>>92

> ま、私は痛みに関しては言語の担保による信頼性よりは生物学的、解剖学的根拠の方を支持しますね。

「痛み」というのが刺激情報の発生の仕方やその物理的な振舞いのことであれば、機械的構造が近い方がそれらの共通点が多いだろうという意味では、生物学的・解剖学的な遠近は信頼性があると考えられます。
そして、構造が近ければ近いほど刺激情報によって引き起こされる反応が近いなら、それにより生じる心的作用も近いと想像することもできます。

しかし、あなたも>>50で述べているように、他人の痛みについては不可知であり、実際にそれが主体によって異なっているだろうということは
(身体構造が近くとも同様の刺激に対する反応の差違や印象の差違が存在することなどから)蓋然性が高そうに思えます。
なぜなら情報は単に刺激の感受・伝達・反応といった単純な信号の往来と反射だけでなく、
少なくとも人間においては固体ごとに異なる「意味付け」という処理がなされるからで、
その「意味付け」のされ方は固体ごとに異なる「記憶」や「経験」といった、後天的に獲得された性質に由来するところが(先天的な遺伝資質よりも)大きいと考えられるからです。

そして「痛み」というのが単に刺激情報の強弱や伝達経路といった物理的振舞いを指すのでなく、むしろ情報処理によって生じるそれぞれの固体に固有の(他者と直接的に共有できない)心的意味のことであるならば、
これは抽象概念を用いたコミュニケーションによる伝達の有無が、その抽象概念を交換することによる疑似的な共有の成立を大きく担保することは十分に信頼できると思いますが。