ベジタリアンは野菜の敵 [転載禁止]©2ch.net
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「よくある 肉食者の 言い分」
http://ameblo.jp/miketoramew/entry-11839398168.html
植物だって命があるじゃん
命を奪っているのは同じことじゃん
だから動物殺して食べたっていいじゃん、って もってくるのが、
なんともご都合的、と思うわけです。
また こういう人は 0か100か の思想人間なので
完璧にできないならしない方がいい、という結論にたどりつく
100点取れないなら0点でもいっしょや! みたいな・・
命を大事にしよう、っていうなら 植物も食べるな虫も殺すな
というのは
ゼロか100かの考え方で、なんで途中がないのよ、って思いますね
実際、動物と人 の間で 線引きしてますよね
現代の日本は・・・
(時代と場所によっては人も動物と同列だったことも多々あります
黒人奴隷は 人間じゃないとされたので 家畜扱いされました)
その線引きを
もう少し ずらしてもいいんじゃないの ってことです >>27
こういう馬鹿見ると、自分がベジタリアンであることが恥ずかしくなってくる でも確かに植物も痛みを感じてると主張してる肉食はバカっぽいわな 野菜も生き物であるから
動物が生き物であるからベジタリアンというのは偽善者
自然界由来の水の中にも生命はたくさん存在している
だから完全に生物に依存しない完全科学人工栄養と、酸素と水素を合成した水に頼るしかない
生き物であるからベジタリアンというのであれば、菜食もやめて、
まず、それをやってから主張していただきたい 植物より動物ははるかに人間と遺伝子が近い生物だよね(´・ω・`)
動物は人間と似てるよね(´・ω・`) >>31
結局このようにいわれると、生き物だから動物はだめで菜食だけにするって言ってる連中は
絶対に反論できなくなるんだよな じゃあなにを食って生きてけというんだ
無精卵と牛乳か 薔薇とか棘があり、動物に痛みを感じさせるように生きていますが
どうバカベジは思うんだろ >>43
植物も外的な刺激を感受する機能は持ってるよ 植物は本当に痛みを感じないのかという問題とは別に痛くないなら殺していいのかという問題もあるしな >>47
さらに、動物が感受する刺激のうちのある種のものを「痛覚」と名付けたが、実際に動物が人間が感じるのと同じ意味での「苦痛」を感じているという保証もない。
単に「『痛覚』と名付けた」ということの他は「『痛いんだろう』という想像」でしかない。 >>50
そうだね。
で、人間は言語を共有している。
あなたも私も「痛み」という言葉を知っているし、外国にもそれにあたる言葉がある。
その言葉で各人の「痛み」のクオリアは共有することはできないとしても、「痛み」という語は共有することができる。
実際には我々は個々のクオリアとしての意味を言語に投影して会話なり文章なりを作る。そして会話や文章のやり取りの中でその語の社会的な用法を学んだり慮ったりしながら、語の意味をより公共性のあるらしい方向に修正したりする。
そうやって「痛み」という語自体がどういった概念を指すかということが共同体において一定の範囲に収束していく。これが言語の社会的な意味ということになる。
そうやって語の意味を一定の範囲の概念に定め、今度はその社会的な意味での言語を連ねて、より自分のクオリアに近いらしいものを構築し表現していく。
こういったことが我々の言語活動において行われていて、要するに我々は言語を介して、他者との交流における認識の誤差を一定の範囲に収めようとしているわけだ。
言語を介して互いにその誤差を互いに一定の範囲に納めようとすることが、言語コミュニケーションの持つ性質であるから、そこにおいて我々は会話が成立するということの信頼性を期待する。
この意味では、言語が、コミュニケーションが成立することの信頼性の有力な担保だということだ。
無論、信頼性を担保するのが言語だけだというわけではないが。
しかし、いずれにせよ我々にとって信頼性の担保に差があるのだとしたら、
全ての動物が我々と同じように痛みを感じ、意味付け、考えているだろうということよりも、
他の動物はともかく同じ人間であるならば、同じように痛みを感じ、意味付け、考えているだろうということの方が確かさが大きいのは当然だろう。
ここにおいて、人間同士でも互いの痛みは分かるまい、ということと、動物が人間と同じ意味で痛みを感じているとはいえない、ということの間には明確な違いが示される。
ってことで、>>50は>>49への十分な反論にならないということになりますね。 >>>51
動物が人間と同じ意味で痛みを感じているとは述べていないけれどそれは何処から出てきた?
実際にその感覚を自分のものとして感じることは出来ない。
つまり「人間同士でも他人の痛みは分からない」としか書いていないけど。
>>49のとおり可能なのは言葉を介して伝えても自身の過去の経験に照らし合わせた『痛いんだろう』という想像でしかない。 「ベジタリアンは野菜の敵」ってスレタイに笑ったわ
確かに野菜からしてみればベジタリアンは悪魔みたいな存在だろうなw 種を食べないタイプのベジタリアンなら、野菜の敵とまでは言えまい
いるのか知らないけど >>52
> 動物が人間と同じ意味で痛みを感じているとは述べていないけれどそれは何処から出てきた?
はぁ?
