が出ても仕方がない】
という文は不自然だが、ご要望なのでこれをオッカムの剃刀でスリム化してみよう。
・「『(司法判断や判例により)動物虐待として証明された場合』と『されない場合』に差違が生じないならば(仮定A)」、無駄な場合分けを省けるので、
仮定Aの場合、【"もの"である、ならば、廃止すべきだという声が出ても仕方がない】となる。
この"もの"というのを修飾していた条件は、仮定Aの場合はオッカムの剃刀で正しく省くことができてしまったので、今や「何の限定条件もない"もの"」ということになる。
自然な日本語に直すならば【物事であるならば何であれ、廃止すべきだという声が出ても仕方がない】という意味になるね。
あなたの主張は「仮定Aが成り立つならば」このようになる。
・では仮定Aが成り立たない場合はどうか。この場合はオッカムの剃刀を適用できないので、命題は【"もの"が動物虐待として証明されたである、ならば、廃止すべきだという声が出ても仕方がない】のままだ。
しかし、この場合は仮定Aが成立しないはずなので、「『(司法判断や判例により)動物虐待として証明された場合』と『されない場合』には差違が生じている」はずだ。
だとしたら、「証明された場合は、仕方ない」なので「証明されていない場合は、仕方ないといえない」となるはずだ。 オッカムのなんちゃらは知らないのですまんが、
彼は降水確率が20%以上あれば折り畳み傘を必ず持っている。
という文章があったとして、彼が降水確率が20%未満の場合も必ず折り畳み傘を持っているのであれば、降水確率とは関係無く必ず傘を持っているのだから、降水確率関係無いじゃんってことよね?
恰も降水確率と彼が折り畳み傘を持っているか否かが関与しているかのように思われてしまうから、むしろ省いた方がいいんじゃないのかと思うけど。 >>279
そうそう。
簡単に表記するために「オッカムの剃刀」という名前で用いられるが、
要するに、そのような結果に影響しない論点は論ずるだけ無駄でしかも幾らでも作れるから、基本的に本質と関係ないものは一々真偽を確認する手間を省くために切り捨てましょう、という話です。
「オッカムの剃刀」を知ったかぶりしていた彼より、あなたの方がその名前を知らなくても本質は理解してるみたいですね。
以下は「オッカムの剃刀」について主に知ったかぶりの彼に説明する目的で書く。
例えば
「彼は降水確率が20%以上あれば折り畳み傘を必ず持っている。 」という文に帰納的に真偽を帰属させようとすると、
「彼である」「降水確率が20%以上である」「折り畳み傘を持っている」が真であることを例外なく検証できなければならない。
その結果「彼は降水確率が20%以上あれば必ず折り畳み傘を持っている」が真であると確かめられる。
あるいはこの文が真であるとき、「ある人が傘を持っているかどうか」は「彼である」「降水確率が20%以上である」が真であるなら演繹的に「その人は折り畳み傘を持っている」が真であると定まる。
ここで、もし「彼は降水確率が20%未満である時も必ず折り畳み傘を持っている」のであれば、すなわち「彼は降水確率が20%以上でも未満でも必ず折り畳み傘を持っている」ならば、
文が「彼は必ず折り畳み傘を持っている」と書き換えられてもその真偽は変わらない。
そしてこの文自体の真偽は帰納的には「彼である」「折り畳み傘を持っている」の二点が例外なく検証されれば真であるし、
あるいはこの文が真であるとき、「彼である」が真でさえあれば演繹的に「その人が折り畳み傘を持っている」が真であると定まる。
真偽が変わらないならば、項目が少ない方が真偽を確めることが容易であり、真偽に影響を与えない項目は無駄に煩雑さを増すだけである。
元の文は逆に、例えば
「彼は二月の早朝に降水確率が20%以上あり、かつ目覚ましより早く起き、かつ明け方にカラスの声を聞き、かつ朝食がパンでなくご飯、かつサンフランシスコで例年よりもダンジネスクラブの漁獲がおおく、かつ神の啓示があったならば折り畳み傘を必ず持っている。 」
という具合に無数に論点を増やすこともできる。
すると、帰納的にこの文が真であることを確かめるためには
「彼である、二月である、早朝である、降水確率が20%以上、目覚ましより早起き、明け方にカラスの声を聞く、朝食、サンフランシスコのダンジネスクラブの漁獲高、神の存在、啓示の存在」
を全て真であると検証しなければならない。
あるいはこの文から演繹的に「その人が折り畳み傘を持っているかどうか」を調べるためには
「彼である、二月である、早朝である、降水確率が20%以上、目覚ましより早起き、明け方にカラスの声を聞く、朝食、サンフランシスコのダンジネスクラブの漁獲高、神の存在、啓示の存在」
