ベジタリアンは野菜の敵 [転載禁止]©2ch.net
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野菜には悪いけどベジタリアンはやめられない
いくら野菜に憎まれてもいいよ
地獄でそれなりの罰を受ける覚悟もしている 地獄w
オマエはどんな宗教信じているんだよ
オマエの感覚ではほぼすべての動物が地獄にしか行き場がないようだな >>75
地獄とはおれには分からないが君はえらいね
天国に行きたい地獄にいきたくないから善行をするというのは見返りを求めているわけだし
おれには覚悟できるのかわからない
自然の恵み、ああ美味しいと動物も野菜も殺しまくり笑顔で感謝している人達は
どうなるのだろう
何も知らないある意味善良な人なのだろうか とりあえず、野菜を食べてもどこからも文句は出ない
植物さんサイドは抗議しないし、植物愛護協会みたいな団体も無い >>79
そうだね。
問題は他人に肉を食うな畜産をやめろとか言い出す人たち。 >>80
問題は 自然の恵み、ああ美味しいと動物も野菜も殺しまくり笑顔で感謝している人達かな >>81
何の問題が?>>79-80の流れは文句だの抗議だのが生じるか生じないかの話だけど。 肉食野郎には
私達は命を繋げるために動物を食べ植物を食べなくてはならない矛盾した存在という悲しみが足りない >>87
粘着うざいw
肉食野郎を嘲笑って結果的に肉食が減ればいいじゃん >>88
明らかに逆効果だろ
アンチがどんどん増えてベジタリアンになる人がどんどん減っていく
自分のしていることの自覚ないのか?
それに粘着しているのはお前の方だ >>72
誤りではありませんよ。
付けたし、と書いたでしょう。
人間同士で言語のやり取りをするのが一般的でないなら間違いですけどね。
倫理の話になれば文化が出てくるのは毎度の事ですね。
>>74での例の文化は理解してますよ。
ただ文化と言えば全て正当化されるとも思ってないし廃止されたものを含めて「それってどーよ?」と思えるものは少なくない。
ま、私は痛みに関しては言語の担保による信頼性よりは生物学的、解剖学的根拠の方を支持しますね。 >>92
> 誤りではありませんよ。
> 付けたし、と書いたでしょう。
> 人間も動物であり例え言葉を介しても例外なく当てはまりますよ。と>>50で言ってるんです。
について
>確かに>>50では「言葉を介しても例外なく」とは書いていません。
が確認できればいいですよwww
「言っている」というのが「言外に言っている、後で述べられたことにも適用できる」の意味か「それ以前の文脈から導出できるのか」分からなかったので遡って読み返したが、後者の意味でなく前者の意味だということがわかれば、
私としてはこの問題は解決で、文言が不正確だったことをあなたが謝りと認めるか認めないかはどちらでもいいです。
> 倫理の話になれば文化が出てくるのは毎度の事ですね。
> >>74での例の文化は理解してますよ。
了解です。
ベジタリアンを論じるについては文化の例示よりもその後の
>要するに「そういう文化だ」ということ。
>ついでにこれを食文化に還元すると、これは各々の文化において何を食べるか食べないかという価値観があるだけで、
>「痛みの有無に還元されて、食べるべきかどうか判断されているわけではない」「実際の痛みの有無に関係なく、文化によって食べるものとそうでないものが判断されるだけ」、ということになる。
の方が重要ですが、こちらにも依存はないですか? >>92
> ただ文化と言えば全て正当化されるとも思ってないし廃止されたものを含めて「それってどーよ?」と思えるものは少なくない。
・「正当」というのが何においての正当か不明ですが、仮に普遍の真理のようなことを言っているなら同感です。
ただ、普遍の真理が判らない以上、ここでそれを論じる意味がありません。
・「正当」というのが個々の主観における正当性と一致する、という意味なら、これには同意です。
文化といえど万人が例外なく正当性を認めるわけではない。
文化的価値観・社会的価値観というのはあくまでそれぞれの集団に集約された価値観であって、その集団に属していても集約の過程で捨象されてしまうような個人的価値観は無数にあるでしょう。
また時代によって価値観は変わりますし、捨象された側がその原動力になったり、新たな文化的・社会的価値観となる場合もあり得ます。