>>41->>43で「動物は痛みを感じるから殺してはならない」という提起があった。
それに対して>>46が「植物も刺激を感じる」と言い、>>47が「痛みを感じないとしても殺していいかどうかはまた別の問題」と言った。で>>48が「動物を殺すより植物を殺したほうがマシだ」と言った。
この流れを受けた>>49が「動物が人間と同じ意味の痛みを感じていることは不確かだ」と言ったわけだ。
この>>49は、
>>46の「植物が感じる刺激」が、動物が感じる「痛み」と区別されるべき理由がなければ、>>41-43の「痛みを感じるから殺してはならない」に当て嵌めて「植物も同様の刺激を感じるから殺してはならない」となるため、
>>48の「動物を殺すより植物を殺す方がマシ」という判断の根拠がなくなる、ということについて、
「もし動物が感じる『痛み』ということの意味が単に痛覚刺激のことに過ぎず、
つまり例えば人間の『苦痛』のような心的作用を伴うような概念でなく、単なる特定の感覚器に対する刺激という概念でしかないならば、その意味では植物の感じる刺激と区別すべき理由があるとは言えない」
ということを言っている。
つまり「動物が人間と同じ意味で痛みを感じているかどうか」という論点は、
「動物は痛みを感じるので、植物を殺す方がマシだ」という主張について、“例えば”『動物は人間と同じ意味で痛みを感じているが、植物はそうでない』とはいえない」
というあくまで「動物の感じる痛みと植物の感じる刺激が区別されるべきであるとはいえない」という例示として生じている。
で、何か問題が? >>54
> 種を食べないタイプのベジタリアンなら、野菜の敵とまでは言えまい
どうだろう?
繁殖の阻害という意味なら種を廃棄する場合も同じだし、
農業生産においても現代の殆どの野菜はF1雑種で、子孫を存続させるような栽培はされていない。それどころか、雄性不稔品種というものもある。
また、果実を採るために植物を傷付ける行為はどうなるのか。葉野菜や根菜などはどうか。 参考までに貼っとく。
「植物は苦痛を感じないから食べていい」←えっ?
http://hope.2ch.net/test/read.cgi/vegetarian/1453657796/
1 菜々しさん 2016/01/25(月) 02:49:56.54 ID:aEaIo8j8
【植物は苦痛を感じない】←苦痛とは何か定まっていない。
【植物には痛覚が無い】←それは命名の問題に過ぎない。
・「苦痛」が痛覚刺激のことを指し、痛覚刺激が痛点に感受する刺激のことであるなら、それは単に命名の問題でしかない。
この意味では「痛覚刺激を苦痛と呼ぶ」というのは特定の感覚器に対する刺激に「苦痛」という名前を与えただけであり、「苦痛を受ける」というのは単に「特定の刺激を感受する」という以上の意味にはならない。
この場合、「苦痛」とは単なる感覚刺激の名前であり心的作用などの意味での苦痛と混同するのは誤りである。
植物においても刺激の感受は検証されており、単に「刺激を感受する」という意味では痛覚刺激とこれを区別することはできない。従って、痛覚刺激をこれと区別するためにはその差違を説明しなければならない。
【痛覚刺激に対して動物は防御反応・敵対的反応を示す】←植物も特定の刺激に対して防御反応・敵対的反応を示す。
・外的刺激や損傷によって捕食者に対する有害物質や捕食者の天敵に対する誘引物質を放出したり、生体内に捕食者に対する有害成分を生成したり、他の個体に情報伝達したりする例が検証されている。
【植物には脳が無い】←同様の機能を植物が有しないことにはならない。
・脳は神経系の情報伝達の中枢として情報処理をするが、植物の個体においても情報の伝達が行われていることが検証されており、
日光の照度で葉を開閉したり、外的刺激により化学物質を生成するなど情報の入力と出力に相関が検証されているため情報処理の機能を有していると考えられる。
【植物には心がない】←心とは何か定まっていない。
・痛覚刺激による心的作用を「苦痛」と呼ぶ場合、人間以外の動物に人間のこの心的作用と同様の心的作用があることは検証されていない。
他方で、植物における感覚刺激が植物において人間同様の心的作用をもたらすことも検証されていないが、その意味では動物と植物を区別する理由は無い。 >>55
知らねーよ。
>>49以前の書き込みは俺じゃない。
2ちゃんは[匿名]掲示板なんだよww
勝手に同一視するな。 >>58
知らねーよ。
>>49以前の書き込みは俺じゃない。
2ちゃんは[匿名]掲示板なんだよww
勝手に同一視するな。
ん?>>50は>>49以前の話を踏まえて書かれたものじゃないのか?>>49以前を踏まえて書かれているなら>>55に書いたような経緯は当然前提されていて然るべきだと思うが。
また、>>49以前の話なんか知らないというなら、>>50の「同じ人間『すら』」というのが何と比較されているのか意味不明で、まるで突拍子もないレスだということになる。
突拍子もないレスをするのはあなたの勝手だが、仮にそうだとするなら2ちゃんはあなたの家のチラシの裏ではなく不特定多数が交流することを前提した掲示板だということは理解しておいてもいいんじゃないだろうか。
あと、>>49以前の議論を踏まえれば、 あなたが動物が人間と同じ意味で痛みを感じているとは述べていないとしてもそれが何処から出てきたのかは>>55の説明で理解できるだろうし、
それが理解できるとするためには別にあなたを>>49以前の誰かと同一視する必要がないことも理解できるだろう。
であるなら、あなたが>>55のレスを見て、私があなたを>>49以前の誰かと同一視していると判断するのは誤りだ、ということになる。分かりますか? >>59
踏まえてないよ。
単発レスをしていけないというルールは誰が決めたの?
