>>762
> だからその事例として、親子、ペットの例を上げただけなんだが?www

>>743 >>749 >>755で説明したように、
「普通であること」「当然」を表すのだから、「そうとは限らない(例外がある)」からといって当たり前でないことにはならないよ。
例外があっても、多くの場合が該当するならば「当たり前」といえる。この時点であなたの論法には誤りがあるね。
そして、ある人と無数の他人との関係の中で「親子」という関係は極めて少数の場合の話だし、ある人と無数の動物たちとの関係の中では「飼い主とペット」の関係も極めて稀な場合だ。
そういった極めて例外的な場合の存在から、「当たり前とはいえない」と言うことはできないよ。
蓋然性の問題だから例外事例の有無は問題にならない。
事例として親子やペットを挙げることには特に意味がない。

> それと「オレがいる」からといって「ベジタリアンが嫌われるは限らない」しなwww
> 「限らない事例を出す」ということに、一般的も特殊的も関係ないんだけど?www

「限るか限らないか(必然性)」という論点であれば、一般的も特殊的も関係ないよ。「当たり前かどうか(蓋然性)」の論点なら関係あるよ。

一連の流れで、
・「お前みたいなやつがいるからベジタリアンはどんどん嫌われるんだよ」について、「お前みたいなやつ」が具体的にを指すか知らないが、「あなたみたいに、人の迷惑となるようなことをするやつ」の意味であれば、
「人の迷惑となるようなことをすれば『当たり前(蓋然性が高い)』に嫌われる」という蓋然性についての条件に鑑みて、
【あなたみたいなやつは、『当たり前(蓋然性が高い)』に嫌われる】となるわけだ。
この【】で示した主張は「人の迷惑となるようなことをすれば『当たり前(蓋然性が高い)』に嫌われる」が前提である限り、必ず(必然的に)「当たり前(蓋然性が高い)」となる。
・いまベジタリアンに「あなたみたいなやつ」すなわち「『当たり前(蓋然性が高い)』に嫌われるやつ」がいるならば、必ず(必然的に)「ベジタリアンは、ベジタリアンが嫌われることの『当たり前さ(蓋然性の高さ)』を内包している」ということになる。
・すると、時間軸においてベジタリアンが「嫌われることの『当たり前さ(蓋然性の高さ)』」を内包している間は、嫌われる機会は累積していき、
そうであるならその期間には必ず(必然的に)「実際に嫌われる経験が累積していくことの『当たり前さ(蓋然性の高さ)』がある」といえる。これが「どんどん」ということの意味になるだろう。

とまあこんな具合に必然性の部分と蓋然性の部分を明確に注釈しながら書いたわけだが、
「人の迷惑となるようなことをすれば『当たり前(蓋然性が高い)』に嫌われる」という部分は蓋然性を問題にしているのだから、この部分について親子やペットといった特殊な場合を例示したからといって特に反論とはならないということです。

> 何都合よく「限らない事例は一般的な事例じゃなきゃダメ」みたいなルール作ったの?www

都合の良し悪しは関係ないよ。必然性と蓋然性という異なる概念の持つ性質上の問題であって、誰かの都合でそうなってるわけじゃないんだな、これが。

> もしかしてそんなルールがはじめからあったの?www

もちろん、必然性と蓋然性という概念そのものにあらかじめ備わっている性質だよ。知らなかったのなら必然性と蓋然性の違いを一度きちんと理解しておくことをお奨めする。
もしもあなたが所謂まともな学生なり社会人なりで、まともな議論をする機会を持つ人であるならば、きちんとした論理的な議論をする上でこの区別が必要となることがあり得るからね。