社会が「正当性」を掲げても、個人において必ずしもそれは「正当化」できない。
しかし、そのことは、それらの捨象された価値観と集約された文化的・社会的価値観とが齟齬を来し軋轢を生じるならば、捨象された側が「反社会的価値観」と位置付けられるのが極めて妥当だ、ということとは関係ありません。
・「正当」というのが、ある文化的・社会的価値観における正当性のことを言っているなら、これはまさに文化的・社会的価値観に合致することこそが正当であり、漸進的に変化するこれらの価値観に従ってその正当性も漸進的に変化します。
それから逸脱しないような価値観が正当性を持ち、溢れた価値観は正当性を失います。この場合、社会は己の「正当化」の必要がない。
この意味では「それってどーよ」という溢れた側の価値観と文化的・社会的価値観が軋轢を生じるならばやはり溢れた側が「反社会的価値観」と位置付けられるのは妥当でしょう。
「正当」が何であれ、「正当化」ができようができまいが、社会から捨象されたり溢れたりした価値観が社会と軋轢を生じるならば「反社会的」とされるのは妥当です。 >>92
> ま、私は痛みに関しては言語の担保による信頼性よりは生物学的、解剖学的根拠の方を支持しますね。
「痛み」というのが刺激情報の発生の仕方やその物理的な振舞いのことであれば、機械的構造が近い方がそれらの共通点が多いだろうという意味では、生物学的・解剖学的な遠近は信頼性があると考えられます。
そして、構造が近ければ近いほど刺激情報によって引き起こされる反応が近いなら、それにより生じる心的作用も近いと想像することもできます。
しかし、あなたも>>50で述べているように、他人の痛みについては不可知であり、実際にそれが主体によって異なっているだろうということは
(身体構造が近くとも同様の刺激に対する反応の差違や印象の差違が存在することなどから)蓋然性が高そうに思えます。
なぜなら情報は単に刺激の感受・伝達・反応といった単純な信号の往来と反射だけでなく、
少なくとも人間においては固体ごとに異なる「意味付け」という処理がなされるからで、
その「意味付け」のされ方は固体ごとに異なる「記憶」や「経験」といった、後天的に獲得された性質に由来するところが(先天的な遺伝資質よりも)大きいと考えられるからです。
そして「痛み」というのが単に刺激情報の強弱や伝達経路といった物理的振舞いを指すのでなく、むしろ情報処理によって生じるそれぞれの固体に固有の(他者と直接的に共有できない)心的意味のことであるならば、
これは抽象概念を用いたコミュニケーションによる伝達の有無が、その抽象概念を交換することによる疑似的な共有の成立を大きく担保することは十分に信頼できると思いますが。 >>94
理解してますよ。
カニバリズムだって文化だし。
ベジタリアニズムだって非肉食の文化なのです。 結局、食っていいか悪いかを苦痛の有無に還元することには無理筋なんじゃないかね。動物において我々が「苦痛」という共通語に収束させるような抽象概念があると検証できないうちは、いいとこ擬人化というメルヘンチックな説明の域を出ることができないんだから。 >>96
行動や物理変化が同一なら法則や心理を措定するのが、統一理論を信頼する科学や心理学の態度だけど
「抽象概念を交換」する成立も措定アプローチの一つだろうし、「勝手に決めつけるなよ」と言っても、
反証を要求されるだろうが、現代においてその態度は抽象概念としての成立を左右しているのも事実
いくら言語等による成立が先だといっても、質的な違いなら心的意味と言語等の特別な紐づけの提出が要るだろう
それは記号論なんかで言語の特異性(裏の意味を持つ等)、詩の伝達性、無刺激による記憶崩壊などあるし
もはや科学的世界観への挑戦になるんだろうが、ただ苦痛があるから駄目とかいうけど、そもそも論として
畜産業ではスタンニングで気絶させるし、植物も苦痛が無い方法で刈り取るなら、人間にとり何が不満なんだろう >>100
> 行動や物理変化が同一なら法則や心理を措定するのが、統一理論を信頼する科学や心理学の態度だけど
措定といっても、例えば人間が多くの場合に共通して特定の刺激を苦痛と感じる(その苦痛の中身が同一でなくとも「苦痛」という概念に収束するような認識を得る)ことには膨大な検証があって、