>>49書いたのアンタでしょ。
>動物が感受する刺激のうちのある種のものを「痛覚」と名付けた
ここでの動物とは「人間以外の」という意味だと思うけど人間は動物じゃないとでも言いたいのかい?
刺激を感受するメカニズムは人間も動物も同じだよ。 ベジタリアンが植物の敵なのではない
植物がベジタリアンの敵なのだ >>60
> 単発レスをしていけないというルールは誰が決めたの?
いけない、と誰かが言いましたか?
むしろ「 突拍子もないレスをするのはあなたの勝手だ」と言ってますけどね。
> ここでの動物とは「人間以外の」という意味だと思うけど人間は動物じゃないとでも言いたいのかい?
んー?「一連の議論のなかでは動物という語が人間を含めるはずなのに、私が勝手に人間を除外した」と読解したと言いたい、ということかな?
ここで植物と比較されているの動物とは、スレや板やカテの性質からして、人間の食文化に伴って殺される動物という意味だと思うけれど。
> 刺激を感受するメカニズムは人間も動物も同じだよ。
だから、メカニズムにそう名付けたということなら命名の問題に過ぎないから、その名辞で呼ばれるものの本質の問題とすり替えるなら詭弁だ。>>57参照。 >>62
アンカーは付けていないが>>50では>>49での不備を補足したのに何を基準に「突拍子もない」などと言っているのか分かりませんが>>59氏の主観なんだからまあいいでしょう。
>人間の食文化に伴って殺される動物という意味
であるなら人間は含まれていないという解釈で間違いはなかったですね。
>>49で述べていることに人間が含まれていなかったので
人間も動物であり例え言葉を介しても例外なく当てはまりますよ。と>>50で言ってるんです。 >>63
> >>49で述べていることに人間が含まれていなかったので
> 人間も動物であり例え言葉を介しても例外なく当てはまりますよ。と>>50で言ってるんです。
人間も動物であるから>>49の内容が人間にも当てはまる、ということには>>51では「そうだね。」と同意していますよ?
こちらの言っているのは
>>49「我々人間にとって、動物一般が人間が感じるのと同じ意味での「苦痛」を感じているという保証は無い」、
>>51「ただし人間という動物については、我々自身が言語を使うこと自体によって言語コミュニケーションの成立の信頼性が担保されているという点で、我々人間にとって他の動物と区別される」
ゆえに>>51「 全ての動物が我々と同じように痛みを感じ、意味付け、考えているだろうということよりも、
他の動物はともかく同じ人間であるならば、同じように痛みを感じ、意味付け、考えているだろうということの方が確かさが大きいのは当然だろう。
ここにおいて、人間同士でも互いの痛みは分かるまい、ということと、動物が人間と同じ意味で痛みを感じているとはいえない、ということの間には明確な違いが示される。 」
と言っているんだが。
ところで、
> 人間も動物であり例え言葉を介しても例外なく当てはまりますよ。と>>50で言ってるんです。
「言葉を介しても例外なく」は>>50には示されていませんがどう読解すれば導出できますか? >>63
>アンカーは付けていないが>>50では>>49での不備を補足したのに何を基準に「突拍子もない」などと言っているのか分かりませんが
>>49の補足であるなら>>49に至る議論の流れは把握しているべきだという基準で、>>52で論点がどこから出てきたのかと問われたからそれを>>55で解説した。
しかし>>58で「(それ以前の議論の経緯は)知らねーよ」と返答されたので、これは>>49以前の経緯と無関係にレスをしたということだったのかな?と考えただけです。
経緯を無視した突然のレス、ということを「突拍子もない」と表現しました。 植物に心はない
植物を食べても罪にはならない
俺達ベジタリアンが正しい >>64
>「言葉を介しても例外なく」は>>50には示されていない
>>51で言葉を介すれば信頼性の担保という点で人間と他の動物は区別される、と書かれていますよ。 >>67
>>63には
> >>49で述べていることに人間が含まれていなかったので
> 人間も動物であり例え言葉を介しても例外なく当てはまりますよ。と>>50で言ってるんです。
と書いてあるので>>50からどう導出できるのかを聞いているのですがね。>>51に書かれているかどうかは聞いていません。 >>68
>>49>>51は中の人一緒でしょ?
