一般的によく見られる考えで非難に値しないと思うし、議論のための議論はしたくないのだけど(私も疑義でとどめたい)

>現時点でこのような意味でそのような記号が動物に存在していることは検証されていないのだから、このことは「苦痛」についての人間に対する措定と動物に対する措定の前提の明確な差違であり、
人間においての「苦痛」の有無と、動物においてのそれの有無を、刺激に起因する機械的反応の類似から同様に措定できるとすることに飛躍があるということを意味するのではないだろうか。

”明確”というほど我々は抽象概念を共有でき、それを”確かめられ”ているだろうかと思う。この共有できているということがそもそも”飛躍”以外の何物でもないという立場です。少なくとも
こういったスタンスは近代以降に辿り着いたほとんどの哲学等に見られる独我論に由来しますが、この点科学というのは統一理論を信じることで回避し、”客観的”=再現性を危うく保持している

不都合があれば、いつでも別の要因があることを主張するわけです。これらの点、ここで議論をするより、良い疑義をお持ちのようですから、最適な書籍がたくさんあると思うのでそちらを勧めたい
別の引用から指摘すると「>むしろ情報処理によって生じるそれぞれの固体に固有の(他者と直接的に共有できない)心的意味のこと」との視点で、「それぞれ」と「直接的に共有できない」の不和です

>というよりは人間が自然に挑むときの科学からの「それは(少なくとも、まだ)科学の分野ではないですよ」という通告であり、
この議論の論点から言えば「動物や植物に苦痛があるか無いかを機械的反応から判断するというのは、今のところ無理がある」ということだと思うのだが。

むしろ「機械的反応から判断する」ことが往々にして科学ではありませんか?

また、苦痛とは何かの答えが、抽象概念の交換により定義されたものというなら、その埒外にあれば苦痛は無いことに端的に考えられる
もし可能性を言うなら、刺激云々は余計な話で、物にだって苦痛はあるかもしれないことになる
刺激と概念の両立は一方を成立因と考えるとき、変だなと考えます

>苦痛が無ければ無いで、人を殺していいのかというような倫理観を、無根拠にあるいは薄弱な根拠から恣意的に喚き立てることは想像に難くないよ。

それは人にとって不都合があるという反論が成り立つので、深刻に考える必要はないと思う

個人的な希望しては、今後のスレの流れが、抽象概念の獲得・運用において心性や人間の自由が摘出できる場合があるか、
あれば確かに機械的な相似は人間の世界から独立した心性や自由を証明しない
そういう観点から、植物の苦痛を切り分ける方向に進んでくれたらと思う(相当程度に困難だと思うけど)