同じ刺激から同時に起こる機械的な変化との相関関係という措定はある程度の確度をもって真であると信じられているわけだが、
それですら、その苦痛とされる中身が普遍化できない、少なくとも普遍化できるといえないことは認めざるを得ないわけで、
これは詳細に見れば、刺激による機械的な変化と相関して何らかの心的変化が生ずることが真だとしても、その心的変化が何であるかは不確かだということだが、
その心的変化の内容については個々の主体が先の「苦痛」という語に収束する個別の特殊的な概念を、まさに「苦痛」という語に収束させることそのものに担保されて初めて、
それが何であるにせよそこに少なくとも「苦痛」という語に収束するであろう概念があるのだということが確かめられるのだから、
動物が「苦痛」という語に相当する記号を提示しそこに何らかの概念を収束させていることが明らかでなければ、彼らにそのような抽象概念があることは少なくとも人間についてするのと同じようには確かめられない。
その記号というのは、まず言うまでもなく表し手と受け手に共有されていなければならないし、次にその存在を客観的事実として述べるためには再現性のあるやり方で提示しなければならない。
そして、現時点でこのような意味でそのような記号が動物に存在していることは検証されていないのだから、このことは「苦痛」についての人間に対する措定と動物に対する措定の前提の明確な差違であり、
人間においての「苦痛」の有無と、動物においてのそれの有無を、刺激に起因する機械的反応の類似から同様に措定できるとすることに飛躍があるということを意味するのではないだろうか。
> もはや科学的世界観への挑戦になるんだろうが、
というよりは人間が自然に挑むときの科学からの「それは(少なくとも、まだ)科学の分野ではないですよ」という通告であり、この議論の論点から言えば「動物や植物に苦痛があるか無いかを機械的反応から判断するというのは、今のところ無理がある」ということだと思うのだが。
無論、機械的変化を調べることには学術的に相応の意味があるだろうし、将来的に動物の記号表現の存在とその解読が明らかになったときには人間と動物の扱いの差違が縮まることは想像できる。
しかし、こと科学的という意味でいえば、現在そのように判断するのは拙速な飛躍だということにならないだろうか?
> 畜産業ではスタンニングで気絶させるし、植物も苦痛が無い方法で刈り取るなら、人間にとり何が不満なんだろう
苦痛が無ければ無いで、人を殺していいのかというような倫理観を、無根拠にあるいは薄弱な根拠から恣意的に喚き立てることは想像に難くないよ。 一般的によく見られる考えで非難に値しないと思うし、議論のための議論はしたくないのだけど(私も疑義でとどめたい)
>現時点でこのような意味でそのような記号が動物に存在していることは検証されていないのだから、このことは「苦痛」についての人間に対する措定と動物に対する措定の前提の明確な差違であり、
人間においての「苦痛」の有無と、動物においてのそれの有無を、刺激に起因する機械的反応の類似から同様に措定できるとすることに飛躍があるということを意味するのではないだろうか。
”明確”というほど我々は抽象概念を共有でき、それを”確かめられ”ているだろうかと思う。この共有できているということがそもそも”飛躍”以外の何物でもないという立場です。少なくとも
こういったスタンスは近代以降に辿り着いたほとんどの哲学等に見られる独我論に由来しますが、この点科学というのは統一理論を信じることで回避し、”客観的”=再現性を危うく保持している
不都合があれば、いつでも別の要因があることを主張するわけです。これらの点、ここで議論をするより、良い疑義をお持ちのようですから、最適な書籍がたくさんあると思うのでそちらを勧めたい
別の引用から指摘すると「>むしろ情報処理によって生じるそれぞれの固体に固有の(他者と直接的に共有できない)心的意味のこと」との視点で、「それぞれ」と「直接的に共有できない」の不和です
>というよりは人間が自然に挑むときの科学からの「それは(少なくとも、まだ)科学の分野ではないですよ」という通告であり、
この議論の論点から言えば「動物や植物に苦痛があるか無いかを機械的反応から判断するというのは、今のところ無理がある」ということだと思うのだが。
むしろ「機械的反応から判断する」ことが往々にして科学ではありませんか?