それとも>>49と>>51では意見が異なりますか? >>69
書いた人は同じですよ。ただ、文脈上、言語については>>49の時点では述べられておらず>>51で初めて言及されたはずだとおもうのですが、
あなたの>>50は「言葉を介しても例外なく当てはまる」と言っているそうです。
「>>51で言及された言語についても>>50は例外でなく適用できる」なら分かるのですが、「>>50で既に言語について言及している」とのことですから、どのように>>50あるいはそれ以前の文脈を含めた中から導出できるのか、
是非、ご教示願いたいということです。
また、いずれにせよ、言語という担保の有無でコミュニケーションの信頼性が大きく異なるという点についてはどう考えますか? >>70
確かに>>50では「言葉を介しても例外なく」とは書いていません。
>>51で言語の話が出てきたので分かりやすいように付け加えて書いたんです。
>>50で「人間同士」とありますので矛盾はないと思いますが。
ムキになって指摘するようなことでもないでしょう。
>言語という担保の有無でコミュニケーションの信頼性が大きく異なる
高度なやり取りができるほど信頼性も高いとは思いますよ。
ただ感じる痛みが大きく異なるかどうかについては何とも言えないですね。
知的その他障害で意識はあっても意思の疎通が取れない(困難な)人の場合について、
意思の疎通が取れる人と比べて感じる痛みが大きく異なるとは思いません。
人間と類人猿でも多少の差があったとしても痛みの感じ方に大きな違いがあるとは思っていません。
その理由について、言語の担保(*)によるものではなく脳、神経、その他、
体の構造が人に酷似していることによると思っています。
(*)人類と類人猿との間で手話言語によるかなり高度なやり取りをした例があります。 >>71
> ムキになって指摘するようなことでもないでしょう。
ムキになって、というのがどのように導出されたのか知りませんが、時系列に整合しない点があったので確認したまでです。
誤りであると確認できればそれ以上突っ込むつもりはありませんよ。
> 高度なやり取りができるほど信頼性も高いとは思いますよ。
> ただ感じる痛みが大きく異なるかどうかについては何とも言えないですね。
痛みそのものについては異なるとも同じとも言えないのはあなたが>>50で指摘した通り。
しかし、その上で人間と他の動物のコミュニケーションの差違に注視して人間と動物・植物における「痛み」の違いを述べている。
人間は言語という抽象概念を用いてコミュニケーションをとる。
言語表現とは抽象概念上に自身のクオリアを言語というツールを用いて再構築し、それを他者に伝達するということであるから、
人間が能動的に言語コミュニケーションという行為をするということは、
そこには「言語というツールによって自身のクオリアをある程度の確かさで抽象化して表現することが可能であり、しかもその伝達が他者に対して一定の確度で成立し得る(他者の主観において一定の確度での再現性を持つ)という認識」が存在するということである。
であるならば、我々が言語を用いるということ自身が、その認識が共通認識として存在することの証左である。
そしてそのことは、そもそも人間が抽象概念を有していることの証左でもある。
そして「痛み」という抽象概念に収束させることができるようなクオリアを有していることの証左でもある。・・・@ >>71
また、言語について、言語規則がある程度の客観性をもって確認できるかたちで存在すること(単語の意味が一定の範囲に収束したり、文法や論理性が成立することなど)から、
それが抽象概念の伝達手段として一定の機能を有していることが確認できる。
このことも人間が、自身のクオリアを言語という抽象概念を用いて一定の確度で他者に伝達可能なものであると認識していることを補強する。
なぜなら、言語とはそのように用いられることで現在の形に作り上げられてきたはずだからだ。これは言語に時代性が反映され変化してきたと考えられることから明らかだ。
もちろん、既に>>51で「信頼性を担保するのが言語だけだというわけではない」という風に言及しているが、クオリアの伝達手段は言語だけに限らないだろう。
しかし、言語でなかったとしても、クオリアの伝達行為というのは単なる生理反応(例えば電気を流すと筋収縮が起こるとか、ベルが鳴ったら涎が出るといった生理機能的な条件反応)と異なり、
その伝達手段の伝達能力への信頼(例えは言語規則に担保されるような信頼)のもと、自身のクオリアを一旦抽象化して、他者の主観において一定の範囲内で再現性を持つことを期待して為されるようなプロセスを経るはずである。
いま仮に、動物や植物においてそのようなプロセスを経るコミュニケーションが成立していると言えるならば、動物や植物がある種の抽象概念を有しているということは可能だろう。
しかし、そうでなければ先に人間について「言語を用いるということは、人間は抽象概念を有している」としたような論法で、
動物や植物について「言語同様のプロセスでコミュニケーションするということは、動物や植物は抽象概念を有している」ということはできない、ということだ。
そして仮に動物や植物において言語的なプロセスを経るコミュニケーションが発見され、彼らがある種の抽象概念を有していると判明したとしても、
その言語的な規則を十分に読み解かない限り、彼らの抽象概念の中に我々が「痛み」と呼ぶ項目があるかどうかは分からないままだ。
であるならこの論法からは彼らが「痛み」という抽象概念に収束するようなクオリアを有しているかどうか判明しない。・・・A
@とAに差違があるのでこの意味では人間が「痛み」を感じるとしても、動物や植物がそれを感じるとは言えない、ということになる。 >>71
> 知的その他障害で意識はあっても意思の疎通が取れない(困難な)人の場合について、
> 意思の疎通が取れる人と比べて感じる痛みが大きく異なるとは思いません。
> 人間と類人猿でも多少の差があったとしても痛みの感じ方に大きな違いがあるとは思っていません。
> その理由について、言語の担保(*)によるものではなく脳、神経、その他、
> 体の構造が人に酷似していることによると思っています。
そのように想像することはできるが、我々が我々の言語において「痛み」という抽象概念に収束させるようなクオリアが彼らに生じていると言える、ということにはならない。
あくまで想像することに留まるのみ。
そして、これらの問題は実際に彼らが「痛み」と呼べるものを感じているかどうかよりも、どう解釈したほうが社会の倫理観にかなうかという側面から扱われているのでは?
多少論点がずれるが、仮に意思の疎通が困難な相手でも人間であれば人間らしく扱うということが倫理的で、実際上の「痛み」の有無によらず「痛いものとして扱うべきである」とされている、というのが正直なところではないだろうか?
こういった例は、仮に無痛症の人であれば殴っても構わないかとか、死体であれば蹴飛ばしても構わないかといったことで容易に示すことができる。
話を戻すと「彼らが痛みを感じているから、意思の疎通ができなくとも痛いとして扱うのではない」、「実際の痛みの有無に関係なく、そう扱うべきと判断する文化的価値観があるからそのように判断する」ということ。
要するに「そういう文化だ」ということ。
ついでにこれを食文化に還元すると、これは各々の文化において何を食べるか食べないかという価値観があるだけで、
「痛みの有無に還元されて、食べるべきかどうか判断されているわけではない」「実際の痛みの有無に関係なく、文化によって食べるものとそうでないものが判断されるだけ」、ということになる。
> (*)人類と類人猿との間で手話言語によるかなり高度なやり取りをした例があります。
どのようなやり取りがあったのか知りませんが、彼らと抽象概念を用いた十分なコミュニケーションが可能になれば
(彼らとの間に共通の言語様のものが成立し、それを用いて互いのクオリアを抽象化したり、抽象化された相手のクオリアを自分の主観に再現的に展開できる程度のコミュニケーションが可能になれば)、
いずれ彼らが我々と同じ範囲の意味に収束する「痛み」のクオリアを持っていることが確かめられるかもしれませんし、いずれは他の動物や植物についても確かめられるかもしれません。
逆に言えばそれまでこの議論は決着しないでしょう。
この意味でも動物と植物を「痛み」の点から区別するのは難しいでしょうね。「『痛み』の有無に還元して食べるものとそうでないものを区別する」というのはやはり無理があるのではないかと思います。 野菜には悪いけどベジタリアンはやめられない
いくら野菜に憎まれてもいいよ
地獄でそれなりの罰を受ける覚悟もしている 地獄w
オマエはどんな宗教信じているんだよ
オマエの感覚ではほぼすべての動物が地獄にしか行き場がないようだな >>75
地獄とはおれには分からないが君はえらいね
天国に行きたい地獄にいきたくないから善行をするというのは見返りを求めているわけだし
おれには覚悟できるのかわからない
自然の恵み、ああ美味しいと動物も野菜も殺しまくり笑顔で感謝している人達は
どうなるのだろう
何も知らないある意味善良な人なのだろうか とりあえず、野菜を食べてもどこからも文句は出ない
植物さんサイドは抗議しないし、植物愛護協会みたいな団体も無い >>79
そうだね。
問題は他人に肉を食うな畜産をやめろとか言い出す人たち。 >>80
問題は 自然の恵み、ああ美味しいと動物も野菜も殺しまくり笑顔で感謝している人達かな >>81
何の問題が?>>79-80の流れは文句だの抗議だのが生じるか生じないかの話だけど。 肉食野郎には
私達は命を繋げるために動物を食べ植物を食べなくてはならない矛盾した存在という悲しみが足りない >>87
粘着うざいw
肉食野郎を嘲笑って結果的に肉食が減ればいいじゃん >>88
明らかに逆効果だろ
アンチがどんどん増えてベジタリアンになる人がどんどん減っていく
自分のしていることの自覚ないのか?
それに粘着しているのはお前の方だ >>72
誤りではありませんよ。
付けたし、と書いたでしょう。
人間同士で言語のやり取りをするのが一般的でないなら間違いですけどね。
倫理の話になれば文化が出てくるのは毎度の事ですね。
>>74での例の文化は理解してますよ。
ただ文化と言えば全て正当化されるとも思ってないし廃止されたものを含めて「それってどーよ?」と思えるものは少なくない。
ま、私は痛みに関しては言語の担保による信頼性よりは生物学的、解剖学的根拠の方を支持しますね。 >>92
> 誤りではありませんよ。
> 付けたし、と書いたでしょう。
> 人間も動物であり例え言葉を介しても例外なく当てはまりますよ。と>>50で言ってるんです。
について
>確かに>>50では「言葉を介しても例外なく」とは書いていません。
が確認できればいいですよwww
「言っている」というのが「言外に言っている、後で述べられたことにも適用できる」の意味か「それ以前の文脈から導出できるのか」分からなかったので遡って読み返したが、後者の意味でなく前者の意味だということがわかれば、
私としてはこの問題は解決で、文言が不正確だったことをあなたが謝りと認めるか認めないかはどちらでもいいです。
> 倫理の話になれば文化が出てくるのは毎度の事ですね。
> >>74での例の文化は理解してますよ。
了解です。
ベジタリアンを論じるについては文化の例示よりもその後の
>要するに「そういう文化だ」ということ。
>ついでにこれを食文化に還元すると、これは各々の文化において何を食べるか食べないかという価値観があるだけで、
>「痛みの有無に還元されて、食べるべきかどうか判断されているわけではない」「実際の痛みの有無に関係なく、文化によって食べるものとそうでないものが判断されるだけ」、ということになる。
の方が重要ですが、こちらにも依存はないですか? >>92
> ただ文化と言えば全て正当化されるとも思ってないし廃止されたものを含めて「それってどーよ?」と思えるものは少なくない。
・「正当」というのが何においての正当か不明ですが、仮に普遍の真理のようなことを言っているなら同感です。
ただ、普遍の真理が判らない以上、ここでそれを論じる意味がありません。
・「正当」というのが個々の主観における正当性と一致する、という意味なら、これには同意です。
文化といえど万人が例外なく正当性を認めるわけではない。
文化的価値観・社会的価値観というのはあくまでそれぞれの集団に集約された価値観であって、その集団に属していても集約の過程で捨象されてしまうような個人的価値観は無数にあるでしょう。
また時代によって価値観は変わりますし、捨象された側がその原動力になったり、新たな文化的・社会的価値観となる場合もあり得ます。
社会が「正当性」を掲げても、個人において必ずしもそれは「正当化」できない。
しかし、そのことは、それらの捨象された価値観と集約された文化的・社会的価値観とが齟齬を来し軋轢を生じるならば、捨象された側が「反社会的価値観」と位置付けられるのが極めて妥当だ、ということとは関係ありません。
・「正当」というのが、ある文化的・社会的価値観における正当性のことを言っているなら、これはまさに文化的・社会的価値観に合致することこそが正当であり、漸進的に変化するこれらの価値観に従ってその正当性も漸進的に変化します。
それから逸脱しないような価値観が正当性を持ち、溢れた価値観は正当性を失います。この場合、社会は己の「正当化」の必要がない。
この意味では「それってどーよ」という溢れた側の価値観と文化的・社会的価値観が軋轢を生じるならばやはり溢れた側が「反社会的価値観」と位置付けられるのは妥当でしょう。
「正当」が何であれ、「正当化」ができようができまいが、社会から捨象されたり溢れたりした価値観が社会と軋轢を生じるならば「反社会的」とされるのは妥当です。 >>92
> ま、私は痛みに関しては言語の担保による信頼性よりは生物学的、解剖学的根拠の方を支持しますね。
「痛み」というのが刺激情報の発生の仕方やその物理的な振舞いのことであれば、機械的構造が近い方がそれらの共通点が多いだろうという意味では、生物学的・解剖学的な遠近は信頼性があると考えられます。
そして、構造が近ければ近いほど刺激情報によって引き起こされる反応が近いなら、それにより生じる心的作用も近いと想像することもできます。
しかし、あなたも>>50で述べているように、他人の痛みについては不可知であり、実際にそれが主体によって異なっているだろうということは
(身体構造が近くとも同様の刺激に対する反応の差違や印象の差違が存在することなどから)蓋然性が高そうに思えます。
なぜなら情報は単に刺激の感受・伝達・反応といった単純な信号の往来と反射だけでなく、
少なくとも人間においては固体ごとに異なる「意味付け」という処理がなされるからで、
その「意味付け」のされ方は固体ごとに異なる「記憶」や「経験」といった、後天的に獲得された性質に由来するところが(先天的な遺伝資質よりも)大きいと考えられるからです。
そして「痛み」というのが単に刺激情報の強弱や伝達経路といった物理的振舞いを指すのでなく、むしろ情報処理によって生じるそれぞれの固体に固有の(他者と直接的に共有できない)心的意味のことであるならば、
これは抽象概念を用いたコミュニケーションによる伝達の有無が、その抽象概念を交換することによる疑似的な共有の成立を大きく担保することは十分に信頼できると思いますが。 >>94
理解してますよ。
カニバリズムだって文化だし。
ベジタリアニズムだって非肉食の文化なのです。 結局、食っていいか悪いかを苦痛の有無に還元することには無理筋なんじゃないかね。動物において我々が「苦痛」という共通語に収束させるような抽象概念があると検証できないうちは、いいとこ擬人化というメルヘンチックな説明の域を出ることができないんだから。 >>96
行動や物理変化が同一なら法則や心理を措定するのが、統一理論を信頼する科学や心理学の態度だけど
「抽象概念を交換」する成立も措定アプローチの一つだろうし、「勝手に決めつけるなよ」と言っても、
反証を要求されるだろうが、現代においてその態度は抽象概念としての成立を左右しているのも事実
いくら言語等による成立が先だといっても、質的な違いなら心的意味と言語等の特別な紐づけの提出が要るだろう
それは記号論なんかで言語の特異性(裏の意味を持つ等)、詩の伝達性、無刺激による記憶崩壊などあるし
もはや科学的世界観への挑戦になるんだろうが、ただ苦痛があるから駄目とかいうけど、そもそも論として
畜産業ではスタンニングで気絶させるし、植物も苦痛が無い方法で刈り取るなら、人間にとり何が不満なんだろう >>100
> 行動や物理変化が同一なら法則や心理を措定するのが、統一理論を信頼する科学や心理学の態度だけど
措定といっても、例えば人間が多くの場合に共通して特定の刺激を苦痛と感じる(その苦痛の中身が同一でなくとも「苦痛」という概念に収束するような認識を得る)ことには膨大な検証があって、
同じ刺激から同時に起こる機械的な変化との相関関係という措定はある程度の確度をもって真であると信じられているわけだが、
それですら、その苦痛とされる中身が普遍化できない、少なくとも普遍化できるといえないことは認めざるを得ないわけで、
これは詳細に見れば、刺激による機械的な変化と相関して何らかの心的変化が生ずることが真だとしても、その心的変化が何であるかは不確かだということだが、
その心的変化の内容については個々の主体が先の「苦痛」という語に収束する個別の特殊的な概念を、まさに「苦痛」という語に収束させることそのものに担保されて初めて、
それが何であるにせよそこに少なくとも「苦痛」という語に収束するであろう概念があるのだということが確かめられるのだから、
動物が「苦痛」という語に相当する記号を提示しそこに何らかの概念を収束させていることが明らかでなければ、彼らにそのような抽象概念があることは少なくとも人間についてするのと同じようには確かめられない。
その記号というのは、まず言うまでもなく表し手と受け手に共有されていなければならないし、次にその存在を客観的事実として述べるためには再現性のあるやり方で提示しなければならない。
そして、現時点でこのような意味でそのような記号が動物に存在していることは検証されていないのだから、このことは「苦痛」についての人間に対する措定と動物に対する措定の前提の明確な差違であり、
人間においての「苦痛」の有無と、動物においてのそれの有無を、刺激に起因する機械的反応の類似から同様に措定できるとすることに飛躍があるということを意味するのではないだろうか。
> もはや科学的世界観への挑戦になるんだろうが、
というよりは人間が自然に挑むときの科学からの「それは(少なくとも、まだ)科学の分野ではないですよ」という通告であり、この議論の論点から言えば「動物や植物に苦痛があるか無いかを機械的反応から判断するというのは、今のところ無理がある」ということだと思うのだが。
無論、機械的変化を調べることには学術的に相応の意味があるだろうし、将来的に動物の記号表現の存在とその解読が明らかになったときには人間と動物の扱いの差違が縮まることは想像できる。
しかし、こと科学的という意味でいえば、現在そのように判断するのは拙速な飛躍だということにならないだろうか?
> 畜産業ではスタンニングで気絶させるし、植物も苦痛が無い方法で刈り取るなら、人間にとり何が不満なんだろう
苦痛が無ければ無いで、人を殺していいのかというような倫理観を、無根拠にあるいは薄弱な根拠から恣意的に喚き立てることは想像に難くないよ。 一般的によく見られる考えで非難に値しないと思うし、議論のための議論はしたくないのだけど(私も疑義でとどめたい)
>現時点でこのような意味でそのような記号が動物に存在していることは検証されていないのだから、このことは「苦痛」についての人間に対する措定と動物に対する措定の前提の明確な差違であり、
人間においての「苦痛」の有無と、動物においてのそれの有無を、刺激に起因する機械的反応の類似から同様に措定できるとすることに飛躍があるということを意味するのではないだろうか。
”明確”というほど我々は抽象概念を共有でき、それを”確かめられ”ているだろうかと思う。この共有できているということがそもそも”飛躍”以外の何物でもないという立場です。少なくとも
こういったスタンスは近代以降に辿り着いたほとんどの哲学等に見られる独我論に由来しますが、この点科学というのは統一理論を信じることで回避し、”客観的”=再現性を危うく保持している
不都合があれば、いつでも別の要因があることを主張するわけです。これらの点、ここで議論をするより、良い疑義をお持ちのようですから、最適な書籍がたくさんあると思うのでそちらを勧めたい
別の引用から指摘すると「>むしろ情報処理によって生じるそれぞれの固体に固有の(他者と直接的に共有できない)心的意味のこと」との視点で、「それぞれ」と「直接的に共有できない」の不和です
>というよりは人間が自然に挑むときの科学からの「それは(少なくとも、まだ)科学の分野ではないですよ」という通告であり、
この議論の論点から言えば「動物や植物に苦痛があるか無いかを機械的反応から判断するというのは、今のところ無理がある」ということだと思うのだが。
むしろ「機械的反応から判断する」ことが往々にして科学ではありませんか?
また、苦痛とは何かの答えが、抽象概念の交換により定義されたものというなら、その埒外にあれば苦痛は無いことに端的に考えられる
もし可能性を言うなら、刺激云々は余計な話で、物にだって苦痛はあるかもしれないことになる
刺激と概念の両立は一方を成立因と考えるとき、変だなと考えます
>苦痛が無ければ無いで、人を殺していいのかというような倫理観を、無根拠にあるいは薄弱な根拠から恣意的に喚き立てることは想像に難くないよ。
それは人にとって不都合があるという反論が成り立つので、深刻に考える必要はないと思う
個人的な希望しては、今後のスレの流れが、抽象概念の獲得・運用において心性や人間の自由が摘出できる場合があるか、
あれば確かに機械的な相似は人間の世界から独立した心性や自由を証明しない
そういう観点から、植物の苦痛を切り分ける方向に進んでくれたらと思う(相当程度に困難だと思うけど) ベジタリアンに老け顔が多いのは、自分達だけを殺したベジタリアンに対する植物の怨念? >>101
>苦痛が無ければ無いで、人を殺していいのかというような倫理観を、無根拠にあるいは薄弱な根拠から恣意的に喚き立てることは想像に難くないよ。
この人って最もらしく論理的風に書いてるけど頭の中は空で批判する方法しか探してないよ
人を殺してはいけない理由が何で苦痛が有るか無いかの二者択一なんだよ?
他に理由は思いつかないんですか?ばかですね
>>102
ええそうですとも
101が一人で屁理屈こねているだけで
世の中は科学的データで抽象的倫理を裏打ちしてまわっています
問題はまだまだあるでしょうけど民事裁判なんかそうですよね
動物倫理にも科学で倫理を裏打ちしていくようになるといいですね >>104
中国ではイヌをペットにするようになってから食用に供さなくなったそうですね。イヌにとっては難を逃れたのだろうか
デンマークには最古のイヌ食の遺跡があり、日本でもイヌ食文化が一時期あって、最も身近な家畜だったが、徐々に廃れた
苦痛の有無は後付けになってしまうような気もするよね。もちろん後付けを失わせる点で議論の意味は十分あると思うけど
動物にまで広がる倫理の背景には”裏打ちする科学”の進歩が大きく寄与していると思う。但し実体を想定しない科学観もある
中世には動物裁判というものがあり、人間に損害を与えた動物を裁くもので、逆は無かったが、損害を計量する点で興味深い
倫理観や宗教観の横暴が社会を不安にさせることもあるが、計量化する法律は社会のスタビライザー(安定化装置)
もしペットを家族とする人が多くなれば、器物損壊程度の計量では不公平感が増し、動物裁判が復活するかもしれない
但し、これも科学観で分かれるように、法律観や経済観によってバランスの取り方が異なってくるでしょう(特に過失責任) >>102
> ”明確”というほど我々は抽象概念を共有でき、それを”確かめられ”ているだろうかと思う。この共有できているということがそもそも”飛躍”以外の何物でもないという立場です。少なくとも
共有しているのは「苦痛」という記号であって、明確な概念ではないと思います。
ただし各人が主観のうちに当該の記号に収束させ得るような概念を持っていることは、当該の記号を使用するということそのものから確かめられるのでは?