が全て真であると定まらなければ「その人が折り畳み傘を持っているかどうか」判らない。
ただし、これらの「二月である、早朝である、降水確率が20%以上、目覚ましより早起き、明け方にカラスの声を聞く、朝食、サンフランシスコのダンジネスクラブの漁獲高、神の存在、啓示の存在」によって
「折り畳み傘を持っている」の真偽が変わるならば、無論省いてはならない。
しかし結果に影響しない論点ならばこれらの無数の論点は全て無駄である。
無数に無駄な論点を増やすことは、文の真偽や文を前提した真偽の導出を遠ざけるので避けるべきであり、無駄な論点は省くべきである。
こういったことがオッカムの剃刀の原理だ。
この原理によるなら、「命題に条件を挙げるならば、その条件が結果に影響を与えるものでなければならない」となる。
だから、彼に「のび太が勉強しなかったら/証明されなかったら、何か差違が生じるのか」と聞いたのだが、彼はこういったことが理解できておらず、
「結果に影響しなくても言いたいから言った!意味がなくてもいい!」と言っている。
これは議論の効率という意味では無駄に進行を遅らせるだけで、それが行われる理由は自己満足か時間稼ぎかあるいは他の何であれ議論のマトモな決着を目的としたものでないことが明らかだ。 >>275
「勉強したとき」という原因が「理由といえないもの」となぜわかる?検証、判定したからか?
省くには必ず検証、判定は必要になる
検証、判定できない、またはしていない中でその結果があることをお前が知っているということは、
お前は「のび太は必ず0点をとる人間」であることを初めから知っているということになる
こういうことであるならば、勉強したときだろうが息をしてようが何だろうが関係ない
そしてこれは最終的に「0点をとる」ことを検証、判定、議論する必要もない
のび太は必ず0点をとる人間だからだ
お前の言っていることはこういうことだ
お前に質問する「のび太が必ず0点をとる人間」だという根拠を示せ この子には仮定とか比較とかいう概念が欠落していると見受けられる。たぶんがんもクンだな。 >>280
やはり理解力が乏しいか
まず
「のび太が必ず0点をとる人間」である証明を提示しろ
それとお前は
帰納法により真と導いた「勉強したとき」という原因は整合性の一つだと認めないと言いたいんだな
整合性を持たないから意味がない
意味がないから提示してはならない
と言いたいんだな
そうしなければならない理由を提示しろ >>284
読めるよ。
で、検証した結果を仮定した場合の話が書かれてるんだよ? >>280
もう一つ質問しよう
例えば
のび太が0点をとる原因が10パターンだけあるとしよう
その中の8パターンは真であり、2パターンは偽であった時、
お前はのび太が0点をとる原因をどう提示する? >>285
それならばどちらにせよ事実が必要だな
「のび太が必ず0点をとる事実の検証」が必要だ >>287
何を言っているんだ。
がんもクンも>>286で仮定してるじゃん。事実の検証はいらないんだよ? >>288
私の仮定の問いに対し事実を答える
のび太が必ず0点をとるという仮定はいいが
必ずそうなる事実がなければ「のび太は必ず0点をとるとはいえない」となる >>289
やっぱ仮定の概念が無いんじゃないのかな。
>必ずそうなる事実がなければ
これが仮定なんだが、これの何をどう検証する必要があるの?
知ってると思うけど、のび太って架空の人物だから事実の検証ってのがそもそもできないんだが。 まずお前らが勘違いしているであろうことを書く
例えば
「とうもろこしは、焼きたてが旨い」
これに対しお前らは「焼きたて」は議論する必要がないし意味がない、オッカムのカミソリで省くことができる
と言っている
私は旨いを結論付けるには「焼きたて」という原因を議論する必要があると言っている
勿論、旨いを結論付ける原因は様々あるだろうが、私は「焼きたて」に拘っているということだ
この「焼きたて」が原因に繋がるのであれば私の主張は整合性を持つ
これが私の主張の全てだ >>290
であるなら「のび太は必ず0点をとる人間とはいえない」でいいな >>291
@
とうもろこしは、焼きたてが旨い
とうもろこしは、焼きたてでなくても旨い
この場合は、
とうもろこしは、旨い
でいい。
A
とうもろこしは、焼きたてが旨い
とうもろこしは、焼きたてでなければ旨いとは言えない
この場合は、
とうもろこしは、焼きたてが旨い
でいいよ。
@の場合は「焼きたて」が旨い原因とは言えない。
Aの場合は「焼きたて」が旨い原因と言える。
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