また、苦痛とは何かの答えが、抽象概念の交換により定義されたものというなら、その埒外にあれば苦痛は無いことに端的に考えられる
もし可能性を言うなら、刺激云々は余計な話で、物にだって苦痛はあるかもしれないことになる
刺激と概念の両立は一方を成立因と考えるとき、変だなと考えます
>苦痛が無ければ無いで、人を殺していいのかというような倫理観を、無根拠にあるいは薄弱な根拠から恣意的に喚き立てることは想像に難くないよ。
それは人にとって不都合があるという反論が成り立つので、深刻に考える必要はないと思う
個人的な希望しては、今後のスレの流れが、抽象概念の獲得・運用において心性や人間の自由が摘出できる場合があるか、
あれば確かに機械的な相似は人間の世界から独立した心性や自由を証明しない
そういう観点から、植物の苦痛を切り分ける方向に進んでくれたらと思う(相当程度に困難だと思うけど) ベジタリアンに老け顔が多いのは、自分達だけを殺したベジタリアンに対する植物の怨念? >>101
>苦痛が無ければ無いで、人を殺していいのかというような倫理観を、無根拠にあるいは薄弱な根拠から恣意的に喚き立てることは想像に難くないよ。
この人って最もらしく論理的風に書いてるけど頭の中は空で批判する方法しか探してないよ
人を殺してはいけない理由が何で苦痛が有るか無いかの二者択一なんだよ?
他に理由は思いつかないんですか?ばかですね
>>102
ええそうですとも
101が一人で屁理屈こねているだけで
世の中は科学的データで抽象的倫理を裏打ちしてまわっています
問題はまだまだあるでしょうけど民事裁判なんかそうですよね
動物倫理にも科学で倫理を裏打ちしていくようになるといいですね >>104
中国ではイヌをペットにするようになってから食用に供さなくなったそうですね。イヌにとっては難を逃れたのだろうか
デンマークには最古のイヌ食の遺跡があり、日本でもイヌ食文化が一時期あって、最も身近な家畜だったが、徐々に廃れた
苦痛の有無は後付けになってしまうような気もするよね。もちろん後付けを失わせる点で議論の意味は十分あると思うけど
動物にまで広がる倫理の背景には”裏打ちする科学”の進歩が大きく寄与していると思う。但し実体を想定しない科学観もある
中世には動物裁判というものがあり、人間に損害を与えた動物を裁くもので、逆は無かったが、損害を計量する点で興味深い
倫理観や宗教観の横暴が社会を不安にさせることもあるが、計量化する法律は社会のスタビライザー(安定化装置)
もしペットを家族とする人が多くなれば、器物損壊程度の計量では不公平感が増し、動物裁判が復活するかもしれない
但し、これも科学観で分かれるように、法律観や経済観によってバランスの取り方が異なってくるでしょう(特に過失責任) >>102
> ”明確”というほど我々は抽象概念を共有でき、それを”確かめられ”ているだろうかと思う。この共有できているということがそもそも”飛躍”以外の何物でもないという立場です。少なくとも
共有しているのは「苦痛」という記号であって、明確な概念ではないと思います。
ただし各人が主観のうちに当該の記号に収束させ得るような概念を持っていることは、当該の記号を使用するということそのものから確かめられるのでは?