そして「苦痛」という記号を用いて会話が成立するという事実は、その記号を間-主観的に一定の範囲の意味において共有できていることの証左といえるのでは?
例えば特別な決め事などの条件が前提されていない限り靴やキャベツのことを指して「苦痛」という記号を用いないのだから、それは「苦痛」という記号がその意味する領域に限界があることを示しているはず。
> この点科学というのは統一理論を信じることで回避し、”客観的”=再現性を危うく保持している
つまり、客観性・再現性があって初めて科学的な主張といえるわけで、例えば上記のような「人間において『苦痛』という語が一定の範囲の意味で共有されている」ということは膨大な検証がその再現性を担保しているわけです。
そして動物に同様の再現性が認められていない現状で、「動物においても同様である」とすることには飛躍があり、科学的ではないと思います。
> これらの点、ここで議論をするより、良い疑義をお持ちのようですから、最適な書籍がたくさんあると思うのでそちらを勧めたい
書籍はもちろんですが、ここであなたのような方と議論ができる可能性が確かめられたので、その意味では無駄でなかったと思います。ありがとうございます。
> 別の引用から指摘すると「>むしろ情報処理によって生じるそれぞれの固体に固有の(他者と直接的に共有できない)心的意味のこと」との視点で、「それぞれ」と「直接的に共有できない」の不和です
それを記号を用いることで、直接的ではないにせよ一定の誤差の範囲で間接的に共有しているのではないでしょうか。
> むしろ「機械的反応から判断する」ことが往々にして科学ではありませんか?
それは勿論そうですが、その場合の機械的反応というのは単に刺激の伝達のメカニズムや化学物質の生成というだけではなく、もっと広範なあらゆる因果律を含むでしょう。
それは例えば前述の会話の成立から語義が一定の範囲に定まっていることが検証されたりすることも含むはずではないでしょうか。
いずれにせよ現段階でこの方面について刺激の機械的反応から「動物が人間と同様の心的意味での苦痛を感じる」という命題を真とは判断できない、ということです。
> もし可能性を言うなら、刺激云々は余計な話で、物にだって苦痛はあるかもしれないことになる
そうですね。可能性は全てあると考えるのが科学です。しかし同時に、検証されなければ事実としてあると言えない、事実としては無いと扱う、というのが科学でもあります。 >>104
> この人って最もらしく論理的風に書いてるけど頭の中は空で批判する方法しか探してないよ
その言い方はレッテル貼りのようにも見えるが、好意的に解釈しても普遍命題の真偽を調べるということは反証が成り立つかどうかを確かめることだから批判的に考察するのは当然では?
> 人を殺してはいけない理由が何で苦痛が有るか無いかの二者択一なんだよ?
> 他に理由は思いつかないんですか?ばかですね
酷い誤読に基づいた中傷で呆れますなあ・・・
第一に、人を殺していけないという理由が苦痛の有無だと言っていない。
「動物が人と同様の意味での苦痛を感じている」とする根拠が無い、もしくは薄弱であるのと同様に、無根拠にあるいは薄弱な根拠で「人を殺してならない」という倫理観を動物に適用しようとするだろう、と言っている。
第二に、動物を殺していけない理由を苦痛の有無に還元したのは>>43であって私ではない。 野菜には恨まれるかもね
ベジタリアンやめるひとがどんどん増えてる 普通ノンベジもベジの食生活を内包してるもんだがな。
ブーメラン刺さっとるのわからんかな。 >>110
植物も食べる人と植物しか食べない人では後者の方が植物の犠牲を多く生んでるのは理解できるよな?
さらにベジタリアンは植物だけを狙って殺すわけだから、植物からしたら最大の天敵なのもわかるよな? 豚や牛のエサは植物大量なんだがな。もちろん知ってるとは思うが。 >>27
うんまあベジ全体を叩く人はおかしいし一部は共感だけど
結局この人が言ってるのって「私の線引きが正解なの!」ってことだよね >>115
つまり肉食のお陰で100倍もの植物が育成されているのか 家畜は野菜を食わない
野菜には窒素肥料が必要w
バカベジは野菜の敵というのは正解で畜産の味方 >>118
>家畜は野菜を食わない?
>野菜には窒素肥料が必要?
バカも程々にしとけ。
野菜も窒素肥料も必要ないのは肉バカだけで十分だよw 野菜作った事もないバカベジ
世界救世教の自然農法を真に受けるバカベジ >>119
常識的に家畜の飼料を野菜とは言わないだろ >>122
それじゃ>>119が人間じゃないみたいじゃないか
酷いこと言うなあ 畜産したこともない肉バカw
肉食べる事は間接的に植物の栄養分を利用しているという事がバカ過ぎて気が付かないようだ。 >>124
オマエも畜産をしたことないだろ
バカベジって本当にバカですね はぁ?非肉食者が畜産する意味どこにある?
バカ過ぎて話にならん。
悔しかっから鶏の1羽ぐらい屠ってみろ。 バカベジw
ジビエで屠殺しているよ
バカベジは野菜すら作ってねーだろw
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