そして「苦痛」という記号を用いて会話が成立するという事実は、その記号を間-主観的に一定の範囲の意味において共有できていることの証左といえるのでは?
例えば特別な決め事などの条件が前提されていない限り靴やキャベツのことを指して「苦痛」という記号を用いないのだから、それは「苦痛」という記号がその意味する領域に限界があることを示しているはず。
> この点科学というのは統一理論を信じることで回避し、”客観的”=再現性を危うく保持している
つまり、客観性・再現性があって初めて科学的な主張といえるわけで、例えば上記のような「人間において『苦痛』という語が一定の範囲の意味で共有されている」ということは膨大な検証がその再現性を担保しているわけです。
そして動物に同様の再現性が認められていない現状で、「動物においても同様である」とすることには飛躍があり、科学的ではないと思います。
> これらの点、ここで議論をするより、良い疑義をお持ちのようですから、最適な書籍がたくさんあると思うのでそちらを勧めたい
書籍はもちろんですが、ここであなたのような方と議論ができる可能性が確かめられたので、その意味では無駄でなかったと思います。ありがとうございます。
> 別の引用から指摘すると「>むしろ情報処理によって生じるそれぞれの固体に固有の(他者と直接的に共有できない)心的意味のこと」との視点で、「それぞれ」と「直接的に共有できない」の不和です
それを記号を用いることで、直接的ではないにせよ一定の誤差の範囲で間接的に共有しているのではないでしょうか。
> むしろ「機械的反応から判断する」ことが往々にして科学ではありませんか?
それは勿論そうですが、その場合の機械的反応というのは単に刺激の伝達のメカニズムや化学物質の生成というだけではなく、もっと広範なあらゆる因果律を含むでしょう。
それは例えば前述の会話の成立から語義が一定の範囲に定まっていることが検証されたりすることも含むはずではないでしょうか。
いずれにせよ現段階でこの方面について刺激の機械的反応から「動物が人間と同様の心的意味での苦痛を感じる」という命題を真とは判断できない、ということです。
> もし可能性を言うなら、刺激云々は余計な話で、物にだって苦痛はあるかもしれないことになる
そうですね。可能性は全てあると考えるのが科学です。しかし同時に、検証されなければ事実としてあると言えない、事実としては無いと扱う、というのが科学でもあります。 >>104
> この人って最もらしく論理的風に書いてるけど頭の中は空で批判する方法しか探してないよ
その言い方はレッテル貼りのようにも見えるが、好意的に解釈しても普遍命題の真偽を調べるということは反証が成り立つかどうかを確かめることだから批判的に考察するのは当然では?
> 人を殺してはいけない理由が何で苦痛が有るか無いかの二者択一なんだよ?
> 他に理由は思いつかないんですか?ばかですね
酷い誤読に基づいた中傷で呆れますなあ・・・
第一に、人を殺していけないという理由が苦痛の有無だと言っていない。
「動物が人と同様の意味での苦痛を感じている」とする根拠が無い、もしくは薄弱であるのと同様に、無根拠にあるいは薄弱な根拠で「人を殺してならない」という倫理観を動物に適用しようとするだろう、と言っている。
第二に、動物を殺していけない理由を苦痛の有無に還元したのは>>43であって私ではない。 野菜には恨まれるかもね
ベジタリアンやめるひとがどんどん増えてる 普通ノンベジもベジの食生活を内包してるもんだがな。
ブーメラン刺さっとるのわからんかな。 >>110
植物も食べる人と植物しか食べない人では後者の方が植物の犠牲を多く生んでるのは理解できるよな?
さらにベジタリアンは植物だけを狙って殺すわけだから、植物からしたら最大の天敵なのもわかるよな? 豚や牛のエサは植物大量なんだがな。もちろん知ってるとは思うが。 >>27
うんまあベジ全体を叩く人はおかしいし一部は共感だけど
結局この人が言ってるのって「私の線引きが正解なの!」ってことだよね >>115
つまり肉食のお陰で100倍もの植物が育成されているのか 家畜は野菜を食わない
野菜には窒素肥料が必要w
バカベジは野菜の敵というのは正解で畜産の味方 >>118
>家畜は野菜を食わない?
>野菜には窒素肥料が必要?
バカも程々にしとけ。
野菜も窒素肥料も必要ないのは肉バカだけで十分だよw 野菜作った事もないバカベジ
世界救世教の自然農法を真に受けるバカベジ >>119
常識的に家畜の飼料を野菜とは言わないだろ >>122
それじゃ>>119が人間じゃないみたいじゃないか
酷いこと言うなあ 畜産したこともない肉バカw
肉食べる事は間接的に植物の栄養分を利用しているという事がバカ過ぎて気が付かないようだ。 >>124
オマエも畜産をしたことないだろ
バカベジって本当にバカですね はぁ?非肉食者が畜産する意味どこにある?
バカ過ぎて話にならん。
悔しかっから鶏の1羽ぐらい屠ってみろ。 バカベジw
ジビエで屠殺しているよ
バカベジは野菜すら作ってねーだろw
バカベジは口だけのバカ バカベジは何やっているか知らんが普通のベジはベランダ菜園程度の事はやっている。
肉バカもバカベジも同じ穴のムジナ。w 自分がジビエだからってそれが何なのさ そんなの一般的じゃないし。
ジビエ自慢かw オマエが聞いておきながら
精神勝利しかないバカベジw ジビエの方が嘘くせぇよな。
画像upしてみろ。www
拾い物upしても無駄だからな。
for ベジ板 とか判別できるものを映り込ませないと意味ないぞ。 >>134
他人にそれをいう前にお前がベジである証拠は見せないのか? ジビエが自慢なんて書くバカベジどんなバカなんだろ
バカベジのマヌケな私生活をアップしたらあげてもいいよ
箱ワナと冷凍庫のイノシシのモモ肉あげてやるよ ジビエ自慢してるのは肉バカの方だろ。
バカベジのマヌケな私生活なんてバカベジじゃないと無理。
普通のベジタリアンは普通のベジ生活しかしてないのでね。w
>>127で屠殺してると豪語したんだから生け捕りにしたものを
自分で絞めているんだろう。
冷凍肉のカタマリの画像upなんて意味ないぞ。 >>137
普通のベジ生活って?
ベジタリアンにも多様なスタイルがあるはずだが、普通のって?
ちなみに俺は基本的にはノン生牡蠣イーター
年に数回は食べることあるけど >>137
自慢w
誰も自慢してないがバカベジが勝手に想像しているだけw
イノシシ食いたいから自分でバラしているだけイノシシなんぞいくらでもいる害獣だからな
箱ワナって生け捕りにするワナなんだよw
生け捕りにして縄で首締めながら首を切って放血させるのw
死ぬと血が全身に残って血臭いから死ぬ前に放血な
それで熱湯に浸けて全身の毛を抜くんだよ
それから内臓抜いて部位ごとバラす
で皮付きのモモ肉が食いきられないから冷蔵庫に保存しているだけw
これがバカベジには自慢に聞こえるらしいw バカベジって
認知欲
虚栄心を満たす欲
支配欲
自尊心を満たす欲
精神的に欲ぶかいヤツだよ 健康のためにベジタリアンという趣向をしているというのなら理解できるが
動物は生き物だからベジタリアンという言い分は成立しない
植物も当然生命体であるし、空気の中にも水の中にも生物は存在しているのだからね 好き嫌いで肉を食べないと認めてしまうと自分が命を粗末していることも認めてしまうことになる 植物が生命体であると言うのなら飼料として大量虐殺する工場式畜産は当然避けるべき生産法だよな。 559 :名無しさん@1周年:2015/11/10(火)
肉食が娯楽というのは語弊があるかもしれないが、
現代社会において、肉は必須な食べ物ではない。
全て、植物性のタンパク質や、魚介類で十二分に代替可能。
それをあえて食べるというのは、
美味しいからたべるということで、
「美味しいから」という嗜好上の理由で、
生き物を殺すことを許容しているっていうことだな。 ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆議院と参議院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
ゝン〈(つY_i(つ 日本国憲法改正の国民投票を実施しましょう。お願い致します。☆
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ ベジタリアンの寿命や有名人について解説。
⇒ https://goo.gl/geKkeC
grs4ttrer >>142
こんなこというやつって
動物と植物同列に考えてるってことだよな
だったら、草刈り機で草を切るって行為を豚や
牛にもできるってことだよな
すげー基地外だな そもそも植物だって
食われるの嫌な奴は
自ら毒を出して身を守る そもそも家畜で1キロ食用肉作るのに
何倍もの穀物やら植物食わしてるんだから
肉食者のほうが、植物殺してるんだからな
そんな植物かわいそうと思うんなら
肉やめりゃいいのにな
まあ、ほんとはかわいそうとも思ってないんだろうけど >>152
家畜が可哀想というやつは人間を家畜同様に考えるキチガイかな >>153
人間はそれを毒抜きして食べたりするわけですが >>154
家畜種の動物も飼料作物も、家畜としてまたは飼料として人間に育てられることで種を存続させてきたし、そのような適応があるから生存してきた種なわけですがね 植物と動物では、全く構造が違う
痛覚は動物が危険を察知して動くために作られたもの
植物は動かないんだから、痛覚があっても意味ないわ >>159
>痛覚は動物が危険を察知して動くために作られたもの
こういう目的論や創造説は科学的には支持されてないぞ
あと植物も刺激によって防衛反応を起こすことはいまやよく知られていて、刺激の感受がそういう反応を引き起こす契機となるという意味では動物の場合と同じ構図だが >>162
知らないのかwww
被食状況に対して葉に苦味成分を生成してこれを回避したり害性生物に敵対する生物を誘引する物質を放散して間接的に防衛効果を得たり危機的状況を近隣の植物に伝達する物質を発散して同様の反応を促したりするわけだが >>163
ふーん
でも、痛みとは違うかもしれないよね だから、例えばジャガイモだってネギだって土に植えれば切ってもまた再生するじゃん
動物だったら死んでるよ 昔、祖父母の畑仕事を手伝ったことあるが
ジャガイモの種芋は植える時、半分に切って植えてたよ動物だったら死んでるよね
あと、トマトとかバジル育てたことあるけど
トマトの実を収穫しても死なないし
、バジルの葉をちぎっても死なない >>167
謎のバカベジルールその2
米を炊いたら発芽しねーぞバカ >>168
でも、冷蔵庫入れても死なないよね
動物なら冷蔵庫入れたら死んじゃうよね >>164
人間が持つ痛みという概念と動物の刺激に対する反応が同質かどうかも分からないよね >>167
今の農作物は殆どがF1雑種で1世代作ったら全部殺すんだがwww >>169
オマエが食えば植物は死ぬんだがw
オマエの冷蔵庫から生還したのいるのw
全部オマエが殺しているんだがw
バカベジ自己矛盾のマイルール 野菜食べ放題で金が儲かる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
Z2VLF >>1
これは思ったわ
人間は動物なんだから動物食うべきなんじゃないのか
植物さんに迷惑かけるべきではない(落下分の採集は可) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています